ある世界の話をしよう。

 我々と限りなく近く、限りなく遠い世界の話を。

 始まりの鳥が創造し、今は堕ちしイクソディアが大地を作り、終焉の狼が幕を引くという世界の話を。

 異形の獣が生き、竜が偉大なる言葉をつむぎ、妖精が可憐な詩をうたい、神々が存在を示すその世界――《アラニア》へと通じる扉がある。

 五つの大陸、あまたの国、そのそれぞれに住まう者。
 人、獣、妖精、精霊、竜、そして神。

 扉をくぐれば、彼らは待っている。

 さあ、扉は開かれた。
 今、ひとときの、幻想の世界へといざなわん――




 五つの大陸がある。
 西の大陸、精霊が住まう地ミズラック。東の大陸、竜が住まう地ウェイティル。北の大陸、切り離された地エニズマ。南の大陸、神に最も近い地アークランド。中央大陸、全てが住まう地アラニス。
 そのアラニスと南のアークランドを隔てる海に、《英雄を生む島》と呼ばれる島があった。名を、アカソー島という。
 五つの町と無数の村、移動集落を合わせると、人口十八万を越える自治国家である。北に山、南に森林、東西に海、中央に平野といった豊かな自然を持つこの島は、二つの大陸にはさまれているせいか、幾多の動乱に巻き込まれ続けてきた。
 今から千年以上も前、輝暦一六〇〇年代に起きた最初の大陸大戦もその一例である。
 アークランド大陸の大国にミグという世界最古の王国がある。ミグに残された古代の呪法を狙い、アラニス大陸の列強が侵攻の足がかりにしようとしたのが、アカソー島であった。
 当時のアカソー国主は、味方に引き入れようとする列強からの脅しや蠱惑的な報酬を一蹴してミグに危険を知らせ、共に列強を相手に戦った。それ以降、大陸の強国ミグとアカソー島いう本来吊り合わない二国家は、主従ではなく対等な友好国として協力し合ってきた。
 しかし、それでも所詮は島国とばかりに、海賊や亡国の残党、懲りずにミグを狙う国などが侵入し、アカソーは度重なる戦乱に見舞われ続けた。
 輝暦も二七五〇年代を終えようとする頃、アカソー島の国主ガイリード家はついに耐えかね、対等だったミグとの関係を主従に変えて庇護を受けようとした。しかしこれには長い歴史の間、国主ガイリード家に一度たりとも異を唱えなかった島民たちが反対の声を上げ、今まで以上に強力な、島を守るための組織を作ろうという運動が起こった。島兵隊の始まりである。
 それから二百年以上の時が過ぎ、輝暦二九七五年。
 アカソー島を守る島兵隊に、二人の若き英雄の姿があった。


