2日目(1日目は登録のみ)4795文字
 宮殿のように磨き上げられた王城の広い廊下に力強い足音が反響する。場にそぐわない黒い外套を着た傭兵が大股で歩いていた。
「おお、デュッセルライト卿、この度はおめでとうございます」
 通り過ぎた柱の影から声を掛けられ、ヴァンドルフは足を止めた。古傷だらけの顔に一瞬浮かんだ苦々しさを押し込めて、笑顔を作って振り返ると、見慣れた中年男が顔面に笑顔を貼り付けてすり寄ってきた。名前は知らない。覚える価値がない。
「おお、これは。何かめでたいことでもありましたか?」
 名前など覚えていなくとも、こっぱ貴族の機嫌を損ねずにあしらうすべはいくらでもある。数ヶ月に渡る城での逗留生活で身に付けた貴重な技術だ。
「おやこれは異な事を。城では朝から貴殿の聖騎士叙勲の噂で持ちきりだというのに」
 そう言って男は一人で笑ってみせたが、ヴァンがわずかに浮かべた意外そうな表情を見つけると探りを入れるのをやめた。
「本当にご存じなかったようですな。では改めて、おめでとうございます。名高い十聖騎士をお迎えできて我が国も鼻が高いですな。……おや、どうなさいました?」
 聖騎士、宗教騎士団をそう呼称する国もいくつか存在するが、社交の場で丁重な祝辞を述べられるようなものはアヴァロニアの十聖騎士しか有り得ない。遠く大洋を渡った小さな島、アヴァロニア島の騎士国が任命をする世界で十人の”英雄”。聖騎士とは名ばかりで、高名な賢者や神官なども叙勲される給金の出ない名誉職である。
 権力とは無縁な英雄を任命し、権力を持たない人々や権力に守られない人々のために対価を求めず活動をする慈善精神に満ちあふれた偽善集団、それがヴァンの持つ印象だった。無論、そんなものに興味はない。彼は傭兵だ。力を持たない民が守る力を必要とするのならば、金を払って自分を雇えばいいというのが持論である。力も金も持たない民が守る力を必要とする時は仕方がない、強引に夕食に乱入して勝手に食い、勝手に泊まって、翌朝にのうのうと「一宿一飯の恩だ」とでもうそぶいて守ってやればいい。そういう男だった。
 ヴァンはせっかくの社交術を忘れて呆然としていた己に気づき、恥ずかしそうな表情を作って場を取り繕った。
「失敬、寝耳に水なことでしたので驚いてしまいました。それにしても侯爵閣下はお耳が早いですな」
「なにただの噂好きですよ。どうです、ランルファから腕の良い料理人を呼んでいるのですが?」
「申し訳ない、陛下に呼ばれておりますので……」
「おおそれは、呼び止めてしまってすみませんな」
「いやいや、閣下との親交を深めるためならば陛下もお許し下さるでしょう。ではこれで」
 昼食の誘いを断って名も知らぬ侯爵に背を向けると、ヴァンは苦渋の上に貼り付けた笑顔を剥ぎ捨てた。国王に呼ばれているなど真っ赤な嘘である。
 心なしか呼び止められる前よりも大きな足音を響かせて、ヴァンは颯爽と廊下を抜けた。

         †

 フェントス王国の紋章をつけた早馬が森林を駆け抜ける。だが馬上にあるのは兵士や騎士の姿ではない。”木の多い国”という意味を持つフェントスにはそもそも国軍が存在しない。
 中央大陸の南端に位置することから南の大陸との交易が盛んなのだが、かつては木材しか交易品がなかったために国力が低く、戦乱に巻き込まれる度に傭兵を積極的に雇い入れているうちに、気づけば傭兵ギルドの総本山となっていた。今では木材と傭兵が交易の要である。
 傭兵ギルドの成立以後、国防は傭兵の中でも選りすぐりの精鋭やギルド幹部を中心に編成された傭兵騎士団が担っているのだが、なにぶん傭兵なので個の力量は高くとも忠誠心や統率に難がある。
 傭兵達から信頼の高い者が統率をすれば普通の騎士団以上の連係を取るのだが、そういった指揮官たり得る傭兵は国の中央に配置されるため、国境警備の傭兵隊の士気や統率力は低く成らざるを得ない。
 早馬はそんなフェントスの国境へと疾駆していた。
 馬上には黒い外套を着た傷だらけの男、孤狼と呼ばれる傭兵である。
 馬が地面を蹴った瞬間、鳴子の音が周囲に響いた。通常の木に張り巡らせる鳴子ではなく、落とし穴のように地面に掘った仕掛けを踏むと連動して鳴るという傭兵が得意とする鳴子だった。
 即座に周囲に殺気が満ちる。前方の木々の上から弓兵が、木陰からは槍や斧を持った傭兵達が姿を現した。
「止まれ!」
「止まらん!」
 フェントスの早馬に乗っているのだから止まらなくとも速度を落とせばすぐに傭兵達も事情を理解するのだが、その時間さえも惜しかった。
 だが相手は血気盛んな傭兵である。早馬に紋章がついていようが止まらないのならば敵であると判断した。傭兵に扮した敵兵が密書を奪って逃げているという可能性もある。その判断は間違いではない。
 頭上から数本の矢が飛来する。ヴァンは両腰から双剣を引き抜くとその全てを斬り落とした。
「双剣のヴァンドルフ、押し通る!」
 その声に傭兵達はびくりと動きを止めた。黒い騎影が傭兵達の隙間を駆け抜ける。
「あれが孤狼か」
 既に小さくなったヴァンの背を見つめて、傭兵の一人が憧れのこもった呟きを発した。国境に統率者が現れたのだ。

         †

「聖騎士叙勲だと? 騎士でもない儂がか? 冗談ではない!」
 中庭の池を眺めながら地べたに腰を下ろすと、ヴァンは外壁にもたれかかって毒づいた。
 無論声に出してのことではない。無学な傭兵を自認しているが、すぐ頭上に開かれた窓があるのに声を出すほど無思慮ではない。
 国王が招いた客人という立場なのでいつでも国を離れることはできるが、無駄な敵意を集めるといずれ戦場で害となることもある。
 愛想笑いなどを覚えて気を付けているはずだったが、どうやら既に遅かったらしい。
「冗談ではない。下賤な傭兵ごときが聖騎士叙勲、笑い話にもならん」
 開いた窓からそんな声が聞こえた。
「まったくですな。あの傷といい、宮中で薄汚い外套を着ている神経といい、内外ともに醜い。あんな男に十聖騎士の叙勲。まったく笑えませんな」
 無思慮な馬鹿もいたもんだ、ヴァンは小声でそう呟いた。
 この城の窓は池から涼を取るために開け放たれることが多い。池のほとりには花も咲いており、その風景を愛でるための椅子もいくつか用意されている。
 貴族達もヴァンがお行儀よく椅子に座って池や花を眺めるとは思っていないだろうし、それは正しい。しかし”下賤な傭兵”なのだから土の感触が恋しくなって地べたに座りたくなることもあるという想像力は働かなかったらしい。
 開かれた窓を隔てただけの距離でヴァンは自分の悪口を聞くこととなった。
「陛下やセルク侯は早くもあの醜男をこの国に据えようと動いておられる」
「なんと!」
「権力を持たない聖騎士とは言っても民草や兵士への影響力は充分に巨大な権力。それを囲い込めれば我が国は安泰、そう考えておられるのだ。しかも陛下は騎士団長の座を餌にするおつもりだ」
「馬鹿な、我が国の騎士は代々フェニー侯が率いられる習わし」
「それだ。セルク侯は我が国に侯爵家は一つで良いと漏らしておられる」
「なんと傲慢な。そもそもアヴァロニアの田舎騎士どもは、なぜフェニー侯を聖騎士に選ばんのか。千年続く騎士の家柄を差し置いて、国も持たぬ傭兵如きを選ぶとは騎士国アヴァロンの名が泣くわ!」
「最後の一言だけは同感だ」
 ヴァンは頭上でまき散らされる毒に顔をしかめながら、聞こえないように呟いた。
 騎士団長などに興味はなかった。聖騎士様と比べればまだましな気もするが、どちらにしても貴族や王侯に愛想笑いを浮かべて、社交だの政治だのという煩わしい世界に引きずり込まれるのは御免である。
 窓の中の貴族達はまだ毒を吐き足らないらしく、ますます血気盛んに唾を飛ばしていた。
「あの醜男が選ばれた理由を知っているか?」
「ランルファの件ですかな?」
(あれか……)
 ヴァンは今でもその時の光景を鮮やかに思い出すことができる。それは昨年のことだった。

         †

 日が落ちたというのに国境警備隊の傭兵詰め所は朝市以上の喧騒に包まれていた。ヴァンドルフが早馬でもたらしたのは同盟国裏切りの報告だった。隣国ランルファが国境沿いに軍を集めており、今夜にもフェントス領を侵犯するという緊急の知らせである。
 一時は騒然とした国境警備隊だったが、孤狼が加勢すると聞くと士気を上げて見事な団結力を発揮した。

 夜半、ついにランルファの騎士団が国境に姿を現した。ヴァンの見立て通り部隊を三つに分け、ヴァンと百余名の傭兵が守護する詰め所には五百騎の騎士が押し寄せてきた。
「援軍が駆けつけるまで死守しろ! 生き残れば昇給も期待していいぞ!」
 ヴァンに昇給の権限などないが、期待するだけならばただである。単純な鼓舞だったが効果はあった。ときの声を上げ、傭兵達は斧や槍を手に騎士へと襲いかかった。
 数にして五倍、騎馬対歩兵ということを考えると絶望的な戦力差である。
 訓練された騎士と百戦錬磨の傭兵達の戦いは数時間に渡った。
 ある傭兵は金のため、ある傭兵は名声のため、趣味で戦った者もいれば、それしか生き方を知らない者もいたが、彼らはとにかく戦い続けた。片腕がもげようとも残った腕で手斧を振るい、足を貫かれようとも短剣を手に馬上の相手を引きずり下ろしては鎧の隙間に突き込んだ。
 しかし異様なまでの戦意に飲まれながらも、やはり騎士は強かった。一人、また一人と傭兵達は斃れて逝った。
 最後に残ったのは一人の黒い影。右目に深い傷を負いながら、孤狼は双剣という牙で馬上の騎士達を喰らい続けていた。ひとたび双剣を振ると二つの命が散る。いくら騎士が攻撃を仕掛けようと、かわし、防ぎ、いなして反撃をする。何度かは確実にヴァンに届いていたはずである。現に右目は深手を負っているし、体中から血を流している。それなのに一向に倒れる様子がない。
 傷を負えば負うほどヴァンの振るう剣は力強くなっていた。その様は最早人間ではなく、さながら鬼神のようであった。
 夜が明けた。
 ヴァンはまだ戦場に君臨しており、騎士達は怪物退治の様相を呈していた。
 遠くから地響きが伝わってくるのと、逆方向からかぶら矢の音が聞こえたのは、ほとんど同時期だった。
 騎士達はかぶら矢の音を聞いて救われたように馬首を返した。夜明けになっても先遣隊である彼らの合図が無かったために、本隊が夜襲は失敗したと判断したのだ。
 自国へと撤退を始めたランルファの騎士達は、暁の戦場にたたずむ双剣使いの姿を一度だけ振り返ると、二度と振り返ろうとはせずに去って行った。

         †

「ランルファの弱兵どもめ、ヴァンドルフ如きを”暁の鬼神”などと呼んでおるらしい。王国の要たる騎士団が傭兵に負けて怯えるとは、なんたる腰抜けか」
 貴族の雑言で記憶の旅から引き戻される。
(ランルファの騎士達は勇敢に戦った。隣国同士の争いだというのに加勢も調停もしなかった貴様らに、彼らを腰抜けと呼ぶ資格はない)
 立ち上がってそう言ってやろうかと考えたが、理性が邪魔をしてしまう。
 迷っているうちに、貴族達は悪口の舞台を廊下から広間に移してしまった。
「儂は何をやっているのだろうな……」
 くすぶった感情を持てあまして、ヴァンドルフは空を見つめた。

――続


3日目4790文字
 日が沈み若干の冷気が漂い始める。森の中は未だ争いと死の楽隊が静寂を掻き消していた。
 空気の冷え方から近くに湖があると推測し、ヴァンはそれを探すことにした。歩き出した彼の背後に十人ほどの傭兵が続く。連れて歩いているのではない。名うての傭兵の勘に便乗していればおこぼれにあずかれると、姑息な同業者が勝手に付いてきているのだ。
 少し歩くと視界が開けてきた。予想通りそこには小さな湖と、命を繋ごうとする敵兵がいた。
 木陰から様子を伺う。敵は二人、それもまだ若い傭兵だと知れた。一人はまだ二十代に届かない少年で、もう一人は恐らく二十代だろうが女であった。
 赤い鎧を着込んだ赤毛の女傭兵、戦場ではえらく目立つ出で立ちだがそれ故に自信が伺える。顔を見ると、絶世の美女というわけではないが、思わず見とれてしまうほどの美しさがあった。
(磨かれた魂の美しさか……)
 女傭兵に呼びかけられて振り向いた少年傭兵も、どうやら彼女に憧れを抱いているらしい。
(若いが女を見る目があるな)
 そう苦笑したが、すぐに表情を引き締めた。相手が殺気を飛ばしながら剣を抜く。ヴァンに付いてきた傭兵達が厭らしい笑いを浮かべながら彼女を囲んでいた。耳を澄ますと、いい女だとか誰が先だとかと、下卑たささやきが聞こえてくる。
(屑が)
 ヴァンは逡巡の後、短くため息をつくと黒い双剣を抜いて己も木陰から身を出した。
 敵味方双方が息を呑んだのが解った。
「黒双剣……ヴァンドルフ・デュッセルライトか」
「いかにも」
 女の言葉に短く応える。どうやら女の弟子らしい少年傭兵が、目まぐるしく表情を変える。最初は怯え、次に戸惑い、そして今は戦意をみなぎらせている。この場に呑まれていないのはヴァンと少年だけだった。女に目が眩んでいた傭兵達は味方であるはずのヴァンに怯え、女傭兵も僅かに怯えを見せていた。
「うおおおっ!」
 少年が猛々しく斬りかかってくる。ヴァンは右手の剣で少年の剣を止めた。普段ならば左手で胴を薙ぎ終えているところだが、ふと少年がどうするのかを見てみようと気まぐれを起こした。
「師匠、逃げてください! ここは俺が!」
 その声で師も我に返ったらしい、長剣を構えてヴァンに斬りかかってくる。
「逃げるのはお前だブラックモア。お前ではっ!」
 もう一振りの黒剣が女傭兵の剣を受け止めた。
「この男は黒双剣のヴァンドルフだ! お前では勝てない、早く――」
「早く逃げんだよ師匠っ!」
 少年が師を後ろに蹴り飛ばした。
「ここで逃げちゃ……惚れた女見捨てて逃げちゃ男が廃るんだよ!」
(ほう)
 表向きこそ無表情を装ったが、ヴァンは内心で微笑した。なんとも初々しい。蹴られた師の方を見ると、目を丸くしているが頬は真っ赤だ。やはり初々しい。
 少年が果敢に斬り込んでくる。ヴァンは軽くいなしながら、二人が逃げるのであれば見逃してやっても良いかなどと考えていた。
 少年の目が素早く周囲を探る。頑張ってはいるが隙だらけだ。
(俺には勝てんと見て活路を探るか)
 他の傭兵が手出しを控えているのを少年は好機と見たらしい、ヴァン一人に集中して本気で戦えばどうにかなると判断したようだ。ヴァンの手加減に気づかなかったのだろう。
「戯れ言はもういいな?」
 活路を探った結果が一番してはいけない選択だった事にヴァンは失望した。
 一瞬で少年の死角に回り込むと脳天目がけて左手の一刀を振るう。両断するつもりで振り下ろした剣は少年の額に深く食い込んだ所で止められた。下から跳ね上がってきた女傭兵の長剣がヴァンの剣を止めていた。
 二人して刃向かうのであれば、見逃してやるという選択肢はありえない。
(あの若造も勿体ないな)
 額に剣を受けて気を失った少年を横目に、ヴァンは女傭兵の猛攻をいなしていた。
(惚れた女の一番美しい瞬間を見逃すとはな)
 女傭兵は先ほど以上に輝いて見えた。命を賭けても少年を守ろうという意志が痛いほど伝わってくるが、それだけではない。
「相思相愛ならば二人仲良く屠ってやろう」
 そう言うと、ヴァンは双剣を交差させて相手の長剣を斬った。それでひるむかと思った刹那、半分の長さになった剣がヴァンの左頬を切り裂いた。
(生きる意志、か。美しいな)
 だがその美しさは彼女にとって害となった。今まで怯えて静観していた傭兵達の欲望が膨らみ、ヴァンへの恐怖を覆い隠したのだ。ぎらついた目をして徐々に包囲をせばめてくる。
 女傭兵も異常な雰囲気に気づき、ヴァンだけに集中していた気が霧散する。最早これまでだった。ヴァンは殺気を叩き付けて、彼女の意識を無理矢理自分へ引き戻した。
「楽に死なせてやる。遺言はあるか」
「……ボルを頼む」
「引き受けた」
 彼女は僅かに微笑むと、最期の一刀を振り下ろした。ヴァンは左手の剣でそれを受け止めると同時に、右手の剣で鎧の隙間から正確に心臓を突いた。
 微笑を浮かべたまま絶命した女傭兵の心臓から、ゆっくりと剣を引き抜く。鎧の隙間から貫いたため血が噴き出すことはなかったが、どろりと血が溢れ出した。ヴァンは遺体をゆっくりと地面に寝かせてやると、様子を伺っている傭兵達を睨み付けた。
「失せろ」
 その一言で傭兵達は恐怖を取り戻して逃げ去った。これで少年が生きていると知られることはない。ヴァンは傍目には一切外傷の見えない女傭兵の遺体に視線を落とすと、名前ぐらいは聞いておけばよかったかと独りごちた。

