血連止許


 風が吹く。
 風が落ち葉を空に舞わせながら、吹き続ける……。
 陽はその姿を半ばまで地に沈ませ、血のような赤く紅い色で空を染め上げていた。
 街道に点々と生える木々の葉は紅葉を終え、春まで一時的な死を甘受し始めている。
 男がその屋敷に辿り着いたのはそんな季節の、そんな時刻であった。
 夕陽は沈み、夕闇が空を侵食する。男は独り屋敷の前で感慨深そうに表札を見つめていた。
 高間流剣術道場、小さい字で控えめに書かれた表札を無言で引き剥がして地に捨てると、男はその敷地へと足を踏み入れた。
「御免」
 家の門をくぐった所で立ち止まり、澄んだ声で低く叫ぶ。だが何の反応も無い。
 再度叫ぶ。
「御免!」
 そう叫んでしばし待つと、屋敷の中からひたひたと足音が聞こえた。
「なんでございましょう?」
 家人がそう言いながら引戸を開けた。姿を見せたのはおとなしそうな雰囲気の女であった。質素な着物に身を包み、結った髪は家事をしていたのであろう、少し乱れていた。
 女は訪ねてきた男を見て息を飲んだ。年の頃は恐らく二十を越えた程であろう。顎には左から右へと斬られたような大きな刀傷を負い、着ている夜色の着物は、旅をして来たのか薄汚れて所々が切れたりほつれたりしている。そして、腰にはひとふりの打刀がさしてあった。
「なんでございましょうか?」
 彼女は再び問うた。緊張したのか今度は震える声であった。
 男はそんな様子を気にするでなく、ただ淡々と答えた。
「高間心唐
(たかましんとう)殿のお屋敷かと存ずるが相違ないか」
 夫の名が出たことで女は少し安心した様子を見せた。少なくとも野党や強盗の類ではないと判断したのだろう。彼女はいくぶんわざとらしい笑顔で頷いた。
「すまぬが高間殿とお会いしたい。何処に居られるか?」
 男は服装に合わぬ丁寧な口調で言うと、返答を待つように家人の女性を見た。
「今は道場の方に行ってらっしゃいます。お呼び致しましょうか?」
「構わぬ、自分で赴くが礼儀。場所を教えていただければ良い」
 男が短くそう言うと、彼女は緊張した様子のまま、広い庭の先を指差した。男が礼を言ってそちらへと歩いていくと、女はその後姿に手を合わせてなぜか嗚咽を洩らした。

 高間心唐は祖父が開祖となる高間一刀流を教える宗家である。
 隣国である観双国
(みそうのくに)の大名に気に入られ、指南役を勧められた事もあった。それを断ったという事で、この界隈で彼を知らぬ者は少なかった。
 心唐の一人息子である誠唐
(せいとう)が現在十四。元服を一年後に控え、それまでに高間流を教え込もうと、心唐は躍起になっていた。
 彼の前に、夜のように深い藍色の瞳を持つ男が現れたのは、稽古を終えた息子が水を浴びに行ったのと入れ違いであった。
「御免」
 男はそう言うと心唐の返事も待たず、道場へと入ってきた。
「何者だ? 神聖な道場に土足で踏み入るとはどこの無礼漢だ」
 少し険しい声で心唐が言う。男は目に憤怒の炎を抱きながら彼を見た。
「相馬、藍漸。そう言えば解ると思うが」
「そうまあいぜん? 相馬、蒼間、草麻……知らんな……」
 心唐は悪びれなく言った。
「相馬半兵衛の息子、藍漸だ」
 藍漸は怒りを抑えながらそう言ったが、心唐はそれでも心当たりが無い。
「半兵衛、誰だ? 知らんぞ?」
 心唐の言葉に藍漸と名乗った男は激昂した。
「白々しい事を言うな、拙者は十年前しっかと貴様に言ったぞ、我が名を覚えておけと!」
 それでも心唐は心当たりが無いといった風に首をかしげた。
「十年前、伏水峠で我が父と母は貴様に殺された、忘れたとは言わさん!」
 その言葉を聞いてやっと心唐は思い出したという風に手を打った。
「そうか、伏水峠の盗賊、矢の相馬党か」
「義賊相馬党だ」
 藍漸は義賊という部分を強調して言った。
 彼の怒りは十年前、伏水峠にさかのぼる……

           *

「父上、今日も仕事ですか?」
 藍漸は父にそう問うた。父は矢筒を背負ったその大きな背中に、自信をみなぎらせて答えた。
「うむ、岸屋の売上金を運んでいる一隊が伏水峠を越えるらしい。それを襲いに行く」
「また、人が死ぬのですか?」
「抵抗をすれば殺すことになるが……なぁに、儂の矢相衆
(やそうしゅう)なら負けんよ、安心せい」
 藍漸の父、創塔矢吉静蔵
(そうとうやきちせいぞう)はこの一帯でも小さいながら有力な武家の当主で、相馬半兵衛とは義賊をするための偽名である。
 彼の弓の腕はこの観双国を治める大名の所まで聞こえるほどであった。だが、彼は信頼できる数名の部下と近隣の男たちを集めて義賊相馬党を名乗り、悪名高い高利貸しや商人などを襲い、貧しい人々に財を分け与えていた。
 彼を捕らえようと、大名直属の盗賊番が出張って来たこともあったが、彼の信頼する矢相衆と呼ばれる弓の達人たちがそれを撃退した。
「今回の仕事を終えたら儂はお館様の所まで行かねばならぬ。必ず生きて帰る」
「大名様の所へ? 父上、ひょっとして――」
「うむ。この一帯の墜ちきった治安、お館様も遂に領主をおいて平定させる気になったらしい」
 この地方は長年の領主不在が祟ってか、高利貸しや悪徳商人が台頭し、彼らをいさめることのできる者がいない。矢吉が偽名を使って義賊をしているのも、彼らから民草を守るためであった。
「では父上が領主に?」
「いや、儂は武人にすぎん。だが、治安を守る役目は儂になるそうじゃ」
 そういう矢吉の顔はとても誇らしげであった。藍漸はその顔を見て自らも誇らしげに顔をほころばせてみせた。
「おめでとう御座います」
「うむ。さて、そろそろ行かねば皆が待ちくたびれておるわ」
 矢吉は言いながら颯爽と馬に乗った。
「藍漸、今夜は祝宴じゃ! それなりの格好をしておけよ!」
 父の背中を見つめたあと、藍漸は家の中に戻って祝宴用の服を探し始めた。
 矢相衆の一人が必死の形相で駆け込んで来たのは、それからしばらく経ってからのことであった。
 その時藍漸は儀礼用の装飾刀を手にとって、一人演舞の真似事をしていた。母を呼ぶ声とあわただしい空気を察して玄関へ行くと、矢相衆の一人が息を切らせてひざまずいていた。
「左五郎殿、どうなされたのです」
 そう言いながらまだ幼い藍漸が駆け寄って来ると、矢相衆の左五郎は申し訳なさそうに口を開いた。
「御曹司、お父上が襲われておいでです。奥方様は準備でき次第すぐお父上の所へ参られます」
「父上が? どういうことじゃ?」
「はっ、それが……」
 言葉を濁す左五郎に藍漸は続きを求めた。
「大名直属の盗賊番が……」
「盗賊番ならば以前も来たではないか。その時はお前達矢相衆が退けた、なれば今回も――」
「いえ、それがそうもいかないのです……」
 またも左五郎は言葉を濁した。
「ええい、埒があかん。どのような内容でもはっきり申せ」
「はっ、今回は盗賊番だけではなく、腕自慢の剣客を数人雇っておりまして、彼奴等が中々どうにも手強く――」
「なんじゃと? 父上は無事なのか!」
