《黒き聖騎士》クルストルは、前のめりに倒れながら、ケッタルスへ手を伸ばした。
 血でかすむ視界に、親友の顔が見えた。
 クルストルの頬を一筋の涙がつたう。
 哀しかった。
 親友の、天陽を溶かしたような金髪は漆黒に染まり、光を失っていた。
 悲しかった。
 自分と親友の関係が、人生が、ここで終わってしまうのかと思うと、涙があふれた。
 悔しかった。
 友人の変貌の理由も解らず、助ける事も出来ず、止める事さえ出来ない自分が情けなく、悔しかった。
 視界の端でケッタルスが笑った。
 心が砕けた。
 もはやそこに、ケッタルスと呼ばれた人間はいなかった。
 そこにいるのは、狂った笑みを浮かべる、人の形をした化け物だった。
 クルストルはゆっくりと目を閉じると、全てを放棄した。無力感に包まれて。


《偽章》長き前奏曲
最終話「起点の終焉」


 一陣の風がノウィーン村を駆け抜けた。
 風の名はカーズ。黒き、幼い風だった。
 どくんどくんと強く鳴る鼓動を感じながら、カーズは走った。彼は一つの決意を胸にした。
 自分が兄を助ける。
 そう決意し、彼は逃げていた。兄から、恐怖から、現実から。彼はそれに気付いていない。
 東の出口を抜けて林道を駆ける。カーズは視線をさまよわせながら、赤い色を探した。この時間、この場所に、その男は現れると言っていた。タトゥス・トラウムは言っていた。それだけが頼りだった。
 今日の自分はおかしい、そうカーズは思う。朝、港で大人たちに襲われた時から、自分の体が制御しづらくなっていた。
 このままではいけない、この遅さではいけない、そう思った瞬間に鼓動が強くなる。速くなるのではない、どくんと、強く大きく脈打つのだ。一度の鼓動で、体中に力が行き渡るように感じると、次は足が熱くなる。焼けるように熱いのに、心地は良い。その熱さを受け入れると、風が見えた。風は体中にまとわりつき、カーズ自身も風になったように軽くなる。
 朝にこうなった時は、漠然とした恐怖があったのに、今はまったく感じない。逆にもっともっと風に近づきたいと思うほどだった。だから、カーズは風になろうとした。
 鼓動はまだまだ強くなる。比例してカーズの走る速度が跳ね上がる。周囲の風景が視認できないほどの速さで流れていく。
 視界に一点の赤がちらついた。
「タトゥスさん!」
 叫んだ瞬間、怯えたように風がカーズから離れた。突然の変化に対応できず、カーズは吹き飛ぶように地面に叩きつけられた。激痛に泣きそうになりながら、なんとかこらえて立ち上がる。タトゥスはまだ遠い。ようやく視界に赤い衣服が見えたというだけで、声も届かない距離だ。
 走ろうとして、それが出来ないことに気付く。転んだ際に肩と足を痛めたらしい。カーズは左足を引きずりながら、ゆっくりと前進した。
 しばらくそうしていると、タトゥスもこちらに気付いたらしい。異変を察したのか走って来る。カーズはわずかな安堵を抱きながら、少し歩く速度を緩めた。歩く事に集中しようと、視線を下げて地面を見る。足から流れ出た血が地面に線を描いていた。どうりで痛いはずだと、微笑する。
「どうした、何があった!?」
 タトゥスの声が聞こえた。ゆっくり首をもたげる。赤いローブを身にまとい、白い布に包まれた杖を持った男が、すぐ近くに見えた。
「カーズ君か? しっかりしなさい」
 もう大丈夫だと思った瞬間、足から力が抜けてしまった。倒れこむカーズをタトゥスが抱きとめる。
「大丈夫かね、今薬草を探してくるから待ってなさい」
「助けて……」
「ああ、助けてやるから待ちなさい」
 タトゥスはカーズを地面に寝かせると、きびすを返そうとした。
「違う、待って、タトゥスさんっ……!」
 声に含まれる切迫した雰囲気に気付いたのか、タトゥスが問うようにカーズを見る。
「助けて、兄さんを……」
「ケッタに何かあったのか? 一体どうしたというのだ」
 カーズのかたわらにしゃがみながら、タトゥスはゆっくりと村の方を見た。顔色が変わる。
「なんだこの魔素は! 村に何が来たのだ、このような魔素……竜と会った時にもこれほどではなかったぞ」
 この世界に生きる全ての者は魔力を持つ。魔術士が魔法を使った際に体内から漏れ出す魔力を魔素と呼ぶ。竜や神などの魔力が大きすぎる者、全ての挙動が魔法のような力を持つ存在は、ただそこにいるだけで強力な魔素を排出する。タトゥス・トラウムは幼い頃に竜に会った事がある。偉大なる祖父に連れられた旅の最中の事だ。幼少時からすでに魔素を見る事が出来た彼は、竜の魔素に圧倒され、気を失いかけた。
 今、彼のふるさとに充満している魔素は、幼少時のそれを陵駕していた。だからこそタトゥスは恐怖した。そう、彼は恐怖したのだ。
「タトゥスさん、兄さんを助けてよ」
 魔術士の恐怖を知るよしもない少年が、頼り切った声で懇願する。タトゥスは迷った。
 何がそこにいるのかも解らない。解っているのは、竜よりも強大な魔力を持ち、十聖騎士クルストルと天才ケッタルスがいるにも関わらず、少年が助けを呼ばなければならないほどの敵だという事だ。
 タトゥス・トラウムは自身を天才だと信じていた。彼の力を知る者がいれば、誰しもそれを肯定するだろう。事実彼は、二十代も前半だというのに、すでに宮廷魔導師に匹敵するほどの魔力と知識を持っている。希代の大魔導師たる祖父の知識と魔法を幼い頃より学び続けて来ただけでなく、祖父の才能まで受け継いだと言われる事さえある。
 その彼が迷っている。
「タトゥスさん!」
 少年は懇願の叫びを発して咳き込んだ。タトゥスは我に返ってカーズに治癒の魔法をかけてやった。
「とりあえず何があったのかを聞かせてくれんか。ケッタやクルスはどうした」
「シルクの家が爆発して、兄さんが兄さんじゃなくなって、クルスが剣を向けて――」
 混乱した少年の説明は支離滅裂だったが、タトゥスは彼の言葉ではなく、その目で事情を察した。
「なるほど……確かにあれはケッタではない」
 村の方角を見てタトゥスが呟いた。カーズもつられてそちらを見ると、道の向こうに誰かが立っていた。黒い長髪をなびかせた青年だった。
「兄さん」
 カーズの呟きが聞こえたのか、遠くに立ったケッタルスが腕を振り上げた。その手には剣が握られている。
「いかん!」
 叫びながらタトゥスは荷物を捨て杖を構えた。杖を覆う布を取り払って呪文を唱えるのと、ケッタルスが腕を振り下ろすのは同時だった。
 ケッタルスが剣を投げつける。切っ先は一直線にタトゥスの顔を目掛けていた。タトゥスが呪文を完成させ、魔法を発動させる。剣は間一髪、タトゥスの眼前で見えない障壁に阻まれ、地へ落ちた。カーズがその剣を拾い上げる。
「これ、クルスのだ」
 クルストルが使い慣れないと言っていた細身の長剣だった。これをケッタルスが持っているという事は、やはりクルストルは負けたのだろう。
「クルスが……死んじゃった」
 カーズは剣を持ったまま呆然としていた。タトゥスがその肩を掴む。
「何をしている、逃げるぞ!」
 素早く呪文を唱え、カーズを抱えて宙に浮かぶ。高等なはずの飛翔魔法である。一人で浮かぶ事さえ難しいというのに、子供とはいえ術者以外も共に浮かす事が出来るのは、かなり熟達している証だ。
 ケッタルスが凄まじい速度で走り出す。ゆっくりと上昇するタトゥスたちの所まで数秒もかからないだろう。
 タトゥスはさらに呪文を詠唱した。飛翔魔法は浮遊する間、常に呪文を唱え続けるのが普通である。追加詠唱など凡庸な魔術士には不可能な技だ。
 完成した呪文を解き放ち、高速飛行の魔法を発動させる。風をまとって海へ向かおうとしたが、ケッタルスの速度はそれさえも上回っていた。眼下をケッタルスが走り抜ける。