《偽章》長き前奏曲
第一話「英雄を生む島」


 アカソー北部に広がるノウン山地。人の侵入を拒むかのような山々の麓、高台の草原を二騎の人馬が駆けていた。
 一人は粗末な服を身にまとい、風に黄金色の長髪をなびかせ、もう一人は威圧的なまでに巨大な、黒光りする鎧兜に身を包んでいる。
 先を疾駆する金髪の男と、後に続く鎧兜の間が徐々に開いていく。十馬身もその間が離れようかとした時、鎧兜が声を張り上げた。
「ケッタルス!」
 声は意外なほどに若かった。ケッタルスと呼ばれた金髪の男が声に気づき、振り返る。男は、その性を見紛うような顔立ちの青年だった。
「少し休もう、馬が持たない!」
 主人の言葉を肯定するように、黒い馬がいななく。ケッタルスは苦笑いを浮かべながら鎧兜の男へと近づいて来た。
「お前な、馬の事を気づかうんだったらその馬鹿でかい鎧は無いだろ? 大体ちょっとした見回りに、なんでそんな重武装が必要なんだよ」
 ケッタルスは剣さえ帯びない完全な非武装だった。黒ずくめの男は、鎧兜と腰の長剣に加えて、馬の鞍に予備の剣まで下げている。わずかに不機嫌な声で黒い鎧兜が反論する。
「盗賊団を探すのがちょっとした見回りか? もし本当に潜伏していたら戦いになるんだぞ、武装は必要だ」
「いらないさ。こんなちっぽけな島に隠れるような盗賊だぞ? 剣一本あれば簡単に潰せるよ」
 丸腰にも関わらず自信満々にそう言ってから、わずかに表情を曇らせる。
「いや、ちっぽけなってのは言いすぎだな。悪い」
「いいよ、実際ちっぽけな島なんだから。でもな、俺が領主になったら、この島をもっといい島にしてみせるさ」
 そう言って、鎧兜の男は兜を脱いだ。黒い兜の下から出てきたのは、黒髪黒瞳の、どこか幼さの残る青年の顔だった。彼の名はクルストル・ラーグ・ガイリード。アカソー島を治めるガイリード家の一人息子、将来の領主である。
 クルストルは黒毛の馬から下りると、予備の剣を下げた鞍を外し、軽く首を叩いて馬を放してやった。ケッタルスもそれにならって馬を放すと、おもむろに草原へ座り込んだ。
 草を食む馬を眺めながらあぐらをかくと、ケッタルスは大きく伸びをした。
「いい島になっても、やっぱり島だよ。クルス、俺はな――」
「世界を見たい、だろ。わかってるよ」
 お互いの夢を語り合って、十年以上の時を重ねた二人である。いまさら皆まで言わずとも、伝わることの方が多い。ケッタルスが島を出たがっている事も、クルストルが島を世界に注目されるような、立派な島にしたがっている事も、お互いに理解していた。
 ケッタルスはあぐらを崩すと、手足を投げ出して大の字に寝転んだ。クルストルも巨大な鎧を外してから、寝転ぶ事にした。山から下りてきた冷気をともなった風が、初夏の草原を軽く波打たせた。
 幾分も経った頃、いつの間にかうたた寝をしていたケッタルスが跳ね起きた。その気配を察してクルストルも覚醒する。ケッタルスが三度、指笛を吹く。クルストルも追従して指笛を吹いた。十秒ほど間隔を開けてから、再び吹く。しばらくすると黒馬が姿を現した。クルストルの愛馬である。しかし、何度試してもケッタルスの馬は依然として姿を現さなかった。ケッタルスが何かを言おうとする前に、クルストルは既に鎧を身に付け始めていた。
「使え」
 言って、クルストルは鞍から予備の剣を外した。ケッタルスはそれを受け取るや否や、先ほど馬が歩いていった丘へ猛然と走り出した。クルストルが愛馬に鞍をつけ終え、鎧の止め具を完全に止めた時には、既にケッタルスの姿は見えなくなっていた。
「まったく、《風》の異名の通りだな……」
 黒い鎧兜が黒馬にまたがる。草原に蹄が沈み込む。
「走れるか?」
 優しい声音で黒馬に問うと、彼は馬鹿にするなと言わんばかりにいなないた。
 一騎の黒影が疾駆する。高台の草原から北の山岳へと、二分ほど走った頃になってようやく、風になびく金髪を認めることができた。ケッタルスは見上げるような長い急勾配の上に立っていた。クルストルはその先がすぐさま急な下り坂となっており、転がり落ちれば危険な場所だったと記憶していた。一面を草で覆われているために柔和な印象を受けるのだが、草が無ければただの崖である。
「馬が転がり落ちたか……」と、クルストルは口内で呟いた。おおかた草を食みながら坂を上っていて、急な下り坂になった所で足を滑らせたのだろう。黒馬から降りて親友の背中を目指しながら考える。いくら傾斜が激しいといっても、そう簡単に馬が足を滑らせるだろうかと。答えを導き出す前に、彼は金髪の青年に追いついた。
「落ちたのか?」
 そう問いかけながら横に並んで、絶句する。
 眼下の急傾斜は草一本無い、岩だらけの崖と化していた。
 先月この地域を見た時には、この坂は急勾配ではあるが、草の生えた約十五メルほどの下り坂でしかなかった。それが今では草の代わりに石が落ち、柔らかい土壌の代わりにゴツゴツとした岩が突き出されている。その崖の下に、先刻までケッタルスを乗せていた馬が無残な死体を晒していた。
「なんだ? ひと月の間に何があったんだ?」
「……調べる」
 そう言ってケッタルスは剣を抜くと、危なげない足取りで身軽に崖の下へと降りていった。残されたクルストルは逡巡の後、友人に続いた。軽やかなケッタルスとは対照的に、クルストルが一歩下りると彼の足場は崩れ去った。決して彼自身の体重が重いわけではない。鎧が非常識なまでに大きく、重いのである。
「クルス、戻れ!」
 突然、ケッタルスが叫んで剣を振る。飛来した矢が空中で二つに割れる。クルストルは驚愕の表情を浮かべると、そのまま一気に崖を滑り降りた。矢は雨のように降り注いだが、黄金色の髪が躍るたびに半分は切り裂かれ、残りの半分は全て黒い鎧がその身で弾いた。
 矢の雨がやんだ。岩場の影から何人かの男が姿を現した。どれも、クルストルの記憶には無い顔である。それは即ち、この島の人間ではないという事だった。
 クルストルが大音声を上げる。
「我々はアカソー島が国主、ガイリードより島の防衛、警護を任された島兵隊である! 貴殿ら行為はこの島の法に抵触している。速やかに武器を捨て、投降せよ!」
 だがその声は逆効果であった。矢が防がれた事に加えて、威圧的な黒い、それも巨大な鎧に気おされていた男たちは、クルストルの若すぎる声に自信を取り戻してしまった。
「なんだガキかよ? 女の前だからってお子様が格好をつけてんな!」
 男の一人がそう言い、他の男たちが大声で笑った。男はケッタルスを指差して女と言ったのだった。
 次の瞬間、男の一人の首が宙に舞った。笑い声が止まり、笑ったままの表情が固まる。
 黒い鎧兜の横に、彼らが女性だと勘違いした青年の姿がない。首を失くした男の背後から声が上がる。
「誰が女だ馬鹿野郎。人が気にしてる事で大笑いしやがって」
 声のする方を向いた彼らが見たものは、黄金の風だった。
 銀光が走る。
「ケッタ!!」
 クルストルの制止に、風が止まった。ケッタルスは軽く舌打ちをすると、クルストルの横へ飛びすさって剣を納めた。目にもとまらぬ速さとは、まさにこの青年の動きの事である。
「勧告の途中で斬るな、お前――」
「最初に俺たちを射掛けた時点で完全に黒だろうが。斬って何が悪い」
 怒気に任せてそう言ってから短く息を吐き、いくぶん落ち着いた調子で言葉を続ける。
「すまん、あいつらがどこの誰で、何をしてるのかを聞き出してからだったな」
 クルストルは「そもそも斬るな」という言葉を飲み込んで、島兵隊の口上を述べる事にした。
「貴殿らに警告する、武器を捨てて投降するか、我らを相手に戦うか、二つに一つだ。選び取れ! 我が名は島兵副長、クルストル・ラーグ・ガイリード!」
 叫んで、横目でケッタルスを見る。ケッタルスも表情を引き締めて口上を述べる。
「同じく、島兵隊長、ケッタルス・シーザー・ルーク。貴様らは既に我らを攻撃した。言い逃れは無理だと思え。死ぬか、武器を捨てるか、選び取れ!」
 アカソー島を守る島兵隊九千人を率いるのが、この若者たちだと言っても信用する者はいないだろう。だが、男の一人が震えた声でその《名》を呟いた。
「《黄金の風》と《黒い重騎士》……」
 その名は、島外まで知れ渡る若き天才剣士たちの二つ名であった。この島は英雄を生む島、彼らは十八という弱冠で既に島民たちから英雄と崇められていた。
 男たちは素直に武器を捨てた。ただし、素直でない一部の者だけは、武器の代わりに命を捨てる事となった。
 
