少年は帰りを待っていた。
 窓際に座り、茜色に染まる空を眺めながら。
 陽は沈もうと傾き続け、空の色は次第に、少年の髪の色と溶け込んでいった。
 兄はまだ帰らない。
 父も帰らない。
 自分ひとりしかいない家で、少年は膝を抱えた。
 寂しいとは口に出さない。出せば兄を困らせる。
 兄は少年の誇りだった。優しく、強く、いつも自信に満ちている。自分とは正反対な兄に、少年は崇拝に近い憧憬を抱いていた。
 兄は、まだ帰らない。


《偽章》長き前奏曲
第二話「老いた英雄の帰還と、青年の決意」


 イーンの町は東端にある港から、議事堂のある中心部の近辺にかけてのみ、まるで異国のような町並みを見せる。他国からの賓客に対する見栄か、それとも持て成す礼儀かはわからないが、賓客の目に付くような地域のみが整備されているのだ。南の大陸アークランドの友好国、ミグ王国からわざわざ資材や設計士を集めて造らせた純ミグ風の町並みである。中でも代々領主の自慢とされるのは、議事堂周辺に広がる公園だ。美しく整えられた遊歩道は大国からの客が思わず見事だと呟いたと伝えられている。
 その遊歩道から少し外れた芝生に、ケッタルスが寝転がっていた。夕陽を浴びて黄金の長髪が輝いていたが、彼の表情は曇りきっていた。その横には例に漏れずクルストルの姿があった。
 女性と見間違える容姿を持ちながら、それに反発するように短気なケッタルス。領主の息子でありながら、常に悩みを抱えるような陰を持つクルストル。二人の髪の色は、時にその性質の色だと陰口を叩かれる事がある。ケッタルスの金は、一見美しく見えるが、近づいてみるとどぎつく鬱陶しい。クルストルの黒は、その表情と性格にまで色を落としている。そう言われるのだ。実際の二人はといえば、ほとんどの島民からは明るく優しいと評判である。彼らを嫌う大多数は、妬む島兵や青年たちだった。彼らから見れば、二人は地位も容姿も才能も、全てを与えられた存在に映るらしい。
 それ故に二人は、他人に本心を見せようとしなかった。
 今までに心を許せる者がいなかったわけではない。かつて彼らには兄と慕った人物がいた。彼らに簡単な魔法を教えてくれたお喋りな青年、赤いローブを身に纏った魔術士の卵は、彼の祖父ホリンのように島を出て行ってしまった。
 心の許せる友人がいない以上に、まだ幼かった二人を苦しめたのは、身近な大人の欠如であった。
 ケッタルスは父と弟以外の家族を亡くしていた。父は職務のためにミグに移住し、ケッタルスは弟と島に残った。まったく帰らぬ父が珍しく姿を現したかと思えば、弟を連れてまたミグに戻ってしまう。ケッタルスはなぜ弟だけなのかと父を恨み、それでも意地を張って一人で島に残った。数年もして、また父が姿を現したかと思えば、今度は心に傷を負った弟を置いてミグへ戻って行った。彼は、自らと弟をその未熟な双腕で守り抜くしかなかった。
 弟が帰ってきてから、ケッタルスはイーンの街の北西にあるノウィーン村に移り住んだ。イーンでは農地が少ないために作られた農村である。そこに粗末な家を建てた。費用は父が送り続けていた仕送りから、簡単に捻出できた。隣の一家はケッタルスと弟に優しく、何かと面倒を見てくれたが、その頃には既に、ケッタルスは大人を信用できなくなっていた。
 クルストルは両親が共に健在である。そのうえに、執事や家政婦たちもいるので、屋敷にはかなりの人間が住み込んでいる。だが、父は過度に厳しく、母は過度に優しすぎた。周囲の人間全てから、腫れ物に触るように扱われる。嫌気がさして町に出たところで、やはり島民は未来の国主に対して腰の引けた扱いをした。彼と対等の目線で話をしてくれる者が周囲にはいなかった。それどころか、高い位置から彼を導いてくれる大人もいなかった。父は厳しいが、時に甘く、幼いクルストルにはその変化が理解できなかった。母は常に優しいが、その優しすぎる点が、幼いクルストルには危うく見えた。
 彼を一人の少年として扱ってくれたのは、父の親友の息子であるケッタルスと、その弟、そして今は所在も知れない、魔術士の卵の青年だけだった。魔術士の卵は魔術士として旅に出、ケッタルスの弟は深い影を持ち無口になった。こうして彼はケッタルス以外の、彼を彼として見てくれる人間を失ってしまった。
 二人は成長し、島内で英雄と呼ばれ、彼らを慕ってくれる人はかなりの数にのぼる。かつては嫉妬と蔑みの声ばかりだった島兵隊でさえ、彼らを慕ってくれる声の方が多くなっていた。それでも、やはり対等に見てくれる者はいない。
 ケッタルスとクルストルがいつも二人で行動するのは、己の理解者をお互いにしか見出せないからであった。
 空は随分と明るさを失っている。二人が黙り込んで、どれだけの時間が流れたのだろう。
「なあ」
 沈黙を破ったのは、ケッタルスだった。
「島、出ないか?」
 クルストルが顔を上げた。普段は柔和な表情を浮かべるその顔に、困惑だけが浮かんでいる。
 クルストルの夢は、この島をもっと発展させ、島民が他国へ誇れるよう故郷にしたいという事であった。その夢には二つの条件があると彼は考えている。一つは、自らが国主になってからの話だということ。もう一つは、全てにおいて天賦の才を持つ、この親友と共にで無ければ駄目だということ。
 だが当の親友はこの島を出たがっている。それも恐らく、クルストルと共に。
