ヴァン日記 総集編
ヴァン日記 The Best -遺跡での日々-
--説明--
遺跡内を舞台とした日記の自選再編集版。
31日分、原稿用紙換算で430枚程度にまとめてあります。

4日目
 二条の光が立て続けに孤狼を襲う。
 最初の光撃が左肩に牙を立てる。意識が遠のきかけたが、すんでのところで踏みとどまって続く光を回避する。
 仲間は既に倒された。
 元々が不利な状況での奇襲だった。こちらは準備の整わぬ大所帯、相手は最初から人を襲うことを見据えた少数精鋭。負け戦となるのは必至だった。
 それに耐え抜き、相手も二人返り討ちにしてやったのだ。ヴァンは倒れた二人の仲間を誉めこそすれ、なじるつもりは一切無かった。だが一対一に持ち込めたと言えば聞こえが良いが、もはやヴァンも死に体であった。
「まだ打つ手はあるはずだ……」
 そう呟いて牽制の一刀を振るう。考えるための僅かな時間を稼ぐだけの一撃だったが、相手も弱っているのか避けきれずに斬撃を受けて体勢を崩した。
 いつもならば左手の剣で追撃をするところだが、孤島に渡ったばかりで一振りしか剣がない。あったところで先ほど左肩に受けた一撃によって左手は動かなくなっている。
(情けないな)
 自嘲しつつもヴァンは活路を探したが、嫌な予感に突き動かされ突進に転じた。
 相手の両手にまた魔法の光が見えた。
(また二連か! 二発はさすがに耐えきれん。だがっ――)
 止めようにも間に合わない。猛然と突進するヴァンの焦りもむなしく、右手の光が集束を終えた。完成した魔法が狩人の矢のごとく孤狼へと襲いかかった。
 刹那の死線を踏み越える。
 ヴァンは避けようとはせずに自ら光撃へ突っ込むと、相手の左肩に剣を振り下ろした。
 初撃を避けたところで二発目を叩き込まれれば、ヴァンの剣は相手に届かず勝ち目が消える。それならば初撃をあえて受けても直進をやめず踏み込むべきだと判断したのだ。
 左肩への袈裟斬りは意趣返しを狙ったわけではないが、それによって完成しかけていた左手の魔法が霧散した。振り下ろした剣を素早く返し、続けざまの一撃を跳ね上げる。相手の胸から鮮血が踊る。
 二人の間に僅かに距離が生まれた。剣は届かないが魔法が有利ともいえない微妙な距離だ。
 自分の荒い息を聞きながらヴァンは冷静に分析する。自分はもう一撃たりとも耐えられない。しかしそれは相手も同じことだろう。
 この不毛な決闘の最初から、相手は常にヴァン以上の体力を残していた。それは今も変わらない。だがヴァンが瀕死ならば相手もあと一歩で瀕死、もはや僅かな体力の差など意味を成さない。先に攻撃を当てた方の勝ちという単純な状態だ。
 動いたのは相手が先だった。跳びすさりながら右手に魔力を集束させる。魔石に頼った攻撃ではなく、しっかりと魔力を練っての確実なとどめを選んだらしい。
(あれを喰らえば儂の負け……)
 孤狼が地を蹴った。
 死地にあってヴァンの感覚は研ぎ澄まされていた。狩人の手の動きだけではなく、殺気や僅かな意識の方向から攻撃を予測して最小限の動きで回避する。少しでも読み違えば敗北は避けられない。
 放たれた魔法が疾駆するヴァンの顔目がけて飛んでくる。必殺の一撃がヴァンの頬をかすめた。背後に着弾した爆発音が聞こえる。
(これを喰らえば――)
 銀光一閃。狼の牙は狩人を噛み斬った。
「貴様の負けだ」

 狩人が倒れたと同時にヴァンは片膝をついた。
 張り詰めていた緊張がとけてしまったのだ。
「立っているのがやっとどころか、意識を保つのがやっとか。勝利を確信した瞬間に気が抜けるとは……戦場ならば死んでいたな。我ながら情けない」
 誰に言うでもなくそう苦笑する。呼吸を整えるのに二十秒ほどかかったが、どうにか落ち着かせて立ち上がる。意識と呼吸さえしっかりしていればまだ動けるようだった。
 剣を杖がわりにして踏ん張り、戦闘の終わった周囲を見回す。
 ヴァンのすぐそばには、斬ったばかりの人狩りたちが意識を失って倒れていた。敗れたというのに、皆一様にどこか楽しそうな表情の残滓が見え隠れしている。
 昔から孤島では戦場でもないというのに、趣味で人を襲う連中が多い。この孤島も例外ではないようだ。そしてその中には、勝とうが負けようが命のやり取り自体を楽しむ戦闘狂も多い。
「嫌な思い出だな……」
 かつての孤島を思い出してそう独りごちる。
 神剣を極めんと道を切り開き続けた以前の孤島。あと数日で島が消え去ると告げられてから、島は血と混沌の饗宴と化した。今まで普通の冒険者として探索を続けていた人々が、突如として無関係の他人に斬りかかる。数日で島から去らざるを得ないからといって、これほどまでの大人数が豹変するとは、流石にヴァンの想像を超えていた。
 ヴァンが孤島で初めての敗北を喫したのは、そんな豹変した人狩りの手によってだった。それまで勇名や悪名を轟かせていた人狩り集団などより、はるかに邪悪な人物だった。そのような者が昨日までは偽りの仮面を被って、普通の探索者を装っていたのだ。
 そんなことさえ見抜けない己の迂闊さと慢心に反吐が出た。いつか手合わせをと約束を交わしたつわものの侍に面目が立たなかった。だが心と体勢を立て直す前にその時は来てしまい、島は消えた。
「生かすべきか殺すべきか……」
 足元に倒れた狩人を見下ろしてヴァンが呟く。
 彼らこれからも様々な人々を手に掛けるだろう。ひょっとすると、ヴァンたちと再戦するかも知れない。その時にまた勝てるという保証などない。死線をくぐった数からして自分たちの方がむしろ不利だろう。だが――
「やめだ」
 ヴァンは剣を納めると、同じように倒れた仲間たちの元へ歩いていった。
 気象予報士のリリィは気を失っているのかと思いきや、すやすやと寝息を立てている。
「のんきなものだ」
 口の端をつり上げて歩み寄る。
(これこそが今の孤島を表しているのかも知れんな。かつての孤島では餓えでどんどん衰弱し、しまいには命を落とした者もいた。動物にしても、我々に敗北すればその日の糧として食われる運命にあった。だがこの島は違う。決定的な所で、命だけは落とさないようになっている)
 だからこそ、狩人にとどめを刺す気になれなかったのだ。
 かつての孤島と違うとはいえ、絶対に死なないという保証はない。勝者が敗者にとどめを刺せばそれまでである。戦闘で深手を負って死ぬことも、不慮の事故で死ぬこともあるだろう。だが餓えでの衰弱や死がないというだけで、ヴァンには随分とぬるく思えたのだった。
(儂が追い求めた、死を間近に置いた旅とは少し違うか……)
 少し寂しそうに眉根を寄せると、リリィが寝返りを打った。
「まあこれも良いのかも知れんな」
 死ぬか生きるかだけのやり取りだけを求めていては、真の心の強さは手に入らない。そう割り切った。ヴァンはリリィをまたいで、その向こうに倒れているフェリックスと、座り込んで煙草を吸っているエマールの元へ行った。
「お疲れ様、さすがボルの師匠ね。どこか似てるわ」
 エマールが疲れた声をかけてくる。
「ならばそれは儂がなまったということだな」
 意地の悪い微笑を返して、倒れたフェリックスの前に片膝をつく。
 フェリックスは顔をしかめてつらそうにしていた。これならばすぐに意識が戻るだろう。エマールの煙草の匂いも良い刺激になっているのか、鼻が紫煙の香りを探すようにひくりと動いた。
「リック、起きろ。医者の出番だ」
 懐から携帯用の酒瓶を取り出すと、栓を抜いてリックの鼻先に近づける。きつい酒なので鼻への刺激も強かろう。案の定、リックはうっすらと目を開けた。
「儂とお前を含めて七人分の手当を頼む」
 苦痛に顔をゆがめながら起き上がると、リックは無精髭の生えた口回りを弱々しく、だが不敵につり上げた。
「とりあえず気付けの一杯を呑んでからでいいか?」
 ヴァンも応じてにやりと笑うと酒瓶をリックに差し出した。


10日目

 遺跡の夜は早い。正確にはヴァンにとっては早く感じる。この孤島に来るまで彼が滞在していた地方は夏だったからだ。
 毎日決まった時間に明るくなり、毎夜決まった時間に暗くなる。昼は天陽のような光球が空という名の天井に昇り、遺跡を偽物の日光で照らし出す。
 偽物ではあっても身体はそれに騙されてくれるようで、毎日日光を浴びていると身体の機能が正常に保とうと調整されているのを実感できる。陽の当たらない洞窟の中にいる時とは違う。かつて一ヶ月半に渡って洞窟に潜った時など、それはもう酷い有様だった。同行した学者連中はたちまち体調を崩し、一ヶ月と二十日で精神に危険な兆候が見られたので調査を断念した。冒険に慣れたヴァンにとっては何とも情けないと嘆きたくなるが、一般人ならばそんなものだろう。ヴァンからすれば、四日の間湿地に立ったまま一歩も動かずに敵軍がくるのを待ち伏せるよう雇い主から命じられた事と比べれば全然ましというものだった。腰を下ろして眠れるだけで幸せだ。
 孤島の遺跡にも同じ事が言える。陽は昇るし、風も吹く。一日ずっと砂地を歩き通しても所々に水場がある。水場の傍には草が生い茂っているので見つけることも容易い。砂地といっても砂だらけで足を取らたり、荷物や装備に砂が入り込む以外は特に問題はない。砂漠のような凄まじい暑さはない。もっとも彼の弟子が孤島を旅した時には、熱砂で覆われた砂漠地帯に宝玉の守護者がいたという。この遺跡にも熱砂地帯が無いとは言い切れない。
 ヴァンはいつものように腰から双剣を鞘ごと抜くと、交差するように草むらへ刺した。仲間達は見張り役のサザンと、ヴァンと交替で起きたリックを除いて皆眠っている。ヴァンは剣の鞘へ持たれるように地面に座ると、そのまま腕を組んで目を閉じた。背は完全には鞘にもたれていない。腰を支える程度だ。仲間が見張りに起きているとはいえ、これが彼の寝るときの習性だった。仲間を信用していないわけではない。特にサザンとリックは信用に足る。だがそれでも警戒は怠らない。安心は慢心を呼び、油断を生む。
 目をつむったまま全感覚を研ぎ澄ませて周囲の気配を探る。問題はない。そう判断するとヴァンは一瞬で意図的な深い眠りに落ちた。

       †

 おぼろげな夢を見ながら、ヴァンは夢の外の己を感じ取った。この感覚だと眠りについてから二十分といったところだろうか。サザンとリックが見張りに起きているためか、普段の倍近くも深い眠りに落ちていた。心身の疲労が和らいでいる事を眠りの中で確認すると、ヴァンは浅い眠りを楽しむことにした。
 そうして数時間も眠っていただろうか、眠りの表層を泳いでいたヴァンは自分に意識が向けられるのを感じ、意識を浮上させた。
「朝か」
 ヴァンを起こそうかと服部が向き直った途端にそう呟いて目を覚ます。
「起きてたのかおっさん、今日はよろしくな」
「そういえばお前と組むのだったか」
 身を起こし、地面に刺していた剣を腰に差しなおす。
「アンタよくそんなんで疲れないな。どうやったら横にならずに疲れを取れるんだ?」
 どんなに短い時間でも、完全に心身全てを休ませる深い睡眠をすることだ。心の中でそう答えるが口には出さない。深い眠りにある間は完全に無防備である。昨晩のように二十分近くも眠ってしまったのは完全な不覚だった。この瞬間を狙って矢を射かけられたらどうしようもない。風切り音さえまったく鳴らない吹矢などだとひとたまりもないだろう。だからこそ、口に出して答えないのだ。口に出せば唇を読まれる。
「さて、行くか。全員準備はいいか? 今日はいつもと違って二人組だ。気を抜くなよ」
 自然とヴァンが仲間を引っ張るように号令を掛けているが、彼が仲間達を率いているわけではない。仲間達に飄々とした人物が多すぎるせいで、ヴァンやリックが声を掛けなければどこへ向かうかの意思確認が取りにくいだけだ。
 全員の準備が整っているのを見て、ヴァンが頷く。
「よし、それではまた日没に会おう」
 その一言で仲間達が散開していく。周囲に不穏な気配が立ちこめていたため、難敵と遭遇しないようにいつもの三人組から二人組に分けて、散らばって行動することで見つかりづらくしようという案だった。
 砂地を早足で進むヴァンの傍には服部周がいる。
 いささか頼りない。
 忍のような格好をしているが、その実中身はただの青年だ。才能はあるのだろう。大仰な身振り手振りで相手の目を眩ます様は、修行を重ねれば実際の忍術も使えるようになると思える。
「おっさん」
 休み無しで数時間ほど歩いた頃、服部が疲労を含んだ声で呼び掛けた。
「ちょっと休まない? なんかヤバい気配もするしさ」
「気配を感じているのは大したものだが、その方向がわからないのはいかんな」
 怪訝な顔で返す服部に、ヴァンは意地の悪い微笑を浮かべた。
「気配はお前の後方から追ってきている。休みたいか?」
「よっしゃ、急ごうぜおっさん!」
 急に足を速める服部だったが、その努力は敵との遭遇を三十分ほど遅らせただけだった。

「牙蜥蜴と……あれは初めて見るな」
 牙蜥蜴とサンドジェリーと相対する。双剣を構えるヴァンの後ろで服部が魔石を取り出す。
「足が四本の獣と浮いている怪物か。道理で追いつかれるわけだ」
 双剣を構えて敵の間に走り込むと、身体全体を回転させた斬撃を繰り出す。
 だが地べたに伏せている牙蜥蜴とふわふわ浮いているサンドジェリーを同時に狙うのは容易ではない。
 かわされた勢いをそのままに二撃目を繰り出す。しかしやはり届かない。
(足場も悪いがそれ以上に勘が悪い。鈍ったか? こうなったら……)
 ヴァンは牙蜥蜴のみに攻撃を絞ることにした。服部の魔法は思った以上に効果を発揮し、ヴァンの心身を若干ながら回復させていた。
 戦いが終わった時にはヴァンも服部も満身創痍だった。途中、視界がかすみかけたこともあったが、辛うじて生き残ることができた。
「やれやれ、服部の魔法がなければ負けていたな。わずかな回復でも積み重なれば勝敗を覆す力を持つという好例だった」
「これで愛しのあの子の所へ戻れるぜ!」
 ヴァンの言葉も聞かずに目を輝かせて服部は何を思っているのか。恐らく小雨に想いを馳せているのであろう。この男は美人から美人になる可能性を秘めた子供まで、全てに心をときめかせる変わり者だった。
「まったく、小雨の三倍以上の年齢で何を言っているやら」
「そりゃ聞き捨てならないな、あの子は今に凄ぇ美人になるぜ?」
 今はまだ九歳の少女を思い浮かべ、その成長した姿を想像する。たしかに美人だ。美人ではある。が――
「なるとしたら傾国の悪女だろうさ」
 ヴァンはあの少女が時折見せる年齢離れした言動に違和感を覚えていた。服部はヴァンの言葉を前向きに受け取ったらしくにやにやと頷いている。ため息を一つ。
「行くぞ、ぼやぼやしているとまた襲われかねん」

       †

 目印を頼りにヴァン達が合流地点に着いたのは既に日が落ちてからだった。どうやら一番最後だったらしい。
「よう、酷い怪我だな。お前さんにしちゃぁ随分手こずったようだな」
 砂で汚れた白衣をはためかせて、浅黒い肌をした男が歩み寄ってくる。
「そう思うなら治してくれ」
「悪ぃな、今日は疲れてんだ。代わりにこれでどうだ?」
 そう言ってリックは栓の開いた酒瓶を投げて寄越す。
「ふん、悪くない」
 ニヤリと笑って酒瓶から直に酒を飲む。緊張が解きほぐされるのを楽しみながら、ヴァンはもう一口だけ飲んで酒瓶をリックに投げ返した。
「どうも勘が鈍っているようだ。いや、孤島に来るというのはそういうことだと理解はしていたつもりだったんだがな。不覚を取ることが多くなったのは儂の甘さか……。そっちはどうだった?」
 リックは酒瓶をあおりながら肩をすくめた。見たところ彼に外傷はない。
「どうもこうもいつも通りだな。リド嬢ちゃんがずたぼろになっただけだ」
「いつも通りだな」
 既に横になって休んでいるいる女性を見やって呟く。至る所に生傷の痕がある。
「なぜ守りが苦手な癖にあんな露出の多い服を着ているのか……理解に苦しむ」
「さあな、叩くのも叩かれるのも趣味なんじゃねえか?」
「変な奴が多いものだ。しかし儂もそろそろ旅装から鎧に装備を変えた方がいいかも知れん。傷を負うことが多くなってきた」
「遺跡を出てからだな」
「ああ、そのためには明日を乗り切らんとな……」
 ヴァンは急に険しい表情になると、周囲をぐるりと見回した。
「やっぱり何か居やがるのか。何か雰囲気がおかしいとは思ったんだがな」
「今晩中に仕掛けてくるということはないだろう。様子を伺っているといった感じだな」
 近くに気配があるわけではない。だが何かに視られている。
「これ以上先へ進むと仕掛けるぞという警告か? 引き返してやるわけにはいかん。明日に備えて寝るか」
 言うが早いか腰から双剣を鞘ごと抜いて、交差するように地面に刺す。
「今日の夜番は?」
「最初の一時間半は小雨とアゼルとリリィの嬢ちゃん組。次が俺とお前だ」
「了解した。では寝る」
 地面に腰を下ろすと、昨夜と同じように剣に軽くもたれかかってヴァンは寝息を立て始めた。