       †
 
 二人が賊を捕らえてから三日が過ぎた。
 この三日で彼らが何者なのかわかったのは、強奪した危険な魔法や生物、武器などを商品とする盗賊だという事と、島に拠点を作ろうとしていた事の二つだけだった。組織の規模や、何をこの島に持ち込んだのかは一切わかっていない。
 大陸間にあるアカソーには、このような拠点を作ろうとする盗賊や海賊、反政府組織などが密入国することは少なくない。そのために島を守る兵、その名も明瞭な島兵隊と呼ばれる組織が、各町村ごとに詰所を置いて島の治安に目を光らせている。
 二百年以上続く島兵隊の歴史でも、隊長副長ともに十八歳の若者がつとめた例は無い。反対意見が少ないのは、彼らの力を認めているからなのか、それとも副長が領主の一人息子だからなのかは定かではない。少なくとも、彼らの実力が親の七光りではないという事だけは、誰もが認める事実であった。しかし実力は認めていても、釈然としない気持ちを持つ者も少なくはない。
 盗賊の尋問を受け持つ、壮年の島兵ミンデルもその一人である。
「気に入らん!」
 詰所近くの酒場でミンデルは吠えた。手中のゴブレットには琥珀色の液体が揺らめいている。
「何ゆえ私が、かのような若僧の後始末をせねばならんのだ!」
 口髭から酒がしたたり落ちる。酒気を帯びた愚痴を真正面から受けて、ミンデルの部下は引きつった苦笑いを浮かべた。時刻はもう竜の刻を過ぎている。店に客が残っていないのが不幸中の幸いである。
「バルトー様やエイグス卿の息子だからといって、議会の連中は甘すぎるのではないか。確かに彼らは強い、だがまだまだ未熟ではないか! そう思わんか、思うだろうドミ!」
 彼の部下、運の悪いドミが思ったのは、上司が酒癖の悪い男だとは知らなかったという事と、今晩は家に帰れるのかという事だった。
「でもねミンデルさん、あの賊を捕まえられたのはひとえに隊長たちのおかげでしょう。休日返上で毎月島中を見て回って、こまめに調べたからこそ、あいつらが見つかったんですから」
 まだ若いドミからすれば、上司よりもケッタルスたちの方が親しみを覚えられる。ミンデルが長年、島兵隊という組織を中堅として支えてきたのは知っている。彼のような人間が裏方に回って奔走したおかげで解決できた問題も多い。二人が現れなければ、隊長になっていた可能性があるとさえ言われた優秀な兵士である。対するケッタルスとクルストルが島兵になったのは三年前。ドミの目から見ても、あからさまに当時の隊長や議員連中から贔屓されていた。だが、二人はそれに反発した。率先して危険な現場に出向き、他人がやりたがらない役目も引き受け、戦いとなれば最前線で剣を振るった。これに心象を良くした兵も多く、ドミ自身もその一人だった。逆にそれを一般兵へのご機嫌取りと嫌った兵もいる。ミンデルはその一人だった。
 ミンデルの気持ちも充分わかるが、ドミは二人を弁護してやりたかった。
「甘い!」
 その気持ちも打ち砕くほどミンデルは酔っていた。
「ケッタルスが死なせた馬は、我々が育てた馬だぞ。それを非番の日に、それも勝手に持ち出して、しかも死なせたのだぞ? そんな事が許されるのは、彼が貴族の息子だからだろう、違うかね。彼らに実力がある事は事実だろう。だがね、それだけで我々島兵九千人の頂点に立てるほど、我々は人材に困ってはいない!」
 その発言は確かに的を射ていた。二人が隊長になった表立った理由は、島民たちの人気に後押しされたという事になっている。しかし彼らが目立っている理由は、平均をやや上回る容姿やその強さではなく、親の威光という点が大きい。
 クルストルの父、バルトーはアカソー島の領主であり、ケッタルスの父、エイグス卿は南の大陸にある友好国、ミグの大貴族である。
 彼らは若かりし頃、島を出て大陸で名をはせた二人組の戦士だった。エイグス卿が素早い動きで敵を翻弄し、バルトーが重戦士として敵を屠るという戦い方で戦果を上げ、英雄と呼ばれた。それは今のケッタルスたちの戦い方と酷似していた。だからこそ島民はあらゆる意味で、英雄の二世という目でケッタルスたちを見ている。それに加えての、有力者たちの贔屓である。そうして誕生した最年少の隊長に使われ、後始末を押し付けられるというのでは、ミンデルのような古参兵が憤るのも無理はなかった。
 特にこの数日は、大陸に渡っていた英雄が久しぶりに帰って来るので、一般の島兵はいつもに増して警備や見回りの仕事が増えている。そんな時に仕事を増やされれば、たまったものではない。
 鬱憤を吐き終えたのか、ミンデルは短くため息をついてゴブレットを傾けかけ、また、ため息をついた。ゴブレットは既に空になっていた。