 お互いを必要としながらも、進みたい道が違う。それでもやはり必要としている。この矛盾はどちらかが折れるか、それとも道をたがえる以外に、解消する方法がない。そんな事は彼らも数年前から気づいていた。
 クルストルは積極的に、ケッタルスと共に島を発展させたいと言い続けて来たが、ケッタルスはその言葉に揺れる事がなかった。それだけ自分の進みたい道をはっきりと持っているにも関わらず、ケッタルスがクルストルに「共に島を出て名を上げよう」と誘った事は一度たりともない。誘えば、お互いの結論が出てしまうからだ。
「……今答えなきゃいけないか?」
 先延ばしにしてきた結論をすぐに出せと言われても、クルストルにはその心構えが出来ていなかった。だが――
「ああ、今だ」
 ケッタルスは決断を求めていた。
 夜が徐々にその領域を広げようとしている。
 クルストルは黙っている。先延ばしにするためではなく、決断のために悩んでいる。
「そんなに早急に島を出て、いったい何をしたいのかな?」
 二人の頭上からそんな声がかかる。いつの間にか、また《赤き魔導王》が近くに寄っていた。
「寝転んだままで失礼しますよ。失礼ついでに、これは俺たちの問題です」
「余計な口を挟むな、か。寝転んだままなのは全然構わないよ。私はただの通りすがりの老人だ。しかし、老人というのはたちが悪くてな、言葉が聞こえないふりをする事がある」
 さらりと言って、ホリン・サッツァ・トラウムはケッタルスとクルストルの間に座った。
「聞こえてないなら言いなおしましょう。失礼ですが、これは俺たちの問題です。他人に――」
「島から出て何をしたいのだね? 言い忘れていたな、老人は同じ話を何度もするのだよ」
 ホリンは口の端をニヤリと歪めてみせた。ケッタルスは眉をしかめた後、観念したのか表情を和らげた。
「何をしたいのか、か……。笑わないで頂きたいんですが」
 そこまで言って、言葉が続かない。
「やっぱり、やめておこう。コッカトリスなんかにやられる奴が言っていい事じゃない」
「コッカトリスを二人で倒せる十八歳など、世界中を探しても片手で数えるほどしかおらんよ」
「しかし片手で数えるほどはいるのです。私はその片手に入りたい」
「ふむ、言い方が悪かったね。今この時代の十八歳では、コッカトリスを二人で倒せる者は存在しない。本来コッカトリスは魔獣、つまり人類の敵と見なされるほどの力を持った獣。ほうっておけば、村があった所がひと月の間に砂漠と化しているなんて事もある。コッカトリスが発見されたら、すぐさま何十という兵が集められ、近隣から強力な魔術士を呼んで退治するのが通例だ。そもそも二人だけで立ち向かうというのは無茶を通り越して無謀だよ」
 老人の言葉に、クルストルが黙り込んだまま頷く。しかしケッタルスは違っていた。
「あなた方大人は無謀と簡単に言いますが、あの状況では町へ報告に戻るのも不可能でした。それに我々は全力を尽くしました」
 彼の不信の壁は厚い。だがホリンはそれを気にしなかった。
「ケッタルス、それは言い訳だよ? バジリスクを見た瞬間に親の存在を警戒するのが、戦士の常識。バジリスクなら倒せると思って、かかって行ったとしても、万が一を考えて報告に兵を走らせるのが、島兵の常識。親の存在に気づいたなら、その場をすぐに逃げ出すのが、人の常識だ。君はどれも守らず、若さゆえなのか暴走した。君は少々理想が高すぎるんじゃないかい?」
「理想?」
「そう、『理想の自分』というものを高く設定しすぎている。残酷な事を言うが、君は決して完璧ではないし、完璧にはなれない。もっと理想を下げるべきだよ。じゃないと、君は潰れてしまう」
 世界最高の魔導師が発した残酷な事実は、天才と言われ続けてきた若者にとっては重すぎた。ケッタルスは体を起こして、まるで何かを憎むように虚空を睨み付けた。
「それでも俺は……完璧を目指します」
 黄金色の頭に、老人の手が置かれる。一瞬、ケッタルスが肩をこわばらせた。
「完璧を目指しても、人は完璧にはなれないよ。そもそも、万人にとっての完璧や完全というものは存在しないのだからね。そうだな、どうせ完璧を目指すのならば、『完璧なお兄ちゃん』を目指したらどうかね?」
 その言葉でケッタルスの表情が一変した。
「君の弟は家で帰りを待っているんじゃないのかな?」
「失礼します! クルス、答え、考えていてくれ!」
 弾かれたように立ち上がると、ケッタルスは風のごとき速さで走り去ってしまった。
「……まあ、すでに父親が帰ってるから急いで戻る必要もないんだが」
「ホリン様、遅いですよ」
「あの子が早すぎるんだよ」
 沈鬱な空気を払拭する笑い声が丘を撫でた。
「でも早すぎるくらいで丁度いいのだろうね。風は停滞すると風ではなくなる」
 ホリンはそう言ってクルストルを見る。クルストルは再び真剣な表情に戻って、賢者と呼ばれる老人に尋ねた。
「では大地は動けば大地ではなくなるのですか?」
「おやおや、やはりバルトーの息子だね。そうだね、気づいているとは思うが、君たち二人はあらゆる意味でエイグスとバルトーの二代目を期待されている。しかし当のエイグスとバルトーも若い頃は、先代領主から止められても島を飛び出していたのを知っているかな?」
 島外で名を馳せたのは知っていた。だが島を飛び出したのは初耳だった。バルトーは積極的に過去を語る父ではなかったのだ。
「知らないという事は、バルトーは君に知られたくないのだろうね。まったく、自分の傷を家族にさえひた隠しにして、それでも自分は親だと威張る。……恐らくこの話はバルトーとエイグスの傷に触る事になる。だが私は悪い老人なのだよ」