「早さじゃ逃げられんか……」
 呟いて空を見上げる。タトゥスは少し悩むそぶりを見せたが、すぐに苦笑して地面を見た。
 彼は上空へ逃げようかと考えたのだ。しかし古来より幾人もの魔術士が空を目指し、地に落ちた。何故か飛行魔法を使っても高く上がるのには限界があったのだ。
「海に出ても近くの島まで飛ぶ魔力は無い。どうしたものか。戦おうにも十聖騎士さえ負けた相手と来ては、私では太刀打ちできんな。ケッタ相手じゃ、呪文を唱えている間に私の首が飛ばされる」
 タトゥスは高速飛行の呪文を解除した。空に浮かんだまま、かつて自分を慕った青年を見た。否定したくとも、眼下の男は確実にケッタルスだった。タトゥスは未だ呆然としているカーズの肩を揺さぶった。虚ろな目で少年がタトゥスを見上げる。恐らく自分が宙に浮いている事さえ気付いていないだろう。
「カーズ君、しっかりしなさい。もう一度説明してくれ。ケッタがあんなになったのはいつだ」
 少年は答えない。心が壊れたように感情の無い瞳で魔術士を見上げるだけだった。
「しっかりせんかカーズ! クルスの死体は見ていないのだろう! 仮にも十聖騎士がそうそう簡単に死ぬと思っているのか、魔王を倒した男が!」
 カーズの頬に平手が飛ぶ。
「私に助けて欲しいのだろう、ならば状況を教えてくれ!」
「タトゥスさんに……助けて欲しい?」
「きみはそう言ったではないか!」
 カーズはまだ少しほうけながら、ぽつりぽつりと状況を説明し始めた。眼下ではケッタルスが彼らを見上げて笑っている。どうやって狩ろうかというような狂笑だ。
「兄さんとクルスが帰ってきて。お祭りが始まって。シルクの病気を診るって兄さんがシルクの家に入っていって。シルクの家が爆発して」
「いきなり爆発したのか? その前に何か無かったか?」
「…………クルスが。そうだ、僕に鎧をくれるってクルスが言ってて、僕が《黒い風》って呼ばれるかもって笑ってたらクルスが急に。違う、何か変な感じがしたんだ。シルクの家から気持ち悪い風が吹いていたんだ。そうしたら、クルスが嫌な予感がするって言ってシルクの家に行ったんだ」
「変な感じ……」
「それで、シルクの家の屋根が吹っ飛んで、家が爆発して、クルスが立ち上がって」
「立ち上がる? クルスは倒れていたのか?」
「うん。爆発した時に……たぶん。それでクルスが兄さんに剣を向けて。兄さんが兄さんじゃなくて。僕はクルスが負けると思って、それで、僕が兄さんを止めなきゃ、助けなきゃって思って…………そうだ、僕が」
 カーズの瞳に生気が戻る。
「僕が、兄さんを助けなきゃって思ってたのに。それなのに僕はタトゥスさんを頼ってる。タトゥスさん、僕を下ろして」
 タトゥスが眉根を寄せた。何を言っているのか理解しかねるという顔だった。
「僕が兄さんを止める。死んでも止める。だからタトゥスさんは逃げて」
 少年の表情はいたって真面目だった。
「きみは……とても変わっているな」
 タトゥスは少し笑った。
「子供に『逃げて』と言われて逃げる大人がいるか」
 目を閉じてタトゥスは妻の顔を思い起こした。まだ結婚して間もない妻の顔を。この島に来る前の夜、彼女は神託を受けたと喜んでいた。白手神ロウフォの神官である彼女の夢に、ロウフォが現れたと、子を授けられたと喜んでいた。
「そう、逃げる大人がいるか……」
 妻やいずれ産まれ来る子を残して死ぬかもしれない。家族を思うならばここは少年の言う通り逃げた方が良いだろう。眼下の魔人に勝てるとも思えない。
 目を閉じたままタトゥスは父の顔を思い起こした。そして覚悟を決めた。
「私は子が恥と思う親になりたくはない。祖父の名を汚したくはない。妻には悪いが、あれなら私よりもいい夫を見つける事など簡単だろう」
「タトゥスさん?」
「二つ、選択肢がある。私の記憶が間違っていなければ、イーンの港には赤い魔動高速船があった。そんな派手な魔動船を持っているのはミグだけだ。そしてミグでその魔動船に乗るのは、ジークフリード・ウェン・ガイア王守公のみ。つまりクルス以外にもう一人十聖騎士がこの島に来ている事になる。そして魔動船を動かす魔術士たちもこの島にはいる。もう一度言うぞ、二つ選択肢がある。一つは私が持てる全ての力を使ってケッタを殺す事。もう一つは、私が食い止めている間にきみがイーンまで走ってガイア王守公と魔術士たちをお連れする事だ。どちらが良い?」
「僕が止めている間にタトゥスさんが知らせに行くのは?」
「きみがどれほどのものかは知らんが、力不足だ」
 言い捨ててタトゥスはケッタルスを見た。
「あのケッタは正気ではない。いや、狂っているわけでもない。まるであれは……」
「別人」
「そうだ、別人だ。何かに憑依されている状態に近いのかも知れん。覚えておきたまえ、何かに憑依された人間というものは、憑依される前よりも恐ろしい。私は以前悪霊に憑かれた男と戦った事があるが、どうも人間というのは自分の体を傷つけないように、普段は全力といっても力を制御している節がある。しかし憑依する側は傷などお構いなしだ。信じられんような力を出す」
 そしてケッタルスは正常な時でさえ信じられないような身体能力を持っていた。その上にタトゥスが怯えるほどの魔素である。彼は勝ち目を見いだせなかった。
「さあカーズ君、二択の答えを」
「僕がイーンまで走ります」
「よろしい。では私が今からケッタの動きを止める。そうしたら地面に降りるから、合図をしたら振り向かずに走りなさい」
 タトゥスがローブの中からいくつかの大きい石英を取り出し、黄色い石英だけ残してローブの中に戻す。タトゥスは杖を短く持つと、最上部を傾けた。そこには何かをはめ込むような穴が開いている。
「私の杖はね、いざという時のために石英をはめる穴があるのだよ」
 説明しながら先端に黄色い石英をはめ込む。今がそのいざという時のようだ。
「さて、飛翔魔法を維持したままだから不安だが……私が使える最強の呪撃魔法で行く」
 両手で杖を構え、目を閉じて精神を集中する。ゆっくりと、下位古代語で呪文が詠唱される。
「リィ・フォウズ・ガインドフェウシルツァー・リィ・ファインドピロジャスト……」
 カーズには知覚できないが、タトゥスの周囲に魔素が漏れ始める。
「スィルフォンド・ヴァリム・ドルガイサンド」
 タトゥスがゆっくりと目を開ける。呪文が完成したのだ。
「アレスティナ・テンデルジア!」
 怒号と共に風が動いた。タトゥスの手に緑色の光が収束する。杖に青く輝く光がまとわりつき、緑色の光と交わる。次の瞬間、杖の先から凄まじい大きさの光弾が放たれる。
 青と緑の入り交じった光弾がケッタルスを包み込んだ。タトゥスは急いで地面に降りると、飛翔魔法を解除した。
「これで弱れば良いのだがな……ん?」
 ケッタルスを包む青と緑の光を見てタトゥスは首をかしげた。
「いかん! カーズ君、走りなさい!」
 カーズが逡巡し、走り出す。タトゥスはそれを確認しないまま、杖の先の石英を外した。黄色い石英は濁り、力を失っていた。ローブから別の石英を取り出す。大きいが濁りはない。魔力を多大に含むといわれている澄んだ石英――水晶だ。タトゥスは水晶をはめ込むと再び杖を両手で構えた。
「まさか失敗するとはな。くそっ、雑念が混ざりすぎたか、それとも飛んでいたからか」
 光弾の中にケッタルスがちらつく。彼は笑っていた。笑い声が次第に大きくなる。
 光が弾け散った。ケッタルスは大声で笑っていた。
 タトゥスは頬をつたう冷や汗を肩でぬぐった。ケッタルスが笑うのをやめる。二人の視線がぶつかった。
「虚無眼……」