「藍漸、少し落ちつきなさい」
 藍漸をたしなめながら現れたのは、軽装ではあるが武装した母であった。彼女が来たのを受けて左五郎が足早にその場を去る。彼女を案内するために、疲弊した自分の馬を新しい馬に替えに行ったのだ。
「母上、その格好は?」
 女だてらに薙刀を持ち、頭に鉢巻を絞め、身なりは農民のようなボロをまとっている。
「あなたの父上を助けに行きます。あなたはここに残ってなさい」
 言いながら藍漸の脇を通りぬけ、彼女のために用意されていた馬に跨る。
「母上、拙者も連れていってください! 母上だけでは危のう御座います!」
 藍漸が食い下がるも、彼女は少し微笑んだだけだった。
「母上!」
「藍漸、わたくしとて武家の妻として嫁いできたからには夫を守り、戦います。あなたは大切な跡取、決して猪突してはなりません」
 彼女はそう言うが早いか、「おうら!」と叫んで左五郎を待たずに馬を駆って行ってしまった。
「母上!」
 手を伸ばしてもそこに母はいない。その背中も小さくなってしまった。藍漸は困った顔をして、父のもとへ行くために何かないかと見まわした。
「左五郎殿!」
 彼の視線の先には、替えの馬を連れて来た左五郎がいた。
「御曹司、まさか奥方様は行ってしまわれたのですか?」
「そのとおりじゃ、左五郎殿、頼む。私も連れていってくれ!」
 そう言われて左五郎はしばし悩んだ後、首を横に振った。
「なりません。あなたは大切な――」
「それはさっき聞いた。左五郎殿、正直に答えてくれ。父上は今でも無事だと思うか?」
「…………危ういかと……」
 苦虫を噛み潰したような顔で左五郎が言うと、してやったりという風に藍漸が言う。
「なれば、拙者がお前の主となるはずじゃ。左五郎、これは命令じゃ、拙者を父の所へ!」
 その言葉は左五郎の予想になかったらしく、左五郎は呆然とした。
「違うか左五郎。父上が亡くなられた場合、拙者が創塔家の当主じゃ。お主は拙者の命に従わなければならん!」
 既に藍漸は少年の表情を捨て去っていた。その幼き眼は決意と意思がみなぎっており、左五郎に頭を下げさせた。
「相違御座いませぬ。では御用意を」
「構わん、これがある」
 藍漸は儀礼用の刀を見せ、左五郎の馬に飛び乗った。
「急げ左五郎、父上のもとへ!」
「はっ、矢相衆四人男が一人、さ――」
「良いから急がんか!」
「ははぁっ!」

 二人が伏水峠に着いた時、その場に立っていたのは彼等を除いてただの二人だけであった。
 一人は見なれぬ男、もう一人は藍漸の父、矢吉であった。
「父上!」
 矢吉はその名のとおり弓矢を得意とする。それに対し、もう一人の男は刀を構えている。
「父上、母上は?」
 先に来たはずの母の姿がなく、藍漸は父に問うた。だが、その答えが返る前に彼は母の亡骸を見付けてしまった。
「お前の母は……儂をかばって死んだ……」
 怒りを噛み殺した声で矢吉が答える。蒼白になる藍漸を見やり、刀の男は不敵に唇を歪めた。
「ほう、ただの野党が父上と呼ばれているのか。それもその童が持っている刀の家紋、創塔家の家紋ではないか。その父ということは……お主、相馬半兵衛というのは偽名だな?」
 その言葉に反応したのは矢吉ではなく左五郎だった。激昂しながら背に背負っていた弓を外し、矢筒から矢を抜こうとする。
「左五郎、よせ」
 短く矢吉が制するも、男はその言葉でさらに唇を歪ませた。
「左五郎、橘左五郎由綱。創塔家に仕える家臣の筆頭だったな……」
 これには矢吉も左五郎も驚いた顔で男を見た。
「貴様、何者だ……!」
「ただの流れ者だ」
 男は笑みを崩さぬまま刀を握りなおした。
「名は?」
 矢吉が聞く。
「そちらから名乗るが礼儀。違うか?」
 男が答える。矢吉は少し迷いを見せた後、思い切ったように名乗った。
「……創塔家八代目当主、創塔矢吉静蔵」
「高間心唐影信。よくぞ名乗った矢吉殿」
「しんとう? この界隈では珍しい名だな」
「流れ者と言ったろう?」
 そう言いながら心唐は刀を握る右手を右肩に移動させ、左手を鳩尾に移動させた。
「高間殿、すまぬがお主を生きて帰す訳にはいかんでな、ここで朽ちて貰いたい」
 矢吉は慣れぬ手つきで、数年振りに持つ刀を正眼に構えながら言葉を続けた。
「儂には守らなければならぬものがある。息子を、家臣達を、守らなければならぬ。あえて見逃せとは言わん、死んでくれ」
「断る……」
 二人の剣気がぶつかり合う。矢吉が正眼のまま間合いをゆるりと詰めてゆく。対する心唐は鳩尾にあった左手を右脇腹に移し、左肩を矢吉に向けた。
 矢吉は刀が不得意な自分を恨みながら、苦い表情で間合いを詰めた。その左後方には左五郎と藍漸が息を飲んで見守っている。絶対に負けるわけにはいかない、そんな決意を込めたまなざしで矢吉は心唐を見据え、すり足でさらに歩を進めた。
 そして、二人はお互いの間合いに入った。
「いやぁぁぁぁっ!」
 仕掛けたのは矢吉であった。正眼の構えのままで腕を伸ばし、心唐へ突きで跳びかかる。あっさりかわせそうなそれを、心唐は寸での所でかわした。彼の戦った相手には矢吉のように刀での戦いに慣れていない者などいなかった。それがこの無謀な突きを危険なものへと昇華させていたのであった。
 背を反らしながら突きを避けるも、反撃の刀を振るには接近しすぎて間合いが無い。心唐は左手を刀から離し、矢吉の顔へ裏拳を繰り出した。だが矢吉はそれを読んでいたのか身を沈めてかわすと、今度は心唐の目に向けて肘で反撃をした。しかし捉えるべき顔はそこになく、二人は中途半端な間合い、中途半端な体勢から同時に刀を振った。
 鉄と鉄のぶつかり合う音が短く響き、ふたふりの刀は鍔迫り合いの形となった。
「ぅぐぁっ」
 しかし鍔迫り合いは二瞬で終わりを告げた。矢吉の手から刀が落ちる。鍔迫り合いとなった刹那、心唐は刀を握る矢吉の指に手を伸ばし、巧みな技でその指を折ったのだった。こればかりは刀での戦いになれていない矢吉には防ぎようが無かった。
 矢吉は不気味に曲がった自分の指から、折った相手へと視線を巡らせた。
「無念っ」
 それが彼の最期の言葉だった。
 静寂。そして――
「父上ぇぇぇぇぇ!」
 絶叫。ずっと押さえつけていた左五郎の腕を振り切り、藍漸が父の首へと走り寄る。
「父上っ、父上っ!」
 泣き叫びながら、体から落された父の首を懐中に抱く。前に立つ心唐へ目もくれずに藍漸は泣いた。その背後に左五郎が歩み寄って来たが、それにも気をやらず、彼は泣いた。
「矢吉殿、仇は討ちますぞ……」
 左五郎が低く呟き、それを受けて心唐は刀を振って付着した血脂を飛ばした。
「お主も弓矢が得意なのではなかったか? この間合いだと矢に手を伸ばす前に我が刀がその首を飛ばすぞ」
 心唐が嘲笑うように言ったが、左五郎はそれを無視した。自分を挟んで再び殺気がぶつかり合うのを感じた藍漸が泣くのを止めて顔を上げる。
「左五郎、下がれ……」
 少年の声は今までに聞いたことの無かった怒気が含まれていた。
「父上の仇、拙者がとる……」
