12日目4792文字

 薄暗い店の喧騒に混じって、外の雨音が聞こえる。
 心なしか、雨を吸って店の木材が薫り放つように感じた。
 男はからになったタンブラーを置くと、閉じられた窓に目を向けて見えるはずのない雨景色を視た。
「降ってますね」
 カウンター越しに、無精髭を生やした店主が同じように窓を見る。
「蒸すな」
 雨水が入ってこないように締め切られた店内では、酔った男達が盛り上がっている。その熱気が暑苦しい。
「普段は雨が降っても涼しいぐらいなんですがね。無理してでもガラス仕入れてくりゃ良かったかな」
 孤島ではガラスは希少である。欠片であっても取引材料になる。仕入れてくるには一度島を出て買い付けに行く必要があった。こんな島まで届けてくれる酔狂な業者などいないからだ。
「高いだけだ、やめておけ。ガラス窓など酒場にあっても酔漢に割られるのが運命だ」
「違いねぇや」
 店主はひとしきり笑ってから、思い出したようにカウンターの下に潜り込んだ。
「ちょいと蒸留酒を楽しみましょうや」
 男からは見えない位置に何かを引っ張り出して悪ガキのような笑みを浮かべると、店主は手に丁度収まる大きさのガラスの酒杯を出してきた。
「あの旦那何つったっけ、リック? あの人もいりゃ良かったんですがね。まあ師匠だけでも良いや」
 店主は手元で酒杯に何かを入れてから、横倒しになった樽から火酒を注いだ。途端に何かがきしむ音が聞こえる。
「ほい、どうぞ」
 振り返った店主の手には、氷の浮かんだ酒があった。
「氷か! これは珍しいな」
 男が目を丸くして驚くと、店主はしてやったりと言わんばかりに満面の笑みを浮かべた。それほどに氷は希少である。
「ちょいとばかし腕の良い魔術師と知り合えましてね、作って貰いました」
 そう言って氷をひとつまみして男に投げて寄越すと、自分も一つつまみ上げて口に入れた。男もそれにならう。舌で冷たい感触を味わってから、奥歯で噛み砕いて氷自体を味わう。
「ほう、水から凍らせたか」
「お、流石師匠、舌も良いや」
「何をぬかすか」
 男は店主に剣は教えたが料理は教えていない。まだ若いのに現役を退いて料理も出す酒場などを開いたのは、弟子自身の才覚だった。
 口内で砕けた氷を転がしながら、溶けてきた水の味を確かめる。
 氷を酒に入れるのは中々骨が折れる。氷が取れたり作れる地方ならばまだしも、それ以外の地域ではわざわざ買い付けるか、魔法使いに作って貰うしかない。そうやって入手した所で値は張るし、何よりも勝手に溶けるので保存が利かない。保存しようと思うと、貯蔵庫を造ってしまうか、また魔法使いに頼んで保管容器に溶けづらくするための何らかの魔法をかけて貰うしかない。それにもまた金がかかる。要するに贅沢品なのだ。
「湧き水を使ったのか?」
 男の問いに店主が頷く。
 魚や果物を船や馬車で運搬する際に、氷系の魔法を使える魔術師を雇って鮮度を保つという方法はあるのだが、そうした魔法で作られた氷は味が良くない。美味い氷を作るには、美味い水から純粋に冷却させて凍らせるという高い技量が必要になる。
「島なのに何故か湧き水だけは豊富ですからね、誰が作った島かは知らないけどありがたいもんです」
 孤島を「何者かが作った」という前提で話しているのが店主らしい。男は直接見ていないが、店主も過去に孤島で百日近くを過ごし、一時は全ての宝玉を集めて最後の戦いにのぞんだという。数百人で挑んだ異形との戦いが終わった後、孤島は消滅した。男がかつていた孤島でも、そういう不思議な現象は起きていた。そもそも、異世界の住人同士が己のの言語を問わずに意思疎通をしながら生活できる島なのだ、常識ではかる方が馬鹿馬鹿しい。
 ともあれ、今回の島には今までと違った鉄則がある。
 遺跡の外では安全であること、遺跡の中でも基本的に命は落とさないこと。この二点だけでも大きな変化である。遺跡の外の安全には食べ物も含まれている。一般人でも狩ることが出来る程度の動物に、豊富な植物、安全な水、よくよく考えれば遺跡などに潜らなくとも楽園のような環境が遺跡の外に広がっているのだ。
「ボルよ」
 酒杯に口を付けたまま、店主が目だけで男の呼び掛けに答えた。
「お前は遺跡に潜ろうとは思わんのか?」
「またそれですか。よく聞かれるんですが、あんまり思わないですね。前の孤島で宝玉集めたからかな? 何か衝動が起きないんだよなぁ」
 自問めいた呟きを発して首をひねる。
「前の孤島は百日かけて、旅したわけですわ。山越え森越え死闘を越えて、そっから遺跡に潜って、今度は変な転送装置やら熱砂やらを越えて、エージェント何ちゃらって奴らと戦うわけですよ。ニィとかサバトとかスギンディムとかニギアとか、……エロフ? 何か違うな、エモフとイロフだっけか。それとか、ああ神崎のオッサンは渋かったし、ホリィの姉ちゃんは美人だったな。…………くそっ、殴蹴応酬とアンクシャス思い出しちまった」
 痛そうな顔で思い出から帰還する。よほど痛かったのだろう。
「まあとにかくそんなエージェント達を二十人ばかし蹴散らして、動物どもの強襲やら宝玉狙いの人狩りどもをを警戒しながら何とか生き延びたわけですわ。そんで最後にゃ、頭の上に変な輪っかが浮かんでですね」
「それは生き延びているのか?」
「宝玉何個か持ってる奴が輪っかに触ったら中央の小島に飛ばされる仕組みなんですよ」
「選別か」
「でしょうね。そしたら、赤くてデカい赤ん坊が宙に浮いてやがって、選別を通った奴ら全員で叩きのめしたんですが……」
「前に聞いた異形の化け物が来たわけだな」
「そりゃあもうボロ負けで酷い有様でした。百人近い相手と四日に渡って戦い続けたリトルグレイの野郎も凄かったけど、結局歴戦のつわものの連合が勝ったわけです」
 店主の熱弁を聞きながら、冷えた火酒を咽に流し込む。咽の奥から芳醇な薫りが広がり、口内を満たしてから鼻孔と心に薫りを届けた。
「んで、俺らも晴れて島を出れると思いきや、いきなり島が崩壊するから出てけってな事を言われたわけですよ。心に思い浮かべた場所に飛ばしてやる何て無茶まで言いやがる」
「だがお前とジーンは儂の所へ来た」
 男の言葉に店主が頷く。
「百日、正確にゃ九十六日か、とにかくそんだけの期間を戦い続けて、いざ終わってみたら宝玉も島も全部消えてやがる。九十六日かけて旅した島が、実は中央にあったちっぽけな島だけだって言われてもね。一日ありゃ探索し尽くせる小さな島だけが本当の島で、残る全ては宝玉だか誰だかが作り出した夢幻の塵芥。それまでの戦いや出会いってのが、全部夢だったのかって思えるぐらいの唐突な喪失ですよ。皆が作ってくれた『孤狼の魂』がなけりゃ、悪い夢でも見てたと思っちまうぐらいのね」
 言葉を切って店主も火酒を口に運ぶと、しばらく黙り込んだ。酒を楽しんでいるのだろう。
「失礼、まあそんなわけで俺はもう宝玉にゃ興味ないってわけです」
「そうか……」
 目を閉じて考え込む男の姿を見て、今度は店主が疑問を口にした。
「現役復帰しろって話じゃなさそうですね。何が引っかかるんです?」
 返答は簡潔だった。
「全部だ」
 ヴァンドルフ・デュッセルライトはゆっくりと目を開けると、何かを睨み付けるように険しい顔をした。
「全てが気に食わん。この島は儂がいた孤島とも、お前がいた孤島とも違いすぎている。儂らのいた孤島は違うとはいえ共通点が多かった。だがこの島は違いすぎる。前の島も今の島も何者かの意志が感じられるのは同じだが、この島は……」
 言葉を選びかねて言いよどむ。
「悪意? ……違う、何と言えば良いのかよく解らんが……嘘、そうだ嘘だ」
 ヴァンは男の目を見据えて言葉を選んだ。
「偽物に思えてならんのだ」
「偽物の……孤島」
 弟子の呟きに頷く。
「そう、まるで儂らの知るかつての孤島の模造品。宝玉と財宝という餌に釣られてやって来た者たちを飲み込んで、それを眺めて楽しむ、そういう悪意めいたものを感じるのだ。このような島に何故守護者伝説などがある? あからさまに儂ら探索者以外の勢力も闊歩しているし、奴らは儂らをどこかへ誘導しているようにも思える」
「釣られた者を飲み込む、か。すると宝玉と財宝は疑似餌といった所ですかね」
 ヴァンは持っていた酒杯をゆっくりと回した。からんと小さな音を立てて氷が崩れる。
「宝玉が疑似餌とは的を射ているかも知れん。財宝があるというだけで二千人近い人々が押し寄せるというのはな……流石に違和感がある。全員が野心家ならばまだしも、本来ならば財宝などに興味を抱かなさそうな者たちまでが、一様に遺跡に潜っていく光景は確かに不思議でならんかった」
「かつて不思議な孤島があり、そこには不思議な宝玉が眠っていた。それは伝説でもなんでもなく、実際に行って帰ってきた人々が大勢いて、帰ってきた彼らは宝玉や守護者について人々に語って聞かせた」
「酒場や宿で吟遊詩人が歌って聞かせるぐらいには」
「店主が訳知り顔でここだけの話と打ち明けてくる程度には」
「宝玉と孤島の話は広がっていたわけだ」
 ヴァンはため息をつくと、火酒を口に運んだ。蒸し暑いからと気を利かせて氷を入れてくれたのは良いが、よくよく考えるとそれを火酒に入れたのでは結局身体が熱を帯びて余計に熱く感じるという事に今更気付く。
 一気に残った火酒を煽ると、カウンターに力強く酒杯を置いた。
「水を」
 店主は酒杯を受け取ると、代わりに水と氷の入ったタンブラーを師に差し出した。
「随分やる気になってますね。それで、どう見ます?」
 その質問に直接は答えず、ヴァンは酒場を見渡した。
「いつかの歌い手はどうした」
 店主は肩をすくめて地面を指さした。
「あのような歌を歌える人物でさえ、遺跡の魔力に取り憑かれたままか。ボル、お前一日に何人の顔を見る」
「五十人いりゃ良いところですね」
「では、その顔を見て気付いた事はないか。遺跡に行く前と帰って来た後でだ」
 聞かれて、店主は一所懸命に記憶を辿ってみた。
「たまに熱病に冒されたような目で潜る奴がいるぐらいですかね。帰ってきたら別人みたいに大人しくなってますが」
 その言葉を味わうように頷いてから、ヴァンは「やはりか」と呟いた。
「宝玉という疑似餌と、財宝という撒き餌。これに加えて、餌に釣られない者のためにじわじわ効いてくる毒もあったようだな」
「厄介な事で」
「厄介ではあるが、調べてみる価値はある」
 そう言ってヴァンは立ち上がった。
「世話になった。おかげでこの島が今までの孤島とは性質が違うという事に確信が得れた」
「毎度、お代は結構です」
 弟子の言葉を無視してヴァンは懐から数枚の硬貨を出してカウンターの上に置いた。
「明日からまた潜る。続きは今度だ」
「師匠!」
 立ち去ろうと背を向けた師に、店主はつい大きな声で呼び掛けてしまった。
「その……この島が今までのとは性質が違うって事は、今までみたいな力を試して選別するための障害じゃなくて、悪意のこもった酷ぇ障害が待ってるかも知れませんぜ? それにぶち当たったらどうすんです」
 問われたヴァンは一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに口の端をつり上げると、力のこもった目で弟子を貫いた。
「無論、斬り捨てるまでよ」
 そう言い残して、孤狼は夜の闇へと消えていった。

13日目4732文字

 砂を踏みしめる。
 踏み固められた砂が鳴る。
 砂を踏みしめる。
 何度も繰り返される物音に気付き、フェリックス・ベルンシュタインは目を覚ました。
 寝ぼけた目をこらしても、何か黒い影が動いているとしかわからない。
 手探りで眼鏡を探す。たたまれた白衣の上に指を這わせてそれらしいものを掴み、かけてみる。
「なんだこりゃ」
 視界が歪む。度が合っていないのだ。
「それ、リリィのよ」
 かすかな煙草の香りと共に落ち着いた女性の声が届く。リックは白衣の上に置かれたもう一つの眼鏡にかけ直すと、声を掛けてきた女性の姿を見た。
 赤い服を纏った黒髪の女性、エマール・クラレンスだった。
 特に痩せているというわけではないのだが、すらりとした長身痩躯の印象を纏っている。それは性格がもたらす印象なのか、黒く美しい長髪がそう思わせるのかはわからない。だがリックなりに一言で言い表すならば、「いい女だ」で済む。
「なんで嬢ちゃんの眼鏡が俺の白衣の上に置いてあんだ?」
 言いながら、白衣を見ようとしたリックの動きが止まった。
「長ぇ」
 横たわる長身、リリィ・ウィンチェスター。
「長いわね」
 その義姉も長さを認める。
 女性ながらにリックとほとんど背丈の変わらない187cmという長躯。趣味なのか、頭に事典のような分厚い本を乗せてバランスを取り、失敗してこけるという日課をこなしている。それを戦闘中にするものだからたまったものではないが、2m近い位置から降り注ぐ本には必殺の威力があり、偶然そこにいた動物を仕留める事もある。まさに天然という名の凶器であった。
「で、なんで嬢ちゃんがここで寝てんだ?」
 普段ならばリックのペットの傍や、義姉エマールの傍で眠るはずだ。
 だがエマールはリックの問いかけには答えずに、砂の鳴る方を見つめていた。
 無視されたリックは怒るでもなく、ただ寝ぼけただけなのだろうと己を納得させた。
「懐かしい技ね」
 エマールの呟きの先を見る。
 そこには、月明かりに照らされながら一心不乱に剣を振るう男の姿があった。
「寝ないで何やってんだアイツは」
 眠りを妨げられた医者の不機嫌な声が夜闇に溶けた。
「寝ずの番よ。今は私とヴァンが見張りの番」
「ご苦労なこった」
 そう呟いてリックもまた、砂の鳴る方を見つめた。