 ケッタルスの目は、知識を持つ者が虚無眼と呼ぶものへと変貌していた。彼の碧眼があった場所は深紅に染まっており、瞳孔は爬虫類を思わせる縦長のものになっている。白目があるはずの場所は漆黒。白目が黒く染まっているのか、それとも何も無いのか解らないために、虚無眼と呼ばれているのだ。
 虚無眼は邪眼であるとされている。竜や一部の神、力を持ちすぎた獣や魔の眷属が持つのが虚無眼だ。竜や神ならばまだしも、それ以外となると大概が邪悪な存在だと思われている。
「ケッタよ。私が知らない数年の間に何があった? 何がお前をそうさせた? お前は誰かに乗っ取られるほど弱くはなかったはずだ。お前の誇りは、何者であろうとも拒絶するはずだ。何故自分の目を閉じている。何故心を閉じている。お前が悩んだ末に手にしたものは自己を失う事か? 強大な力に身をゆだねて、自らの誇りを捨てる事か? 違うだろ、違うだろうケッタ!」
 ケッタルスの表情に刹那の間、理性が浮かび、そして消えた。次の瞬間、ケッタルスは大きく跳躍した。タトゥスは身構えながら呪文を詠唱しようとした。
「なんだ!?」
 ケッタルスがタトゥスを飛び越える。その先には村と、助けを呼びに行ったカーズがいる。タトゥスは即座に高速飛行の魔法を唱えた。超低空で先ほどよりも速く飛んでいるが、ケッタルスの速度にはそれでも敵わない。
 思ったより遠い所にカーズの後ろ姿が見えた。
「逃げろカーズ!」
 その叫び声が聞こえたのか、少年が振り返った。ケッタルスが左手に紅い光をまとう。
 間に合わない。
 ケッタルスが左手でカーズの頭を薙いだ。
 だが、その手が振り抜かれる事は無かった。カーズの顔の真横で、ケッタルスの手が止められていた。
 タトゥスは目を疑った。少年はクルストルの剣でケッタルスの腕を止めていた。完全には止めきれなかったのか、右頬から血を流しながらも、彼は生きていた。
 カーズが体を深く沈めてケッタルスに体当たりを食らわせる。無防備だったケッタルスが軽くよろめいた。その隙をついて、追いついたタトゥスが兄と弟の間に割って入った。
「よくやった! 死んだかと思ったぞ」
 そう言いながらもタトゥスは少年を見ていない。両手で杖を構えてケッタルスを睨み付けた。ケッタルスはタトゥスを見ず、その背に庇われた弟を睨んでいた。
「弟を殺そうとするケッタなぞ、もはやケッタとは認めん! これで片をつける」
 タトゥスは先ほどとは別の覚悟を決めた。
「光よ、闇よ、地よ、風よ、火よ、水よ、これらを司る全ての精霊に命ず。其が力を吾に与えよ」
 その呪文は精霊の力を借りる魔法、精霊魔法のものに聞こえるが、少し違っていた。精霊の力を借りるのではなく、彼は命令していた。しかも、古代語ではなく通常言語で詠唱をしている。
「これらを司る全ての神に請う。其が力を吾に与えたまえ」
 精霊の神にまで力を求める。これは精霊魔法ではない。異常を察したのか、ケッタルスがタトゥスに襲いかかる。紅い手刀を振り下ろすがタトゥスに達する事無く、その手は弾かれた。強力な魔法障壁がタトゥスを包んでいた。
「そして、吾が前の愚かなる者をこの世界より追放せよ!」
 赤い魔術士はその言葉を口にした。
「禁呪――」
 ケッタルスが体勢を立て直し、再び襲いかかろうと――
「六皇法壊!」
 ケッタルスの周囲が暗転する。全ての音が消える。ケッタルスがいるであろう空間が歪み始める。
 杖の先の水晶が急速に光を失っていく。それほどまでに強大な魔法なのだ。タトゥスは肩で息をしながら、口の端をわずかにつり上げた。
「私が解読し完成させた唯一の禁呪だ。精霊と神の力を借りる古代呪撃魔法の奥義だな」
 誰に言うでもなく自慢気に呟く。
「多少の手加減をしたが、ケッタの周囲の空間はこれで消える。ほれ、崩壊が始まるぞ。後は精霊や神に崩壊した空間を修復してもらうだけだ」
 暗転し、歪んだ空間が渦巻きながら崩壊していく。タトゥスは安堵したように杖の先の水晶を外した。水晶は濁り、今にも砕けそうなほど無数のひびが入っていた。ローブから数個の石英を取り出して、タトゥスはカーズに笑いかけた。
「私が持っている中でも三番目に高級な石英だったんだがな」
 少年は笑ってはいなかった。安堵した様子もない。ただタトゥスの前の空間を見ていた。兄が消えていった空間を。タトゥスは表情を引き締めた。
「……すまん。きみの兄さんを殺してしまった」
「違う」
 カーズが震えだした。タトゥスはどうしたのかと、もう一度禁呪の跡を見た。
 崩壊が止まっていた。
 時間が逆流するように空間が元に戻っていく。
「なんだ! 何が!?」
 絶叫が聞こえた。タトゥスのものでも、カーズのものでもない。
 暗転した空間から、紅い光が漏れた。
 絶叫が続く。そして、紅い力場に包まれたケッタルスが姿を現した。
「馬鹿な……馬鹿な馬鹿な馬鹿な! あれは禁呪だぞ!? 私が制御できる中でも最強の魔法だぞ!? それで――」
 光の中でケッタルスが笑った。
「それで何故無傷なのだっ!」
 タトゥスは手に持った石英の中から一つを手に取り、残りを全て投げ捨てた。一度深呼吸をすると、魔術士は現実を認めた。
「手加減が仇となったか。カーズ君、新たな二択だ。こうなった以上、私には一つしか手が残されていない。決めてくれ。きみの敬愛する兄の命か、人々の命か、どちらを取る」
「皆の命を」
 少年は即答した。少しは迷うと思っていたタトゥスは、面食らったような顔をしてから破顔一笑した。
「解った。では下がりなさい。この魔法は私にも制御できない」
 とまどいながらもカーズは数歩下がった。
 ケッタルスの力場が徐々にしぼんでいく。タトゥスは遠くミグの方角を見て、内心で妻に謝った。
(帰れんなぁ。まったく、なんでこんな事になったんだか。親父とフェルのせいだな)
 死地にあってタトゥスは笑った。
「さて、これで本当に終わりにしよう。ケッタルス、あの世で延々と説教してやるぞ」
 唯一残した巨大な石英を杖にはめる。彼が持っている石英の中で一番高級な物、魔晶と呼ばれる特殊な水晶である。タトゥスは地面に片膝をついて高らかに禁呪の詠唱を始めた。
「アーカイヴ・ソルト・ハイデスト、血よ、肉よ、吾が体よ、光を放て――」
 詠唱に上位古代語と通常言語が混ざっている。恐らくまだ解読が出来ていないのだろう。
「ガイ・ドゥ・シング・ウルハ、天よ、地よ、光よ、闇よ、力を吾に。ドルマグ・ズィーグ・ブロウフォン、吾が命よ――」
 そこで、タトゥスは迷いを持った。
 本当に命を投げ出していいのか、本当に、ケッタルスを殺していいのかと。
『迷うな、言え!』誰かがそう叫んだ気がした。
 タトゥスは口の端をニヤリと歪ませた。
「吾が命よ、剣となれ! 吾が体よ、光となれ! 吾に力をっ!」
 ケッタルスの力場が消え、右手に長大な紅い光剣が現れる。
「其が吾に与うは無限の力、至高の光! 吾が其に与うは吾が全て! 全ての力よ解き放たれよ、この長き――」
 光剣が振り下ろされる。タトゥスの魔法障壁とぶつかり、激しく輝く。障壁の中にいるタトゥスが衝撃で倒れそうになる。彼は声にならない叫びを上げながら詠唱を続けた。
「――を終わらせるため! プラリュディ・フィアル・ガ・ロード・ディスヴァインッ!」
 詠唱が完了した。
「逝くぞケッタァッ!!」
 タトゥスが杖を掲げた。再度斬りかかろうとしていたケッタルスが動きを止めた。
「禁呪――」
 少年は、兄が優しく微笑したのを見た。思わず兄に手を伸ばす。
「フーリッシュフィアル!」
 光が溢れ出す。
 赤い光がケッタルスを捕らえる。緑色の光が口から血を流しているタトゥスを包む。青い光が粒子となって杖の先端に収束し、杖全体を白と黒の光が螺旋状に取り巻く。
 黄金に輝く光が、杖の先から放たれた。そして――
「兄さ」