 派手な音を立てて酒場のドアが開いたのは、ドミが片手を上げて店主を呼ぼうとした時だった。
「ミンデルさん、ここでしたか! 大変です!」
 島兵の腕章をつけた男が店に入ってきた。
「大変だと言う前に、理由から告げろと教えたはずだが?」
 言いながらミンデルは、酒気の抜けた顔で立ち上がった。
「賊の一人が逃げました!」
 ドミが椅子を跳ね除けて立ち上がる。既にミンデルは代金を置いて走り出していた。
 二人が詰所に行くと、既にケッタルスと数名の島兵が駆けつけていた。その横には三頭の馬。これで逃げた男を追うつもりのようだ。
 ドミは遅れた事を叱責されるかと心配したが、黄金色の上官は何も言わなかった。しばらくすると、夜闇の中から黒い騎影が抜け出してきた。クルストルである。いつもの鎧兜はなく、簡素な普段着姿だった。副官の到着を待って、ケッタルスが集まった全員を注目させた。
「事情は聞いた。牢番をしていた者、もし住民に危害が及んだ場合、島に残れると思うな。何としてでも探し出せ。自分の手で捕まえられたら不問にしてやる、本気で探せ。集まってくれた者、こんな時間に駆けつけてくれて礼を言う。これより、一名は馬で他の町へ脱走の報を知らせてもらう。その他は町の中を探してくれ。増援の兵士がある程度集まったら各々の判断で動けと伝えろ。使える馬がいれば使ってもいい。状況は一刻を争う。他、二名は馬にて俺について来てもらおう」
 弱冠十八の青年の命令に、大人たちが神妙な顔で聞き入る。神妙な顔をしていない大人が、ケッタルスに問いかけた。
「隊長殿は二名と言われましたが、馬は伝令の分を除けば二頭しかいません。まさかご自身は歩くおつもりですかな?」
「ん? ミンデル殿か、貴公昨夜は夜番だっただろう。今日は非番なのにわざわざ駆けつけてきたのか? ひどい汗だな、貴公は帰ってもいいぞ」
 侮辱されたと感じたミンデルが顔色を変えた瞬間、クルストルが口を開いた。
「ミンデルさん、このままですと今日も寝れませんよ。流石にそれはつらいでしょう」
 笑顔でさらりと言われて、ミンデルも怒る機会を逸してしまった。ケッタルスが友人の言葉を継いだ。
「まったくだ。家族も心配しているだろうに。どうしても残るというのなら……そうだな、馬でついて来てくれ」
 言って、ミンデルの後ろで息を切らしているドミを見る。ケッタルスは苦笑いを浮かべた。
「ドミ殿、帰りたければ帰っていいぞ。おおかた上司の誘いを断れなかったんだろ?」
 思わず「ありがとうございます」と言いかけたドミの声は、その上司に遮られた。
「結構です。我々はお言葉どおり、馬で同行させていただきます。して、隊長殿はどうなされるのです?」
「走るさ」
「ご自分の足で?」
「他人の足で走れるほど器用じゃない」
 そう言って微笑すると、ケッタルスは親友に頷きかけた。クルストルが集まった十余名の島兵を二、三名づつに分けて捜索に出させる。残ったのは四人、ケッタルスとクルストル、ミンデルとドミだけだった。
「先に行くぞ」
 言うが早いか、ケッタルスが自らの足で走り出す。クルストルは二人が馬に乗るのを待ってやった。ミンデルは難なく騎乗したが、ドミが手間取っている。彼は片手で数えられるほどしか、馬に乗ったことがなかった。
 ようやくドミが乗れた時には、ケッタルスの姿は見えなくなっていた。
 クルストルが二人の側へ馬を寄せ、懐から地図を取り出す。覗き込む二人に、クルストルは地図の上の方を指差した。
「今がこのノウンの町、ケッタが向かった先はここよりさらに北の――」
 指が上がっていき、北部にあるノウン山地の手前で止まった。
「この高台。あの盗賊たちが見つかったのはここだ。ひょっとすると仲間が残っていて、この島から出る方法を持っているかも知れない。私たちは今からその調査に向かう。二人ともついて来れますか?」
 途中で相手が年上だった事を思い出したのか、言葉尻が柔らかい。二人は力強く頷いた。
「では、行きましょうか。急がないとケッタに追いつけない」
 そう言ってクルストルは馬首をめぐらせた。ミンデルとドミは不思議そうな顔をしたが、すぐさまクルストルの後に続いた。
 石畳を駆ける馬の蹄が、静かな夜の町に響く。
 アカソーでも石畳を敷いている町は三つしかなく、一番山地に近いこのノウンが、首都であるイーンに継いで道が舗装されている。急に蹄の音が響かなくなった。町の門が近づいているのだ。かがり火の下に立つ門番は、既に門を開いてクルストルたちを待っていた。三人が礼も言わずに門を駆け抜けると、門番は丁寧に門を閉めた。町の外は、深淵の夜闇に包まれていた。
 