       †

 身体の重心を左足に集める。
 軸をずらさないまま深く身体を沈める。
 右足を出し、かかとを地面に付けると、かかとを軸に右足の爪先を外に振る。
 小指と薬指が地面についた瞬間、左足を蹴り出して重心を一気に左足から右足に移す。
 外に開かれた右足の爪先に向かって重心が動く。
 それを止めようとはせずに、双剣を持った両手を広げる。
 勢いよく回転しながら前進。身体が半回転する。双剣も身体に付いていくように遠心力を伴って回転する。左足を地面につけ、今度は左足を軸に身体を回転させて、最後に右足で地面を蹴るように踏みしめる。
 下半身の回転は止まったが、上半身と剣はその後の一瞬まで回転が続き、踏みしめられた下半身の力が両手に伝わって破壊力となる。
「まだまだか」
 呟いて構えを解くと、ヴァンドルフ・デュッセルライトはため息をついた。
「今のスパイラルエッジでは単一の相手への連撃でしかない。乱戦を切り開くための技が聞いて呆れる」
 ここ数日の戦いでヴァンは慢心に気付いた。
 元々孤島に来たのは名誉というぬるま湯に浸かっている自分に気付いたからだ。大仰な二つ名や功績ではなく、傭兵たちから孤狼の二文字で呼ばれていた時期の己に立ち返る、それが目的だった。
 目標を持って孤島を訪れ既に十日以上が過ぎている。
 毎日戦いの中に身を置くと、今まではね除けていたつもりだった慢心が身体に染み込んでいたと気付かされた。
 孤島に身を置くというのは、今までの戦士としての自分を一度捨てるということに他ならない。
 戦闘に関わる全ての知識、覚え込ませたはずの身体の使い方、何度も死地を回避した直感、その全てを引き出しに入れて鍵を掛ける。
 鍵を持つのは自分ではない。孤島を作った何者かが、自分の鍛錬に応じて少しずつ少しずつ、引き出しの中に仕舞った戦士としての自分を返してくる。持っていた記憶の無い知識やひらめきも、別の引き出しから引っ張り出して与えてくる。ヴァンは孤島での成長現象をそう捉えていた。
 だからこそ、勘や慣れが封じられている事に気付き、そして自分の技が勘や慣れに頼っている部分があったことを知る。
 スパイラルエッジがいい例であった。
 今までは回転している最中に背中越しに相手の位置や動きを察知し、剣の軌道や身体の動かし方に微調整を加えていた。
 これを意図的にするのであれば慢心ではないのだが、ヴァンは知らず知らずのうちにこれを無意識に行い、当たって当然という気構えになっていた。微調整を加えていたことに気付いていれば、わずかな気配の察知や微妙な力の加減が封じられているので、よほど意識しないと当たらないということもわかっていただろう。
 ヴァンは首を振って雑念を払うと、また左足に重心を乗せて右足のかかとで砂を踏みしめた。

       †

「よく続くもんだ」
 あくびをかみ殺しながらリックが呟く。
 一度目が冴えてしまうと、夜中とはいえすぐには眠れない。寝ようとすれば眠れるのだろうが、何とはなしにヴァンの修行を見てしまっていた。少し離れた所で岩にもたれかかって煙草をふかしているエマールも似たようなものだろう。
「スパイラルエッジだけで、もう三十回はやってるんじゃねぇか? 気分転換とかする気ないのかねアイツは」
「してたわよ」
 リックは懐から煙草を取り出す手を止めてエマールを見た。エマールは月明かりに照らされた艶やかな唇から煙草をはなした。
「ブレィヴェリスを一度だけ」
「んなもんは気分転換じゃねえだろ」
 苦笑しながらポケットを探る。愛用のジッポーライターが見あたらない。
 はたと手を止めて、荷物袋の中を探る。普段は身に付けているが、効果付加を頼もうかと考えて鞄に入れ直していたのだ。
 相手がエマールでなければ、ライターなり煙草の火なりを借りて点火するのだが、彼女にはそうさせない雰囲気がある。頼めば火を貸してくれるのかもしれないが、その雰囲気を壊すのも無粋だろう。
 心地良い音を楽しみながら蓋を開けて火を点ける。オイルの香りも楽しみたいところだが、鼻で空気を吸っても煙草には点火されないのだから仕方がない。蓋を閉じて、焼けたオイルの香りの余韻と共に煙草を楽しむ。
 これこそが気分転換だと、心の中でエマールに主張して視線を送る。
 視線に気付いたエマールと目が合うが、特に何の反応をするでもなく、二人はまたヴァンを見た。

       †

 右足のかかとを地面につけ、かかとを軸に右足を外側に開く。小指と薬指が地面につき中指と人差し指が地面につこうかという瞬間に、重心を乗せた左足を蹴り出し、一気に右足へと重心を移す。勢いは前方ではなく外側に開かれた右足の爪先の方向へ回転力を伴いながら――
「ッ!?」
 右足の周りの砂が崩れる。ヴァンは受け身も取れずに無様に倒れて砂にまみれた。
 疲労が溜まっているとはいえ、何とも情けない姿だった。
 しばらく倒れたままで呼吸を整える。息が上がっていることにも気付かないほど、繰り返して剣を振り続けていた。
「なるほど、こういう時の体勢の立て直しも儂は勘と経験に頼っていたわけか」
 少し落ち着くと、リックとエマールの話し声がかすかに聞こえた。何を喋っているのかはわからないが、どうやら起こしてしまったようだ。
 夜空を見上げる。
 こうして疲れ果てて、夜空を見上げるのは随分と久しぶりのように感じる。
 汗の伝った頬に、夜風で舞い上げられた砂が貼り付く。
「剣気を込めて放ったわけでもないのに、たった七、八十回の型だけで疲れるとは、儂も衰えたものだ」
 四十を越えた傭兵ともなれば、純粋な持久力や体力の面でどうしても若い傭兵に劣る。それでも戦場で活躍できるのは、蓄積された知識や経験、鍛え上げられた勘や技術が若手に比べて圧倒的だからである。
 無駄を省き、力の使い所では大いに使い、殺せる敵はさっさと殺し、そうでないものは流して次を見る。
 そうすることで結果的に若い傭兵よりも長い時間を戦うことが出来る。
 だが、ここは孤島である。
 誰もが同じ位置から鍛え直さなければいけない島である。
 様々な枷でこれまでの経験が縛られた時、残るのは己の身体のみ。
 四十を越えたヴァンには、経験が活かせないとここまで動きづらくなるとは思いも寄らなかった。
「ここにジーン・スレイフがいたら殺されていたかも知れんな……」
 かつて自分の命を狙ってきた魔剣使いを思い出して苦笑する。
 そして、よく彼は瀕死の重傷を負いながら孤島で生き延びれたものだと感心もする。
「負けてられんか」
 立ち上がる。
 砂を払い、剣を構える。
 目を閉じ、意識を眉間に集中させる。
 第三の目があるがごとく、遥か遠くを見るがごとく、目に頼らずに前を見据える。
 目を開くと同時に左手の剣を手首だけで高く投げ上げ、姿勢を低くして疾駆する。
 右手の剣を両手で握り、一瞬の刹那に剣気を高めて剣へと込める。
「破ァっ!」
 風を巻き起こして剣が走る。
 虚空を一閃すると、剣風は一瞬だけヴァンの身体にまとわりつくように外套を揺らし、消えていった。
 一撃の威力を高めながら、己の剣気を味方も分け与えて身に纏う。剣技、ブレィヴェリスである。
 回転しながら落ちてきた左手の剣を受け取ると、ヴァンは双剣を一度回転させて鞘へ戻した。
「天破の境地にはまだ至らんが、歩みを止めてはおらん。いずれ辿り着く。辿り着いてみせるさ」
 笑みを浮かべてすぐに消すと、ヴァンは仲間の所へと戻って行った。

       †

「マジで気分転換になったみたいだな」
 疲れ切ってはいるが、どこか晴れやかな顔でこちらへ向かってくるヴァンを見ながらリックが呟いた。
「そういうものよ」
 誰か他に心当たりでもあるのか、エマールの言葉には確信めいたものが感じられた。
「戻ってきたのなら、私たちの番は終わりね。寝るわ、お休みなさい」
 挨拶を返そうとリックがエマールを見た時には、すでにエマールは寝息を立てていた。
「相変わらずマイペースだな。そう思わないか?」
 苦笑をヴァンに投げかける。
「言葉の意味は解らんが、言わんとすることは解る。起こしてしまったようだな」
「なに、気にすんな。お前もさっさと寝ろよ」
 肩を叩いて労をねぎらう。
「すまんな。では儂も休むとしよう」
 ヴァンは微笑して腰の鞘を地面に刺した。
 リックは煙草の煙を吐き出すと軽く手を振ってさっさと寝ろと指示をした。
「やれやれ、ストイックだねぇ」
 鞘にもたれかかって目を閉じたヴァンを見て、そう独りごちる。
「ま、そういうのも嫌いじゃないがな」
 軽く伸びをして月を見上げる。
「ああ、作り物でも良い月だ」
 今日もまた、遺跡の夜が更けていく。

14日目(ノーカット版)8196文字

 王都ミグ・ラムの郊外を流れる小川沿いの商店街は、王侯ではなく庶民に向けた様々な商品が揃っていて人気があった。
 ヴァンドルフ・デュッセルライトは露店で買った昼食を手に、適当な長椅子を探してさまよっていた。
 はしゃぐ子供の声が耳に入る。そちらに目をやると、丁度良い具合にくたびれた長椅子があった。ヴァンは小川に向いて長椅子に腰掛けると、たわむれる子供たちを眺めながら平和な昼食を楽しむことにした。
 ガキ大将らしき子供が年少の子供を蹴り飛ばす。泣いている子供をあやそうと、別の子供たちが近寄ろうとするも、ガキ大将が睨むと畏縮してしまった。
「ガキだな……」
「だからガキ大将というのだよ」
 ヴァンの呟きに応じる声。
 振り向くと、真っ赤なローブを着た初老の男が立っていた。
「ホリン……」
 赤衣の魔導師、赤き賢者ホリン・サッツァ・トラウム。中央大陸で名を馳せる蒼空の賢者サイゼルバン・ドグマシィと並んで称される希代の魔術士であった。
「久しいね、デュッセル君」
 若々しい笑顔をヴァンの渋面に向ける。
「デュッセルライトだ。それに貴様、俺のことは敬意を込めてヴァンと呼ぼうとか言って別れた癖にもう忘れたか」
「おや、そうだったか。最後に会ったのが随分前だったからね。何年前だったかな?」
 とぼけた声で問うてくる。ヴァンはため息混じりに首を振った。
「五年だ」
「六年と三十八日だよ」
「貴様っ!」
 殺気のこもった眼光をしてやったりという笑顔で受け流す。
 ヴァンは賢者を無視することにした。
 少年たちの方を見ると、ガキ大将が七つほどの少年に言い負かされて退散しているところだった。
「ほう、暴力ではなく口で言い負かしたか」
「理想的だね」
「独り言だ」
「私もだ」
 再び賢者を睨み付ける。しかし賢者は素知らぬ顔で子供たちを見ていた。
「ホリン。貴様何故ここにいる。貴様は中央大陸経由で東に渡ると聞いていたが」
 賢者は子供たちを見て頷いていた。
「聞いているのか?」
「独り言だろ?」
 視線はあくまでも子供たちを見ている。
「名前を呼んだが」
「聞き間違いだろ?」
「ふざけているのか?」
「当たり前じゃないか」
 ヴァンが激昂する瞬間、ホリンの目がヴァンの目を捉える。
「最初に会ってから十一年か。するときみは三十……」
「三十四だ」
「そう、三十四歳。随分と成長したものだね。初めて会った頃のひよっ子が懐かしいものだ」
 ホリン・サッツァの言葉にヴァンの記憶が遠い日にさかのぼる。
 それはヴァンドルフ・デュッセルライトが二十三歳の秋の出来事。

