その部屋は闇と静寂に支配されていた。
 幾年も無音を保っていた部屋に、僅かに軋む音がする。一条の光が差し込む。軋みと光は次第に大きくなる。
 扉が開かれた。
 開け放たれた扉の向こうに、松明を持った二人の青年が立っている。闇は深い。松明の明かりだけが、唯一の光だった。炎が揺れる。黄金色の髪が照らされる。炎が揺れる。漆黒の鎧兜が照らされる。炎が揺れる。風が吹いている。二人の青年は顔を見合わせると、闇の中へと踏み出した。
 大きく風が吹いた。
『誰だ?』
 風は、声だった。松明が消える。
 二人の青年は足がすくんだように立ち止まった。風が希望まで消し去ったようだった。
 大きく風が吹いた。
『何が扉を開けた?』
 今度は恐怖心を吹き飛ばされたのか、闇の中に金髪の青年が踏み出した。
「人の希望が扉を開けたぞ――」
 青年は闇の中にいるであろう、それを睨んだ。
「南の魔王よ!」
 旋風が巻き起こる。魔王が笑った。
 風はやまない。魔王は笑い続ける。
「何を笑う!」
 叫んで、黒い青年が前に出る。
 風がやんだ。
 凪になってようやく、青年達は気付いた。
 空気が重い。空気自体が、自分達を殺そうとしているかのように、鼻孔に、咽に、ねっとりとまとわりついてくる。
 息ができない。
 青年達は、震えながら立ちすくんだ。自分達がこれから挑む相手との、存在としての格の違いに、恐怖した。
 静かに風が吹いた。
『……待っていたぞ』
 言って、闇の奥で魔王と呼ばれる存在が立ち上がった。
「神よ……」
 金髪の青年がかすれた声で呟いた。生まれて初めて、神に祈ろうとした。だが彼は、祈るべき神を知らなかった。それに気付き、絶望が肥大する。
 その時、どこからともなく、彼の意識に浮かんだ名があった。
 青年はその名に祈った。
「戦神アルドノヴァよ……」
 言葉を発した瞬間、世界が歪んだ気がした。
『……その名を呼ぶか人間』
 感情の読めない声で、魔王が呟いた。
「アルドノヴァよ、力を!」
 対抗するように叫び、ケッタルスは剣を抜いた。


《偽章》長き前奏曲
第四話「若き英雄の帰還と、少年の決意」


「それでは、フェルドラント・アップクリフの亡命申請は却下という事でよろしいか?」
 アカソー島議会にバルトーの声が響く。議員達は誰も異議を唱えない。国主に遠慮をしているのではない。彼らは言うべき時にはきちんと発言をする。つまり今回の議会は誰も異論が無いという事だ。
「よし、それでは却下という事で、代理人に伝えよう。代理人は誰だ?」
 バルトーが資料を持った青年を見る。
「えっと、ミグ王都ミグ・ラムの白手神ロウフォ神殿の……あ」
 青年は資料に書かれた名を見て、恐る恐る顔を上げた。
「タトゥスです」
「あの問題児か! まったく、数年ぶりに名前を聞いたと思ったら、島を出てもまだ問題を持ってくるか。……まあアップクリフの友人となると奴しかおらんか。ではタトゥスに却下と書状を送ってくれ。却下理由について説明する必要は無い」
「島を出て行ったとはいえ、元は同じ島で暮らした者を拒むのは、あまりいい気分ではありませんなあ」
 初老の議員が呟く。それを耳にした壮年議員が白い目を向ける。
「かといって受け入れるわけにはいかんでしょう。大国とは係わり合いにならん方が良い。そうして我々は生き延びてきたんですから」
 ささやかな口論をよそに、議員の中には帰り支度を始めた者もいる。今日はあと十分もしないうちに閉会されるとふんでいるのだ。バルトーも頃合と、閉会の言葉を言いかけたその時であった。
 突然、大扉が開かれ、息を切らせた男が駆け込んできた。
「バルトー様、大変です!」
 皆の注目を集めた男が、バルトーの側へ駆け寄る。
「ク、クルストル様が……」
 バルトーが弾かれたように立ち上がる。議員達は国主の一人息子に大事があったのかと、顔色を失った。駆け込んできた男は、息が上がっていて言葉が続かない。バルトーはにわかに焦りながら続きを待った。
「クルストル様が……魔王を倒したそうです!」
 誰も予想しなかった言葉だった。ケッタルスとクルストルが旅立って、二年半しか経っていない。魔王を倒すと意気込んでいたのは知っていても、実際に行動に移すとは思っていなかった者も多いのだった。
 バルトーは、呆然といった風に固まった。その後で、嘘ではないかと疑い始めた。
「どこからの情報だ?」
「船乗りが持っていた紙です。ミグで配られていたと」
 男の言葉を裏付けるように、議場にまた新たな報せがもたらされた。持ってきたのはバルトーの執事である。
「議会中に失礼します。先ほど魔導師を名乗る方から、旦那様に緊急でお渡しをというお手紙を預かっております」
 普段なら緊急の手紙でも、議会が終わるまで待ってから渡すものである。この執事が通例を破って持ってきた手紙、バルトーのみならず議員達もその内容が気になった。
「開封して、差し障りがないと判断したなら、皆に聞こえるように読んでくれ」
 主人の言葉どおりに執事が手紙を開ける。手紙の内用に目を通すと、冷静な執事の顔に僅かな驚きが浮かんだ。
「読みます。輝暦二九七七年黒魚の月十八日、ケッタルス・シーザー・ルーク、クルストル・ラーグ・ガイリードの両名より、アラニスの四魔王が一人、南の魔王を討伐したとの報を受けた。これに対し十聖騎士会議は、十聖騎士《黒薔薇公》を派遣し、確かに魔王が滅ぼされたことを確認した。以後、十聖騎士団及び十聖騎士《暁の剣聖》、《焔魔》、《銀の剣》の三名を派遣し、魔王の領域の平定に向かう。アカソー島の近海を十聖騎士団の船が通過する可能性もある。その際には許されたし。なお――」
 執事はそこで一旦言葉を切った。皆が身を乗り出すのを待って、再び読む。
「輝暦二九七七年精霊の月十五日、十聖騎士会議は貴殿の息子、クルストル・ラーグ・ガイリードを十聖騎士に任命した」
 議会がざわめく。
「貴殿の息子はそれを拝命し、十聖騎士《黒き聖騎士》として我等が末席に加わった。父上たる貴殿に連絡が遅れた事、申し訳なく思う。こちらでの式典や雑務は全て終了した。《黒き聖騎士》には魔動高速船を貸し出したゆえ、近日中にはアカソー島へ戻るだろう。暖かく迎えてやって欲しい。輝暦二九七七年炎の月一日、十聖騎士長《騎士皇》アーサー・ド・ラルクヴァール・シルトゥーク三世」
 手紙を読み終えた執事が主人を見る。バルトーはよろめくようにして、議長席に座った。顔はいまだ呆然としたままである。執事が優雅に笑った。
「おめでとうございます」

       †

 ミグ最北端の港町ディ・ラムに、アカソーへ向かう帆船が停泊していた。乗組員らしき男が船が出ると叫んでいる。見送りの人垣を掻き分けて、背負い袋を持った少年が走る。黒髪黒瞳の少年だ。
 間一髪のところで船に飛び乗ると、少年は軽く息を吐き出して空を仰いだ。雲一つない青空に、力強く天陽が輝いていた。少年は嬉しそうに伸びをした。船が出る。
 少年の視界の端に赤いものが踊った。そちらを見ると、真夏だというのに真っ赤なローブを来た男が、港へ向かって手を振っている。服の色もあってか、妙に陽気に見えた。少年は引き寄せられるように、ローブの男の側へ歩いて行く。男が手を振っている相手は、どうやら見送りに来た女性のようだった。少年はその女性に見覚えがあるような気がした。既に港を離れて行く船からでは、その顔がはっきりと見えない。少年が思い出そうとしているうちに、ローブの男が手を振るのをやめた。振り返った男と少年の目が合う。男は笑顔を浮かべた。
「きみもアカソーへ?」
 少年は頷いた。
「ふむ、観光かね?」
 少年は首を振った。
「ならば里帰りかい?」
「はい」
 ようやく声に出して返事をした。
「おお、私も同じだよ。私はタトゥス・トラウムと言う。同じ船に乗ったのも何かの縁だ、よろしくな」
「あ、カーズです。カーズ・リム・ダグス。よろしくお願いします」
 差し出された手を握って、カーズは言った。二人はお互いに不思議そうに首をかしげた。
「きみの名前には聞き覚えがある」
「あ、僕もです」
 二人は首をかしげたまま、記憶の糸を探った。
「あっ! トラウムって、ひょっとして……ホリン様の――」
 《赤き魔導王》ホリン・サッツァ・トラウム。世界一高名な魔導師である。彼も、目の前のタトゥスと同じく赤い色のローブを着ていた。
「ん、じいさんを知ってるのか? じいさん? ……ああ、そうか、きみはひょっとしてルーク家の子かな?」
 カーズが頷く。
「という事はケッタの弟かね?」
「兄さんを知ってるんですか?」
「知ってるも何も、私がアカソーにいた時には、あいつらが『トラ兄トラ兄』と後をついて回ったもんだよ」
 トラ兄、言われてみればカーズもその名を聞いた事があった。兄が慕った数少ない人間である。カーズはタトゥスの顔を見た。