 夜番をサザンに引き継いでから再度浅い眠りに落ちていたヴァンだったが、夢うつつに翌朝まででは完全には回復できないと感じていた。
 朝になって目を覚まし、やはりその感覚は間違っていなかったと知る。
 疲れは随分取れたし、傷も処置が正確だったらしく塞がりかけてはいたが、完調には程遠い。立ち上がり双剣を腰に差すと仲間達を見回す。サザン達とルヴァリア以外は一様にどこか疲れの残った顔をしている。
 結局ヴァン一行が出発したのは、起床してから二時間も経ってからであった。仲間達と相談して、しばし休んでから発とうということになったのだ。
 歩き始めて一時間ほどが経った頃だった。砂地の左右に壁が見え始める。いくら広くてもここは遺跡の中なのだと感じさせる。
「通路か……」
 誰かが呟く。遠くに砂地の終わりが見える。ここからは暗い通路となる。強力な敵が潜み、立ち止まれば命も危うい。
「ヴァン、これが昨日言ってた奴か」
 リックが嫌な顔をして話しかけてきた。
「一晩待たせたのだ。会いに行ってやろうではないか」
 不敵に返すと、ヴァン達は通路へと駆け出した。
 暗闇の中に力尽きて倒れている者や、今も必死に戦っている者の姿が見え隠れする。
「散らばって一気に突破するぞ!」
 その号令に合わせて、ヴァンの周囲から仲間達の気配が去っていく。傍に居るのはリックとリリィ、そして一応の単独行動を取っているエマールの三人だけだった。
「ヴァン」
 並走するリックが呼び掛ける。
「何日か前に雑草に追われてた小僧の言ってた言葉覚えてるか?」
「この先に小隊が待っているという奴か」
「来やがったな」
「ああ」
 遠くに三人の兵士が見える。ヴァン達は走る速度を落とすと、戦闘態勢を取って近づいていった。
 小隊と名乗るには人数が少ない。恐らく他の仲間達の所にも待ち伏せているのだろう。先ほど隊長らしき人物の影も見えた。
「雑兵の三人程度で儂らを止めるつもりか……片腹痛いわ!」
 ヴァンは双剣を抜くと、裂帛の気合いを叩き付けた。

13日目

 砂を踏みしめる。
 踏み固められた砂が鳴る。
 砂を踏みしめる。
 何度も繰り返される物音に気付き、フェリックス・ベルンシュタインは目を覚ました。
 寝ぼけた目をこらしても、何か黒い影が動いているとしかわからない。
 手探りで眼鏡を探す。たたまれた白衣の上に指を這わせてそれらしいものを掴み、かけてみる。
「なんだこりゃ」
 視界が歪む。度が合っていないのだ。
「それ、リリィのよ」
 かすかな煙草の香りと共に落ち着いた女性の声が届く。リックは白衣の上に置かれたもう一つの眼鏡にかけ直すと、声を掛けてきた女性の姿を見た。
 赤い服を纏った黒髪の女性、エマール・クラレンスだった。
 特に痩せているというわけではないのだが、すらりとした長身痩躯の印象を纏っている。それは性格がもたらす印象なのか、黒く美しい長髪がそう思わせるのかはわからない。だがリックなりに一言で言い表すならば、「いい女だ」で済む。
「なんで嬢ちゃんの眼鏡が俺の白衣の上に置いてあんだ?」
 言いながら、白衣を見ようとしたリックの動きが止まった。
「長ぇ」
 横たわる長身、リリィ・ウィンチェスター。
「長いわね」
 その義姉も長さを認める。
 女性ながらにリックとほとんど背丈の変わらない187cmという長躯。趣味なのか、頭に事典のような分厚い本を乗せてバランスを取り、失敗してこけるという日課をこなしている。それを戦闘中にするものだからたまったものではないが、2m近い位置から降り注ぐ本には必殺の威力があり、偶然そこにいた動物を仕留める事もある。まさに天然という名の凶器であった。
「で、なんで嬢ちゃんがここで寝てんだ?」
 普段ならばリックのペットの傍や、義姉エマールの傍で眠るはずだ。
 だがエマールはリックの問いかけには答えずに、砂の鳴る方を見つめていた。
 無視されたリックは怒るでもなく、ただ寝ぼけただけなのだろうと己を納得させた。
「懐かしい技ね」
 エマールの呟きの先を見る。
 そこには、月明かりに照らされながら一心不乱に剣を振るう男の姿があった。
「寝ないで何やってんだアイツは」
 眠りを妨げられた医者の不機嫌な声が夜闇に溶けた。
「寝ずの番よ。今は私とヴァンが見張りの番」
「ご苦労なこった」
 そう呟いてリックもまた、砂の鳴る方を見つめた。

       †

 身体の重心を左足に集める。
 軸をずらさないまま深く身体を沈める。
 右足を出し、かかとを地面に付けると、かかとを軸に右足の爪先を外に振る。
 小指と薬指が地面についた瞬間、左足を蹴り出して重心を一気に左足から右足に移す。
 外に開かれた右足の爪先に向かって重心が動く。
 それを止めようとはせずに、双剣を持った両手を広げる。
 勢いよく回転しながら前進。身体が半回転する。双剣も身体に付いていくように遠心力を伴って回転する。左足を地面につけ、今度は左足を軸に身体を回転させて、最後に右足で地面を蹴るように踏みしめる。
 下半身の回転は止まったが、上半身と剣はその後の一瞬まで回転が続き、踏みしめられた下半身の力が両手に伝わって破壊力となる。
「まだまだか」
 呟いて構えを解くと、ヴァンドルフ・デュッセルライトはため息をついた。
「今のスパイラルエッジでは単一の相手への連撃でしかない。乱戦を切り開くための技が聞いて呆れる」
 ここ数日の戦いでヴァンは慢心に気付いた。
 元々孤島に来たのは名誉というぬるま湯に浸かっている自分に気付いたからだ。大仰な二つ名や功績ではなく、傭兵たちから孤狼の二文字で呼ばれていた時期の己に立ち返る、それが目的だった。
 目標を持って孤島を訪れ既に十日以上が過ぎている。
 毎日戦いの中に身を置くと、今まではね除けていたつもりだった慢心が身体に染み込んでいたと気付かされた。
 孤島に身を置くというのは、今までの戦士としての自分を一度捨てるということに他ならない。
 戦闘に関わる全ての知識、覚え込ませたはずの身体の使い方、何度も死地を回避した直感、その全てを引き出しに入れて鍵を掛ける。
 鍵を持つのは自分ではない。孤島を作った何者かが、自分の鍛錬に応じて少しずつ少しずつ、引き出しの中に仕舞った戦士としての自分を返してくる。持っていた記憶の無い知識やひらめきも、別の引き出しから引っ張り出して与えてくる。ヴァンは孤島での成長現象をそう捉えていた。
 だからこそ、勘や慣れが封じられている事に気付き、そして自分の技が勘や慣れに頼っている部分があったことを知る。
 スパイラルエッジがいい例であった。
 今までは回転している最中に背中越しに相手の位置や動きを察知し、剣の軌道や身体の動かし方に微調整を加えていた。
 これを意図的にするのであれば慢心ではないのだが、ヴァンは知らず知らずのうちにこれを無意識に行い、当たって当然という気構えになっていた。微調整を加えていたことに気付いていれば、わずかな気配の察知や微妙な力の加減が封じられているので、よほど意識しないと当たらないということもわかっていただろう。
 ヴァンは首を振って雑念を払うと、また左足に重心を乗せて右足のかかとで砂を踏みしめた。

       †

「よく続くもんだ」
 あくびをかみ殺しながらリックが呟く。
 一度目が冴えてしまうと、夜中とはいえすぐには眠れない。寝ようとすれば眠れるのだろうが、何とはなしにヴァンの修行を見てしまっていた。少し離れた所で岩にもたれかかって煙草をふかしているエマールも似たようなものだろう。
「スパイラルエッジだけで、もう三十回はやってるんじゃねぇか? 気分転換とかする気ないのかねアイツは」
「してたわよ」
 リックは懐から煙草を取り出す手を止めてエマールを見た。エマールは月明かりに照らされた艶やかな唇から煙草をはなした。
「ブレィヴェリスを一度だけ」
「んなもんは気分転換じゃねえだろ」
 苦笑しながらポケットを探る。愛用のジッポーライターが見あたらない。
 はたと手を止めて、荷物袋の中を探る。普段は身に付けているが、効果付加を頼もうかと考えて鞄に入れ直していたのだ。
 相手がエマールでなければ、ライターなり煙草の火なりを借りて点火するのだが、彼女にはそうさせない雰囲気がある。頼めば火を貸してくれるのかもしれないが、その雰囲気を壊すのも無粋だろう。
 心地良い音を楽しみながら蓋を開けて火を点ける。オイルの香りも楽しみたいところだが、鼻で空気を吸っても煙草には点火されないのだから仕方がない。蓋を閉じて、焼けたオイルの香りの余韻と共に煙草を楽しむ。
 これこそが気分転換だと、心の中でエマールに主張して視線を送る。
 視線に気付いたエマールと目が合うが、特に何の反応をするでもなく、二人はまたヴァンを見た。

       †

 右足のかかとを地面につけ、かかとを軸に右足を外側に開く。小指と薬指が地面につき中指と人差し指が地面につこうかという瞬間に、重心を乗せた左足を蹴り出し、一気に右足へと重心を移す。勢いは前方ではなく外側に開かれた右足の爪先の方向へ回転力を伴いながら――
「ッ!?」
 右足の周りの砂が崩れる。ヴァンは受け身も取れずに無様に倒れて砂にまみれた。
 疲労が溜まっているとはいえ、何とも情けない姿だった。
 しばらく倒れたままで呼吸を整える。息が上がっていることにも気付かないほど、繰り返して剣を振り続けていた。
「なるほど、こういう時の体勢の立て直しも儂は勘と経験に頼っていたわけか」
 少し落ち着くと、リックとエマールの話し声がかすかに聞こえた。何を喋っているのかはわからないが、どうやら起こしてしまったようだ。
 夜空を見上げる。
 こうして疲れ果てて、夜空を見上げるのは随分と久しぶりのように感じる。
 汗の伝った頬に、夜風で舞い上げられた砂が貼り付く。
「剣気を込めて放ったわけでもないのに、たった七、八十回の型だけで疲れるとは、儂も衰えたものだ」
 四十を越えた傭兵ともなれば、純粋な持久力や体力の面でどうしても若い傭兵に劣る。それでも戦場で活躍できるのは、蓄積された知識や経験、鍛え上げられた勘や技術が若手に比べて圧倒的だからである。
 無駄を省き、力の使い所では大いに使い、殺せる敵はさっさと殺し、そうでないものは流して次を見る。
 そうすることで結果的に若い傭兵よりも長い時間を戦うことが出来る。
 だが、ここは孤島である。
 誰もが同じ位置から鍛え直さなければいけない島である。
 様々な枷でこれまでの経験が縛られた時、残るのは己の身体のみ。
 四十を越えたヴァンには、経験が活かせないとここまで動きづらくなるとは思いも寄らなかった。
「ここにジーン・スレイフがいたら殺されていたかも知れんな……」
 かつて自分の命を狙ってきた魔剣使いを思い出して苦笑する。
 そして、よく彼は瀕死の重傷を負いながら孤島で生き延びれたものだと感心もする。
「負けてられんか」
 立ち上がる。
 砂を払い、剣を構える。
 目を閉じ、意識を眉間に集中させる。
 第三の目があるがごとく、遥か遠くを見るがごとく、目に頼らずに前を見据える。
 目を開くと同時に左手の剣を手首だけで高く投げ上げ、姿勢を低くして疾駆する。
 右手の剣を両手で握り、一瞬の刹那に剣気を高めて剣へと込める。
「破ァっ!」
 風を巻き起こして剣が走る。
 虚空を一閃すると、剣風は一瞬だけヴァンの身体にまとわりつくように外套を揺らし、消えていった。
 一撃の威力を高めながら、己の剣気を味方も分け与えて身に纏う。剣技、ブレィヴェリスである。
 回転しながら落ちてきた左手の剣を受け取ると、ヴァンは双剣を一度回転させて鞘へ戻した。
「天破の境地にはまだ至らんが、歩みを止めてはおらん。いずれ辿り着く。辿り着いてみせるさ」
 笑みを浮かべてすぐに消すと、ヴァンは仲間の所へと戻って行った。

       †

「マジで気分転換になったみたいだな」
 疲れ切ってはいるが、どこか晴れやかな顔でこちらへ向かってくるヴァンを見ながらリックが呟いた。
「そういうものよ」
 誰か他に心当たりでもあるのか、エマールの言葉には確信めいたものが感じられた。
「戻ってきたのなら、私たちの番は終わりね。寝るわ、お休みなさい」
 挨拶を返そうとリックがエマールを見た時には、すでにエマールは寝息を立てていた。
「相変わらずマイペースだな。そう思わないか?」
 苦笑をヴァンに投げかける。
「言葉の意味は解らんが、言わんとすることは解る。起こしてしまったようだな」
「なに、気にすんな。お前もさっさと寝ろよ」
 肩を叩いて労をねぎらう。
「すまんな。では儂も休むとしよう」
 ヴァンは微笑して腰の鞘を地面に刺した。
 リックは煙草の煙を吐き出すと軽く手を振ってさっさと寝ろと指示をした。
「やれやれ、ストイックだねぇ」
 鞘にもたれかかって目を閉じたヴァンを見て、そう独りごちる。
「ま、そういうのも嫌いじゃないがな」
 軽く伸びをして月を見上げる。
「ああ、作り物でも良い月だ」
 今日もまた、遺跡の夜が更けていく。

15日目Fallen Island(堕島)とのリンク日記
  血に沈む

    ずぶずぶと

      ずぶずぶと

        沈んでゆく

  目を覚ますと

    そこは

      夢の中で

  見渡すと

    一面の

      血の海が

        広がっていた

   彼は

一人

     その海に浮かび

赤く染まった世界を

  ただ

    ただ

      傍観していた


 ぬるい風が吹いた気がした


「ジーン・スレイフ・ステイレス……」

 その名を呟いた時

  彼の身体は

   血の海の底へと


       †


 ヴァンは目を覚ますと、赤く染まった孤島を見回した。
 そこかしこで血の匂いがする。
 何かの根源を失った人々が、ひとり、またひとりと夢から覚めていく。
「夢……か」
 ヴァンは己が夢の中で夢を見ていたと知る。
 そしてここはまだ夢の中。
「嫌だ……嫌だ……目覚めたくない」
 目の前でまたひとり、かすれた声で絶望し、現実へと戻っていく旅人がいた。
「ああ……そうだ……俺はこんなじゃないんだ、本当の俺は――」
 歓喜に満ちた旅人が、悪夢から覚めてゆく。
 ヴァンは赤い砂浜を踏みしめて、血で染まった孤島の奥へと歩を進めた。

 悲鳴、また悲鳴。
 そこかしこで死の匂いがする。
「悪夢か」
 夢の中でなおも戦い続ける人の業に想いを馳せながら歩く。
 目的地があるわけではない。
 自然と足が向いたのだ。
「何故俺はここにいる?」
 口に出して、気づく。
「俺、だと?」
 随分前に意図的に捨てた一人称。
 右手を見る。有ったはずの細かな傷がない。
 左手を見る。貫かれたはずの傷痕がない。
 皮鎧を外し、胸板を見る。腹を見る。どこにも傷が見あたらない。
 剣を抜いて、己の顔を映してみる。傷だらけだった顔には、彼の敗北の歴史が見あたらなかった。
「なるほど、負けた事実を消し去った世界か」
 それで俺という一人称に納得がいった。それを捨てたのはある敗北が切っ掛けだった。その事実を消した世界では捨てる必要がない。あるのは自信に満ちあふれた身体のみ。
 ヴァンは声に出してひとしきり笑うと、凄惨な笑みを浮かべた。
「無粋な悪夢よ」


       †


 どくん、と何かが脈打つ音がした。
 ヴァンは足を止めると、赤い世界を見渡した。
 夕焼けではなく、青空を血で染めたような空。
 紅葉したような紅色の木々。
 力尽きて倒れた戦士たち。
 だがそれだけである。
「気のせいか?」
 そう呟いたとき、また、どくんと脈打つ音がした。
 ヴァンは何かに引き寄せられるように茂みをかき分け、奥へ奥へと進んでいった。
 進んでいる最中にも時折脈動が聞こえる。
 背の低い木の枝をかき分けると、少し開けた場所に出た。
 周囲が血だらけでなければ、森の広場といった安穏とした表現が相応しかっただろう。
「待っていたぞ」

待っていたぞ

 血に満ちた広場には、一人の男が立っていた。
 血に塗れた銀髪、血を吸って黒ずんだ青い外套、黒い鎧、血で錆びた長剣。
 ヴァンは相手の緑の瞳に見覚えがあった。だが、彼が口に出したのは意外な言葉だった。
「貴様は誰だ」
 銀髪の男は意外そうな顔をしてヴァンの顔を凝視した。
「傷の消えた貴様ほど、人相は変わっていないつもりだがな」
「阿呆が、形だけで相手を判断するな」
 間髪与えずに言い放つと、相手はヴァンが見たことのない笑顔で忍び笑いを漏らした。
「俺の名を忘れたか?」

違う、こいつは俺ではない

「今ので確信が持てたところだ」
「思い出せ、我が名を」
 男の持っていた長剣が黒く染まる。
「風の領域の中心、風の棲処に座し、立ち入った者全てを殺す権利を持った魔人」
「権利など持たん、それは貴様の傲慢だ」
「命を奪い取る呪われた魔剣を持ち――」
「その魔剣は俺が破り、失われた」
「いいや、あるさ」
 黒く染まった長剣が次第に肥大化する。
「我が黒魔剣はこの手に」

違う、俺が祖父から受け継いだ魔剣はこのようなものでは

「それが魔剣だというのか? まあ確かに魔剣には相違ない」
 子供の身の丈を凌駕するほどの巨大な刀身を軽々と持ち上げる。
 よく見ると、男の腕は二の腕近くまで剣に取り込まれて一体化していた。
 ヴァンは禍々しいその魔剣を見て一笑に付した。
「醜い剣よ」

まったくだ

「黙れ!」
「黙らん!」
 言葉に裂帛の気合いを込めて叩き付ける。
「貴様が魔剣を失ったのは儂に敗れた敗北の証! 儂の傷もしかり。その敗北に目を瞑り、自分は負けていない、強いと思い込むなど逃避の極み。己の敗北に目を背けるな!」
 叫んだヴァンの顔に幾条もの傷痕が浮かび上がる。
「馬鹿な、貴様、その傷は……消えたはずでは」
 男の呟きに、ヴァンは己の傷痕をなぞって確認した。
「ほう、傷が戻ったか。粋な悪夢だ」
 ニヤリと笑って相手を睨む。一瞬呑まれかけた男であったが、すぐに気勢を取り戻した。
「傷がそんなにありがたいか。ならば一生消えることのない、深い悪夢を刻み込んでやろう」
「望むところだ、貴様にそれが出来るのならばな」
 ヴァンが双剣を抜く。男も手と一体化した巨大な魔剣を肩に担いだ。
「名乗りを上げろ」
「貴族の作法か? 偽物がよくもまあ」
「不死の魔人、ジーン・スレイフ・ステイレスだ」

違う、貴様は俺ではない

「違う、貴様はジーン・スレイフではない」

 ヴァンは双剣を構えると鋭い目で魔人を射抜いた。
「奴はそんなに弱くはない」
 魔人は何も言わずに、大人の身の丈ほどまで巨大化した剣を構えた。
「偽物の魔剣にすがる貴様ごとき、天破を持たぬ今の儂で充分だ。さあ、教練の時間だ、稽古を付けてやろう」

 青い影が暴風となってヴァンに吹き付ける。
 風を蹂躙しながら進む魔剣を交差させた双剣で受け止めると、ヴァンは挑発するように笑みを浮かべた。
「なかなか涼しい、心地良いそよ風だ」
 激昂した魔人が剣を振るおうと持ち上げた瞬間、双剣が正確にその胸を切り裂いた。動きが止まった一瞬に、更に二度の斬撃を打ち込む。普通ならば即死である。
「どうした、貴様の二つ名は"風の盗賊"ではなかったのか? 遅すぎるぞ」
 魔人は無言で睨み付けると、身体を回転させながら遠心力で魔剣を振るった。
 ヴァンは身を低くしてその剣をかわしながら男の両脛を斬り裂いた。すぐさま傷がふさがる。
「偽物でもあの魔剣と同じ効果があるのか?」

いや、これは命を吸っているのではない
俺の身体に残されたマナを使って再生しているだけだ

「そうか、違うのか」
「誰と喋っている!」
 魔人が突きを放ってくる。その切っ先の大きさだけで斬撃の範囲を持つような突きだ。
 ヴァンは即座に双剣を防御姿勢に構えると、切っ先を受け流した。
「本物のジーンとだ」
 受け流した際に双剣へ加えられた力を利用して、魔人の胴に横薙ぎの斬撃を叩き込む。

俺の声が聞こえるのか!?

