なんでもレビュー

地図男
出版:メディアファクトリー
(ダ・ヴィンチブックス)
著:真藤順丈 定価:1200円+税

「第3回ダ・ヴィンチ文学賞、大賞」
「第15回日本ホラー小説大賞、大賞」
「第3回ポプラ社小説大賞、特別賞」
 同時期に3つの新人賞を取ったという触れ込みでのデビュー作。
 だが、
この「地図男」はあくまでも「第3回ダ・ヴィンチ文学賞大賞」だけである。
 ほかの2賞はそれぞれ別の作品。

 地図帳片手に東京近辺を徘徊する「地図男」と、彼が地図に書き込んでいく物語に魅せられた「俺」のお話。
 帯に書いてある3つの受賞と「読者審査員絶賛」の例の数々、
・もの凄い。理屈抜きでおもしろい。出だしから怒濤の文体で疾走し、豊富な知識に裏打ちされた独自の世界観を巧妙に作り上げている。(30歳・男・フリーアナウンサー)
・マニアックでカルト的で、こんなヤツ実際いるかも、いやいてほしい、会いたい、その地図帖見たい!とかなりマジで思った。(44歳・女・主婦)
・今までにない、新しい書き手が現れた。いつまでも終わらずに読み続けたい作品。(26歳・男・自営業)
 というものに惹かれて(他に買わなければいけない本があったのに)購入した。

 結果としては、帯に疑問を抱く出来だった。読者審査員の感想で共感できるのは、真ん中の44歳主婦の意見のみ。1番目と3番目の方は、申し訳ないがもう少し本を読んだらもっと人生が楽しめるんじゃないかというほど、過大評価だと感じた。

 酷評しているようだが、実際に面白いのは面白い。厳しい評価になっているのは、3つの賞を取ったという触れ込みと3人の書評が極限まで高めた期待感に現実がついてこられなかったためだ。

 主人公は「俺」。物語は「地図男と出会った俺」の一人称と、「物語の語り手となった地図男の一人称」で進行する。
 地図男は東京近辺の地図帳を手に放浪を続けるホームレスのような男で、彼の地図帳には様々な物語が書き込まれている。
 ある地点で物語Aの話が始まり、登場人物が移動すればその移動した地点の地図にその続きが書き込まれる。別の場所では物語BやCが書き込まれている。
 映画会社に勤める「俺」はひょんな事から知り合った地図男の話に引き込まれ、またカーナビや地図帳が不要なほどの土地知識を持つ放浪の地図男自身に興味を持つ。

 俺と地図男は別に一緒に旅をすることはない。俺が車で移動中に地図男を見付けて物語を聞き、また別れるといった程度だ。
 途中その距離感は微妙に近づき、そして近づいた所から地図男の内面に踏み込んだところで、この小説が終わる。
 人によれば心地良い距離感で、人によれば中途半端で気持ち悪い距離感だろう。私はこの「未来がある距離感」は嫌いではない。

 「俺」は途中から地図男の物語が「誰に向けて作られた物語なのか」ということに興味を持ち、先ほども書いたがその核心へ踏み込んだ所で小説は終わる。踏み込まれた地図男のリアクションもあるにはあったけれども、まだ途中じゃないのかと感じる終わり方だったが、こういう終わらせ方もありだろう。
 ラストシーンを読み返すと、人によっては充分と感じられるリアクションを返してはいるのだが、実際の所この物語は終始「地図男は自分の言葉で喋らない」のが特徴だ。セリフはあるのだが、心情を語ることをせず、投げかけられた言葉に対する返事と言って差し支えのない程度しか喋らない。だからこそ、「俺」が最後に内面に踏み込んだ際のリアクションに期待したのだが、そのリアクションも相変わらず薄く飄々としていた。キャラがブレないにもほどがある。