 頬骨の浮き出た痩せた顔に、太い眉と力強い瞳、健康的とも病的とも取れる顔である。この自信に満ちた笑顔がなければ、恐らく陰気だと思われるだろう。
 長い黒髪を後ろでまとめ、耳の前にはもみ上げなのか伸ばした髪なのか、よく解らないような束が、長く鋭く垂れ下がっている。左右両方の長さが綺麗に揃っているので、意識して手入れしているのだろう。しかしカーズが気になったのは年齢だった。どう見ても兄の話に出てきた『トラ兄』とは年齢が違うように思えた。
「あの、タトゥスさんは……お幾つなんですか?」
「二十三だ」と、どう見ても三十にしか見えない男が言う。
「老け顔なのでね。妻にも最初はおじさま呼ばわりされたよ」
 そう言ってため息をつくが、雰囲気は笑っている。
「そういうきみは十六くらいかね?」
「いえ、十二です」
「嘘は良くない」
 タトゥスは即座に言った。本当にカーズは、先月の九日に十二歳になったばかりである。しかし、やはり十二歳らしくない雰囲気を持っているのも確かである。結局二人は、お互い老けて見えるという情けない結論で痛み分けとした。
 カーズは再びタトゥスの格好を見た。手も足首も隠れるような真っ赤なローブを着ているが、手には何も持っていない。
「タトゥスさんは……魔術士なんですか?」
「魔術士だが、話術士でもある」
「話術士?」
「さらに薬師でもあるし、呪符使いでもある」
 カーズの疑問はタトゥスの言葉に遮られた。タトゥスはさらに続ける。
「魔術士と言っても、ただの魔術士じゃない。呪撃魔法と輝光魔法の他に禁呪も使えるぞ」
 得意げなタトゥスを見て、カーズは話術士とはつまり、お喋りなのだと勝手に納得した。それよりも、タトゥスの言った呪撃や輝光という単語が興味を引いた。
「その何とか魔法っていうのは何なんですか?」
 少年の言葉に、タトゥスはニヤリと口の端を歪ませた。待ってましたと言わんばかりの笑顔だ。
「五法という言葉は知っているかな?」
 カーズが首を振る。
「魔法と単純に言うが、魔法とは五つに大分類されるのだよ。竜やドラグナイツの神官が使う『竜魔法』。神や高位神官の使う『神聖魔法』。神聖魔法の簡易版が、破壊や乱す力を持つ『呪撃魔法』と、修復や調和の力を持つ『輝光魔法』。後は精霊の力を借りる『精霊魔法』だな。これらをまとめて五法と呼ぶ。ここまでは解るね?」
「タトゥスさんが使うのは呪撃魔法と輝光魔法ですよね」
「そう。古代にはもっと色々な魔法があったらしい。私やじいさんはその研究をしている。じいさんは古代の魔術を元にした呪符魔術を編み出したし、さらに高等な古代魔法の解読をしているのだよ。ここまでで解らない事は?」
 カーズは少し考えるそぶりを見せた。
「二つほど。古代の魔法と古代の魔術って言い分けてたみたいだけど、違いってあるんですか?」
「良い所に目をつけた。魔法というのは、魔法全体を指す言葉だ。魔術は魔法を使うすべ、どう使い、どう進化させるかという事だ。つまり、手の平ほどの火の玉を出す魔法がある。ちょっと待てよ」
 そう言って、タトゥスはローブの中から小さな石を取り出した。
「フリート・フリート・イル・アラ・フリート、具現せよ――《フリート》」
 タトゥスが手の平から火の玉を出現させる。
「これが通常の呪撃魔法だ。そしてこれを――」
 火の玉を握りつぶす。ゆっくり手を振り上げたかと思うと、手刀の形にしながら勢い良く振り下ろす。ほんの一瞬、手刀の先から炎が噴き出し、炎の剣のような形となった後、消える。
「これが魔術。同じフリートという魔法に、ほんの少し魔力を与えて作り変える。しかしこれはフリートという魔法のままなんだ。解るかね?」
「形とか強さが変わっても、同じ魔法。どう使うかを決めるのが魔術……?」
「飲み込みが早い。どうだ、魔術士になるか?」
 タトゥスは嬉しそうに笑った。カーズはまんざらでもなさそうだった。
 今度はカーズの番だとタトゥスがうながし、しばらくはカーズが自分の事を話していた。話す事も尽きた頃、ふと思い立ったようにカーズが聞いた。
「そういえば、タトゥスさんは何をされてる方なんですか? 魔術士ってどういう仕事を?」
「……今か、今は…………まあ神官の手伝いみたいなものをしながら……」
 言葉を濁す。タトゥスは逡巡した後、苦笑して言葉を続けた。
「隠してもしょうがないな、妻が神官なのでその手伝いをしながら、禁呪の研究をしている」
「禁呪?」
「そう、禁じられた魔法だ。何らかの理由があり、歴史に葬られた魔法や、伝説の中にしか見られない魔法を復元している」
 一度覚悟を決めると、タトゥスはひたすらに喋り続けた。
「各地に伝わる伝説や伝承、遺物や遺跡などから、魔法の存在を探し出し、その効果や呪文――ああ、呪文の説明をしていなかったな。魔法を発動させるには呪文と呼ばれる言葉を詠唱してから、その魔法の名を言う必要がある。呪文を唱える事によって、その魔法を理解した事にするのだ。高位の魔術士や、一つの呪文を研究し続けている者が、その魔法をきちんと理解していれば呪文の詠唱を短縮したり、詠唱なしに魔法を使うことも可能だ。まあこんな事が出来る魔術士は少ないがな。こうなったら魔法を唱える時のしくみから教えようか?」
 カーズは圧倒されながら頷いた。
「よし、それでは教えよう。まず、人間に限らず、全てのものは魔力を持っている。個体によって大小が分かれるがな。生き物の場合は、呼吸をすることによって、体内から徐々に魔力が滲み出る。それを魔素という」
 カーズが何も聞かれていないのに頷く。
「神や竜などの強すぎる力を持った者の周囲には、凄まじいまでの魔素が満ちていると言われている。強大な魔物や精霊などでもそうなるらしい。人間の場合は、魔法を使うと一気に魔素が噴き出す。魔法の強さによって違うが、強力な魔法を使うと、それだけ魔素が噴き出てしまうわけだ。そうなると、その魔法を使った者は魔力が少なくなってしまう。ついでに言うと、魔法を使う事は結構な精神力を必要とする。魔力が低下していたり、精神力が低下していたりすると、魔法は使えんわけだ」
「でも、魔法を使って魔力が減るんだったら、一生のうちに使える回数ってあるんじゃないの?」
 つい口を挟んでしまう。タトゥスは、その合いの手を待っていたと言わんばかりに、また喋りだした。
「寝ればいい。体の疲れが寝て回復するように、魔力も回復する。体力と魔力は似たようなものだ。鍛錬すれば上がるし、下がる事もある。人それぞれ、生まれついて体力があったりなかったりするように、魔力も個人差がある。魔力が生まれつきずば抜けて高かった者は、魔術士になる事が多いな。まあとにかく、魔法を使うと魔素が噴出する、これはわかるな?」
「はい」
「よし、それじゃあ次だ。呪文を詠唱している段階から、魔素は体からあふれ出している。この時点での魔素は、正確にはまだ魔素ではない。言わば、体外に出た魔力といったもんでな、これが結構な役に立つ」
 タトゥスは少し言葉を切った。疲れている様子は無い。むしろ逆に調子が良さそうだった。
「この時の魔素はな、盾になるのだよ。魔法障壁と言われるのだがな、魔法の強弱によって、その詠唱中にあふれ出す魔素の量も変わる。でかい魔法を使う時なんぞ、矢で射掛けられても大丈夫なくらいだ。世の中には魔素が見える人間もいてな、そういう人種は相手からあふれる魔素で力量を判断するのだよ」
「魔素が見える……? 見えるってどんなふうに見えるんだろう」
「難しい事を聞くなぁ。見えるというか解るんだよ、空気中にどれだけ魔素が含まれているかというのが、なんとなくな」
 まるで見えるかのような口ぶりである。
「ひょっとして?」
「私は天才だぞ少年、見えて当然だ。きみの魔素も見えている。だからこそ、さっき魔術士にならんかと聞いたのだよ」
「僕に魔力があるの?」
「魔力は誰にでもある。きみには、強い魔力が秘められているというわけだよ。しかし惜しいな、きみが剣という道を選んでなければ、私が魔法を教えたところなんだが……そういえば、聞き忘れていたが師は誰だ?」
「ラカン先生と、ヴァン師匠です」
「聖竜の騎士か! そりゃあ剣にのめり込むわけだ、いい先生を持ったな。もう一人のヴァンというのは誰だね? 聞いた事がないが」
「えっと、ヴァンドルフ……デュッセルライトだったかな?」
 二年の間師事を受けたが、師は自らをヴァンと名乗り、苗字で名乗る事が無かった。おぼろげな記憶で言ってみたが、タトゥスにはそれで思い当たる人物がいたらしかった。
「ヴァンドルフ!? 暁の剣聖か?」
 カーズが頷くと、タトゥスはため息をついた。
「なるほどな、あのヴァンドルフの弟子なら魔力があっても当然か。ますます魔術士は無理じゃないか」