       †

 夜闇に紛れて動く影ひとつ。
 身に纏う物は全て黒く、髪も目もまた黒かった。
 傷だらけの顔には暗褐色の泥を塗り、手に持った双剣も黒く塗られて月明かりを封じ込めている。
 音も立てずに茂みを動く。
 木々を揺らさず木蔭を動く。
 鳥も鳴かさず、虫の音を止めず、夜の闇を征く。
 目指す明かりは王城の灯。
 近づく見張りをやり過ごし、意識の隙間を縫って素早く城壁を突破する。
「他愛ない」
 油断はしない。
 見つかれば死が待つ危険な任務だ。
 傭兵を雇っておいて、暗殺をしてこいという依頼には呆れたものだが、やり甲斐はある。
 少々自棄になっていることは否めない。
 告死の翼と呼ばれた双剣将軍アズラス、その後継者とも称される双剣の傭兵、それが彼、ヴァンドルフ・デュッセルライトだった。
 かつてアズラスに敗れ、再戦を挑んでもまた敗れ、その後も幾たびか顔を合わせ剣を合わせ、未だに勝てないままであった。そして、勝つ機会は永久に失われてしまった。
 遥か遠くの国から猛将アズラス病死の報が届いたのは一週間前のことだった。
 既に様々なギルド筋では真実であると言われ、吟遊詩人作ったアズラスを讃える歌までもが伝わってきた。
 耳を疑ったヴァンは己の知る限りの情報網を使って真偽を確かめたが、国葬が行われたという報を信頼できる人物から聞いて絶望した。
 仲間の仇であり、剣士としての目標であり、遥か高みに座す宿敵でもあった。
 何度挑んでも勝てず、その度にとどめも刺さずにまた来いと突き放し、時には同じ軍で共に闘い、酒を酌み交わしたことさえあった。
 孤児だった彼を拾って育ててくれた傭兵団がアズラスの双剣によって皆殺しにされて以降、ヴァンの人生はアズラスに打ち勝つことのみを目標としていた。
 その宿敵を打ち負かしたのはヴァンではなく、ヴァン以上の使い手でもなく、流行病という見えざる敵だった。
 唐突に目標を失ったヴァンは、己の進むべき道が見えなくなった。
 今回の暗殺依頼を引き受けたのも、そんな状態だったからだろう。
 城壁の中までは安全に侵入できた。
 庭園を潜みながら進み、王城まで接近する。
 見張りの気配がしない一画を探し当てて周囲を見渡す。
「あれを使うか……」
 二階のテラスまで届こうかという高い木を見やる。
 木に登るのは危険が伴う。
 物音もすれば、枝葉も揺れる。登っている最中は無防備になる。高いところに行くということはそれだけ見つかりやすくもなる。
 だが地上や一階でうろうろするよりは、見張りの気配がしないうちに木から二階へ移った方が仕事がしやすい。
 狙うは王の首ひとつ。
 他の者は誰も殺さずに、王だけを仕留められれば名も上がる。
 小国ながらも人望が厚く高名な王だ、常に王を慕って高名な客人が入れ替わり立ち替わり滞在するとも言われている。客人の中には英雄と呼ばれる人種もいるだろう。ならば、英雄も気づかぬうちに王の首を獲れば……ヴァンはそう夢想した。
 己の名を上げることに執着するわけではない。
 ただ、アズラスという目標を失った今、名でも上げてみるかと気まぐれを起こしただけだった。
 木を見上げる。
 揺れが小さそうな太い枝を見つけ、跳躍して掴み、身体を引き上げる。
 太い枝の上で周囲を再度見渡して、誰もいないことを確認する。
「えらく手薄だな」
 楽な仕事になりそうだった。
 幹をよじ登り、枝に乗り、二階のテラスに飛び移れる位置まで登り切る。
 まだ見張りの気配はしない。
 テラスの向こうに見える部屋を凝視する。
 明かりはついていない。人の気配もない。
「行けるな」
 呟くとヴァンは枝を蹴ってテラスへと音もなく着地した。
 すぐさま姿勢を低くして壁に駆け寄り、周囲の気配を探る。何も感じない。
「危機感のないことだ」
 苦笑して、テラスの窓を調べる。
「鍵もかかってないのか。正気を疑うな」
 音もなく窓を開けると、ヴァンは王城の中へと侵入した。
 その瞬間である。
「かかっていないのではなく、かけていないのだよ」
 男の声が部屋に響く。
 同時にヴァンが侵入してきた窓が閉まり、部屋の中に明かりがともった。
「罠かっ!」
「罠さ」
 狼狽するヴァンの前に現れたのは、冗談のように赤いローブを身に纏った壮年の男だった。
「赤いな……」
「そういうきみは黒いね。いや、青いのかな?」
「貴様……!」
「やはり青い」
 怒りをあらわにするヴァンを見て、赤衣の男は声を押し殺して笑った。
「頑張ったきみの名前を聞かせてくれるかな?」
 余裕を見せる男の言葉を無視して、ヴァンは部屋を見回した。
 赤衣の男の他は誰もいない。
 間合いは多少遠いが、相手は魔術士だ。詠唱の隙の間に双剣を届かせることが出来る。
「怖い顔をしているね」
 こちらの意図を読み取ったのか、男は笑みを崩さぬままローブの中へ手を差し入れた。同時にヴァンは黒塗りの双剣を構えて走り出した。
 男の手が何かをつかんでローブから出てくる。恐らく詠唱に必要な魔石だろう。
(紙?)
 だが男が持っていたのは紙片のようだった。
(構わん、詠唱などさせん!)
 ヴァンの間合いに入る。
「雷呪・開」
 男の呟きと同時に紙片から閃光がほとばしる。
 驚嘆の声が出るよりも早く、ヴァンの口から出たのは苦痛の叫びだった。
「雷呪・閉。いきなり斬りかかってくるとは野蛮だね。私はきみの名前を聞いただけじゃないかデュッセル君」
 雷撃の痛みから解放されて片膝を突く。
(なんだ今のは!? 魔法か? あんな魔法俺は知らんぞ!)
「驚かせてしまったようだね。それできみは何をしに来たのかね?」
 痛みは随分と引いた。ヴァンは立ち上がると赤衣の男を睨み付けた。手にはまだ先ほどの紙片を持っている。詰めたはずの間合いはまた離されていた。
「無論、斬りに来たに決まっているだろう」
「誰を?」
「阿呆か貴様は!」
 ヴァンが再び疾駆する。
 男も素早く紙片をヴァンに向ける。
「雷呪・開!」
 雷光が発する前にヴァンは横に飛び退いた。しかし雷光は軌道を曲げ、剣を通して再び彼を雷撃の苦悶へといざなった。
「鉄製の剣なんか持っていたら雷が落ちるのは当然じゃないか。甘い甘い。雷呪・閉」
 雷撃がやむ。
「きみは見た目通りに好戦的なのかね? もう少し理知的だと聞いていたのだが。まあいい」
 ヴァンは苦痛に顔をゆがめながら立ち上がった。
 今度は一刀を投げつけて斬りかかる、そう活路を見いだした瞬間、男がニヤリと笑った。
「風呪・開、連、縛」
 上下左右四方八方から凄まじい勢いでヴァンへ向かって風が吹きつける。
 一歩踏み出すどころか、指先ひとつ動かすことが出来ない。
「すまんね、最初に言ったとおりこの部屋に鍵をかけていないのはわざとなのだよ。きみを誘い込んで、壁や床、天井に張り付けた風符を同時に開いて縛り付ける。前から試そうとは思っていたのだが、うん、やはり効果的だったね」
 ヴァンは呪詛でも吐いてやろうかと思ったが、あまりにも強い風のせいで呼吸さえできなかった。
 腹に当たる暴風が容赦なく肺を圧迫し、強制的に肺の空気がからにされてしまう。
「さて、誰を狙ってきたのか言ってみたまえ。こう見えて私も有名人でね、月に数度は狙われるのだよ」
 赤衣の男は余裕たっぷりにそう言った。
 これほどの魔法を使うのに無名なはずはない、ヴァンもそれは認めようと思ったが、相手が何者かを考える前に意識が遠のいてきた。
「どうした、言ってみたまえ。………………様子がおかしいな」
(阿呆が!)
 最後の力を振り絞って意識だけで罵倒する。そこに至ってようやく男は事情に気づいたらしかった。
「こりゃいかん、風呪・放、連、閉」
 風が止む。ヴァンは手さえ動かせずに顔から地面に倒れ込むと、空気を求めて喘いだ。急に空気が入ってきたせいでむせるように咳き込んでしまう。
「落ち着きたまえ、水呪・開、閉」
 一瞬、だが大量に、ヴァンへと水が降り注ぐ。文字通り冷や水を浴びせられた形となってようやく、ヴァンは男を睨み付けることに成功した。
「デュッセル君は本当に元気だな。その様子だと狙いは私じゃなかったようだね。どうやら今私も標的に選ばれてしまったようだが」
「当たり前だ……」
「おお、喋れるようになったか。すまんね、服がびしょ濡れじゃないか。乾かすかい?」
「変な札ならお断りだ、乾かすのではなく燃やすつもりだろう」
「まあ確かに火力の調整はまだ考えてないね」
 ヴァンは肩で息をしながら天井を見上げた。三枚の紙片が貼り付けてある。恐らく、風、水、火が出るのだろう。
 天井に視線を這わせて別の位置を見ても、他に札は貼っていなかった。
「誘い込まれたか」
「誘い込まれたね」
 男は楽しそうに笑っている。
「今のは魔法か」
「紛れもなく。千五百年ほど前に潰えた魔法大系のひとつだね」
 大それたことをさらりと言う。
「上手く解明できないもんだから、自分でそれっぽく作ってみたんだけども、やはり微調整が利かないね。いやはや、ご迷惑を」
 気勢が削がれそうになるのを内心必死に立て直して睨み続ける。
 男は紙片をローブの内側に戻すと、魔石を取り出した。
「さて、どうだろう。私としてはこのままお話をしてさようならというのをおすすめしたいが、きみの気はすみそうかな?」
「すむと思うか?」
 立ち上がって呼吸を整える。
「その言い方だと無理そうだね」
「無理だ」
 ヴァンは紙片を納めたのを好機としてみたび突進した。魔石を用いる魔法であれば詠唱が必要となる。
「リィ・フォウズ」
 魔術士が詠唱を始めた。だが既にヴァンは間合いに入っている。
「死ねぃ!」
「ガインドフェウシルツァー」
 渾身の力を持って振られた剣が見えない壁に弾かれる。
「なにっ!?」
 驚きながらも弾かれた反動を利用して二刀目を振るう。
「リィ・ファインドピロジャスト」
 それも弾かれる。
「防御魔法ではないのか!?」
 防御魔法にしても詠唱の完成が早すぎる。いや、それ以前にまだ男は詠唱の途中だった。
「スィルフォンド」
 男の詠唱がゆっくりになる。その目は鋭くヴァンに問いかけていた。まだ続ける気かと。
「退けん!」
 双剣を同時に振るう。弾かれる。
「ヴァリム」
 言い聞かせるような詠唱だった。
「これなら!」
 ヴァンは持てる力の全てを振り絞って最後の技を繰り出した。
 だが、それも阻まれる。
 男を包む見えない障壁は、最初のものよりも確実に硬く分厚くなってきていた。
「ドルガイサンド」
 ため息をつくように男が呪文を紡ぐ。
 その雰囲気でヴァンは悟らざるを得なかった。男は詠唱を終えたのだ。
「………………くそっ!」
 ヴァンは吐き捨てると双剣を床にたたきつけた。
「俺の負けだ、好きにしろ」
 悔しそうなヴァンに、男は優しく微笑みかけて、言った。
「フュラフィス」
「っ!」
 身構えるヴァンの髪が風になびく。
「身構えずとも大丈夫、今のは詠唱解除のための詠唱だよ」
 男がヴァンに手を差し伸べる。その意図が解らずヴァンが男の顔を見ると、相変わらずの笑顔だった。
「言ったろう? 私としてはこのままお話をしてさようならというのが良いとね。ようこそお客人、人目を忍んで会いに来るほど私と話がしたかったと見える」
 いたずらをした悪ガキのような笑顔で男は名乗った。
「私はホリン・サッツァ・トラウム。旅の魔術士だ。よろしく、デュッセル君」
「貴様が赤き賢者か……俺はヴァンドルフ・デュ――」
 差し出されたホリンの手を握ろうとした手が止まる。
「ようやく気づいたかね? 遅かったなぁ」
「貴様、なぜ俺の名を知っている」
 引っ込めようとしたヴァンの手が強引に掴まれる。
「いやいや、双剣使いの傭兵さんの噂はかねがね聞いていたよ」
「嘘だな」
「うん、嘘だ」
 この期に及んでまだいたずらな少年の笑みを浮かべている。ヴァンはその手を振り払うと背を向けて退出しようとした。
「いやいや待ちたまえ待ちたまえ。冗談だよ。デュッセル君の噂は聞いているさ」
「双剣を使う傭兵は俺だけではない。俺の噂を知っていても特定は出来んはずだ」
「顔の傷は?」
「同じことだ、特定には至らん。それに今の俺はどう見ても暗殺者だ、傭兵ではない」
「うん、そうだね。無理があった」
 ホリン・サッツァは部屋の奥へ歩いて行くと、高級そうな椅子に座った。よく見ると机の上には紅茶が二つ置かれていた。ホリンはもう一脚の椅子を指し示すと、座るようヴァンに促した。
 ヴァンは完全に相手の調子に巻き込まれてしまっているのを自覚していたが、ここまでくれば乗ってやろうとばかりに席に着いた。
 二人分の紅茶や、天井などに張り付けてある仕掛けを見れば、完全にヴァンが一人でこの部屋へやって来るとわかっていたのだろう。
「まあ話は簡単さ。デュッセル君のことを知る友人から特徴を聞いていたのと、王の暗殺計画を耳にしていたこと、それに加えてデュッセル君がそっちに付いているとわかったこと。これだけ揃えばね。後はわざと手薄な箇所を作ってしまえば、きみならそこを突いてくるだろ?」
 ヴァンは紅茶を口に運ぶ。まだ温かかった。
「いやぁ、きみが諦めてくれて助かった。唱えたはいいが、あの魔法そのまま撃ったら王城が半分吹き飛ぶことを忘れていてね。必死で退いてくれ退いてくれって目で訴えてたのに、きみは言うに事欠いて『退かん!』だからね。吹っ飛ばしてやろうかと思ったよ」
 楽しそうに笑いながらホリンも紅茶を飲んだ。
「……誰から聞いた」
「ああ、アズラスだよ」
 陶器のぶつかる音が鳴る。ヴァンは思わず目を見開いてホリンを凝視した。
「歳も近いし、紅茶の趣味が同じでね、良い友人だったよ」
 過去形。ホリンもアズラスが死んだことを知っているのだ。ヴァンは様々な言葉が浮かんでは引っ込みを繰り返し、ようやく形になった言葉を絞り出した。
「貴様ならアズラスの病を癒せたのではないのか?」
「もちろん。薬神コヨの神官たちと何日も何日も試行錯誤を重ねて薬を作ることに成功した」
 飄々とした口調を崩さずに、あっさりと認める。
「ならばなぜ!」
「アズラスの口癖を知っているかね? いや、きみは知っているはずだ」
「……憐憫は美徳」
 それは、ヴァンを育てた傭兵団がアズラスと対峙した際の言葉。傭兵団が全滅した後に生き残ったヴァンに向けられた言葉。
「そう、だから彼は市井の人々に薬を優先するように言った。後少しで彼のぶんが間に合いそうだったんだがね、残念だ」
 ホリンの顔から笑顔が消えていた。
 誇りや信念を尊重した結果、死んでしまう。よくある話ではある。名誉を重んじる貴族などでは特によくある話だ。だがそれで目標を失ってしまったヴァンとしてはやるせない。
「アズラスから伝言だ。『今度は目の前のにやけ面を叩きのめしてみろ』とね」
 そう言ってホリンはまた笑った。

       †

 思い出の中のホリン・サッツァ・トラウムは無邪気な天才だった。
「いやはや、若かったなぁきみは」
「お前もだろうジジイ」
 厭味を込めて初老の賢者に毒を吐くと、賢者は顔を輝かせた。
「おお、わかるか、そうだよ爺なんだよ。ほれ、見てみたまえ」
 意味が解らず、ホリンの見つめる先を見る。
 先ほど口で追い返されたガキ大将が子分を引き連れて戻ってきていた。口喧嘩で勝った少年がまた口で戦おうと何か言っているようだが、ガキ大将は無視して暴力に訴えた。
 ホリンは何を伝えたいのだろうと思いながら見ていると、小突かれた少年はめげずに立ち上がってまた口で勝負を挑んだ。どうやら腕力に訴えない見上げた少年らしい。横目に賢者を見るとしきりに頷いている。
 また少年を見ると、やはり小突かれていた。少年は頭に来たらしく、それでも暴力ではなく一気に口で捲し立てると――ガキ大将が燃え上がった。
「こらタトゥス! 暴力はいかんと言ったろう!」
 ホリンは突然叫ぶと、手を振って何らかの魔法を掛けて炎上するガキ大将を消火した。
 叱られた少年はヴァンたちに駆け寄る途中で、川辺に脱ぎ捨てていた赤いローブを拾い上げると胸を張って反論した。
「僕は手を挙げてない! 爺ちゃんが口で戦えって言ったから口で呪文を唱えただけだ!」
「……爺ちゃん? ホリン、お前まさかこれ孫か?」
「うむ。似てるだろ?」
「……ああ、お前に似てタチが悪そうだ」
 ヴァンはため息をついて首を振ると、すっかり冷めてしまった昼食を口に運んだ。

15日目4572文字
  血に沈む

    ずぶずぶと

      ずぶずぶと

        沈んでゆく

  目を覚ますと

    そこは

      夢の中で

  見渡すと

    一面の

      血の海が

        広がっていた

   彼は

一人

     その海に浮かび

赤く染まった世界を

  ただ

    ただ

      傍観していた


 ぬるい風が吹いた気がした


「ジーン・スレイフ・ステイレス……」

 その名を呟いた時

  彼の身体は

   血の海の底へと


       †


 ヴァンは目を覚ますと、赤く染まった孤島を見回した。
 そこかしこで血の匂いがする。
 何かの根源を失った人々が、ひとり、またひとりと夢から覚めていく。
「夢……か」
 ヴァンは己が夢の中で夢を見ていたと知る。
 そしてここはまだ夢の中。
「嫌だ……嫌だ……目覚めたくない」
 目の前でまたひとり、かすれた声で絶望し、現実へと戻っていく旅人がいた。
「ああ……そうだ……俺はこんなじゃないんだ、本当の俺は――」
 歓喜に満ちた旅人が、悪夢から覚めてゆく。
 ヴァンは赤い砂浜を踏みしめて、血で染まった孤島の奥へと歩を進めた。

 悲鳴、また悲鳴。
 そこかしこで死の匂いがする。
「悪夢か」
 夢の中でなおも戦い続ける人の業に想いを馳せながら歩く。
 目的地があるわけではない。
 自然と足が向いたのだ。
「何故俺はここにいる?」
 口に出して、気づく。
「俺、だと?」
 随分前に意図的に捨てた一人称。
 右手を見る。有ったはずの細かな傷がない。
 左手を見る。貫かれたはずの傷痕がない。
 皮鎧を外し、胸板を見る。腹を見る。どこにも傷が見あたらない。
 剣を抜いて、己の顔を映してみる。傷だらけだった顔には、彼の敗北の歴史が見あたらなかった。
「なるほど、負けた事実を消し去った世界か」
 それで俺という一人称に納得がいった。それを捨てたのはある敗北が切っ掛けだった。その事実を消した世界では捨てる必要がない。あるのは自信に満ちあふれた身体のみ。
 ヴァンは声に出してひとしきり笑うと、凄惨な笑みを浮かべた。
「無粋な悪夢よ」


       †


 どくん、と何かが脈打つ音がした。
 ヴァンは足を止めると、赤い世界を見渡した。
 夕焼けではなく、青空を血で染めたような空。
 紅葉したような紅色の木々。
 力尽きて倒れた戦士たち。
 だがそれだけである。
「気のせいか?」
 そう呟いたとき、また、どくんと脈打つ音がした。
 ヴァンは何かに引き寄せられるように茂みをかき分け、奥へ奥へと進んでいった。
 進んでいる最中にも時折脈動が聞こえる。
 背の低い木の枝をかき分けると、少し開けた場所に出た。
 周囲が血だらけでなければ、森の広場といった安穏とした表現が相応しかっただろう。
「待っていたぞ」

待っていたぞ

 血に満ちた広場には、一人の男が立っていた。
 血に塗れた銀髪、血を吸って黒ずんだ青い外套、黒い鎧、血で錆びた長剣。
 ヴァンは相手の緑の瞳に見覚えがあった。だが、彼が口に出したのは意外な言葉だった。
「貴様は誰だ」
 銀髪の男は意外そうな顔をしてヴァンの顔を凝視した。
「傷の消えた貴様ほど、人相は変わっていないつもりだがな」
「阿呆が、形だけで相手を判断するな」
 間髪与えずに言い放つと、相手はヴァンが見たことのない笑顔で忍び笑いを漏らした。
「俺の名を忘れたか?」