 そう言って矢吉の首を丁寧に置き、藍漸は腰に差していた刀を抜き放った。
「な、なりませぬ! それは――」
「命令じゃ……」
 冷たい刃を心唐に向け、藍漸は先程の父と同じく正眼に構えた。というよりも、彼はこの構え以外に知らなかったのだ。
「童、刀を抜くということは儂と死合うという事だぞ。覚悟はあるのか?」
 心唐が左足を引いて体の右半身を藍漸に向ける。藍漸は構えを崩さない。それを見て心唐は意外そうな顔をしたが、すぐに真剣な表情になって両手を大の字に広げた。
「覚悟はある、そう言いたいのか」
 嘲るように笑みを作ると、彼は右手に持った刀を頭の上にかかげ、ゆっくりと下ろして行き切っ先を左手に当てた。それはまるで鳥居のような格好であった。
「言っておくが、お主の父の初手を上手くかわせなかったのは、儂が油断していたからだ。お主がいくら若かろうが、此度は油断せぬ。それを――」
 心唐の口上の途中で藍漸は強襲した。父と同じ構えから父と同じ突きを繰り出す。またも心唐は意表を突かれて紙一重での回避となった。
「小童ぁっ! 貴様、卑劣!」
 心唐が鳥居の上辺を崩す。銀光が空を裂き、藍漸が咄嗟に立てた刀に牙を向く。
 きんっと短く悲鳴を上げ、藍漸の刀は二つに分かれて宙を舞った。次に響いたのは左五郎の怒号であった。藍漸の刀を折った刃は勢いを殺されながらも、少年の顎から胸にかけて斜めに切り裂いた。
 仰向けに倒れゆく藍漸が見たのは真っ赤に染まった空と、血に染まった自分の視界、そして猛進する左五郎の姿であった。
 鈍い音。
 肉を貫く嫌な音が聞こえる。
 それが何を意味しているのか少年には解っていた。自分の傷が致命傷ではないことは気付いていたので、そのまま黙って倒れていれば助かるかもしれない。しかし、藍漸は仰向けに倒れたままでこの戦いの勝者へと語りかけた。
「高間、心唐……」
 振り向く気配がする。
「ほう、生きておったか」
 近づいてくる様子はない。止めを刺すつもりはないようだ。
「高間心唐……拙者は……」
 喉から風が通り抜けるような音が鳴ることに少し恐怖しながら、苦しそうに言葉を続ける。
「拙者は必ずお前を殺す……幾年かかろうと、必ずお前を殺しにゆく……だから、その時まで、我が名を……覚えておけ……」
 心唐は何も言わずにただその場に立っていた。藍漸は口から血塊を吐きながら、憎悪をと憤怒を込めて言った。
「我が名は、相馬。相馬藍漸……。我が父と我が家臣の誇り、“義賊矢の相馬党”最後の党首、相馬藍漸だっ……!」
 その言葉を最後に藍漸は意識を失った。
 そして、禍根は今に紡がれる。

       *

「そうか、あの時の童か……」
 心唐は懐かしそうに呟いた。
「して、儂に何用だ?」
 先程の激昂もすでに去り、落ち着いた表情で藍漸は答えた。
「黄泉比良坂、下りゆけ……」
 言葉と同時に左手の親指で鍔を鳴らし、居合の構えをとる。
「到底応じられぬな。代わりに主が逝くがよい」
 藍漸に背を向けて、道場に奉じてある御神刀へと歩みゆく。
「では、死合うか?」
 その背に藍漸が投げかける。
「応じよう」
 御神刀を手に取りそれを丁寧に抜く。直刃の長太刀が霜をまとったように怪しく輝く。
「死ぬるのはいずれか……」
 言いながら心唐は長太刀をゆるりと持ち上げると、鳥居のような形で構えた。十年前のそれと同じ構えに藍漸は苦笑し、居合の構えを解いて刀を抜いた。
「年老いた者から先というのが道理。黄泉津国への道はお主に譲ろう」
「ふん、言いおるわ。なに、若くして死ぬも悪くはないぞ」
「十年前に死は済ませた。あと三十年は御免こうむる」
 皮肉を言いながら藍漸は正眼に構える。その間にも二人の間合いは詰まってゆく。
「口だけは達者なようだ。なれば、刃でも語ってみよ!」
 怒号一声、鳥居の上辺が弧を描いて藍漸に迫り来る。何から何まで十年前の再現であった。
 ただ違うのは、心唐は老い、藍漸は成長したということだった。
 心唐の振るう長太刀を打刀でいなす。武器の長さ、重さ共に心唐の方が勝っている。いなすにもそれが邪魔となるが、受け流すことに成功し一気に間合いを詰めると、走り抜けるように流し胴を狙う。
 鮮血が舞い、心唐がわずかにうめく。しかし決闘は終わらない。
「まだまだぁっ!」
 心唐は叫びながら、先程振り下ろした勢いのままの長太刀を、背後に抜けた藍漸へ向けて狂ったように振るう。
 だが、藍漸はその長太刀が紙一重で当たらない位置で静かに構えていた。
 計算し尽くしたような立ち位置で打刀を正眼に構えて目をつむっている。
 凶暴な風が藍漸の鼻先を過ぎ去った刹那、藍漸はその目を開けた。
「……っ!」
 無音の叫びが響き、一瞬の静寂が訪れ、そして、水音が床に響いた。
「見……事…………」
 心唐の口からひとすじの血が流れ落ち、顎をつたって首へと流れる。その細やかな血の流れは首から生えた打刀を撫でた後、その下にある大量の血流へと呑み込まれていった。
 首に刺した打刀を抜き、藍漸はその血糊を拭い去った。
「父の仇、母の仇、一族郎党の仇、確かに討たせてもらった。心唐殿、貴殿の黄泉での暮らしに幸あらんことを……」
 藍漸がそう言うと、心唐は唇の端をわずかに上方に吊り上らせ――息絶えた。
 道場の冷たい床の上に崩れ落ちながら、首から大量の血を噴き出す遺体を、藍漸は感慨深く眺めていた。
 藍漸がその視線に気付いたのは、張り詰めていた緊張が解けた時であった。嫌な予感を覚えながら恐る恐る背後を、道場の入り口を振り返る。
「ひっ」
 短く叫んだのは一人の少年であった。年の頃は十四、五といったところであろうか、目元に心唐の面影がある。
「心唐殿の息子か……?」
 顔面蒼白になりながら藍漸が問うと、少年は怯えきった様子でなんとか頷いた。藍漸の表情に、急速に後悔と自責が広がってゆく。
(なんということだ……これでは……これでは十年前の拙者と同じではないかっ! 拙者は愚かだ……心唐殿は名の通った武芸者、跡取がいて当然。何故それに気付けなかった……)
 藍漸はおぼつかない足取りで心唐の息子の所まで歩み寄った。
「父上の仇を討ちたいか?」
 なぜそう聞いたのかは藍漸にもわからなかった。だが、その言葉は放たれてしまったのだ。
「父上の、仇?」
 混乱した様子で少年は首をかしげ、それから頷いた。
「そうか。お前の名はなんという?」
「高間、誠唐
(せいとう)
 その名を聞いて藍漸は少し哀しげな顔になった。少年の名が心唐の名と似すぎているせいで、自らが仇となったことを自覚せざるをえなかったのだ。
「誠唐か。その名、お前が拙者の前に現れるまで覚えておこう」
「あなたの名は?」
 誠唐が怯えを隠した声で問う。
「相馬藍漸」
「そうま……あいぜん……」
「そうだ。我が名を覚えておけ。相馬藍漸、お前が殺すべき仇の名だ」
 自嘲気味に微笑みながら藍漸が言うと、誠唐の目には確かに憎悪の炎がちらつき始めていた。