 地図男が地図帳に書き込んだそれぞれの物語も、最後まで語られる事はない。大抵が肝心の盛り上がるところ、いわゆるカタルシスの部分に差し掛かる所で「俺」の一人称に戻ってしまい、読者はその物語を気にしたまま次のシーンへ進まなければならない。
 最後の最後、この小説自体もそのカタルシスがありそうな所で終わってしまい、「地図男」という小説自体が「地図男の書く物語」と同様になっているのは作者の意図するところだろうか?
 作中劇たる物語にあえてカタルシスを用意しなかったからこそ、最後の「地図男」という小説自体のカタルシスが求められるのにそれがないという、もやもやとした読後感は何とも後味が悪かった。
 それが厳しい評価の、もっとも大きな理由だ。

 読者としての感想は以上だが、その他にも書き手としての視点で気になる点はいくつかあった。
 放浪のホームレスたる地図男が書いた物語なのだが、まあ「放浪してるオッサンが『クラブ』とか『ケツ履きジーンズ』とか知っているのか?」という疑問は「街中で見かけて知識として得たのだろう」と納得させる事はできる。しかし、ホームページや某チャンネルでの酷評、果てはブログという物を、なぜ詳細に「物語に書ける」ほど知っているのだろう。
 その物語の登場人物が2005年頃からブログを作る事で変化していくと書いてあるが、確かに日本でブログが一気に普及したのは2005年頃だ。2004年時点の当サイトの日記を見ると「(ネット上&オフの友人を含む)知り合いでブログをやっているのが2人しかいない」と書いてある。過去ログが保存できるのか(≒突発的にサービスが終了になってログが消える可能性の不安、つまりはそれほどブログを「不安定な未開のサービス」と受け取っていた)、膨大なHTMLのコンテンツとどう共存するのか等で2004年の私はブログを始めるか迷っていたわけだ。
 「一般人向け」ブログのサービス開始が2003年末、05〜06年になって普及という流れと、作中の「2005年からブログを始める」という事自体の齟齬はない。
 私が気になったのはただ、この地図男が一体何年放浪の旅を続けているのかという事だ。
 パソコンやホームページ自体は10年前にもあったわけだから、彼が放浪する前にそういうものに触れていたというのならわかる。
 だが、「地図帳にぎっしりと物語を書き込みながら放浪の旅を続けている壮年〜中年男」が、「物語の中に、『2005年頃からブログが一般に普及し始めた』というWebと密接でないと識りようがない知識の裏打ちを元に、某チャンネルでの辛口批評→辛口批評ホームページ→こっそりとブログ開設というネタを書く」のはあまりにも不自然ではないだろうか?
 些末な事と言えば些末な事だが、ここを気にする人にとっては破綻たり得る。
 また、他の物語についても作者が最初からこの「地図男」の構想専用に作り上げた話なのか、それとも「投稿のネタに考えたけど、上手く纏めきれなかった(賞の応募作に到らなかった)」未完のアイディアを再利用したのかという疑問がつきまとう。そう思わせるのは、全ての作中劇が先述の通り「カタルシスが無いまま途中で終わる」パターンしか無いからだ。そして、その不完全燃焼感を「地図男」自体のカタルシスに繋げず、「地図男」自体がカタルシスに到る前に終わるせいで、こういう余計な疑念が浮かんでしまう。
 新人賞、デビュー作、その点も確かに大きいのだが、やはり不完全燃焼のまま終わってしまったという不満がそうさせる。

 読みやすさや、話へ引き込まれる感は確かに良い。
 読んでいる感覚としてはライトノベルに近いので、ラノベしか読まないという方でも楽に読めるだろう。
 話の難解さ、要求される読解力は上遠野浩平などの方が圧倒的に高い。興味が湧けばハードカバーだと敬遠せずに手に取ってみることをおすすめする。
 各作中劇や、小説自体の「想像の余地」は多いので、そういう楽しみ方が好きな人にはたまらないのではないだろうか。
 ただし、きちんとしたラストを好む方にはおすすめできない。

 キャラの距離感や最後の終わり方などが「大人な空気感」なのに、作中劇自体が「ジュブナイル、ラノベ的」で終始一人称というギャップにも要注意。
 ま、新人らしい荒削りという事で。


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