 少年の不思議そうな顔を見て、魔術士も不思議そうな顔をした。
「まさか……ヴァンドルフの剣名技を知らんのか? ヴァンドルフ・デュッセルライトという男はな、歴代の十聖騎士の中で唯一封異血統を持たないのだ。その代わりに、数々の剣技を編み出しているという。その一つが剣名技と呼ばれるものだ。独特だぞ? 確か、『体内の魔力を自分の意思で噴出させ、闘気と共に剣に込める』だったかな。でたらめな技さ。五法に含まれない、まったく新しい魔法とさえ言える」
「じゃあ、僕にもそれが使えるようになるのかな?」
 目を輝かせて言う少年を見て、タトゥスは魔術士に勧誘するのを諦めた。
「なるとも」
 タトゥスがそう言うと、カーズは心底嬉しそうだった。
「おっと、話がそれてしまったな。魔法の話に戻るかね?」
「はい!」
 元気良く答える。タトゥスは「明るい少年だ」と思いながら、優しく微笑んだ。
「まず、魔法を唱えるには精神の集中が必要だ。体の一部に魔力を集中させ、そこから魔法を発動させる。しかしそれは難しいのだよ。人間には五感がある、常に集中を妨げる何かを感じ取ってしまう。五感を遮断でも出来ない限り、よほど簡単な魔法じゃないとそんな芸当はできない。そこで必要になるのが杖や石英だ」
 カーズは魔法使いが杖を持っている絵を想像した。あの杖には意味があったのだ。
「私の杖は荷物の中にまとめてしまっているがね、石英なら、ほら」
 手を開く。魔法と魔術の説明をした際に使った石が乗っている。小さな、白く濁った透明な石だ。
「本当なら水晶や、魔晶の方が良いんだがな。普通の石英じゃ、簡単な魔法にしか使えないんだよ。魔力を集中させたら砕けてしまう事もあるしね。さっき万物に魔力は宿っていると言ったね? こういった石英には、他の石よりも魔力が多く含まれている。だから魔法を使う時に石英があると、魔力を上乗せして使えるのだよ。魔力増幅にも、魔力集中にも使える、便利な石だ。この濁っているのが無く、澄んでいれば水晶と呼ばれるのだが、やはりそちらの方が良い物だ。さらに水晶の中でも特別な魔晶がある。この辺りになると、めったに見つからないし、市場に出回っても高い。だから、魔術士は石英を使うのだよ」
 そう言ってカーズに石英を差し出す。
「これはきみにあげよう。もう何度と使えない代物だけど、お守りくらいにはなるだろう」
 カーズは嬉しそうに受け取ると、宝物のようにズボンのポケットに入れた。タトゥスはズボンにポケットがあるのを見て、なるほどと頷いた。よく見ればカーズの服装はズボンと半袖のシャツだけだったが、両方とも安い品ではなかった。一見地味に見えるが、意匠と機能性と丈夫さをあわせ持っている。文明国であるミグらしい服だ。それを見て、なるほど貴族の息子だな、とタトゥスは思ったのである。アカソーの子供ならば、もっと簡素な服を着るものだ。
「あ、でもこれが無かったらタトゥスさんが魔法を使えないんじゃ?」
 カーズに言われて、タトゥスは吹き出した。
「貴族の坊ちゃんなのに、中々気を遣ってくれるじゃないか。大丈夫、まだまだあるよ」
 ローブの中からさらにいくつもの石英を取り出す。黄色や赤、緑色と取り出され、まるで宝石のようだった。
「うわ、魔法のポケットみたいだ」
 カーズがそう言うと、タトゥスは笑い出した。
「そうとも、私は魔法使いだからな」
 二人が笑っていると、にわかに甲板に人が増えてきた。
「ほう、もうセ・リン島が見えてきたのか?」
「えっ!?」
 セ・リン島とはミグ王国領内で人の住む最北端の島である。カーズの知る船では、ミグを出てセ・リン島を越えるまでに一日は掛かっていたはずである。まだこの船はミグを出て四時間も経っていない。
「ん、その様子じゃしばらく船には乗ってないな? 最近のミグの船は魔動高速船が増えているんだ」
「魔動……?」
「おお、魔術士が乗り込んでな、魔法の力で無理やり進む速度を早くするんだ。だからミグの船は世界一速い。呪撃、輝光、精霊のうち、どれかを使える奴が二人ほど乗り込むんだがな、この船には多分四五人乗っているんだよ。ほれ、ケッタが凱旋するだろ? そのためにミグ政府が特別に用意したんだろう」
 無論、魔法を使って船を加速させるには、相応の魔力が必要になる。術者の力量もかなり必要だ。魔術士見習いなどが数人がかりで動かす事もあるが、どちらにしても人件費はかなりの額になる。そうなれば船賃も半端な額にはならない筈である。だが、船賃は通常の二倍以内に収まっている。
 ミグ王国には自負がある。世界で一番古く、一番文明が進み、一番魔法技術が優れているという自負がある。そしてそれを他国に見せつける必要もある。余計な争いを避けるため、様々な交渉や貿易を有利にするため、ミグは優れた国であると他国に解らせなければいけない。その政策の一端が、この高速船である。魔動高速船はミグが開発し、友好各国に数隻が与えられている。魔動高速船はその友好国でさえ、急使や王侯の専用となっている。
 これほどの物を、一般の船より少し値が張る程度の料金で運航することによって、魔法技術も経済力も高いと見せ付けているのだ。魔術士に掛かる人件費や、船を作る費用は大半を国が負担している。他国に見せるための虚勢ではあっても、裕福だと言われるミグ王国にそのくらいの余裕があるのは事実であった。
「えっ、じゃあアカソーまでだと……何日で?」
「魔道高速船なら大体四日とかからないな」
 通常の帆船ならば、一時間に十キルほど進む。最高速度でも一時間に二十キル程度である。二年前、カーズがアカソーからミグへ行った時には十日近くかかったものだ。
「しかし、おかしい」
「何が?」
「いくらなんでも速すぎる。魔動高速船でもセ・リン島には十時間近く掛かるはずだ。普段よりも倍近い速度が出ている。普段の高速船なら一時間に三十キルは進むと言われているが、それよりも速いとなると……凄まじいな。船体が持たんぞ? ……となると、船体保護用の魔法をかける術士も必要になる……その上で持続させるとなると…………」
 ぶつぶつと計算をして、タトゥスはわずかに驚いた顔を見せた。
「これは四五人ではすまないな……最低でも十人。精霊魔法で風を操作する者が二人。輝光魔法で波の流れに干渉する者が二人。呪撃魔法で推進力を発生させている者が二人。船底にある魔動装置に魔力を注ぎ込む者が二人。船全体を保護する魔法をかけている者が二人……まだいるかも知れんな。なるほど、各国からアカソーへ祝いに駆けつけた賓客達にミグの力を見せつけるつもりか。本当に戦争が近いかも知れんな……。いや、動力ための人員に要人護衛の任も与えているのか?」
 タトゥスの言葉は途中から独白に近かったが、カーズは戦争という言葉にかすかに反応した。
「ミグには十聖騎士ガイアがいる。今はヴァンドルフ・デュッセルライトもいる。十聖騎士二人となると、それだけで手出しはしにくくなるな……」
「ヴァン師匠はもういないよ」
「何?」
「きな臭くなるから旅に出るって言ってた」
「賢明だ。ラカン・サガが殺されてから、ミグはやけに好戦的になっている。このままだとデュッセルライト卿の名が戦争に利用されるだろう」
 ラカン・サガの死、カーズの表情が微妙な変化を見せた。タトゥスは目ざとくそれを見とめ、わけを悟った。
「すまん、ラカン・サガはきみの先生だったな。軽率だった、許してくれ」
 一回り近く歳が離れた少年に、タトゥスは臆面もなく頭を下げた。
「いいんです。もう……耐えられるようになりましたから」
 頭を上げたタトゥスは、少年の表情に違和感を覚えた。そして一つの噂を思い出す。
「まさかきみは」
「ええ、僕が暗殺現場の…………」
「やはりそうか、本当にすまない」
 タトゥスは深々と頭を下げた。下げながら、少年が妙に歳を経ているように感じた理由を悟った。彼は歳に似合わない、憂いじみたものを持っているのだ。
「いえ、大丈夫……。大丈夫ですから頭を上げてください」
 カーズは慌てたようにタトゥスに言う。声や動作は明るいが、タトゥスは彼の顔にある陰りに気付いていた。
「本当にすまなかった。……そろそろ日も遠ざかった、船室に入ろうか」
 そう言って、今日の会話の終了を告げた。

       †

 その夜は雨が降っていた。石造りのミグの町並みに雨音が響き、音と気配をかき消していた。ルーク家から随分と離れた人気の少ない一画に、幼いカーズの姿があった。
「そこにいるのは誰だ! ……子供? カーズ君?」
 背後からラカン・サガが歩いてくる。
「こんな時間にこんな所でどうした? もう少しで見回りも終わる、送ってあげようか?」
 優しい、懐かしい声だ。カーズは自分があの日の夢を見ていることを自覚していた。カーズが振り返ると、頭まで外套で覆ったラカンが微笑んでいた。
(先生、後ろです! 逃げて!)