「我が名を覚えろ。私は相馬藍漸。お前の父を殺した男だ、お前が憎むべき男だ。拙者を憎め、殺してみよ!」
 その言葉を残し、藍漸は道場を後にした。背後では誠唐が力なく父の名を呼んで一歩一歩父の所へ進んでいくところであった。
(虚しい……拙者は父上の仇を討った。皆の仇を討ったのだ。それなのに、なぜ虚しいのだ……)
 夢遊病のようにふらふらと歩く藍漸の前に、一人の女性が立ちふさがった。先程藍漸に夫の居場所を教えた、心唐の妻である。藍漸は彼女に「もし」と言われて初めてその存在に気付いた。藍漸の目の焦点が合ったとみると、彼女は言葉を続けた。
「あなたがこの家を出て行くということは、あの人は敗れたのですね」
「すまぬ……」
「謝る必要はありません、あの人はいつも言っていました。いずれ自分は殺されると。十年前の少年に殺されるといつも言っていました」
「十年前の少年……?」
 その表現に藍漸の意識が段々はっきりしてきた。
「あなたのことでは無いのですか? 十年前の少年とは」
「確かに。だが心唐殿は私の名を忘れておいでだった。父上の名も……」
「そんなことは御座いません。あの人は、このところ毎晩うなされていました。いつも『藍色の瞳が私を睨む。深い憎悪が儂を焼く』そう飛び起きては水を所望して、昔話を私に聞かせてくださいました」
 藍漸はその言葉を否定したくてたまらなかった。藍漸の名は、その瞳が限りなく黒に近い藍色であった所に由来する。そのような瞳を持ち、十年前に心唐へ憎悪を抱いた者など彼しかいない。心唐は自分を忘れてなどいなかったのだ。
「あの人はその日のことを話すとき、いつも震えておいででしたよ」
「震えて?」
「ええ。立ち話もなんですから、お上がりになりませんか?」
 藍漸はつい応じかけたが、自分は彼女の夫を殺したのだということを思い出し、それを断った。
「では、ここでお話ししましょう。あの人からあなたに話すように言われてましたから」
 笑顔でそう言われ、藍漸は愕然とした。彼女の顔には一片の憎悪も無く、怒りも無い。むしろその逆のようであった。
「十年前、あの人は旅をしながら剣客を生業としていました。そこそこに名も売れてきた時のこと、立ち寄った観双国の大名様から“矢の相馬党”を討てと言われて、偽の情報を流して罠を張ったそうです。そして、そこにかかったのがあなたのお父上一党。あの人はお父上を斬ろうとした時に、誤って母上を斬ってしまわれたそうです。それは故意ではなく、母上がお父上を庇ったからだと聞きました。それがきっかけで冷静になったあの人は、お父上とお話しをされたそうです。そして、大名の言った言葉に偽りがあり、あなたのお父上達が義賊であったことを初めて知らされました」
 懐かしむように話す彼女とは対照に、藍漸はついさっき心唐が言った言葉を思い出していた。
『そうか、伏水峠の盗賊、矢の相馬党か』
 彼は確かにそう言った。それは演技であったのだ。
「父上と……話を? 義賊と知っていた? 馬鹿な、それでは……」
 慈しむように微笑みかけて、彼女は藍漸の肩に手を置いて言葉を続けた。
「そして、あの人は全てを知りました。その上でお父上に謝罪しましたが、やはり斬ってしまった命は取り返しのつかない尊いもの。お父上は自分の得手な弓を捨てて刀を抜いたそうです。それを見てあの人はお父上が死合う気だと悟り、自分も長太刀を捨てて不得意な打刀を抜いたそうです」
「不得意な打刀?」
 藍漸は幼き頃、なぜ自分が生き残ったのかを悟った。
「そうか、私の頭ではなく顎を斬ったのはいつもの武器と違ったから間合いが測れなかったのか……」
 しかし、その呟きに彼女は首を振った。
「いいえ、間合いは測れていましたよ。だからあなたは生きていた」
「拙者は――彼に生かされたのか? 父の仇に生かされて、今日まで生きてきたのか?」
 独り言のようなそれに、彼女はゆっくりと頷いた。
「では、今日の立ち合いもわざと……?」
「今日の立ち合いは違います。なぜかは知りませんが、あの人はあなたが来ることを知っていました。だからこそ今日は朝から御神刀のお手入れをなさっていました」
 それを聞いて安心したのか藍漸は小さくため息をつき、道場を見やった。
「…………奥方殿、誠唐殿にお伝えください。拙者はいつでも待っていると」
「行かれるのですか?」
「ええ、少し西方に旅をしようかと思います」
「解りました。では私からもお願いが御座います」
 不思議そうに表情で問い返す藍漸に、彼女は言葉を続けた。
「決して死なないでください。誠唐があなたの所へ行くまで、誰にも負けず、決して死なないでください」
 一拍の間を置いて、藍漸は深々と頷いた。
「解り申した。必ずや、あなたの息子を待ちましょう」
 そう言って彼は背をひるがえし、屋敷を後にした。
 そして、仇討ちは繰り返す……

 それから幾ばくかの時が流れた。

 落ち葉が風に乗って夕焼け空で踊る。かさかさと物悲しい音色が観双峠の道に奏でられていた。空気はかすかに冷気をはらみ、たまに道を行き違う旅人は、普通の着物の上に薄物を重ね着ている。
 そんな中、高間誠唐は夏着物のまま背中に旅用の袋を背負い、峠道をひたすら歩いていた。わらじの裏に感じる落ち葉のぱりぱりという音を密かに楽しみながら、独り黙々と歩き続けていた。
 彼が故郷である佐発国
(さはつのくに)を出て旅するのはある目標を果たすためであった。
「お若いの、この先はまだ長い。そんなに急いでいては、力尽きた所で夜を迎える羽目になりますぞ」
 つい今しがた追い抜いた老人が背後から声をかけてくる。誠唐はその声に振り返って微笑んだ。
「先を急ぎますので」
「いやいやお若いの、急いでいても老人の言う事は聞くものですぞ」
 老人はその柔和な表情を崩さずに、しかしがんとした調子で言った。
「この先は段々と下りになってゆくが、夜になると狼が出るでな、夜の一人旅は危険極まりない」
 そう言われてしまうとまだ若い誠唐はひるんでしまう。
「そうでありましたか、それは有り難い事を教えて頂いた。恥ずかしながらまったく知りもしませんだ。では近い所で野宿をする場所を探すとします」
 それを聞くと老人は。しめたという顔で思い出したかのように言った。
「それならば、この先少し歩いた場所に峠宿場がある。わしはそこに泊まるつもりじゃがお主も一緒にどうかな?」
 誠唐はそれで老人の目的を悟った。その宿場まで心もとないので用心棒の代わりになって欲しかったのだ。誠唐も断る理由は無いのでそれを快諾した。
 宿場に着くと、誠唐達の他にもう一人客が泊まっているようだった。というよりも共に峠を越えてくれる人を待っているような形である。こういった危険のある場所では宿場で護衛をしてくれる人を雇ったり、路銀の少ない者だったら同じ方向に旅する腕達者を待って同行するということが多い。この客もそういった者の一人である。
「もし、すみませんが……」
 老人と茶飲み話をしていると背後から若い女性が声をかけてきた。誠唐はそれがもう一人の客なのだろうと思い振り返ると、やはりそうであった。