違う、こいつは俺ではない

「今ので確信が持てたところだ」
「思い出せ、我が名を」
 男の持っていた長剣が黒く染まる。
「風の領域の中心、風の棲処に座し、立ち入った者全てを殺す権利を持った魔人」
「権利など持たん、それは貴様の傲慢だ」
「命を奪い取る呪われた魔剣を持ち――」
「その魔剣は俺が破り、失われた」
「いいや、あるさ」
 黒く染まった長剣が次第に肥大化する。
「我が黒魔剣はこの手に」

違う、俺が祖父から受け継いだ魔剣はこのようなものでは

「それが魔剣だというのか? まあ確かに魔剣には相違ない」
 子供の身の丈を凌駕するほどの巨大な刀身を軽々と持ち上げる。
 よく見ると、男の腕は二の腕近くまで剣に取り込まれて一体化していた。
 ヴァンは禍々しいその魔剣を見て一笑に付した。
「醜い剣よ」

まったくだ

「黙れ!」
「黙らん!」
 言葉に裂帛の気合いを込めて叩き付ける。
「貴様が魔剣を失ったのは儂に敗れた敗北の証! 儂の傷もしかり。その敗北に目を瞑り、自分は負けていない、強いと思い込むなど逃避の極み。己の敗北に目を背けるな!」
 叫んだヴァンの顔に幾条もの傷痕が浮かび上がる。
「馬鹿な、貴様、その傷は……消えたはずでは」
 男の呟きに、ヴァンは己の傷痕をなぞって確認した。
「ほう、傷が戻ったか。粋な悪夢だ」
 ニヤリと笑って相手を睨む。一瞬呑まれかけた男であったが、すぐに気勢を取り戻した。
「傷がそんなにありがたいか。ならば一生消えることのない、深い悪夢を刻み込んでやろう」
「望むところだ、貴様にそれが出来るのならばな」
 ヴァンが双剣を抜く。男も手と一体化した巨大な魔剣を肩に担いだ。
「名乗りを上げろ」
「貴族の作法か? 偽物がよくもまあ」
「不死の魔人、ジーン・スレイフ・ステイレスだ」

違う、貴様は俺ではない

「違う、貴様はジーン・スレイフではない」

 ヴァンは双剣を構えると鋭い目で魔人を射抜いた。
「奴はそんなに弱くはない」
 魔人は何も言わずに、大人の身の丈ほどまで巨大化した剣を構えた。
「偽物の魔剣にすがる貴様ごとき、天破を持たぬ今の儂で充分だ。さあ、教練の時間だ、稽古を付けてやろう」

 青い影が暴風となってヴァンに吹き付ける。
 風を蹂躙しながら進む魔剣を交差させた双剣で受け止めると、ヴァンは挑発するように笑みを浮かべた。
「なかなか涼しい、心地良いそよ風だ」
 激昂した魔人が剣を振るおうと持ち上げた瞬間、双剣が正確にその胸を切り裂いた。動きが止まった一瞬に、更に二度の斬撃を打ち込む。普通ならば即死である。
「どうした、貴様の二つ名は"風の盗賊"ではなかったのか? 遅すぎるぞ」
 魔人は無言で睨み付けると、身体を回転させながら遠心力で魔剣を振るった。
 ヴァンは身を低くしてその剣をかわしながら男の両脛を斬り裂いた。すぐさま傷がふさがる。
「偽物でもあの魔剣と同じ効果があるのか?」

いや、これは命を吸っているのではない
俺の身体に残されたマナを使って再生しているだけだ

「そうか、違うのか」
「誰と喋っている!」
 魔人が突きを放ってくる。その切っ先の大きさだけで斬撃の範囲を持つような突きだ。
 ヴァンは即座に双剣を防御姿勢に構えると、切っ先を受け流した。
「本物のジーンとだ」
 受け流した際に双剣へ加えられた力を利用して、魔人の胴に横薙ぎの斬撃を叩き込む。

俺の声が聞こえるのか!?

「奴の声が聞こえるのか!?」
 魔人の問いにすぐには答えず、ヴァンは飛び退いて間合いを取った。
「聞こえんよ。そんな気がしただけだ。だが……そうかジーン・スレイフは儂に何かを語りかけていたか。礼を言うぞ偽物、おかげで何かが掴めそうだ」
「ほざけ!」
 魔人が突進してくる。
 ヴァンは斬撃の軌道を見極めようと構えたが、相手に手を動かす気配が無いことに気づいた。
「体当たりかっ!」
 一瞬の差で、大胆にも剣に近い側へ横飛びで回避した。剣と反対側では体勢を崩した所に威力のある斬撃が加えられる。剣に近い方ならば、近すぎて逆に斬りづらい。

凄まじい反射神経だな。経験と勘の為せる技か?

「相変わらず化け物じみた動きだな」
「儂はまだ人間の範疇さ、貴様みたいな無茶は出来ん」
 余裕を見せてみたはいいものの、ヴァンに打つ手が無いのは明白であった。
 何度も致命傷を与えてはいるのだが、まったく効いた様子がない。

いつか俺を破った時を思い出せ。あの時貴様は何をした!

「いつか本物の貴様と戦った時は血が尽きて身体が動かせなくなるまで斬り続けたな」

そうだ、今の俺は魔剣で吸った命ではないが、マナによって動いている

「今の貴様は何度斬っても血が出ん。同じ手は使えない。いや、使えなさそうだ」
「その通り、通用せん」
 魔人も余裕を見せて腕と一体化した黒い大剣を肩にかついだ。
「何を勝った気でいる。儂は使えなさそうだと言っただけだぞ?」
 魔人が言葉の意味を飲み込む前にヴァンの双剣がその咽を捉えた。
 咽に二振りの剣が貫通し、首を切断するように左右に振り抜かれる。
 ジーンの姿をした魔人は即座に反撃しようとしたが、首の修復を一瞬待った。
 その一瞬でヴァンの双剣が閃く。
 今度は大剣を担いだ右腕の脇から肩へと剣が貫通し、同じように腕を肩から切り落とすように振り抜かれる。
「貴様ァッ!」
「うるさい」
 再度双剣が咽を貫く。切り裂くように振り抜く。修復までの一瞬の隙に突き刺す、振り抜く、その傷が修復するまでの一瞬の隙に別の箇所を突き刺す、振り抜く。
 絶え間なく隙を突いて動き続けるヴァンと、斬ったさきから修復する魔人。
 果てることのないかに見えた不毛な作業にも、いつしか終わりが見えてきた。
 ジーンの姿をした魔人に、ヴァン以上の疲労の色が浮かんでいた。
「どうした、回復速度が落ちてきたぞ? 同じ手は通用せんのではなかったか?」
「うるさっ――」
「黙れ」
 双剣が咽を貫く。切り裂く。
 さらに追撃しようとしたところでヴァンの動きが止まった。
「……夢から覚めるのか」
 ヴァンは透けた手の向こうの魔人を見た。
「この悪夢はどうやら貴様にとっての悪夢となったようだな」
「そのようだ」
 咽の傷を修復した魔人が素直に同意する。
「やれやれ、ジーン・スレイフか。奴も難儀な悪夢を見ているようだ」
「それもいずれは覚める」
「では、今度は貴様の悪夢の中で会うとしよう」
「その時は」
「とどめを刺してくれる」

another side ≫ geryn's diary day.16


16日目4758文字
 砂にまみれた岩に腰を下ろし、ヴァンはゆっくりと双剣を抜いた。
 偽物の月明かりに照らされた双剣には、粘性の強い液体が付着しており、月明かりをゆがめて蓄えていた。
「剣の手入れか?」
 従僕たる動物に餌をやりながらフェリックスが問いかける。
「……随分と傷んできた」
 フェリックスは何かを言おうとして口を開いたが、少し考える間を置いてから声に出した。
「砂か?」
「それもある」
 孤島に来てからというもの、ヴァンたち一行は通路を駆け抜け、砂地で休息を取り、また通路を駆け抜け、砂地で休み魔法陣を目指すという生活を続けてきた。魔法陣に辿り着いたら一度遺跡外へ戻り、思い思いの場所でひとときの休息を楽しみ、また通路を駆けて砂地で休むという生活へと戻る。
 絶体絶命というほどの危機に陥ったことは少ない。最大のものでも、遺跡に潜ったその日に人狩りを生業とする者たちに襲われたぐらいのものだ。お互い不慣れで手探りな孤島の生活を始めたばかりだったので、何とか退けることが出来たが、充分に慣れてきた今だと遅れを取るだろう。
 その人狩り戦にしても、戦場は砂地であった。
 今までに砂地以外で剣を抜いたのは、小隊を名乗る兵士たちとやり合った時のみである。
 幸いにして刃こぼれするほどの強固な装甲や外皮を持つ敵と戦ったことはない。
 だが鞘に入った砂によって徐々にではあるが剣が傷んでいく。敵の体液でも劣化は進む。
 そもそもが適当な材料で作った急ごしらえの剣ばかりだ。まともなものは、武器を作るのが趣味だという怪しげな少女に作って貰った一振りのみ。それさえも、度重なる戦いと砂による摩耗で切れ味が鈍ってきていた。このままでは今以上の強さを持った敵と戦うには心許ない。
「なんだその赤いの? 血じゃねえな」
 ヴァンが眺めていた剣に付着した液体を見て医者が言う。
「ある意味では血かもしれん。サンドジェリーを斬った時に付いた粘液だ」
「あのオレンジのか。へぇ、こっから見ると月明かりのせいか、血みたいな色だな」
「オレンジ……」
 異なる世界の住人であるフェリックスの言葉は、たまにヴァンの知らない単語が混ざる。
「オレンジは知らんか、柑橘類の一種なんだがな」
「ふむ、見当が付いた。……不思議なものだな」
「異なる世界の言葉なのになんとなくわかっちまうのがか? ヴァンの言葉がわかるのはまだいい方だ、俺としちゃ小雨の嬢ちゃんの言葉がわかるほうが不思議だ。あの嬢ちゃんと俺は同じ世界の違う国の住人だ。あっちにいた時に何度かニュースで日本語を耳にしたがさっぱりわからなかったってのに、この島に来た途端スラスラ意味がわかっちまう。願わくば向こうに戻ったときにも、この能力が残ってて欲しいもんさ」
「稼ぎやすくなるからな」
「馬鹿、単純に日本の医療を理解して取り入れようって向上心だよ」
 そう言うフェリックスの顔は笑っていた。
「ニホン、小娘のいた国か……」
 ヴァンは笑みを消し、小雨が作った方の剣を見た。
「カタナ、というものを知っているか?」
「日本の剣だろ? よく斬れるし何より格好良いってので、俺の国にもマニアやら金持ちにコレクターがいるな」
「儂の使う剣は南の大陸から伝わった刀という物の技術を応用して作ってある」
 自分で打った方の剣を少し持ち上げて言う。続いてそちらを下ろし、小雨の作った剣を持ち上げる。
「そしてこれが小雨の作った剣だ。儂の作った剣よりもはるかに刀らしい剣になっている。どうも小娘の国にもカタナという剣があったというが、この完成度……儂の刀鍛冶の師に近い。小娘の名を書く時のカンジとやらも、南の大陸に伝わる文字とよく似ている」
 フェリックスは興味深そうにヴァンの持つ剣を見ていた。
「ひょっとすると、リックの世界、小雨のいたニホンから、儂の世界の南の大陸に技術が伝わったのかも知れん……」
「世界を越えてか?」
「有り得ん話ではない」
「現に俺たちゃここで出会ってるわけだからなぁ。面白い仮説だ」
「…………行ってみたいものだな」
 フェリックスの知る日本は、彼の母国と同じく文明国だ。ヴァンが夢想する刀を作る鍛冶職人もおらず、刀を使いこなす剣士も既にいない。それが常識である。一握りの技術を受け継ぐ者たちはいるかも知れないが、それもヴァンが望むような技術を持っているのかはわからない。
「案外行けるかも知れんさ」
 だがフェリックスは色んな言葉を飲み込んで、そう笑ってみせた。
「陽子嬢のようなつわものが、小雨のような刀鍛冶が、ひしめいているのだろうな」
 ヴァンの呟きに、フェリックスの笑みが凍りつく。
「ところでリック。気になっていたのだが、同じ国のはずの服部はあのような軟弱者だ。ニホンとやらは女傑の国なのか?」
「あー、まあアマネはニンジャのコスプレをしてるだけだからな」
「コスプレとは何だ」
「偽物ってことだよ」
「だが奴は術を使うぞ?」
 フェリックスの脳裏に、巨大な手裏剣を投げたり、炎の術を使うニヤケ面の男が浮かび上がる。
「…………日本は神秘の国なんだよ」
 彼の知る常識は、たった三人の日本人によって崩壊しようとしていた。