 そう叫んでも、夢の中の自分は口をつぐんだままだった。ラカンの後ろに別の外套姿が見えた。今のカーズは知っている、その男が暗殺者だということを。だが当時のカーズは男がラカンの親友、今は十聖騎士のガイア卿だと勘違いしたのだ。
「カーズ君、それは真剣じゃないか」
 ラカンがカーズの腰に下がった真剣を見咎める。日頃からラカンは剣の生徒に真剣を持たせようとはしなかった。
「いつも言っているだろ? それは人を殺す道具だ。殺す覚悟と責任を負う覚悟がなければ触れることさえ許されない。なぜ剣を持っているんだい?」
 いつになく真摯な表情でカーズの肩に手を置いて、目線をカーズに合わせる。そうしている間にも、外套姿はラカンの背に忍び寄っている。
(嫌だ!)
 夢の中でカーズは目を閉じた。何も見えない、何も聞こえない。しばらく経って、もう目を覚ましただろうと思い目を開ける。
「ラカン!? ラカァンッ!」
 まだ悪夢は続いていた。血と雨に濡れたラカン・サガが石畳に横たわっている。カーズはその横で、血の付いた剣を握って座り込んでいた。路地からガイア卿が走ってくる。
「どうした、何がっ!」
 一目見て致命傷だと解ったのだろう、ガイア卿は膝から崩れ落ちた。かろうじて息のあったラカンは、そんな親友に苦笑を向けた。
「ナギの、暗殺者だ」
 カーズは驚いたように師の顔を見た。師は暗殺者が現れてからの全てを隠そうとしている。
「先生」
 ラカンは苦しそうにカーズの顔を見つめると、いつものように微笑んだ。
「カーズ君……シオンの、友達で、いてくれ」
 それがラカン・サガの最期の言葉だった。
(嫌だ嫌だ嫌だ! もうこんなの見たくない! 嫌だ!)
 また、カーズは夢のなかで目を閉じた。もう絶対に目は開かない、覚めない悪夢なら目をつむり続けてやる。そう決めて心を閉ざす。
「風に――」
 不意に、歌が聞こえた。幼い少女の声だ。
「風に踊る黒い髪、海を駆け、空を駆け、大地を駆ける――」
 懐かしい歌だ。カーズが幼い頃に聞いた、亡き母の子守歌。今それを歌えるのは、カーズと幼馴染の少女だけだった。
 恐る恐るカーズは目を開けた。そこは、アカソー島のノウィーン村だった。林の中の秘密の場所で、白い髪の少女が歌っている。いつも悪夢を追い払ってくれるのは、この少女の歌声だった。
「あ、カー君起きた」
 透き通るような白い肌と、消えてしまいそうな白い髪。
「おはよう、シルク」
 生まれつきの病気にかかっている少女は、賢者ホリンによってシルクと名付けられた。異国の名前らしい。シルク自身はアカソー島には存在しない名前と、同じく存在しない肌と髪の色を酷く嫌っている。元々はアカソー首都イーンの生まれで、当時ケッタルスやカーズが住んでいた家の隣だったので知り合ったが、仲良くはなかった。少女が他人に怯えていたからだ。カーズが父に連れられてミグに去った後、隣人一家は目立つことを避けて農村ノウィーンに引っ越してしまった。
 今は再びカーズの隣人である。ラカンの死後、ミグからアカソーに戻ってきたカーズを気遣ったケッタルスが、ノウィーン村に引っ越しをしたからだ。その際に村人との折り合いを付けてくれたのが、シルクの一家だったのだ。
 シルクの隣家に越してきたカーズは、以前とは違い、深く傷ついて心を閉ざしていた。
 他人に怯える少女と、心を閉ざした少年は、ぎこちないながらも徐々に友情を育み、今ではお互いと家族にだけ笑顔を見せるようになっていた。
 シルクはカーズから教わった子守歌を一度で覚え、以降カーズがうなされていると必ず枕元で歌ってくれた。いつも悪夢からカーズを救ってくれるのはシルクだったのだ。例え夢の中で見た悪夢でも、シルクはいつでも歌ってくれた。
「歌って?」
 促されてシルクが再び歌い始める。それを聞いて、カーズは安心して目を覚ました。

       †

 船がアカソー島に着いたのは翌々日の朝であった。
 この短期間でミグから来るとは誰も予想していなかったのか、船が着いた時には、港の誰もがどこの船か解らなかったという。
 カーズは船から降りると、タトゥスを振り返った。赤いローブの男は、今日も相変わらず赤かった。
「タトゥスさんはこれからどうするんですか?」
「そうだな、ケッタの船が到着するのはいつだったかな?」
 タトゥスは港を見回す。沖合いに何隻か魔動高速船が泊まっている。アカソーの小ぶりな港では入りきらなくなって、仕方なく沖で停泊しているのだ。魔動高速船の数だけ各国から賓客が来ている事になる。
 中央大陸以外の国では魔王討伐の報は広まりにくく、また自分達に実害が無かったので、討伐に大した意味も持たない。よって、賓客はほとんどが中央大陸の者であった。だが、中央大陸のほとんどの国は魔動高速船を持たない。
 既に敵対関係にあるナギ王国以外で、ミグを攻める可能性が高いのは中央大陸の国である。ミグはそれらの国に対して、力を見せつける必要がある。一部の国はミグより魔動高速船が贈られたが、その技術を解析したとしても解るのは、ミグの魔法技術の高さと裕福さのみである。
 ミグと友好条約を結んでいない国などは、ミグから魔動高速船を贈られた国の船に便乗して、わざわざ祝いに駆けつけている。どの国も、アカソー島がミグ王国の一部となりそうだという事は、薄々察しているのだ。もしそうなった時に、新しい十聖騎士からの心象が悪くては困るという国もある。魔王を退治した最年少の十聖騎士の誕生。その帰還式典には、ミグから高官が送りこまれて当然だと思う国も多い。その高官に取り入って、ミグと良好な関係を築きたいという国や、逆にミグの力に探りを入れようという国。様々な思惑が、英雄の帰還を祝うという名目で集まっていた。
 タトゥスは、その太い眉の間に皺を寄せて、頷いた。
「既にこれだけの船が揃っている。こうなれば今日明日にでもケッタとクルスは帰って来るんだろうな」
 カーズが問うようにタトゥスを見た。
「いつ帰るか解らん奴のために、虎の子の魔動高速船と高官を派遣する馬鹿はおらんよ。見たところ、ミグが魔動高速船を与えた国は、十聖騎士会議のあるアヴァロン以外、既に全部出揃っている。これ以上来る可能性は少ないだろう。という事はだ、どの国も十聖騎士ガイリード卿の帰還予定日を計算して来ているという事だ」
「そんな事出来るの?」
「簡単な事だよ。中央大陸の連中はミグの友好国や大国の動きを見ていれば良いんだ。その国々ならば、独自に知る方法を持っている。ミグ王国との連絡であったり、魔導師の存在だったりするがね。どんな鈍重な国でも、大国との関係を深める時には過敏になるさ」
「って事は、兄さんはすぐに帰ってくるんだよね? じゃあ式典もすぐ?」
「だろうね。ケッタ達もアヴァロンの魔動高速船で来る可能性が高い。私は友人に頼まれた用があるから、バルトー様に会って、それから用事を済ませてからノウィーン村に戻るとしよう」
 《東の町の北の村》という明瞭な名を持つその村は、カーズとケッタルスの家がある村であった。タトゥスも同じ村で育っていたのだ。同じ村と言っても、タトゥスの一家は村から少し離れた所に居を構えていたらしく、カーズはタトゥス一家の存在さえ知らなかった。この船旅で、実はケッタルスとクルストルはタトゥスを知っており、よく遊びに行っていたという事が解ったくらいである。カーズは兄が誰かから魔法を教わっていたのは知っていたが、その相手までは聞いていなかったのだ。
 兄がタトゥス達に会いに行っている時は、大抵カーズは隣家に預けられていた。隣家の主人は面倒見が良く、一人娘もカーズと同い年だったために、まるで息子のように可愛がってくれた。カーズが壁を作っていなければ、カーズも親のように慕っただろう。