       †

 人の気配でヴァンは目を覚ました。王城の中庭で寝入ってしまっていたらしい。
 昼食会が終わったのか、談笑の場を中庭に移した貴族達が中庭の池のほとりに一人二人と現れては椅子に座る。ヴァンはゆっくりと身を起こすと、風が運ぶ笑い声や鳥のさえずりに耳を傾けた。
「平和だな」
 偽りの平和である。近隣の国々は政治的な衝突を繰り返し、既に何度か紛争も起きている。この国が平和なのは、加勢も調停もせずに目を閉じ耳を塞いでいるからに他ならない。
 誰の意識にも止まらぬように立ち上がり、与えられた自室への道を帰る。
「儂は何をやっているのか……」
 夢で見た十年近く前の戦いに想いを馳せる。名も知らぬ女傭兵の生きようとする意志は、確かに彼女を輝かせていた。
「ならば今の儂は?」
 他人からすれば輝いているのかも知れない。栄光を手に入れたのかも知れない。だが、それは虚飾による偽りの輝きに過ぎないのではないか。
 あの時託された少年はヴァンの弟子として立派な傭兵に成長した。必死の努力でかつてのヴァンに並ぶ名声を得たが、それは己の名誉欲のためというよりも、命を賭けて自分を守った師に恥じない男になりたいと足掻いているように見えた。
 二年前、ヴァンは彼に試練を与えた。
 黒双剣を数名いる弟子達の誰かに与えると言った時、彼は目に今までにない強い光を宿らせて試練を願い出たのだ。
 試練の場は孤島。一歩足を踏み入れた瞬間に、それまでの知識や経験、鍛え上げてきた肉体や技が無に帰す謎の島。外界とは時間の流れをはじめとする全ての法則が違う島。
 彼はそこで二ヶ月間生き延びろという試練を見事に乗り越えた。
 仲間と協力して三ヶ月以上も生き延び、島に眠る宝玉全てを集めてみせたのだ。
 そうして彼、ボルテクス・ブラックモアは黒双剣を受け継ぎ、黒双剣の二つ名で呼ばれるようになった。
(孤島に行くと言った時の目、帰ってきた時の目、黒双剣を手にした時の目、短い期間だというのに全て違っていた。常に成長していた。あれが意志の力か)
 未熟な己の額を割り、惚れた師の命を奪った剣。黒双剣は自分以外の何者にも渡さない、そんな強い意志がボルを成長させていたのだった。
(あの男の目も凄かったな)
 自室の扉を開け、柔らかなソファーに身を投げ出して想起する。
 ボルが孤島より帰還した時に、共に現れた男。百人斬り、嵐の惨殺者の異名を持ち、呪われた魔剣の力で他人の命を吸い続けてきた魔人、ジーン・スレイフ・ステイレス。
 ヴァンとまみえるのは二度目だった。一度目の死闘がジーンにとって初めての敗北だったという。致命傷を負った彼は、恨みを持つ者達にとどめを刺されかけて海に逃げ、魔剣を失って孤島に流れ着いた。不本意ながらもボルと協力して孤島を生き抜き、ヴァンの元へ復讐に現れた。
 一度目の遭遇の際、ヴァンは彼の目を濁りも狂いもしない、何も持たない空虚な目だと感じた。
 二度目の邂逅の際、ヴァンは彼の目を生きる悦びに満ちた目だと感じた。僅か三ヶ月の間にジーンは別人と言えるほどの変化を遂げていた。
 本人は復讐のためと思っていたようだが、ヴァンの目にはただ純粋に強い敵と戦って打ち勝ちたいという、少年のような動機に感じられた。
 ヴァンが負わせた傷も完全には癒えてはいないだろう。生き延びて剣を持てるまでに回復したことさえ奇跡に近い。しかし完調だった以前よりも、傷も癒えず魔剣も失った今の方が遥かに強そうに感じる。
「凄まじい剣気だった……。あれも、生きる意志か」
 勝負は一瞬だった。山をも斬るかというイェリィリパルスの一閃を天を破る一閃で薙ぎ払い、ヴァンが勝利した。
 傍目から見れば圧勝であろう。だが確かにヴァンはその時ジーンを畏怖していた。
 百年に渡って死から遠のき、剣技を磨くことさえ放棄するほど完成した魔剣使いであったジーンが、まったく戦い方の違う剣技を身に付け、狼のような鋭い眼光を持った一人の剣士として現れた。
 彼はたった百日の孤島の生活で、百年の慢心を打ち砕いたのだ。
「生きることへの執着。泥濘に這っても生きることを諦めず、戦うことを諦めない目。……孤狼の目」
 身を包むようなソファーに身体を沈めて呟く。
 ぼんやりとした遠い目を、豪奢な装飾が施された天井へ向ける。
「儂は何をしている……何を見ている」
 神剣、光双剣、剣聖、大仰な二つ名が付く度に彼の心は重りをつけられたように沈んでいき、錆びていった。
「孤狼と呼ばれた時よりも儂の心は強くあるか? 惰弱になっていないか?」
 そう問いかける。
 磨き上げられた天井に、柔らかなソファーに包まれた自分の姿が映り込む。
 僅かに歪んだ天井の鏡像は、ヴァン自身が歪んでいるかのように見えた。
 情けない。
 心にそう浮かんだ言葉を掴み、握りつぶす。ヴァンの目に力が宿る。
「ここは儂の居る場所ではない。こんな所に居ては心が死んでいく」
 起き上がり、壁際に立てかけれられた一対の剣を手に取ると左右の腰に差す。
「がむしゃらに生きることに執着する。儂の原点はそこではないか」
 いつでも旅立てるようにとまとめてあった旅装を掴み、埃を払って部屋を出る。
「孤狼と呼ばれたのは、負け続けても生きるために足掻いて足掻いて戦い続けたからではないか」
 謁見の間に帯剣したまま強引に押し入り、驚く王に「心を鍛え直しに行く」と一礼してヴァンは城を出た。罵る声やあざける声が耳に届く。
「与えられた誇りなど捨てても良い。負けて泥濘に崩れ落ちようとも、生きて天に噛み付く気勢さえ残っていれば……いずれはその天を落とすことも出来よう」
 負けて負けて負け続けて、それでも心の剣が折れなかったからこそ、今の自分があるのだ。
 孤島へ。誰もが死と等距離に身を置く島へ。
 孤狼は再び天に吼え、地を蹴って前へと一歩を踏み出した。

4日目4763文字
 二条の光が立て続けに孤狼を襲う。
 最初の光撃が左肩に牙を立てる。意識が遠のきかけたが、すんでのところで踏みとどまって続く光を回避する。
 仲間は既に倒された。
 元々が不利な状況での奇襲だった。こちらは準備の整わぬ大所帯、相手は最初から人を襲うことを見据えた少数精鋭。負け戦となるのは必至だった。
 それに耐え抜き、相手も二人返り討ちにしてやったのだ。ヴァンは倒れた二人の仲間を誉めこそすれ、なじるつもりは一切無かった。だが一対一に持ち込めたと言えば聞こえが良いが、もはやヴァンも死に体であった。
「まだ打つ手はあるはずだ……」
 そう呟いて牽制の一刀を振るう。考えるための僅かな時間を稼ぐだけの一撃だったが、相手も弱っているのか避けきれずに斬撃を受けて体勢を崩した。
 いつもならば左手の剣で追撃をするところだが、孤島に渡ったばかりで一振りしか剣がない。あったところで先ほど左肩に受けた一撃によって左手は動かなくなっている。
(情けないな)
 自嘲しつつもヴァンは活路を探したが、嫌な予感に突き動かされ突進に転じた。
 相手の両手にまた魔法の光が見えた。
(また二連か! 二発はさすがに耐えきれん。だがっ――)
 止めようにも間に合わない。猛然と突進するヴァンの焦りもむなしく、右手の光が集束を終えた。完成した魔法が狩人の矢のごとく孤狼へと襲いかかった。
 刹那の死線を踏み越える。
 ヴァンは避けようとはせずに自ら光撃へ突っ込むと、相手の左肩に剣を振り下ろした。
 初撃を避けたところで二発目を叩き込まれれば、ヴァンの剣は相手に届かず勝ち目が消える。それならば初撃をあえて受けても直進をやめず踏み込むべきだと判断したのだ。
 左肩への袈裟斬りは意趣返しを狙ったわけではないが、それによって完成しかけていた左手の魔法が霧散した。振り下ろした剣を素早く返し、続けざまの一撃を跳ね上げる。相手の胸から鮮血が踊る。
 二人の間に僅かに距離が生まれた。剣は届かないが魔法が有利ともいえない微妙な距離だ。
 自分の荒い息を聞きながらヴァンは冷静に分析する。自分はもう一撃たりとも耐えられない。しかしそれは相手も同じことだろう。
 この不毛な決闘の最初から、相手は常にヴァン以上の体力を残していた。それは今も変わらない。だがヴァンが瀕死ならば相手もあと一歩で瀕死、もはや僅かな体力の差など意味を成さない。先に攻撃を当てた方の勝ちという単純な状態だ。
 動いたのは相手が先だった。跳びすさりながら右手に魔力を集束させる。魔石に頼った攻撃ではなく、しっかりと魔力を練っての確実なとどめを選んだらしい。
(あれを喰らえば儂の負け……)
 孤狼が地を蹴った。
 死地にあってヴァンの感覚は研ぎ澄まされていた。狩人の手の動きだけではなく、殺気や僅かな意識の方向から攻撃を予測して最小限の動きで回避する。少しでも読み違えば敗北は避けられない。
 放たれた魔法が疾駆するヴァンの顔目がけて飛んでくる。必殺の一撃がヴァンの頬をかすめた。背後に着弾した爆発音が聞こえる。
(これを喰らえば――)
 銀光一閃。狼の牙は狩人を噛み斬った。
「貴様の負けだ」