「奴の声が聞こえるのか!?」
 魔人の問いにすぐには答えず、ヴァンは飛び退いて間合いを取った。
「聞こえんよ。そんな気がしただけだ。だが……そうかジーン・スレイフは儂に何かを語りかけていたか。礼を言うぞ偽物、おかげで何かが掴めそうだ」
「ほざけ!」
 魔人が突進してくる。
 ヴァンは斬撃の軌道を見極めようと構えたが、相手に手を動かす気配が無いことに気づいた。
「体当たりかっ!」
 一瞬の差で、大胆にも剣に近い側へ横飛びで回避した。剣と反対側では体勢を崩した所に威力のある斬撃が加えられる。剣に近い方ならば、近すぎて逆に斬りづらい。

凄まじい反射神経だな。経験と勘の為せる技か?

「相変わらず化け物じみた動きだな」
「儂はまだ人間の範疇さ、貴様みたいな無茶は出来ん」
 余裕を見せてみたはいいものの、ヴァンに打つ手が無いのは明白であった。
 何度も致命傷を与えてはいるのだが、まったく効いた様子がない。

いつか俺を破った時を思い出せ。あの時貴様は何をした!

「いつか本物の貴様と戦った時は血が尽きて身体が動かせなくなるまで斬り続けたな」

そうだ、今の俺は魔剣で吸った命ではないが、マナによって動いている

「今の貴様は何度斬っても血が出ん。同じ手は使えない。いや、使えなさそうだ」
「その通り、通用せん」
 魔人も余裕を見せて腕と一体化した黒い大剣を肩にかついだ。
「何を勝った気でいる。儂は使えなさそうだと言っただけだぞ?」
 魔人が言葉の意味を飲み込む前にヴァンの双剣がその咽を捉えた。
 咽に二振りの剣が貫通し、首を切断するように左右に振り抜かれる。
 ジーンの姿をした魔人は即座に反撃しようとしたが、首の修復を一瞬待った。
 その一瞬でヴァンの双剣が閃く。
 今度は大剣を担いだ右腕の脇から肩へと剣が貫通し、同じように腕を肩から切り落とすように振り抜かれる。
「貴様ァッ!」
「うるさい」
 再度双剣が咽を貫く。切り裂くように振り抜く。修復までの一瞬の隙に突き刺す、振り抜く、その傷が修復するまでの一瞬の隙に別の箇所を突き刺す、振り抜く。
 絶え間なく隙を突いて動き続けるヴァンと、斬ったさきから修復する魔人。
 果てることのないかに見えた不毛な作業にも、いつしか終わりが見えてきた。
 ジーンの姿をした魔人に、ヴァン以上の疲労の色が浮かんでいた。
「どうした、回復速度が落ちてきたぞ? 同じ手は通用せんのではなかったか?」
「うるさっ――」
「黙れ」
 双剣が咽を貫く。切り裂く。
 さらに追撃しようとしたところでヴァンの動きが止まった。
「……夢から覚めるのか」
 ヴァンは透けた手の向こうの魔人を見た。
「この悪夢はどうやら貴様にとっての悪夢となったようだな」
「そのようだ」
 咽の傷を修復した魔人が素直に同意する。
「やれやれ、ジーン・スレイフか。奴も難儀な悪夢を見ているようだ」
「それもいずれは覚める」
「では、今度は貴様の悪夢の中で会うとしよう」
「その時は」
「とどめを刺してくれる」

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16日目
 砂にまみれた岩に腰を下ろし、ヴァンはゆっくりと双剣を抜いた。
 偽物の月明かりに照らされた双剣には、粘性の強い液体が付着しており、月明かりをゆがめて蓄えていた。
「剣の手入れか?」
 従僕たる動物に餌をやりながらフェリックスが問いかける。
「……随分と傷んできた」
 フェリックスは何かを言おうとして口を開いたが、少し考える間を置いてから声に出した。
「砂か?」
「それもある」
 孤島に来てからというもの、ヴァンたち一行は通路を駆け抜け、砂地で休息を取り、また通路を駆け抜け、砂地で休み魔法陣を目指すという生活を続けてきた。魔法陣に辿り着いたら一度遺跡外へ戻り、思い思いの場所でひとときの休息を楽しみ、また通路を駆けて砂地で休むという生活へと戻る。
 絶体絶命というほどの危機に陥ったことは少ない。最大のものでも、遺跡に潜ったその日に人狩りを生業とする者たちに襲われたぐらいのものだ。お互い不慣れで手探りな孤島の生活を始めたばかりだったので、何とか退けることが出来たが、充分に慣れてきた今だと遅れを取るだろう。
 その人狩り戦にしても、戦場は砂地であった。
 今までに砂地以外で剣を抜いたのは、小隊を名乗る兵士たちとやり合った時のみである。
 幸いにして刃こぼれするほどの強固な装甲や外皮を持つ敵と戦ったことはない。
 だが鞘に入った砂によって徐々にではあるが剣が傷んでいく。敵の体液でも劣化は進む。
 そもそもが適当な材料で作った急ごしらえの剣ばかりだ。まともなものは、武器を作るのが趣味だという怪しげな少女に作って貰った一振りのみ。それさえも、度重なる戦いと砂による摩耗で切れ味が鈍ってきていた。このままでは今以上の強さを持った敵と戦うには心許ない。
「なんだその赤いの? 血じゃねえな」
 ヴァンが眺めていた剣に付着した液体を見て医者が言う。
「ある意味では血かもしれん。サンドジェリーを斬った時に付いた粘液だ」
「あのオレンジのか。へぇ、こっから見ると月明かりのせいか、血みたいな色だな」
「オレンジ……」
 異なる世界の住人であるフェリックスの言葉は、たまにヴァンの知らない単語が混ざる。
「オレンジは知らんか、柑橘類の一種なんだがな」
「ふむ、見当が付いた。……不思議なものだな」
「異なる世界の言葉なのになんとなくわかっちまうのがか? ヴァンの言葉がわかるのはまだいい方だ、俺としちゃ小雨の嬢ちゃんの言葉がわかるほうが不思議だ。あの嬢ちゃんと俺は同じ世界の違う国の住人だ。あっちにいた時に何度かニュースで日本語を耳にしたがさっぱりわからなかったってのに、この島に来た途端スラスラ意味がわかっちまう。願わくば向こうに戻ったときにも、この能力が残ってて欲しいもんさ」
「稼ぎやすくなるからな」
「馬鹿、単純に日本の医療を理解して取り入れようって向上心だよ」
 そう言うフェリックスの顔は笑っていた。
「ニホン、小娘のいた国か……」
 ヴァンは笑みを消し、小雨が作った方の剣を見た。
「カタナ、というものを知っているか?」
「日本の剣だろ? よく斬れるし何より格好良いってので、俺の国にもマニアやら金持ちにコレクターがいるな」
「儂の使う剣は南の大陸から伝わった刀という物の技術を応用して作ってある」
 自分で打った方の剣を少し持ち上げて言う。続いてそちらを下ろし、小雨の作った剣を持ち上げる。
「そしてこれが小雨の作った剣だ。儂の作った剣よりもはるかに刀らしい剣になっている。どうも小娘の国にもカタナという剣があったというが、この完成度……儂の刀鍛冶の師に近い。小娘の名を書く時のカンジとやらも、南の大陸に伝わる文字とよく似ている」
 フェリックスは興味深そうにヴァンの持つ剣を見ていた。
「ひょっとすると、リックの世界、小雨のいたニホンから、儂の世界の南の大陸に技術が伝わったのかも知れん……」
「世界を越えてか?」
「有り得ん話ではない」
「現に俺たちゃここで出会ってるわけだからなぁ。面白い仮説だ」
「…………行ってみたいものだな」
 フェリックスの知る日本は、彼の母国と同じく文明国だ。ヴァンが夢想する刀を作る鍛冶職人もおらず、刀を使いこなす剣士も既にいない。それが常識である。一握りの技術を受け継ぐ者たちはいるかも知れないが、それもヴァンが望むような技術を持っているのかはわからない。
「案外行けるかも知れんさ」
 だがフェリックスは色んな言葉を飲み込んで、そう笑ってみせた。
「陽子嬢のようなつわものが、小雨のような刀鍛冶が、ひしめいているのだろうな」
 ヴァンの呟きに、フェリックスの笑みが凍りつく。
「ところでリック。気になっていたのだが、同じ国のはずの服部はあのような軟弱者だ。ニホンとやらは女傑の国なのか?」
「あー、まあアマネはニンジャのコスプレをしてるだけだからな」
「コスプレとは何だ」
「偽物ってことだよ」
「だが奴は術を使うぞ?」
 フェリックスの脳裏に、巨大な手裏剣を投げたり、炎の術を使うニヤケ面の男が浮かび上がる。
「…………日本は神秘の国なんだよ」
 彼の知る常識は、たった三人の日本人によって崩壊しようとしていた。

       †

 いつものように双剣を鞘ごと引き抜いて、地面に交差させて刺す。
 ヴァンは交差した部分に腰を当てると、若干うつむき加減の姿勢で腕を組んだ。
 二秒で眠りに落ちる。

 眠りの中で目を開ける。
(ほう、空を飛ぶ夢とは珍しい)
 宙に浮かぶヴァンの目に映るのは、一面の真っ赤な海と、その中心にぽつりと浮かぶ血まみれの島。
(やれやれ、またここか。偽物の孤島の本来の姿なのか、はたまた堕ちた姿なのか……どちらにせよ、狂気が強すぎて気分が悪くなるな)
 ヴァンが意図しないにも関わらず、彼の身体は島の一点を目指して飛んでいく。
(とりあえずは空を飛ぶ感覚でも楽しませて貰うか。………………風を切って飛ぶとは言うが、その風がこうも血なまぐさくては、とてもじゃないが気持ちいいとは言えん)
 五秒で醒めたヴァンだったが、自分がどこへ向かっているのかがわかると不思議と気分が昂ぶった。
 眼下に血にまみれた青い外套がはためいていた。ジーン・スレイフ・ステイレス、斬った相手の魂を奪い取る魔剣を持ち、百年も生き続けている魔人。
(二人いる?)
 ヴァンは目を疑った。狂笑を浮かべる血まみれのジーンの傍に、浮かない顔をしたジーンがいる。ヴァンはその両方を知っていた。
(儂が最初に下したジーンと、その後孤島を生き延びて成長したジーンか?)
 魔剣使いジーンから魔剣を失わせたのはヴァン当人である。敗北し海に逃れたジーンは、海中で魔剣を失って孤島に流れ着き、その島でヴァンの一番弟子ボルテクスらと偶然知り合った。紆余曲折の後、ジーンは魔剣に頼らない戦い方を身に付けてヴァンの元へ現れ、再戦でまた敗れた。
(昨日の夢の続きか?)
 空中で直立不動の姿勢となり、腕を組んで二人のジーンを見下ろす。気がつけば、ヴァンの横には見知った顔と見知らぬ顔が並んで浮かんでいた。
 一人は金髪に無精髭の男、もう一人は赤茶色の髪の少年。
(ボルではないか、どうしてここに?)
 声をかけるが届かない。すぐ真横にいるというのに、まるで聞こえていない。
 よく見ると一番弟子の姿は数年前の年格好だった。
(この格好……こいつが孤島から帰って来た時の姿か? とすると向こうの少年は…………思い出した)
 スリップ・スラップ。それが彼の名前だった。少年に見えるが亜人種なので年齢はヴァンよりもはるかに上だ。
 ジーンの数十年前の友人にして、冒険の最中に命を落としたという男。それが何故か孤島にいて、宝玉の力で生きながらえていたとボルテクスが語っていたのを思い出す。ジーンとの再戦の日、遠くから決闘を見守るボルテクスの横に、確かにこのスリップがいた。
(やれやれ、どうやらこれは浮かない方のジーンが望んだ助っ人か。魔剣に魅入られるというのも大変だな)
 しばらく見ていると戦いが始まった。ジーンと組んでいるのは巨大な斧を持った男と、槍を持った年端もいかない少女だった。
『我が名を唱えよ……』
 二人のジーンが同時に呟く。浮かない顔をしたジーンは、何かを諦めたような雰囲気だった。
『我は不死、我は悪鬼、我は魔人……』
 二人の呟きと同時に、金色の光が血にまみれたジーンを包んだ。
(まるで英傑の持つ威圧感だな)
 ヴァンがのんきな感想を持った時だった。
「ジーン! 手前ぇ何してやがる。魔剣ごときに引っ張られるんじゃねえ!」
 突然声を張り上げてボルテクスがジーンを叱咤する。浮かない顔だったジーンはぴくりとわずかな反応を見せたが、その声はどちらのジーンにも届いたとは言い難かった。
 また、二人のジーンが口を開く。
『我が名を唱えよ、我が名はジーン! ジーン・スレイフ・ステイレス!』
 黄金の光が強くなる。
(どれ、乗ってやるか。儂も折角人間としても剣士としても成長した男の堕落を見るのは気分の良いものではないしな)
 ヴァンは腕を組んだまま微笑を隠すと、弟子に続いて声を張り上げた。
「ジーン・スレイフ! 貴様の魔剣はもはやない。貴様は魔人ではない。ありもしない魔剣の影響を受けるほど、貴様は弱かったのか!」
 浮かない顔をしていた方のジーンが僅かに顔を上げた。血が染みついた外套をひるがえし戦っていたジーンも、見逃すほどの微少な反応があった。
「ジーン、宝玉を集めて俺を生き返らせるんじゃなかったのか? 俺はまだ寝てるよ?」
(どんな説得だ)
 ヴァンは思わず笑ってしまったが、浮かなかったジーンの顔に力が戻ってきていた。どうやら彼にとってスリップは、スリップ・スラップという個人だけでなく、失ってしまった感情や時間の代理人でもあるらしい。
 戦っている方のジーンにも焦りが見える。
「おらジーン、手前ぇ早く正気に戻れや!」
 弟子が叱咤する。
「魔剣に頼った貴様よりも、魔剣を失った貴様の方が強かったぞ」
 ヴァンも続く。
「そもそも俺と旅してた時は、そんな戦うのを楽しんでなかったけどね。ほんとに今のジーンが本来のジーンなのかい?」
 スリップがそう言い終えた時、目に力の戻ったジーンがヴァンたちの方に振り返った。「すまんな、礼を言う」
 どこか寂しげな微笑をほんの一瞬だけ浮かべてすぐ消すと、ジーンは戦い続ける魔人に近づき、そしてひとつになった。
(おかげで自分自身と戦う勇気が出た)
 そんな声がヴァンの心に届いた。
 ヴァンはゆるやかに目を閉じると、薄い微笑をたたえて心の中で答え返した。
(気にするな。己の弱さ、醜さと向き合って初めて前に進める。それには自分以外の力が必要なこともある)