「カーズ君はどうすのかね? このイーンで待つか、ノウィーンに戻って初恋の子に会うか」
「タッ、タトゥスさんっ!?」
 カーズは真っ赤になって狼狽した。
「おや? ティムの家のシルクちゃんが初恋の子じゃなかったのかね?」
 タトゥスが意地悪そうに言う。
「そんな事無いよ! 別にシルクなんか!」
「ほう、私の情報を甘く見るなよ少年。何せ情報源はきみのお兄ちゃんだ」
「なんでそんな事覚えてるんだよっ! 僕が兄ちゃんに言ったのなんて何年も前だよっ!?」
「ハッ、このタトゥス・トラウム、甘く見られたものだ! 天才たるもの、近所の子供の弟の初恋の相手くらい覚えているさ!」
「普通忘れるよ!」
「甘い甘い、私は普通じゃないのだよ」
 そう言ってタトゥスはニヤリと笑った。
「子供は素直が一番だ。さて、私はもう行くよ。ノウィーンに戻るのは……そうだな、あ、そこのきみ」
 タトゥスは通りがかった船乗りを呼び止めた。
「ノウィーンの船着場はまだあるのかね?」
「趣味で漁やってる爺様達のか? ああ、まだあるんじゃねえか? 爺様がた、たまに魚売りに来るからな」
「ほう、あの老人達はまだ元気なのか。ありがとう」
 船乗りはどういたしましてと笑って去って行く。
「よし、あの船着場があるなら、今日の夕方までにはノウィーンに行けるぞ」
「ノウィーンに船着場なんてあったっけ?」
 ノウィーンは首都イーンでは農地が少ないと、農民達がイーンの北西に作った村である。海のそばにはあるが、船着場があったかどうかなど、カーズは覚えていなかった。そもそも農地を確保するために作った村なのだから、漁をするとも考えにくい。
「あるんだよ。村の東に、海へ抜ける林道があったろ? あの先に村の爺様方が趣味で漁をするために作った、小さな小さな船着場があるんだ。うちの爺さんの幼馴染連中でな、私も小さい頃漁に連れて行ってもらったよ。漁なんて大層なものじゃなかったがね。ありゃただの釣り道楽さ。まあ船着場自体が解りにくい所にあるから、知らない子もいただろうな」
 そう言われてカーズは少しムッとした。同じ村人なのに、自分は知らないというのが悔しかったようだ。
「そう嫌な顔をするな、ケッタとクルスも知らないんだから」
 カーズの表情がわずかに和らぐ。
「子供達が勝手に船に乗っちゃ危ないというので、子供には知らされていないのだよ。あの村の子供で知っていたのは、私の他は二人だけさ。ま、とにかく私はイーンの用事を済ませたら、適当に小舟でも借りて村に帰るよ」
 そう言ってタトゥスは去っていった。
 独り残されたカーズは背負い袋を背負うと、歩きながらズボンのポケットから先ほどの石英と、数枚の硬貨を取り出した。ミグを出る時に父から渡された金だ。数枚の銅貨の他に、銀貨や金貨も混ざっている。子供の持つ金額ではない。
 金額を数えながら歩いていると、後ろから肩を叩かれる。振り返ると、見たことも無い男が立っていた。カーズは無意識に硬貨をポケットへ押し込んだ。男はカーズの知らない言葉で話しかけてくる。男は中央大陸の言葉で、彼に金を要求していた。要人が集まる所に出没する傭兵くずれのようだった。カーズは男の雰囲気でそれを察すると、男を無視して歩き始めた。
 男が声を荒げてカーズの肩を掴もうとした刹那、カーズは背負い袋に差していた木剣を素早く抜き、男の足を払った。男が見事に転ぶ。男の後ろで座って見ていた、似たような風体の男達が三人ほど腰を浮かす。カーズは波止場から出ようと、街へ向かって走った。男達が追う。
 街中へ逃げ込み、振り返ってみても男達は追って来る。差が縮まる。カーズは細い路地に走り込んで振り返った。背負っていた袋を下ろし、後ろへ放り投げる。剣を振る邪魔になる。師から多対一の鉄則は、いかに一対一で戦うかだと教えられていた。木剣を構える。男達が迫る。細い路地は功を奏したらしく、男達は縦一列に並んでいる。一対一だ。カーズは木剣を構えて身を低くした。
 男が殴りかかってくる。半歩退いて間合いをずらしつつ、下に構えた木剣を跳ね上げる。男のあごを切っ先が捉える。男は白目を向いて、そのまま後頭部から倒れこんだ。
「このガキがっ!」
 後ろに続いていた男の一人が、訛ってはいるがカーズにも解る言葉で怒鳴る。男の手には大振りなナイフが握られていた。カーズの顔面が蒼白になる。今まで刃物を持った相手と戦った事は無い。しかも相手には殺意が見えた。怯えながらも無意識に間合いを取る。懐に入り込まれぬよう、木剣を正眼に構えた。男がナイフを持たない手を前に出し、突っ込んで来た。
「うっ、うわぁっ!」
 カーズは思わず叫びながら木剣を振り上げ、斜めに振り下ろそうとして――壁に当たった。カーズはようやく、その路地が木剣を振るには狭すぎる事を知った。男が迫る。ナイフに意識が集中する。
「あれ?」
 ふと、全てが遅く感じた。鼓動が強くなる。足元が熱くなる。風が体を取り巻いている。カーズは一歩踏み出そうとした。その時である。
「貴様ら何をしている!」
 聞きなれた訛りの言葉が聞こえた。カーズが我に返ったように路地の入口を見ると、島兵の腕章をつけた青年が剣に手をかけて男達を睨んでいた。カーズを刺そうとしていた男も、カーズのすぐ手前で立ち止まっている。
「ガイリードより島の防衛、警護を任された島兵隊のドミ・アールセンだ。貴様らの所属船は何だ、入国証明書を見せてみろ」
 島兵は剣に手をかけたまま男達を睨んだ。男達は目配せをすると、隠し持っていた大振りなナイフを抜いて島兵に襲い掛かった。島兵は不意を突かれて剣を抜くのが二拍遅れた。殺される、そう思ったカーズの鼓動がまた強くなる。間に合わないと思ったその時、島兵に迫ったナイフが横から現れた剣に弾かれる。
「お前は詰めが甘いのだ。もっと優雅にあしらうくらいはせんか」
 横合いから現れたのは、口髭を生やした壮年の島兵である。
「すみませんミンデ――」
「危ないっ!」
 カーズが叫ぶ。若い島兵も壮年の島兵も気を抜いたその一瞬に、残った二人の男が一斉に襲い掛かる。カーズはその動きを見ながら、足元に落ちているナイフを拾った。足が熱くなる。カーズは、風に身を任せた。
 風が走る。
 一瞬の後、二人の男は手からナイフを落としていた。一人は手に仲間のナイフを突き込まれ、もう一人は木剣で手の骨を粉砕されていた。
 何が起こったのか解らず、二人の島兵と唯一残った素手の男が立ち尽くす。
「あれっ?」
 カーズが素っ頓狂な声を上げた。自分でも何が起こったのか解っていない様子だった。
「え?」
 立ち上がって、自分が木剣を握っているのを見る。両横に、手を押さえてうずくまる二人の男。
「えっ?」
 カーズは急に怖くなった。自分が何をしたのかを悟る。壮年の島兵がようやく我に返ったのか、カーズを見た。
「ご、ごめんなさいっ!!」
 目が合った瞬間、カーズは咄嗟に逃げ出した。
「おい、きみっ!」
 壮年の島兵が呼び止めたが、少年は走り去ってしまった。呆然としている島兵達のもとへ、騒ぎを聞きつけた別の島兵達がようやく駆けつけた。壮年の島兵は後から来た島兵に、戦意を失った三人の男を連れて行くように指示すると、路地の奥で気を失っているもう一人に気付いた。
 そちらへ歩いて行く。若い方の島兵も後をついて来た。
「あれ? 鞄ですかね」
 若い島兵が子供用の背負い袋を拾い上げ、袋の口を開けた。
「あっ、これさっきの子のだ」
「貸してみたまえ」
 壮年の島兵は背負い袋の中から、一枚の紙を見つけて取り出した。
「ミグの身分保証書か? 随分育ちの良い子供だな、カーズ・リム・ダグス……ルーク?」