 狩人が倒れたと同時にヴァンは片膝をついた。
 張り詰めていた緊張がとけてしまったのだ。
「立っているのがやっとどころか、意識を保つのがやっとか。勝利を確信した瞬間に気が抜けるとは……戦場ならば死んでいたな。我ながら情けない」
 誰に言うでもなくそう苦笑する。呼吸を整えるのに二十秒ほどかかったが、どうにか落ち着かせて立ち上がる。意識と呼吸さえしっかりしていればまだ動けるようだった。
 剣を杖がわりにして踏ん張り、戦闘の終わった周囲を見回す。
 ヴァンのすぐそばには、斬ったばかりの人狩りたちが意識を失って倒れていた。敗れたというのに、皆一様にどこか楽しそうな表情の残滓が見え隠れしている。
 昔から孤島では戦場でもないというのに、趣味で人を襲う連中が多い。この孤島も例外ではないようだ。そしてその中には、勝とうが負けようが命のやり取り自体を楽しむ戦闘狂も多い。
「嫌な思い出だな……」
 かつての孤島を思い出してそう独りごちる。
 神剣を極めんと道を切り開き続けた以前の孤島。あと数日で島が消え去ると告げられてから、島は血と混沌の饗宴と化した。今まで普通の冒険者として探索を続けていた人々が、突如として無関係の他人に斬りかかる。数日で島から去らざるを得ないからといって、これほどまでの大人数が豹変するとは、流石にヴァンの想像を超えていた。
 ヴァンが孤島で初めての敗北を喫したのは、そんな豹変した人狩りの手によってだった。それまで勇名や悪名を轟かせていた人狩り集団などより、はるかに邪悪な人物だった。そのような者が昨日までは偽りの仮面を被って、普通の探索者を装っていたのだ。
 そんなことさえ見抜けない己の迂闊さと慢心に反吐が出た。いつか手合わせをと約束を交わしたつわものの侍に面目が立たなかった。だが心と体勢を立て直す前にその時は来てしまい、島は消えた。
「生かすべきか殺すべきか……」
 足元に倒れた狩人を見下ろしてヴァンが呟く。
 彼らこれからも様々な人々を手に掛けるだろう。ひょっとすると、ヴァンたちと再戦するかも知れない。その時にまた勝てるという保証などない。死線をくぐった数からして自分たちの方がむしろ不利だろう。だが――
「やめだ」
 ヴァンは剣を納めると、同じように倒れた仲間たちの元へ歩いていった。
 気象予報士のリリィは気を失っているのかと思いきや、すやすやと寝息を立てている。
「のんきなものだ」
 口の端をつり上げて歩み寄る。
(これこそが今の孤島を表しているのかも知れんな。かつての孤島では餓えでどんどん衰弱し、しまいには命を落とした者もいた。動物にしても、我々に敗北すればその日の糧として食われる運命にあった。だがこの島は違う。決定的な所で、命だけは落とさないようになっている)
 だからこそ、狩人にとどめを刺す気になれなかったのだ。
 かつての孤島と違うとはいえ、絶対に死なないという保証はない。勝者が敗者にとどめを刺せばそれまでである。戦闘で深手を負って死ぬことも、不慮の事故で死ぬこともあるだろう。だが餓えでの衰弱や死がないというだけで、ヴァンには随分とぬるく思えたのだった。
(儂が追い求めた、死を間近に置いた旅とは少し違うか……)
 少し寂しそうに眉根を寄せると、リリィが寝返りを打った。
「まあこれも良いのかも知れんな」
 死ぬか生きるかだけのやり取りだけを求めていては、真の心の強さは手に入らない。そう割り切った。ヴァンはリリィをまたいで、その向こうに倒れているフェリックスと、座り込んで煙草を吸っているエマールの元へ行った。
「お疲れ様、さすがボルの師匠ね。どこか似てるわ」
 エマールが疲れた声をかけてくる。
「ならばそれは儂がなまったということだな」
 意地の悪い微笑を返して、倒れたフェリックスの前に片膝をつく。
 フェリックスは顔をしかめてつらそうにしていた。これならばすぐに意識が戻るだろう。エマールの煙草の匂いも良い刺激になっているのか、鼻が紫煙の香りを探すようにひくりと動いた。
「リック、起きろ。医者の出番だ」
 懐から携帯用の酒瓶を取り出すと、栓を抜いてリックの鼻先に近づける。きつい酒なので鼻への刺激も強かろう。案の定、リックはうっすらと目を開けた。
「儂とお前を含めて七人分の手当を頼む」
 苦痛に顔をゆがめながら起き上がると、リックは無精髭の生えた口回りを弱々しく、だが不敵につり上げた。
「とりあえず気付けの一杯を呑んでからでいいか?」
 ヴァンも応じてにやりと笑うと酒瓶をリックに差し出した。

       †

「そうか、ジーン・スレイフがまた孤島に来ていたのか……」
 共同戦線を張る十一人の一人、ルヴァリアから話を聞いてヴァンは銀髪の魔剣使いの姿を思い起こした。
 思えば奇縁である。
 ルヴァリア・フェンネリーフはまだ少女に見えるが二十を越えており、以前ヴァンが孤島に来た際の仲間であるホーク・フェンネリーフの姉だという。言われてみればホークから姉がいるといったことを聞いた気もするのだが、当時聞いたのは破壊の権化のような豪放な姉の話だったので、今のおとなしいルヴァリアを見ても解らないのは当然だった。
 ヴァンと行動を共にしているリリィには、義姉のエマール・クラレンスが同行している。エマールはヴァンの弟子ボルテクスが孤島に来た際の相棒として、ボル本人から様々な武勇伝を聞かされた。
 そのボルが孤島に来た際に最初に組んだのがエマールで、終盤で組んだのがジーン・スレイフ・ステイレス、ヴァンが重傷を負わせた魔剣使いである。
 ジーンはボルと共に孤島から生還し、復讐と称してヴァンと刃を交え、再度瀕死の重傷を負った。その後、彼がどうなったかは知らなかった。ボルなどは気にしていたようだが、一向に消息が掴めなかったらしい。
 そんなジーンがまたも孤島に現れ、しかも旧友の命を救う方法を求めていたという。
「あの男がなぁ……似合わんことをする」
 ヴァンの呟きにルヴァリアが困ったような笑みを浮かべた。似合わないことをしに来たジーンと行動を共にしたのが、このルヴァリアだったからだ。
「ジーンさんおもしろい人だったよ」
 そう割り込んできたのは、黄色い雨合羽を着た少女だった。
「まじかる☆えっじで悪い人をおしおきするのが趣味だって言ってた」
「…………」
 絶対に嘘である。だが少女の満面の笑みからは一切嘘を感じられない。
(嘘……か? いや、ジーン・スレイフは確かに会うたびに印象が変わる男だった……しかしいくらなんでも、そのような滑稽な趣味ではないだろう)
「娘、嘘はいかんぞ」
 いくぶん迷ってからたしなめる。言われた少女、天野小雨はかわいらしく首をかしげて見せた。
「ジーンさんは面白い人だったよ?」
 ぽつりと、ヴァンの頬に雨粒が落ちた。いつの間にか空が曇っている。
「傷のおじさん、私嘘なんてついてないよ?」
 またぽつりと雨が落ちる。
「おじさん……」
 雨が降る。
「私が嘘つきだって言うの?」
 雨粒は次第に大きくなり、雨足も強くなる。周囲はまだ晴れているというのに、ヴァンと小雨の回りにだけ大雨が降っていた。
「そんな酷いこと言うと…………」
 殺すよ? そう告げられたと思った瞬間、エマールの声がした。
「あの無愛想はある意味面白かったわね」
 ヴァンはエマールの方に意識を向けて、我に返った。
 雨など降っていなかった。空はいまだ晴天で雲一つない。
(白昼夢? いや、幻覚か?)
 驚いて少女の顔を見ると、小雨は純真な笑顔を返してきた。無垢なはずの少女に得体の知れぬ気味悪さを感じている自分に気付き、ヴァンは軽く頭を振った。
「でも小雨」
 エマールの声だ。
「冗談でも人に嘘を教えるのはいけないわね」
「はーい」
 やはり嘘か、とヴァンはエマールを見て戦慄した。彼女の頬に一筋の雨粒が落ちていた。空はまだ、晴れていた。

――続
specialthanks and horror 天野小雨(192)
後半に出てくる小雨と貴方の知っている小雨は別の小雨で――はないかもね


5日目4781文字
(注:5日目以降、拙作の小説世界の設定を混ぜるようにしています。
知らなくても読めるように気はつけていますが、一応基礎知識はこちら
 荒涼とした砂地に、熱を帯びた風が踊る。
 所々に岩や草は点在しているが、量が少ないために熱を吸収するには至らない。
「天陽が遺跡の中に浮かんでいるわけでもあるまいに……」
 岩陰の小さな水場のほとりでヴァンドルフ・デュッセルライトが悪態をつく。その額にはうっすらと汗がにじんでいた。
 数年ぶりにおとずれた孤島だが、来島から五日経った今でも以前の孤島との環境の差に途惑うことが多かった。
 以前ならば島自体を探索して遺跡の入り口を見つけ、守護者を倒して侵入し、内部の守護者が守る宝玉を奪い取るということが多かった。傭兵として戦場のみならず遺跡や秘境の探索にも同行することの多いヴァンにとっても、そちらの方が日頃の慣れがあるため何かとやりやすかった。
 今の孤島は以前とはまったく違っている。島にあるのは大きな魔法陣と、それを目指す冒険者向けの露店や宿屋、酒場などで、島の表層には探索すべきものがない。島自体は一種のお祭り会場のようになっているだけなのだ。仲間の何人かはそれらの施設を上手く利用しているようなので問題は無いのだが、やはり拍子抜けしたのは否めない。
 魔法陣に足を踏み入れ、自分が行きたい先の魔法陣を思い描くと遺跡内部に移動する。このような方式は、数々の遺跡に同行したヴァンにとっても珍しい。今までにも魔法陣を踏んだら特定の場所へ飛ばされるということは経験したが、一つの入り口の魔法陣から複数の出口の魔法陣に飛ぶというのは初めてだった。
 島に来た当初は、よほど高度な魔法技術が使われているのだろうと感心したが、すぐにその印象も薄れた。島に来ている人々の方がよっぽど奇異だったからだ。
 人外の者だが人語を解する生物というのは遭遇例があったので順応できた。ヴァンが当惑したのは、自分と同じ人間という種族についてだ。明らかに自分と同じ肉体的、精神的な構造を持っているのに、使う言語も違えば知っている歴史も違う。
 例えば、ヴァンと行動を共にしているフェリックス・ベルンシュタインはアメリカという国の出身だという。そのアメリカがどこにあるのかと問うと、アメリカ大陸だという。ヴァンの知る世界は、"竜の棲まう地"東の大陸ウェイティル、"精霊の住む地"西の大陸ミズラック、"古代大国の末裔"南の大陸アークランド、"絶海の大陸"北の大陸エニズマ、"全てが集う地"中央大陸アラニスの五大陸からなる世界である。フェリックスのいうユーラシア、アメリカ、オーストラリア、アフリカ、南極という大陸は聞いたこともない。
 そもそも、説明されても南極という概念が理解できなかった。
 曰く、フェリックスの世界は宇宙という世界に浮かぶ球体の上だという。なぜ球体という不安定な足場で人も動植物も生きているのかなどと考えると、疑問が次から次に湧いて出てきりがないので、ヴァンは考えるのをやめた。
 悩むことを飯の種にするのは学士の領分であって、戦うことが飯の種である傭兵が侵すのは無粋だと割り切ったのだが、フェリックスなどは逆にヴァンの世界に僅かながら興味を持ったようだった。
 ヴァンの住む世界がどのようにして作られたのか、どのような構造になっているかということを、ヴァン自身は知らない。伝説や伝承で見聞きした知識のみだ。
 創世の伝承はこう謡う――

最初に鳥がいた。
鳥は一つの卵を産んだ。
一つの卵からは、翼を持つ竜が生まれた。

次に鳥は一つの卵を産んだ。
一つの卵からは、天と石が生まれた。
翼無き天は、石の上に座した。

次に鳥は一つの卵を産んだ。
一つの卵からは、歩く花が生まれた。
花は種子を蒔き歩き、石は肥沃な大地となった。

次に鳥は一つの卵を産んだ。
一つの卵からは、猫が生まれた。
猫は風を生み、肥沃な大地は動き出した。

次に鳥は一つの卵を産んだ。
一つの卵からは、黒い魚が生まれた。
魚は水を吐き、水は川となり海となった。

次に鳥は一つの卵を産んだ。
一つの卵からは、精霊が生まれた。
精霊は万物に宿り、大地に生命が満ちた。
 
次に鳥は一つの卵を産んだ。
一つの卵からは、炎が生まれた。
朽ちたものは燃え、新たな生命を育んだ。

次に鳥は一つの卵を産んだ。
一つの卵からは、獅子が生まれた。
獅子は土を纏い、全ての獣を従えた。

次に鳥は一つの卵を産んだ。
一つの卵からは、二羽の鳥が生まれた。
鳳凰は炎を纏い、始鳥に死を告げた。

次に鳥は一つの卵を産んだ。
一つの卵からは、白い兎が生まれた。
兎は雪を着込み、世界を白く浄化した。

最後に鳥は一つの卵を産み、死んだ。
一つの卵からは、狼と卵が生まれた。
狼は、創世の終焉を告げ、始鳥の子らは世界を育てた。

終狼は空に浮かびし卵に吼えた。
いつか生まれ来る、始まりの鳥を懐かしんで。
いずれ終わりゆく、新しい世界を憂いて。

 これがヴァンの知る伝説だった。何もない虚空に一羽の鳥だけがいるところから始まり、それが十一個の卵を産んで、死んでいく。世界は始まりの鳥と十一個の卵から生まれ出たものたちによって作られた。
「始鳥が最初に産んだのが竜、次に生んだのが天石、つまり飛べない神と浮遊する岩の双子だったから、東の大陸の連中は神を信仰せずに神の兄である竜を信仰するわけだ」
 フェリックスに説明した時、ヴァンはそう言ってから不敵に笑い、
「だからこそ強固な信仰を押し付けたい国と戦争になり、儂ら傭兵が飯を食いに行くわけだ」と言ってのけた。
 創世の伝説だけを聞くと、大陸どころか人の住む大地が存在していない。
「それはそうだ。人の住む大地は始鳥が死んだ時点では必要なかったからな」
 ヴァンは語る。始まりの鳥と十一個の卵から生まれたものたち、それらが己の眷属や子を産み出し、世界から姿を消して、眷属や子たちですら彼らを忘れようかという時が流れてようやく、神々によって大地が作られた。だがそれは人のための大地ではなかった。
 始鳥の子の眷属で、一番数を増やしたのが神々だったが、神々は代を重ねるごとに次第に争いを起こすようになっていった。そうして争いに勝った神が負けた神や荒ぶる神を放逐するために作ったのが落神の大地だった。
「神々の争いとやらも拝んでみたいものだがな」
 時折、傭兵の率直な欲求を説明に挟みながらヴァンは続ける。
 神々の力を奪う落神の大地に落とされてなお、堕ちた神々は天界と呼ばれるようになっていた浮遊する大地に舞い戻って争いを引き起こした。
 幾たびもの不毛な戦いを数千年も繰り返した頃、"絶対の神"が神界に生まれる。その絶大な力は《落神界》と《天界》の間に巨大な蓋を作り出した。神々の王となった絶対の神は蓋をより強固なものとするべく、幾柱の神々を蓋の大地に住まわせ、同時に精霊にも蓋の大地に命を与えてくれるように頼んだ。姿を消していた他の眷属たちもいつしか蓋の大地に命を吹き込み、蓋の大地は豊穣な大地と化していった。
 神々はその美しい大地を愛で、様々な動物を作ってはその《庭》に放した。また、大地を管理する者として自分たちの似姿に一番近い動物を作り、それを人と名付けた。それが、ヴァンの聞き知った伝承の全てであった。
「一介の傭兵にしちゃ博学だな」
 フェリックスがそう言うと、ヴァンは「学者肌の軟弱な傭兵で有名だからな」と軽口を叩いてみせた。
 実際ヴァンドルフ・デュッセルライトの傭兵としての価値は、その腕前だけの評価ではない。多種多様な人脈と、それによって得た知識。その知識を使いこなすだけの頭や勘の良さ。それらが備わっているからこその高い評価だった。無学で無力な戦災孤児として生まれ育ったからこそ、ヴァンは貪欲に全てを吸収し楽しもうとした。今日の評価はその結果である。
 もっとも、そういった評価は雇い主側のものである。下っ端である兵士や同業者、市井の人々には勇名こそが解りやすい評価であり、そちらでの評価こそが"孤狼"の二つ名に繋がっている。