       †

 いつものように双剣を鞘ごと引き抜いて、地面に交差させて刺す。
 ヴァンは交差した部分に腰を当てると、若干うつむき加減の姿勢で腕を組んだ。
 二秒で眠りに落ちる。

 眠りの中で目を開ける。
(ほう、空を飛ぶ夢とは珍しい)
 宙に浮かぶヴァンの目に映るのは、一面の真っ赤な海と、その中心にぽつりと浮かぶ血まみれの島。
(やれやれ、またここか。偽物の孤島の本来の姿なのか、はたまた堕ちた姿なのか……どちらにせよ、狂気が強すぎて気分が悪くなるな)
 ヴァンが意図しないにも関わらず、彼の身体は島の一点を目指して飛んでいく。
(とりあえずは空を飛ぶ感覚でも楽しませて貰うか。………………風を切って飛ぶとは言うが、その風がこうも血なまぐさくては、とてもじゃないが気持ちいいとは言えん)
 五秒で冷めたヴァンだったが、自分がどこへ向かっているのかがわかると不思議と気分が昂ぶった。
 眼下に血にまみれた青い外套がはためいていた。ジーン・スレイフ・ステイレス、斬った相手の魂を奪い取る魔剣を持ち、百年も生き続けている魔人。
(二人いる?)
 ヴァンは目を疑った。狂笑を浮かべる血まみれのジーンの傍に、浮かない顔をしたジーンがいる。ヴァンはその両方を知っていた。
(儂が最初に下したジーンと、その後孤島を生き延びて成長したジーンか?)
 魔剣使いジーンから魔剣を失わせたのはヴァン当人である。敗北し海に逃れたジーンは、海中で魔剣を失って孤島に流れ着き、その島でヴァンの一番弟子ボルテクスらと偶然知り合った。紆余曲折の後、ジーンは魔剣に頼らない戦い方を身に付けてヴァンの元へ現れ、再戦でまた敗れた。
(昨日の夢の続きか?)
 空中で直立不動の姿勢となり、腕を組んで二人のジーンを見下ろす。気がつけば、ヴァンの横には見知った顔と見知らぬ顔が並んで浮かんでいた。
 一人は金髪に無精髭の男、もう一人は赤茶色の髪の少年。
(ボルではないか、どうしてここに?)
 声をかけるが届かない。すぐ真横にいるというのに、まるで聞こえていない。
 よく見ると一番弟子の姿は数年前の年格好だった。
(この格好……こいつが孤島から帰って来た時の姿か? とすると向こうの少年は…………思い出した)
 スリップ・スラップ。それが彼の名前だった。少年に見えるが亜人種なので年齢はヴァンよりもはるかに上だ。
 ジーンの数十年前の友人にして、冒険の最中に命を落としたという男。それが何故か孤島にいて、宝玉の力で生きながらえていたとボルテクスが語っていたのを思い出す。ジーンとの再戦の日、遠くから決闘を見守るボルテクスの横に、確かにこのスリップがいた。
(やれやれ、どうやらこれは浮かない方のジーンが望んだ助っ人か。魔剣に魅入られるというのも大変だな)
 しばらく見ていると戦いが始まった。ジーンと組んでいるのは巨大な斧を持った男と、槍を持った年端もいかない少女だった。
『我が名を唱えよ……』
 二人のジーンが同時に呟く。浮かない顔をしたジーンは、何かを諦めたような雰囲気だった。
『我は不死、我は悪鬼、我は魔人……』
 二人の呟きと同時に、金色の光が血にまみれたジーンを包んだ。
(まるで英傑の持つ威圧感だな)
 ヴァンがのんきな感想を持った時だった。
「ジーン! 手前ぇ何してやがる。魔剣ごときに引っ張られるんじゃねえ!」
 突然声を張り上げてボルテクスがジーンを叱咤する。浮かない顔だったジーンはぴくりとわずかな反応を見せたが、その声はどちらのジーンにも届いたとは言い難かった。
 また、二人のジーンが口を開く。
『我が名を唱えよ、我が名はジーン! ジーン・スレイフ・ステイレス!』
 黄金の光が強くなる。
(どれ、乗ってやるか。儂も折角人間としても剣士としても成長した男の堕落を見るのは気分の良いものではないしな)
 ヴァンは腕を組んだまま微笑を隠すと、弟子に続いて声を張り上げた。
「ジーン・スレイフ! 貴様の魔剣はもはやない。貴様は魔人ではない。ありもしない魔剣の影響を受けるほど、貴様は弱かったのか!」
 浮かない顔をしていた方のジーンが僅かに顔を上げた。血が染みついた外套をひるがえし戦っていたジーンも、見逃すほどの微少な反応があった。
「ジーン、宝玉を集めて俺を生き返らせるんじゃなかったのか? 俺はまだ寝てるよ?」
(どんな説得だ)
 ヴァンは思わず笑ってしまったが、浮かなかったジーンの顔に力が戻ってきていた。どうやら彼にとってスリップは、スリップ・スラップという個人だけでなく、失ってしまった感情や時間の代理人でもあるらしい。
 戦っている方のジーンにも焦りが見える。
「おらジーン、手前ぇ早く正気に戻れや!」
 弟子が叱咤する。
「魔剣に頼った貴様よりも、魔剣を失った貴様の方が強かったぞ」
 ヴァンも続く。
「そもそも俺と旅してた時は、そんな戦うのを楽しんでなかったけどね。ほんとに今のジーンが本来のジーンなのかい?」
 スリップがそう言い終えた時、目に力の戻ったジーンがヴァンたちの方に振り返った。「すまんな、礼を言う」
 どこか寂しげな微笑をほんの一瞬だけ浮かべてすぐ消すと、ジーンは戦い続ける魔人に近づき、そしてひとつになった。
(おかげで自分自身と戦う勇気が出た)
 そんな声がヴァンの心に届いた。
 ヴァンはゆるやかに目を閉じると、薄い微笑をたたえて心の中で答え返した。
(気にするな。己の弱さ、醜さと向き合って初めて前に進める。それには自分以外の力が必要なこともある)

 眠りの外で目を開ける。
 焚き火にくべられた薪の状態から、眠っていたのはほんの数分だと悟る。
(二日続けての不思議な夢か……)
 真っ赤に染まった世界を思い返す。
(悪夢の世界だな)
 二、三度頭を振って、真っ赤な世界を意識から追い出すと、ヴァンはまた腕を組んで浅い眠りの中へと戻っていった。

another side ≫ geryn's diary battle day.19


17日目4744文字
 砂を踏みしめて、ため息をひとつ。
 立ち止まると全身に疲労の根が這っているのがよくわかった。
 振り返って仲間たちに目をやると、やはり彼らにも疲労の色が見て取れた。
「限界か」
 通路地帯を駆け抜け、砂地で夜営。翌日一日かけてゆっくりと砂地を移動し、また通路地帯を駆け抜け、砂地で夜営。夜が明ければまた砂地を移動し、通路地帯の前で夜営。起きたらまた砂地に出るまで通路を駆ける。それが、彼らの遺跡生活だった。
 あまりにも代わり映えのしない毎日。ここ数日は出くわす敵もほぼ同じで、探索当初の緊張感も保てなくなってきている。
 魔法陣を見つけるたびに、魔法陣への登録を済ませて遺跡外へ出るようにはしているが、潜ったところでまた同じ生活の繰り返しでは精神的な疲労が溜まる一方だった。
 最後に外の空気を吸ってから既に五日。仲間たちの限界は見えていた。ヴァン自身も余裕があるわけではない。ヴァンやサザンのように前線で敵の攻撃を阻む役目は、後ろで魔法などを使う面々に比べて疲労の蓄積が早いのだ。
 ただでさえ彼ら一行は女子供が多い。本来ならば探索は四日程度に抑えて常に全力で戦える環境を整えた方が良いのだ。休み休みとはいえ通路地帯を駆け抜けるのもなかなか骨が折れる。あまり長時間休んでいては通路に棲息する敵に襲われるし、何よりも急いで移動しなければ通路の途中で日が暮れてしまう。人員を選別すれば通路で戦うことは可能だが、戦力に差が出ないように三人組を編成しているため、どうしても穴はある。どこかが負ければ残る三組にも影響が出る。無茶はできないのだ。
 かといって砂地の敵はリックのような獣使いには役不足らしく、強い敵を飼い慣らすためにも危険な場所でも留まりたいという思いが見え隠れしていた。強敵との戦いや、それで得られる物を求める衝動はヴァンや他の仲間にもある。
 少し遅れていた仲間が追いつくのを待って、歩を進めるのを再開する。
 足取りは軽くない。仲間の足音が疲労を伝える。しんがりを任せているサザンの快調な足音が先頭のヴァンにまで聞こえるのがその証拠だ。
「もう少し歩いたらまた通路地帯に出るはずだ、その手前で夜営の準備と行こう」
 振り返って声をかけると、いくつかの笑顔が返ってきた。皆、表だって疲労を見せようとはしない。それだけに、限界が近いとわかるのだ。
「今までの例だと、今日辺り魔法陣に付けるかも知れん、気張れ」
 またいくつかの返事が返ってくる。今度は声の底に活力が見えた。

 日が傾き始めた頃、不意に砂地が終わった。
 先頭で立ち止まっていぶかしがるヴァンの元に仲間が集まってくる。しんがりを務めていたサザンや頭脳労働を担当する最年長のリックも砂地がいきなり途切れたことをいぶかしがっていた。
「どう見る?」
「いつもはもう少し砂地が続いてから床だったんだが……」
「床の終わりに魔法陣というのがお決まりだったが、歩いてきた日数を考えるといきなり魔法陣ということもあり得る」
 ほんの数分の戦略会議。その間にも意識は外敵を捜している。
 結論はすぐに出た。サザンが再び全員の後ろに回ると、ヴァンを先頭にして一行は床を踏みしめた。
 何日繰り返しても、毎回床に足を踏み入れた時には違和感を覚える。ずっと柔らかく不安定な砂地を歩き続けていきなり硬い床に変わると、感触が変わりすぎて感覚が混乱するらしい。気にならない者もいれば順応の早い者もいるのだが、全員が平気というわけでもないので、ヴァンが先頭を歩くときは通路地帯に入ってすぐは少し歩をゆるめる事にしている。無論その後で慣れてきたら急いで通路を抜けるわけなのだが。
「……おかしい」
 ヴァンが呟くと少し後ろを歩いていたリックがそれに気づいた。
「何かあったか?」
 近づいてきたリックは手ぶらだった。どうやら荷物は全て飼い慣らした動物の背にくくりつけるという体力の温存方法に思い至ったらしい。
「禍々しい気配を感じるのだが……」
「床の敵って奴か、話には聞いてるが強いらしいじゃねえか」
「いや、違う。この周囲からは感じないのだ」
「は? 何言ってんだお前?」
 ヴァンは歩きながら周囲をゆっくりと見回した。
「やはり違う。この辺りはむしろ落ち着いた空気だ。通路のように淀んではいない。だが何者かの敵意が儂らを捉えている」
「人狩りか」
 忌々しげに舌打ちをしたリックの言葉に首を振る。
「違う。あれほどギラギラしてもいない。からみつくような敵意だ。強敵がここにいる、向かってきてみろとでも言うような……」
「おい、それはまさか」
「守護者かも知れん」
「ついに来やがったか! この前外に出た時に宝玉手に入れた奴がいるとか聞いて、俺らも早く守護者サマに会いたいと思ってたんだ」
 医者という割りには好戦的な男である。
「リック、お前は自分たちが満身創痍だと気づいていないのか?」
 呆れたように批難の色を含める。リックもそれを感じ取ったのか神妙な顔つきになった。
「俺は医者だぜ?」
 だが、すぐに不敵な笑みが浮かぶ。
「多少の無理をさせる方法なんぞいくらでも思いつく」
 やはり好戦的な男だった。
 首を振ってため息をつくヴァンだったが、ふと何かを見つけて立ち止まる。目を懲らすと暗い通路にうっすらと明かりが見えた。床に棲息する敵のなかには光球の魔法生命体などもいるため、慎重に目をこらして正体を探る。
「魔法陣だ」
 口を突いて出た言葉は普通の声量だったが、仲間全員に聞こえたらしく皆が先頭のヴァンに追いつくよう歩を早めた。

       †

「落ち着くなぁ」
「落ち着きますねぇ」
 うっすらと光る巨大な魔法陣の中で、服部とアゼルという不自然な絵面が並んで茶を飲んでいた。
「何をやっているんだあいつらは?」
「アマネがお茶に誘ったらしい」
 二人から少し離れて、ヴァンとリックが酒を飲んでいる。
「服部が? あいつは幼女趣味だと思っていたが、お稚児趣味まであったのか」
「いやぁ、ありゃ普通に茶を飲んでるだけだろ。それにアマネが言うには別に幼女趣味じゃないらしいぞ?」
「その手の奴は皆そう主張する」
「野郎が小雨の嬢ちゃんに粉かけてんのは、将来すげぇ美人になるから先行投資してるってことらしいが」
「美人になろうが、腹に黒いものを溜め込んだ悪女ならば意味はない。疲れる上に隙を見せたら寝首を掻かれる」
 不機嫌そうな顔で杯をあおる。
「そりゃ経験から来るありがたいお言葉かね?」
「ほざくな、お前も身に覚えがあるだろう」
「……無いとは言えんわな」
 そう言ってリックも杯をあおった。からになった所にヴァンが酒をついでやる。
「服部もいずれ身にしみるだろう」
「しみてから後悔するわけだな」
「それも人生の経験よ」
「違いねぇ」
 笑いあって他の面々を見回す。
「サザンの兄さんは両手に花っつっていいのかね?」
「花は手入れが大変だ」
「まあ大変そうだわな。笑顔の裏に疲れが見えてら。嬢ちゃんがたは気づかないのかねぇ」
「気づくのと気を遣うのでは話は別だ」
「スフィ嬢はちょっと天然入ってるから普通に気づいてないんじゃないか?」
「天然の花はもっと手入れが大変だ」
「何言ってんだお前は、酒呑め酒」
 からになった瞬間に酒が補充される。ヴァンはゆったりとそれを口に運んだ。
「天然と言やぁ、天然組は何してんだ?」
 リックが視線をやった先には小雨とリリィら女性陣が談笑していた。
「エマールとディーネは天然とは言わん」
「それを言うなら小雨とリアの嬢ちゃんコンビも天然とは言わねぇだろ」
「あれは腹黒というのだ」
「腹黒だな」
「ああ、まったく腹黒だ」
 女性陣を見ながら酒を呑む。少しの沈黙を破ったのはリックだった。
「考えたらよ、リアの嬢ちゃんは腹黒とは少し違わねえか?」
 ヴァンはリアの顔を見て少し考えてから頷いた。
「そうだな、外見が幼いから小娘のように歳不相応の腹黒さを隠しているように見えるが……」
「実年齢を考えりゃ、大人が持ってて当然の社交術に過ぎないのかも知れないよな」
「まあ多少腹黒いのは確かだろうが、取り立てて言うほどのものでもないな」
「だな。あの黒さを薄くしたらディーネの嬢ちゃん、濃くしたら言わずもがなか」
 苦笑するリックの言葉に短く頷いて酒を呑む。
「リリィの嬢ちゃんは天然だよな」
「ディーネやアゼルと並ぶほどの純真さだな」
 比較対象が両方とも子供なことには二人とも違和感を覚えなかった。
「ん、今日はエマールもいるのか」
 リリィの義姉であるエマールは、ヴァン一行と常に行動を共にしているわけではない。一人で気ままに探索をしている。ほぼ毎日一行の前に姿を現し、戦闘ともなれば義妹に手を貸すこともあるので、ほとんど一行に数えても良さそうなものだが、恐らく本人がそれを嫌がるだろう。
「エマールか、儂の弟子が頭が上がらんとぼやいていたな」
「わからんでもないがね、特にお調子者だとため息ひとつで畏縮してしまいそうだ」
「そうとも言えん。あっちのお調子者はため息ごとき無視するぞ」
 ヴァンが顎で指した先には、動く元植物生命体がいた。植物なのに手足が生えて動くだけでなく、既に死んでいるのにまだ動く。しぶといにもほどがあるとうもろこしだった。
「何やってんだありゃ?」
「恐らくセファリッドに茶を作って貰っているのだろう」
「あん? あのサド嬢ちゃんがお茶? そんな女らしいことできたのか」
 唐土は紅茶を嗜むと自称している。だが彼が紅茶の準備をしている姿を見た者はいない。
「紅茶か、わけて貰ってブランデー入りの紅茶にでもするかな」
「紅茶入りブランデーの間違いだろう。それにやめておけ、恐らくお前が考えている味にはならん」
「どういうこった?」
 リックの疑問はもっともである。ヴァンはすぐには答えず、目を瞑って薫りの強い酒を口に運んだ。咽を潤し、短くため息をつく。
「セファリッドが持っているものをよく見てみろ、茶葉に見えるか?」
 リックの位置からは少し見ただけではセファリッドの背中しか見えない。意識して初めて手に何かを握っているのがわかる。
「なんだありゃ? なんかオレンジ色の…………げ」
「酒に入れたいか?」
「おい、あれやっぱり……」
「儂が斬ったサンドジェリーだな。奴らはラクダとしか戦ってないはずだ」
 無表情にそう言って酒を呑む。絶句するリックをちらりと見てから、ヴァンは言葉を続けた。
「さっきはラクダのコブを絞っていた。案外美味いかもしれんぞ?」
「コブってお前、どんだけ握力あんだあの嬢ちゃん」
「毎日成長し続けているらしいぞ。試しに握って貰ったらどうだ?」
「いや、遠慮しておこう……」
 げんなりとした顔のリックに黙って酒をついでやる。
「まあ儂の戯れ言だ、気にするな。唐土が敵を見つけるたびに美味い紅茶が飲めると喜び、闘技大会などでは紅茶が飲めんと嘆いていたというだけだ。ただの推測、よた話よ」
 笑ってみせるヴァンだったが、もはやリックの脳裏には夜な夜な生き血を絞って飲む植物生命体の姿しか浮かばなかった。
 そうして魔法陣の夜は更けていく。来るべき強敵との戦いを予感しながら……。

18日目4758文字
 岩肌を駆け下りてきた風に外套をはためかせ、ヴァンドルフ・デュッセルライトは眼前にそびえ立つ山を静かに睨んでいた。
 まだ夜は明けない。眠る仲間に背を向け、意識を研ぎ澄ませて外敵の気配を探るが、どれだけ探っても周囲に動物の気配は感じられなかった。それでも、ヴァンの意識は山に向く。山の上から殺気を放つ何者かに向く。
 内心の焦りと不安を微塵も表情に出さず、ヴァンはひたすらに山を睨み続けていた。
 風が強い。