 島兵達は顔を見合わせた。
「ひょっとしてケッタルス殿の自慢の弟か? なんと、ケッタルス殿とクルストル様を出迎えに、わざわざノウンから来たはずが……その弟と出くわすとはな」
「この袋、どうしましょ?」
「どうせ後でノウィーンにも行くのだ、預かっておいてやろう」
 壮年の島兵の言葉に若い島兵も頷く。路地の入口から別の島兵が顔を出す。
「クライン隊長にアールセン殿ではありませんか。取り押さえてくれたのはあなた方でしたか。いや、お恥ずかしい、ここまで人が賑わう事がないもので、対応が遅れました」
 そう言って近づいて来る。壮年の島兵の足元にあごを割られて気絶している男をみとめて、この街の島兵は目を輝かせた。
「これは凄い、一撃で気絶ですか。流石はコッカトリスとも戦ったお二方だ。こいつら元はちゃんとした傭兵だったみたいですよ。いやぁ、我々では取り押さえられなかったかも知れません」
 笑いながら言う島兵に、壮年の隊長はぽつりと呟いた。
「これをやったのは、私じゃない。ケッタルス殿の……」
 言葉を止め、壮年の島兵は顔を上げた。薄暗い路地から見たイーンの街は、自分の知らない景色に見えた。

       †

 馬車に揺られながらケッタルスは故郷の風景を見ていた。
 豊かな自然の中に、ぽつりぽつりと小屋が見える。ノウィーン村はイーンなど五つの街に次ぐ面積を持つ、アカソー最大の村である。集落は中心部に集まっているため、村の門はまだ先にあるのだが、既にここはノウィーン村の中であった。
 二年半ぶりに見る景色は、記憶と寸分も違わなかった。それは裏を返せば、二年半前から何も起こっていないという事になる。ケッタルスがノウィーンに移り住んだ頃から変化が無いので、それ以上前から何も起こってないのだろう。
 ケッタルスは停滞を嫌っている。常に自由で、常に駆けていたいと思っている。それが島を出た理由の一つだ。この島には変化が無い。
 父も弟もこの景色を好いているのは彼も知っているし、彼自身も決して嫌いではない。むしろ好きだと言ってもいいだろう。落ち着けるし、この自然の中で育ってきたのだ。だが彼は、自分の居場所はここではないとも思っている。漠然と、この停滞した島に自分の居場所はないと思っている。
 ケッタルスは横に座る親友へ視線をやった。友人は腕を組んだまま眠っていた。再び風景を見ながらケッタルスは思う、友人の居場所はこの島なのだろうかと。
 彼らの父は英雄である。この島で父達を知らない者はいない。南の大陸や中央大陸にも、その名を知る人々がいるだろう。それ故に、ケッタルスは島に居場所がないと感じる。どれだけ頑張っても、どれだけ名を上げても、常に言われるのは「さすが《風のエイグス》の子だ」というものであった。成功しようと失敗しようと、常にケッタルスは《風のエイグス》の子として見られ、比較され続けてきた。
「この島にケッタルスという男はいない。いるのは、《風のエイグス》の息子だけだ」
 そう呟く。今まで何度も呟いてきた言葉だった。
「だけど今は違うさ」
 突然、聞きなれた声がそう言った。驚いたケッタルスが振り返ると、いつから眼を覚ましていたのか、クルストルが微笑んでいた。
「そうだろ、《黄金の風の勇者》殿?」
 この二年半で、ケッタルスの異名は中央大陸にも広まり、いつしかその名に「勇者」の文字が追加されていた。
 島を出た彼らは、ひたすらに戦いを求めた。今から考えると異常だと思えるほど、取り憑かれたように戦場を転々とした。強い敵と戦い、経験を積む、ただそれだけのための行動だった。
 そうなった切っ掛けは、国境を挟んで対立する町同士のいさかいを治めた事だった。その際には弁舌だけで諌めたのだが、《英雄を生む島》の出身だという事に加え目立つ風貌であったために、噂は誇張されて広まってしまった。
 彼らは日銭を稼ぐために隊商の護衛などをしながら旅をしていたが、あえて危険な仕事ばかり引き受けるようにしていた。そのために剣を振るう事も多くなり、商人の間で更に噂は大きくなってしまったのだ。
 噂になってしまえば、腕を見たいという貴族や、決闘を申し込んでくる剣士などが跡を絶たない。彼らは更に名を揚げ、しまいには傭兵として雇いたいと引く手あまたとなった。
 彼らが傭兵としてハイドランド法国に滞在していた頃には、人々は二人を《黄金と漆黒の勇者》と呼んでいた。
 そして今、彼らは魔王退治の英雄《黄金の風の勇者》と《黒き聖騎士》となって、故郷に凱旋している。父たちを遥かに凌駕する名声を得て。
「ようやくだな」
「ああ、やっと俺達は、俺達として島にいるんだ」
 遠くに歓声が聞こえた。窓の外には、慣れ親しんだ景色がある。もう村の門が近い。
 ケッタルスは目をつむって、感慨深そうに歓声を聞いた。
「良かったのかな……」
 クルストルが不安そうに呟いた。
「式典の事か? いいんだよ、どうせ明日の朝から始めるんだろ? それまでイーンにいたら、俺達は徹夜で客の相手をしなきゃいけない。そんなのはごめんだよ」
「いや……ああ、そうだな」
 クルストルは何かを言おうとして、やめた。ケッタルスはその苦笑の裏に何を思ったのか解らなかった。何となく、嫌な予感がしたので話題を変える。
「カーズは元気かな?」
 外で聞こえていた歓声が大きくなる。村に着いたのだ。
「きっと元気だよ。そういえば、トラ兄も帰って来てるらしい」
「トラ兄が!? そりゃいい、今度旅に出る時にはついて来てもらおう」
 ケッタルスは子供のように嬉しそうな表情を見せた。
 馬車が止まる。歓声がさらに大きくなった。ケッタルスは友人と顔を見合わせると、御者が扉を開けるよりも早く、自分から馬車を降りた。
 英雄は帰還した。
 集まってくる人を制するように、ケッタルスが手をあげる。人々が不思議そうにとどまり、静かになるのを待って、ケッタルスは口を開いた。
「ただいま。食事の準備はあるのかな?」
 村人達は口々に答えながら二人を取り囲んだ。ケッタルスがまた手をあげる。
「もう昼食の時間は過ぎたみたいだから、夕食までゆっくり寝たいな。そういえば、俺の家はまだあるかい?」
 あるぞ、と誰かが答えた。
「見えないな、少し道を開けてくれないか?」
 人垣がにわかに割れ、道の向こうが見えた。ケッタルスは親友を振り返ると、軽く笑って見せた。子供の頃から何か悪戯をする時にだけ見せる笑顔だ。
「ケッタお前!」
 クルストルは瞬時に友人の意図に気付いたが、間に合わなかった。
 ケッタルスは僅かに出来た道を一息に駆け抜けた。
「悪いなクルス、皆とゆっくり来てくれ!」
 言い残して、風のように村を駆ける。村人達は呆気にとられているだろう。親友は憮然としているはずだ。だが、憮然としながらも村人と話をしながら歩いてくるだろう。そう思うと、自然に笑いがこみ上げてきた。
 村の中心部から三十分ほど歩けば、村の西端にある自宅に着く。ケッタルスの足で走れば、楽に走っても十分とかからない距離だ。二年半前のケッタルスならば五分もいらなかっただろう。だが、ケッタルスは自らの力を制御するようになっていた。
 二年半前、魔王を倒すという目的のため、ケッタルスは力を封じようとした父と老賢者に懇願した。二人は彼の言葉を受け、その大きすぎる夢に力は不可欠と判断し、封印を猶予してくれた。しかしいざ島を出て初めて、ケッタルスは己の異常を知った。それまでの彼はいくら「速い」、「異常だ」と言われても、所詮は島の基準だと思っていたのだ。世界を見るうち、自然とケッタルスは力を自制するようになっていた。それほどまでに彼の血に封じられた力は凄まじかった。