 風が砂を巻き上げる。細かな砂粒が、汗のにじんだ額に貼り付いて不快さを際立たせる。
 遺跡内部の広大な砂地の中で、ヴァン一行はゆっくりと休憩していた。
 あらためて一同を見回すと、孤島に来た当初の当惑の名残が感じられた。小雨やフェリックスは同じ世界から来たようだが、ヴァンと同じ世界の出身は一行にはいないよだ。その他の面々もそれぞれ違う世界から来たのだろう。
 今更、「なぜ『島』に『船に乗って来る』のに、違う世界から人が集うのだろう」という疑問は口に出さない。そういうこともある、そんな便利な一言で自分を納得させるしかない。
 フェリックスには説明しなかったが、ヴァンは彼や小雨の住む世界を噂には聞いていたのだ。火の上に乗った球状の大地から迷い込んできた異邦人、《火の国の民》の逸話は、ヴァンの住む世界の各地に眠っている。ヴァンは賢人からそう教えられていた。そのため、自分の知る世界とは別の世界があるのではないかという、一種の心構えが出来ていたのだ。ただ、一目見ただけで「こいつは異世界の奴だ」と確信できるものだとばかり思っていたので、ここまで自分たちと変わらない人々だったということに途惑ったのだった。
 傷んだ色をした動くトウモロコシが、ヴァンから少し離れた所で奇怪な動きをしている。どうやら色気のある格好を思案して試行錯誤しているようだが、ヴァンは最早理解を放棄している。こういった奇怪な存在の方が、自分と何も変わらない異世界の人間よりも受け入れやすいというのも変な話だが、ヴァンは確かにそう感じていた。
 一息つくと小型の金槌とのみを手に取り、鎖と獣の爪をつなぎ合わせる作業を再開する。
「まったく、昔は自分の剣を自分で打ったものだが、久しく遠ざかっていると忘れるものだな」
 手際の悪さに愚痴を言いながら、なんとか鞭が形になっていく。
 出来上がった鞭を振り上げ、勢いよく手を下ろす。鞭がしなりながら手の軌跡の延長線を走る。鞭先の爪が軌跡をなぞる前に、ヴァンは手首を僅かに返した。鞭先がそれを強調した動きで軌道を変えた。
「よし、久しぶりにしては上々だな。材料も少ないし、我ながらよくやった」
 自信満々に自分を慰めると、別の岩陰で涼を取っていた青年に出来上がったばかりの鞭を渡した。
「今使っているものよりは、若干だが当たりやすくなっているはずだ。威力は大して変わらんと思うがな」
 そう告げて仲間の元へと戻る途中、何気なく左の腰に差した剣の柄頭を撫でる。
「身体や技だけでなく、武器を作る腕まで落ちてるとはな……」
 左腰の剣を抜く。剣身の光は鈍い。
 以前の孤島の頃より、木や石が材料なのに何故か鉄の武器が作れる異常さは慣れている。今の孤島の魔法陣でその理由も合点がいった。孤島では想像力や意志というものが目に見える結果で現れるのだ。
 木や石が材料でも、鉄の剣を作ると決めて鍛えると、次第に材質や形状が変化していく。入るときは同じ魔法陣でも、出る先を強く想像することで好きな場所へ移動できる。
 この意志を具現化する力こそが宝玉の力かも知れないが、ヴァンにとっては宝玉や財宝はどうでも良い。意志の力をより強固に感じ、鍛えられるというのが重要だった。
「まだ上手く作れんということは、儂の意志がまだ弱いということだ」
 鍛え甲斐がある、ヴァンはそう呟くと仲間の待つ水場へと歩いていった。

6日目4740文字
 どこかで子供が泣いている。
 降りしきる雨の中、水たまりに跳ねる雨粒に混じって、少年の涙が跳ねていた。
 周囲には屍が山を成し、血が河となって雨と共に死体を洗い続けている。
 捨て去られた戦場にはただ死だけが満ちており、唯一の生は血にまみれた少年の慟哭だけだった。


 木々の葉が成す森の天井から木洩れ日が落ちる。両手一杯に枝を抱えた少年は、つい立ち止まって空を見上げた。葉の隙間から青い空が僅かに見える。雲一つ無い気持ちのいい空だった。
「坊主、ぐずぐずしてんな!」
 怒声に驚いて抱えた枝を落としそうになる。
「あんま子供をいじめんなよフェスおじさん」
 木陰から茶化すような声が掛かると、笑い声が周囲を包んだ。
「うるせえ、俺の子じゃねえし、俺はおじさんでもねえ!」
 フェスと呼ばれた男は少年を待たずに歩いていく。少年はその後ろを一所懸命に追いかけた。
「待ってよフェスおじさん!」
「おじさんじゃねえ!」
 即座に怒鳴り返すとフェスは大股でぐんぐんと歩いていった。
 少年が必死に追いかけると、森の中で少し開けた場所に出た。焚き火の跡があり、その周囲には鎧や剣が置かれている。統一された意匠はなく、種類も様々なことから傭兵のものだと知れた。
「フェスおじさん」
「おじさんじゃねえ! 大体俺とお前じゃ十五しか変わんねえだろうが」
「でも俺の倍以上じゃん」
 まだ十二歳になったばかりの少年が指摘すると、彼はふてくされてそっぽを向いた。
「フェスター、子供を邪険に扱ってやるな」
 傭兵を引き連れて、無精髭を生やした壮年の男が現れる。
「か、頭……はい」
 フェスターは納得できない表情のまま、頭の言葉に従った。
 彼らは個人で活動する傭兵ではなく傭兵団である。頭に逆らうことは許されない。
 頭は余裕のある笑みを浮かべると、先ほどの少年のように空を見上げた。少年もつられて空を見上げる。先ほどより広くなった空に白い雲が流れていた。
「良くないな……そろそろ開戦だというのに」
 頭の呟きで傭兵達の気が引き締まる。少年はというと気が引き締まるというよりも、緊張で身体が固まってしまった。
「安心しろや」と、少年の頭に手が置かれる。フェスターだった。
「どうせ初めての先陣入りで緊張してんだろ? 俺らは先陣つってもあくまで傭兵連中の先陣だ。ほんとの先陣は名誉ある騎士様達がとっくに済ませてくれてるさ」
「その通りだ。そして騎士様達は名誉ある戦死を遂げられるだろうから、俺たちが稼ぎ放題ってわけだ」
 フェスターの励ましに頭も追従する。二人とも既に不敵な戦士の表情をしている。
「坊主も十二で先陣ならば早すぎるということもあるまい。俺の傭兵団にあっちゃ遅いぐらいだ」
 そう笑ってフェスターが手をどけたばかりの頭を武骨な手がぐしゃぐしゃと撫でた。
「黄色い腕章は付けたか?」
 頭は言いながら少年の右腕を見て、よしと頷いた。
「どうやら俺たちの雇い主は間抜けらしい。敵味方を見分けるために黄色い布を縫いつけろとはな」
「血やら泥やらで汚れて、しまいにゃ千切れておしまいですよね」
「まあ馬鹿でも金は持っている。馬鹿の率いる兵は弱い。弱兵は活躍をしない、だから俺たちが余計に稼げる」
 頭はフェスターとニヤリと笑いあい、急に真面目な表情になった。
「よし、皆を集めろ。そろそろ始まるぞ」
 その判断の通り、頭が全員を集めて準備を終えた頃に開戦を告げるかぶら矢が雲に覆われた空を裂いた。

       †

 空は厚い黒雲に覆われている。頭は雲の動きを見て雨雲の到来を知っていたのだろう。彼らはぬかるみに対応できるような格好で戦っていた。
 開戦の前に頭とフェスターが笑いあったように、腕章はすぐに汚れて色を失った。仲間の幾人かはそのせいで味方に背後から斬られた。頭に言わせれば、弱兵に斬られる方が悪いとらしいが、少年には割り切れない思いがあった。だが割り切れない思いを捨てて戦わなければ自分が死ぬ。
 子供と油断した敵の頭を拾った手斧で断ち割ると、少年は血にまみれて膝を突いた。
 鍛えてきたとはいえまだ少年である。数時間も戦場で戦い、負傷し、殺し、心身共に限界が近かった。
 一息ついて周囲を見回す。
 黄色い腕章は見あたらなかった。正規兵も味方の傭兵も、仲間の傭兵団さえも血と泥にまみれて、こうしている今もどんどん死んでいっている。
「坊主、生きてるか」
 背後からフェスターが声を掛ける。彼も血にまみれていたが、それが誰のものかは分からなかった。
「フェスおじさんは?」
「生きてるから話しかけてんだろう阿呆。それにおじさんじゃねえ。まったくお前なんぞ拾わなかったら良かった」
 いつもの口癖に少年は安堵した。フェスターが軽口を叩ける間は自分も死なない、それがいくつもの戦場で覚えた彼なりの法だった。
「汚い傭兵に拾われてやったんだから感謝しなよ」
 軽口に軽口で返すことを覚えたのは昨年からだった。それまではいちいち軽口に傷ついていたが、傭兵団の一員として戦場を渡り歩くうちに、傭兵が孤児を拾うことの大変さを理解した。自分達が戦場に巻き込んだとはいえ、孤児仲間を失って呆然としていた少年を見捨ててはおけなかったのだろう。甘い男であった。
「頭、坊主は無事ですぜ」
 少年が振り返ると、頭が十名ばかりの傭兵を連れてこちらへ歩いてきた。
「これで十七人か。うちの傭兵団も終わりかも知れんな」
 珍しく気弱な言葉だが、七十人近かった仲間がここまで減っては仕方のないことだった。
「敵将が悪すぎた。適当に戦って後退するぞ。その後は生き延びることだけを考えろ。お前達が踏ん張っている間に、俺が雇い主から契約金をふんだくってくる。額は減るかも知れんが、それを貰ったら俺たちはこの戦から手を引く。異論は?」
 全員が首を振った。
「よし。それじゃあ――」
 頭が何かを言おうとして固まった。皆が視線を追って振り返ると、正規兵らしき影が脇目もふらずに走ってくる。何から逃げているのかと疑問が浮かんだ瞬間、それは現れた。
 黒い騎士。黒毛の馬を駆り、黒い外套を羽織った、黒髪の男。その手は手綱を握っておらず、両手に二振りの剣を持ったまま足だけで馬を走らせていた。
「黒衣の双剣将軍様か」
 頭が舌打ち混じりに呟いた。
「敵将のお出ましだ、手前ぇら戦いたいか逃げたいかどっちだ!」
「やってやろうぜ!」
「あいつを倒しゃあ堂々とこの戦いを抜けれるってもんだ!」
「野郎一騎だぜ! 部下も連れないで特出する馬鹿から逃げたとあっちゃ傭兵廃業だ!」
 傭兵達は声を荒げて士気を高めると、一斉に黒衣の双剣使いへと殺到した。
 最初に辿り着いた三人が剣や斧を振り上げた瞬間、黒馬が後ろ足で巨躯を持ち上げる。振り上げられた前足で一人目の頭が割れ、残る二人は双剣の餌食となった。
 僅か一瞬、一挙動で三人が死んだ。
「我が双剣は告死の翼」
 馬上の双剣使いが芝居がかった口調で告げる。
「貴公らが我に剣を向けるのであれば、我ら告死の天馬となって貴公らに等しく死をくれてやろう」
 普段の彼らならばその言葉を笑い飛ばしたであろう。だが、誰もそうしなかった。そうできなかった。彼らは一様にこの剣士を畏怖したのだ。
「なら!」
 頭の声が大声を出した。
「俺たちが引いたらあんたは見逃してくれんのかい?」
 余裕を持った笑みで問いかけると、黒衣の双剣使いも不敵に答えた。
「見逃してやろう。憐憫は美徳だ」
「そうかい、野郎ども聞いたな?」
 見回すと傭兵達は全員同じ表情を浮かべていた。怒りである。
「哀れまれちゃ傭兵の名折れよ!」
 頭の怒号と同時に全員が躍り掛かった。

 五分にも満たない死闘だった。
 十四対一という圧倒的な戦いのはずだった。しかし今戦場に立っているのは、一騎の人馬のみだった。
 囲まれる前に攻め寄ってくる傭兵の頭上を跳び越え、空中でのすれ違いざまに一刀。着地地点にいた一人を前足で粉砕してまた一人。そのまま駆け抜けて距離を取り、残る十二人に振り返る。
 血気にはやった傭兵が走り寄ってくるが、足の速さや疲労具合で全員同時にとはいかない。一人の歩兵と一騎の人馬という状態に持ち込めばまず負けはない。実力差があればなおさらだった。
 黒衣の双剣将軍と呼ばれた剣士は馬から下りると、苦しそうに喘ぐ少年に歩み寄った。
「先ほども言ったが、憐憫は美徳だ。助けてやろう」
「断る!」
 眼に烈火を宿らせて少年が立ち上がる。
「まだ戦うというのか。きみらの雇い主はもう降伏したし、頭も死んだ。きみも右肩が砕けたのではないか?」
 そう指摘された少年は、右肩を押さえていた左手を降って地面に刺さった剣を掴んだ。
「剣を向けるか……。ならば――」
 双剣使いが告死の翼を広げた刹那、その背後に立ち上がる影があった。
「フェスおじさ――」
 立ち上がったフェスターが背後から斬りかかるのを予期してたかのように、双剣使いは右手を振り上げて剣を止めると、そのまま左手の剣でフェスターの胴を薙いだ。
「おじさん!」
 少年は胸に倒れ込んでくるフェスターを抱き留めた。
「まったく……死んだ振りしてりゃ良かったのに……阿呆が」
 フェスターの声は弱々しい。
「俺もなんで……こんな馬鹿を拾っちまったかなぁ……」
 咽に血が詰まった嫌な音がする。呼吸の音もおかしくなっている。彼は助からない。
「フェスおじさん! おじさん!」
「おじさんじゃ……ねえって……。まったく、お前なんぞ……拾わなきゃ良かっ……た」
 フェスの目は既に少年を捉えていなかった。
「生きろ……よ。生き延びろ……何があっても、何をしても……生き延びるんだ。いいな、ヴァン」
 そう言って、フェスターは息絶えた。少年は血に塗れた手で涙を拭くと、左手で剣を構えて双剣使いを睨み付けた。
「いい眼だ。感情的だがどこか冷静、強い意志に満ちている。少年、名は?」
「ヴァンドルフ・デュッセルライト!」
 名乗りを上げてヴァンは双剣使いに斬りかかった。
「アブカントの将、アズラス・スルーシーだ」
 アズラスは剣を使わずに斬撃を交わそうとした。不慣れな左手での子供の斬撃と侮ったアズラスの腕に赤い線が走る。
「少年」
「ヴァンドルフ!」
「失敬、貴公左利きか?」
「知るか!」
 ヴァンは剣を下から跳ね上げると見せて突きに転じた。だが油断を捨てたアズラスは、彼の勝てる相手ではなかった。突き出された腕を脇に抱えると容赦なく肩の関節を外し、あまりの痛みにヴァンが絶叫しようと口を開けた瞬間、肺に強烈な膝蹴りを入れた。左手から落ちた剣が地面に刺さる。
「冷静になれたかね?」
 少年を解放してやると、アズラスは双剣を鞘に納めた。それを見たヴァンがほとんど力の入らない右手で地面に刺さった剣を掴んだ刹那、アズラスの蹴りが地面に刺さったヴァンの剣を砕いた。
「きみなら私のような双剣使いになれるかも知れん。鍛え直してまた来たまえ」
 そう言ってアズラスは愛馬に跨ると、悠然と戦場を去っていった。
 残されたのは両腕を力なく垂れ下がらせた少年と、彼の腕では弔う事の出来ない仲間達の死体だけだった。