 ホリンはまた、ニヤリと口の端を歪めた。

       †

 ケッタルスは走りながら空を見上げた。
 陽は既に沈んでいた。日中は乗合馬車があるため、首都イーンから家のあるノウィーン村までは四十分も掛からない。乗合馬車の終了した今では、どう急いでもイーンから自宅のある集落まで、一時間以上かかってしまう。ただしそれは常人の足ならばである。走り始めて五分、ケッタルスは周囲に人がいない事を確認すると、さらに走る速度を上げた。夕飯の支度をする主婦が、窓の外に金色の風が吹いたと錯覚したのは間違いではない。二十分も経つ頃には、ケッタルスは農村まで帰り着いていた。息を切らせながら自宅の側まで行くと、隣家の主人が少し遅めの薪割りをしていた。彼はケッタルスに気づくと、「おや」と声を上げた。
「ケッタ君、今帰りか?」
 ケッタルスは息が上がっていたので、表情だけで意味を問いただした。
「いや、君の家に明かりがついてたもんでな。てっきり帰ってるもんだと思ったんだが」
 そう言って、二十メルほど離れたケッタルスの家を指差す。確かに窓から蝋燭の揺らめきがもれていた。ケッタルスが訝しそうに自宅へ足を向ける。
「ケッタ君!」
 走り出そうとしたケッタルスが振り返ると、薪の束が飛んできた。造作もなくそれを受け止める。
「薪を割る暇もないだろう、持って行け」
 そう言って豪放に笑い、また薪割りに戻る。ケッタルスは頭を下げてから自宅へと走った。隣人はいい人間だ、ケッタルスもそう思ってはいるのだが、どうしても心を開く気になれなかった。すっかり他人を信用しない癖がついてしまっている。
 自宅の扉を開ける。そこには、ケッタルスの一番嫌いな男が立っていた。
「父さん……」
 エイグスは息子を一瞥すると、奥の部屋へと消えて行った。ケッタルスの視線は父を追わずに、弟の姿を求めた。黒い頭が視界に入る。弟のカーズである。十歳になる弟は、漆黒の髪と瞳を持っている。エイグスも限りなく黒に近い茶色の頭髪なので、ケッタルスは自分だけが血の繋がりがないように感じる事がある。実際、カーズはクルストルの弟と言ったほうが説得力があるほどだった。そもそもアカソー島民は黒や茶色といった、くすんだ毛色が一般である。母は金髪ではあったが、ケッタルスほど見事なものではなく、軽く茶色がかった金髪だった。よく母は、幼い頃のケッタルスの髪を撫でながら、自分の欲しかった色だと微笑んでいた。
「ケッタルス、薪を置いて表に出ろ」
 鋭く言葉がかけられる。父が二本の長剣を持って奥の部屋から出てきた。
「早くしろ」
 それだけ言って、エイグスは家の外に出て行ってしまった。ケッタルスは温かい言葉一つかけてくれない父に憤りを感じ、その後で先ほどの罷免の寸劇を思い出した。薪を荒々しく机に置くと、ケッタルスは父の背を追った。残されたカーズも数秒遅れて後に続く。
 夜空にはまだ星が少ない。陽が沈んだとはいえ、まだ完全な夜にはなっていない。エイグスは長剣を息子に放り投げると、自らの長剣を抜いた。玄関でカーズが息を飲む。
「ケッタルス、今日私がアカソーに来た理由が解るか?」
 解らなかった。だが、父が「帰ってきた」という言い回しではなく「来た」と言った事に、腹が立った。
「俺をクビにするためだろ?」
 父はそれほど暇な人間ではない。理解していても、そうでも言わないと気がすまない。エイグスは息子の挑発を無視した。
「それは私が来た時に、たまたまお前が不祥事を起こしただけだ。運が無かったな。ケッタルス……お前、自分の力に気付いているのではないか? そしてお前は力を自分の意思で制御できている」
 エイグスの言う《力》とは、単語が持つ意味通りの事を言っているのではない、それはケッタルスにも解る。
「皆まで言わんとだめか? お前は、己の血の力を制御しているのではないか?」
「エイグス、それでは伝わらんよ」
 空から老人の声が響く。ホリン・サッツァ・トラウムがゆっくりと地面に下りてきた。
「ケッタルス君、封異血統という言葉を知っているかね?」
 初耳だった。
「数百年も昔、ジン王国にヨク・リンという男がいた。学徒翼燐と名乗る伝説の学者だね。彼が提唱したのが、特殊な力を持つ血統の存在。常人には考えられない能力を持つ者が稀にいるのは今も同じ。翼燐はその力を持つ者の先祖や子孫、親類が同じような力を持つ事が多いと気付いた。そこで彼は、特殊な力が血に宿っていると考えた。しかし同じ血を持っていても能力の有無が出る。翼燐は血統に伝わる特異な力は、普段は封じられていると考えた」
「血統に伝わる、封じられた特異能力……それで封異血統」
 ホリンは出来のいい生徒を褒めるように頷いた。
「その通りだ。そして君は封異血統を持っている」
「……それはつまり、父さんや――カーズも? それとも、俺だけ?」
 ケッタルスは特殊な力よりも、家族とはたして血が繋がっているのかが気になった。
「カーズ君も持っているよ、封じられたままだけどね。エイグスも持っている。……そうだね、後はエイグスから話した方がいいだろう」
 そう言って老人は脇にどいて気配を消した。自分はいないものと思えという事なのだろう。エイグスが言葉を継ぐ。
「私は自らの封異血統を自らの意思で封印している。私たちの力は、私たちがルークを名乗ったその日から使用してはいけない事になっているのだ」