       †
 
 闇を三騎の人馬が駆け抜ける。
 先頭は黒馬とクルストル、それに続くのはミンデル。最後に続くドミは、落馬しないよう馬首にしがみついていた。それでも次第に先を行く二頭との間隔が開く。
「ま、待ってください!」
 たまりかねた悲鳴にミンデルが気づく。先行する二人は少し速度を落とすと、ドミの速度に合わせてやった。
「ドミさんは乗馬経験が少ないのですか?」
 ドミに代わってミンデルが少ないと答えた。
 アカソー島には最初から馬がいたわけではない。古くにはいた記録があるが、一度絶滅してしまっており、今の馬は島民が他国から輸入して繁殖させたものだ。アカソーは広いとはいえ島であるため広さにも限りがあり、草にも限りがある。アカソーの草は薬草や香草として使えるものが多く、また他の草食動物の方がアカソーでは重要度が高いため、あまり馬に分け与える草はない。際限なく馬を増やすことは禁じられ、一定数になるように制限をしているのだ。彼ら島兵が乗る馬も限りがあるので一人一人の決まった馬がいるのではなく、持ち回りで乗ることになっている。無論、領主の息子であるクルストルの黒馬は例外だが。
「ドミはサルンの町の出なので、馬よりも牛やアギューに乗るほうが得意なのです」
 西の町サルンは農耕が盛んだが、その分馬の数は少ない。せいぜい島兵隊の所に十頭と、島営の乗合馬車組合に数頭といったところだろう。一般の人々はアギューと呼ばれる二足歩行の、鳥と牛を混ぜたような動物に乗ることが多いのだ。
「そういえば、ケッタの馬の件はすみませんでした。ずっとミンデルさんのような方が育ててくれた馬なのに、あんな所で死なせてしまいました」
「副長殿に謝っていただかなくとも結構。筋が違います。それと、隊長殿の事を愛称で呼ぶのは部下への示しがつきませんので、任務中にはお控えいただきたい。……馬のお気づかいは感謝します」
 馬に揺られながらあっけに取られたクルストルは、しかし怒らずに礼を言った。
「私が未熟だったようです。これからは、注意します」
 夜闇の中でさえ爽やかなその笑顔は、本心からのものだった。
「ところで、隊長殿の姿が見えませんが、もう追い抜いてしまったのではありませんか?」
 馬で走り始めて随分と時間が経つ。それでもケッタルスの姿は見えなかった。
「黄金の風……」と呟いたのは、馬上で苦しそうなドミだった。
「隊長殿の異名か? それがどうした」
「ケッタルスさんは、凄まじく、動きが、早いそう、です」
 言って、ドミが口を押さえる。先刻までの酒と、慣れない乗馬で酔いが回ってきている。
「風と言っても――」
「言っておきますが、ケッタ……じゃない、隊長の異名は、剣の事だけではありませんよ。あいつ……じゃない、隊長は素早さに加えて、常人離れした体力と脚力を持っています。本気で走ったら馬よりも早い」
 クルストルの言葉に、ミンデルは思わず吹き出しかけた。いかにも子供の誇張だと思ったのである。実際にその言葉が誇張ではないと知ったのは、急傾斜のそばで休んでいるケッタルスを見つけた時だった。馬に慣れないドミに合わせて、並足よりも少し速い程度で走ったとはいえ、馬は馬である。
 クルストルが馬から下り、ケッタルスの元へと歩み寄る。二人が何かを小声で話しているのを横目に、馬から下りたミンデルは、馬から下りれずに困っているドミに手を貸してやった。クルストルが二人を手招きする。今にも吐きそうなドミの背をさすりながら、ミンデルがやって来ると、手ぬぐいで汗を拭いていたケッタルスが小声を発した。
「この近くに奴らがいるのは間違いない。どうやら他に仲間がいたらしい、脱獄した奴を馬で助けに来ていた。どこに隠れているのか調べようと思ったが……すまん、見失った」
 大きく息を吐いて、ケッタルスが立ち上がる。本当に走っていたらしく、疲労の色が見える。ミンデルからすれば、馬よりも早く走れるというのも信じられない話だが、その速度でここまで走って来れた体力も人間離れしている。
「あそこの――」と言ってケッタルスが急な傾斜を指差す。
「坂の反対側が、ひと月の間に崖になっているというのは前にも言ったな? この前はそこから奴らが出てきた。つまり、あの崖の辺りに奴らが隠れ潜む場所、もしくはその出入り口があると思われる。俺とクルスが崖を下りる、二人は崖の上から周囲を警戒していてくれ」
 そういうと、ケッタルスとクルストルは急傾斜を上り始めた。ミンデルとドミも周囲を警戒しながらそれに続く。
 坂の上から見下ろす夜の崖は、星明りに照らされても足場がまったく見えなかった。どうするのかと思い、ミンデルがケッタルスを見ると、彼は自信に満ちた笑顔で片目を閉じて見せた。ケッタルスが上着の裾を引き上げると、腰に下がったポーチがあらわになった。彼はそこから少し白濁した透明な石を取り出すと、眼前にかかげて目を閉じた。
「フリート・フリート・イル・アラ・フリート」
 不思議な言葉を呟くと、石が白く輝いた。
「具現せよ――《フリート》」
 石が刹那の閃光を見せると、石の前に直径二十セルほどの火の玉が現れた。
「……魔法、ですか?」
「一番簡単なやつさ」
 ミンデルの呟きにそう答えて、ケッタルスは火の玉の灯りを頼りに、崖を駆け下りていった。驚いたまま固まるミンデルにクルストルが笑いかける。
「昔、私たちと遊んでくれた人が魔術士の卵だったんです。その時に、少しだけ教えてもらった入門用の魔法なんですよ。まあ、魔力を増幅させる石を使っても、一番簡単な疲労回復か炎の魔法くらいしか使えないんですけどね」
 クルストルがそう笑うと、火の玉が崖下からゆっくりと中腹まで上がってきた。
「ケッタが崖下に着いたようですね。私などはまったく成功しなかったんですが、あいつは猛練習したらしくて、あの火の玉だけは自分の意志で少し操れるようになったんですよ」
 親友の成果を誇らしそうに言うと、クルストルも照らされた足場を頼りに、崖を下りていく。しばらくすると、クルストルも崖下に到着したらしく、火の玉が消えた。ミンデルとドミはどうして良いかわからずに、暗闇の中で顔を見合わせた。

       †

 時を同じくしてアカソー島の首都、最東端の港町イーンに一隻の船が入港していた。時刻は天石の刻を半分も過ぎた頃である。普段なら港を閉鎖している時刻だ。それにも関わらず到着した船から、赤い影が下り立った。
 影は荷も下ろさず波止場を進み、杖を突きながら、かがり火の焚かれた町の入口へ向かった。
「お待ちしておりました」
 影に声をかけたのは、額に十字傷を負った黒ずくめの男だった。男は口髭を吊り上げると、笑顔で赤い影へと歩み寄る。
「久しいな。私を迎えに来るとはどういう風の吹きまわしかね?」
 影が発した声は紛れもなく老人のそれであったが、疲れや衰えを一切感じさせない力強い声だった。
「何、この機会を逃せば、生きてあなたに会う事はないだろうと思いましてね」
 男は笑いながら、赤い影をかがり火の焚かれた町へと招き入れた。火が爆ぜる。赤い影は、血で染めたような深紅のローブを身に纏った老人だった。
「私はまだまだ死なんよ。色々と、しなくてはいけない事も多いのでな。……ふむ、時にこの島で魔法を使える者は何人いたかな?」
「は? 魔法ですか? ……我々が確認している者で魔法を使えるのは、司祭のギュレ師に島兵顧問のフーイン師くらいのものですが」
「この町だけではなく、この島全体でだ。それも熟練者ではなく、未熟者だ」
「島全体、となると流石に……。まだ若い者で魔法を使えるのは、あのリゲル・トラウムくらいのものですが……。どうなされたのです、急にそんな事をお聞きになって」
 老人は眉間に皺を寄せ、一歩前へ進んだ。
「この島の北部で、誰かが火の魔法を使っている。かなり未熟で、弱々しい、不完全な魔法だ。こういう魔法は好かんな」
 そう言うと老人は大きく杖を振った。血の色をしたローブが夜風にひるがえる。
「どのような者があんな魔法の使い方をしているのか、物見に行く。お前も来るか?」
 顔は笑っていたが、老人の目はまったく笑っていなかった。十字傷の男は冷や汗をかきながら、ゆっくりと頷いた。次の刹那、二人の体が宙に浮いた。もしこの場に魔法に精通する者がいれば、大層驚いただろう。飛翔魔法は大変難しく、浮く前も浮いてからも呪文を詠唱し続ける必要がある。一人の術者が呪文を唱えずに、それも複数の人間を浮遊させる事など、普通では不可能なのだ。老人はいとも簡単に不可能を可能にすると、北の空を睨みつけた。
「行くぞ……」
 赤と黒、二つの人影が北の夜空へと消えて行く。
 ケッタルスに命じられた伝令が、イーンの町に着いたのはそれから数分後だった。