 走り始めて七分、ケッタルスは隣家の前まで辿り着いていた。自制しているとはいえ、風の異名を持つ男の脚力は常人のそれを凌駕しているようだ。息一つ切れてはいないが、立ち止まったケッタルスは爽やかそうにため息をついた。
「こんな速さで走れるのも、今日限りかな」
 彼は既に、目覚めてしまった封異血統を再び封印すると心に決めていた。
 二年半前に「魔王を倒すまで」と猶予を貰った事や、旅の最中で浮かんだ疑問、己への恐怖から、封印すると決めていたのだ。
 だが彼に未練はない。速さに頼らなくとも戦えるという自信もあるが、何よりも力を封じた自分がどこまで行けるのかという興味が大きい。生涯をかけて挑もうと構えていた魔王を、二年半で倒してしまった事も影響しているのだろう。彼はもはや自身の力を疎ましくさえ思っているようだった。
「兄ちゃん?」
 懐かしい声が聞こえた。声の主を探して視線をさまよわせる。隣家の前にある小さな広場に、黒髪の少年が立っていた。
「やっぱり兄ちゃんだ! もう帰って来たの? クルスは?」
 嬉しそうに少年が駆け寄ってくる。ケッタルスは呆けた顔で、近づく弟の顔を見つめていた。それが弟に間違いないとようやく飲み込めたとき、ケッタルスは満面の笑みを浮かべた。
「カーズか! 大きくなった、明るくなった、元気で良かった」
 そう言うと、ケッタルスは二年半ぶりに会った弟を抱擁した。彼の記憶に残る最後の弟の姿は、暗く落ち込んだ、心を閉ざした少年だった。
「兄ちゃんも格好良くなったよ。強そうになった」
 カーズも満面の笑みでそう言う。その言葉がケッタルスは嬉しい。島を出る前の彼は、女性のように美しいと言われる事はあっても、格好良い、強そうと言われる事がなかった。彼にとって、美しいという形容は劣等感をいだかせるだけだった。
「ああ、兄ちゃんは強くなったぞ」
 答える声に自信を込める。
「そりゃそうだよ、魔王を倒したんだから」
 カーズの言葉に、ケッタルスは微笑んだ。近くで扉の開く音がした。振り向くと、隣人のティムが驚いた顔でケッタルスを見ていた。
 ケッタルスはこの隣人に、どれだけ感謝してもしたりないほど世話になっていた。島を出る前にはケッタルス自身が壁を作って歩み寄ろうとしなかったが、今は違う。自分や弟を気にかけてくれ、自分が出ている間は弟を我が子のように可愛がってくれた。ケッタルスは二年半前の夜を思い出した。父と戦った夜の事を。あの日、帰る途中のケッタルスに薪を投げてよこした顔が脳裏に浮かぶ。あの豪放な笑顔に随分と心を落ち着かせたものだった。
 だが、今のティムは彼とは思えないような不安を浮かべていた。
「ケッタ君か……お帰り」
 やはりおかしい。兄が怪訝な顔をするのを見て、カーズが服の裾を引っぱった。
「シルクが病気なんだ」
 ティムの娘は昔から体が弱かったと、ケッタルスは記憶している。白い肌と、色素の薄い髪を持つ少女は、事あるごとに体調を崩していた。病気だとはいっても日常茶飯事だ。ティムもカーズも慣れているはずである。
「酷いんですか?」
「今朝までは元気だったんだ。いつもに増して元気だったから、何をそんなに嬉しそうにしているんだと聞いたんだよ……」
 沈んだ顔をして、ティムは玄関先にある丸太に腰をかけた。普段は薪割り台として使われている丸太である。ケッタルスは二年半前と今のティムを重ね合わせて心配になった。これほどまでに憔悴したティムを見たことはなかった。ティムが続ける。
「あいつな、嬉しそうに言うんだよ。カー君が帰って来たってな」
 引きつった苦笑をケッタルス達に見せる。
「外にいるのかと思って見てみたんだが、いなかった。シルクはカーズ君が島に帰って来たんだと言う。……シルクが倒れたのはそのすぐ後だ。急に胸が痛いと言い出してな、酷い汗だった。今は眠っている」
 言い終えて、ティムは大きく息を吐き出した。
 ざわつきが耳に入った。クルストルが村人達を連れてようやく追いついたようだ。ティムが立ち上がる。
「終狼の鐘が鳴ってもう一時間は経つだろう。宴会は後竜の刻くらいから始めよう。それまで、ゆっくり休みなさい」
 そう言ってティムはとぼとぼと家の中に入った。扉が閉まる寸前、ぽつりと小さな声でティムが呟いたのを、ケッタルスは聞き逃さなかった。
「……父さんの口車?」
 ケッタルスの胸に、えも知れぬ不安が淀んでいた。

 宴会が始まったのはティムの言ったとおり後竜の刻になるかという頃だった。そこからすでに二時間以上が経過している。会場はティム家の前の小さな広場である。宴会を村の入口にある広場ではなく、ここで催す事となったのは、すぐ側にケッタルスの自宅があるからだ。
 最初は皆に囲まれていたケッタルスとクルストルだったが、今はゆっくりと酒を飲んでいた。
「ケッタ、良いのかな、俺達こんなに祝ってもらって」
「……さあな。解らない」
 クルストルは一笑にふして貰いたかったのだが、ケッタルスはそうしなかった。
「どうした? 何かあったのか?」
 ケッタルスは答えず、酒杯を口に運んだ。沈黙が続く。一分ばかり沈黙が続いた後で、クルストルが切り出した。
「俺、ずっと黙っていた事があったんだ」
 その言葉に親友が興味を向ける。
「あの戦いの時、声が聞こえたんだよ。頭の中に、声が」
「お前もか?」
「え?」
「俺も聞こえたんだよ」
「本当に!?」
 クルストルは心底驚いたという風に目を見開いた。
「ああ。戦う前に俺祈ったろ? あの戦神の声が聞こえたんだ」
「えっ」
 クルストルの表情が固くなった事に、ケッタルスは気付かない。
「お前も聞こえてたんだな。それじゃあ俺達は戦神に加護された二人ってわけだ」
 ケッタルスが薄く笑った。クルストルが絶句している間に、心が少し晴れたのかケッタルスが話題を変えた。
「なあ、お前どのくらい昔から記憶が残っている?」
「記憶? 四歳くらいだけど……それ――」
 それよりもと言おうとしたが、ケッタルスは気づかずに会話を続けた。
「やっぱりそうか。俺な、曖昧なんだよ。昔の事をほとんど覚えていないんだ。まるで過去なんてなかったように、何も思い出せなかった。それがな、ここ一年くらいで段々と思い出すようになったんだよ」
 ケッタルスがこんな話をした事はない。クルストルは自身が聞きたい事を抑えて、親友の話を聞いた。
「封異血統が自分で制御できるようになってからだな。それを待ってたように、欠片みたいにバラバラになった記憶が見つかるんだよ。それを集めていて、ふと気になったんだ」
「何がだ?」
「俺は一度、記憶を無くしているんじゃないかって事さ。だからお前に聞きたかったんだ。そうだな……例えば、トラ兄って昔は黒い服ばっかり着てたよな?」
「え? いや、そんな事はないんじゃないか? あの人は昔から赤かった筈だけど」
「そうだったか? あれ、確か俺とカーズとトラ兄で神竜の森に行った時――」
「待てケッタ、トラ兄と神竜の森? そんな話は初めて聞いたぞ。そもそもあの人とカーズは会った事はないはずだ」
 二人の間に流れる空気が凍りつく。周囲との温度差はまるで違う世界のようだ。
「……何?」
 充分の間を置いて、かすれた声でケッタルスが呟いた。
「トラ兄とカーズが会った事は無いはずだ。それに、お前が神竜の森なんて行ったなんて聞いた事がない」
「じゃあ俺の記憶は何なんだ? あれは誰だ?」
 ケッタルスの目に混乱が浮かぶ。クルストルは答える事が出来なかった。
 凍った空気を溶かしたのは、少年の声だった。
「兄さんもクルスもどうしたのさ?」
 カーズであった。ティムの一人娘、シルクの看病から戻って来たようだ。
「いや、なんでもないよ。ちょっと昔話をしてただけだから」