「力、さっきから力って言ってるけど、何がその特殊な力なんだよ? そもそも封異血統の力ってどんなものなんだよ?」
 エイグスは脇にどいた老人に、説明不足だといった非難の目を向けた。老人は気配を絶ったまま、笑顔を見せた。自分で説明しろという事らしい。
「封異血統とは即ち特化した才能だ。我々の血統では、速さだ。抽象的な事だが、我々は速さに特化した力を持っている。人によっては、豪力であったり、弁が立ったり、目が良かったりという封異血統もある」
「百年以上昔のドラグナイツ帝国では、胎内の子供の性別と健康状態を見抜くという能力もあったそうだよ」
 余計な所だけ老人が出張ってくる。エイグスが睨むと、老人は肩をすくめて口を閉ざした。
「つまり一種の才能であって――」
「そういえば、どのくらいの力で斧を木に入れたら、どういう風に倒れるかというのを判断できた能力者もいたらしい。彼は木を見ただけで、どのくらいの寿命か、中にどのような生命が流れているのかが解ったらしいね」
 老人は懲りていなかった。エイグスは目をそむけてため息をついた。
「どうしろと言うのです?」
「エイグスはまだ完全には理解していなかったようだね。封異血統は、封じられたままだと無力だ。しかし、封じられた部分に穴があれば、力は漏れ出す。それが才能だという説もあるね。封異血統を説明するのに一番いい説明がある。『封異血統は、神が人間に与えた神自身の力』というものだ。それが一番、大げさだが的確なのだよ。才能では説明の出来ない力もあるからね。封異血統を持っている人というのは意外に多い。封じられたまま、数世代も力が発現しないで次第に血が薄れていく人も多いんだよ。だから潜在的に封異血統を持っている人の数というのは、数えようがない。ひょっとすると全ての人間が持っているかもしれない。しかし、地方、国、大陸、世界へと名を広げるほどの封異血統持ちというのは、かなり少ない。そのせいで自分は選ばれた人間だと信じ込み、暴走した者も少なくない。叡智と魔力に関係する能力を持っていたとされる、聖セル・ギ・ルディアがいい例だろう?」
 言って、老人は失敗に気付いた。そんな千年近くも前の英雄など、普通は知るよしもない。賢者の常識は一般人の非常識なのだ。そもそも、話が本題からそれ過ぎていた。ホリンは咳払いをして話をエイグスに譲った。エイグスは先ほど抜いた剣を息子に向けた。
「ともかく、お前も剣を抜け。話は後だ。力を使ってもかまわん、私に勝ってみろ」
 ケッタルスは理由を問おうとはしなかった。老人の登場によってそがれた気勢を奮い起こすと、自分も剣を抜いた。父と真剣で戦うのは初めてだった。いや、剣を交える事さえ初めてだったかもしれない。それほど、エイグスと離れている期間が長すぎた。
 親子は十歩ほどの距離を置いて向かい合った。黄金の風が吹く。カーズがまばたきをする間に、親子の剣はぶつかり合っていた。疾駆したケッタルスの剣は、一歩踏み出したエイグスによって、あっさりと止められている。
「腕力が弱い。踏み込みも甘い。相手の動きを見ていない。全然だめだ。お前は速さに物を言わせているだけだな。私が一歩踏み込んだだけで、お前の剣は威力をそがれている」
 ケッタルスは飛び退くと、目にもとまらぬ速さで父の背後に回り込もうとした。それよりも早くエイグスが腕を伸ばす。その腕にケッタルスの首が引っかかり、足が浮く。エイグスはそのまま息子を地面に叩きつけた。
「速さだけだな。もし反応されたらという事をまるで考えていない」
 ケッタルスは咳き込みながらも父を睨んだ。
「私は封異血統を完全に解放した事など一度もない。力の欠片だけで、私は風と呼ばれていた」
 エイグスはケッタルスの眼前に剣を突きつけた。
「そしてお前も、そうなる事は可能だ。お前の持つ力は、恐らく私よりも強力なのだから」
 剣を引く。
「立て。速さにこだわるな。お前は決して弱くないはずだ。私の息子ならば……私を越えてみろ」
 ゆっくりと、ケッタルスが立ち上がる。二人は四歩の間を置いて向き合い、剣を構えた。
 二人が動いたのは同時だった。剣の軌道も、速度も、まったく一致していた。弾かれたのはケッタルスだった。父はまだ老いてはいない。エイグスは大きく一歩踏み込むと、体勢を崩した息子へ斬りかかる。ケッタルスは横飛びに避けながら反撃した。エイグスは前髪だけ斬らせて、臆面もなく踏み出した。
 首筋に剣を当てられ、ケッタルスは動きを止めた。父はやはり衰えていなかった。エイグスは剣を収めると、首を振ってケッタルスに背を向けた。
「慢心が剣を鈍らせているな。実戦から離れ衰えた、私程度に歯が立たんとは……。島兵隊長の罷免も、丁度良かったのかも知れん。力を封じたお前では、隊長は務まらんからな」
 ケッタルスは激発しなかった。これ程の力の差を見せつけられてなお逆上するほど、彼は幼くなかった。エイグスはそんな息子を見おろしてから、ホリンに向き直った。
「ではホリン様、お話ししたとおり、封印をお願いします」
 ケッタルスは父が何を言っているのか、すぐには理解できなかった。ホリンがこちらへ踏み出したのを見てやっと、彼はその意味を悟った。
「父さん、待ってくれ、まさか……俺の速さを?」
「封印する」
「待ってくれ、待ってくれよ、俺には――」
 言いかけて、ケッタルスは口をつぐんだ。目の前にいる男は父であり、そして――
「どうした?」
「……言えない。父さんには……母さんを殺したあんたには言えない!」