       †

「クルス! 皆を連れて上に逃げろ!」
 クルストルが崖下に着いた瞬間ケッタルスが叫んだ。
 ケッタルスの足元には、既に屍となった脱走者が転がっていた。死体は綺麗なものである。一切血は流れておらず、ケッタルスの剣も鞘に納まったままだった。
 クルストルが崖の中腹まで降りてきていたミンデルたちを制止する。ケッタルスが再び炎の魔法を使う。火の玉に照らされたのは、崖の上からでは見えなかった横穴と、そこから顔を覗かせている一匹の大蛇だった。ケッタルスは容赦なく火の玉を大蛇に叩きつけた。
「蛇……?」
 崖の中腹でミンデルが不可解そうに呟く。横穴から飛び出してきた大蛇は、三メルにも及ぶその巨躯をくねらせて火を消そうとした。よく見ると、大蛇の体は不思議な形をしていた。腹が膨れており、未発達だが足のようなものが生えている。
「蛇じゃ……ない」
 青ざめた顔でクルストルが言う。
「ミンデルさん、すぐに崖の上へ!」
 言いながら、クルストルは腰に下げた剣を抜き放った。
「あれは……蛇じゃない。コッカトリスです!」
 クルストルがケッタルスの横へ駆け寄ってくる。ケッタルスは命令を聞かなかった友人に、一瞬憮然とした表情を見せたが、すぐに苦笑して蛇に向き直った。
「ケッタ、こいつは――」
「バジリスクだな、コッカトリスになる寸前の」
 かつて、見たもの全てを石に変えたとされる伝説の怪物がいた。その怪物の血から生まれた蛇が、赤い斑点を頭に持つ蛇、バジリスクである。バジリスクの視線には毒が含まれているとされ、生命力の弱いものは見られただけで命を失い、大人でも視線を合わせると死に至る。だが、バジリスクの脅威はそこではない。成長すると赤い斑点が鶏冠に変化し、四肢が生え、四本足の鳥へと姿を変える。それが、コッカトリスである。
 今ケッタルスたちの前にいるのは、コッカトリスへと姿を変えようとしているバジリスクであった。
 二人は自分たちの運に感謝した。彼らはバジリスクの生態についての知識があった。そしてその知識には、幼生から成体へと変わる途中のバジリスクは、脅威となる目を閉じていると記されていた。
 バジリスクが鎌首をもたげる。
「目を開ける前に斬るぞ!」
「おう!」
 一陣の風が吹き、ケッタルスがバジリスクへと斬りかかる。ケッタルスの振った剣は、バジリスクの牙によって止められた。続けざまにクルストルが斬りかかり、その剛力でバジリスクの頭を貫いた。すぐさまケッタルスが剣を振るい、蛇の体を切り刻む。クルストルはバジリスクの頭から剣を引き抜きざま、今度は口内を横一閃に切り裂いた。あっと言う間の出来事だった。
「意外とあっけないもんだな」と言ってケッタルスが笑顔を見せる。
「まだ生きているか……。ちゃんと、とどめをさしてやろう」
 そう言ってクルストルが剣を振り下ろした。
 バキ、と音を立ててクルストルの剣が砕け散った。
「……え?」
 ケッタルスが友人の腕を掴んで大きく後ろへ跳びすさる。
「俺はやっとこの坂が崖になった理由がわかったぞ……」
 岩陰の穴を睨みつけながら呟く友人に、クルストルは石化した剣を眺めて頷いた。
「気が合うな、俺もだ」
 岩陰の穴から何かが出てこようとしていた。クルストルは崖を見上げた。ミンデルたちはまだ逃げていなかった。逃げろと叫ぼうとした時、穴を隠していた岩が吹き飛ぶ。
 そこから出てきたのは、馬よりもふたまわりは巨大な、四本足の鳥――コッカトリスの成体だった。
「子供を殺されて怒れる親のご登場、か」
 ケッタルスが冷や汗をぬぐう。
「目を見るなよ、石にされるぞ!」
 叫んで、二人は別の方向へと走り出した。ケッタルスがコッカトリスの背後に回り込もうと、右から崖を駆け上がる。クルストルは物陰に体を隠すように走りながら、左から崖をよじ登った。ある程度行った所で、崖の中腹に向かって手を伸ばす。剣が無くては戦えない。しかし剣を求められたミンデルたちは、ただ立ち尽くすだけで、クルストルの意図に気づかなかった。
「剣を!」
 そう叫んだのがクルストルの不運だった。コッカトリスがクルストルを睨みつける。
「クルス!」
 その叫びがクルストルの幸運だった。コッカトリスがケッタルスの方を向きかける。ケッタルスはすぐさま走って視線をかわす。《風》と例えられる速さがなければ不可能な芸当だった。
 ケッタルスは岩陰に隠れて、クルストルの様子をうかがい、息を飲んだ。彼が見たものは、足を崖と同化させた親友の姿だった。幸いにも上半身は無事のようだが、身動きが取れないのならば、コッカトリスが再びクルストルを見た場合――
 ケッタルスは雄たけびを上げて走り出していた。
 コッカトリスの懐に飛び込み、視線を喰らわないように、しかしクルストルたちに注意を向けさせないように、彼はひたすら動き続けた。剣を振っても、足場が悪く、充分に踏み込めない状況では効果がなかった。
 コッカトリスが大きく息を吸い込む。ケッタルスは気づかない。クルストルが叫ぶ。
「毒の息だぞ! ケッタァァッ!」
 声に反応したコッカトリスがクルストルに向き直った。それとまったく同じ瞬間、ケッタルスが剣を突き上げてコッカトリスの腹を刺す。巨大な鳥の口から叫び声と、毒の息が漏れる。
 クルストルは体のほとんどを石と化し、ケッタルスは毒に冒され、コッカトリスは命に別状のない傷で怒りに燃えた。ミンデルとドミは何が起こっているのかわからず、ただ足をすくませていた。
 毒に冒された体で、ケッタルスは立ち上がった。寒気が体を包み、震えが止まらない。力が入らず、意識が急速に体から離れようとしている。それでも彼は剣を振った。コッカトリスに効くはずもなく、振る意味さえないような力で、何度も何度も剣を振った。
 ケッタルスは自分が仰向けに倒れて、剣も取り落としたまま腕だけを振っている事に気づいた。心の中で無様だな、と呟く。
「まったく、無様な姿だね」
 声が聞こえた。まるで老人のような声質だった。いや――
 ぼやけきったケッタルスの視界に赤い影が浮いていた。声は、その赤い影から発せられていた。