 眠りの外で目を開ける。
 焚き火にくべられた薪の状態から、眠っていたのはほんの数分だと悟る。
(二日続けての不思議な夢か……)
 真っ赤に染まった世界を思い返す。
(悪夢の世界だな)
 二、三度頭を振って、真っ赤な世界を意識から追い出すと、ヴァンはまた腕を組んで浅い眠りの中へと戻っていった。

another side ≫ geryn's diary battle day.19


17日目
 砂を踏みしめて、ため息をひとつ。
 立ち止まると全身に疲労の根が這っているのがよくわかった。
 振り返って仲間たちに目をやると、やはり彼らにも疲労の色が見て取れた。
「限界か」
 通路地帯を駆け抜け、砂地で夜営。翌日一日かけてゆっくりと砂地を移動し、また通路地帯を駆け抜け、砂地で夜営。夜が明ければまた砂地を移動し、通路地帯の前で夜営。起きたらまた砂地に出るまで通路を駆ける。それが、彼らの遺跡生活だった。
 あまりにも代わり映えのしない毎日。ここ数日は出くわす敵もほぼ同じで、探索当初の緊張感も保てなくなってきている。
 魔法陣を見つけるたびに、魔法陣への登録を済ませて遺跡外へ出るようにはしているが、潜ったところでまた同じ生活の繰り返しでは精神的な疲労が溜まる一方だった。
 最後に外の空気を吸ってから既に五日。仲間たちの限界は見えていた。ヴァン自身も余裕があるわけではない。ヴァンやサザンのように前線で敵の攻撃を阻む役目は、後ろで魔法などを使う面々に比べて疲労の蓄積が早いのだ。
 ただでさえ彼ら一行は女子供が多い。本来ならば探索は四日程度に抑えて常に全力で戦える環境を整えた方が良いのだ。休み休みとはいえ通路地帯を駆け抜けるのもなかなか骨が折れる。あまり長時間休んでいては通路に棲息する敵に襲われるし、何よりも急いで移動しなければ通路の途中で日が暮れてしまう。人員を選別すれば通路で戦うことは可能だが、戦力に差が出ないように三人組を編成しているため、どうしても穴はある。どこかが負ければ残る三組にも影響が出る。無茶はできないのだ。
 かといって砂地の敵はリックのような獣使いには役不足らしく、強い敵を飼い慣らすためにも危険な場所でも留まりたいという思いが見え隠れしていた。強敵との戦いや、それで得られる物を求める衝動はヴァンや他の仲間にもある。
 少し遅れていた仲間が追いつくのを待って、歩を進めるのを再開する。
 足取りは軽くない。仲間の足音が疲労を伝える。しんがりを任せているサザンの快調な足音が先頭のヴァンにまで聞こえるのがその証拠だ。
「もう少し歩いたらまた通路地帯に出るはずだ、その手前で夜営の準備と行こう」
 振り返って声をかけると、いくつかの笑顔が返ってきた。皆、表だって疲労を見せようとはしない。それだけに、限界が近いとわかるのだ。
「今までの例だと、今日辺り魔法陣に付けるかも知れん、気張れ」
 またいくつかの返事が返ってくる。今度は声の底に活力が見えた。

 日が傾き始めた頃、不意に砂地が終わった。
 先頭で立ち止まっていぶかしがるヴァンの元に仲間が集まってくる。しんがりを務めていたサザンや頭脳労働を担当する最年長のリックも砂地がいきなり途切れたことをいぶかしがっていた。
「どう見る?」
「いつもはもう少し砂地が続いてから床だったんだが……」
「床の終わりに魔法陣というのがお決まりだったが、歩いてきた日数を考えるといきなり魔法陣ということもあり得る」
 ほんの数分の戦略会議。その間にも意識は外敵を捜している。
 結論はすぐに出た。サザンが再び全員の後ろに回ると、ヴァンを先頭にして一行は床を踏みしめた。
 何日繰り返しても、毎回床に足を踏み入れた時には違和感を覚える。ずっと柔らかく不安定な砂地を歩き続けていきなり硬い床に変わると、感触が変わりすぎて感覚が混乱するらしい。気にならない者もいれば順応の早い者もいるのだが、全員が平気というわけでもないので、ヴァンが先頭を歩くときは通路地帯に入ってすぐは少し歩をゆるめる事にしている。無論その後で慣れてきたら急いで通路を抜けるわけなのだが。
「……おかしい」
 ヴァンが呟くと少し後ろを歩いていたリックがそれに気づいた。
「何かあったか?」
 近づいてきたリックは手ぶらだった。どうやら荷物は全て飼い慣らした動物の背にくくりつけるという体力の温存方法に思い至ったらしい。
「禍々しい気配を感じるのだが……」
「床の敵って奴か、話には聞いてるが強いらしいじゃねえか」
「いや、違う。この周囲からは感じないのだ」
「は? 何言ってんだお前?」
 ヴァンは歩きながら周囲をゆっくりと見回した。
「やはり違う。この辺りはむしろ落ち着いた空気だ。通路のように淀んではいない。だが何者かの敵意が儂らを捉えている」
「人狩りか」
 忌々しげに舌打ちをしたリックの言葉に首を振る。
「違う。あれほどギラギラしてもいない。からみつくような敵意だ。強敵がここにいる、向かってきてみろとでも言うような……」
「おい、それはまさか」
「守護者かも知れん」
「ついに来やがったか! この前外に出た時に宝玉手に入れた奴がいるとか聞いて、俺らも早く守護者サマに会いたいと思ってたんだ」
 医者という割りには好戦的な男である。
「リック、お前は自分たちが満身創痍だと気づいていないのか?」
 呆れたように批難の色を含める。リックもそれを感じ取ったのか神妙な顔つきになった。
「俺は医者だぜ?」
 だが、すぐに不敵な笑みが浮かぶ。
「多少の無理をさせる方法なんぞいくらでも思いつく」
 やはり好戦的な男だった。
 首を振ってため息をつくヴァンだったが、ふと何かを見つけて立ち止まる。目を懲らすと暗い通路にうっすらと明かりが見えた。床に棲息する敵のなかには光球の魔法生命体などもいるため、慎重に目をこらして正体を探る。
「魔法陣だ」
 口を突いて出た言葉は普通の声量だったが、仲間全員に聞こえたらしく皆が先頭のヴァンに追いつくよう歩を早めた。

       †

「落ち着くなぁ」
「落ち着きますねぇ」
 うっすらと光る巨大な魔法陣の中で、服部とアゼルという不自然な絵面が並んで茶を飲んでいた。
「何をやっているんだあいつらは?」
「アマネがお茶に誘ったらしい」
 二人から少し離れて、ヴァンとリックが酒を飲んでいる。
「服部が? あいつは幼女趣味だと思っていたが、お稚児趣味まであったのか」
「いやぁ、ありゃ普通に茶を飲んでるだけだろ。それにアマネが言うには別に幼女趣味じゃないらしいぞ?」
「その手の奴は皆そう主張する」
「野郎が小雨の嬢ちゃんに粉かけてんのは、将来すげぇ美人になるから先行投資してるってことらしいが」
「美人になろうが、腹に黒いものを溜め込んだ悪女ならば意味はない。疲れる上に隙を見せたら寝首を掻かれる」
 不機嫌そうな顔で杯をあおる。
「そりゃ経験から来るありがたいお言葉かね?」
「ほざくな、お前も身に覚えがあるだろう」
「……無いとは言えんわな」
 そう言ってリックも杯をあおった。からになった所にヴァンが酒をついでやる。
「服部もいずれ身にしみるだろう」
「しみてから後悔するわけだな」
「それも人生の経験よ」
「違いねぇ」
 笑いあって他の面々を見回す。
「サザンの兄さんは両手に花っつっていいのかね?」
「花は手入れが大変だ」
「まあ大変そうだわな。笑顔の裏に疲れが見えてら。嬢ちゃんがたは気づかないのかねぇ」
「気づくのと気を遣うのでは話は別だ」
「スフィ嬢はちょっと天然入ってるから普通に気づいてないんじゃないか?」
「天然の花はもっと手入れが大変だ」
「何言ってんだお前は、酒呑め酒」
 からになった瞬間に酒が補充される。ヴァンはゆったりとそれを口に運んだ。
「天然と言やぁ、天然組は何してんだ?」
 リックが視線をやった先には小雨とリリィら女性陣が談笑していた。
「エマールとディーネは天然とは言わん」
「それを言うなら小雨とリアの嬢ちゃんコンビも天然とは言わねぇだろ」
「あれは腹黒というのだ」
「腹黒だな」
「ああ、まったく腹黒だ」
 女性陣を見ながら酒を呑む。少しの沈黙を破ったのはリックだった。
「考えたらよ、リアの嬢ちゃんは腹黒とは少し違わねえか?」
 ヴァンはリアの顔を見て少し考えてから頷いた。
「そうだな、外見が幼いから小娘のように歳不相応の腹黒さを隠しているように見えるが……」
「実年齢を考えりゃ、大人が持ってて当然の社交術に過ぎないのかも知れないよな」
「まあ多少腹黒いのは確かだろうが、取り立てて言うほどのものでもないな」
「だな。あの黒さを薄くしたらディーネの嬢ちゃん、濃くしたら言わずもがなか」
 苦笑するリックの言葉に短く頷いて酒を呑む。
「リリィの嬢ちゃんは天然だよな」
「ディーネやアゼルと並ぶほどの純真さだな」
 比較対象が両方とも子供なことには二人とも違和感を覚えなかった。
「ん、今日はエマールもいるのか」
 リリィの義姉であるエマールは、ヴァン一行と常に行動を共にしているわけではない。一人で気ままに探索をしている。ほぼ毎日一行の前に姿を現し、戦闘ともなれば義妹に手を貸すこともあるので、ほとんど一行に数えても良さそうなものだが、恐らく本人がそれを嫌がるだろう。
「エマールか、儂の弟子が頭が上がらんとぼやいていたな」
「わからんでもないがね、特にお調子者だとため息ひとつで畏縮してしまいそうだ」
「そうとも言えん。あっちのお調子者はため息ごとき無視するぞ」
 ヴァンが顎で指した先には、動く元植物生命体がいた。植物なのに手足が生えて動くだけでなく、既に死んでいるのにまだ動く。しぶといにもほどがあるとうもろこしだった。
「何やってんだありゃ?」
「恐らくセファリッドに茶を作って貰っているのだろう」
「あん? あのサド嬢ちゃんがお茶? そんな女らしいことできたのか」
 唐土は紅茶を嗜むと自称している。だが彼が紅茶の準備をしている姿を見た者はいない。
「紅茶か、わけて貰ってブランデー入りの紅茶にでもするかな」
「紅茶入りブランデーの間違いだろう。それにやめておけ、恐らくお前が考えている味にはならん」
「どういうこった?」
 リックの疑問はもっともである。ヴァンはすぐには答えず、目を瞑って薫りの強い酒を口に運んだ。咽を潤し、短くため息をつく。
「セファリッドが持っているものをよく見てみろ、茶葉に見えるか?」
 リックの位置からは少し見ただけではセファリッドの背中しか見えない。意識して初めて手に何かを握っているのがわかる。
「なんだありゃ? なんかオレンジ色の…………げ」
「酒に入れたいか?」
「おい、あれやっぱり……」
「儂が斬ったサンドジェリーだな。奴らはラクダとしか戦ってないはずだ」
 無表情にそう言って酒を呑む。絶句するリックをちらりと見てから、ヴァンは言葉を続けた。
「さっきはラクダのコブを絞っていた。案外美味いかもしれんぞ?」
「コブってお前、どんだけ握力あんだあの嬢ちゃん」
「毎日成長し続けているらしいぞ。試しに握って貰ったらどうだ?」
「いや、遠慮しておこう……」
 げんなりとした顔のリックに黙って酒をついでやる。
「まあ儂の戯れ言だ、気にするな。唐土が敵を見つけるたびに美味い紅茶が飲めると喜び、闘技大会などでは紅茶が飲めんと嘆いていたというだけだ。ただの推測、よた話よ」
 笑ってみせるヴァンだったが、もはやリックの脳裏には夜な夜な生き血を絞って飲む植物生命体の姿しか浮かばなかった。
 そうして魔法陣の夜は更けていく。来るべき強敵との戦いを予感しながら……。

18日目
 岩肌を駆け下りてきた風に外套をはためかせ、ヴァンドルフ・デュッセルライトは眼前にそびえ立つ山を静かに睨んでいた。
 まだ夜は明けない。眠る仲間に背を向け、意識を研ぎ澄ませて外敵の気配を探るが、どれだけ探っても周囲に動物の気配は感じられなかった。それでも、ヴァンの意識は山に向く。山の上から殺気を放つ何者かに向く。
 内心の焦りと不安を微塵も表情に出さず、ヴァンはひたすらに山を睨み続けていた。
 風が強い。

       †

 魔法陣を越えた先に広がる通路、その脇道にそびえる山に何者かがいる。
 眼下をうごめく人間たちに自分はここにいると誇示するがごとく殺気を浴びせ、待ち受けている。
 風の噂には、すでに幾人ものつわものが挑み、敗れたと聞く。
 ヴァンたちは数日前に遺跡外で噂になっていた「宝玉の守護者」が自分たちの前にも現れたのだと悟った。
 ある者は言った、「負けることがわかっていても、戦って初めて相手との差が見える」と。
 ある者は言った、「負けることがわかっているのだから、力を付けてから挑むべきだ」と。
 どちらも正しい。
 ヴァン一行は夜営で激論を交わした。皆、共通していたのは敗北を前提にしているということだった。
 結局、戦いに敗れても死ぬことのない現在の孤島ならば、負け戦で得る経験もあるということで挑むことになったのだ。
 ため息をついて、ヴァンは組んでいた腕をほどいた。山肌から吹き付ける夜風は冷たい。
「勝てると思うか?」
 声を掛けられて初めて、フェリックス・ベルンシュタインが起きていたことに気づく。振り向くと皆が寝ているそばでリックが酒をついでいた。
「冷えるだろ、飲め」
 ヴァンは厚意を受け取るためにリックへ歩み寄ると岩陰に腰を下ろした。受け取った酒杯を口に運び身体の芯を暖める。じわりと広がる熱が、冷えていたのだと感じさせた。
「んで、どう思う?」
 一息ついた所で最初の質問を繰り返す。
「わからん」
 それがヴァンの正直な感想だった。
「明日もいつもどおり四組に分けるが、この感じだと四組それぞれに時間差で襲いかかってくるだろう」
「宝玉を守ってるくせに、全員にチャンスをくれるたぁ太っ腹だ」
 ぴくりとヴァンの眉が動く。相変わらずリックが使う異世界の単語は所々でわからないが、会話の流れで理解する。大体の言葉が通じるだけでも吉とするべきなのだ。
「宝玉か、本当に宝玉を持っているとは限らんが、全員にくれるというわけでもない」
 ちらりと眠っているディーネとアゼルを見る。まだ幼い双子の姉弟は、常に二人で協力して戦っていた。
「ああ、確かにあいつらは二人で一人という扱いみたいだな。どうも三人までしか認識しねぇってのがこの島のルールらしい」
「……ルール」
「決まり、規則だな」
「ああ、諒解した。しかし決まりに従って動物や敵が襲いかかってくるというのも妙な話だ」
「俺は知らねぇが、孤島ってのはそういうもんなんだろ?」
「この島ではな。儂がいた孤島や、ボル……弟子のいた孤島では二人一組が基本だった。敵も移動中でもこちらが弱いと見ると強襲をしかけてきたものだ。朝昼晩と三度もな。数にしても多かった。遺跡の外だろうがなんだろうが毎日戦って、勝って、その肉を食わんと餓えていく。餓えればどんどんやせ衰え、そして死ぬ」
「……何度聞いてもえらく現実的だな」
 リックは何かを思い出すように眼を細めた。ヴァンもかつての孤島や、そこに至るまでの傭兵生活を思い起こす。
「それが当たり前で、この島が規則的過ぎるだけだ」
「気味悪いぐらいにな」
 リックの言葉に頷いて、ヴァンは遺跡外で酒場を開いている弟子との会話を思い出す。
 何者かが明瞭な意図を持って作った遺跡、謎の伝説、見え隠れする悪意、ヴァンや彼の弟子が知るかつての孤島を模倣したような世界。
「偽物の孤島……」
「あん?」
「……いや、気にするな」
 何かを振り払うように軽く頭を振ると、酒杯にわずかに残っていた酒を飲み干した。
 しばしの沈黙、だが静寂は訪れない。虫の音が聞こえるわけでもなく、ただただ吹きおろす風の音だけが聞こえていた。
「勝てるか、という質問だったな」
 風の向こうにいる敵をひと睨みして、からになった酒杯に厳しい表情で視線を落とす。
「可能性は低いが、無いわけでもない」
 言葉を切ると、リックが視線で続きを促す。
「サザンたちはスプルエアが先に倒れず回復を続け、なおかつサザンたちの攻撃が当たれば可能性はある。儂らもそうだ。単純にお前の回復魔法が、儂とリリィが受ける攻撃を上回れば良いのだ。無論避けるつもりだが……」
 ヴァンは山肌をちらりと見た。
「この風、もしこの殺気の主が宝玉の守護者だとすると、風の守護者かも知れん」
「そういうもんなのか?」
「断言は出来んがな。儂の弟子が孤島を旅していた時は、火の宝玉の守護者は異常に暑い砂漠地帯で待ち受けていたという。己の持つ宝玉に合わせた土地で守っているのか、それとも宝玉があるからそういう土地になるのかは知らんが、傾向としてそういうことはあるようだ」
 ヴァンの言葉を肯定するように風が一際強く吹き、岩肌から砂を舞い上げる。
「守護者が風ならば、儂は避ける自信はない。真正面から受け止め、耐えるしかない。リリィもそうだろう。儂らが耐え、当てて、お前がしっかりと回復する。情けないがこれしかない」
「責任重大だが、なんとも絶望的だな」
 肩をすくめるリックに、ヴァンは重々しく頷いた。
「恐らく儂らが一番勝率が低いだろう」
「小雨の嬢ちゃんの所とか、リアの嬢ちゃんの所よりもか?」
「小娘の所は、小娘と服部の脆さが際立っているのと、攻撃を当てれんのが問題だ。だが、セファリッドの耐久力に加えて、服部が最近ものにした忍術がある。特に相手が風ならば、儂らにとっては厳しい相手だが、服部ならば風が苦手とする類の術を使える」
「大穴ってわけか」
「小娘も脆いが……昨日の手合わせで喰らった技は可能性がある。まあ分の悪い賭けだがな」
「相性によっちゃ可能性は高いってこったな」
「その相性を見極めるための無謀な戦よ」
 傷だらけの顔をニヤリと歪ませる。
 今まで幾度となく戦い、勝ち、負けてきたとその傷が教えている。
 待ちかまえているであろう守護者に挑むかどうかという激論を交わした際、声高に無謀な戦いを主張したのもこの男であった。曰く、命を落とさない戦いであれば、挑んで負けることも重要であると。
 命を落としかねない戦いに全力で挑み、無論勝ちもしたが負けもしたのがヴァンである。その度に消えぬ傷を負い、死線を越え、地面を這いつくばりながら立ち上がってきた。その負けの経験こそが、己をさらなる高みへ押し上げてきたという自覚がある。だから彼は周囲を鼓舞して負け戦へと向かったのだった。
 リックはそんな戦いに付き合わされることに苦笑を浮かべてから、諦めたように首を振った。
「これで俺たちだけ負けたなんてことになったら置いて行かれるぜ?」
「いずれ追いつけばそれで良い」
 ヴァンは腰から双剣を鞘ごと抜いた。そろそろ見張りを後退する時間だ。次の夜番は目の前の男なので起こす必要もない。リックの方はすぐにヴァンを寝かすつもりはないらしく、もう一杯どうだと酒を勧めてきた。ヴァンも一杯だけだと応じて酒杯を差し出す。
 琥珀色の液体に偽物の月が映る。
 時折流れる雲は、地を這う風とは違いゆっくりと雄大に流れて行く。
 杯を傾けて月を飲む。良い薫りがした。
「リアの嬢ちゃんの所はどうなのか聞いてなかったな」
 思い出したようにリックが聞いてくる。
 ヴァンは酒杯から口を離すと、偽物の空に浮かぶ月を見上げて答えた。
「あそこは……難しいな」
「勝てねぇか」
「いや、そうではない。説明が難しいのだ」
 ちびりと酒杯を傾ける。
「リアやディーネたちは、ある意味で正統派だ」
 小柄な双子は相手をかく乱して攻撃を避け、扱いづらそうな槌で殴りつける。
 生命亡き者の王を自称する植物不死生命体はひたすら耐え、自己修復し、拳で殴りつける。
 そして小柄な魔術士の女性は、戦闘となれば何故か少女に戻り――とは言っても背格好は変わらないが、後衛からの圧倒的な火力で破壊の限りを尽くす。
 変わり種の四人組に見えるが、やっていることは至極真っ当な戦い方なのだ。
 全員小柄なのでそんな印象を受けにくいが、ヴァン一行で最大の攻撃力を誇るのは彼女たち四人だった。
 リックも闘技大会でのルヴァリアの暴挙を思い出したのか「ある意味でな」と含みのある言い方をして頷いた。まさかあのような少女が前回の闘技大会で破壊力が七位と表彰されたなど、誰も信じられないだろう。実際に彼女が戦っている姿を見ない限りは。
「リアは今回の戦いのために戦略を練ったらしい。上手く行けば奴らは勝てるかも知れん」
「その割りには自信が無さそうだな?」
 リックの指摘にヴァンは深々と頷いた。
「難しいと言っただろ。奴らは上手く行けば強いが、下手をすれば最も早く負ける組でもある」
 十一歳の双子、ディーネとアゼルは避けることに関してはヴァン以上の技術と勘の良さを持っているが、やはり子供だ、敵に捉えられればそこまでである。
 唐土は黙って戦っていれば長期戦でも一人で耐え抜く猛者なのだが、調子に乗って危険な技を連射して自滅していく光景がよく見られる。
 リアは元々小柄な上に、魔術士として戦う時には若返って十二歳の少女になってしまう。
「やはりリアがどれだけ破壊の限りを尽くせるかだが……」
「あの嬢ちゃんだと万が一相手の攻撃をまともに喰らえば一発で落ちかねんな」
「だから難しいのだ。……まあ儂らの勝ち目が薄いことは揺るがんから、他人に気を取られている余裕はないのだがな」
「違いない」
 苦笑をかわした後、ヴァンは岩陰から立ち上がって己の寝場所を探し、いつものように剣を背もたれにして浅い眠りへと旅立った。