 エイグスが初めて表情を変えた。ケッタルスはそれを肯定と受け取った。

       †

 アカソー島に二つの報が広まった。一つは、世界最高と称えられる魔術師、ホリン・サッツァ・トラウムの帰還。もう一つは、若き英雄たちの旅立ちである。
 ケッタルス、クルストル両名の罷免は略式だったため、島民たちに正確には伝わらなかった。大多数の島民は、旅立ちを前にして辞任したものだと思い込んだのだ。二日前のコッカトリス退治が広まっていたので、それを快挙と思えど、まさか罷免理由に一役買っているとは誰も思わなかった。
 旅立ちまで三日を控えた二人は、北の町ノウンにいた。ミンデルとドミに挨拶をするためである。
「もう隊長殿ではないのですな」
 惜しむようにミンデルが言う。
「島兵でさえないさ」
 ケッタルスは少々自嘲気味に笑った。
「では、ケッタルス殿と呼びましょう。本来、島兵以外に漏らす事は禁じられていますが……」
 そう前置きを入れて、ミンデルは先日の賊についてを語った。
 彼らは中央大陸の砂漠で捕らえたバジリスクを、南の大陸の国へ売りつける予定だったらしい。しかし海流やシケの影響で航路の変更を余儀なくされ、時間を掛けすぎた。その間にバジリスクはコッカトリスになり、卵を産んだ。船を蝕まれ、たどり着いたこの島で彼らは態勢を立て直そうとし、失敗した。大半がコッカトリスによって殺されてしまったのだ。コッカトリスは緑の平原を石に変え、その石を喰う。砂漠に生息すると言うよりも、生息する場所が砂漠になるのだ。魔獣と恐れられ、発見即退治となるのはそのためである。
 賊はあの晩の脱走に失敗した数名以外は皆、石にされていた。中央大陸ではそこそこ名の通った盗賊だったらしいが、壊滅である。
「ミンデル殿も変わったな」
 ノウンの街を去る間際、ケッタルスが言った。
「尊敬すべき相手を、尊敬するようにしただけです」
 そう言ってミンデルは恥ずかしそうに笑った。
「ドミ共々、英雄の帰還をお待ちしますぞ」
 ケッタルスは馬にまたがり、手を挙げてそれに答えた。

 二人は草原を走っていた。中央の街を経由せずに、直接北のノウンから東のイーンへ向かっているのだ。
 クルストルは思案する。自分が島を出てしまってもいいのかと。島を出て、色々なものを見聞きする事は大事だと思う。島に残って、島中を隅々まで見て回り、どう発展させて行くか思案するのも大事だと思う。親友を助けてやりたい、自分の力がどこまで通用するのかを試したい、そうも思う。父に付いて、良き統治者としての勉強もしたい。彼は悩んでいた。
 彼には新たな夢が出来ていた。その夢は無謀に思えた。現実味がなさすぎて、でも魅力的だった。
「なあ」
 クルストルの呟きに、ケッタルスが振り返る。
「ケッタは島を出て何がしたいんだ?」
「笑うなよ?」
 そう言ったという事は、何か大きな目的があるという事だ。クルストルは頷いた。
「魔王退治」
 クルストルは唖然とした。
 中央大陸アラニス、最大の大陸にして、列強が並び立つ地。この大陸が統一されず、他大陸にもあまり侵略をしないのは、他大陸には無い悩みがあるからだ。それが、魔王と畏怖される存在。他のどの大陸にも存在しない、強力すぎる力を持った何かが、アラニス大陸にだけ、四人存在した。
 魔王とは呼ばれても、その存在が人間に直接害を与えた事はない。何人の侵入も許さない領域を持ち、そこにただ座しているだけである。人間はその領域に近づけない。何故ならその領域には、奇怪な獣や植物、邪悪な妖精や魔獣などが集うからである。人間に害を与えるのも、この領域から出てきた魔獣などである。
「俺は、第二のシルザードになりたい」
 英雄王キース・シルザード。今から十数年前、中央大陸の大半を支配する大国があった。世界最大の国、ファウ王国である。魔王の領域さえ無ければ、アラニス統一を成し遂げただろうとさえ言われていた。
 魔王の領域は、アラニス大陸の東西南北に存在する。そのため、魔王の領域によって侵略から守られている国もある。ファウ王国は大陸の東に首都を置いていたが、その真東に魔王の領域があった。そのため、西へ攻めようにも東の魔王という憂いがあり、思い切った侵略が出来なかった。
 ファウ王アーム四世は決して欲深い人間ではなかったが、周囲の貴族たちは違った。魔王の領域を踏破し、魔王を倒してしまえば国土も増え、今まで従わなかった国もかしづくであろう。貴族たちはそう予想し、世論を操作して王を後には退けない状態にしてしまった。アーム四世は貴族たちに左右されてしまう国の現状に失望した。
 アーム四世は賢王ではなかったが、愚かな王でもなかった。各国から義勇軍を募り、辺境の騎馬民族にも協力を要請したうえで、自らも戦に参加すると表明した。敵対する国も、人類共通の敵と戦うと公言した国を奇襲するわけにもいかず、逆に協力せねば大国の名折れとばかりに援軍を派遣した。集まった大軍は三十万を越えた。アーム四世の狙いは、それだけでは留まらない。補給線の確保や、軍の維持に必要な食料や経費などを、魔王退治を進言した貴族たちから徴収した。大陸を巻き込むほど大きな流れとなってしまった今、その原因となった自分が金を出さぬでは面目が立たない。大半の貴族は渋々と金を出した。出さぬ貴族には、世論を味方にした王が貴族位を剥奪し、財産を没収した。
 さらに王は、自らが軍に参加する事を理由に、貴族とその息子たちを自軍に加えるよう命令した。この期に及んで、貴族たちは反対した。これには民衆も、他国の義勇軍も憤慨した。強硬的に反対を唱えた貴族は、暴発した何者かによって殺された。