7日目4842文字

 石畳を走る子供達の靴音が、ミグ・ラムの路地に反響する。
 酒場の主人と向かい合いながら、ヴァンドルフ・デュッセルライトは元気な足音に耳を傾け微笑した。
「豊かな国だな」
 古代には魔法王国として栄え、神の逆鱗に触れて滅びてからも、僅かに残ったミグの民は近隣の民と手をたずさえて立ち上がってきた。それから数千年、ミグ王国は世界でも有数の豊かな大国となった。かき集めた魔法王国の知識の残滓だけでも、中央大陸のハイドランド法国と並ぶ魔法技術を誇っている。空に海を浮かせているハイドランドに比べれば若干劣ると言われるが、魔法王国時代の技術力を元にして発展した科学力を加えればミグが上とも言われ、よく議論好きたちの議題にもされている。
 広大な王都のほぼ全域に石畳を敷き、建物も火災に強い石造りのものがほとんどである。他の国ではあまり見られない石造りの都というのは、ミグの民の誇りであった。
「お前の店は石に変えないのか?」
「俺はフェントスの出ですから」
 大通りから少し奥まった路地に店を構えた主人が答える。
 フェントスは中央大陸の南端に位置する小国で、木の多い国という意味を持つ。古くから木材しか資源がなく、隣国であり兄弟国であるララントスと共に決して恵まれているとは言い難い歴史を歩んできた。
「まあその方がお前の商売にも良いのだろうな」
「そりゃあ、フェントス出の傭兵ってのは売りになりますからね」
 現在のフェントスは、傭兵ギルドの総本山として名を馳せている。酒場の主人、ボルテクス・ブラックモアもフェントス出身の生粋の傭兵であった。
 傭兵ヴァンドルフ・デュッセルライトの敵として戦場で出会い、初恋の相手であり師でもあった女傭兵を殺され、そしてその遺言でヴァンの弟子となった双剣の傭兵。兄弟弟子と共に、ヴァンドルフの双剣衆と称されたこともある凄腕の剣士である。
 その彼が今は酒場の店主をしている。酒場と言っても大衆向けではなく、傭兵や冒険者などに向けて酒や情報、人脈などを商品とする酒場である。
 ヴァンドルフの弟子である事や、黒双剣のブラックモアの二つ名を知る者はこぞってこの酒場に足を運ぶが、それらを知らないまだ駆け出しのひよっこたちには、木造の店構えと看板で傭兵ギルドの国フェントスの出身だというのを示した方が良い。通常このような酒場は、店主が高名であればあるほど駆け出しを嫌うのだが、ボルは違った。店を「英雄の故郷」と名付け、将来英雄となるかも知れない若い芽を育成することを目的としたのだった。
「しかし何でまた師匠が海越えてミグなんかに? 向こうの大陸の、どこぞの国で結構いい待遇で招かれてたって聞いてますよ?」
 弟子の言葉に、ヴァンは内心で苦笑した。まさか馬鹿正直に「堕落を自覚したので心根を鍛え直しに孤島を目指す」とは答えられない。それは師としての自尊心が許さない。
「国に仕える気ならば、ミグでもハイドランドでも、それこそフィブにでも仕官先はある」
 大国の名前を列挙するが、これらの国から話が来たことがあるのは事実であった。ボルもそれを大言とは受け取らず、納得したように頷いた。
「国に仕えるつもりは無い、師匠の口癖でしたね」
 そういって口元に笑みを浮かべる。持ち上げられた口ひげを見ると中年の男と見まごうが、表情にはまだ二十代の若々しさが残っていた。
 ボルテクスもまた、いくつかあった仕官の話を断り、三十手前にして後進の育成を志したのだった。彼に言わせれば、そのお節介は師匠譲りということらしい。
「ミグに寄ったのはお前の仕事ぶりにケチを付けようと思っただけだが……墓参りもあるな」
「墓?」
「鍛冶の師がジンの人だったのでな」
 隣国の名を挙げて懐かしむように眼を細めたヴァンに、一杯の酒が差し出される。弟子の気遣いを口に流し込み、ヴァンは遠い日のことを語った。

       †

 孤児として生まれ育ったヴァンが仲間たちと暮らしていた町は、戦火に焼かれた。一人生き残った彼を拾ったのは、まだ若い傭兵だった。少年は十二歳までその傭兵と共に傭兵団で暮らし、数年で百近い戦場を転々とした。
 だが十二歳のある日、劣勢の軍に雇われた彼ら傭兵団は瞬く間に数を減らし、最後に残った数人も戦場で出会った敵国の猛将によって殺されてしまう。ヴァンを拾った青年傭兵も彼を助けるために散り、最後まで猛将に挑んだヴァンも子供扱いであしらわれた。
 再び一人となったヴァンは、しばらく少年傭兵としていくつかの戦闘に参加したが、所詮は後ろ盾のない子供、腕が立っても認められることはなかった。
 折しも時は中央大陸全土で戦争が勃発した大戦期へと移行し始めていた。世界中から戦争をかぎつけた傭兵や、戦争を商売にする商人や職人が集まって来ていた。
 ヴァンの鍛冶の師も、そうして集まってきた職人の一人であった。

 アブカントの双剣将軍アズラスに敗北して一年経ったが、ヴァンがアズラスのことを思い出さない日は無かった。
 幼い頃より戦場で生きてきた彼には、これまで仲間が殺されても相手を恨むことはほとんど無かった。負けた者は弱いのが悪かった、自業自得だというのが傭兵の鉄則として叩き込まれてきたからだ。しかしアズラスの一件だけは、ヴァンにとってその例に当てはまらなかった。アズラスは負けたヴァンに情けをかけた。そこまでは良い。彼を育てた傭兵たちも情けをかけるのが悪いとは言わなかった。彼らが教えたのは、中途半端な情けは殺すよりも残酷であり、偽善にもとづいた自己満足でしかないという事だった。アズラスのはまさにそれである、そうヴァンは確信している。
 片腕が折れた状態で、もう片方の肩の関節を外し、剣を蹴り折って戦場に放置する。それが本当に情けだろうか。
 ヴァンは殺された仲間たちを弔うことも出来ず、遺品を持ち去ることも出来ず、敵兵の敗残兵狩りから逃げる事しか出来なかった。既に死んだ仲間たちの身体を、勝利者の狂喜をたたえた兵士たちが楽しそうに槍で刺す。彼らが去った途端に、どこかで控えていたらしい戦場あさりたちが現れ、仲間たちの遺体から遺品を奪い去って行く。両腕が使えない上に、傷と疲労で身動きの取れなくなったヴァンには、遠くの茂みに横たわってその光景を眺める事しか出来なかったのだ。
 いっそ殺されようとも彼らの前に躍り出て仲間の遺体を守ろうかと考えた。だが、ヴァンを拾った青年傭兵の最後の言葉、何があっても生き延びろという言葉が、ヴァンの身体を地面に引き止めていた。
 ヴァンはアズラスに負けたことを恨んではいない。仲間を殺したことも恨んではいない。ただ、傲慢な慈悲を押し付けてヴァンを生かした事を恨んだ。
「いつか、その傲慢の付けを払わせてやる」
 一年の間、毎日そう思い続けて来た。だが、毎日あの双剣使いを思い起こすうちに、ヴァンはアズラスの剣技に憧れている自分に気付いた。
「あいつ、俺が双剣使いになれると言っていたな……」
 その言葉でヴァンの目標は決まった。アズラスを越える双剣使いとなって、一騎打ちであの猛将を討ち取る。それがヴァンの考え得る最良の付けの払わせ方だった。
 しかし二振りの剣を操ることは至難の業である。いくら練習しても、一振りの長剣を両手で持った方が強いとしか思えなかった。
「思い出せ、あいつの動きを……」
 記憶の中のアズラスは両手に持った剣を広げ、告死の翼と称していた。翼、アズラスの剣は確かに翼のような幅広の形状だったが、長さ自体は短剣よりも少し長い程度であった。ヴァンは己の手にある剣と、記憶の中のそれを比べてみた。
「剣の形が違うのか」
 アズラスのものは双剣として作られているが、ヴァンが使うのは両手でも片手でも使えるようになっている大量生産品だった。アズラスのものは恐らく専用に作らせた特別製なのだろう。ヴァンが欲しがった所で手の出る値段ではないし、作れる鍛冶屋も多くはないだろう。
 短剣をそれっぽく扱ってみても、長剣よりはましだがアズラスには遠く及ばない。勝てる姿が想像できない。ヴァンは途方に暮れた。
 そんなある日、ヴァンは戦場で奇妙な傭兵を見かけた。
 鎧を着けず、奇妙な装束だけで戦う異国の剣士だった。細身の鞘から凄まじい速度で抜剣し、一閃で敵を仕留める。鎧のないわずかな箇所を斬り裂き、皮鎧程度だと鎧ごと真っ二つに斬り捨てる。
 なんと素早く、なんと切れ味が良いのか。感激したヴァンは、戦闘が収まるまでその剣士から目を放さず、両軍が引き上げる時を見計らって話しかけた。
 剣士は南の大陸のジンから来たという。言われてみれば黒髪黒瞳の穏やかな顔立ちはジン特有のものだ。侍を名乗る剣士は、己の腕がどこまで通用するのか腕試しに来たという。ヴァンは珍しがって様々な事を聞き、南から来た侍も少年傭兵に色々な事を教えてやった。
 そうしてヴァンは、刀という武器に目を付けたのだった。
 これならば速さも長さも強度も申し分ない。侍の技術には二振りの刀を使う高等技術もあると聞き、両手に一振りずつ持つことも想定されていると確信できた。
 だが、これには大きな問題があった。
 双剣を作る以上に刀を作ることが難しいのだ。南の大陸で取れる金属や土を必要とする刀を、この中央大陸で作ることなど不可能ではないのか。そう落ち込んだヴァンに手を差し伸べたのは、やはり侍の青年だった。
 彼と同じ船でジンから刀の素晴らしさを広めようとやって来た、腕の良い刀鍛冶がいると教えられたのだ。

       †

 からになった木製のタンブラーを置くと、ヴァンは腰に下げた双剣を撫でた。
「かなり絞られたよ。儂ら中央大陸の剣鍛冶と、ジンの刀鍛冶ではそもそも剣を作る時の考え方が違う。こっちでも、鍛冶の神や剣の神、火の神なんかに祈ってから打つ鍛冶屋は多いが、ジンの鍛冶屋はそれ以上だ。人のためではなく、神のために打っているという職人もいるぐらいだからな」
 ボルにはわからない話だが、客からは見えないように下げている彼の黒双剣を見ると何となくわかる気がした。
「まあ儂は刀は作れんがな。あれは、この大陸でないと無理だ。鉄も土も違う。他で作れば、ある程度の切れ味ぐらいならば再現出来るが、強度が足りん。一人斬るだけで曲がったり折れたりするのだぞ? 挙げ句の果てに血と脂にまみれて切れ味さえなくなる」
「そりゃ使えねぇや」
 師弟は二人して苦笑した。
「だが儂の剣は違うぞ」
 ヴァンは双剣を抜いてみせた。その刀身を見てボルが怪訝な顔をする。
「光双剣じゃありませんね」
「あれは強すぎるから修行にならん。それにまだ調整が必要でな。魔法施術師に預けてきた。これは替わりに打った剣だ」
 刃は両刃だが片側が申し訳程度の切れ味なので、ほとんど片刃の刀である。刀身も細く、長さも短剣より僅かに長い程度の片手用の剣。硬い刀身を木で作られた柄にはめ込み、強度と滑り止めのために獣皮を巻いて、目釘を打ち込んである。鍔は無く、はばきを棟の側だけ長く作って補強している。鍔の無い防御力の低さを、小回りと強度で補うという、いかにもヴァンらしい剣であった。
「心金も皮金も良い物がなかったので少々卸し金を使ったが、まあこれで我慢するしかあるまい」
 さて、と言ってヴァンは立ち上がった。
「行くとしよう。アズラスの話は今度会った時にな」
 立ち去る師の背中を眺めながら、ボルは「孤島か……俺も店出しに行くかね」と呟いた。
「懐かしい顔もいるかも知れんしな」
 ボルは何度か頷くと、一時休業の準備をし始めた。 ――続


8日目4820文字

 歌が聞こえる。
 若干の酔いが感覚を鈍らせる。店主が気心の知れた弟子だということもあって、ヴァンはいつになく気を抜いていた。多少の危険ならば酔っていても大丈夫だという自負がある。それ以上の危機は弟子がはね除けるだろうし、その弟子が牙を剥いて命を落とすとしたら、それも仕方のないことだ。今宵の酒は熟達の傭兵をそんな気分にさせていた。
「良い声だな」
 ヴァンの呟きに店主が頷く。
「孤島で店を構える事になるとは思いませんでしたが、案外実入りが良くてびっくりですよ。早々に良い歌い手を雇えましたし、このままここで店を続けるのも悪くない」
 店主ボルテクス・ブラックモアはそう言って店の奥で歌う人影を見やった。吟遊詩人というわけではないが、物語ではなく歌のみで人の心を惹きつける良い歌い手だった。
 ボルが普段の店を一時休業にしてまで孤島に来たのは、ただの気まぐれである。ヴァンだけでなく馴染みの客の幾人かが孤島を目指すので、上客を追いかけて来たのだというのが彼の言だが、わざわざ遺跡外の宿を借りてまで酒場を開いては儲けなど無いだろう。ヴァンの見立てでは、おおかたかつての冒険を思い出したのだろうという所に落ち着いた。
 ボルもかつては孤島に生きた男である。様々な遺跡に潜り、守護者と戦い、六つの宝玉を揃えたという。ヴァンはその宝玉を見ていない。島の中央部に突然現れた気味の悪い化け物と戦ううちに消滅していったのだというのだ。その言葉を信じないわけではない。下らん冗談は言うが、下らん嘘はつかん。ヴァンは弟子をそう評価していた。
「彼女も遺跡に?」
 歌い手をちらりと見てヴァンが問う。透明感のある声質にも関わらず、歌い手の声は喧騒に満ちたボルの酒場中に広がり、染み込んで行った。少々聞き惚れるようにしていたボルが頷くと、ヴァンは僅かに苦笑して「勿体ないものだ」と呟いた。
 ひとたび遺跡に潜れば、性別も年齢も全てが関係ない。実力のみの世界だ。歌い手がどのような声を持っていようとも、多少の動物は魅了できるかも知れないが全ての危険を回避できるわけではない。いつその声を失うか分かったものではないのだ。ボルもそれに同感らしく、しみじみと頷いている。酒場や宿屋がいくつもあるこの遺跡外で、ボルのような男の店にある程度の客が入っているのは歌の魔力に引き寄せられた客が多いからだ。無論、かつて遺跡で宝玉を揃えたという店主の話を参考にしたいと通う客もいるが、それだけでは黒字にはならない。
 ヴァンはからになった木製のタンブラーを置くと、指でカウンターをとんとんと二度叩いた。ボルが即座に自然な動作で酒をつぐ。
「……板に付いてきたな。もう遺跡には潜らんのか?」
 声に批難や皮肉の色はない。だがボルはばつが悪そうに肩をすくめた。
「酒場の店主にするために鍛えたわけじゃないってことですかね」
 珍しい自嘲気味な言葉にヴァンは失笑をもらした。
「そうじゃない。勿体ないだけだ」
 客からは見えないがカウンターの内側には二振りの剣がいつでも使えるように隠されている。ヴァンが与えた剣、かつてはヴァンの二つ名であり、今はボルの二つ名でもある黒双剣だ。それを飾るのではなく手の届く位置に隠しているのは、ボルが今でも現役であるという証拠に他ならない。
「さてね、魂を他人に預けちまったんで、からっぽになったのかも知れねえや」
 そう言ってボルはいつもと同じ表情で笑った。
「孤狼の魂か」
 それはヴァンやボルの中にある誇りであり、ボルがかつての孤島で使った最強のひと振りの名前でもあった。孤島最強の武器を作るという目的を持った職人の呼びかけで、幾人もの冒険者が協力し合い出来上がった剣。本島より海を越えて光陰の孤島に投げ届けられたその剣は、ボルが孤島から去るその日まで彼の命を守り続けた。
 そして今、その剣は彼の元にない。
 孤島から帰還したその日、ヴァンに戦いを挑んで敗れた仲間に貸し与えたのだ。今まで生というものに何の執着も見せなかったその男が、友の命を救うという新たな目標のために旅立つにあたってボルがしてやれる唯一のことは、折れた剣のかわりに絶対に折れない剣をボルの心と共に貸してやるだけだった。
「ジーンの野郎はどこで何してんでしょうね」
「さてな。孤狼の魂を持ったまま、あてのない旅を続けているのかも知れんし、血にまみれた夢を見ているかも知れんな」
 木製のタンブラーに伝った水滴が落ちる。
「師匠」
 弟子の呼び掛けに目だけで答える。
「以前聞いた猛将の話、確か『今度会ったときにな』って言ってましたよね」
 ただの好奇心だけではなく、己の中に一石を投じて波紋を起こしたい、そんな気概が見て取れた。ヴァンはため息をついた。
「やれやれ、あまり面白い話でもなければ格好良い話でもないぞ」
 そう言って、記憶の扉を開いた。