       †

 時折吹く突風に飛ばされないように身を縮める。
 背丈の小さい者たちはお互いの腰に縄をくくりつけている。
 草木も少なくなって久しい。登り始めた頃はちらほらと見かけた緑も最早無く、山はいよいよ純然たる岩山となってきた。
 日が高くなってきた頃、ヴァンたちの前に一本の枯れ木が現れた。五つに分かれた大きな枝が道しるべだとでも言うように、五つの道がその後ろに続いていた。
 気づけば風はぴたりとやんでおり、不気味なまでの静けさが彼らを包んでいた。
 一行は顔を見合わせるとお互いを結んでいた縄をほどき、戦闘時の隊列に組み替えて四つの道をそれぞれ選んで進んで行った。
 ヴァンの後ろにはリックと従僕、その後ろにエマールとリリィが続く。
 少人数の部隊にわけて更に一時間ほど登った時だった。
 突如頭上から風が叩き付けるように吹いてきた。
「来るぞ!」
 ヴァンが抜剣しながら頭上を睨むと同時に巨大なランスが閃いた。
 双剣でランスを弾きながら飛び退く。強襲してきた敵が立ち上がる。銀の鎧に身を包み、巨大なランスを構えるその姿は年若い女性だった。
「貴様が守護者か?」
「くだらん前置きはいらん……消えろ」
 今、激闘の幕が上がる。

Battle Phaseへ


19日目
「くだらん前置きはいらん……消えろ」
 頭上から奇襲をしかけてきた巨大な槍を持った女は、そう言い放つと大きく飛び退いた。
(助走? いや……)
 奇襲の後だというのに一旦間合いを離す意味を考える。瞬時に浮かんだいくつかの可能性を、相手の雰囲気、一挙手一投足で打ち消し絞り込んでいく。結論が出るまでに僅か二秒。
「遠距離攻撃か! させんっ!」
 ヴァンが駆け出したのに一拍遅れてリリィも走り出す。ヴァンのような戦いの経験による判断ではなく、本人の頭の良さや勘で同じ結論に至ったのだろう。背後ではリックがヴァンたち二人に強化魔法を詠唱し始める。
(僅かに間に合わん、ならば!)
 抜いた双剣を握ったまま、自由になる指でいくつかの印を描く。
 僅かに指が痺れていると自覚する。先ほど双剣で奇襲をはね除けた際の衝撃が未だに残っているのだ。
 通常の槍ならばまだしも、騎士が騎馬突撃用に使う巨大な槍だ、本来騎士が単身で使う物ではないし使える物でもない。それを軽々と振り回す膂力に加えて、ヴァンに反撃を許さずに飛び退く反応速度と瞬発力、まともに打ち合えば今のように防御しても痺れが伝わる。
「これで麻痺を防げるとは思わんが……ものは試しか」
 練り終わった技を解き放つ。身体中の隅々にまで意識が伝わって行くのを感じた。全身を意識で制御することにより、抵抗力を高めるという戦技である。乱戦になりやすい戦場での戦いに身を投じる際の奥の手であった。
 無論奥の手であるからには普段使わない理由もある。全身を制御する意識を通常以上に微細にするため、その状態で戦うにはかなりの集中力を要する。そうなれば同じよう微細な身体制御が必要となる高等な剣技を使うための集中力や精神力の余裕がなくなってしまうのだ。
 本来はこのような多対一という有利な状況で使う技ではないが、毎合打ち合うたびに手に痺れが残っていては意味がない。それ以上にこの相手には多対一という状況でさえ有利とは思えなかった。
 最初から負ける覚悟は出来ている。だが、負けるにしても全力で戦って次に繋げる敗北でなければ意味がない。
 並走するリリィも武器としている分厚い本の持ち方がいつもと少し違う。彼女もなにか技を狙っているのだろう。
 前方に渦巻く風を感じた。どうやら女騎士は風をまとっているらしかった。
(風をまとうか、ジーン・スレイフを彷彿とさせるな)
 かつて戦った風の異名を持つ魔剣使いを思い出し、脳裏に仮想敵として鮮やかに描く。あの速さを覚悟しておけば、目の前の女騎士がいかに早かろうと動揺することはないと考えたのだ。
 女騎士が槍を突きの姿勢に構えた。槍が届く距離ではないが、自ら距離を取っての行動だ、届かせる手段があるのだろう。まだヴァンの間合いには遠い。避けるしかない。
「死んでしまえぇぇッ!!」
 叫びと同時に三つの閃きが空を裂く。
「ッ!」
 避けようと身をひねったが避けきれない。予想していたよりも更に速かった。
 リリィはまともに喰らったらしく体制を崩している。二人の後ろから走ってきていたリックの使役する巨大ハムスターなどは、いきなり見えない攻撃に吹っ飛ばされて何が起こったかわからず混乱しているようだった。
 背後からリックの声が聞こえたかと思うと、濁った色の瘴気が女騎士を襲った。猛毒の瘴気で敵を包む牽制技だ。
(……風に阻まれているか)
 一瞬期待したヴァンだったが、女騎士を包む気流が瘴気を阻んでいるのを視認した。
(だが足止めにはなった)
 間合いに入る。初撃から大技を放つつもりで構えた刹那、女騎士は走り寄るリリィの方へ僅かに飛び退いた。反応が遅れる。
「我がランスに敵う者など存在しないッ!」
 威風堂々の蛮声を上げると、女騎士は巨大な突撃槍を頭上に振りかざして激しく回転させた。
 風が暴風となって接近していたヴァンだけでなく後方にいたリックにまで襲いかかる。
 暴風の一撃を受けて僅かにひるむが、耐えられないほどではない。
「猪突では当たらん」
 襲い来る二撃目を見切って虚勢を張る。直接攻撃ではない上に目を開けているのも難しい暴風と砂埃だ、恐らく相手も攻撃が当たっているかの判断は付いていないだろう。虚勢にも意味がある、そう思いながら三撃目を耐える。
「無駄な足掻きだッ!」
 虚勢に逆上したのか、女騎士は巨大な突撃槍を更に回転させた。
 風力が強すぎて避けづらいが、女騎士も暴風を送り出している間は動けない。確実にヴァンやリリィの間合いに捉えようと思うと、この攻撃に耐えながら間合いを詰めるしかないのだ。
 巨大な風の塊が防御姿勢を取っていたヴァンの双剣にぶつかる。手が痺れそうになるのを感じて防御を解き、あえてその身で受ける。麻痺して次の攻撃や回避に影響するよりは、この一撃を耐える方がましだと判断したのだ。不幸中の幸いか、これを受けて歩みが遅れたために次の一撃は僅かにヴァンの鼻先をかすめただけだった。
 砂埃を踏みつぶす。
 ヴァンは女騎士を間合いに捉えた。
「リリィ、当てろよ!」
 ねらい澄ませていた一撃を振りかざす。女騎士が生み出した風の一部がヴァンやリリィを包む。
(風を味方に付けるのは貴様だけではないっ!)
 風に押されて加速した刃が女騎士のまとう風を押し分ける。刃が女騎士の脇腹を守る鎧の淵に当たる。
(砕けっ!)
 力を込め、鎧の淵を砕いて無理矢理胴に斬撃を通す。
 鎧の下に着込んでいた鎖帷子に阻まれてはいたが、痛手だったことは女騎士が表情をゆがめたことからも見て取れた。
 体勢が崩れた女騎士の背後にそびえ立つ長身。暴風のせいか眼鏡がずり落としたリリィが辞典を振りかぶっていた。
 長躯から振り下ろされる辞書の一撃、ヴァンも最初は甘く見ていたが、恵まれた長身から振り下ろされるあまりにも分厚く重い辞書は、凶器として充分な破壊力を持っている。だが、眼鏡をずらしたままで狙いも定まらず、しかも手が痺れているのか力もこもりきっていない一撃では当たらない。
 女騎士は体勢を崩したまま回避すると、一歩跳びすさって体勢を立て直した。
 僅かな隙を突いてリックが全員に回復魔法を掛ける。リリィは手の痺れが収まったらしく、しっかりと辞書を握りしめた。
 ほんの数瞬の間。先に動いたのは女騎士だった。
 軽く跳びすさりながら両手を広げる。
「さぁ同志よ、力を解き放ちその姿を現せッ!!」
 風が集結する。
「召喚だとっ!?」
 シルフがその姿を現す。この孤島に来てから今までで最強の敵はこの女騎士だったが、それに次ぐのはこのシルフだろう。風がより強くなった。
 女騎士は召喚で力を使いすぎたのか、動きが鈍っている。好機といえば好機だったが、ヴァンは妙な気配を感じて攻めあぐねた。
 注視していると、砂塵が女騎士に向かって吸い込まれて行くのがわかった。
(砂、いや、風を吸っている? 身体で?)
 奇妙な現象に途惑うヴァンだったが、昨夜仲間と交わした会話が脳裏に浮かんだ。魔術士の少女リアは、光の持つ力自体を取り込んで己の精神力を回復させる技があると語っていた。そしてそれは火や水、風でも同様の事が出来ると――
「回復などさせん!」
 ヴァンは身を低くして駆け出すと、シルフの脇をすり抜けて女騎士に切迫した。
「怨牙侵身!」
 双剣が閃く。女騎士の身体を捉えた剣は、血を跳ね上げながら振り抜かれた。その血が黒い瘴気となって女騎士とシルフに染み込んでいく。
 リリィが即座に技を展開し蜃気楼を発生させる。それを受けてリックが再度全員に回復魔法を掛けた。連係の速度が上がってきている。
 女騎士は黒い瘴気による衰弱作用に耐えながら精神を集中させているようだった。
 シルフが双腕で風を起こすが、ヴァンとリリィはそれを回避して女騎士に肉薄した。
「怨牙猛追!」
 右側からヴァンが双剣を振るう。女騎士を斬り裂いた切っ先から血が飛び、また黒い瘴気となって女騎士を襲う。
 それとほぼ同時に左側からリリィが辞書を振るう。単純に振り下ろされたかに見えた攻撃は、手元で細かく変化しながら女騎士の脳天に落ちた。
 女騎士はさらに精神を集中させようとしている。
(これは……こいつの癖か。逆境に慣れてないのか、大技狙いが好きなのかは知らんが、敵に追い込まれてなお打開せんのは経験不足よ!)
 シルフが風の刃を生み出しリリィに斬りつけ、そのままヴァンにも風の余波を叩き付けてくる。だが二人は怯まない。ようやく見えた勝機を見失うわけにはいかない。
「孤狼の牙を受けてみよ!」
 背を打たれて体勢を崩しながらも、渾身の一刀を振る。意識が身体を制御する。ヴァンは不安定な体勢のまま残る一刀を振り抜いた。その直後にリリィがまたも女騎士の脳天を辞書で叩き付ける。そうして出来た隙を狙ってリックが全員に回復魔法をかける。ここにきて連係はかなりのまとまりを見せてきた。
 精神集中を終えた女騎士が槍を構える。
「止められるものなら止めてみるがいいッ!!」
 辞書を振り上げていたリリィに閃光が襲いかかる。しかし頭を打たれた衝撃が抜けていないのか、閃光はリリィを逸れて虚空へと消えた。
 不甲斐ない主人を助けるようにシルフが風の刃を生み出してリリィの背中を斬り付ける。
 予想していなかった背後からの一撃にリリィは振り上げていた辞書を落とし、自分の頭を打ってしまった。
 隙を埋めるようにヴァンは女騎士に斬りかかったが、今度はかわされてしまった。
 だがその回避行動が女騎士の不運だった。
 自分の頭にあの重い辞書を落としたリリィが、器用に頭に辞書を載せたままの姿勢で倒れ込んできたのだ。
 振り返ろうとする女騎士に雪崩れ込む長身。一拍遅れて振ってくる巨大な辞書。立ち上がるリリィ。辞書を拾い上げようとしてつまづく長身。またもリリィが倒れ込み、一度拾い上げられた辞書がまた振ってくる。
 場が凍りつく。
 死闘の気配は一気に遠のき、リックもせっかく出来た隙だというのに回復魔法をかけるのを忘れていた。

       †

「勝っちゃいましたね」
「勝っちまったな」
「勝ててしまったな」
 分かれ道の目印だった枯れ木の前で、ヴァンたちは拍子抜けしたように呟いた。手の中に収まった風の宝玉だけが現実味の無い勝利を保証していた。
 あの女騎士はヴァンたちに負けた後には何らかの回復手段を持って他の挑戦者たちと戦うのだろう。ヴァンたちが剣を交えた時点で既に他の挑戦者と戦った後だったのかも知れない。ひょっとすると何人もの影武者や同じ役目を持った別人などがいるのかも知れない。どちらにせよ、彼女は宝玉を渡すべき強者を選別する使命を持ってヴァンたちを迎え撃ったのは間違いない。つまりそれは彼女自身の意志ではないのだろう。
「あの口ぶりだと、本気を出していなかったのかも知れんな」
「また戦うんですか?」
 リリィの不安げな問いかけにどう答えるか逡巡して、ヴァンは無言で頷いた。最後に水面へ飛び込んだのは必死の行動ではなかった。
 彼女が疲弊していたのは確かだが、ヴァンたちに風の宝玉を渡してから自ら水面へ飛び込んだのだ。宝玉を渡したくないのならば渡す前に飛び込むだろうし、あのような余裕は見せなかっただろう。
「まったく難儀な島だな」
 まだまだこの島には謎が多い、守護者の意図も見えない。ヴァンはリックのぼやきに、今度は心から頷いた。