 そして魔王討伐の軍は魔王の領域へと進軍した。結果としては、戦死者、逃亡者を含む行方不明者を合わせて、十九万強の人員が失われた。それまで伝説だけで、実は存在しないのではと言われていた魔王の一撃で、三千の兵が消し飛んだと伝えられている。
 激闘の末に魔宮へ乗り込んだのは、道を譲られたアーム四世と貴族たち、彼らを守るファウ騎士団と一部の義勇兵だった。魔宮の最深部まで辿り着いたのはファウの若き上級騎士、キース・シルザードただ一人。彼は魔王を討ち滅ぼし、アーム四世のもとへと戻った。貴族と子息たちの大多数は死に、アーム四世自身も死の淵にいた。シルザードは死にゆくアーム四世より王冠と王錫を授かった。
 殲滅戦が終わり、魔王の領域が平定された後、シルザードは先王の遺言としてファウ王国の解体を宣言する。国土の一部を新たにシルザード王国として独立し、他国に独立支援の報償として、旧ファウ王国の領土を分け与える約束をした。貴族たちは反対する力を失っており、民衆は高潔で名高いシルザードならば、アーム四世に遺言を託されてもおかしくないと判断した。何よりもシルザードは魔王を倒し、アーム四世から王冠と王錫を与えられる所を騎士団長を含む幾人もの兵が見ていた。彼らの証言により、シルザードの言葉は真実だと信じられた。
 ケッタルスの言う第二のシルザードとは、王になりたいという事ではない。クルストルはそう確信する。親友は、魔王を倒したいと言っているのだ。
 クルストルは決して笑わなかった。何故なら彼の夢も、親友に匹敵するほど大きすぎるものだったのだから。
「魔王を倒すのに何万人も必要だとは、俺は思わない。現に魔王の所まで辿り着いたのはキース・シルザード一人。それでも彼は倒せたんだ」
「そして俺たちは二人いる、だろ?」
「今でこそシルザードは十聖騎士の一人だけど、あの時はただの騎士だった」
 ケッタルスは強い瞳で前を見据えて、そう言った。クルストルが十聖騎士という単語に反応する。
 アヴァロニアの十聖騎士。それは世界で十指に入る英雄と同義である。
 《騎士皇》シルトゥクを筆頭に、《暁の剣聖》デュッセルライト、《甲剣》コクリトン、《竜帝》ドラグレス、《黄金の剣》ガイア、《焔魔》レン、《薔薇公》ローゼンバウム、《炎と大地の王》ギミッカ、《轟剣》ガルフォーク、そして《銀の剣》シルザード。この十名を十聖騎士と呼ぶ。騎士という呼称で混乱を招くが、魔術士が十聖騎士に在籍する事も多い。《赤き魔導王》ホリン・サッツァ・トラウムも、十聖騎士参加を辞退しなければその例になっていただろう。
 十聖騎士とは一種の名誉職である。心技体のどれかが特出した人物を、十聖騎士会議が招集し組織される。国に仕えず、世界に仕える十人の騎士という意味で、この名を名乗る。国政に干渉せず、多くの民を苦しめる事態の阻止を任務とする。そうは言っても、任務時以外は給料が出るわけでも衣食住が保証される訳でもない。十人それぞれ、住む国や職業を持っているので、国政に干渉しないというのは理想論に過ぎない。
 それ以前に、《竜帝》ドラグレスは東の大陸にあるドラグナイツの皇帝である。《銀の剣》シルザードはシルザード王国の始祖であるし、《炎と大地の王》ギミッカは西の大陸にある精霊国ノーム・ボルトの王である。国政に干渉どころか、国政をするのが職業だ。
 十聖騎士招集時には国政を置いて、孤島アヴァロニアに集結する事となっているが、そうそう国政を置いて行けるはずもなく、全員が揃う事はまずない。
 十聖騎士は今、自由に動ける人材を欲していた。
「ケッタ……俺、新しい夢があるんだ」
 クルストルは壮大な夢を持った親友にそう言った。
「俺は、十聖騎士になりたい」
 ケッタルスは笑いこそしなかったが、随分と驚いた表情を見せた。
「いつから、そう思ってた?」
「昨日。ホリン様から、父さんの過去を聞いたんだ……」
 クルストルは、老人から聞いた話の表層を語り始めた。

       †

 息子たちの旅立ちを前に、エイグスはバルトーの庭にいた。今は、家政婦も執事も妻さえも、二人の側に寄る事を禁じられている。
「バグストンを覚えているか?」
 バルトーが切り出す。
「忘れるものか。ロウシィ、ヒリズマ、バグストン、あの三人の事を忘れる時は私が死ぬ時だ。そう……忘れてたまるか」
 エイグスはぬるくなった紅茶を口に運んだ。その味に、二十年以上前を思い出す。
 二十数年前、中央大陸アラニス、南の魔王の領域に五人はいた。のちに風のエイグス、地のバルトーと呼ばれることになる剣士。魔術士ヒリズマと白手神ロウフォの神官ロウシィの夫婦。徒手空拳の格闘傭兵として高名だったバグストン。彼らは魔王に挑もうとした。そして破れた。魔王にではなく、領域内にすむ魔獣たちに。決して彼らは弱くなかった。それでも魔王の住むとされる宮殿さえ見ずに、彼らは戦力を失った。原因はバルトーとエイグスの未熟さにある、今のエイグスはそう確信している。魔術士と神官を後列に下げ、剣士は前に出るという鉄則を忘れてしまったのだ。結果、夫婦は命を落とし、剣士二人と格闘家だけが命を拾った。
 三人は必死で走り、自分たちの船をつけた海岸まで逃げた。しかし船は壊されていた。絶望する若者を置いて、バグストンは古びた小舟を見つけ出した。バグストンは一人では逃げなかった。追っ手はもう見えている。陽気な格闘家は、すぐさま若者二人を船に乗せた。古びた小舟は、若者二人が乗っただけで沈みそうだった。バグストンは小舟を海に押し出すと、自分は海岸に残った。彼は呆然とする若者たちに笑って見せた。