 全ての光がケッタルスへと押し寄せる。
 それはとても美しい光景だった。
 光としか言いようのない無言の虐殺者は、木を、土を、空気を、林に生きる動物たちを、少年の兄を包み、押し流した。
 光の暴流はタトゥスの制御を離れ、林道を消し、海や小島を消し飛ばしながら突き進んだ後、粒子となって天へ上った。
「これが……禁呪」
 カーズは呆然と呟いた。
 光が通った後には所々、空間が裂けたように黒い歪みが口を開けていた。まさに虚空である。禁呪は空間さえも消し飛ばそうとしたようだった。
 タトゥスの前は地面も消えている。遠くから波の音が聞こえる。不自然に出来た、産まれたばかりの入り江に、海水が流れ込んでいるのだ。ここに海水が満ちれば、流れ込もうとしていた波は津波となって元の海へ戻るだろう。その先でまた多くの生命が失われる。
 これが、禁じられるべくして禁じられた魔法の結果だった。
 凄惨な光景に心を奪われたように、カーズは十秒ほどの間放心していた。彼が我に返ったのは、タトゥスが崩れ落ちたからだった。慌てて魔術士を抱き起こすも、タトゥスの顔からは生気が失われていた。血が流れ続ける口からは、風が通り抜けるような痛々しい呼吸音が聞こえる。まだ辛うじて生きている。助けなければいけない。
「タトゥスさん、僕は人を呼んできます。それまで生きていてください!」
 返答するようにタトゥスの目が見開かれる。何かを言おうとしたのか、その弾みに口から大量の血塊がはき出された。
「タトゥスさん? 何を、何を見てるんです?」
 仰向けに寝かされた魔術士は、空を凝視していた。カーズは震えながらゆっくりと振り返り、それを見た。
「………………兄さん」
 空に赤い球体が浮かんでいた。その中には、体の大半を失った兄の姿があった。ケッタルスは消滅していなかったのだ。
 カーズの呟きが聞こえたのか、ケッタルスが目を開ける。虚無眼が少年を睨む。
 かつてケッタルスと呼ばれていたそれは、カーズに残った方の手を向けた。赤い力場の一点がさらに禍々しく光っていく。まだ攻撃を続けるつもりなのだ。カーズは周囲を見回した。タトゥスは戦うどころではなく、自分が持っていた剣はいつの間にか落としてしまったらしい。見当たらない。戦うすべはなかった。
 おそるおそる立ち上がると、カーズはタトゥスを置いてゆっくりと後退した。力場の光は少年を追うように球体の表面を移動した。カーズはポケットから魔術士に貰った石英を取り出すと、すがるようにぐっと握りしめた。
 タトゥスから十歩も離れると、カーズは胸を張って立ち止まった。無謀な事に、少年は自らを囮にして魔術士を助けようとしていた。
 次の瞬間、火の玉が空におどった。火の玉はカーズではなく、赤い力場を包み込むと大きく炎上した。
 カーズは刹那のとまどいの後、火の玉が飛んできた方を見た。そこには二人の人間が浮いていた。一人は魔術士のような姿をし、もう一人は黄金の甲冑に身を包んでいる。
 突然現れた二人組は、力場を警戒するようにゆっくりとした動きで地面に降り立った。
「大丈夫のようだな。では下がっていろ」
 甲冑の男はカーズに視線をやらず、空を見上げた。炎が消えた力場の中で、兄の姿をした怪物が男を睨んでいる。
 睨み合って一分近くが経とうとした時、突然力場が大きく光り、凄まじい速度で東の空へと飛び去っていった。
「逃げたか」
 甲冑の男が呟く。
「おい、そこの少年――」
 振り返って男は絶句した。少年が地面に倒れていた。男を連れてきた魔術士がそのそばに駆け寄り、苦笑した。
「寝てるだけです。よほど怖かったのでしょうね、安心したら気が抜けたのでしょう」
 その言葉にため息をつくと、男は産まれたばかりの入り江と、タトゥス・トラウムを見た。
「これは……なんとも……」
 流れ込む波の音に、人の声が混じり出す。島兵隊が駆けつけてきた様子だった。だが男は振り返らずに、ずっと入り江を眺めていた。

       †

 意識が戻った時、最初に聞こえてきたのは子供の笑い声だった。
 小鳥のさえずり、風に木々がそよぐ音、子犬の鳴き声。平和な音たちがタトゥスの耳を心地良くさせた。子供は何を笑っているのだろう。そう思って意識をそちらにやる。
 子供の話す言葉に違和感を覚え、タトゥス・トラウムは目を開けた。
「ここは、どこだ?」
 彼は白いベッドに寝かされていた。頭上に開け放たれた窓からは陽光がそそぎこみ、そよ風がレースのカーテンを揺らしている。
「ミグか」
「その通りだ」
 間髪を入れずに返事があった。痛む体を気にしながら声の主を探そうとすると、誰かが動く気配があった。足音が近づく。
「エイグス様ですか」
 声の主が視界に入る前にタトゥスはそう言った。足音が止まる。
「何故と問われる前に答えましょう。几帳面そうで、そのくせ実体がなさそうな足音。窓の外から聞こえるミグ訛りのアークランド語。清潔で高級な家具。ミグで妻の関係者以外に私をこのような扱いをする可能性がある者。それらを考えれば貴方しかいない」
「見事だな」
 足音が再び近づき、エイグスがベッドのそばに姿を現した。家具と同じように清潔な服を着て、首元のスカーフを紋章が彫り込まれた留め金でまとめていた。タトゥスはその紋章を見て、得意げな表情を消した。
「このような姿でお目に掛かる事をお許し下さい。ルーク王守公殿におかれましては――」
「機嫌は麗しくない。そのような物言いもやめろ、お前らしくない」
「しかし貴方様は王守公という輝かしい――」
「やめろと言っている。私が王守公をやっているのは、ラカンに変わる人物が現れるまでの代理だ。お前は全て解っているのだろう。いや、解っていてわざと言っているのか?」
「では無礼な口をきいてもお許しを頂けるのですか?」
 エイグスは少し苛立ったように手を振った。
「許可が頂けましたようで。それではエイグス様、説明して頂きましょうか。これはどういう事ですかな?」
 急に態度を変えて、ベッドに寝たままのタトゥスが言う。エイグスはその変化に苦笑して、手近な椅子に座った。
「お前、やはり解って言っていたな」
「何の事だか私のような愚鈍な平民には、とんと解りませんな。普段ミグに暮らしていれば、平民としか会わず、神殿に暮らしていてさえ男爵様や子爵様しかお姿を拝見しません。伯爵様や侯爵様など雲の上の人。公爵様に至っては実在するかも解りません。さらにその上の大公様や王守公様ともなれば、神話の人物のような気分です」
 タトゥスは芝居がかった口調でまくし立てた。
 歴史が長いミグ王国では、男爵や子爵といった貴族よりも、古くから続く平民の旧家の方が裕福で発言力もあるということが多く、伯爵に匹敵する力を持った平民の富豪さえ少なくない。ミグは比較的身分制度が緩い国なのである。それでも侯爵や公爵ともなると、完全に住む世界が違い、一般人の前に姿を現す事はまれである。そして、エイグスはタトゥスが言う通り、さらにその上の身分であった。
 カーズやケッタルスがほとんど平民と同じように育てられたように、エイグスもそう育てられた。しかしルーク家は、古くよりミグの貴族である。家の決まりとして、成人まではアカソー島で平民と同じように暮らす事が義務づけられているだけである。
 エイグスの祖父の代までは、ルーク家は貴族と呼ぶのも怪しい、貧乏な男爵家であった。それをエイグスの父、ローグの尽力で子爵家へと昇格させたのだ。今でも、ケッタルスやカーズは子爵家の子息である。だがその父であるエイグスは子爵ではない。彼は王守公という位にあった。
 ミグの身分制度の頂点は王であり、その下が大公である。本来ならその下に公爵が来るのだが、ミグでは違う。大公と公爵の間に、王守公という特殊な位が存在するのだった。