「観双国へ向かわれるのでしょうか?」
 女性は誠唐よりも四つ五つ年上であろうか、旅でやつれているものの中々整った顔をしていた。
「ええ、よろしければご同行しますが?」
 もとより目的は解っていたので誠唐は頼まれる前にそれを受けた。
「有り難う御座います。よろしくお願いいたします」
 そう言って安心に口元をほころばせる彼女を見て誠唐は少し胸が高鳴った。剣を学び、武芸者の息子として育ってきた彼にとって、か弱い女性を守るということは初めてであり、誇らしくあった。その胸の高鳴りは一目惚れによるものだったのだが、色恋沙汰を経験した事の無い誠唐は、自分自身の心に気付かなかった。自分に任せろと言わんばかりに胸を張る彼を見て、声をかけてきた女性も少し気を良くしたようだった。
「わたくし、朝陽
(あさひ)と申します。今日は遅いので明日からになりますが、峠越えの間よろしくお願いいたします」
 丁寧にお辞儀をする朝陽に赤面しながら、誠唐は返礼した。
「僕、いえ、私は高間誠唐影雅。こちらこそ旅の間、よろしくお願いします」
 傍目から見れば、護衛する側が何をお願いするのかと失笑したであろうが、誠唐はいたって真面目であった。
「拙僧は……いや、お呼びでないかな?」
 おずおずと老人が会話に入ろうとしたが気後れした様子であった。
「そういえば名をまだ聞いていませんでしたね」
 今更といった感もあったが誠唐が続きを促すと、老人は紹介を続けた。
「ではお言葉に甘えて。拙僧は観双国の千双寺で僧侶をしておる廻波と申す者じゃ。輪廻の廻に波で、かいはと読む。以後お見知りおきを」
「お坊さんですか……」
 誠唐が少し表情を曇らせる。そのわけを聞こうと廻波が口を開いた時、宿場の主人が床の準備ができたと知らせに来た。
「えっと、三人とも別々の部屋にいたしましたがよろしかったでしょうかね」
 そんな廻波の様子に気付くはずもなく主人が愛想良く話し掛けてくる。皆がそれぞれ頷くと、主人はせかすような早口で続けた。
「では、明日も早いことですし、床につかれてはいかがです」
 長々と起きていられては自分も寝られないと言いたげに誠唐を見る。誠唐もそれを悟って主人の言うとおりにして部屋に案内されていった。
 その晩は何も起こることなく悠々と過ぎていった。翌朝、誠唐が目を覚ましたときには廻波も朝陽も既に旅支度を終え、道中で食うための弁当を主人とこしらえていた。
「いやぁ、山の幸の見事なこと、生臭が食えん拙僧にはこれほど有り難い物は無い」
 などと感激する廻波の声に引かれて部屋から出てきたのだが、確かに弁当は廻波が感動するのも解るほど美味そうであった。得意げに主人と朝陽が微笑んでいるので、朝陽が手伝ったというのが見て取れる。それが誠唐にはさらに美味そうに見える要因となっていたのだが、本人はそれに気付いていなかった。
 主人に宿代を払い、三人が宿を出たのは日が昇り始めてすぐといった早朝であった。
 途中、狼に食われたのであろう旅人の死体などがあり、廻波がそれを弔ってお経を唱えてやった。それがすんでからまた歩き出すと、廻波が昨日自分が止めておいて良かっただろうとしみじみ誠唐に語った。それを有り難く頷きながらもまた歩き出す。不思議なもので昨日までの一人旅と違い、三人もいると歩の進みは落ちるものの体力は衰えない。それを朝陽が同行しているからだとはまったく考えもしなかったが、誠唐の顔から笑顔が絶えなかったのは紛れも無くそのためであろう。
「そういえば――」と朝陽が口を開く。
「皆さんは何故観双へ?」
 誠唐の笑顔が曇ったのは今日これが初めてだった。答えづらそうにしている誠唐を思ってか、廻波が自然な形で自分の理由を語った。無論、それは昨日聞いていた通り自分の寺へ戻るからというものであったのだが。
「高間様は?」
 朝陽も薄々は誠唐の様子がおかしいことに気付いていたが、ここで誠唐に聞かないのも変だと思い、あえて問うた。誠唐は廻波の手前、答えづらそうに言葉を濁したが、諦めたのかその重い口を開いた。
「仇を……討つためです……」
 やはり、といった風に廻波が目をつむる。彼も薄々感じ取っていたのだ。
「父の仇を討つために……」
「それは観双国にいるのかね」
「ええ。彼は観双の出だと聞いていましたし、風の噂でこの観双にいると……」
「仇を討つというのは業深き事。人の命を奪うという事は何条持っても許されるものではない。それを解っていて、その人を討つというのかね」
 廻波が重々しい口調で言う。こうなることが解っていたから誠唐は言うのをためらったのだ。
「解っています。ですが、父の仇を討たぬことには高間一刀流の名がすたります。父は高間一刀流宗家の肩書きを持って彼奴と戦い、敗れました。あんなどこの馬の骨とも知れぬ男に……私とそんなに歳の違わぬ男に……」
「仇を討つ、というのは多少ずるい言葉でな」
 決意を込めたような誠唐をいなすように廻波が口を開く。
「仇討ちと言えば聞こえがいい。しかし、やっていることは人殺しじゃ。『人』というのを『仇』、『殺す』というのを『討つ』と言葉を言葉で覆っているだけで、その罪、その行為の業はなんら変わることが無い。『仇討ち』という言葉にこだわるのは、自らの心をそういった覆い言葉で隠し偽っているだけじゃ。お主の本心はそれが罪悪だということに気付いておろう」
 図星であった。だが、それを認めると彼の数年が無駄になってしまうようで彼は俯いたまま黙ってしまった。
「悪いことは言わん。お止めなされ。お父上がほんにそれを望んでおられるとお思いか?」
「…………解りません……」
 呟いた声は小さく、注意していないと聞き逃してしまいそうだった。
「解らないのならば止めなされ」
「しかしっ! ……しかし、今ここで止めては私の三年間は…………」
「三年間、修行を積んできたのかね」
 廻波が問うと誠唐は力強く頷いた。
「なれば、その修行して磨いた技で人を守ればよろしい。お父上もそれを望まれよう」
「父上を知らぬのに父上の意思を語らないでください!」
「……やれやれ、頑固じゃな。いいか誠唐殿、お主がもし仇を討ったとする。だが、討った相手に子がおればどうするつもりじゃ? 討った相手に年老いた母や新婚の嫁がおったらどうするつもりじゃ?」
 これまでとまったく違った口調で廻波が問い掛ける。誠唐は言葉を失った。それはまったく考えていないことであったのだ。
「よいか、先程も言ったように仇を討つと言ってもそれはただの人殺しじゃ。その者に家族がおれば今度はお前が憎むべき仇となる。それを承知の上で人を殺そうというのか」
 しばらくの沈黙の後、誠唐は迷った様子でぽつりと言った。
「覚悟は無くとも……人は殺せます」
「たわけ!」
 叫ぶなり廻波は手に持った杖で誠唐を殴打した。
「覚悟も無く人を殺すなど笑止千万、それで家族を殺された者はどうなる! 人を殺すということは殺した相手の関係者全てを敵に回し、一生その業を背負うということぞ! それも解らんで仇討ちなぞするな!」