『お前らには神様がついてない。俺には神様がついている。なら、俺は残っても死なねえさ。お前ら沖に出て溺れんなよ?』
 既に追いついてしまった敵を背に、バグストンは手を振って二人を送り出した。固まったまま遠ざかる若者たちに背を向け、ようやく敵に向き直ると、彼は叫んだ。
『漕げよ馬鹿野郎! お前らはまだ若い、可能性はあるだろう! 俺らはヒリズマたちを死なせちまった償いをしなけりゃいけねえ。俺は前途あるお前らを生かす事で二人に詫びる。お前たちは何を成す!? わからんのなら、それを見つけろ。大丈夫、俺は死なねえ、また会おうぜ!』
 その言葉を、エイグスは一生忘れない。二人は弾かれたように舟を漕いだ。浜辺が見えなくなる頃、爆音と共に、北の空に炎の柱が見えた。二人は、バグストンの死を悟った。涙混じりに必死で漕いで、半日も経った頃、バルトーが舟底の革袋に気付いた。バグストンのものだった。中には、息子への手紙と大金、ロウシィが作った弁当と、ヒリズマが魔法処理を施した水筒が入っていた。二人は死んだ神官の作った、最後の手料理を食べ、魔法使いが好きだった紅茶を飲んだ。紅茶は、ぬるくなっていた。
 二人が餓死寸前の状態で、故郷の島へ流れ着いたのはそれから十日後の事だった。
「俺たちが成す事はなんだったんだろうな」
 ティーカップを皿に置き、エイグスが呟いた。手入れの行き届いた庭に、仕立ての良い服を着て、二人は座っている。ミグの大貴族とアカソーの統治者として。
「成した事、ではなくて成す事、か」
 バルトーは苦そうに呟いた。エイグスは、深く息を吐いた。
「俺は、誰かを幸せに出来たのか?」
「ミグの騎士団長として国を守ったじゃないか」
「無理を言って辞めた途端、後任のラカンが暗殺された。あいつの死はミグどころか世界の損失だ。……あいつに剣を教わっていたカーズは、ラカンの死が自分のせいだと思い込んでいる……」
「貧民救済運動はどうした。飢えや病気に苦しむ人々救われている」
「元々ミグは豊かな国だ、俺のやってる程度で本当に救われている人など……」
「奥さんやケッタは――」
 言ってからバルトーはしまったという顔になった。
「私がルーク家で無ければ妻はまだ生きていた! 妻が生きていれば……ケッタも……」
 そう言ったきり、エイグスは黙り込んでしまった。エイグスはこの数年ですっかり変わってしまった。そう思った時、バルトーは客の気配を感じ取った。
「やれやれ、エイグスも暗くなったものだね。ケッタルス君も、カーズ君も、お前も、親子揃って陰を背負って……」
 バルトーは懐から時計を取り出した。時間通りの来客である。
「ほう、懐中時計かい。ドワーフ級の技術がなければ作れないと聞いたが、高かったろう?」
 ホリンが空いていた椅子に座る。
「ところで、本当にケッタルス君の封異血統は、再封印しなくても良かったのかね?」
 無言のままエイグスが頷く。目覚めてしまった封異血統を封印できる魔術士など、そうはいない。エイグスはホリンの帰還を聞きつけ、息子の力を封印するために島に戻ったのだった。だが――
「ケッタの夢を聞いてしまえば、封印などできません」
 ケッタルスの夢は、若きエイグスの夢だった。そしてクルストルの夢も、若きバルトーの夢だった。
「……息子の夢で、過去の傷を癒そうなどとは考えてはいけないよ。バルトー、お前もだ」
 その言葉に、二人は否定も肯定もしなかった。二人の傷も秘密も、全てホリンにだけは知られている。二人がひた隠しにしている秘密に、ホリンの力を借りた事も少なくはない。
「この島は、嫌な島になったね」
 ホリンはそう言って立ち上がった。
「ここはいつから、英雄を生む島になった。ここはアカソーだろうに。封異血統の吹きだまり、アカソー島だ。閉鎖的になってはいけない。それでは先はない。エイグス、今のお前は《風のエイグス》ではない。凪のエイグスだよ。バルトー、お前も《地のバルトー》などという大層な名は捨ててしまえ。今のお前は、石だ。石頭のバルトーとでも名乗りたまえ。いい大人が過去に縛られて、うだうだと悩むな。お前たちが突っ走らなければ、後に続く者はどうなる?」
 ホリンは二人に背を向けると、空を見上げた。
「息子に悩まされるのは私も同じだ。だからと言って、止まっていては事態は動かないよ。動いて、動いて、それから悩めばいい。予定より早いが、私は行くよ」
 二人が顔を上げると、老人は宙に浮いていた。呪文の詠唱もなしに飛行魔法を使える者など、この老人の他にいないだろう。
「元々私の用事は孫に会う事だしね。その孫も島にはいない、エイグスの用事も済んだ。なら、この島に留まる理由はないだろう。孫のタトゥスに伝えなければいけない事もあるのでね、私は行くよ」
 言い終わると、老人は一瞬のうちに空へ消えた。
「嫌な島になった、か……」
 バルトーはそう呟くと、冷めてしまった紅茶を飲んだ。
「もっともだな」

       †

 アカソー島首都イーンの港から船で一時間ほどの所に、十字島と呼ばれる小島がある。ガイリード家の屋敷がある島だ。
 近づく島を見つめながら、ケッタルスは髪をかき上げて後ろでまとめた。クルストルに問う。
「本当に良いんだな?」
 クルストルは頷く。既に覚悟は出来ていた。