20日目
 岐路に立っている。
 硝子の酒杯ごしに揺れる蝋燭を見つめ、ヴァンドルフ・デュッセルライトは短くため息をついた。
 店主がちらりと顔色を伺ってくる。いつもならば間髪入れずにどうしたのかと聞いてくるだろうが、今日は少々店が混んでいるせいか話しかけては来ない。酒場の店主ならば空気を察してというのが普通だろうがこの店主に限って、それもヴァンに対してそれは有り得ない。空気を察した上で、相手がヴァンならばあえてそれを無視するのがこの店主だ。
 弟子として色々無茶な育て方をした恩返しならぬ怨返しかも知れない。だが不快にならない範囲での図々しさは気持ちいいものだ。だからヴァンは、この時弟子が話しかけて来なかった事に塵芥ほどの寂しさを覚えていた。
 目の高さに掲げた酒杯を手首で回す。
 氷の音と酒場の喧騒が心地よい音を奏でる。
 夜闇に抗うように酒場の中は幾本もの蝋燭が明るく輝き、その熱と酔客たちの熱気で窓から入る涼しげな夜風さえ押し戻していた。
 目と耳で酒を満喫してから、琥珀色の至福を口に招き入れる。口内から鼻にかけて、芳醇な薫りが広がっていく。酩酊しそうな薫りを咽に通し、咽の奥からも立ちのぼる薫りをまた楽しむ。
「良い酒だ」
 正当な評価を下し、ヴァンはまた思案に暮れた。
 彼は岐路に立っていた。
 孤島に来てからというもの、彼の持つ全ての経験が一時的に失われている。そうなる事は以前の孤島で体験済みなので覚悟は出来ていた。まだまだ満足の行く領域ではないが剣の技は辛うじて及第点に届く程度には冴えが戻ってきた。
 しかし、刀剣鍛冶の腕はそうではない。
 知識面や技巧はかつての勘が戻っている。戻って来てはいるのだが、この酒場の店主ボルテクス・ブラックモアに譲った黒双剣のような、ヴァン自身が己の命を托すに足ると思える剣が作れないのだ。
 若かりし頃のヴァンの前に立ちふさがった双剣将軍アズラス、憧れであり仲間の仇でもある彼と渡り合うために選んだ自らも双剣使いになるという道。
 双剣使いとして生きるために身に付けた自分専用の双剣を作り上げる刀剣の鍛冶技術。
 これまでの人生で三百を越える剣を打ってきた。満足の行く剣も多かった。だが満足の上に座す、命を預けられるほどの信頼が置ける剣はわずかに三対六振。
 ボルテクスの兄弟弟子であるソルトソードに托した白双剣。事実上の一番弟子の証としてボルテクスに托した黒双剣。そして、亜人の職人と魔導師の協力で完成した終の剣、光双剣。
 白双剣は白鋼と妖精銀で作られた双剣だった。切れ味の鋭さと軽さ、速度を重視した短期乱戦用の剣である。十対一といった戦いでは全ての攻撃を後の先で返して無傷で勝利する事も可能であった。
 黒双剣は魔法で強化施術した黒鋼で作られた双剣である。刃こぼれをせず、折れず、曲がらない絶対の強度を目指して作られた、長期乱戦用の剣だった。傭兵として戦争に参加する時には白双剣よりも乱雑に使え、防御にも使える黒双剣の方が向いていた。
 これらの剣をソルトソードとボルテクスに与えたのには理由があった。
 没落貴族ながらも気構えと誇りだけは捨てず、正当な剣術の発展系としての双剣術を身に付けたソルトソードには、レイピアなどと近い感覚でも使える白双剣が合っていた。
 幼い頃から戦場あさりや傭兵として身を立てていたボルテクスは、逃げ出さなかった数少ない弟子の中では一番ヴァンに似た戦い方をする。しかしヴァンほどの沈着さを持たない、良くも悪くも気分で上下する男なので攻防に優れた黒双剣が合っていたし、それ以上に彼の黒双剣に対する思い入れはヴァンにも理解出来た。
 二人ともおのずと自分に合った双剣を譲り受けたいと願い出て来たのも譲る理由ではあった。自分の特徴を理解しており、なおかつ使いこなしてみせるという気構えもあった。そうでなくてはヴァン自身もまだ使う機会のある双剣を譲ろうはずがない。
 最後に作ったのが光双剣である。
 不死の魔人と恐れられたジーン・スレイフ・ステイレスを倒せたのはこの剣があったからに他ならない。
 元々はヴァンが旅するうちに知った古代の伝承に似たような武器があったのが始まりだった。
 傭兵や旅の剣士として各国を回り、その武器が確かに存在したこと、現在は失われた魔法技術を用いたこと、その魔法技術の載った古文書があることを突き止めた。
 既に高名な傭兵だったヴァンは一介の兵士としてではなく、己の名を利用して積極的に作戦の提案をするようにし、次第に軍略の相談役となっていき、各国の支配層にもヴァンドルフ・デュッセルライトという存在を認識させるように動いたのだった。
 数年を掛けて、古文書を秘蔵するという国からも信用を得た。古文書を閲覧し、模写させて欲しいというヴァンの不躾な願いを聞いた国王は、快諾するだけではなく古文書を解読するための人材を集めてくれた。
 古文書を解読すると、到底ヴァン一人では作れるはずがないということがわかった。基板となる魔法は熟練の魔術士でも難しく、魔法を金属に定着させる技術は人間が持ち得ない技術だったのだ。途方に暮れたヴァンに手を差し伸べたのは、またもこの王であった。魔導師数人と、他大陸に住む亜人の鍛冶職人を数人手配してくれたのだ。彼らの協力があってなお一年以上の時間を掛けて完成させた剣、それが光双剣だった。
 ヴァンの意志によって制御される刀身を持ち、刀身の長さや強度を常に制御しながら振るう必要があるというあまりにも特殊な剣。だがこの剣だからこそ、斬っても死なず百年に渡る戦闘経験でヴァンに勝るジーン・スレイフを退けたのだ。彼の百年の殺戮にも、振り下ろす途中で刀身の長さが変わる剣など出てくるはずがなかった。それが二振り、既に生も死も忘れ死なない事に慢心していたジーン・スレイフには対処しきれなかった。そうして彼は全身に深手を負い、失った血が多すぎて死なないのに戦えもしないという屈辱的な敗北を喫したのだ。
 しかし今その光双剣はない。
 あれば修行にならないし、孤島での制限された技量ではあっても使いこなせない。そもそも光双剣は完成したと言っても完全ではなかった。失われた技術で作られた武器なだけに、古文書にも残らず本当に失われてしまった部分の技術がなければ完全とは言えないようだ。幾度となくヴァンは光双剣の不調を訴え、その都度作製の際に世話になった魔導師の所へ相談と調整に行くのだった。
 孤島へ来る直前までヴァンが客人として過ごしていた宮廷が魔導師の住処であり、大恩ある国王の宮殿でもあった。
 国王から冒険譚を聞かせて欲しいと頼まれ、光双剣の調整もしたいのもあってヴァンは宮廷に招かれ、そこでしばらく暮らすうちに傭兵としての心が死んで行くのを感じて、この孤島に来たのだった。
 白双剣、黒双剣、光双剣、命を預けるに足る双剣たちは全て手元に無く、今あるのは辛うじて及第点という剣のみ。それも主に使う方の剣は己が作ったものではなかった。
 まだ十にも満たない歳の少女が作った武器の方が、ヴァンの作ったそれよりも遥かに殺傷能力に優れていたのだ。
 岐路に立っている。
 この孤島において武器を作る腕を磨くのを諦め剣の技に生きるか、それとも己が手に合った武器を自ら作り出せるように精進を重ねるかの岐路に立っている。
 今以上の武器を作り出すには手先の器用さを鍛えなければならない。だが十二人の仲間を思えば、十二人に三人も武器職人は要らず、図らずもまとめ役の一人となっているヴァンには武器の腕よりも剣の腕の方が求められているとわかる。
「いや、違うか……」
 具体的に求められているわけではない。求めているとすれば、それはヴァン自身だ。
 彼が自分自身に嵌めた枷は、仲間で最強の攻撃手でもなければ、最硬の守り手でもない。最高の知恵者である必要もない。どの分野に関しても一番手になる必要はないが、どの分野でも常に一番手や二番手を脅かすほどの実力を持つ。それこそがヴァンドルフ・デュッセルライトという一個の駒を最良の駒とする道だと分析していた。
 どこにでも打てる一手、しかしどの盤面でもその一手があれば流れを変えることの出来る駒、能力も戦略も全てが違う集団で動く場合には、そういう駒が有ると無いとでは集団全体の生残性が変わってくる。ヴァンはこれまでの経験で嫌と言うほど理解していた。
 今の自分を第三者としての目線で冷静に分析する。戦場という盤面を上から見下ろし、その盤面に置いてあるヴァンという名の駒を見る。ヴァンはどのような力量を持っているのか、どのような場面でどう動くことが出来るのか、盤面全体にどう影響を与えるのか。
「……中途半端な」
 思わずぼやく。
「二兎を追わんと二兎は狩れん、だが二兎を追う器ではなければ一兎も得ずに終わる」
 果たして今の自分は器か否か。
「否か、やはりこのままではいかんな」
 体温で溶けた氷が酒杯の中でからんと音を立てる。
 ヴァンは促されたように酒を口に運んだ。じわりと広がる薫りは心を落ち着かせたが、もやを払うには上品すぎた。
「うまい酒だ……勿体ないが」
 残った酒を一気に流し込む。本来こういう煽るような飲み方をする酒ではない。流し込まれた酒が抗議をするように最後の薫りを放ったが、それもすぐに薄れ消えていった。
「店主」
 ヴァンの声にボルテクスが振り向く。すぐに後ろの棚から三本の瓶を取るとヴァンの前に置いた。
「フョ酒にポルスカ、フェスキとありますが……」
 師が何やら思案にふけっているのを横目に見ていたのだろう。先ほどの酒とはまったく違った種類の酒を持ってきた。
「フョ酒の銘柄は?」
「アジ・ムです」
 強い薫りと舌に残る甘さが脳裏で再現される。元々果実酒なので甘いのだが、アジ・ムのフョ酒はより甘い。
「甘すぎるな。ポルスカとは何だ?」
「ハイドランド産のポルをフェスキとヴィンで割ったもんです」
 初めて目にする酒だった。ハイドランド産ならば気候的にもポルはうまいだろう。一度弟子が生で仕入れたポルを仲間に持ち帰ってやるとリックや小雨などはうまいトマトだと喜んでいた。どうやら異世界には異世界なりに似たような植物があるのだろう。
「それは後で貰って帰る。フェスキはいつものリンエか?」
「もちろん。我がフェントス王国が誇るリン・エブニク!」
「ありゃ不味い。どうせヴィンもリンシだろう、あれも不味いからいらんぞ」
 フェントスは傭兵ギルドが出来るまでは木材の輸出しか交易が無かったといって過言ではない。土地も肥沃とは言えず、穀物が土台となるフェスキ酒にも果実が元になるヴィン酒にも適しているとは言い難い。
「師匠、フェントス産の酒はうちの顔ですぜ? 不味い不味いと言われちゃ営業妨害ってもんです」
 酒の好みなど人の好きずきである。また、フェントス産は穀物にしろ果実にしろ確かに適さないのだが、適度に荒れた土地での栽培なので美味い物はとことん美味くなる傾向にある。とはいえ当たり年や外れ年もあるし、銘柄や価格によっても大きく変わる。
 ヴァンの場合一年中旅をしているので、味にばらつきがある酒よりも常に一定以上の味を保ち続ける酒の方が好きなだけだ。わざわざ不味いと言うのは、それをわかっていて勧めてくる弟子への嫌がらせに過ぎない。
「酒はもう良い、水をくれ。ああ、ポルスカを一瓶といつもの火酒を二瓶括っておいてくれ」
 酒で晴れなかったもやは、気づけば弟子との軽口で消え去っていた。
「岐路の先が見えた。行くとしよう」
 そう言ってヴァンは再び遺跡へと潜るのだった。

22日目
 魔法陣に双剣は座す。
 座して死を待つ。
 はね除けるために、立ち向かうために。

 腕を組み、傷だらけの顔をしかめてヴァンドルフ・デュッセルライトは待っていた。
 時折魔法陣が淡く光っては消える。誰かが魔法陣を介して遺跡を出入りしているのだろう。気配を探っても殺気は感じない。そばに人狩りはいない。凶悪な気配も感じない。ならば仲間たちと固まって動く必要はない。
 ヴァンは一人座して敵を待っていた。フェリックスには二匹の従僕がいる。リリィにはエマールがいる。無理に守ろうとせずとも大丈夫だろう。
 腰に差した双剣に意識を向ける。
 片方の剣は魔素が籠もっており、斬った傷口から染みるように相手に伝わるため、より効果的に相手へ打撃を与えられる。もう片方の剣は軽く扱いやすいため、避けようとする相手の動きに合わせて斬撃を調整出来る。一長一短なふた振りの剣。だからこそ双剣として両方を扱ってきた。
 ヴァンは腕を組んだまま思案する。どちらか片方しか使わないとするならば、どちらを選ぶべきかと。
 安定か、一撃か。

 獣の気配を感じ、ヴァンドルフは立ち上がる。
 腰に差した剣に手を置き、深く息を吐き出す。
 近寄ってきた獣は一匹ではなかった。二匹の一角獣と、一匹のランドウォーム。少し前ならばリックやリリィがいても戦いたくは無い相手だった。
「やれやれ、一角獣は清純な処女の前にのみ姿を現すと聞いていたが、こんな醜男の前に二匹も出てくるとはな」
 ヴァンが失笑をもらすと、それが聞こえたのか一角獣に殺気が生じた。
「本当に感情豊かな動物ばかりだな、この島は」
 口元に苦笑を浮かべ、ヴァンは魔素の籠もった剣を抜き放った。
 左手には剣ではなく鈍い光沢を放つ金属が握られている。武器ではない。近々作ろうと考えている暗殺者用の剣の、核となる金属だ。
 少々変わった金属で、持つ者の精神疲労を和らげてくれるという言い伝えがある。ヴァンの見てきた暗殺者や斥候達が幾人もこれに頼ってきた。本当に効果があるのかは眉唾物だったが、そういう触れ込みで売られている。
 手を握り込み、感触を確認する。
 武器の核となる金属を殺気を籠めて戦う実践に携えると、まるで持ち主の気を読み取るように扱いやすい武器となる。ヴァンに鍛冶技術を叩き込んだ職人はそう言っていた。
 そろそろ戦いの間合いか、そう思い顔を上げた瞬間、一角獣の角に集束した光弾がヴァンを襲った。
 咄嗟に左手を振りかざす。双剣防御の癖が出てしまったのだ。刹那に浮かんだ油断への罵倒を意志で引っ込め、ヴァンは左手の軌道を僅かに制御した。手の平に握った金属を光弾への盾としたのだ。
 光弾と金属が接触した一瞬を狙って左手を振り払う。違和感。すぐに衝撃が伝わるのではなく、光弾のまま形を保つ時間が長く感じた。
 光弾が地面に穴を穿つ。
「……弾いたのか?」
 手に握った暗剣の核に視線を落とす。
「これは使えるな」
 不思議な力を持つ金属という触れ込みはあながち嘘でも無さそうだ、心の中でそう呟くとヴァンは剣を構えた。
「一対三か……いや」
 ヴァンは不敵に笑うとじりじりと間合いを詰めながら呟いた。
「四にしよう。参るぞ」
 暗剣の核を握った手で空に印を書く。
「行け、戦列を乱してこい」
 印が光を放つと、そこから人形の少女が現れる。ヴァンの膝程度の背丈の人形は、不気味な笑みを浮かべると一角獣の所へ短い足を動かし駆けていった。
「このような搦め手を使うのは随分と久しぶりだな」
 ある魔導師に敗れて以後、ヴァンは度々彼と親交を持ち、知識として様々な魔法を教わった。ヴァンには魔法の素養はないし趣味でもないが、簡単な魔法ならば申し訳程度に使うことが出来た。
 近づいてきたランドウォームが巨体をくねらせてヴァンに躍り掛かる。思ったよりも素早い。
 ヴァンは回避の目測を誤った。紙一重でかわすつもりが避けきれない。
 咄嗟に剣で防御を取る。短剣ほどの小回りは利かないが、剣よりは小回りが利くように作っただけあって、双剣の防御力は信頼に足る。
 防具を軽い物にしている分の脆い防御面はこうして補うのがヴァンのやり方だ。弟子たちもそれに倣って軽装を心がけている。
 ランドウォームの攻撃を凌げば、今度は一角獣が後方から攻撃してくる。左手の暗剣の核で一匹目を防ぎ、二匹目をいなす。
 全ての攻撃を凌いでみると、ランドウォームも一角獣も以前いだいた強敵という印象とは遠く離れていた。
 ヴァンは確信を持って剣を振るう。
「自壊せよ」
 上段から一気に振り下ろされた剣がランドウォームの巨体に食い込む。魔素が激しく傷口を冒す。
 ランドウォームが反撃するように激しく身体を揺らしたが、今度は目測を誤らなかった。
 飛び退いて交わしたヴァンに、今度は一角獣の同時攻撃が襲いかかる。下手に片方を避けるともう片方がいなせないと経験が警鐘を鳴らす。左手を目の前に挙げて、迫り来る光弾を二発とも受け止める。耐えられない痛みではない。
「吸い尽くしてあげる……」
 小さな声が聞こえた。
 一角獣の後ろに潜んだ血啜り人形が赤光を放つ。光はランドウォームや一角獣に当たると、二秒ほど停滞してから今度は青い光となって血啜り人形へ戻っていった。しっかりと自分にも赤光を当ててから、また青い光として体内に取り込んでいる辺りが厭らしい。
 自分も含めて全員に攻撃をした後に、体力を吸い取って我が物にするという技だ。乱戦で使えば、誰からの攻撃か分かりにくく、気づけばどんどん内部に潜んだ敵から体力を奪われていくというのが狙いだ。これがヴァンの搦め手たる所以である。
「砕け散れ!」
 振り上げた剣を最上段から勢いよく振り下ろす。
 ランドウォームの足の何本かが地に落ちる。ヴァンは振り抜いた剣を素早く返した。
「斬気一閃!」
 更に何本かの足が宙に舞う。最早ランドウォームは死に体であった。
 最後の足掻きとばかりに激しくのたうつ。回避は間に合わない。二発目を喰らったところで体勢が崩れてしまう。その隙を狙ったわけではないのだろうが、更にのたうつランドウォームの胴体がヴァンの脇腹を捉えた。思わずうめき声が出てしまう。
 間合いを取ろうと飛び退いた所に光弾が飛んでくる。
 威力は無いが避けるのも難しい。ヴァンが防御をした瞬間にもう一発が飛んでくる。
「獣のくせに波状攻撃とはっ!」
 見ると、一角獣たちの周りにだけ輝く雨が降っていた。
「回復か!」
 即座に血啜り人形に目配せすると、既に血啜り人形は赤い光弾を作り出していた。だが放たれたそれは光る雨に阻まれて消えてしまう。
 ヴァンは剣を構えて突進したが、同時にランドウォームもヴァンに向かって突進してきた。重量差で当たり負けてしまう、そう判断したヴァンは剣を逆手に持ち替えた。ランドウォームの巨体がヴァンの身体を勢いよく吹き飛ばした。が、それも僅かな距離で止まる。
 吹き飛ばされた瞬間、地面に剣を刺して体勢を立て直したのだ。勢いを殺さずに利用し、逆手に握った剣を跳ね上げる。
「伏牙追閃!」
 確実な一撃。命を奪った独特の感覚が剣から伝わってくる。
「よし、次」
 命を奪うことなど慣れている。ヴァンは一角獣に向き直った。
 ランドウォームを助けるためか、それとも自らの延命のためか、一角獣は先ほどの輝く雨を降らせながら光弾を連続して撃ってきた。
 雨に打たれた箇所の傷が僅かに癒えているのが見える。だがその雨が止んだ瞬間、一角獣の背後から赤光が放たれる。
「獅子身中の虫に気を付けろ。貴様らが回復してやったその人形は、まだ体力が吸い足りんらしい」
 自ら送り込んでおきながら、不敵に笑って言い放つ。
 一角獣がその言葉を理解できているのかはわからない。わかる必要もなければ、判断する時間も不要だった。
 ヴァンは一気に一角獣の懐に潜り込むと、順手に持ち直した剣を跳ね上げた。
 深手を与えた剣をそのまま血啜り人形へ振り下ろす。
 一角獣がたとえ先ほどの言葉を理解していても、ヴァンの行動は理解できなかっただろう。
 ただ動揺だけが伝わってきた。
 二匹の一角獣は仲間を癒そうと、また光弾を伴う雨を降らせる。
 ヴァンはそれを避けようともせずに暗剣の核で受け止めた。
 雨が止んだ瞬間に、また赤光が一角獣を襲う。
 奇しくも一角獣たちの献身的な回復と、自ら放った赤光で血啜り人形は一命を取り留めたらしい。
 まだ状況は一対三と数の上ではヴァンの圧倒的不利はゆるがない。だが場を掌握しているのは確実にヴァン一人であった。
 剣を振り上げると、そのまま血啜り人形へ振り下ろし、返す剣で一角獣に斬りかかる。
 一角獣はますます混乱したようで、また先ほどと同じように癒しの雨を降らす。
 考える時間など与えない。相手の心理を掌握出来れば数の不利さえ武器に出来る。
 雨が止んだところにまた赤光が放たれるが、その大きさは今までよりも小さい。ヴァンは健気に頑張る血啜り人形に頷きかけた。
「もういいの?」
「ああ」
 短いやり取りの後、血啜り人形は満面の笑みで崩れ落ちた。彼女は与えられた使命を完璧に遂行したのだ。
 まだヴァンに斬られていない方の一角獣がしつこく癒しの雨を降らす。
「貴様らもご苦労だった」
 飛んできた光弾を胸で受け止める。胸に煌めく首飾りが暁光を放ち、光弾の威力を削ぎ落とす。
「朽ちはしません」
 深手を負った一角獣が角に光を集束させて撃ってくる。ヴァンは避けない。
 命中した光弾が一角獣に戻る。傷が僅かに癒える。攻撃を兼ねた回復魔法だ。
「朽ちはしません」
 続けてもう一発光弾が飛ぶ。やはりヴァンは避けない。僅かに傷が癒える。
「諦めろ、お前は朽ちるのだ」
 呟きながらゆっくりと一角獣に歩み寄り、ゆっくりと剣を振りかざす。
「朽ちは――」
「決定打とさせて貰う!」
 最上段から一気に振り下ろされた斬撃が一角獣の身体を両断した。
「なんという……」
 輝きをまとった剣から、生命力がヴァンにそそがれる。
 それまでにヴァンが受けていた傷が瞬く間に塞がり、癒えていく。まさしく決定打だった。
「よし、次」
 最後の一角獣に向き直る。
 明瞭な怯えを感じ取ったが、手心は加えない。
 最早一角獣は魔法を唱えることを放棄した。立派な角を向けてヴァンに向けて猛烈に突撃をしかけてきた。
 対するヴァンも突きを放つ。
 お互いに刺突の傷に深手を負いながら、間合いを取る。
 一角獣は角を振り回して、ヴァンは細かい斬撃を放つ。
 一撃目はお互いに痛み分けだが、所詮角である。この間合いならばヴァンの剣の方が圧倒的に有利であった。
 ヴァンと一角獣は同時に二撃目を繰り出した。
 一角獣の角と魔素の籠もった剣がぶつかり合う。
 競り合いは刹那、澄んだ音を立てて一角獣の角が切り落とされると、残った勢いでヴァンの剣が一角獣の顔を両断した。
 戦いは終わった。
 懐から取り出した手ぬぐいで剣についた血を拭うと、ヴァンドルフ・デュッセルライトは剣を納めた。
「多勢に無勢をはね除ける、これぞ戦士の愉悦の刻よ」
 満足そうに笑みを浮かべると、切り落とした一角獣の角を拾い上げ、手ぬぐいで血をぬぐった。