 地面に倒れた誠唐に廻波はそう怒鳴ると、朝陽に「行きましょう」と言って早足で遠ざかっていった。
 誠唐は悔しげな表情でその背中を見つめていたが、唇に痛みを感じ手をやってみた。
「赤いな……」
 さしたる意味も無く、指についた血を眺めて呟いた。口内に入ってくる血の味が廻波の言葉を脳裏によみがえらせた。
「解っている……人殺しになろうとしていることなんて解っている……でも、やらなければ父上の無念が……」
「本当に父は無念だったのか?」
 誰かがそう言ったような気がして我に返り、周囲を見渡しても誰もいない。その視界にいるのは遠ざかって行く朝陽と廻波の背中であった。時折朝陽が心配そうに振り返るのが見え、心の奥がほんわかと暖かくなるのを自覚する。
「解っているさ、私がやろうとしている事は業深き事だと……」
 唇を思いっきり拭うと誠唐は立ち上がって廻波と朝陽に追いつくため、走り出した。迷いはまだ消えない。しかし、迷いながらでも旅はできる。それが誠唐の今考えうることであった。
「誠唐殿、少しは覚悟ができたかね」
 追いついた誠唐を振り返りもせずに廻波が言う。
「……ある程度は」
 血の味を感じながら答えると廻波は「ある程度とはどの程度かの」と皮肉そうに呟いた。
「そういえば朝陽殿は何故女性の身で一人旅などしておったのじゃね?」
 雰囲気を変えようとしたのか、すこし声の調子を高くして老僧が問い掛けたが、その質問は思ったような結果にはならなかった。
「その……大変恥ずかしいことながら……」
 恥ずかしそうに俯いてから、誠唐と廻波の顔色をうかがいつつ言葉を続けた。
「笑わないでくださいね。恋人を探しているのです」
「恋人を?」とすぐさま反応したのは誠唐であった。
「ええ、夫婦になる約束をしておりましたのに、突然旅に出てしまわれて……」
「どんな。いえ、あの、どんな人なのです?」
「優しい方ですよ。けれども、いつも哀しげというか儚げというか、そんな雰囲気をまとっておられて……」
「しかし、あなたほどの方を置いて旅に出るなど」
「あの方は昔からそうでしたよ。いつもいつもわたくしに理由にもなっていない理由を――本人はそれで解るとでも思ってるんでしょうかね――そんな頼りない理由を言って、ふらりと姿をくらますのです。十年も前からずっとずっと夫婦になろうと誓っていたのですが……」
 その言葉の裏にある自信と信頼が確固たるものなので、流石に「浮気でもしたのでは」などと言える誠唐ではなかった。
「ですが、どうしたのかね」
 ずけずけと言ったのは廻波であった。誠唐は少々失礼な気がしないでもなかったが、自分も気になっていたことなのであえて何も言わなかった。
「はい、ずっと『私には目的がある。それを果たすまでは一緒になれん』と言っていまして、やっと何年か前に目的を果たしたようなのですが……。果たしたという報告をした後、『すまんが一緒にはなれなくなった』とひとこと言って去っていってしまわれました」
「それで、彼の人と会ってどうなされるのじゃ? 復縁を迫るのかね?」
 復縁と具体的な言葉をあっさりと出してしまう廻波であったが、その表情は何も感じてはおらんといった風に無表情だった。今度こそ失礼だと咎めようかと思う誠唐であったが、やはりこれも気になることだったので、口をつぐんだ。
「いえ、そうではありません。わたくしはあの方が傷だらけで母の家に流れ着いた十二の時から、ずっとお慕い申し上げていました。十四で将来は夫婦になろうと誓い、これまでそれを信じていました。それが理由も告げず無かったことにしろでは納得ができません。だから、何故夫婦になれぬのかはっきりと理由を教えてもらいたいと思い、あの方の所へ参ろうと決意したのです」
 それを聞いて廻波は愉快そうに笑った。
「ほう、朝陽殿はなんと強い女性じゃ。いやはやまったく朝陽殿の言うとおりじゃ。このような美しいおなごを幾年も待たせて『やはり無理だ』では納得がいかんわ」
 そう言ってまた愉快そうに笑う。
「して、その想い人が何処に居るのかは解っておるのかね」
「ええ。幸いにもあの方が昔、剣を師事していた老師の所へ文が届いたそうで、この観双峠でしばらく修行をしているということです」
「ではすぐではないか! なんとなんと、これはひょっとすると朝陽殿の想い人と拙僧も会えるかも知れんな。よし、ならばこの老骨に任せあれ、想い人が理由を述べんようなら詰問してやるわ」
 胸を得意げに叩いて言う廻波の横で誠唐はつまらなさそうにしていた。この時になっても彼はまだ自分の恋心を自覚していなかった。しかし、彼の体は正直である。あまり想い人の許婚の話しなど聞きたくないのか、彼女達の数歩先に出て、わずかにではあるが歩を速めていた。
「して、その男の特徴は?」
 廻波がそんな質問をすると、誠唐はさらに前に進み、ついには意識しないと声が聞こえぬ所まで離れた。廻波はそんな様子に気付いていたが、少年が照れているのだろうと思い、何も言わなかった。
「そうですね、まるで病にでもあったように痩せておいでです」
「ほう、それでは彼の人は本当に病にあって朝陽殿のもとを離れたのかも知れませんな。他には?」
「御髪を長く長く伸ばしていましたが、今はどうなのかちょっと……あ、それと目が良く見ると深い深い藍色で、光を受けるとまるで夜ように神秘的に輝きます」
 嬉しそうにそう言う朝陽に廻波は肩をすくめて微笑んだ。
「それは惚気というものじゃよ朝陽殿。もっとこの老人に解るような特徴は無いのかね」
 そう言った時であった。前を歩いていた誠唐が一瞬怯えたように立ち止まった。しかし、二人はそれに気付かなかった。
「そうですね…………あ、とっておきの特徴がありました。なんでこんな目立つ特徴を忘れていたのか」
 のんきにそういう朝陽からだいぶ前に離れた所で、誠唐が走り出す。
「顎から首にかけて大きな古傷があるのです。……あら?」
 ようやく誠唐の異常に気がついた二人はどうしたのだろうという表情で誠唐の走ってゆく所を見た。少し道からそれたそこには、一人の男が木剣を振るっている。といっても誰かと戦っているのではなく、素振りをしているのだ。
「あれはまさか……」
 朝陽が希望に満ちた顔でその男の顔を見ようとするが、遠くてよく解らない。
「お? もしや想い人かね?」
 廻波もつられたように明るい表情でその男を見ようとしたが、やはり遠くてよく解らない。いつしか二人は誠唐を追う形で小走りになっていた。
「まさか……まさか……」
 朝陽の声が疑念から次第に確信に変わってゆく。そしてその確信が間違いなかったことを示す声が轟いた。
「見つけたぞ相馬藍漸! 父上の仇ぃっ!」
 だがその声はあらたな疑問を呼び起こすこととなった。
「…………え?」
 その言葉に朝陽は、はたと立ち止まった。
「なんと」
 廻波は急に立ち止まった朝陽を少し追い抜くような形で立ち止まると、驚きの声を漏らした。
「もしや朝陽殿の想い人は、誠唐殿の探していた仇であるのか?」