       †

 魔法陣を越えた先に広がる通路、その脇道にそびえる山に何者かがいる。
 眼下をうごめく人間たちに自分はここにいると誇示するがごとく殺気を浴びせ、待ち受けている。
 風の噂には、すでに幾人ものつわものが挑み、敗れたと聞く。
 ヴァンたちは数日前に遺跡外で噂になっていた「宝玉の守護者」が自分たちの前にも現れたのだと悟った。
 ある者は言った、「負けることがわかっていても、戦って初めて相手との差が見える」と。
 ある者は言った、「負けることがわかっているのだから、力を付けてから挑むべきだ」と。
 どちらも正しい。
 ヴァン一行は夜営で激論を交わした。皆、共通していたのは敗北を前提にしているということだった。
 結局、戦いに敗れても死ぬことのない現在の孤島ならば、負け戦で得る経験もあるということで挑むことになったのだ。
 ため息をついて、ヴァンは組んでいた腕をほどいた。山肌から吹き付ける夜風は冷たい。
「勝てると思うか?」
 声を掛けられて初めて、フェリックス・ベルンシュタインが起きていたことに気づく。振り向くと皆が寝ているそばでリックが酒をついでいた。
「冷えるだろ、飲め」
 ヴァンは厚意を受け取るためにリックへ歩み寄ると岩陰に腰を下ろした。受け取った酒杯を口に運び身体の芯を暖める。じわりと広がる熱が、冷えていたのだと感じさせた。
「んで、どう思う?」
 一息ついた所で最初の質問を繰り返す。
「わからん」
 それがヴァンの正直な感想だった。
「明日もいつもどおり四組に分けるが、この感じだと四組それぞれに時間差で襲いかかってくるだろう」
「宝玉を守ってるくせに、全員にチャンスをくれるたぁ太っ腹だ」
 ぴくりとヴァンの眉が動く。相変わらずリックが使う異世界の単語は所々でわからないが、会話の流れで理解する。大体の言葉が通じるだけでも吉とするべきなのだ。
「宝玉か、本当に宝玉を持っているとは限らんが、全員にくれるというわけでもない」
 ちらりと眠っているディーネとアゼルを見る。まだ幼い双子の姉弟は、常に二人で協力して戦っていた。
「ああ、確かにあいつらは二人で一人という扱いみたいだな。どうも三人までしか認識しねぇってのがこの島のルールらしい」
「……ルール」
「決まり、規則だな」
「ああ、諒解した。しかし決まりに従って動物や敵が襲いかかってくるというのも妙な話だ」
「俺は知らねぇが、孤島ってのはそういうもんなんだろ?」
「この島ではな。儂がいた孤島や、ボル……弟子のいた孤島では二人一組が基本だった。敵も移動中でもこちらが弱いと見ると強襲をしかけてきたものだ。朝昼晩と三度もな。数にしても多かった。遺跡の外だろうがなんだろうが毎日戦って、勝って、その肉を食わんと餓えていく。餓えればどんどんやせ衰え、そして死ぬ」
「……何度聞いてもえらく現実的だな」
 リックは何かを思い出すように眼を細めた。ヴァンもかつての孤島や、そこに至るまでの傭兵生活を思い起こす。
「それが当たり前で、この島が規則的過ぎるだけだ」
「気味悪いぐらいにな」
 リックの言葉に頷いて、ヴァンは遺跡外で酒場を開いている弟子との会話を思い出す。
 何者かが明瞭な意図を持って作った遺跡、謎の伝説、見え隠れする悪意、ヴァンや彼の弟子が知るかつての孤島を模倣したような世界。
「偽物の孤島……」
「あん?」
「……いや、気にするな」
 何かを振り払うように軽く頭を振ると、酒杯にわずかに残っていた酒を飲み干した。
 しばしの沈黙、だが静寂は訪れない。虫の音が聞こえるわけでもなく、ただただ吹きおろす風の音だけが聞こえていた。
「勝てるか、という質問だったな」
 風の向こうにいる敵をひと睨みして、からになった酒杯に厳しい表情で視線を落とす。
「可能性は低いが、無いわけでもない」
 言葉を切ると、リックが視線で続きを促す。
「サザンたちはスプルエアが先に倒れず回復を続け、なおかつサザンたちの攻撃が当たれば可能性はある。儂らもそうだ。単純にお前の回復魔法が、儂とリリィが受ける攻撃を上回れば良いのだ。無論避けるつもりだが……」
 ヴァンは山肌をちらりと見た。
「この風、もしこの殺気の主が宝玉の守護者だとすると、風の守護者かも知れん」
「そういうもんなのか?」
「断言は出来んがな。儂の弟子が孤島を旅していた時は、火の宝玉の守護者は異常に暑い砂漠地帯で待ち受けていたという。己の持つ宝玉に合わせた土地で守っているのか、それとも宝玉があるからそういう土地になるのかは知らんが、傾向としてそういうことはあるようだ」
 ヴァンの言葉を肯定するように風が一際強く吹き、岩肌から砂を舞い上げる。
「守護者が風ならば、儂は避ける自信はない。真正面から受け止め、耐えるしかない。リリィもそうだろう。儂らが耐え、当てて、お前がしっかりと回復する。情けないがこれしかない」
「責任重大だが、なんとも絶望的だな」
 肩をすくめるリックに、ヴァンは重々しく頷いた。
「恐らく儂らが一番勝率が低いだろう」
「小雨の嬢ちゃんの所とか、リアの嬢ちゃんの所よりもか?」
「小娘の所は、小娘と服部の脆さが際立っているのと、攻撃を当てれんのが問題だ。だが、セファリッドの耐久力に加えて、服部が最近ものにした忍術がある。特に相手が風ならば、儂らにとっては厳しい相手だが、服部ならば風が苦手とする類の術を使える」
「大穴ってわけか」
「小娘も脆いが……昨日の手合わせで喰らった技は可能性がある。まあ分の悪い賭けだがな」
「相性によっちゃ可能性は高いってこったな」
「その相性を見極めるための無謀な戦よ」
 傷だらけの顔をニヤリと歪ませる。
 今まで幾度となく戦い、勝ち、負けてきたとその傷が教えている。
 待ちかまえているであろう守護者に挑むかどうかという激論を交わした際、声高に無謀な戦いを主張したのもこの男であった。曰く、命を落とさない戦いであれば、挑んで負けることも重要であると。
 命を落としかねない戦いに全力で挑み、無論勝ちもしたが負けもしたのがヴァンである。その度に消えぬ傷を負い、死線を越え、地面を這いつくばりながら立ち上がってきた。その負けの経験こそが、己をさらなる高みへ押し上げてきたという自覚がある。だから彼は周囲を鼓舞して負け戦へと向かったのだった。
 リックはそんな戦いに付き合わされることに苦笑を浮かべてから、諦めたように首を振った。
「これで俺たちだけ負けたなんてことになったら置いて行かれるぜ?」
「いずれ追いつけばそれで良い」
 ヴァンは腰から双剣を鞘ごと抜いた。そろそろ見張りを後退する時間だ。次の夜番は目の前の男なので起こす必要もない。リックの方はすぐにヴァンを寝かすつもりはないらしく、もう一杯どうだと酒を勧めてきた。ヴァンも一杯だけだと応じて酒杯を差し出す。
 琥珀色の液体に偽物の月が映る。
 時折流れる雲は、地を這う風とは違いゆっくりと雄大に流れて行く。
 杯を傾けて月を飲む。良い薫りがした。
「リアの嬢ちゃんの所はどうなのか聞いてなかったな」
 思い出したようにリックが聞いてくる。
 ヴァンは酒杯から口を離すと、偽物の空に浮かぶ月を見上げて答えた。
「あそこは……難しいな」
「勝てねぇか」
「いや、そうではない。説明が難しいのだ」
 ちびりと酒杯を傾ける。
「リアやディーネたちは、ある意味で正統派だ」
 小柄な双子は相手をかく乱して攻撃を避け、扱いづらそうな槌で殴りつける。
 生命亡き者の王を自称する植物不死生命体はひたすら耐え、自己修復し、拳で殴りつける。
 そして小柄な魔術士の女性は、戦闘となれば何故か少女に戻り――とは言っても背格好は変わらないが、後衛からの圧倒的な火力で破壊の限りを尽くす。
 変わり種の四人組に見えるが、やっていることは至極真っ当な戦い方なのだ。
 全員小柄なのでそんな印象を受けにくいが、ヴァン一行で最大の攻撃力を誇るのは彼女たち四人だった。
 リックも闘技大会でのルヴァリアの暴挙を思い出したのか「ある意味でな」と含みのある言い方をして頷いた。まさかあのような少女が前回の闘技大会で破壊力が七位と表彰されたなど、誰も信じられないだろう。実際に彼女が戦っている姿を見ない限りは。
「リアは今回の戦いのために戦略を練ったらしい。上手く行けば奴らは勝てるかも知れん」
「その割りには自信が無さそうだな?」
 リックの指摘にヴァンは深々と頷いた。
「難しいと言っただろ。奴らは上手く行けば強いが、下手をすれば最も早く負ける組でもある」
 十一歳の双子、ディーネとアゼルは避けることに関してはヴァン以上の技術と勘の良さを持っているが、やはり子供だ、敵に捉えられればそこまでである。
 唐土は黙って戦っていれば長期戦でも一人で耐え抜く猛者なのだが、調子に乗って危険な技を連射して自滅していく光景がよく見られる。
 リアは元々小柄な上に、魔術士として戦う時には若返って十二歳の少女になってしまう。
「やはりリアがどれだけ破壊の限りを尽くせるかだが……」
「あの嬢ちゃんだと万が一相手の攻撃をまともに喰らえば一発で落ちかねんな」
「だから難しいのだ。……まあ儂らの勝ち目が薄いことは揺るがんから、他人に気を取られている余裕はないのだがな」
「違いない」
 苦笑をかわした後、ヴァンは岩陰から立ち上がって己の寝場所を探し、いつものように剣を背もたれにして浅い眠りへと旅立った。

       †

 時折吹く突風に飛ばされないように身を縮める。
 背丈の小さい者たちはお互いの腰に縄をくくりつけている。
 草木も少なくなって久しい。登り始めた頃はちらほらと見かけた緑も最早無く、山はいよいよ純然たる岩山となってきた。
 日が高くなってきた頃、ヴァンたちの前に一本の枯れ木が現れた。五つに分かれた大きな枝が道しるべだとでも言うように、五つの道がその後ろに続いていた。
 気づけば風はぴたりとやんでおり、不気味なまでの静けさが彼らを包んでいた。
 一行は顔を見合わせるとお互いを結んでいた縄をほどき、戦闘時の隊列に組み替えて四つの道をそれぞれ選んで進んで行った。
 ヴァンの後ろにはリックと従僕、その後ろにエマールとリリィが続く。
 少人数の部隊にわけて更に一時間ほど登った時だった。
 突如頭上から風が叩き付けるように吹いてきた。
「来るぞ!」
 ヴァンが抜剣しながら頭上を睨むと同時に巨大なランスが閃いた。
 双剣でランスを弾きながら飛び退く。強襲してきた敵が立ち上がる。銀の鎧に身を包み、巨大なランスを構えるその姿は年若い女性だった。
「貴様が守護者か?」
「くだらん前置きはいらん……消えろ」
 今、激闘の幕が上がる。