       †

 歌が聞こえる。
 勇ましい行軍歌だった。ヴァンは五十人ほどの傭兵と共に、林の中に潜んで軍靴が過ぎ去るのを待った。
 アブカントの猛将アズラスの双剣によって、家族同然だった傭兵団を壊滅させられて四年が経っていた。双剣将軍とうたわれるアズラスに打ち勝つために自分も双剣を使ってみせると誓って三年、ヴァンは十六歳になっていた。
 三年を掛けて様々な戦場を傭兵として渡り歩きながら、ヴァンは己に扱える双剣を作るために異国の刀鍛冶に師事していた。そうして完成した剣は、ヴァンの世界を大きく変えた。それまでの剣や斧を使った戦い方よりもはるかに戦いやすく、傷を負うことも少なくなった。雇い主たちはヴァンのことを未来のアズラスとまで誉めた。仲間の仇であり、ヴァンに半端な情けをかけた憎むべき相手ではあるが、その評価が嬉しかったのは事実だった。ヴァンは己の中に、確かにアズラスへの憧れがあることを自覚していたのだ。
 今アズラスはヴァンの潜む林の前を行軍している。アズラス率いるアブカント軍の正面ではヴァンの雇い主の軍が示威行動を起こしているはずだ。戦端が開いたのちはヴァンたち傭兵が左後方の森と右後方の林から襲いかかり、敵の混乱をついて正面の正規軍の騎士隊が突撃を仕掛けるという手はずだった。
 アズラスほどの将ならば伏兵の可能性ぐらいは考慮しているだろうが、その伏兵たちがヴァンの知る範囲でも有名な傭兵や傭兵団だらけだとは考えていないだろう。乱戦になった時にこそ傭兵の真価が発揮されるのだ。百戦錬磨の傭兵たちは、正規兵とは比べものにならないほどの戦闘経験を持っている。ヴァンも自軍の傭兵を見て、よくこれほどまでの数と質を揃えたものだと驚き、そして自分もその中の一人に加わっているという事実に満足したものだった。
 ときの声が上がった。
 遠くで群衆の雄たけびが聞こえる。ヴァンが属する右後方の傭兵部隊を指揮する壮年の男が剣を抜き、怒号と共に突撃した。ヴァンもそれに続く。
 右手の剣で相手の腕を止め、左手の剣で胴を薙ぐ。左手の剣で相手の足を刺し、右手の剣で咽を刺す。流れるような動作でヴァンは死体の山を築き上げながら、アズラスに向かって猛進していった。
 三方からの挟撃は上手く行ったようだった。
 騎士隊の突撃で敵の戦列は大きく乱れ、蹂躙されるがままになっている。
「どけぇっ!」
 怒声と同時に二人の敵を斬る。ヴァンは焦っていた。このままでは自分がアズラスを討つ前に騎士隊が討ち取ってしまうかも知れない。それではこの四年が無意味になる。そう焦って猛進を続けた。
 十六歳という心身共に成長しきっていない彼に、乱戦となった戦場に立つ敵兵たちはそびえ立つ壁のようだった。アズラスがどこにいるかどころではなく、自分が今どこにいて味方はどこなのかということさえわからない。だが自分に敵意を向ける者を斬り続けて真っ直ぐ進み続ければいずれは――そう思った時、黒い騎馬の姿が目に飛び込んできた。
 騎士が両手に持った剣を振るって赤い翼を作った。
 告死の翼。
「アズラァァァァスッ!」
 ヴァンは人混みをかき分けるようにして敵兵に斬り込み、黒衣の双剣将軍の元へ走った。 少年の声で名を呼ばれたことに気付いたアズラスは怪訝な顔で周囲を見回し、ヴァンに気付いた。
「あの時の少年か。双剣使いになったか!」
 嬉しそうに笑うと、突撃してきた騎士を薙ぎ捨ててヴァンに向き合った。
「この戦いもそろそろ終わる。余興に相手をしてやろう。確かヴァンフォルフだったか?」
「ヴァンドルフだ!」
 怒ったように答えながらも、ヴァンの気分は高揚していた。四年も前に一度会っただけの自分を覚えていた、仲間の仇だというのにやはり嬉しかった。
 だが高揚したヴァンはアズラスの言葉が持つ違和感に気づけなかった。挟撃に遭って不利な状況なのに妙な余裕を持っているのだ。
 アズラスは足だけで馬を駆ると、いつかのように馬を後ろ足だけで立たせた。馬が立った瞬間、双剣が群がってきた傭兵を斬る。馬が前足で別の傭兵を踏み砕くと同時に、アズラスは反動を活かして跳んだ。着地しながら更に別の傭兵を斬り、ヴァンの目の前に立ち塞がる。ほんの一瞬、あまりにもわずかな刹那ではあったが、周囲の兵士が敵味方を忘れて二人の双剣使いに目を奪われた。
「アブカントの双剣将軍、アズラス・スルーシーだ」
「フェントスの双剣傭兵、ヴァンドルフ・デュッセルライト!」
「参る」
 長躯から繰り出される右の斬撃に、ヴァンは左足を軸にして回転するように避けつつ、横薙ぎの左の斬撃で返す。最初からその動作が分かっていたように、既にアズラスの右脇には左の剣が防御体勢を取っていた。澄んだ金属音が消えないうちにアズラスは振り終わったかに見えた右の斬撃を、ヴァンの首を狙った横薙ぎに切り替えた。だがヴァンも負けじと右の斬撃を迫り来るアズラスの剣に向けて振るった。二度目の金属音が最初のそれと重なる。ヴァンは右の斬撃同士がぶつかったわずかな隙に、左手の剣を突き出した。アズラスが防御体勢を取っていた左手の剣を振り上げてそれを弾く。
「やるな、ヴァンドルフ」
「そっちは鈍ったか、アズラス!」
 血気にはやったヴァンドルフが更に斬りかかろうとした時、退却を知らせるかぶら矢が空を裂いた。
「惜しいが時間切れだ。次を楽しみにしているぞ」
 言うが早いか、アズラスは一挙に愛馬の元へ駆けよって騎乗した。
 何が起こった分からずに途惑うヴァンの腕を仲間の傭兵がつかんだ。
「後退だ後退、逃げるぞ!」
 そういって強引にヴァンを引っ張って走り出す。
「野郎、別働隊を迂回させて俺たちの本陣を強襲しやがった!」
 ヴァンはそこでようやく、先ほどのアズラスの余裕に気付いた。
 挟撃を読んで、逆に伏兵を送り込んでいたのだ。
「また……負けたのか」
 遠くから、アブカントの勝利を称える歌が聞こえていた。

       †

「それで終わりですか?」
「面白くも格好良くもないと言っただろう」
 ヴァンは酒を口に運ぶと、懐かしむように遠い目をした。
「それで儂とアズラスの勝負は終わりだ」
「決着は付かずってことですか」
 弟子の言葉にゆっくりと首を振る。
「以降何度か会うことはあったが、結局は奴が病死して勝ち逃げだ」
「病死……」
「まったく、儂とあろうものが流行病ごときに勝利をかっさらわれた。……だが人生とはそういうものだ」
 残った酒を流し込むと、ヴァンは店の奥で歌い続ける歌い手を見やった。
 優しくも、どこか悲しい歌が聞こえていた。

9日目4676文字

 夢を見ている。

 血にまみれた、夢を見ている。

 剣を持った小さな手が震えている。
 覚えている。
 これは初めて人を殺したときだ。

 あれは今から何年前か。
 たしか九歳だったから、三十四年も前になる。

 初めて人を殺した日、あの日から今まで百を越える命を奪ってきた。
 そんな自分でも、初めて人を殺したときには、あんなにも情けなくがたがた震えていたのか。

 ヴァンドルフ・デュッセルライトは夢の中で微笑した。
 その途端、視界が歪む。
 ああ、夢の場面が変わるのだ、そう納得して安定を待つ。


       †


「孤狼さんで?」
 薄暗い酒場を出ようとすると、背後からひしゃげた声がかかる。
 外套の中で剣を握りながら僅かに振り返る。声と同じようなひしゃげた顔が、壁に掛けられた蝋燭の炎に照らされていた。殺気はない。
「何の用だ」
「睨まんでください、仕事の話ですよ。アンタに依頼したいってお方がいましてね」
「これが地顔だ。今は懐が温い、話だけは聞いてやるが期待はするな」
 男は下卑た笑いを浮かべながらヴァンの脇をすり抜けて酒場の扉を開けると、ヴァンを先導するように暗い路地を歩き始めた。
 少々のいぶかしさを押し込めてヴァンも後に続く。
 男は治安の悪い路地に足を進めた。目には見えないがこちらを伺う気配がいくつもある。
「入ってくだせえ」
 男は急に立ち止まって古ぼけた扉を開けた。
「くさいな」
 呟き、虎穴に入る。
「ご挨拶だな」
 奥から太い声が聞こえたと思うと、蝋燭に火が点いた。
「アンタが孤狼の先生かい」
「盗賊か。何用だ」
 腕を組んで尊大に返す。組まれた腕の指先は外套に隠された双剣に触れている。
「仕事を頼みたい。護衛だ」
 盗賊から縁遠そうな護衛という言葉に多少の興味をそそられた。
「お察しの通り俺は盗賊だ。森の傍に打ち捨てられた塔があるのは知ってるか? あそこを根城にしている。護衛対象は俺を含む幹部全員だ」
「部下に守らせれば良いだろう。なぜ儂だ」
「……相手が風の盗賊だからだ」
「ほう、百人斬りか」
 面白い、ヴァンの表情にはそう書かれていた。
「怯えるかと思ったら喜ぶとはな。どうだ、引き受けてくれるか? おっと、報酬は保証する。これが前金だ」
 投げ寄越された袋には、優に三ヶ月は暮らせるほどの銀貨が詰まっていた。
「奴を倒してくれれば、更にその倍を成功報酬として用意しよう」
「三倍だ」
「わかった」
 ヴァンの法外な要求に即答すると、盗賊は案内役の男に目配せをした。男が扉を開けると夜の空気が流れ込んでくる。扉をくぐって退出しようとするヴァンの背中に盗賊の声が掛かる。
「期限は明日から野郎を倒すまでだ」
「了解した」

 来た道を帰りながら、ヴァンは案内役の男に聞いてみた。
「で、百人斬りは誰に雇われた?」
 男は目に見えて狼狽した。落ち着き無く周囲を見回して誰もいないか執拗に確認する。
「やめてくださいよ、どこに野郎がいるかわかったもんじゃない」
 批難の声を上げてから、怯えを隠そうともせずに呟いた。
「……恐らく領主でさぁ。偉そうに警告する書状の紙質がえれぇ高かった」
「警告状が来たのか、どんな文面だ」
「すぐにこの領から出ていかないと、風の盗賊が俺たちを襲うって」
「だがあの百人斬りが大人しく領主の言うことなど聞くか?」
 男はまた周囲をせわしなく見回してから向き直り、小さな声で呟いた。
「俺たちもそう思って調べたんでさぁ。なら、領主の周りで最近やけに人が死んでやがる。全員がでっかい刃物で斬り殺されてたって話で……」
「命を吸う黒い大剣を持った銀髪の男が、百年に渡って人を斬り続けている」
 ヴァンの言葉に男は飛び上がらんかという勢いで驚いた。
「旦那ッ!」
「その名、ジーン・スレイフ・ステイレス。盗賊騎士ステイレスの百年前の嫡男にして、一族を皆殺しにした男。その存在はおとぎ話ではなく、人々が忘れることができない頻度で彼による新たな被害者が作られていく。風の盗賊の名は、彼の一族が盗賊騎士だったことに由来するが、彼自身が盗賊というわけではない。百人斬りの名は、文字通り彼が一晩で百人の騎士を斬り殺したことに由来する」
 ヴァンが語った言葉は、盗賊ギルドをはじめとするこの地方の様々なギルドに書かれた注意書きの一文だった。
「百年の間、老いを忘れて戦い続けてきた鬼人。相手にとって不足はない、これほど胸躍る敵は久しぶりだ」
 力強い笑みを浮かべてヴァンドルフは颯爽と路地を歩く。
 案内役の男は、主人に従う下男のようにその背を追いかけた。

       †

 翌朝のことである。
「孤狼の旦那ぁッ!」
 階下から慌ただしく走ってくる気配でヴァンは目を覚ました。
 昨夜すぐにでも盗賊のアジトに向かおうとした彼は、案内役の男から頼み込まれて宿に泊まらされた。客人として扱うようにと幹部たちから言いつかったので顔を立ててくれと懇願されたのだ。仕方なく決して安くはない宿をあてがわれたのだが、それは間違いだったらしい。
「旦――」
「何事だ、慌ただしい」
 駆け上がってきた男がヴァンの部屋の扉を叩く前に、旅装を整えたヴァンが自ら扉を開いた。
「起きてやしたか! まずいことになりまして」
「百人斬りが出たか?」
 適当な冗談を言ったつもりだったのだが、目の前の男はあからさまに表情を変えた。
「本当に出たのか。いつだ」
「今朝方でさぁ、路地で潰れてた酔いどれが見たって言い張ってたんで締め上げたら、噂に聞く野郎の特徴と一致しやがりまして」
「やれやれ、やはり昨夜のうちに立った方が良かったか。案内しろ、征くぞ」