 誠唐は藍漸のもとへ走り寄り、彼らの会話が聞こえるような距離ではないので真実は解らない。だが、それを確かめに二人の所へ行くのが恐ろしいのか、朝陽は呆然としながら疲れ果てたようにゆっくりと歩いていた。

 色あせた夜色の着物、腰にさした刀の鞘装飾、そして顎から胸にかけてある刀傷、痩せこけた頬、その男の全てが誠唐の記憶と一致した。
「父上の仇、相馬藍漸。貴様を探して旅立ったが、まさかこのようにあっさりとまみえる事ができようとは予想だにしなかったぞ!」
 誠唐は猛々しく言い放つと、腰の刀に手をかけた。
「私と勝負しろ相馬! 父上の無念、いま晴らしてくれよう! 抜け!」
 対する男はその藍色の瞳に幾分の驚きを隠しながら、口元に微笑をたたえた。
「ほう、あの時の童か……」
 くしくもそれは三年前に、誠唐の父・心唐が彼に言った言葉であった。いや、彼はわざとそうしたのかも知れない。口元がそれを示唆するかのように、意味ありげな笑みを浮かべている。
「抜け、というと?」
 手に持った木剣を地に落とし、韜晦するように腰の刀へ手を置いて誠唐へ問い掛ける。
「刀以外に何を抜く。さあ、抜いて構えろ!」
 藍漸はその若さと猛々しさを眩しそうに見ると、静かに首を振った。
「斬りたくば斬れ。それでお前の気がすむのならばな」
 誠唐が不思議そうな表情を浮かべつつも自分の間合いにじりじりと移動する。藍漸は刀に置いていた手をどけて両手を広げた。
「さあ、斬れ。父の仇なのだろう? 斬りたくば斬るが良い。それで本当に父上が喜ばれるのであれば一刀のもとに斬り捨ててみよ!」
 藍漸は歳のそう変わらぬ刺客へそう言って、両手を広げたまま一歩前へ進み出た。
「どういうつもりだ。何故刀を抜かぬ」
 誠唐の言葉を無視してさらに一歩踏み出す。既に誠唐の間合いに入っているのは藍漸も知っていたが、それでも彼は両手を大の字に広げたままであった。
「どういうつもりだ。なぜ斬らぬ」
 藍漸が誠唐の口調を真似て言う。
「貴様が刀を抜かんからだ!」
 その口調が癇に障ったのか誠唐が怒鳴るも、藍漸は意外そうに立ち止まっただけだった。
「刀を抜いていない相手は斬れん。そう言うつもりなのか?」
「無論だ!」
 誠唐は武家の子としての誇りがあった。その中でも素手の者を斬るなどというのは最もできかねぬことだったのだ。
「つまり刀を抜いていたら斬るという事だな」
「だが戦う気がなければ斬れん」
 彼は父の仇を斬りたくてたまらなかったが、父の教えである「戦意無き者斬るべからず」という言葉が彼を躊躇わせた。
「私が刀を抜くという事はお前が死ぬという事だと解ってそう言っているか?」
 藍漸が挑発しながら数歩退き、刀に手をかける。誠唐は挑発だとわかっていたので何も言わず刀を構えなおした。藍漸はその細面に微笑をたたえて口を開いた。
「では……死合うか」
 それは質問ではなく独り言であったが、それもまた心唐とまみえたときと同じ言葉であった。峠には彼ら二人の他にはこちらに歩いてくる僧侶と女性しかいず、その他には誰も見えない。藍漸は居合の構えをとると、三歩後ずさった。
 二人の間に沈黙が流れる。一人は憎しみと殺気を込め、一人は妙な悲哀と諦めを込めてお互いの目を凝視していた。もはや彼らに言葉はいらない、ただ刀があればいい。彼らはそれで語れるのだから。
 誠唐が左前に跳びながら右前に突きを繰り出す。
 その刃は地に向かず藍漸に向いていた。藍漸はそれを誠唐と同じ方向、藍漸から見て右後ろへ飛び退くことでかわした。本来一手目の突きというものはあまり用いられない。かつて藍漸の父がそうしたのは刀に不慣れなため、心唐の意表を突く攻撃を狙ってのことで、藍漸が心唐にそうしたのは父への哀悼と心唐への挑戦からであった。
 誠唐が突きを繰り出してきたのは、恐らく誠唐も父を斬った相手が父に突きで挑んだのを見ていたからであろう。
 だが、誠唐の突きは藍漸や矢吉のものとは意味合いが異なった。
 刃を寝かせての突き、これは『突き殺す』ことが目的ではなく、誠唐が相手の反撃を避けて左前に跳んだことから解るように『斬る』ことが目的となっていた。そして、この突きの巧みは、突き手と刃の進む方向が逆であるということだった。
 突きと判断して横にかわそうとしても左に軌道をずらしながら刀が進んでくるので、横に避けるかぎりは右にしかかわせない。しかし、右には突き手である誠唐が跳んできている。もし誠唐が隠し武器を持っていた場合、藍漸の死ぬ確率は格段に飛躍する。背後に飛びすさろうにも、誠唐が右側に跳んだせいで自分も体の向きを少々修正する必要が出てくる。そのずれを意識してか、藍漸は誠唐の跳ぶ方向に逃げたのだった。
 それは藍漸の経験があって初めて咄嗟に出る判断であっただろう。誠唐はこの一撃をこう避けられるとは予測していなかったので、一瞬、ほんの一瞬だけ戸惑いを見せた。だが藍漸はその一瞬を見逃さなかった。
 鞘走る音が下方から聞こえてくるというのは、誠唐にとって初めての経験であった。
 藍漸の刀が鞘から雫に濡れたような刀身をあらわにし、沈み込んだ藍漸の体と共に、天へ向かう昇竜のごとく自分に近づいて来る。誠唐はその刹那の時を、恐怖と本能的な反応に支配されていた。恐ろしいものに直面したとき、人は後ずさる。後ずされなくとも、上体は後方へしりぞくものだ。誠唐はまさにそうした。
 だが、その斬撃をかわせるはずもなく、彼は死を覚悟した。
「藍漸!」
 その声は誠唐の口から発されたものではなかったが、藍漸の動きを鈍らせる効果は絶大であった。しかし、鈍くはなったが刀は止まらなかった。誠唐は胸に鋭い痛みを感じながら仰向けに倒れていった。
 その視界に入ったものは青い空と、血に染まった自分の視界、そして、駆け寄る朝陽の姿であった。
「朝陽? なぜこんな所に?」
 激しく狼狽する藍漸の声に誠唐は、傷とは違った痛みを胸におぼえていた。目に入った血のせいで朝陽の涙に歪んだ顔が見えないのは彼にとっては幸いであった。
「藍漸、藍漸、あなたを探して、あなたを探してここまでっ」
 先程まで自分や廻波に話していたときと全然違う口調に、誠唐の胸の痛みが増してゆく。
「馬鹿な、お前には別れを告げたはずだぞ、なぜそれなのに――」
「あなたがちゃんと理由を告げてくれなかったからよ! 八年も待たせておいて理由も告げずに別れようと言われて納得できるもんですか!」
 傷の痛みよりもなぜか胸の痛みの方が大きい。それを不思議に思いながら誠唐は目を閉じて倒れていた。
「生きとるかね誠唐殿」
 耳元で囁かれた声に反応して微かに目を開けたが、血が入ってきたのですぐに閉じた。それでも生きていることは解ってもらえたらしく、廻波は嬉しそうに目元の血を拭ってくれた。
「朝陽殿は強きおなごじゃな」
 いたわるような声で廻波が言う。朝陽は狼狽するばかりの藍漸に向かって泣きながら怒っていた。
「普通のおなごならば別れを告げられればめそめそ泣き暮れるか、別の者を探すかするに。理由が無ければ納得できんという理由で、それを問い詰めるためだけに旅をする。ほんに強きおなごじゃ」