 王守公とは、王城の周囲に居を構える四つの家からなる、その名の通り王を守る公爵である。いつの時代にも常に四人しか存在せず、世襲制ではない。王が自ら信用できる人物を王守公に任命し、その人物は王守公となっている間だけ、平民が持てる権力の最上位にいる事ができる。言わば彼らは、王に信頼された、『王の友人』なのである。
 エイグスはその『王の友人』の一人だった。
 一度は王守公就任を断った事もあったが、英雄ラカン・サガの死によって空いた席を、代わりの者が現れるまでの間という条件で引き受けたという噂がある。真相は明らかではないが、ミグに暮らす者のほとんどはそれを真実だと考えていた。
「で、私が王守公様のお屋敷に招かれている理由は何です。ご子息を殺そうとしたからですか? それとも、もう片方のご子息を助けようとしたからですか?」
「どちらもだ」
 エイグスは呟くと、目頭を押さえてため息をついた。どうやら疲れているらしい。
「お前、どこまで覚えている。あの島での戦いだ」
「……どこまで知っているのです? あの戦いを」
 椅子に座った貴族と、ベッドに横たわる魔術士の視線がぶつかる。先に折れたのはエイグスだった。
「探り合いは無しにしよう。今日は丁度客人が来る予定だ。彼を交えて話そう」
 その言葉にタトゥスが怪訝な顔をする。島での戦いがどうなったのかさえ知らない彼には、まったく事情が飲み込めなかった。
 タトゥスの足先で、ノックの音がした。エイグスが誰かと喋っているのを聞き流しながら、彼はくだらない事に思いを馳せた。陽光の強さから時間を考え、窓から射し込む光量で方角を考える。ノックの音のした位置から部屋の間取りを連想し、先ほどの子供の声から通りと屋敷の位置を連想する。彼は幼い頃から、常に何かを考えてきた。考える事を趣味としてきた。
 ずっと前に見たミグの地図を思い出し、王守公の屋敷周辺はどんな感じだったかと考え始めた時、部屋に新たな気配が生じた。タトゥスは考える事柄を変更した。口元をニヤリと歪ませて、言葉を放ってみる。
「このような格好で失礼を致します。貴方様のような方が、一体この男に何のご用でしょうか?」
 わずかに感嘆を含んだ吐息がタトゥスの耳に入る。実際の所、彼には誰かが部屋に入ってきた事しか解ってはいなかった。彼なりの推理で身分の高い者ではないかと判断しただけである。
 エイグスが驚いた表情でタトゥスを見た。
「お前、誰が来るのか解っていたのか?」
 まったく解ってはいない。だが――
「ええ」
 のうのうとタトゥスは嘘をついた。話術士を自称する男としては、相手に一目を置かせて会話の主導権を得るのは常套手段なのである。
 扉が閉じられる音がして、足音が部屋の中を進んで来る。
 タトゥスの脳裏に、わずかに嫌な予感がよぎった。足音の主が姿を現した。紫の長髪に、同色の口ひげ、眉間に皺を寄せ、右目には古い傷跡。がっしりとした長身。姿に見覚えはないが、タトゥスはその知識の中から該当する名を引き出した。嫌な予感は当たっていた。
「お目にかかれて光栄です、ガイア王守公様」
 十聖騎士《黄金の剣》ジークフリード・ウェン・ガイア、ミグ親衛騎団の長である。
 その男が今目の前にいる。タトゥスは表情には出さなかったが、とても緊張していた。どう喋ろうか戸惑っているうちに、ジークフリードが機先を制した。
「知っているのなら自己紹介はいらんな。では本題に移るぞ」
 ジークフリードはエイグスの勧めた椅子に座り、その横にエイグスも座る。
「アカソー島での事件、詳しく話して貰おう」
 鋭い目で見据えられ、タトゥスは言葉に詰まった。
「…………どこまで、知っているのです?」
「倒れていた貴様がタトゥス・トラウムである事。一緒にいた少年がエイグス殿の子である事。《黒き聖騎士》が瀕死の重傷を負った事。共にいたはずのケッタルスが消えた事。ノーウィンという村の被害は死人が七人、怪我人が十一人。これらを島兵隊長のミンデルという男が供述した。その他に解っている事は、エイグス殿の子や、私が目撃した情報から考えて、惨劇を引き起こしたのはケッタルスだという事だ」
「あとはお前が魔術書には載っていない魔法を使ったという事。気を失ったお前を助けたのが、ジークと宮廷魔導師のシーラム殿だったという事だな」
 探り合う必要もないと言わんばかりに、二人は持っている情報をあっさりと放出した。気おされたタトゥスがようやく絞り出した言葉は「参りましたね」という呟きだった。
「私が知っている以上の事を、お二人は知っていらっしゃる。私はなぜ自分が生きているのかさえ、今の今まで知らなかったのですから」
 そう言って彼は思い起こす。青い空、苦しい呼吸、波の音、聞こえなくなった林の音、禁呪を使えた高揚感、それを打ち砕く紅い力場――空に浮かぶケッタルスの姿を。
「ミグ国王ウィルク陛下の決定を伝える」
 ジークフリードの言葉でタトゥスは我に返った。
「陛下の?」
「アカソー島領主ガイリードの要請を受け、アカソー島は自治国ではなく、ミグ王国アカソー領となる。それに伴い、新たな伯爵家としてガイリード伯爵家を新設。初代当主及び、初代領主はガイリード伯バルトー・リュートとする。この発表は近日中に行われる」
 淡々とした言葉で、タトゥスの故郷が解体されていく。表向きは何も変わらないのだろう。だが、そこはかとない寂しさのようなものが、彼の心に染み込んでいった。
「つまりアカソーで起きた事件は、ミグの事件となる。そこで貴様に依頼がある」
 タトゥスの感情など気にも留めずに、ジークフリードは鉄のような表情で言う。
「ケッタルス・シーザー・ルークの凶行について原因を調べ、奴の所在を突き止めろ」
「……それは依頼ではなく命令ですか?」
「いや、依頼だ。だが貴様は断れんし、断らん」
 鋭い目でジークフリードは断言した。エイグスが言葉を継ぐ。
「一ヶ所からの依頼ではないんだ。恥ずかしい話だが、私は王守公で、ケッタルスはその息子だ。ミグ王国としては公にはしにくい。原因も解らんしな。目撃者も少ない。何よりも……止めれる者がいない」
「貴様が断れん理由もある。先ほどエイグス殿も言ったが、私と一緒に駆けつけたシーラムは知っているな?」
「宮廷魔導師の名を知らずに、王都で魔術士は名乗れません。顔は知りませんがね」
 答えながら、タトゥスはすでに断れない理由というのを理解していた。
「シーラムが言うには、貴様が使った魔法は魔術書には載っていないそうだ。あの威力は私も目にしたが、野放しにするわけには行かない。また、あの魔法の影響で様々な被害が出ている」
「見逃して欲しくば力を貸せ、そういうわけですな。断れない理由とやらは解りました。では、断らないという理由は?」
 それにはエイグスが答えた。
「一ヶ所からの依頼ではないと言ったろう。私とバルトーからも個人的に頼みたいのだ。あの子がお前を慕っていたのは知っている。お前がどれほどの魔術士かというのもな。私は……あの子が他人の手に掛かるよりも、お前の手で――」
「ふざけないでいただこう!」
 言葉の途中でタトゥスが怒鳴った。
「親の貴方が子を殺せと? そんな馬鹿げた事を本気で言っているのですか。弟のカーズ君でさえ、兄を止めてくれと、助けてくれと言ってきた。だから私は戦ったのだ! 子を殺したいのならば自分でおやりなさい。丁度横に豪傑で名高い十聖騎士様がいるのだ。私のような者を、泣き落としと脅しで殺し屋に仕立てるよりも、お二人が剣を振るった方がよっぽどいいでしょう」
 重い沈黙が部屋に満ちた。
 タトゥスはエイグスを睨み、エイグスは沈痛な面持ちでうつむき、ジークフリードは無表情に目を閉じていた。