 案内役の男が乗ってきたらしい馬を奪い取ったヴァンが盗賊たちが根城にしている塔に付いたとき、事態は既に手遅れだった。
 塔の周囲にはいくつもの死体が転がっている。塔を見上げると、窓辺に死体らしい影が倒れ込んでいる。
「既に百人斬りが来ていたか……」
 死屍累々、まさにその一言で語り尽くされる光景であった。
「やれやれ、いずれ盗賊団をどうにかしろって依頼が来るだろうから、その下調べと強敵との戦いが同時に出来ると思ったんだがな」
 ため息をひとつ。未練を振り払うように首を振って、来た道を帰ろうとしたときだった。
「!」
 背後から強風が吹いたように空気が押し流される。
 ヴァンが振り返ると、塔の入り口に青い影が見えた。
 血にまみれた青い外套、片目にかかった銀髪、両手持ちの黒い大剣。ジーン・スレイフ・ステイレス。
「そうか、まだ塔の中にいたのか……」
 額に冷や汗がにじむのを感じながらも、ヴァンは己が笑っていることを自覚した。
 一瞬にして空気が変わったのは錯覚ではない。所々に生き残っていたらしい盗賊の残党たちが震えながら地べたを後ずさっている。怯え、絶望、恐怖、そしてジーンから発せられる殺気がそれまでの空気を押しやったのだ。
 ヴァンは双剣に手を掛けると、ゆっくりと百人斬りの鬼人に近づいていく。向こうもヴァンに気付いたのだろう、黒い大剣を肩に置いた。
 声が届く距離まで間合いを詰めて、二人は立ち止まる。
「光双剣のヴァンドルフだ」
「…………ジーン・スレイフ」
 静かだがよく通る声で名乗る。
 ヴァンは左右の腰に差した一対の鞘から、二本の"筒"を抜き放った。それはまるで、柄だけの剣だった。
 対するジーンは僅かに怪訝な顔をしたが、すぐに無表情に戻ると肩に置いた大剣を両手で持った。
 ジーンの側から風が吹いた。
 その風に乗るように、ジーン・スレイフ・ステイレスが疾駆する。一瞬で十歩も進む。もう一瞬あればヴァンに届いただろう。だがヴァンはジーンが動いた瞬間に"筒"を彼の方に向け――
「参る」
 そう呟くと同時に、筒から一条の光線が放たれた。
 既に地を蹴っていたジーンは肩に担いだ大剣を大きく振って地面を斬ると、その反動で光を避けることに成功した。
「……魔法か?」
 筒から伸びる光が縮んでいき、剣の長さで止まる。
「少し違う、古代の魔法技術と現在の魔法技術を組み合わせて作られた剣だ」
 そう言って、もう片方の手で持っていた筒からも光の剣を伸ばしてみせた。
「光双剣、なるほど」
 大剣を構えなおす。
 ジーンは地を蹴ると、大剣の重さを感じさせない速さでヴァンを己の間合いに捉えた。脳天に一太刀を振り下ろす。ヴァンは双剣でそれを受け止めると、腕に力を込めて黒魔剣を押し戻して光双剣の左の一刀を振り下ろす。
 ジーンは僅かに身をしりぞけて紙一重で回避しようとした。その瞬間、光の刃が僅かに伸びてジーンの頬を裂く。
「これが光双剣だ。儂に間合いがあると思うな」
 ジーンは頬に手を当てて傷を確認すると、邪悪な笑みを浮かべた。手をどけると、そこにあったはずの傷が消えていた。
「これが俺だ。俺に敗北があると思うな」
 お互いに鼻で笑うと、次の瞬間には剣をぶつけ合っていた。
 まるで短剣を振るように軽々と巨大な黒魔剣がヴァンに襲いかかる。だがヴァンはその全てをいなし、防ぎ、しのいでいた。
 間合いと隙を無視した双剣がジーンに襲いかかる。だがジーンは素早く身をかわし、例え斬られようと貫かれようと、即座に傷が治癒していた。
「せいっ!」
 裂帛の気合いと共に、ヴァンは光双剣を伸ばしてジーンの眉間と心臓を貫いた。
 ジーンの動きが止まる。
 腕が徐々に垂れ下がる。
 肩が震え始める。
 魔剣の先端が地面に付く。
 肩の震えが大きくなる。
 ジーンは、笑っていた。
「フッ……フハハ……フハハハハハハハハハッ! やるではないか小僧!」
 どう見てもまだ二十代にしか見えない姿の鬼人は、眉間と心臓を貫かれたまま剣を振り上げた。
「化け物かっ!」
 ヴァンは短く叫ぶと、眉間の剣を上へ、心臓の剣を右下へ振り抜いた。脳や内臓を斬り裂けば流石に死ぬかと思ったのだ。
 血と脳漿を噴出させながらジーンは大剣を横薙ぎに振り抜いた。
 ヴァンが飛び退いて体勢を立て直すと、既にジーンの傷はふさがっていた。
「これでも死なんのか……凄まじいな」
 敗北を覚悟しながら双剣を構え――

 視界が歪む。

 ――夢から覚めるのか

 心中の呟きを察したかのように、夢の風景は黒く塗りつぶされていく。

 目が覚めた時、ヴァンドルフ・デュッセルライトは既に夢の内容を忘れていた。
「夢を見ていたのか? ……何の夢だ、思い出せん……だが、妙な充実感が残っている」
 己の手を見る。
 ごつごつとした、筋肉質な男の手だ。ずっと昔に貫かれた傷痕が意識を覚醒させていく。
 ヴァンはゆっくりと立ち上がると、地面に刺していた剣の鞘を引き抜いた。
「あの夢の感覚、ぼやけてはいるが……」
 おもむろに剣を抜き放つ。
「どうやら夢の中でも戦っていたらしいな」
 夜明けの遺跡を駆け抜ける風に髪をなびかせ、ヴァンドルフは微笑を浮かべた。

another side ≫ geyrn's diary No.04


10日目4784文字

 遺跡の夜は早い。正確にはヴァンにとっては早く感じる。この孤島に来るまで彼が滞在していた地方は夏だったからだ。
 毎日決まった時間に明るくなり、毎夜決まった時間に暗くなる。昼は天陽のような光球が空という名の天井に昇り、遺跡を偽物の日光で照らし出す。
 偽物ではあっても身体はそれに騙されてくれるようで、毎日日光を浴びていると身体の機能が正常に保とうと調整されているのを実感できる。陽の当たらない洞窟の中にいる時とは違う。かつて一ヶ月半に渡って洞窟に潜った時など、それはもう酷い有様だった。同行した学者連中はたちまち体調を崩し、一ヶ月と二十日で精神に危険な兆候が見られたので調査を断念した。冒険に慣れたヴァンにとっては何とも情けないと嘆きたくなるが、一般人ならばそんなものだろう。ヴァンからすれば、四日の間湿地に立ったまま一歩も動かずに敵軍がくるのを待ち伏せるよう雇い主から命じられた事と比べれば全然ましというものだった。腰を下ろして眠れるだけで幸せだ。
 孤島の遺跡にも同じ事が言える。陽は昇るし、風も吹く。一日ずっと砂地を歩き通しても所々に水場がある。水場の傍には草が生い茂っているので見つけることも容易い。砂地といっても砂だらけで足を取らたり、荷物や装備に砂が入り込む以外は特に問題はない。砂漠のような凄まじい暑さはない。もっとも彼の弟子が孤島を旅した時には、熱砂で覆われた砂漠地帯に宝玉の守護者がいたという。この遺跡にも熱砂地帯が無いとは言い切れない。
 ヴァンはいつものように腰から双剣を鞘ごと抜くと、交差するように草むらへ刺した。仲間達は見張り役のサザンと、ヴァンと交替で起きたリックを除いて皆眠っている。ヴァンは剣の鞘へ持たれるように地面に座ると、そのまま腕を組んで目を閉じた。背は完全には鞘にもたれていない。腰を支える程度だ。仲間が見張りに起きているとはいえ、これが彼の寝るときの習性だった。仲間を信用していないわけではない。特にサザンとリックは信用に足る。だがそれでも警戒は怠らない。安心は慢心を呼び、油断を生む。
 目をつむったまま全感覚を研ぎ澄ませて周囲の気配を探る。問題はない。そう判断するとヴァンは一瞬で意図的な深い眠りに落ちた。

       †

 おぼろげな夢を見ながら、ヴァンは夢の外の己を感じ取った。この感覚だと眠りについてから二十分といったところだろうか。サザンとリックが見張りに起きているためか、普段の倍近くも深い眠りに落ちていた。心身の疲労が和らいでいる事を眠りの中で確認すると、ヴァンは浅い眠りを楽しむことにした。
 そうして数時間も眠っていただろうか、眠りの表層を泳いでいたヴァンは自分に意識が向けられるのを感じ、意識を浮上させた。
「朝か」
 ヴァンを起こそうかと服部が向き直った途端にそう呟いて目を覚ます。
「起きてたのかおっさん、今日はよろしくな」
「そういえばお前と組むのだったか」
 身を起こし、地面に刺していた剣を腰に差しなおす。
「アンタよくそんなんで疲れないな。どうやったら横にならずに疲れを取れるんだ?」
 どんなに短い時間でも、完全に心身全てを休ませる深い睡眠をすることだ。心の中でそう答えるが口には出さない。深い眠りにある間は完全に無防備である。昨晩のように二十分近くも眠ってしまったのは完全な不覚だった。この瞬間を狙って矢を射かけられたらどうしようもない。風切り音さえまったく鳴らない吹矢などだとひとたまりもないだろう。だからこそ、口に出して答えないのだ。口に出せば唇を読まれる。
「さて、行くか。全員準備はいいか? 今日はいつもと違って二人組だ。気を抜くなよ」
 自然とヴァンが仲間を引っ張るように号令を掛けているが、彼が仲間達を率いているわけではない。仲間達に飄々とした人物が多すぎるせいで、ヴァンやリックが声を掛けなければどこへ向かうかの意思確認が取りにくいだけだ。
 全員の準備が整っているのを見て、ヴァンが頷く。
「よし、それではまた日没に会おう」
 その一言で仲間達が散開していく。周囲に不穏な気配が立ちこめていたため、難敵と遭遇しないようにいつもの三人組から二人組に分けて、散らばって行動することで見つかりづらくしようという案だった。
 砂地を早足で進むヴァンの傍には服部周がいる。
 いささか頼りない。
 忍のような格好をしているが、その実中身はただの青年だ。才能はあるのだろう。大仰な身振り手振りで相手の目を眩ます様は、修行を重ねれば実際の忍術も使えるようになると思える。
「おっさん」
 休み無しで数時間ほど歩いた頃、服部が疲労を含んだ声で呼び掛けた。
「ちょっと休まない? なんかヤバい気配もするしさ」
「気配を感じているのは大したものだが、その方向がわからないのはいかんな」
 怪訝な顔で返す服部に、ヴァンは意地の悪い微笑を浮かべた。
「気配はお前の後方から追ってきている。休みたいか?」
「よっしゃ、急ごうぜおっさん!」
 急に足を速める服部だったが、その努力は敵との遭遇を三十分ほど遅らせただけだった。

「牙蜥蜴と……あれは初めて見るな」
 牙蜥蜴とサンドジェリーと相対する。双剣を構えるヴァンの後ろで服部が魔石を取り出す。
「足が四本の獣と浮いている怪物か。道理で追いつかれるわけだ」
 双剣を構えて敵の間に走り込むと、身体全体を回転させた斬撃を繰り出す。
 だが地べたに伏せている牙蜥蜴とふわふわ浮いているサンドジェリーを同時に狙うのは容易ではない。
 かわされた勢いをそのままに二撃目を繰り出す。しかしやはり届かない。
(足場も悪いがそれ以上に勘が悪い。鈍ったか? こうなったら……)
 ヴァンは牙蜥蜴のみに攻撃を絞ることにした。服部の魔法は思った以上に効果を発揮し、ヴァンの心身を若干ながら回復させていた。
 戦いが終わった時にはヴァンも服部も満身創痍だった。途中、視界がかすみかけたこともあったが、辛うじて生き残ることができた。
「やれやれ、服部の魔法がなければ負けていたな。わずかな回復でも積み重なれば勝敗を覆す力を持つという好例だった」
「これで愛しのあの子の所へ戻れるぜ!」
 ヴァンの言葉も聞かずに目を輝かせて服部は何を思っているのか。恐らく小雨に想いを馳せているのであろう。この男は美人から美人になる可能性を秘めた子供まで、全てに心をときめかせる変わり者だった。
「まったく、小雨の三倍以上の年齢で何を言っているやら」
「そりゃ聞き捨てならないな、あの子は今に凄ぇ美人になるぜ?」
 今はまだ九歳の少女を思い浮かべ、その成長した姿を想像する。たしかに美人だ。美人ではある。が――
「なるとしたら傾国の悪女だろうさ」
 ヴァンにはあの少女が時折見せる年齢離れした言動に違和感を覚えていた。服部はヴァンの言葉を前向きに受け取ったらしくにやにやと頷いている。ため息を一つ。
「行くぞ、ぼやぼやしているとまた襲われかねん」

       †

 目印を頼りにヴァン達が合流地点に着いたのは既に日が落ちてからだった。どうやら一番最後だったらしい。
「よう、酷い怪我だな。お前さんにしちゃぁ随分手こずったようだな」
 砂で汚れた白衣をはためかせて、浅黒い肌をした男が歩み寄ってくる。
「そう思うなら治してくれ」
「悪ぃな、今日は疲れてんだ。代わりにこれでどうだ?」
 そう言ってリックは栓の開いた酒瓶を投げて寄越す。
「ふん、悪くない」
 ニヤリと笑って酒瓶から直に酒を飲む。緊張が解きほぐされるのを楽しみながら、ヴァンはもう一口だけ飲んで酒瓶をリックに投げ返した。
「どうも勘が鈍っているようだ。いや、孤島に来るというのはそういうことだと理解はしていたつもりだったんだがな。不覚を取ることが多くなったのは儂の甘さか……。そっちはどうだった?」
 リックは酒瓶をあおりながら肩をすくめた。見たところ彼に外傷はない。
「どうもこうもいつも通りだな。リド嬢ちゃんがずたぼろになっただけだ」
「いつも通りだな」
 既に横になって休んでいるいる女性を見やって呟く。至る所に生傷の痕がある。
「なぜ守りが苦手な癖にあんな露出の多い服を着ているのか……理解に苦しむ」
「さあな、叩くのも叩かれるのも趣味なんじゃねえか?」
「変な奴が多いものだ。しかし儂もそろそろ旅装から鎧に装備を変えた方がいいかも知れん。傷を負うことが多くなってきた」
「遺跡を出てからだな」
「ああ、そのためには明日を乗り切らんとな……」
 ヴァンは急に険しい表情になると、周囲をぐるりと見回した。
「やっぱり何か居やがるのか。何か雰囲気がおかしいとは思ったんだがな」
「今晩中に仕掛けてくるということはないだろう。様子を伺っているといった感じだな」
 近くに気配があるわけではない。だが何かに視られている。
「これ以上先へ進むと仕掛けるぞという警告か? 引き返してやるわけにはいかん。明日に備えて寝るか」
 言うが早いか腰から双剣を鞘ごと抜いて、交差するように地面に刺す。
「今日の夜番は?」
「最初の一時間半は小雨とアゼルとリリィの嬢ちゃん組。次が俺とお前だ」
「了解した。では寝る」
 地面に腰を下ろすと、昨夜と同じように剣に軽くもたれかかってヴァンは寝息を立て始めた。