 目元の血は拭き取られたのでもう目は開けられるのだが、誠唐はその目を閉じたまま、血とは別の雫で瞼を濡らした。
「誠唐殿、これで解ったじゃろう。お主が憎んでいた相手にも大切な人がいるということを。お主が憎んでいた相手が最も守りたい、悲しませたくないと思って間を置いたのが他でもない、お主の惚れた朝陽殿じゃった。お主はそれでもまだ藍漸殿を斬れるのかね? 斬れば確実に朝陽殿は嘆き、悲しみ、そして……お主を恨む。それが耐えられるかね? お主の惚れた相手が恋人の仇としてお主を狙うやもしれん。それが耐えられるかね?」
 優しく問い掛けてくる廻波の言葉は、彼にとっては解りすぎるほど解るものであった。だが、父の仇にいだき続けた恨みを消すことはできそうにない。その葛藤に悩む彼の耳に入ってきたのは、朝陽に反論する藍漸の声であった。
「拙者はその誠唐殿の父を、心唐殿を斬った。それは免れない事実だ!」
「でもあなたは斬られようとした、それはなぜ!」
「それは」
 朝陽の問いに藍漸は言葉をにごした。
「それは、なん……です?」
 半分無意識に、誠唐がかすれた声で藍漸に問う。
「それは……」
 藍漸がこちらに向き直る気配を感じるが、誠唐はまだ目を閉じていた。
「…………拙者の父は心唐殿に斬られた」
 突然ぽつりとこぼされた言葉を、誠唐は理解できなかった。
「え?」
「拙者の父は義賊を率いていたが立派な武士だった。だが、父、創塔矢吉は高間心唐に斬られて死んだ。母も、家臣達も皆、心唐殿に斬られて死んだ。残った家臣達も心唐殿の報告によって駆けつけた大名直属の盗賊番達によって――義賊とは無関係な家臣達までも、皆、処刑された。拙者は祖母の手によって命からがら逃げ出した。そして、気を失って倒れているところを朝陽の母上に助けられた」
 それは藍漸がずっと朝陽にも秘密にしていた事であった。朝陽は今までなぜ藍漸が重症を負って倒れていたのかは聞かされていなかったのである。
「その後、さる方に刀を教わり、心唐殿を斬る事だけを考えて十年間修行してきた。そして三年前、心唐殿の居場所を師から教わり、私はその屋敷へおもむいた。その屋敷には確かに心唐殿がいた。そこからは誠唐殿も知っているだろう」
 誠唐は三年前、父が殺される一部始終を見ていた。だが、それを思い出すのはとてもつらいことであった。
「私は心唐殿を斬った後、誠唐殿の母君から心唐殿が私を待っていたことを聞いた。心唐殿は、私の父を斬ったことをずっと悔いていたという。恐らく彼は半ばわざと私に斬られたのであろうな……」
 哀愁を秘めた声で淡々と続ける。
「拙者が誠唐殿に斬られようとしたのは罪滅ぼしのためだ。そう思って斬られようとしていた。だが……誠唐殿、お主が拙者に刀を抜けと言い、戦う気が無ければ斬らんと言ったのは父上の教えであろう」
 誠唐は無言で倒れたまま頷いた。
「だから拙者は戦う気になったのだ。だが、負けるつもりであった……」
 それは誠唐にも薄々解っていたことだった。先程の刀が本気で殺そうと思って振るった刀であれば、誠唐の体は両断されていた。そして、藍漸が胴を横薙ぎにするのではなく顔を狙って刀を振り上げたというのは、多少間合いを測り違えた藍漸が狙いを外したかったということもあったのだろう。
「誠唐殿、拙者は先程言った言葉を撤回するつもりはない。斬りたくば斬れ。それが父上へのはなむけとなるのならば、何の憂いも無く斬り捨てろ」
 藍漸が真摯な声でそう言うのを、誠唐はまるで第三者のように聞いていた。
(そうか、これが廻波殿が言っていた事なのかもしれないな)
 誠唐は無言でかぶりを振った。歯を食いしばり、涙がこれ以上こぼれないように耐えながら、首に届いた傷から血が溢れるのを一向に気にしないで、頭を振った。
「誠唐殿?」
「もう……いい。父上は悔やんでいなかった。無念ではなかった。母上からそう聞かされても私は信じなかった。だが……、だが今ならそれが解る」
 もうこれ以上はこらえられないとばかりに、誠唐は涙をこぼした。
「父は死ぬことで、藍漸殿の父を斬った罪を償おうとした。藍漸殿はそれを知り自分もそれに殉じようとした。――藍漸殿は、父上と同じ気持ちで斬られようとした。そこには、一片の悔いも無い。なれば、父上にも、悔いは無い……」
 涙声でそう言う誠唐の手に皺だらけの手が重なる。廻波の手の温かみを感じながら誠唐は涙を流し続けた。
「朝陽殿、藍漸殿、行ってくだされ」
 廻波が呟く。それに戸惑いを見せながら二人はお互いを見合った。
「誠唐殿は拙僧に任せて、行ってくだされ」
「願わくば……」
 廻波の言葉を続けるように呟いたのは誠唐であった。
「願わくば、朝陽殿に幸あらんことを。お二人の……」
 誠唐は依然倒れたままの状態で言葉を振り絞った。
「お二人のお子に幸あらんことを!」
 そう言って誠唐は藍漸達に背を向けるように寝転がった。
「行ってください! 私の気が変わってしまわないうちに、行ってください! 私のは藍漸殿の幸せを願うことができません。でも、藍漸殿の幸福が朝陽殿の幸福となるのならば――藍漸殿、あなたの進む道に幸あらんことを!」
 誠唐はかたくなに目をつむり、声を殺して泣いた。足音がゆるやかに遠ざかって行く。それを聞きながら彼は涙しつづけた。
「誠唐殿……」
 しばらくたって誠唐は背中に置かれた手と、その声に目を開いた。顔をあげると、廻波が微笑んでいた。
「我々もそろそろ行きましょうか」
 慈愛に満ちた声で語りかけるように言うその声は、誠唐の心を落ち着けることに成功した。
「それとも、誠唐殿は母上の所へ帰りますかな?」
「いえ……」
 その笑顔につられたように誠唐は微笑した。
「母はもう亡くなりましたから……」
「では、拙僧を寺まで送っていただけますかな?」
 傷付いた誠唐では、護衛どころか逆に足手まといになるというのに廻波は言った。
「喜んで。そのかわり一つお願いがあります」
 誠唐は傷を押さえながら立ち上がった。やはり藍漸は手加減してたようで、血の量に反して傷は浅かった。
「なんなりと」
 廻波が手ぬぐいを差し出しながらそう言うので、誠唐はそれを受け取って傷口の周りを拭きながら決意を秘めて言った。
「私を寺に置いてくれませんか?」
 廻波は意外そうに誠唐を凝視した後、少し間を置いてからそれを快諾した。
「甲が殺されれば乙が仇を討つ、乙が殺されれば丙が敵を討つ、そして丙が殺されれば……もう解りますな。誠唐殿、仇は連鎖する。それを止めるにはどうしたら良いか?」
 寺への道中、廻波が誠唐に問い掛ける。誠唐は首をかしげてしばらく悩んだ後、結局解らずに降参した。
「簡単な事、ただ許せば良い。お主がそうしたようにな」
 そう言って廻波が笑うのを、誠唐はここちよいと感じていた。


 了


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