19日目4796文字
「くだらん前置きはいらん……消えろ」
 頭上から奇襲をしかけてきた巨大な槍を持った女は、そう言い放つと大きく飛び退いた。
(助走? いや……)
 奇襲の後だというのに一旦間合いを離す意味を考える。瞬時に浮かんだいくつかの可能性を、相手の雰囲気、一挙手一投足で打ち消し絞り込んでいく。結論が出るまでに僅か二秒。
「遠距離攻撃か! させんっ!」
 ヴァンが駆け出したのに一拍遅れてリリィも走り出す。ヴァンのような戦いの経験による判断ではなく、本人の頭の良さや勘で同じ結論に至ったのだろう。背後ではリックがヴァンたち二人に強化魔法を詠唱し始める。
(僅かに間に合わん、ならば!)
 抜いた双剣を握ったまま、自由になる指でいくつかの印を描く。
 僅かに指が痺れていると自覚する。先ほど双剣で奇襲をはね除けた際の衝撃が未だに残っているのだ。
 通常の槍ならばまだしも、騎士が騎馬突撃用に使う巨大な槍だ、本来騎士が単身で使う物ではないし使える物でもない。それを軽々と振り回す膂力に加えて、ヴァンに反撃を許さずに飛び退く反応速度と瞬発力、まともに打ち合えば今のように防御しても痺れが伝わる。
「これで麻痺を防げるとは思わんが……ものは試しか」
 練り終わった技を解き放つ。身体中の隅々にまで意識が伝わって行くのを感じた。全身を意識で制御することにより、抵抗力を高めるという戦技である。乱戦になりやすい戦場での戦いに身を投じる際の奥の手であった。
 無論奥の手であるからには普段使わない理由もある。全身を制御する意識を通常以上に微細にするため、その状態で戦うにはかなりの集中力を要する。そうなれば同じよう微細な身体制御が必要となる高等な剣技を使うための集中力や精神力の余裕がなくなってしまうのだ。
 本来はこのような多対一という有利な状況で使う技ではないが、毎合打ち合うたびに手に痺れが残っていては意味がない。それ以上にこの相手には多対一という状況でさえ有利とは思えなかった。
 最初から負ける覚悟は出来ている。だが、負けるにしても全力で戦って次に繋げる敗北でなければ意味がない。
 並走するリリィも武器としている分厚い本の持ち方がいつもと少し違う。彼女もなにか技を狙っているのだろう。
 前方に渦巻く風を感じた。どうやら女騎士は風をまとっているらしかった。
(風をまとうか、ジーン・スレイフを彷彿とさせるな)
 かつて戦った風の異名を持つ魔剣使いを思い出し、脳裏に仮想敵として鮮やかに描く。あの速さを覚悟しておけば、目の前の女騎士がいかに早かろうと動揺することはないと考えたのだ。
 女騎士が槍を突きの姿勢に構えた。槍が届く距離ではないが、自ら距離を取っての行動だ、届かせる手段があるのだろう。まだヴァンの間合いには遠い。避けるしかない。
「死んでしまえぇぇッ!!」
 叫びと同時に三つの閃きが空を裂く。
「ッ!」
 避けようと身をひねったが避けきれない。予想していたよりも更に速かった。
 リリィはまともに喰らったらしく体制を崩している。二人の後ろから走ってきていたリックの使役する巨大ハムスターなどは、いきなり見えない攻撃に吹っ飛ばされて何が起こったかわからず混乱しているようだった。
 背後からリックの声が聞こえたかと思うと、濁った色の瘴気が女騎士を襲った。猛毒の瘴気で敵を包む牽制技だ。
(……風に阻まれているか)
 一瞬期待したヴァンだったが、女騎士を包む気流が瘴気を阻んでいるのを視認した。
(だが足止めにはなった)
 間合いに入る。初撃から大技を放つつもりで構えた刹那、女騎士は走り寄るリリィの方へ僅かに飛び退いた。反応が遅れる。
「我がランスに敵う者など存在しないッ!」
 威風堂々の蛮声を上げると、女騎士は巨大な突撃槍を頭上に振りかざして激しく回転させた。
 風が暴風となって接近していたヴァンだけでなく後方にいたリックにまで襲いかかる。
 暴風の一撃を受けて僅かにひるむが、耐えられないほどではない。
「猪突では当たらん」
 襲い来る二撃目を見切って虚勢を張る。直接攻撃ではない上に目を開けているのも難しい暴風と砂埃だ、恐らく相手も攻撃が当たっているかの判断は付いていないだろう。虚勢にも意味がある、そう思いながら三撃目を耐える。
「無駄な足掻きだッ!」
 虚勢に逆上したのか、女騎士は巨大な突撃槍を更に回転させた。
 風力が強すぎて避けづらいが、女騎士も暴風を送り出している間は動けない。確実にヴァンやリリィの間合いに捉えようと思うと、この攻撃に耐えながら間合いを詰めるしかないのだ。
 巨大な風の塊が防御姿勢を取っていたヴァンの双剣にぶつかる。手が痺れそうになるのを感じて防御を解き、あえてその身で受ける。麻痺して次の攻撃や回避に影響するよりは、この一撃を耐える方がましだと判断したのだ。不幸中の幸いか、これを受けて歩みが遅れたために次の一撃は僅かにヴァンの鼻先をかすめただけだった。
 砂埃を踏みつぶす。
 ヴァンは女騎士を間合いに捉えた。
「リリィ、当てろよ!」
 ねらい澄ませていた一撃を振りかざす。女騎士が生み出した風の一部がヴァンやリリィを包む。
(風を味方に付けるのは貴様だけではないっ!)
 風に押されて加速した刃が女騎士のまとう風を押し分ける。刃が女騎士の脇腹を守る鎧の淵に当たる。
(砕けっ!)
 力を込め、鎧の淵を砕いて無理矢理胴に斬撃を通す。
 鎧の下に着込んでいた鎖帷子に阻まれてはいたが、痛手だったことは女騎士が表情をゆがめたことからも見て取れた。
 体勢が崩れた女騎士の背後にそびえ立つ長身。暴風のせいか眼鏡がずり落としたリリィが辞典を振りかぶっていた。
 長躯から振り下ろされる辞書の一撃、ヴァンも最初は甘く見ていたが、恵まれた長身から振り下ろされるあまりにも分厚く重い辞書は、凶器として充分な破壊力を持っている。だが、眼鏡をずらしたままで狙いも定まらず、しかも手が痺れているのか力もこもりきっていない一撃では当たらない。
 女騎士は体勢を崩したまま回避すると、一歩跳びすさって体勢を立て直した。
 僅かな隙を突いてリックが全員に回復魔法を掛ける。リリィは手の痺れが収まったらしく、しっかりと辞書を握りしめた。
 ほんの数瞬の間。先に動いたのは女騎士だった。
 軽く跳びすさりながら両手を広げる。
「さぁ同志よ、力を解き放ちその姿を現せッ!!」
 風が集結する。
「召喚だとっ!?」
 シルフがその姿を現す。この孤島に来てから今までで最強の敵はこの女騎士だったが、それに次ぐのはこのシルフだろう。風がより強くなった。
 女騎士は召喚で力を使いすぎたのか、動きが鈍っている。好機といえば好機だったが、ヴァンは妙な気配を感じて攻めあぐねた。
 注視していると、砂塵が女騎士に向かって吸い込まれて行くのがわかった。
(砂、いや、風を吸っている? 身体で?)
 奇妙な現象に途惑うヴァンだったが、昨夜仲間と交わした会話が脳裏に浮かんだ。魔術士の少女リアは、光の持つ力自体を取り込んで己の精神力を回復させる技があると語っていた。そしてそれは火や水、風でも同様の事が出来ると――
「回復などさせん!」
 ヴァンは身を低くして駆け出すと、シルフの脇をすり抜けて女騎士に切迫した。
「怨牙侵身!」
 双剣が閃く。女騎士の身体を捉えた剣は、血を跳ね上げながら振り抜かれた。その血が黒い瘴気となって女騎士とシルフに染み込んでいく。
 リリィが即座に技を展開し蜃気楼を発生させる。それを受けてリックが再度全員に回復魔法を掛けた。連係の速度が上がってきている。
 女騎士は黒い瘴気による衰弱作用に耐えながら精神を集中させているようだった。
 シルフが双腕で風を起こすが、ヴァンとリリィはそれを回避して女騎士に肉薄した。
「怨牙猛追!」
 右側からヴァンが双剣を振るう。女騎士を斬り裂いた切っ先から血が飛び、また黒い瘴気となって女騎士を襲う。
 それとほぼ同時に左側からリリィが辞書を振るう。単純に振り下ろされたかに見えた攻撃は、手元で細かく変化しながら女騎士の脳天に落ちた。
 女騎士はさらに精神を集中させようとしている。
(これは……こいつの癖か。逆境に慣れてないのか、大技狙いが好きなのかは知らんが、敵に追い込まれてなお打開せんのは経験不足よ!)
 シルフが風の刃を生み出しリリィに斬りつけ、そのままヴァンにも風の余波を叩き付けてくる。だが二人は怯まない。ようやく見えた勝機を見失うわけにはいかない。
「孤狼の牙を受けてみよ!」
 背を打たれて体勢を崩しながらも、渾身の一刀を振る。意識が身体を制御する。ヴァンは不安定な体勢のまま残る一刀を振り抜いた。その直後にリリィがまたも女騎士の脳天を辞書で叩き付ける。そうして出来た隙を狙ってリックが全員に回復魔法をかける。ここにきて連係はかなりのまとまりを見せてきた。
 精神集中を終えた女騎士が槍を構える。
「止められるものなら止めてみるがいいッ!!」
 辞書を振り上げていたリリィに閃光が襲いかかる。しかし頭を打たれた衝撃が抜けていないのか、閃光はリリィを逸れて虚空へと消えた。
 不甲斐ない主人を助けるようにシルフが風の刃を生み出してリリィの背中を斬り付ける。
 予想していなかった背後からの一撃にリリィは振り上げていた辞書を落とし、自分の頭を打ってしまった。
 隙を埋めるようにヴァンは女騎士に斬りかかったが、今度はかわされてしまった。
 だがその回避行動が女騎士の不運だった。
 自分の頭にあの重い辞書を落としたリリィが、器用に頭に辞書を載せたままの姿勢で倒れ込んできたのだ。
 振り返ろうとする女騎士に雪崩れ込む長身。一拍遅れて振ってくる巨大な辞書。立ち上がるリリィ。辞書を拾い上げようとしてつまづく長身。またもリリィが倒れ込み、一度拾い上げられた辞書がまた振ってくる。
 場が凍りつく。
 死闘の気配は一気に遠のき、リックもせっかく出来た隙だというのに回復魔法をかけるのを忘れていた。

       †

「勝っちゃいましたね」
「勝っちまったな」
「勝ててしまったな」
 分かれ道の目印だった枯れ木の前で、ヴァンたちは拍子抜けしたように呟いた。手の中に収まった風の宝玉だけが現実味の無い勝利を保証していた。
 あの女騎士はヴァンたちに負けた後には何らかの回復手段を持って他の挑戦者たちと戦うのだろう。ヴァンたちが剣を交えた時点で既に他の挑戦者と戦った後だったのかも知れない。ひょっとすると何人もの影武者や同じ役目を持った別人などがいるのかも知れない。どちらにせよ、彼女は宝玉を渡すべき強者を選別する使命を持ってヴァンたちを迎え撃ったのは間違いない。つまりそれは彼女自身の意志ではないのだろう。
「あの口ぶりだと、本気を出していなかったのかも知れんな」
「また戦うんですか?」
 リリィの不安げな問いかけにどう答えるか逡巡して、ヴァンは無言で頷いた。最後に水面へ飛び込んだのは必死の行動ではなかった。
 彼女が疲弊していたのは確かだが、ヴァンたちに風の宝玉を渡してから自ら水面へ飛び込んだのだ。宝玉を渡したくないのならば渡す前に飛び込むだろうし、あのような余裕は見せなかっただろう。
「まったく難儀な島だな」
 まだまだこの島には謎が多い、守護者の意図も見えない。ヴァンはリックのぼやきに、今度は心から頷いた。

20日目4850文字
 岐路に立っている。
 硝子の酒杯ごしに揺れる蝋燭を見つめ、ヴァンドルフ・デュッセルライトは短くため息をついた。
 店主がちらりと顔色を伺ってくる。いつもならば間髪入れずにどうしたのかと聞いてくるだろうが、今日は少々店が混んでいるせいか話しかけては来ない。酒場の店主ならば空気を察してというのが普通だろうがこの店主に限って、それもヴァンに対してそれは有り得ない。空気を察した上で、相手がヴァンならばあえてそれを無視するのがこの店主だ。
 弟子として色々無茶な育て方をした恩返しならぬ怨返しかも知れない。だが不快にならない範囲での図々しさは気持ちいいものだ。だからヴァンは、この時弟子が話しかけて来なかった事に塵芥ほどの寂しさを覚えていた。
 目の高さに掲げた酒杯を手首で回す。
 氷の音と酒場の喧騒が心地よい音を奏でる。
 夜闇に抗うように酒場の中は幾本もの蝋燭が明るく輝き、その熱と酔客たちの熱気で窓から入る涼しげな夜風さえ押し戻していた。
 目と耳で酒を満喫してから、琥珀色の至福を口に招き入れる。口内から鼻にかけて、芳醇な薫りが広がっていく。酩酊しそうな薫りを咽に通し、咽の奥からも立ちのぼる薫りをまた楽しむ。
「良い酒だ」
 正当な評価を下し、ヴァンはまた思案に暮れた。
 彼は岐路に立っていた。
 孤島に来てからというもの、彼の持つ全ての経験が一時的に失われている。そうなる事は以前の孤島で体験済みなので覚悟は出来ていた。まだまだ満足の行く領域ではないが剣の技は辛うじて及第点に届く程度には冴えが戻ってきた。
 しかし、刀剣鍛冶の腕はそうではない。
 知識面や技巧はかつての勘が戻っている。戻って来てはいるのだが、この酒場の店主ボルテクス・ブラックモアに譲った黒双剣のような、ヴァン自身が己の命を托すに足ると思える剣が作れないのだ。
 若かりし頃のヴァンの前に立ちふさがった双剣将軍アズラス、憧れであり仲間の仇でもある彼と渡り合うために選んだ自らも双剣使いになるという道。
 双剣使いとして生きるために身に付けた自分専用の双剣を作り上げる刀剣の鍛冶技術。
 これまでの人生で三百を越える剣を打ってきた。満足の行く剣も多かった。だが満足の上に座す、命を預けられるほどの信頼が置ける剣はわずかに三対六振。
 ボルテクスの兄弟弟子であるソルトソードに托した白双剣。事実上の一番弟子の証としてボルテクスに托した黒双剣。そして、亜人の職人と魔導師の協力で完成した終の剣、光双剣。
 白双剣は白鋼と妖精銀で作られた双剣だった。切れ味の鋭さと軽さ、速度を重視した短期乱戦用の剣である。十対一といった戦いでは全ての攻撃を後の先で返して無傷で勝利する事も可能であった。
 黒双剣は魔法で強化施術した黒鋼で作られた双剣である。刃こぼれをせず、折れず、曲がらない絶対の強度を目指して作られた、長期乱戦用の剣だった。傭兵として戦争に参加する時には白双剣よりも乱雑に使え、防御にも使える黒双剣の方が向いていた。
 これらの剣をソルトソードとボルテクスに与えたのには理由があった。
 没落貴族ながらも気構えと誇りだけは捨てず、正当な剣術の発展系としての双剣術を身に付けたソルトソードには、レイピアなどと近い感覚でも使える白双剣が合っていた。
 幼い頃から戦場あさりや傭兵として身を立てていたボルテクスは、逃げ出さなかった数少ない弟子の中では一番ヴァンに似た戦い方をする。しかしヴァンほどの沈着さを持たない、良くも悪くも気分で上下する男なので攻防に優れた黒双剣が合っていたし、それ以上に彼の黒双剣に対する思い入れはヴァンにも理解出来た。
 二人ともおのずと自分に合った双剣を譲り受けたいと願い出て来たのも譲る理由ではあった。自分の特徴を理解しており、なおかつ使いこなしてみせるという気構えもあった。そうでなくてはヴァン自身もまだ使う機会のある双剣を譲ろうはずがない。
 最後に作ったのが光双剣である。
 不死の魔人と恐れられたジーン・スレイフ・ステイレスを倒せたのはこの剣があったからに他ならない。
 元々はヴァンが旅するうちに知った古代の伝承に似たような武器があったのが始まりだった。
 傭兵や旅の剣士として各国を回り、その武器が確かに存在したこと、現在は失われた魔法技術を用いたこと、その魔法技術の載った古文書があることを突き止めた。
 既に高名な傭兵だったヴァンは一介の兵士としてではなく、己の名を利用して積極的に作戦の提案をするようにし、次第に軍略の相談役となっていき、各国の支配層にもヴァンドルフ・デュッセルライトという存在を認識させるように動いたのだった。
 数年を掛けて、古文書を秘蔵するという国からも信用を得た。古文書を閲覧し、模写させて欲しいというヴァンの不躾な願いを聞いた国王は、快諾するだけではなく古文書を解読するための人材を集めてくれた。
 古文書を解読すると、到底ヴァン一人では作れるはずがないということがわかった。基板となる魔法は熟練の魔術士でも難しく、魔法を金属に定着させる技術は人間が持ち得ない技術だったのだ。途方に暮れたヴァンに手を差し伸べたのは、またもこの王であった。魔導師数人と、他大陸に住む亜人の鍛冶職人を数人手配してくれたのだ。彼らの協力があってなお一年以上の時間を掛けて完成させた剣、それが光双剣だった。
 ヴァンの意志によって制御される刀身を持ち、刀身の長さや強度を常に制御しながら振るう必要があるというあまりにも特殊な剣。だがこの剣だからこそ、斬っても死なず百年に渡る戦闘経験でヴァンに勝るジーン・スレイフを退けたのだ。彼の百年の殺戮にも、振り下ろす途中で刀身の長さが変わる剣など出てくるはずがなかった。それが二振り、既に生も死も忘れ死なない事に慢心していたジーン・スレイフには対処しきれなかった。そうして彼は全身に深手を負い、失った血が多すぎて死なないのに戦えもしないという屈辱的な敗北を喫したのだ。
 しかし今その光双剣はない。
 あれば修行にならないし、孤島での制限された技量ではあっても使いこなせない。そもそも光双剣は完成したと言っても完全ではなかった。失われた技術で作られた武器なだけに、古文書にも残らず本当に失われてしまった部分の技術がなければ完全とは言えないようだ。幾度となくヴァンは光双剣の不調を訴え、その都度作製の際に世話になった魔導師の所へ相談と調整に行くのだった。
 孤島へ来る直前までヴァンが客人として過ごしていた宮廷が魔導師の住処であり、大恩ある国王の宮殿でもあった。
 国王から冒険譚を聞かせて欲しいと頼まれ、光双剣の調整もしたいのもあってヴァンは宮廷に招かれ、そこでしばらく暮らすうちに傭兵としての心が死んで行くのを感じて、この孤島に来たのだった。
 白双剣、黒双剣、光双剣、命を預けるに足る双剣たちは全て手元に無く、今あるのは辛うじて及第点という剣のみ。それも主に使う方の剣は己が作ったものではなかった。
 まだ十にも満たない歳の少女が作った武器の方が、ヴァンの作ったそれよりも遥かに殺傷能力に優れていたのだ。
 岐路に立っている。
 この孤島において武器を作る腕を磨くのを諦め剣の技に生きるか、それとも己が手に合った武器を自ら作り出せるように精進を重ねるかの岐路に立っている。
 今以上の武器を作り出すには手先の器用さを鍛えなければならない。だが十二人の仲間を思えば、十二人に三人も武器職人は要らず、図らずもまとめ役の一人となっているヴァンには武器の腕よりも剣の腕の方が求められているとわかる。
「いや、違うか……」
 具体的に求められているわけではない。求めているとすれば、それはヴァン自身だ。
 彼が自分自身に嵌めた枷は、仲間で最強の攻撃手でもなければ、最硬の守り手でもない。最高の知恵者である必要もない。どの分野に関しても一番手になる必要はないが、どの分野でも常に一番手や二番手を脅かすほどの実力を持つ。それこそがヴァンドルフ・デュッセルライトという一個の駒を最良の駒とする道だと分析していた。
 どこにでも打てる一手、しかしどの盤面でもその一手があれば流れを変えることの出来る駒、能力も戦略も全てが違う集団で動く場合には、そういう駒が有ると無いとでは集団全体の生残性が変わってくる。ヴァンはこれまでの経験で嫌と言うほど理解していた。
 今の自分を第三者としての目線で冷静に分析する。戦場という盤面を上から見下ろし、その盤面に置いてあるヴァンという名の駒を見る。ヴァンはどのような力量を持っているのか、どのような場面でどう動くことが出来るのか、盤面全体にどう影響を与えるのか。
「……中途半端な」
 思わずぼやく。
「二兎を追わんと二兎は狩れん、だが二兎を追う器ではなければ一兎も得ずに終わる」
 果たして今の自分は器か否か。
「否か、やはりこのままではいかんな」
 体温で溶けた氷が酒杯の中でからんと音を立てる。
 ヴァンは促されたように酒を口に運んだ。じわりと広がる薫りは心を落ち着かせたが、もやを払うには上品すぎた。
「うまい酒だ……勿体ないが」
 残った酒を一気に流し込む。本来こういう煽るような飲み方をする酒ではない。流し込まれた酒が抗議をするように最後の薫りを放ったが、それもすぐに薄れ消えていった。
「店主」
 ヴァンの声にボルテクスが振り向く。すぐに後ろの棚から三本の瓶を取るとヴァンの前に置いた。
「フョ酒にポルスカ、フェスキとありますが……」
 師が何やら思案にふけっているのを横目に見ていたのだろう。先ほどの酒とはまったく違った種類の酒を持ってきた。
「フョ酒の銘柄は?」
「アジ・ムです」
 強い薫りと舌に残る甘さが脳裏で再現される。元々果実酒なので甘いのだが、アジ・ムのフョ酒はより甘い。
「甘すぎるな。ポルスカとは何だ?」
「ハイドランド産のポルをフェスキとヴィンで割ったもんです」
 初めて目にする酒だった。ハイドランド産ならば気候的にもポルはうまいだろう。一度弟子が生で仕入れたポルを仲間に持ち帰ってやるとリックや小雨などはうまいトマトだと喜んでいた。どうやら異世界には異世界なりに似たような植物があるのだろう。
「それは後で貰って帰る。フェスキはいつものリンエか?」
「もちろん。我がフェントス王国が誇るリン・エブニク!」
「ありゃ不味い。どうせヴィンもリンシだろう、あれも不味いからいらんぞ」
 フェントスは傭兵ギルドが出来るまでは木材の輸出しか交易が無かったといって過言ではない。土地も肥沃とは言えず、穀物が土台となるフェスキ酒にも果実が元になるヴィン酒にも適しているとは言い難い。
「師匠、フェントス産の酒はうちの顔ですぜ? 不味い不味いと言われちゃ営業妨害ってもんです」
 酒の好みなど人の好きずきである。また、フェントス産は穀物にしろ果実にしろ確かに適さないのだが、適度に荒れた土地での栽培なので美味い物はとことん美味くなる傾向にある。とはいえ当たり年や外れ年もあるし、銘柄や価格によっても大きく変わる。
 ヴァンの場合一年中旅をしているので、味にばらつきがある酒よりも常に一定以上の味を保ち続ける酒の方が好きなだけだ。わざわざ不味いと言うのは、それをわかっていて勧めてくる弟子への嫌がらせに過ぎない。
「酒はもう良い、水をくれ。ああ、ポルスカを一瓶といつもの火酒を二瓶括っておいてくれ」
 酒で晴れなかったもやは、気づけば弟子との軽口で消え去っていた。
「岐路の先が見えた。行くとしよう」
 そう言ってヴァンは再び遺跡へと潜るのだった。