25日目
 地下への階段を下り、強くなった瘴気に眉をしかめながら道を突き進む。
 既に先達の情報から道はある程度絞り込めていた。
 草むす平原にさしかかった頃に、一度目の襲撃。ヴァン達の相手は両手に鎌を持った鼬と、金のたてがみを持った猫又だった。
 幸いにしてと言うべきか不運にもと言うべきか、相手は二匹だけだった。後になってリックが退魔効果のある御守りを持っていたからだと知る。もう少し技の練度を高めるために、激戦を期待していたヴァンにとってはやはり不運と言えよう。戦闘はあっさりと終結し、鎌を持った鼬と金髪の猫又は目を輝かせてリックに同行をせがんでいる。
「ヴァン、どう思うよ?」
 余裕の勝利に紫煙をくゆらせながらリックが聞いてきた。猫と即答しそうになるのを押さえて、戦力を冷静に分析する。
 リックの様子から、彼も猫に心を決めかけているようだが、猫好きというだけで戦力とするのは危険だと己の理性も納得させる。
「鼬だな」
 その一言にリックが意外そうな顔をする。
「確かに猫は可愛いが、それだけではいかん。敵からの攻撃をまず最初に受け止めるのは儂とリリィだ。今は小象も前衛に立ってはいるが……奴は懐いとらんだろう?」
 のんびりと草をはむ小象をちらりと見る。リックは肩をすくめてそれを肯定した。
「もうちょっと時間を掛けたら懐いてくれる気配はあるんだがな」
「そうなって欲しいものだが、現状では一枚でも多く壁が欲しい」
「壁、か……」
 リックが連れているもう一匹の従者はブラックボールである。敵として対峙したときよりわかっていた事だが、後列から魔法で攻撃をする役割だった。しかし当然ながらルヴァリアや服部周のような火力には程遠く、安定性も低い。背後から撃たれぬように戦い方に気を配らなければいけないし、リックの回復魔法がそちらに飛んで前衛であるリリィや小象が充分に回復しないという事もあった。
「壁だ。儂自身も一枚の壁として考えるのだ。リリィと儂と小象、この三枚の壁が相手からの攻撃をお前に届かなくする防壁であり、攻撃の要でもある。魔法や弓矢、吹矢などでお前やブラックボールが狙われる事もあるが、それ以外の攻撃は儂らがことごとく阻む。だが、三枚では沈みやすいのだ。特に小象が懐いておらん今ではな」
「ブラックボールを放してやって、代わりにツインテールキャットをと思ったんだがね」
 名前を呼ばれた猫又がリックを見上げる。ヴァンとリックも猫を見る。
「確かに可愛いが、もう一枚壁が欲しいのが壁としての意見だ」
「そりゃ、ツインテールじゃ力不足だってことか?」
「そうだ。熱波系と寒波系の攻撃を使い分けるのは面白いし――」
 足元から「熱いのも寒いのもお任せにゃ」と弾んだ声が聞こえる。ヴァンは一瞬言葉に詰まってから、一気に吐き出した。
「――可愛いが、リアや服部のように前衛が必死で守るほどの戦力でもあるまい」
 足元でしょげる猫。
「いや、だけどこの可愛さは必死で守るだろ?」
「それはそうだが、私情を殺せ。儂も己を壁として、駒として冷静に考えているのだ」
 ヴァンの言葉に、リックもちらりと足元を見る。猫又が期待に満ちた目でリックの瞳を見つめていた。僅かに視線をそらして鎌鼬を見る。期待と不安の入り交じった目で二本の鎌を胸に抱いていた。
「俺に……こんな残酷な選択をしろってのか」
「お前が選び歩んできた道だ。いつかこういう日が来ると覚悟していたはずだ」
「だがなっ!」
 激論を交わすヴァンとリックから少し離れたところで、エマールとリリィが話に入ろうともせずにその様子を眺めていた。
「……おっさん二人が可愛いとか熱弁を振るってるのもどうなのかしら」
「子供っぽくて可愛いじゃないですか」
 笑顔で二人を眺めている義妹をちらりと見てから、エマールは細い煙草に火を点けた。
「で? あなたはどっちが良いの?」
「私はどちらも可愛くて好きですよ」
 義妹の答えにため息をつくように煙草の煙を吐き出す。
「収拾つくのかしら? まあ私には関係ないけど」

       †

 平原の緑が徐々に茜色に染まる。
 地下二階の高い天井にも偽物の太陽が浮かび上がり、沈んでいくのだ。
 ヴァンたち四人と二匹は顔ぶれに若干の変更があった。ブラックボールを解放し、新たな従者としてやる気に満ちた鎌鼬がリックの周りをちょこちょこと走り回っている。
 リックは猫又に想いを馳せているのか浮かない表情だ。彼に猫を諦めさせたヴァンもまた、若干名残惜しそうな顔をしている。リリィは新しい旅の仲間が可愛いのか、走り回る鎌鼬を見てはくすくすと笑っていた。その義姉エマールは、自分はヴァン一行ではないと主張しているのか、リリィよりも更に後ろから少し離れてついてきていた。
 ため息を一つついて、ヴァンは右の方へ視線をやった。
 遠くに斧を担いだ男性と、二人の女性、二匹の従者の姿が見える。サザン組だ。一行の主戦力であり、他の組と違って構成を変更しない特徴的な組である。
 左方向へ視線をやると、赤毛の子供が三人歩いている。正確には赤毛の双子と、桃色の髪をした成人女性なのだが、遠目にはどう見ても子供にしか見えない。その三人の前には小さな物体がひょこひょこと歩いている。生命亡き者の王を自称する植物生命体だ。植物生命体というだけでもややこしい存在なのに、既に死んでおり、不死者となって甦っているというのだから余計にややこしい。サザン組とは違い、こちらの組は明確な代表者がいないため、唐土組やリア組と呼ばれる。
 ヴァンは腰の双剣を引き抜くと頭上にかかげ、斜陽の光を反射してサザンとリアに光を送る。それに気付いたサザンは自分も斧をかかげて、更に右奥にいるであろう小雨組へ合図を送った。リアも合図に気付いてディーネとアゼルの姉弟を連れてヴァンと合流しようとしている。どうも唐土が真っ直ぐ進みたいらしく、リアが唐土の髪の毛なのか房なのか判別のつかない赤毛をつかんでこちらへ引きずって来ている。ヴァンはその様子を見て苦笑しながら、リア組が全員赤毛だという事に今更気付き今後は赤毛組とでも呼ぼうかなどと思案していた。
 サザンとヴァンがお互いに歩み寄り、リア組と小雨組もそれぞれヴァン達に近づいてくる。全員が集まりきるまでには二十分ほど掛かった。遺跡内の通路とはいえ、その広さは凄まじいの一言に尽きる。集まり過ぎず、離れすぎない適度な間隔を保つのは中々骨が折れた。ヴァン達は十三人という大所帯である。リリィをそれとなく支えるエマールを含めると十四人、そこに従僕四匹が加わるといやが上にも目立ってしまう。
 半端な動物程度ならばまだしも、強力な魔物や人狩りなどに狙われるのは避けなくてはいけない。固まって動いて、気付いたら囲まれていましたでは勝負にならないのだ。
 リックが小さな懐中時計を見てまずまずだなと呟く。
 ヴァンの生まれ育った文明圏では有り得ない精密な時計だ。まさに世界が違うとはこういう事かと納得する。彼の暮らしてきた世界では、亜人種の中でも特に細工を得意とする種族が魔術士と協力してようやく懐中時計が一つ作られる。値段にしてもそれ一つで寒村を一年養えるほどの価格になる。言わば王侯の証であった。
 合流した服部周も腕時計を見て満足そうに笑っている。その横で天野小雨でさえ黄色い可愛らしい腕時計を見ている。この二人にしてもリックにしても、特別に裕福だということはないだろう。服部などは見るからに金に縁遠い顔をしている。つまりは、彼らの住む世界では子供でさえ時計を手にする事が出来るほど、ヴァンの世界と技術の格差があるということだ。
 初めて会った時は彼らも魔法に驚いていたが、すぐに順応して自分たちも魔法を使えるようになってしまった。ヴァンからすると、彼らから聞いた向こうの世界の技術こそが魔法に聞こえた。だが羨ましいとは思わない。ヴァンは自分の住む世界の良さを知っていた。その話をした時、服部は「俺たちの国には『吾、只足るを知る』って悟りの言葉があるけど、オッサンのはまさにそれだな!」とよくわからない事を言っていた。ただわかったのは、自分はまだ足りぬと力を渇望する未熟者であるという事だった。
「予定より合流が早いな?」
 サザンの言葉で我に返る。
「そろそろ床地帯に入りそうだったのでな」
 地面の固さや草の量で、次第に土壌が変わって行っている事を指摘する。先行者達の噂で聞く限りでは、床地帯の中を進むと突然木箱が現れるという。
「さて、夜営を張るか否かだが、どうする?」
 ヴァンは一行を見回した。随分な強行軍だったため、ちらほらと疲労の色が見え隠れする。まとめ役の一人でもあるサザンもそれを感じ取っているのか仲間達を伺う。
「ここで夜営を張ると、明日また木箱探しに一日を費やして、明後日に遺跡外へ脱出という流れになるな」
「そりゃ身体が持たねぇんじゃねえか?」
 医者らしくリックが健康を気遣う。確かに彼が言うとおりだった。
「先達の話をまとめるぞ。この先の床地帯には木箱が落ちているらしい。だがその木箱は目撃例が二例以上あるため、他の箇所でも発見されているという、訪れた者の前に必ず現れる類のものだと思う」
「ランス美の嬢ちゃんみたいなもんか?」
 疾風のエリザという名前はまだ彼らの耳に届いていない。ヴァンは頷くと小雨をちらりと見た。
「小娘が聞いてきた情報によると、こういう木箱は一組につき一つ現れるという。つまり、我らが十四人一組で移動すれば一つしか手に入らん」
「そりゃ勿体ない」
 服部の合いの手にまた頷く。
「十四組に分けるのは危険だが……」
 まだ幼いディーネとアゼル姉弟、小雨などに目をやる。リリィも中々危なっかしい。
「周囲に人狩りがいる様子がないのは幸いだな」
 斧を肩にかついでサザンが笑う。ここ数日は人狩りが近くにいる様子はなかった。
「だからこそ、一旦解散をして個別に探索をするのはありではないかと思うのだ」
「確かに。動物連中やら床で出てくる魔物やらにやられても、身包み剥がされる心配はないからな」
 リックの言葉にヴァンは一瞬難しい表情をした。かつて訪れた孤島では動物も人狩りのように強襲して来た上に、身包みを剥いでいったのだ。今の孤島ではそのような例はまだないと聞くが、これからも無いのかと不安になったのだ。
 若干の迷いの後、ヴァンは首を振って不安を押しのけた。
「少なくとも命は取られん。儂らも潜っていられる限界に来ている。もし勝ち目のない魔物と遭遇したところで、勝っても負けても限界だ。遺跡外へ自分の足で出るか、強制的に排出されるかの違いでしかない」
「後はプライドの問題だな」
「探索する余裕があるかないかも大きな違いだぞ」
 リックとサザンの言葉に、失念していた探索の事を思い出し、言い直す。
「勝っても負けても、木箱の中身を手に入れられる事と、遺跡外へ生きて出れる事は変わりない。勝った相手から戦利品をもぎ取り、探索をしてから余裕を持って出れるかどうかは賭けだ」
 一行の表情を伺って見たものの、気後れしている様子はなかった。リックもそんな空気を読み取ったのか、自信に満ちた表情で口を開いた。
「どうせもう限界なんだ。ここで解散して誰かと組みたい奴はそいつと交渉、そうじゃない奴は木箱の中身を持ち替えるってのを目的に一人で探索ってので良いんじゃないか?」
 その一声に一同が頷く。そんな様子を少し意外に思いながら、ヴァンは頼もしくなったものだと独りごちたのだった。