 部屋にノックの音が響いたのは、一分ほど沈黙が続いた頃だった。エイグスが促すと執事らしき男が姿を見せた。話し声が聞こえないため、一段落ついたと思ったのだろう。
「お食事の用意ができておりますが、どうなされます?」
「いただく」
 短く答えてジークフリードが立ち上がる。エイグスもため息をついて立ち上がる。
「タトゥスはどうする、立てるか?」
「立ってみないと解りませんな」
 苛立った声で答えながら、タトゥスは体を起こした。全身が痛い。タトゥスは強がりながらベッドから立ち上がった。
 よろよろと歩きながら、エイグスの後に付いて部屋から出て、食堂へと向かう。
「そういえば、カーズ君はどうしたのです?」
 エイグスは振り返らなかったが、一瞬だけその雰囲気が強張った気がした。
「……ふさぎ込んでいる。何かを考え込んでいると言ってもいい。この数日、まったく喋らなくなってしまったよ」
「そうですか……ああそうだ、ノウィーン村の被害は? 先ほど死者が七人と言ってましたが」
 エイグスが立ち止まる。
「死者は七名、怪我人が十一名だ。重傷者のうちにはクルストルも含まれている」
「死者に含まれているのは?」
 廊下に重苦しい空気が満ちる。エイグスは答えない。
「村に火の手が見えましたが、出火したのはどこなのです? まさか……」
 わずかに、エイグスが頷いた。
「ではシルクちゃんも?」
 今度は深々と頷く。タトゥスは息を呑んだ。
「カーズ君はそれを知っているのですか?」
 タトゥスは少年が助けを求めて来た時の事を思い出した。その時のカーズは、シルクが死んだとは一言も言っていなかった。
「知っている。知らせた。……二日前にな」
「二日前、という事は私は何日寝ていたのですかな?」
「三日だ」
 タトゥスは悲しそうな表情をすると、少年を思ってため息をついた。少年がタトゥスに助けを求めに来た時、彼は初恋の少女の死を知らなかったのだ。兄やクルストルを助けようと必死になり、命を拾ってミグに帰り、安堵した所で知らされたのだろう。
「なんたる悲劇か……」
 エイグスは無言で背を向けている。タトゥスはその背に語りかけた。
「あなたは、知らなかったのか。知らずに、息子に恋慕の相手が死んだと告げたのですか」
「ああ」
 その返事に、タトゥスは激昂しそうになった。思わず怒鳴りそうになるのを押さえて、彼は歩き出した。エイグスを追い抜いてから立ち止まり、背中越しに言葉を投げつける。
「それが、あなたの罪です。ミグでの仕事に大義があろうとなかろうと、子を放置したあなたの罪だ」
「解っている」
「解っていません。覚えておきなさい、無知は罪です」
 まるで祖父ホリンのような口調でタトゥスは言った。
「理解する努力を怠り、理解される努力を怠った結果が、あなたの息子をどれだけ傷つけたのか……。あなたは解っていない」
 その言葉には、若輩者の生意気と一笑に付せない重みがあった。幼き日のケッタルスを知り、カーズの必死を知るタトゥスだからこそ言える、重みがあった。
「解っている……。私の愚かさは、私が一番な」
 エイグスは苦しそうに呟くと、タトゥスを追い抜いて食堂へと向かった。
 食堂に着くまでの間、二人の沈黙が解かれる事はなかった。

「それで、先ほどの話題に戻りたいのだがな」
 全員の食事が終わったのを見計らってエイグスが切り出す。
 エイグスとタトゥスは、食堂に入ってからは廊下の一件がなかったかのように、和やかな会話を演じていた。食堂にはエイグス達の他に、執事と、右頬に包帯を巻いたカーズがいたからである。
「私からの依頼は、ケッタが他人の手にかかる前に、お前の手で楽にしてやって欲しいという事だ」
「ミグ政府からの依頼は、ケッタルスの所在を突き止め、報告する事。貴様は直接手を下さずともよい」
 タトゥスは食事中一言も発さなかった少年を心配そうに見てから、はっきりと言った。
「お断りします。私は妻と共に白手神の神殿を守り、薬学を学ぶつもりです」
「できると思うか? ミグはすでに、貴様を危険な力を持った魔術士と認識している。野放しにはせん」
「どうしてもケッタを殺したいのですか?」
 カーズがわずかに反応した。目ざとく見つけたタトゥスがそちらを見ると、少年は意を決したように顔を上げた。迷いは見えても怯えは見えなかった。少年が数日ぶりに言葉を発した。
「僕がやります」
 一同の目がカーズにそそがれる。
「僕が……俺が兄さんを止めます」
 一度口にして覚悟が固まったのか、強い口調でカーズが宣言した。
 ジークフリードが鼻で笑う前に、タトゥスが助け船を出した。
「きみは一度、あのケッタの攻撃を防いでいたな」
 カーズが頷き、顔の包帯を取った。右頬には三本の傷跡が横に走っていた。ケッタルスの紅い手刀を防いだ際の傷だ。
 タトゥスが顔色をうかがうようにジークフリードを見ると、彼は今まで見せた事のない表情をしていた。いつものように眉間に皺を寄せたまま、彼はわずかに笑っていた。
「少年、貴様がデュッセルライト卿の弟子か」
 カーズが頷く。
「話は聞いた事があったな。それに一度会ったことがある。貴様がケッタルスを止めるというのか。では聞くが、止めるとはどういう事だ?」
「言葉の通りでしょう」
 答えたのは少年ではなく話術士だった。
「殺さない。殺そうとする奴に連絡もしない。ただ、止める。命があるままで、止める。兄を殺さずに助けたい、そういうことでしょう。なあカーズ君?」
 少年は嬉しそうに頷いた。
「よろしい、この依頼受けましょう」
 タトゥスは突然そう言った。
「ルーク王守公の依頼も、ガイア王守公の依頼も気に入りませんが、ルーク少年の依頼は気に入りました。私は彼の依頼を受けます。さて依頼主殿、依頼内容はそちらが兄を止める旅に同行し、知恵を貸すという事でよろしいかな?」
「はい!」
 取って付けた新たな依頼を引き受けると、タトゥスは二人の王守公を見た。
「そういう事です。ケッタルスの問題は我ら二人にお任せを。お二方はさような問題を気にせずに、今まで通り国政に尽力ください」
 その言葉に、怒り出すかと思われたジークフリードが大声で笑い始めた。親友ラカンが暗殺されて以降、一度も眉間の皺を消した事が無いと言われる男がである。エイグスは驚いた様子でジークフリードを見た。
「面白い男だ。ならばミグ王国としての依頼もそのように変更するよう、掛け合ってみよう。貴様らも費用は必要だろう。話はこれでまとまったと判断する」
 笑みを消して立ち上がると、ジークフリードはあっさりと退出してしまった。エイグスは呆然とジークフリードの出て行った扉を見ていた。
「では、具体的な話を」
「あ、ああ。しかしカーズが旅に出るというのは……」
「怖いですか? 安心なさい、この子は貴方が思っている以上に強い。それでも心配なら、今日は二人でじっくり話すといいでしょう。私も一度妻のもとへ帰りたい。よろしいですかな?」
 エイグスが頷くと、タトゥスはすっくと立ち上がった。
「それでは失礼します。ああ失礼ついでに、明日私の所へご足労願いませんか? やはりまだ体が痛い」
 苦笑いを浮かべたタトゥスが立ち上がると執事が扉を開けた。彼に先導されて長い廊下を玄関まで歩いていくと、ジークフリードが馬車を待っていた。
「貴様も帰るのか。丁度いい、一つ教えておこう。貴様が上手くやらんと、十聖騎士会議が動くぞ。我々は《黒き聖騎士》が意識を取り戻さんから、まだ動いていないだけだ」
 話しかけられてタトゥスは少々面食らってしまった。まさか王守公が天と地ほど身分の離れたタトゥスに対して、自分から話しかけて来るなどとは思っていなかったのだ。
「クルスの怪我はそこまで?」