 夜番をサザンに引き継いでから再度浅い眠りに落ちていたヴァンだったが、夢うつつに翌朝まででは完全には回復できないと感じていた。
 朝になって目を覚まし、やはりその感覚は間違っていなかったと知る。
 疲れは随分取れたし、傷も処置が正確だったらしく塞がりかけてはいたが、完調とは程遠い。立ち上がり双剣を腰に差すと仲間達を見回す。サザン達とルヴァリア以外は一様にどこか疲れの残った顔をしている。
 結局ヴァン一行が出発したのは、起床してから二時間も経ってからであった。仲間達と相談して、しばし休んでから発とうということになったのだ。
 歩き始めて一時間ほどが経った頃だった。砂地の左右に壁が見え始める。いくら広くてもここは遺跡の中なのだと感じさせる。
「通路か……」
 誰かが呟く。遠くに砂地の終わりが見える。ここからは暗い通路となる。強力な敵が潜み、立ち止まれば命も危うい。
「ヴァン、これが昨日言ってた奴か」
 リックが嫌な顔をして話しかけてきた。
「一晩待たせたのだ。会いに行ってやろうではないか」
 不敵に返すと、ヴァン達は通路へと駆け出した。
 暗闇の中に力尽きて倒れている者や、今も必死に戦っている者の姿が見え隠れする。
「散らばって一気に突破するぞ!」
 その号令に合わせて、ヴァンの周囲から仲間達の気配が去っていく。傍に居るのはリックとリリィ、そして一応の単独行動を取っているエマールの三人だけだった。
「ヴァン」
 並走するリックが呼び掛ける。
「何日か前に雑草に追われてた小僧の言ってた言葉覚えてるか?」
「この先に小隊が待っているという奴か」
「来やがったな」
「ああ」
 遠くに三人の兵士が見える。ヴァン達は走る速度を落とすと、戦闘態勢を取って近づいていった。
 小隊と名乗るには人数が少ない。恐らく他の仲間達の所にも待ち伏せているのだろう。先ほど隊長らしき人物の影も見えた。
「雑兵の三人程度で儂らを止めるつもりか……片腹痛いわ!」
 ヴァンは双剣を抜くと、裂帛の気合いを叩き付けた。

11日目4740文字

 砂の丘に墓標が一つ。
 盛り上がった砂は赤く染まっていた。
「遺言どおり風の丘に埋めてやったぞ」
 呟く男の言葉に応えるように、風が男の黒衣をはためかせた。
「礼はいらん」
 男は墓標に背を向けると、砂を踏みしめ丘をくだった。丘の下に待たせていた馬に乗ろうとして、ふと墓標を振り返る。
「何をしている。お前は翼を得た、好きなところへ行くがいい」
 その言葉を皮切りに、一陣の風が砂を巻き上げて丘を駆けた。墓標の赤く染まった砂も風に乗って空へと舞う。
「そうだ、それでいい」
 にやりと笑うと、ヴァンドルフ・デュッセルライトは馬に飛び乗り二度と振り返らなかった。

      †

「俺はさ、やっぱ飛びたいんだよ」
 少年は赤ら顔を焚き火に照らして力説した。周囲の大人は誰も耳を貸そうとはしない。
「わかる? オッサンがたにゃわかんないかなぁ」
 馴れ馴れしく肩を抱かれた男が荒々しく振り払って舌打ちをする。少年は悪態をついて酒盛りの輪から離れようとした。
「ん? なんだオッサン、一人で飲んでんの?」
 辛うじて焚き火の光が届こうかという所に男が一人。大人たちは少年を止めようとしたが、少年へのうとましさがそうさせなかった。酔った少年は大人たちが恐れて近づこうとしなかった傭兵の所へ千鳥足で近づいていく。
「アンタも嫌われもんか? 俺もさ。仲良くしようぜ」
 すきっ歯でにぃっと笑うと、馴れ馴れしく肩を抱く。だが傭兵は鋭く睨むだけで手を払おうとはしなかった。
「凄ェ傷だなアンタ。痛くないのかい?」
「古傷がいつまでも痛んでたまるか」
 大人たちは傭兵が鬱陶しい少年の相手をしていることに驚き、奇異の視線を向けたが傭兵がにらみ返すと怯えたように目をそらして、別の馬鹿話で盛り上がることにした。
 残された傭兵と酔った少年は仲間の輪を外から眺めながら、何をするでもなくただ酒を飲んだ。
「なあオッサン」
「まだ二十八だ」
「それでも俺の倍ぐらいじゃん」
 既視感を覚える言葉。かつて少年だった傭兵が、親代わりであり兄代わりであった男へ放った言葉。傭兵は目を閉じると口の端をつり上げた。
「そうだな、俺も二十八になったか」
 ついにあんたを追い越しちまったか、心の内で親愛なる故人へ呟く。
「坊主、お前は何でこんな戦争に参加した?」
「そりゃ金のために決まってんじゃん。兵士は給料良いんだぜ」
「残念だったな、腕の良い傭兵はもっと良い」
 意地悪く笑ってみせる。少年はむっとしたように傭兵を睨むと、酒樽に杯を突っ込んで酒を補充した。
「坊主、今までに何人殺した?」
「三人かな、全部とどめ刺しただけなんだけど。オッサンは?」
「まだ二十八だ」
「案外少ないじゃん」
 少年も意地悪く笑ってみせた。傭兵も釣られて笑うと、少年の頭を軽く小突いた。
「殺した数なんぞ数えてられん。少なくとも二桁ではすまんな」
「サバ読んでない?」
「そんな自慢にならん数を誤魔化してどうする」
「じゃあさ、一番強かった相手ってどんなの?」
 無邪気な問いで彼の脳裏に浮かんだのは二人の男だった。
「……ホリン・サッツァ・トラウムと、アズラス・スルーシーだ」
「赤き賢者と告死の翼じゃん! オッサン戦ったの!? 勝った?」
「勝っていたなら、お前が奴らの名前を知ることも無かっただろうな」
 自嘲気味に笑い、酒樽に杯を突っ込む。ため息を一つついてから、がぶりと酒をあおる。少年も傭兵の雰囲気が変わったことに気付いて口を閉じた。
「さっき言っていた跳びたいとは何だ?」
 止まってしまった会話を動かそうと傭兵が単純な疑問を投げかける。丁度大人たちにあしらわれた話題だっただけに、少年も嬉しそうに乗ってきた。
「そうなんだよ、飛びたいんだよ」
「崖からでも塔からでも跳べばいいではないか」
 茶化す言葉を無視して少年は酒をあおると熱弁を続けた。
「俺はね、生まれてこの方ずっとずっと地べたにいるんだ」
「誰でもそうだ」
「違うよ! 違う。俺とか兄貴とかも、皆ずっと同じ街で生まれて育って死んでいくんだ。街から出ることはできない。用事を済ませりゃ帰る場所は街だし、近くの町にちょっと出かけても結局街に戻ってくんだ。何でかわかる?」
「勇気、力、金、このうちのどれか一つさえ持っていないからだ」
 傭兵の答えに少年はきょとんとした。
「各地で戦争が頻発し、魔獣や盗賊を討伐していた兵力をそちらに傾けるせいで治安が悪くなる。人心も荒む。そうなれば生まれ育った街を捨てるのは難しいだろうさ」
「そう、そうなんだ! だから俺は正規兵になりたいんだ、こんな捨て駒みたいな臨時の兵士なんかじゃ駄目なんだ!」
「跳ぶという話はどうなった?」
「正規兵になってもっと高い給金をためておいたら外の世界で家族が暮らしていける。それに俺みたいなガキがちゃんとした領主様に認められた兵士になれたら、勇気も力も湧くと思うんだ。そうしたら、俺は鳥みたいに自由に外の世界に羽ばたける!」
 傭兵は複雑な表情をしていた。
「己で世界をせばめていることに気付いて……いや、目をそらしているだけか。だが目をつむってはいない。……いつか気付く」
 少年の情熱を削がないよう、聞こえないように独りごちた。

       †

「近くにいる奴と背中を合わせろ! お互いを守り合うんだ!」
 戦場の喧騒の中、傭兵の声が飛ぶ。兵士たちはまったくの素人だと言わんばかりに浮き足だって使い物にならなかった。兵士たちのまとめ役として派遣されていた騎士も義務だから参加したという貴族の子で、怯えてしまって兵士以上に使い物にならなかった。こういう事態が予測されたからこそ、貴族は息子を守らせようと彼を雇ったのだ。
「越権行為失敬!」
 双剣を構えて騎士を守る。
「いや、皆が生き残れるのならばいくらでも越権してくれ」
 震えた声で騎士が答える。義務を賄賂で回避せず、しっかりと戦場に出て来た上に物事の優先度をわきまえている。傭兵は依頼された以上にこの騎士を守ってやろうという気になっていた。
「では従者殿と背中合わせになって少し後退を。敵を引きつけます」
 そう言って走り出すと、両手に持った双剣を派手に振って敵兵を二人同時に斬り倒す。血が剣に尾を引くように斬り、その動きも左右対称、必要以上に人目を惹いたのを確認して傭兵が声を張り上げる。
「我が名、双剣のヴァンドルフ! 我を倒せばいかなる報償も思うがまま、この首取れると思った者は掛かって来い! 我が双剣の錆びにしてくれよう!」
 敵兵の反応は様々だった。士気を上げてヴァンに襲いかかって来る者、ヴァンの名を聞いて怯える者、事態が理解できずにうろたえる者、その全てがヴァンの策に落ちていた。
 意識がヴァンに向いたため、彼の味方の生残性は確実に上がっている。特に、多少立派な鎧を着けた怯える騎士などは眼中にもないだろう。
 士気を上げて襲いかかってくる敵兵を、全て一刀で斬り伏せる。多少の無茶は力任せで押し通す。一撃で倒してこそ、より効果的に相手の士気を削げるからだ。
 彼らの戦場は、主力同士がぶつかり合う主戦場からは外れていたが、その外れた小さな戦場の中心は間違いなくヴァンだった。
 斬って斬って斬り続ける。途中何度か防ぎきれなかった斬撃や、槍の一撃で決して軽くはない傷を負った。背中を守ってくれる相棒がいれば別だっただろうが、そんな勇気と技量を持ち合わせた戦士は味方にいなかった。
 下手に手傷を負ってしまったせいで、動きに精彩を欠く。敵兵も下がった士気を、今なら倒せるのではないかという楽観で立て直してしまった。
「しくじったか? ……あんたより一年も長く生きれば充分かな」
 諦めたような事を言って、返り血で真っ赤に染まった顔に微笑を浮かべる。戦場で笑顔を浮かべていれば、敵が若干ひるむというのは計算の内だ。絶望的な状況でも活路を探す。それは十二の頃に彼を庇って散った親代わりの傭兵の、最後の教えだった。
 怯んだ隙に数人の敵兵に駆けよって一挙動で三人を倒す。
「どうした! 報償が欲しくないのか!」
 疲労や傷を感じさせない声を張り上げ、威風堂々とした立ち姿で威圧する。血気にはやった敵兵が飛び込んできたのを好機として、片方の剣で武器を防ぐと同時にもう片方で命を奪う。華麗な動作だった。
「俺はまだ返り血を浴び足りんぞ! この外套を貴様らの血で赤く染めてみろ!」
 いくらかはヴァン自身の血で染まっているが、さも全てが敵兵の返り血であるというように血染めの外套を誇示する。
 何人かは果敢に挑んできたが、全ては外套の染料と化した。そこで敵兵の士気は尽きた。
 その後、一時間も経った頃にはヴァンの目につく範囲での戦闘は全て終わっていた。
 ヴァンを始め、兵士たちは何とか存命した騎士の元へ集まっていた。
「何人残った、誰がやられたのだ?」
 兵士たちがお互いの顔を確認して誰がいない、誰が死んだのを見たと報告し合っている。ヴァンは兵士たちの姿を見回してから、昨夜の少年兵がいないことに気付いた。
「おい、あの坊主はどうした」
「あのガキですか? さあ……」
「そういや俺あの新入り名前も知らねえや」
 兵士たちの態度は冷たいものだったが、ヴァン自身も少年兵の名を聞き忘れていた事に気付く。
「やられてましたよ」
 耳に入った言葉が胸を貫く。
「あの辺りで、背後から……」
「背中を合わせろと言っただろう!」
 激昂してしまったが、昨夜の様子から想像力を働かせればこうなるのは分かっていた。騎士を守るという仕事さえ無ければ彼自身が少年兵の背中を守ってやるつもりだった。
 兵士が指さした所へ駆け寄ったヴァンの目に飛び込んできたのは、瀕死の少年だった。
 片膝をついて最期を看取る。
「オッサン……観てたよ、強いなぁ」
「喋るな馬鹿もん」
「意外と、アンタが告死の翼じゃないの」
 力なく笑う。目からは生気が消えかかっている。
「飛びたかったなぁ」
「跳べばいい。力や金が無くても、勇気さえあれば飛べるさ。小鳥は巣立ちの時に勇気を持って巣から跳ぶから飛べるようになるのだ」
「ああ、金も力もいらなかったのか……教えてよ」
「お前ならいずれ自力で気付いていた」
「いずれが、もうないんだよね」
 少年は笑って言うが、その言葉はヴァンの心に鋭く突き刺さった。
 ヴァンが少年だった頃、なぜ親代わりの傭兵がヴァンを庇って散ったのか、その心が痛いほど理解できた。
「オッサン……」
「もう喋るな」
「やだ。あのさ、風の丘、知ってる?」
「聞いたことはある」
「俺、飛びたい、だから、そこ……に」
 最期の言葉は途中で消え入るように細くなっていった。
「ああ、わかった」
 ヴァンが力強く頷くと、少年はすきっ歯を見せて笑い、そのまま息を引き取った。
 いつの間にやって来ていたのか、騎士がヴァンの背後で絶句していた。
「生き延びろよ……」
 背中越しに騎士へ呼び掛ける。
「あんたの命はこの子の犠牲の上にある」
 それは真実の一端でしかない。ヴァンもそれは分かっている。守ってやれなかった事実を騎士に責任転嫁したに過ぎない。だが、騎士は黙って頷いた。
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