21日目4836文字
 最後の客が酒気を撒き散らしながら店を出て行く。
 扉に付けた小さな鐘が名残を惜しむように揺れている。
 酔客たちの相手を終え、ボルテクス・ブラックモアは心地よい疲労感に満足げなため息を漏らした。
 今日も客の入りは上々である。
 遥か遠く海を越えてこの孤島にやってきて、もうすぐひと月になる。自分でも何故この孤島にやって来たのかはわかっていなかった。
 切っ掛けは、師ヴァンドルフが再び孤島を目指すと聞いたからだった。それは確かだ。
 王都の路地裏に構えた店にヴァンが現れた時の目がそうさせた。風の噂に、師は王宮暮らしをして堕落したというものを聞いていたのだ。
 師はそういうものとは無縁だとは思っていたが、海を越えて別の大陸にいた彼の所まで傭兵が噂を運んできたとなれば話は別だ。
 師は傭兵たちから畏怖とそれ以上の尊敬を集めていた。死んだ負けたという風説は聞いても、王宮に入って堕落したなどという噂は、ヴァンドルフ・デュッセルライトという傭兵を知る者ならばみな一笑に付しただろう。
 事実彼も最初は大いに笑わせて貰った。しかし彼の店は双剣のヴァンドルフの弟子が開いているというのが売りのひとつである。そんな店に来てまでわざわざまったくの嘘を撒き散らすとも思えなかったのだ。ましてや彼の店の客層は、仕事の斡旋もしているので当たり前といえば当たり前なのだが九割方が傭兵や冒険者である。そういった人種だからこそ噂を見極める目も育まれているはずなのだ。
 若干不安だったボルの前に現れた師は、最後に会った時よりも更に力強い目をしていた。師に噂を問いただすとあっさりと認め、魂を鍛え直すために孤島を目指すと答えられたのだ。
 師の目に籠もった力、その行く末を見てみたいと生意気にも思ってしまったのが、孤島で店を開くようになった一番最初の切っ掛けだった。
 奥の扉がきしんだ音を立てた。倉庫から美しい女性が荷物を持って出てくる。彼の店で雇っている冒険者の歌い手だ。彼女もまた遺跡を探索しているので毎日は来れないのだが、遺跡の外にいる時には歌いに来て貰っている。柔らかな物腰がその美声と相まって、彼の店を活気づかせていた。
 お辞儀をして店を出て行く彼女を見送ると、ボルは閉店の準備を始めた。いつか歌い手が後片付けを手伝おうとしたこともあったが、それは彼女の仕事ではないと謝辞した。それにどの卓でどの料理が残されているかというのを見れば、今後の参考にもなる、後片付けにも手は抜けない。そんな事を考えている自分に気づき、ボルは苦笑した。
 かつて彼は名うての傭兵だった。
 いや、今も引退はしていないし年齢的にも現役である。だがしばらく傭兵も冒険もしていない。
 いつかの孤島での百日に渡る激闘、手に入れ、そして消えた六つの宝玉。
 あの戦いの日々は今でも明瞭に思い出せる。
 強大な敵に怯え、敵になり得る味方にも怯え、今までの経験も何もかもが封印されたように戦い方を忘れた自分にも怯えた。
 その怯えを越え、仲間と共に宝玉を手にした。
 餓えた旅人に食料をわけた事も数知れず、逆に色んな人に助けられて生き抜いてきた。
 旅を終えた後の仲間達がどうなったのかは最近まで知る由もなかった。
 今の孤島にやってこようと思ったのは、彼らにまた会えるかも知れぬと期待していたのかも知れない。事実、懐かしい顔を見かけることもあった。
 九十日近く彼と行動を共にしていたエマール・クラレンスとも再会した。酒場で聞くつわものの名前にもちらほらと聞き覚えのある名が混じっていた。
 カウンター周りの食器を集め、水を張った洗い桶に食器を入れる。洗い桶の脇に置いてあった包みから青い粉を取り出してひとつまみし、桶の水に溶かす。知り合いの薬師に調合して貰った薬だ。これを溶かした水に汚れた食器などをつけて置くと汚れが落ちやすくなる。
 多少値は張るが、食器洗いに掛ける時間や手間を考えると必需品と言える。
 普通の酒場や小料理屋の店主ならば気にせず井戸端で洗えば良いのだろう。
 だが、彼は根っからの傭兵だった。
 長時間水で皿を洗い続けていてはいざという時に剣が扱いづらくなる。また、しゃがみ込んでの長時間の作業となると、狙ってくださいというようなものだ。
 ボルは青い粉が洗い桶に満遍なく溶け込んだのを見届けてから、カウンターに貼り付けてあるものを手に取った。
 黒双剣。
 かつてはヴァンドルフ・デュッセルライトの二つ名であり愛剣だった一対の剣。
 少年の頃、ボルの師であり初恋の相手であった女傭兵の命を奪った剣。
 孤島での百日を生き抜き手にした、一番弟子の証であった。
 傭兵家業を一時休業していても、この剣を手放すことはない。
 カウンターの中にいても何かあれば即座に抜けるように隠してある。
 料理や酒を渡すときも客に取りに来させている。もっともこれは小さな店を一人で切り盛りするために仕方のない所ではあるのだが。
 ボルは両腰に黒双剣を差すと、倉庫の戸を開けて掃除道具を取り出す。
 他人に見られたら、たかが掃除をするだけなのになぜ剣が必要なのかと問われ、場合によっては臆病者のそしりを受けるかも知れない。
 以前歌い手が後片付けを手伝うと言って聞かなかった時にも、彼は腰に剣を差してから淡々と閉店の準備を始めたものだ。なぜ剣を差すのかと聞かれた時、ボルは笑って剣士だからさと答えたが真意は別にあった。
 卓から食器を集めながら少し前までの生活を思い出す。
 それは孤島の店を作る前、王都の路地裏で店を構える更に前。
 師と別れた後、冒険者支援のための酒場を作ろうと、ボルはふらりと立ち寄った小さな町の酒場に住み込みで働かせて貰っていた。
 常に酔ったように赤みがかった顔の店主と、それを支える女将さんで切り盛りする小さな店だった。
 当時のボルは同業者の間では多少名が知れており、彼自身も孤島での生活や、その後の師との旅で自信を確かなものとしていた。そして、新たな環境へ踏み出そうとする気の浮かれが油断を生んだ。
 彼は何よりも大事にしていた黒双剣を、酒場の二階に借りた部屋に置いたままで仕事をしていた。
 紛争地帯からも遠かったというのも油断を誘ったのだろう。ボルが無警戒に両手に皿を持って酔客の元へ運んでいたその時である。酒場の戸が蹴破られると同時に投げつけられたナイフが女将の命を奪った。押し入ってきた男達は金を出せとも動くなとも言わなかった。もっと単純な方法を知っていたのだ。皆殺しである。
 ボルは即座に手に持った皿を投げつけたが、それで殺傷するには至らない。男達は投げつけられた皿など物ともせずに手近な客を斬り殺し、店主の首を跳ねた。
 客の持っていたナイフを手に、残った客をかばいながら二階に上げる。食事用のナイフでもいざ手にすると心強い武器となる。ただの店員となめてかかった賊の首筋を切り裂く。男達が警戒で動きを鈍くした隙に、客達は全員二階へと逃げ終わっていた。ボルも牽制しながら後ずさり、階段を後ろ向きに上る。追いかけて来た男の脳天目がけてナイフを投げつけるとボルは階段を駆け上がり、自室に飛び込んで黒双剣を手に取った。
 双剣の鞘を腰に差し、黒く光る刃を抜き放つと彼は一気に攻勢に転じた。
 駆け上がってきた夜盗を切り捨てながら階段を駆け下り、酒場にいた賊徒をあっさりと薙ぎ払う。剣さえ持てば、心さえ立て直せば、この程度の敵と見下せる程度の相手だった。
 だが、彼を温かく迎えてくれた亭主は、料理のこつを教えてくれた女将は、既に息絶えていた。
 窓の外では町が燃えていた。
 見ると、床に転がっている夜盗の顔は見覚えがあった。懸賞金がかかっている程度に名が知れた盗賊だった。
 ボルは店の外に出ると、町に火を点けて回っている男達を睨み付けた。
 酒場に押し入ったやり口を見ると、他の家々も家主を殺してから獲物を物色しているのだろう。手配書に載っている賊が何人もいる、悪逆非道を地で行く盗賊団だった。そんな彼らが火を点けているということは、奪うべき獲物は奪い尽くした後なのだろう。それはつまり、火の点いている家々には屍しか残っていないということである。
 ボルは盗賊達に斬り込みながら、後悔した。
 己の心が鈍っていなければ盗賊達の気配に気付けたかも知れない。少なくとも店に押し入ってきた賊ぐらいは、素手で倒せただろう。黒双剣さえ持っていれば亭主も女将も救えたかも知れない。少なくとも何人かの酔客は死なずにすんだ。
 後悔も涙も炎で消し飛ばし、ボルは血の海に一人立ち尽くした。
 酒場の二階に逃げ延びていた僅かな酔客が酔いの醒めた顔で表へ出てくる。ボルは彼らに呼び掛けられ、ようやく我に返って生存者を捜して回った。
 炎に蹂躙される小さな町、それは彼の原風景だった。
 ボルテクス・ブラックモアという小さな戦場あさりが誕生する切っ掛けとなった、故郷の壊滅。燃え落ちる見知った風景が、彼の人生の出発点だった。それから二十年もの時が経ち、彼は見知った風景が燃え落ちるのを防ぐだけの力を手に入れたはずだった。
 しかし町は燃えている。木の爆ぜる音と共に滅んでいく。
 その日以降、彼は剣を手放さなくなった。
 集め終えた食器を淡い青に染まった洗い桶につける。同じように淡い青に染まった雑巾を絞ると、棒の先端に取り付けて店の床を拭く。開店準備の際は先端を取り替えて箒に出来るよう苦心して作った自慢の掃除用具だ。一通り床を拭き終わった後、洗い桶を片手で持ち上げて店から出る。近くの井戸端に水を捨て、汲み上げた井戸水で軽く食器を洗う。そうしてまた片手で洗い桶を持ち上げ、店へ帰ろうと振り返り、ふと夜空を仰いだ。
 瞬く星々に一瞬心奪われたが、すぐに首を振って寂しそうな笑みを浮かべる。
 己が何のために孤島に来たのかがわからない。
 もう一度宝玉を集めるためでもない。つわものと剣を交えるためでもない。旧知の顔を探すためでもない。師を助けるためでもない。酒場で儲けるためでもない。贖罪のためでもない。何ひとつとして自分で納得出来る理由がない。
 店に戻り洗い桶を置くと、ボルは酒瓶を手に店の前に出た。
 夜風が柔らかな足取りで踊っている。
 栓を開けた酒瓶から直接酒をあおる。弱い刺激が咽を駆け降りる。
 深く長いため息をつくと、ボルは残った酒を一気に流し込み、再び夜空を見上げた。
 弱々しく瞬く星に、自分が何をするべきか、何がしたいのかと問いかける。だが答えは返ってこない。なぜなら答えはすでに彼の中に在るからだ。
 戦うこと、戦い続けること、己の戦いを貫き通すこと。
 単純に敵と戦い、打ち負かす事ではない。剣を使うにしても何のために剣を取り、何のために剣を振るのか。
 見上げた星空が彼の心を照らし、柔らかな夜風が心を晴らした。
 助けたい。
 それが全ての切っ掛けだった。
 焼け落ちる村を、無力に死ぬ人を助けたい。幼い頃には気づかなかったが、力を得て初めて己の中に在ると感じた剣を振る動機。
 一人でも多くの人を助けるためには、自分一人では力が足りない。
 ならば、一人でも多くの人を助けるために、一人でも多くの人を助ける力を持った心ある傭兵を、冒険者を育成してやろう。
 そう、自分は英雄と呼ばれる人物を育成し、自分一人では助けることの出来ない人々を助けるのだ。我が師、ヴァンドルフのように。
 ボルテクス・ブラックモアは己の中に通った芯を再認識すると、夜空に背を向け、「英雄の故郷」と書かれた看板を見上げた。

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