「重傷だな。このまま死んだり再起不能となった場合は、新しい十聖騎士を探す必要が出る。その選出と前後して、十聖騎士を倒すほどの力を持った、元十聖騎士候補を討伐する話が持ち上がるだろう」
「猶予はどのくらいでしょうか」
「私の見立てだと、《黒き聖騎士》は死にはせん。いずれ意識を取り戻して再起を図ろうとするだろう。だがそこまでだ。十聖騎士として再起は出来ん。貴様らに与えられる猶予期間は、《黒き聖騎士》が意識を取り戻してから再起を断念するまでだ。長くても一年から一年半」
「それまでにケッタが姿を現さなければの話ですな?」
 魔術士の言葉に十聖騎士が頷く。
「ケッタルスが再び現れ、どこかで被害が出るようであれば、確実に十聖騎士会議は動く。本当に貴様とあの少年で大丈夫なのか?」
「先ほども言いましたが、あの子は貴方が思っている以上に強いですよ。心身共にね」
「ならばいい。短期間でどうにかできるという考えはあるのか?」
 ジークフリードの馬車が玄関前へやって来る。乗り込もうとするジークフリードにタトゥスは一応といったふうに頷いて見せた。
「ふん、では期待するとしよう。乗っていくか?」
 その言葉にはさすがのタトゥスも焦りながら固辞した。ジークフリードは特に気を悪くした様子も見せず、颯爽と去っていった。
「あの子は……」
 門を出て行く馬車を見ながら、タトゥスはひっそりと呟いた。
「周囲の誰が思っているよりも強い。だが、誰が思っているよりも、脆い」
 そっと右手を見る。タトゥスは恐怖に近い不安を感じ、軽く震えた。
「トラウム様も馬車をお使いになりますか?」
 突然背後から声が掛かった。振り向くと、杖を持った執事が立っていた。タトゥスは少し迷ってから、馬車を断った。痛む体を考えれば馬車に乗った方が楽なのだが、降りる時の周囲の視線が気になる。馬車は高級品なのだ。長距離移動の際に乗合馬車を使う事はあるが、町中を移動するための馬車は貴族や商人くらいしか使わない。そんなもので神殿に乗り付けたのでは、寄付を持ち寄る信徒たちから反感を買ってしまう。
「歩いて帰るよ」
「ではこれを」
 執事が杖を差し出す。受け取ってから、タトゥスは自分が愛用していた杖だと気づいた。

       †

 随所を金で装飾された白い馬車が、ミグの神殿通りを走っていた。王守公の馬車である。人々が何事かと思って路傍から眺める。
 ひづめの音が石畳を進む。戦神ヴィズルの神殿を越え、いくつかの武具屋を越え、黒手神ブラフィブラの神殿を越え、白手神ロウフォの神殿の前で馬車は止まった。
 二人乗りの御者台から騎士章を付けた御者が降り、馬車の扉を開ける。降り立ったのは一組の親子であった。エイグスとカーズである。馬車の後部からさらに二人、騎士章を付けた若者が降りて二人を神殿へと先導する。
 まだ正午になる前だったため、ロウフォ神殿では十人程の信徒が祈りを捧げている最中だった。エイグス達の姿をみとめて、祭壇の側にいた助祭が近づいてくる。右手にだけ白い手袋をはめているため、白手神の神官だと解る。
「タトゥス・トラウムはいるかね?」
 王守公の紋章を付けた男に言われて焦ったのか、助祭は信徒の目も気にせず神殿の奥へ駆け込んでいった。しばらくすると、赤いローブに身を包んだタトゥスが杖を突きながら現れた。両手に緑色の手袋をはめている。エイグスは怪訝な顔をした。
「お前はいつからコヨ神官になったのだ?」
 右手に白の手袋は白手神ロウフォの神官を表し、左手に黒の手袋は黒手神ブラフィブラの神官を表す。そして両手に緑色の手袋は作薬神コヨの神官を表している。教義で決まっているわけではないのだが、字の読めない人々に一目で解ってもらえるようにと、中央大陸で広まった区別らしい。もっとも、ミグの識字率はかなり高いので、この国では必要のない制度でもある。
 タトゥスは神殿の奥にエイグス達を案内しながら苦笑した。
「別に神官になったわけではありませんよ。一応信徒ではありますが、熱心でもありません」
 神殿の奥の居住空間に入る手前で、エイグスは護衛の若者に待っているよう命じた。タトゥスはエイグスの気遣いに軽く一礼してから続けた。
「この神殿で薬師をしているからですよ」
 弾劾の神、黒き手のブラフィブラと、癒しの神、白き手のロウフォは兄弟神だとされている。そして作薬神コヨはロウフォに癒しの技術を教えた薬の神とされている。黒手神と白手神、白手神と作薬神の信徒はそれぞれにお互いの教義を認め合い、協力する事が多い。信徒の少ない作薬神コヨの神官などは、大抵が白手神ロウフォの神殿に住み、共生している。大きいロウフォ神殿ともなると、必ずコヨ神官もいる。それを頼ってくる病人や怪我人も多いのだ。ロウフォ神官の癒しの魔法とコヨ神官の薬は、民衆の支えでもある。
「私は呪撃魔法を操る魔術士であり、輝光魔法を操る薬師でもある、弁舌を操る話術士ですから。どうぞ、こちらへ」
 タトゥスが扉を開けると、数名の神官が食事をとっていた。王守公の紋章を付けた男が急に入ってきたため、目を丸くして驚いている。
「ルーナはいるかね?」
 神官の一人が奥の扉を指さした。タトゥスは扉を開いて、小部屋にエイグス達を招き入れた。
「紹介しましょう。ミグ一番の美人で名高いルーナ司祭です」
 突然の声に驚いた様子で、中にいた女性が振り返った。まだ若い、美しい女性だった。
「ルーナ、紹介しよう。前に話したカーズ君と、これから私とお前とを引き裂く《風のエイグス》王守公閣下だ」
 とんでもない紹介のされ方にエイグスは眉をしかめてから、改めて紹介された女性を見た。ケッタルスのような輝く金髪に、茶色の瞳を持ったルーナは、どこか死んだ妻を彷彿とさせた。エイグスは一瞬過去を思い起こしてから、すぐ我に返って恭しく礼をした。
「ルーナ・コウェム司祭、お噂は伺っています。コウェム大司教の娘さんで、若くして数々の奇跡を使われる、ミグの宝だと」
 神官の使う輝光魔法は、神秘性を守るためにしばしば奇跡と呼ばれる。エイグスはそう言う事によって敬意を示したのだ。ルーナは微笑みながら礼をして、エイグスの言葉を訂正した。
「今はルーナ・トラウムと申します」
 彼女はあえて謙遜しなかった。若くして司祭の地位にある者が謙遜などすれば、それより低い地位の人を蔑んで聞こえる事を知っているのだ。タトゥスがそんな妻に微笑みかける。
「今日はご主人をお借りするお話をしに参りました」
「聞いております。今お茶を入れた所ですので、どうぞおかけになって下さい」
 にこやかにそう言って椅子を勧める。四人がけの小さなテーブルにカップが四つ置いてあった。客人が席に着くと、タトゥスは妻を座らせてお茶をそそいで回った。全員にそそいで席に着くと、話術士は早速しゃべり出した。
「さて、いきなり本題から入ってしまいましょう。騎士が随伴していたという事は、どうせあの派手な馬車で来たのでしょう。午後の礼拝が始まる前にさっさと終わらせて、さっさと悪趣味な馬車を神殿の前からどかしてしまわないとね。まず旅に出る件ですが、お二人で話は?」
「した。ただ――」
「父さんは渋っているけど、俺は行きます。兄さんを助けたいんです!」
「カーズ!」
 一喝してからエイグスは息子に耳打ちした。
「お前のわがままで、タトゥスと奥さんを引き離してしまうんだぞ?」
「王守公様、いいんです」
 ルーナは微笑みを絶やすことなく、優しい声音で言った。
「主人からその子を助けてあげたいと言われました。その理由も聞きました。私はそんな主人に行ってきなさいと言いました。私達はそれで充分ですから、お気遣いだけありがたく頂きます。主人をお貸しする話でいらっしゃったのでしょう?」
 タトゥスの妻は意外に意志の固い人物のようだった。言外にタトゥスが旅立つ事は決まっていると告げられ、エイグスは苦笑した。