「ケッタこそ、カーズを置いて島を出るのは心配じゃないのか?」
「……父さんに頼む」
 ケッタルスはこの数年、父を恨んできた。憎むわけではない。父は尊敬しているし、やはり親である。だが父は家族を不幸にした、ケッタルスはそう思っている。
「母さんが死んだのは、よく解らない。俺は……父さんが死なせたと思っていた。けど、お前やホリン様の話を聞いていると解らなくなってしまった。でもカーズは違う。父さんがミグに連れて行って、カーズは傷ついて帰ってきた」
 それが許せないのだ。ケッタルスは総じて年下には優しい。特に弟には、自分が父であり、母であり、兄でなければいけないと思っていた。自分のような孤独を味わわせてたまるか、という気持ちもあった。だからこそ、父親なのに事前にカーズを救えなかったエイグスが許せないのであった。
「それでも、父親なんだよな」
 ケッタルスは少し寂しそうに言った。
 船が十字島に着いた。小さな波止場に、女性が立っていた。わずかにクルストルの雰囲気が和らぐ。波止場の女性は、ガイリード家に勤める家政婦の一人だった。彼女はクルストルの姿を認めて、嬉しそうに微笑んだ。
「クルス、お前本当に島出ていいのか?」
 からかうようにケッタルスが言うと、純情な親友は言葉に詰まった。冗談のつもりだったケッタルスは肩をすくめた。
「俺は先にバナさんの所に行ってるぜ」
 そう言って、ケッタルスは船から跳んだ。客を案内するために迎えに来た家政婦は、当の客が先に走り去ってしまったので困惑した。その背後にクルストルが降り立った。
「ケッタルスはせっかちなんだ。バナさんには俺から言っておくよ」
 わずかに頬を紅潮させながら、クルストルはゆっくりと歩き出した。

 ケッタルスはガイリード家の玄関にいた。恰幅の良い家政婦が奥からやってくる。最年長の家政婦のバナである。中央大陸からの移民で、褐色の肌に陽気な性格を持つ豪腕で辣腕な家政婦だった。幼い頃のケッタルスは、この太い腕でよく叩かれ、本気で泣いたものだった。
「バルトーさんと父はいるかな?」
 バナは客人の背後に坊ちゃんと年若い家政婦がいない事に気付いたが、意味ありげな笑みを浮かべただけだった。
 中庭に出ると、遠くの椅子に三人の人影が見えた。ケッタルスがそちらへ歩こうとした時だった。
「あ、ケッタ君、ついでにこれをお願いね」
 バナがトレイを渡してくる。陶器のポットから漂ってくる香りは、紅茶のものだ。
「……普通、客に持たせます?」
「普通の客は、坊ちゃんを海に突き落としたり、一緒に家出したり、泣いて帰ってきたりしません」
 ケッタルスはおとなしくトレイを持って行く事にした。ガイリード家の人々は、ケッタルスにとって限りなく家族に近く、しかし家族ではない存在だった。このような人々に囲まれて育った親友を羨ましく思う事もある。ケッタルスはクルストルの悩みも知っている。バナもクルストルにはあくまでも使用人として接する。先ほどの若い家政婦も将来的には解らないが、今は使用人として接している。だが、ケッタルスは思う。周囲に頼れる者がいない孤独か、周囲に対等な者がいない孤独か、どちらがより辛いのだろうと。それに対する答えは出ている。
 二人は似た孤独を持ち、同調した。しかし似てはいても、違うのだ。違う限り、自分たちはお互いの痛みを、いつまで経っても完全には理解できないだろう。自分たちよりももっと孤独な、もっと辛い境遇の者もいるだろう。だがそれは他人の目から見た場合であるとケッタルスは考える。他人から見た差がどうであれ、当人にとっては自らの孤独こそが、自らの痛みこそが、最も重く辛いものなのだと。
 考えながら歩いていると、背後からクルストルの声が聞こえた。我に返ると、いつの間にか庭の人影は二人に減っていた。クルストルが小走りで追いつく。
「俺が持とう」
 そう言ってクルストルが手を差し伸べる。彼の優しさは嫌いではないが、ケッタルスは首を振った。この親友は、先ほどの自分のような事を考えないだろう。考えて欲しくない。
 バルトーとエイグスのもとに着き、トレイを置く。
「父上、私たちは明日、島を出る事にしました」
 クルストルがバルトーに告げる。ケッタルスは言葉を継いでエイグスに言った。
「何日も別れを惜しむなんて、帰って来れないみたいで嫌だしね。…………今度こそ」
 一旦言葉を切って、ケッタルスは目をつむった。軽く息を吐き出して目を開ける。
「今度こそ、カーズを頼むぞ……糞親父」
 それだけ言って、ケッタルスは照れを隠すように父から視線をそらせた。
 エイグスは息子から初めて親父と呼ばれた事に驚いていた。
「行ってこい、カーズは任せろ」
 無意識に息子の肩に手を置いて、エイグスは父らしい言葉を掛けたのが数年ぶりだと気づいた。それと同時に、エイグスはようやく息子の孤独に気づいた。エイグスは悩む様子を見せたが、迷いを断ち切るように首を振ると、息子の肩を引き寄せて頭を撫でた。
「死ぬな、元気に帰って来い」
 耳元でささやかれた父の言葉に、ケッタルスは目を見開いた。目尻に熱いものが溜まり、頬をつたって落ちる。
「………………行ってきます」
 翌日、輝暦二九七五年黒魚の月二八日、二人の若者はアカソーから世界へと羽ばたいた。
 この旅立ちが悲劇の始まりであろうとは、この時誰も想像してはいなかった……。
――続

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