 クルストルは優しい笑みを浮かべて、横に座ったカーズの頭を撫でた。
「シルクちゃんはどうだい?」
 カーズが首を横に振る。
「だめだ、まだ目を覚まさないよ……」
 声に不安の色が含まれている。
「そうか。そろそろこのお祭り騒ぎを終わらせようか? 家の前で騒いでいたら、シルクちゃんもゆっくり休めないだろう」
「いいよ、シルクはクルスと兄さんが帰って来るのを楽しみにしてたんだって」
 カーズの言葉についクルストルは笑ってしまった。若き英雄は不思議そうな顔をする少年をからかう事にした。
「俺達よりも、カーズが帰って来るのを楽しみにしてたんじゃないのか?」
「クルスまでそんな事! なんだよ皆してさ!」
「皆?」
「そうだよ、タトゥスさんも僕をからかうんだ」
 その名前にケッタルスが反応した。何かにすがるような目で弟に問う。
「カーズ、お前トラ兄を知っているのか?」
「うん、昨日船で会った。変な人だよね。兄さん達、あの人に魔法教えてもらったんでしょ? なんで僕には黙ってたのさ」
 ケッタルスの表情が絶望に変わる。弟の言葉は、昨日までタトゥスと会った事がないと証明していた。
「兄さん? 兄さん?」
 カーズの呼びかけにも答えず、ケッタルスは呆然と地面を見ていた。
「兄さんってば!」
 肩を揺すられてようやく、若すぎる英雄は顔を上げた。
「どうしたのさ?」
「ああ……なんでもない」
 そう言って立ち上がると、ケッタルスはティムの家へと歩き出した。
「ケッタ、どこへ?」
「シルクを診てくるよ……」
 振り返ったケッタルスは虚ろな目で親友と弟を見た。
 ケッタルスとクルストルがこの旅の中で滞在した国に、ハイドランドという国があった。法国と呼ばれる世界一の法治国家で、魔法技術もミグに匹敵するほど洗練されている。二人は傭兵として雇われている間、そこで魔法の訓練を積んだ。
 旅に出る前はタトゥスに教わったという、初級中の初級の魔法しか使えなかった二人だったが、今では輝光魔法の中の治癒魔法ならば駆け出しの魔術士に引けをとらない。二人旅で両者共に剣士となれば、病気や毒に侵された場合の対応に不安がある。それを解消するために、二人は治癒魔法を修得したのだ。
 ケッタルスがティムの家に姿を消すと、クルストルは取り繕うように笑ってカーズの横に座りなおした。少年も不安そうな顔のまま座る。
「そういえば、土産話がまだだったな」
 極めて爽やかに言うと、クルストルは少年の不安を晴らすように、旅の話を始めた。

       †

「何か意味があるのかも知れないな」
 クルストルは興味深そうに言う。土産話はひょんな事から、ヴァンドルフ・デュッセルライトの話になり、カーズの剣の話になったのだった。
「意味……」
「そう、カーズの剣には意味があるのかも知れない。だって、お父さんが《風のエイグス》、兄さんが《黄金の風》だろ。そのうえ剣の先生に《聖竜の騎士》、《暁の剣聖》だ。全員英雄と呼ばれる人で、しかも全員剣士だ。ここまで剣士に囲まれて、自分でも剣を習っているとなれば、意味があるのかもしれない。ほら、よく言うじゃないか、偶然も重なればそれは偶然ではないってさ」
「意味かぁ」
「どんなふうになりたいとか、そういうのはあるのか?」
 カーズはすぐに答えかけたが、少し迷いを見せた。そして恥ずかしそうに言う。
「クルスと兄さんと、ラカン先生とヴァン師匠みたいになれたらいいな」
 その答えにクルストルは、笑ってはいけないと思いながらも吹き出した。
「カーズ、そりゃ欲張りだよ」
 カーズは恥ずかしさを誤魔化すようにふて腐れてみせた。そんな少年の様子を見て、クルストルは優しく笑いかけた。
「欲張りだけど、なれるかも知れない。ラカン・サガや、デュッセルライト卿みたいになるのは大変だろうけど、俺やケッタくらいなら、すぐさ」
「じゃあ、兄さんの速さとクルスの強さに追いつけるかな?」
 嬉しそうに少年が訊ねる。クルストルは、弟を見るような目をして、カーズの頭を撫でてやる。
「出来るよ。そうだな、じゃあカーズがもう少し大きくなったら、うちにある鎧をあげよう。代々伝わる鎧は全部黒いけどな」
「黒は好きだよ」
「じゃあ、なるべく軽い鎧をあげよう。ひょっとしたらカーズは《黒い風》とでも呼ばれるのかも知れないな」
 そう言ってクルストルは楽しそうに微笑んだ。
 突如、和やかな空気に不快な気配が混入する。クルストルが微笑みを消す。周囲を見回しても、誰も彼も宴会に夢中で気付いた様子は無い。ただ一人、カーズが怯えたようにティムの家を見ているだけだ。
「ティムさんの家?」
 カーズの視線を追って、クルストルは戦慄した。ティムの家は何も変わった様子は無い。だが、まがまがしい雰囲気はそこから噴出していた。
 轟、とティムの家の中から風が吹いた。勝手に扉や窓が開く。村人達に、ようやく不審が広がっていく。
 クルストルは腰に下げた剣を抜いた。いつも使う大剣ではない。旅で身に着けた装備は、全て外してカーズの家の中に置いている。
「クルス」
「皆と一緒に下がっていろ。嫌な予感がする」
 クルストルがティムの家に近づいて行く。もう宴会のざわめきはない。村人達の視線を受けながら、クルストルはティムの家に入った。
 何も起こらない。
 静寂が続き、次第に村人達の緊張が薄れ始めたその時――爆音と共にティム家の屋根が吹き飛んだ。
「逃げて!」
 咄嗟に叫んだカーズの声に、村人達が走り出す。
 次の瞬間、ティムの家が爆発した。炎を上げて、壁や屋根の一部が空へ弾け飛ぶ。
 カーズには、何が起きたのか解らなかった。脳裏を白い髪の少女がよぎる。
「シルク!」
 駆け出そうとした刹那、再び爆発が起こる。カーズはその衝撃に吹き飛ばされて後方に倒れこんだ。軽く後頭部を打ち、意識が揺らぐ。
「シルク……」
 何とか上体だけを起こした少年が見たものは、炎の中に立つ一人の男だった。
 炎の中の男が絶叫する。この世のものとは思えない声で、絶叫する。
「兄……さん?」
 炎の影に長髪が揺らめく。狂ったように叫び続ける男は、紛れもなくカーズの兄、ケッタルスであった。
 ケッタルスの前に倒れていたクルストルが身体を起こす。既に手負いなのか、とても辛そうに立ち上がる。
「クルス? なんで……」
 クルストルはゆっくりと剣を構えた。
「なんで、兄さんに剣を向けてるんだよっ!」
 カーズは頭の痛みに耐えながら、無理をして立ち上がった。クルストルが兄に斬りかかる。
「クル――!?」
 兄はまるで木の棒を防ぐかのように、片腕を上げた。クルストルの剣がその程度では止まるはずがない。しかし、剣は腕に当たっただけだった。斬れてはいない。
 カーズは突然理解した。兄が、兄でなくなっている事を。
 クルストルは果敢に斬りかかる。ケッタルスは全て片腕で受け止めている。炎で見えにくいがケッタルスの腕には、血のように赤い何かがまとわりついていた。
「だめだ……クルスが負ける。止めなきゃ、僕が止めないと……」
 クルストルが負けるという確信は無い。今はクルストルの方が優勢に見える。だが、何となくカーズは思うのだ。クルストルがやられてしまうと。
「僕が……兄さんを助けないと」
 呟いたカーズの顔には、歳に似合わぬ決意のようなものが浮かんでいた。
「僕が、兄さんを助けないと!」
 確かめるように叫び、カーズは走り出した。
 ケッタルスの所にではなく、村の東へ。東の端へ。
 そこには、タトゥスがいるはずだった。
 鼓動が、強く鳴った。
――続

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