「やはりタトゥスの奥さんですね。貴女がそこまで覚悟をなさっているのでしたら、私も息子の旅を許さざるを得ない」
 カーズが嬉しそうな目でエイグスを見上げた。エイグスは息子の頭を軽く撫でてやった。
「ご主人をお借りする以上、今後はルーク子爵家が責任を持って貴女を支援しましょう。何か望む事はありますか?」
 ルーナは軽く斜め上を見ながら少し考えるそぶりを見せた。
「じゃあ、一つ」
 視線を下げてカーズを見る。
「旅から帰って来たら、産まれてくる子供の友達になってくれる?」
 カーズはきょとんとした後、大きく頷いた。
「あと、もう一ついい?」
 視線はカーズを向いたままだった。
「タトゥスさんは、口は立つけど腕は立たないの。守ってくれる?」
「はい!」
 今度は声を出して返事をし、カーズはまた頷いた。ルーナも表情を崩して何故か頷いた。
「そんな事でいいのかね?」
「子供の友達と、主人の安全以上の望みですか? それは欲が深いですよ」
 さらりと言って、ルーナはお茶を一口だけ飲んだ。
「では欲深い私から頼みましょう」
 話術士が緑色の手袋を外しながら口を開いた。
「旅の間、神殿通りの保安隊の数を増やして頂きたい。また、各神殿に王守公付きの騎士を配置して頂きたい。妻に手を出そうとする貴族が後を絶たないと思いますので」
 エイグスは短くため息をついてから了承した。
「私が王守公の馬車で来たというだけで、手を出さなくなる者もいるだろう。なるべく私自身もここに来るようにしよう。どう旅をするのかは決まっているのか?」
「ええ。アカソー島を出てからの、ケッタ達の旅程を真似してみようと思っています。そうすれば、なぜケッタがああなってしまったのかという手がかりも見つかるかと……」
「なるほど。あの子たちは二年半の旅をしたが、傭兵をしていた期間を考えると、二年もあれば行程を追う事もできるだろう」
「できれば、バルトー様と貴方、ガイア王守公が知っている限りの情報を頂きたいのですがね」
 ちらりと妻の顔を見る。ルーナは自然な動作で立ち上がると、カーズに神殿を見せてあげると言いくるめて、二人で部屋を出た。エイグスと二人きりになり、タトゥスが真剣な顔になる。
「ケッタとクルスの旅程は勿論ですが、カーズ君についてもね」
「……何を言っている?」
「随分昔の話ですが、祖父の研究している魔術書を読んでいてどうも気になる事があった」
「だから何を言っているのだ。何の話だ?」
「封異血統の封印、記憶の封印、第三者を鍵とする封印魔法……記憶の置換。こんな事は、祖父の本来の研究とは関係がないはずです。しかし祖父はそれらを研究し――使った形跡がある」
「だから……なんだと言うのだ?」
「あくまでも隠すつもりですか?」
「知らん」
「私は前から気になっていたのですよ。ガイ・ガズスの名を皆が忘れている事がね。そして、シルクという少女」
「タトゥス!」
 エイグスが机を叩く。カップが倒れ、紅茶が机に広がっていく。
「やれやれ、また掃除をしなおさないといけない。これだから貴族という人種は困る。自分が起こした問題を、自分は知らないという面で他人に任せる。いいでしょう、知らないと言うのならばそういう事にしましょう。私が机を拭きますよ」
 タトゥスは立ち上がると、雑巾を探しだした。
「ああ、話は終わりです。適当に帰って下さい。旅立つのは明後日にしますので」
 背を向けたままそう言い放つ。エイグスは少しの間黙った後、立ち上がって退出した。扉の閉まる音を聞いてから、タトゥスはぽつりと呟いた。
「そちらが手の内を明かさないのならば、私も明かす必要はないでしょう」
 右手を眺める。どれだけ意識を集中させても、魔力が集まる気配がない。自分の体内から漏れ出しているはずの魔素も感じない。
「使えもしない禁呪を使った報いという事か……」
 表情を曇らせて、タトゥスは棚の中から積み上がった雑巾を取り出した。

       †

 輝暦二九七七年土獅子の月一日、ミグ領土となるという発表に揺れるアカソー島、イーンの町にタトゥス・トラウムはいた。旅装をととのえ、かたわらには黒髪の少年を連れている。
「ついにアカソーの自治も終わるか。暴動に発展しかねん勢いだな……」
 自分たちが出てきたばかりの建物――領主バルトーの執務室がある議事堂を振り返って、タトゥスは目を細めた。議事堂の前には、声高に抗議する人々が詰めかけていた。
「何をしてきたの?」
 外で待たせていた少年が尋ねてくる。タトゥスはバルトーから受け取った荷物を広げて見せた。それは様々な書類や手紙だった。
「ケッタやクルスがどういう旅をしたのか、それを知るための手がかりさ」
「へえ、こっちは?」
 少年が指を指したのは、小さな革袋だった。タトゥスは逡巡してから、真面目な口調で答えた。
「ノウィーン村で焼け残った物だ。きみの家と、シルクちゃんの家のね」
 少年の表情が凍る。タトゥスは革袋の口を開くと、すすのついた銀の首飾りを取り出した。
「ほとんどは、シルクちゃんの物だよ。彼女が大切にしまっておいた小箱の中に入っていたらしい。日記や手紙、宝物だけが、小箱に入って焼け残った。カーズ君、きみにその覚悟が出来たら私に言ってくれ。それまで、私が大事に持っておく」
 そう言って、カーズに首飾りを渡した。カーズはそれを見ながら、軽く震えていた。
「シルクの……」
「私とバルトー様は中身を見せて貰ったよ。……きみの事が書いてあった」
 カーズがわずかに息を呑んだ。タトゥスはいたわるように少年を見つめた。
「…………シルクは……歌が上手いんだよ、タトゥスさん。凄く、暖かくて」
 物心がつくか否かという頃には、既にカーズは母を失っていた。母の暖かさを、彼はほとんど覚えていない。
「いつも歌ってた。病気の時も、元気な時も、いつでも、歌ってた」
 水滴が首飾りのすすを流した。
「僕が嫌な夢を見ていると、いっつもシルクが母さんの子守歌で起こしてくれたんだ……」
 カーズは小刻みに震えながら、上を向いた。
「僕は強くなる。絶対に、強くなる。だから――」
 タトゥスは、その言葉を聞かないように数歩離れ、空を仰ぎ見た。青空に輝く天陽は、いつもと変わらず地上を見下ろしている。
「タトゥスさん、行きましょう」
「もう、いいのかね?」
 カーズは首飾りをつけると、その細い鎖を握りしめて頷いた。
「あのとにかく速い兄さんと同じ旅をするんなら、ゆっくりなんかできないでしょ?」
「まあそうだな」
「じゃあ行きましょう。それとも……やっぱり俺みたいな子供じゃ不安ですか?」
 その言葉に思わずタトゥスは吹き出した。
「ほう、『俺』と来たか。こりゃあ頼もしいな。私はきみに知恵を貸すくらいしか出来ん。こんな同行者は不安かね?」
「タトゥスさんはその口がある限り無敵なんでしょ?」
「その通りだ」
「それなら安心です。行きましょう!」
「ああ、行こうか」
 希望に満ちた表情で、二人はイーンの港へと向かった。かつて、ケッタルスとクルストルが旅立った港へと。
 若き英雄達の旅は終わり、英雄の伝説はいつ覚めるともつかない眠りについた。
 クルストルは眠り、ケッタルスも眠る。いずれ、自分達が再び目覚める事を信じて。
 栄光の果てに夢見た、ただ単純な幸せを求めて。
 二度と手に入らない、日常を求めて……。
――了

Web拍手を送る あとがきへ TOPへ戻る BBSへ行く
よろしければ、感想やご意見をいただきたく思います。ダメ出しも歓迎。
メール:crymson@saku2.com
著作権は全て栗堀冬夜にあります。無断で、文章の一部および全てを複製したり転載する事を禁じます。