 赤いローブの老人は、空中に浮いたまま、死にかけている青年たちを見つめていた。その横で、十字傷の男が目を見開いている。
「クルス……クルスが石に…………」
「黙っていなさいバルトー。剣は持っているのだろう? 抜いて仇を討ってあげなさい」
 老人がそう言うと、十字傷の男は戦士の目になって腰に下げた剣を抜いた。
「浮遊を解くぞ」
 老人の指が鳴る。
「うおぉぉぉぉぉっ!!」
 目に怒りをみなぎらせた男が、空中からコッカトリスに斬りかかった。コッカトリスの目が彼に向く。赤い老人が手をかざす。視線は男を石に変えることができなかった。
 斬、と音を立てて、コッカトリスの首が宙に舞った。上空から男に声がかけられる。
「退け、バルトー」
 男が反射的に飛び退くと、巨大な炎がコッカトリスへ降り注いだ。狙ったようにコッカトリスの体だけを燃やし尽くすと、炎はそもそも存在しなかったかのように掻き消えた。
 ローブをはためかせながら、老人がケッタルスの元へゆるりと着地する。
「えらく無様ではないか、ケッタルス。己の身体能力に慢心したかね? 多少素早く、多少強く、多少魔法が使える程度で、英雄になったつもりかね?」
 老人の声はケッタルスに届いているのだろうか。既に目の焦点を失い、口の端から泡を吹いているケッタルスに、その声は届いているのだろうか。
「いい勉強になっただろう。お前は死んだ。親友も守れずに死んだ。部下も死なせ、倒せなかった怪物によって、守るべき人々さえ死なせた。私が来なければな」
 声は、青年に届いていた。虚ろだった目にかすかな光が見えた。老人はそれを認めると、小声で何かを呟いた。と、ケッタルスの体が光に包まれる。一瞬の後に、ケッタルスが激しく咳き込み、毒の混じった胃液を嘔吐した。
 老人は彼に目もやらず振り返ると、今度は石化したクルストルへと歩み寄った。その横で涙に暮れる十字傷の男、国主バルトー・ガイリードの肩に手を置くと、彼をそっと押し退けた。
「剣を無くしても、自分だけ逃げようとせずに友人を助けようとしたか。その友情、優しさやよし。だが、それに見合う強さと覚悟はどうかね? 優しく生きようとするならば、優しさを信念として貫こうとするならば、気が狂うほどの忍耐と努力、強さが必要となる。きみにその覚悟があるかな?」
 物言わぬ石像は何も語らない。だが老人は優しく頷くと、また何かを呟いて、クルストルだった石像の額に片手を当てた。緑色の光が石像を包み、一瞬激しく輝くと石像はクルストルへと姿を変えていた。
 老人は今度は崖の中腹へと浮遊した。
「自分よりも年かさのない上官は納得できんかね? それでも、彼らは勇敢に戦った。彼らの倍以上生きたあなたは、そこで何をしていたのかな?」
 言われたミンデルは赤面しながら、膝を振るわせていた。
「そんなに緊張する事はない。あなたは意外と小心者だね。そんな事だから、似非紳士と陰口を叩かれるのだよ? あなたは他の兵よりも強く、頭も回る。足りないのは勇気と思いやりだ。自分でもわかっているはずだよ」
 ミンデルは深々と頭を下げた。老人がドミを向く。
「きみも、憧れているだけでは英雄にはなれんぞ。憧れるのであれば、彼らに近づく努力をすればいいだろう。それができないのならば、せめて横にいる上司を越えるくらいの気概を持ちなさい。まだ若いんだ、可能性はいくらでもある」
 まだ若く、しかし運の悪いドミは、希望に満ちた目で老人を見つめた。老人は嬉しそうに頷くと、大きく手を叩いた。
「さあ、年寄りの説教は終わりだ」
 まるで今まで止まっていた時が動き出したように、ミンデルたちは崖の下へと駆け下りていった。
 胃液と共に毒を吐き終えたケッタルスに、クルストルが肩を貸してやる。まだ何が起きたのか把握できていないのか、ケッタルスは親友の顔を見て固まった。
「先に言っておくが幽霊じゃないぞ。歩けるか?」
 黒髪が、金髪を支えて歩き出す。
「クルス? お前生きてるのか? なんで?」
 随分な事を言いながら、二人は歩いた。ミンデルとドミも二人に手を貸してやる。ケッタルスが意外そうに壮年の島兵を見ると彼は視線を合わさずに、恥ずかしそうに謝った。ケッタルスは自分がなぜ謝られたのかわかっていなかった。
「さて、詳しいことを聞かせてもらおうか?」
 先ほどまで泣いていたとは思えない態度で、国主バルトーが四人を睨みつける。四人はそれぞれ島兵式の敬礼をしたが、その相手はバルトーではなく、横の老人だった。
「まさかあなたが来られるとは……助けていただいた事、どれだけ感謝しても足りません。お帰りなさいませ、《赤き魔導王》殿」
 ケッタルスがそう言うと、《赤き魔導王》と呼ばれた老人は、何も言わずにただ微笑んだ。
 老人の後でバルトーに敬礼し、ケッタルスが事情を説明しようとした時、崖の上に応援の島兵隊が駆けつけた。既に、夜は明けていた。

       †

 ケッタルスたちが雑務を終えて首都イーンに戻ったのは、明けた夜が再びその勢力を伸ばし、夕刻になった頃だった。
 首都イーンの中心には、議事堂と呼ぶには少々小ぶりな建物があった。
 アカソーは元々ガイリード家が独自に治める島である。議事堂で行われる議会は、国主に民意を伝える場という程度の役割しか持たない。それゆえに議員の数も少なく、議事堂も小さくて済んでいる。どちらかというと、この議事堂は迎賓館としての役割の方が大きい。
 その議事堂内の中にバルトーの執務室はあった。夕陽に染められた執務室には三人の男がいた。
「なぜ隊規を守らなかった?」
 口髭を撫でながら、バルトーが二人の若者を睨みつける。ケッタルスが黄金色のこうべを垂れると、バルトーは思いきり机を叩いた。
「馬鹿者が。自分たちの手に負える相手ではないとわかっていながら、なぜそのような事をした! 功名心か? それとも若僧と侮られているのが悔しかったからかっ!」
 うつむくケッタルスの横で、顔面を蒼白にしたクルストルが顔を上げた。確かにコッカトリスは二人の手に負えない相手だった。だがクルストルが立ち向かった理由は、父が指摘したどれでもなかった。彼は島のためを思って立ち向かっただけだった。
「しかし――」
「しかしじゃない! クルス、儂が自分の子に甘いと思ったら大間違いだぞ。アカソー島兵としてのお前たちに聞こう、本来アカソー島に生息しない動物を見つけた場合、どうする?」
 怒る父とは反対に、おずおずとクルストルが口を開く。
「二名は現場に残り、確保もしくは退治。残る一名は近隣の島兵詰所に連絡を――」
「そうだ、本来島兵は三人一組で動く決まり。それを隊長と副長が率先して破ってどうする!」
「あの時の私たちにそんな余裕はありませんでした。知らせに行こうと思えば、ミンデル殿とドミ殿ががいましたよ」
 ふてぶてしくケッタルスが呟いた。
「黙れ! 普段の事を言っておるのだ。お前たち二人の度重なる規律違反、今までは効果を上げていたから黙っていたが、もう見過ごすことはできん。昨夜の件に関しても、ミンデル、ドミの両名に連絡の命令を出さなかったのはお前たちだろう。きちんとした命令も下せんのか?」
 その言葉にはケッタルスも黙っていなかった。
「それを言うなら、ミンデル殿やドミ殿も自ら率先して連絡に走るべきでしょう!」
 バルトーが机を殴りつける。豪腕で知られる領主は机に拳をめり込ませ、黙ってしまったケッタルスを睨みつけた。
「隊長たる者が……自らの不徳を部下に転嫁するとは何事かぁっ!」
 領主の怒声に、二人の若者は凍りついた。息子であるクルストルでさえも、ここまで怒りをあらわにしたバルトーは初めてだった。
 突如、部屋の中に新たな気配が生まれた。
「バルトー、怒っても反発するだけだ。子供には怒るのではなく、叱ることが必要だよ」
 クルストルが振り返ると、そこには赤衣の老人がいた。執務室の扉は開いていない。扉を開けずに入ってきたのか、最初からいたのか、どちらにしても奇妙な事だった。
「それよりも客人が着いたよ」
 言うが早いか、勢い良く両開きの扉が開けられた。入ってきたのは、刃物のような男。鋭い目つきと、それに合わせるがごとく、体中の無駄な肉をそぎ落としたような風貌であった。
「父さん……」と、驚いたようにケッタルスが呟く。
 男は髪の色も目の色もケッタルスとは似ても似つかなかったが、確かに彼の父、エイグスだった。南の大陸の大国、ミグ王国の大貴族であり、アカソーにケッタルスと弟のカーズを置き去りにしたまま、滅多に姿を見せない父である。
 エイグスはケッタルスの言葉には反応せず、すぐ横に立っていた老人を見て眉を上げた。
「ホリン様ではありませんか、お久しぶりです。《赤き魔導王》殿の御前で騒々しい所をお見せしました」
 そう言って、深々と黒いこうべを垂れる。
「ほう、お前もいっぱしの大人になったのだね。私が知っているエイグスは、そこの若者たちのように、血気と自尊心だけ一人前の坊主だったのに」
 《赤き魔導王》、ホリン・サッツァ・トラウムは微笑んで見せた。対するエイグスは、ばつが悪そうに薄く笑みを作った。
 エイグスはケッタルスを一瞥してから、バルトーのもとに歩み寄った。バルトーは旧友の肩を叩いて、言外に旅の労をねぎらうと、二人の若者に向き直った。
「さて、アカソー島議会の議長と副議長がこの場にいる。これが何を意味するかはわかっているな?」
 その言葉に、クルストルが唾を飲み込む。彼が横目に親友を見やると、金髪の青年は平然とエイグスを睨みつけていた。
「アカソー島国主バルトーの名に置いて、島兵隊長ケッタルス・シーザー・ルークおよび、島兵副長クルストル・ラーグ・ガイリードの罷免を提案する」
「アカソー島議会、副議長エイグス・ラン・ディム・ウェン・ルーク、賛成を表明する」
「アカソー島議会、議長バルトー・リュート・ウェン・ガイリード、賛成を表明する。議長、副議長両名の合意により、略式決議の成立を認める」
 ケッタルスは大人二人の寸劇を見せられている気分だったが、表情を押し殺した。
「ケッタルス・シーザー・ルーク、罷免により島兵隊長の位を返上します」
 去り際においてもケッタルスは十八という歳に見合わない、完璧な礼をして見せた。一拍遅れてクルストルも続く。
「クルストル・ラーグ・ガイリード、罷免により島兵副長の位を返上します」
 若者二人は、それぞれの剣と役職を示す腕章をバルトーの前に置いた。こうして、アカソー史上最年少の隊長と副長は、揃ってその任を解かれた。

――続

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