27日目
 焚き火を囲んで四人の男女が座っていた。
 褐色の肌に白衣を着た医師、フェリックス・ベルンシュタイン。黒い外套に身を包んだ傷だらけの傭兵、ヴァンドルフ・デュッセルライト。薄い褐色の肌に白衣を着た長身の女性、リリィ・ウィンチェスター。そして彼女の義姉であり、普段はヴァン一行とは少し距離を置いて単独行動をしているエマール・クラレンス。
 夜風が焚き火を踊らせる。
「最近は夜も冷えるようになってきたな」
 ヴァンドルフがぽつりと呟く。
 彼らがこの孤島にやってきてまだひと月にも満たない。この寒さが季節の変化に伴うものなのか、それとも地下二階への階段が近くにあるからなのかはわからない。
「エマールが儂らと焚き火を囲むというのもなかなか珍しい光景だな」
「二十六日目にして初めてじゃねえか?」
 紫煙をくゆらせながらリックがニヤリと笑うと、同じように煙草をふかせてエマールが微笑する。
「別に避けてたわけじゃないけど……、私はあなたたちの仲間ってわけでもないしね」
「え、違うんですか?」
 心底驚いたという顔でリリィが意外そうに義姉を見る。その様子にエマールは微笑を苦笑に変えた。ヴァンとリックも苦笑する。
 エマールはあくまでも独自の目的のために孤島に来ている。かつてヴァンの一番弟子であるボルテクス・ブラックモアが別の孤島で戦った時には、百日近く行動を共にして宝玉を全て集めた女傑である。ボルテクスが一線を退いて遺跡外で酒場を構えているのとは違い、宝玉を全て揃えるという偉業を成し遂げてなお孤島へ身を置くというのは常人には理解しがたい。
 この孤島に来る前にも、ディーネとアゼル姉弟を育てた女傭兵プラリネ・ノワゼットや、かつてヴァンと死闘を繰り広げた魔人ジーン・スレイフ・ステイレスらと共にまた別の孤島で探索をしていたという。
 だが今回の探索ではこれまでのように誰かと協力するのではなく、基本的には単独行動を取るという方針らしい。ヴァンたちと同じ道程を進むのは、亡夫の妹であるリリィが心配だからだろう。戦闘に関しても自分一人で戦っているようだが、リリィが戦うときにはさりげなく助けを入れるあたりに優しさが見え隠れする。その代わり、リリィには不要な宝玉を譲って貰っているというしたたかさも持っているのだが。
 リリィからすれば、エマールも自分と一緒に一行に加わっている気分だったのだろう。普通ならばエマールが意図的に距離を置いていることは見て取れるのだが、どこか抜けた所のある彼女ならば気付かなくても仕方がない。突然仲間ではないと言われれば驚くのも無理はなかった。
 ヴァンは困ったように自分やリックの顔を見てくるリリィに若干のほほえましさを感じながら、落ち着いて口を開いた。
「道に沿って旅をしているとな……どこの誰とも知れぬ旅人とずっと同じ旅程になることがある」
 相づちを打つように、たきぎがパチリと音を立てて弾けた。
「最初はあまり気にならない。旅程が同じとは言っても、すぐそばを歩くわけではないからな。だが道なりに旅をすると同じ宿場町で足を止める。その時になると互いに同じ道程だということを完全に認識しているわけだ」
 一呼吸の間。
「気さくな者ならばそこで話しかけて仲良くなるかも知れんが、儂はあいにくこういう人相だ」
 親指で傷だらけの顔を指さす。
「打ち解けるでもなく、お互いを認識した状態でまた数日旅をする。しかしある日、遥か前を歩く旅人が野党や獣、下手をすれば魔物に襲われていたとする。ならば儂は全力で駆けつけてその旅人を助けるだろう。助けられた旅人は儂に感謝をして、多少打ち解ける。その後は度々野宿を共にする事もあれば、下らん馬鹿話で笑い合うこともある。だが、仲間かと言われると少し違う」
 言葉を切ってリリィの顔を見る。
「儂らとエマールもそういう関係だ。無論、お前たちは姉妹なので事情は違うがな」
「今宵の俺たちは、そんな旅の道連れの交流会ってこったな」
 リックがあいの手を入れてくる。ヴァンは頷くと、かたわらに置いてあった革袋から酒瓶を取り出した。
「交流会であり、最後の晩餐だ」
「最後つってもお別れってわけじゃないからな、勘違いするなよお嬢ちゃん。二十六日間お疲れさんってだけだからな?」
 リリィも既婚者でありお嬢ちゃんと呼ばれる年齢でもないが、中年男二人と物静かな義姉に囲まれていてはそういう扱いになってしまう。
「さて、リックは当然としてお二方、酒はいけるくちか?」
「嗜む程度にはね」
「私は――」
「リリィにはあまり呑ませないでね」
 了解したと呟いてヴァンは革袋から酒杯を四つと別の酒瓶を取り出した。
「果実酒と火酒を用意しているので好きな方を選べ」
「俺は火酒で。いつものお弟子さんかい?」
「ああ、ボルの店だ」
 エマールが果実酒の封を開けるのを見て思い出す。
「そういえば奴からエマールに伝言だ。果実酒を選ぶと思うが、その酒はエマールの好みを予想して選んでおいた取って置きだから心して飲めだそうだ」
「押しつけがましい店主ね、ろくな店じゃないわ」
 百日の旅で背中を合わせてきたかつての相棒に皮肉を言う。皮肉の対象はこの場にはいないが、恐らくこの手の皮肉を言われることも予想しているだろう。
「確かにろくな店ではないが、一つだけ良い点がある」
 エマールとリックの視線を集めてから、ヴァンは意地悪そうに笑った。
「ツケがきく上に、踏み倒しても問題がないことだ」
「ひでぇ師匠だ」
「ボルにはお似合いよ」
 三人が笑うのにつられてリリィも笑う。
 エマールは笑いながらもさりげなくリリィの酒杯に果実酒をそそいでいる。ヴァンとリックはいつものように火酒をそそぎ、全員に酒が行き渡る。
「じゃあヴァン、乾杯の音頭を頼むぜ」
 リックに促されてヴァンは咳払いをして酒杯を手にした。
「二十六日という短いとも長いとも言えん期間だったが、貴公らと組んでの探索はひとまず明日でおしまいだ。今後どうなるかはまだわからんが、区切りとしてこういう席を設けたが、大げさに最後の晩餐などと肩肘を張らずに、一区切りのささやかな酒宴として楽しもう。乾杯」
 酒杯をかかげて皆が乾杯と応じる。普段はリックと二人で呑むだけなので、新鮮な光景だった。
 干し肉と野菜を串に通して焚き火の周りに突き刺し、酒杯をちびりとやる。
「旨いな」
 心に浮かんだ感想を素直に呟く。
 ヴァンの弟子はどうやら傭兵としてだけでなく、酒場の店主としても合格点を出して良さそうだった。良い酒を選ぶ。
「こっちもいい味よ。ボルにしては上出来ね」
「おいしいです」
 女性陣の果実酒も好評だった。店主のボルテクスから酒瓶を渡される前に、ヴァンも一杯だけ飲んでみたが確かに良い味だった。果実酒によくあるような甘すぎてしつこいということもなく、あまり主張しすぎない甘味に抑えてあった。どちらかというと加糖による甘さではなく、果実そのものの甘さを感じさせるのだ。薫りも果実の風合いを残しており、これならば浴びるように飲んでも酒臭くならずにむしろ果実の良い香りがするのではないかとさえ思えた。
 エマールは義妹の話に相づちを打ちながら時折杯を口に運んでいる。どうやら嗜む程度といったのは本当のようだった。ヴァンが弟子から聞いていた女傑像とは少し違った印象だったが、軽口が好きな弟子なので話半分に聞いておいて正解だったようだ。
 ため息と共にリックが酒杯を口から離す。どうやらもう一杯目を空けたようだった。ヴァンは右手に杯を持ったまま酒瓶に手を伸ばすと、慣れた手つきでリックの杯に酒をそそいでやった。
 酒瓶を置いたついでに、焚き火の周りに刺した串を取る。
「よし、もう食えるぞ」
 待ってましたと言わんばかりに皆の手が串へと伸びる。
「火傷す――」
「ひゃふぃっ!」
「――るから気を付けて欲しかったんだな」
 注意が終わる前にリリィが舌を出して涙目になっていた。その様子にリックが吹き出すと、つられて皆も笑い出した。
 ひとしきり食べて飲んで、少し騒いで、焚き火の勢いが弱まる頃になるとリリィは寝息を立てていた。エマールはうたた寝する義妹にもたれかかられたまま煙草を吸っている。
 そんな二人を見ながらリックは今日最後の煙草に火を点けた。
「なんかヴァンと酒を酌み交わすは最後みたいな雰囲気になってるが、良く考えりゃ違うんだよな」
 今晩こそ他の面々も日頃行動を共にした相棒たちと焚き火を囲んでいるが、普段は全員でひとかたまりになって夜営を作り、交替ごうたいで寝ずの番をしている。ヴァンが例えリックとは違う組になったとしても、同じ夜営を張るからには見張りの順番さえ合えば交替する合間にこうして杯を交わすことも可能なのだ。
「しかし組み替えとはねぇ。ちょっと今更な気もするな」
「全員で生き延びるためには必要だろう」
 人狩りや守護者だけでなく、遭遇する動物や魔物も次第に強力になっている。成り行きだけで組んだような編成では厳しくなってくるだろう。
「リックは小雨と唐土だったか」
「ああ、ちっちゃいのが二匹だ」
「唐土か、奴は亡者の王を自称するだけはあってしぶとさにかけては儂より上だ。お前の回復と、小娘の回復があればそうそう落ちることはない」
 植物生命体だった歩く植物ゾンビが豪快に笑っている姿が脳裏に浮かぶ。
「落ちねぇって言っても、野郎一人で殴りまくって無茶して勝手に倒れるからな。小雨の嬢ちゃんも両手に傘なんて持って戦う気が見えんし、前途多難だわ」
「だが相性は良いのだろう?」
「まあな」
 困ったように笑いながらリックが酒杯を傾ける。
「良いウィスキーだな。スコッチにも負けねぇ味だ」
 火酒の味をそう評す。ヴァンにはわからない名詞だが、何となく誉められているのだということはわかった。
「リリィの嬢ちゃんはどの組だ?」
「リドと服部の所だ」
「変態コンビかよ、可哀相に」
 酷い言い様だが、そう言われても仕方のない二人ではある。
「この頃のリリィは急激に強くなっている。服部の高い火力と低い耐久性、リドの高い耐久力と今ひとつな火力、ここにリリィ加えるのは一興だ」
「そういや、リリィとヴァンで練習試合組んだらしいじゃねえか。どうだったよ?」
 ヴァンは昨日の練習試合を思い起こして眉根を寄せた。
「強かった。一撃の威力、攻撃の連続性、そして運、全てが揃っている。儂が勝てたのは気力の差だ」
 傭兵として数々の死線を越えたヴァンにとっては、勝ったとはいえ悔しい結果だった。リックは表情を察して肩をすくめると話題を戻した。
「サザンは組み替えないだろうから、ヴァンは子守か」
 双子のディーネとアゼル、そして一見子供で、魔法を使う時には若返って子供に戻ってしまうリア。どう見ても子守である。
「儂が耐え、ディーネらが避け、リアが撃つ。子守とはいえ悪くはない」
「耐えるも何も、いつも耐えながら攻撃してるじゃねえか」
「わかっとらんな、攻撃は最大の防御という至言がある。そういうことだ」
 若干酔っているのか、ヴァンの説明は説明になっていなかった。だが、同じくほろ酔いのリックには理解できたようだった。
「回復役がいない組ってのも、俺たちからすりゃ珍しいな」
「何、喰らう前に喰らわせ終わっていれば回復など無用よ」
「違いない」
 そう笑って二人は同時に酒杯を煽った。

28日目
 秋の空は高く、気の早い枯れ葉は冬を待たずに腐葉土となり始め、豊かな薫りを島に広げていた。
 そんな中、傷だらけの青年と一匹の獣が落ち葉を集めていそいそと焚き火の準備をしている。
「孤島と外部では時の流れ方が違うと聞くが、そんな島でも秋は来るんだな」
 傷だらけの男が呟く。応える者は誰もいない。
「冬が来る頃には、外界はどのぐらいの時間が経っているのか……。ホーク、お前家族はいるんだろ?」
 かたわらを歩く獣に声を掛ける。だが返事はない。
「ホーク、もう喋ってもいいだろう。お前が掟を破ったかどうかなんてのは、孤島に来なきゃわからないぞ」
「……姉ちゃんなら来るよ」
 獣が声を発する。その声は意外にもはっきりとした少年の声だった。
 少年はすっくと立ち上がると、身に纏っていた獣皮をずらして幼い顔を覗かせた。その顔色は何かに怯えるように蒼白だった。
「お前の姉? 兄ではなくて姉がこのような孤島にか?」
 一歩間違えれば餓えて死ぬような孤島に進んでやって来るような奇特な少女がいるものか、そう考えてから彼はふと脳裏に浮かんだ仲間たちの顔の中に奇特な少女が数名いたことを思い出す。
「姉ちゃんなら来る。ボクを見に来る」
「心配してくれるなんて、良い姉さんじゃないか」
 少年が凄い勢いで男の顔を見上げたので、男は自分の言葉が的外れだったと悟る。
「姉ちゃんは心配で来るんじゃない……ボクが困ってるのを見るつもりなんだ。ボクが掟を破ってないか、破っていたらどういじめてやろうか、そんなのを考えてるんだ……」
 震えながら言う少年の言葉には確信めいたものがあった。
「……どんな姉だそれは」
 少年は魔法を使う。聞けば魔法使いの一族だと言う。その事実を知ったのもつい最近のことだった。
 共に旅を続けて数週間が経っていたが、つい最近まで彼はほとんど言葉を発せず、獣皮の中身が少年だったということがわかったのは一昨日だった。
「ボクに一切言葉を喋るなって言ってたのも姉ちゃんなんだ」
 半人前は人前に顔を晒さず、獣の皮を被って一切言葉を喋るな、そう言いつけられていたらしい。
「喋ったらどうなるんだ?」
「……撃たれる」
 予想とかけ離れた言葉に、ぶたれると聞き間違えたかといぶかしがる。
「何?」
「銃で撃たれる」
 やはり聞き間違いでは無かったらしい。
 男も銃という道具やその威力については聞き知っていた。だからこそ、余計に常識では有り得ない事態だと理解できた。
「……死ぬじゃないか」
「うん……」
 震える少年の様子を見ると冗談だとは思えない。
「お前の一族は魔法使いなのだろう? お前も魔石を作るじゃないか」
 少年は孤島でも十指に入る攻魔作製師だった。そんな一族と、銃という別系統の武器の繋がりが見えない。
「魔法だよ、姉ちゃんの」
 話も見えない。
「どういうことだ、銃とは言ってみればクロスボウの発展形だろう? 火薬などを使って鉛弾を飛ばす機械だと聞いているのだが、違うのか?」
 男も実際の銃を見たことはない。剣士である彼にとっては、子供でも引き金を引くだけで中距離からでも歴戦の戦士を殺せる武器など忌むべきものだった。クロスボウのように準備と使用に時間と経験が必要な武器ならばまだ良い。弓だと使うのに相当の訓練がいる。魔法ならば訓練も才能もいる。ただ引き金を引くだけ、若い彼にはそれが戦いへの侮辱のように感じられたのだ。
「姉ちゃんの使う銃は機械じゃないよ」
「……まさか」
「魔法で銃を作るんだ」
 ようやく繋がりが見えた。魔法で銃を作り出してその銃から魔法で作った弾を撃つ、そこまでが一連の魔法になっているのだろう。
「なんと回りくどい」
 素直に口を突いて出てしまった。
「銃で済んだらまだいいよ。姉ちゃんが本気で怒ったらバズーカーとかミサイルを使うんだ」
 聞き慣れない単語だったが、異世界から来たという仲間とお互いの世界の話をしていた際、盛り上がって戦争の話になった時に一度だけ説明を受けたことがあった。
「……死なないか?」
「……死ぬ」
「姉さんだろ?」
「姉ちゃんだよ」
 微笑する少年の口の端は、僅かに引きつっていた。それが少年の恐怖と諦観を伝えていた。
「だからボクは姉ちゃんが怖いんだ。掟を破ったら殺されるんだ」
 これまではてっきり一族の掟で破れば死罪などと決められているのだと思っていたが、どうやら破れば姉が個人的に殺しに来るという事らしい。
 男は僅かによぎった「姉を見てみたい」という好奇心を律し、同情混じりに少年の頭を撫でてやった。
「強く生きろよ」
「生きてられたらね」
 一層少年の諦めが深くなったように感じた。
「……姉の名は何という?」
「リア――」
 ルヴァリア・フェンネリーフ。

       †

 焦土となった周囲を見回し、ヴァンドルフ・デュッセルライトは随分と昔に聞いた少年の話を思い出した。
「何という有様だ……」
 身震いしたのは冬の寒さからではない。この光景を作り出したのが、たった一人の少女だったという事実が彼を戦慄させた。
 リックと組む最後の狩りが予想外に早く終わったので、明日から共に戦う仲間の戦いぶりでも見てやろうと駆けつけた彼が見たのは、一方的な虐殺の現場だった。生命亡き者の王とうそぶく元植物生命体と、赤毛の双子の戦いぶりはまだ普通。しかしその後ろから黒光りする巨大な筒を振り回し、赤子の頭ほどはあろうかという巨大な鉄塊を敵陣に撃ち込んで笑っている少女の姿は異様だった。
「何たる威力……あれが話に聞いたバズーカーというものか」
 ヴァンが呟いた矢先に大砲が光と共に粒子と散り、また集まって今度は別の形の黒い鉄塊を形成する。
 パラパラと音を立てて銃身から光弾が飛ぶ。
「立てよ……立って根性見せろコラァッ!」
 少女の怒号が動く者のいなくなった敵陣に吸い込まれて消える。全滅だった。少女にはかすり傷一つない。
「さぁて、紅茶の準備を始めるか」
 優雅な動作で元植物生命体が振り返る。
「おや? ヴァンじゃないか。お前も一緒に紅茶を飲まないか?」
「断る。お前のは茶ではなくて血だろう」
 生命亡者王唐土、歩く巨大なトウモロコシのゾンビである。
 かつてヴァンが孤島に来た時にも、もろこしを名乗る歩くトウモロコシが仲間にいた。ヴァンの弟子ボルテクスが別の孤島に言った時には、森の民もろこし、略してもりこしと自称する歩くトウモロコシが仲間にいたらしい。エマールから聞いたところによると、エマールがジーンと組んでいた別の孤島にも、魔術士もろこし、略してまろこしと自称する歩くトウモロコシがいたそうだ。
 その全てが同一人物なのかどうかはわからない。聞いても独特の乗りで答えをはぐらかされる。ただ、エマールといたまろこしが死に亡者となったのがこの唐土だというのは確からしかった。
「お前が儂の知るもろこしと同一人物……もとい同じ植物ならば、ホークの話も出来たのだろうがな。神薙火音は元気か?」
「誰だ、その今にも脱ぎそうな人物は」
「最初と最後の文字だけ繋げるな阿呆。もういい、貴様に鎌を掛けても意味がないというのはわかっていたさ」
 神薙火音とは、かつての孤島でもろこしと組んでいた武器職人の名前だった。ヴァンの仲間たちが出会った全てのもろこしが同一人物かどうかもわからなければ、唯一同一人物だとわかっているエマールが出会った生前のもろこしの記憶が、今の生ける屍となった唐土に残っているのかもわからないのだ。
「エロスなら負けんぞ!」
「黙れ」
「紅茶も飲め!」
「それは血だ」
「わがままな……」
 ヴァンは唐土を無視して赤毛の双子の元へと歩み寄る。
「あれがリアの戦っている姿か」
「あ、ヴァンさん。明日からお世話になります」
「よろしくねおっさん!」
 二人に軽く頷き返してリアの方を向く。
 先程まで豪快に笑っていたリアは、脱ぎ捨てていたワンピースの汚れをはらい落として、戦闘衣装の上から着ようともがいていた。首が通ると結んでいた髪をほどき、太ももまであった靴下を脱ぎ、いつものルヴァリア・フェンネリーフへと戻る。いつの間にか手に持っていた銃も見えなくなっていた。
 ようやくヴァンたちの視線に気付いたのか、頬を僅かに染めながら三人の元に駆け寄ってきた。
「もう、ヴァンさん乙女の着替えを覗いちゃダメですよ」
「服部ではあるまいし、幼女趣味はない」
 そう言ってしまってから、ヴァンは己の失言を悔いた。リアの笑顔は微塵も歪んではいなかったが、背後から黒い揺らぎが立ちのぼるような殺気が放たれていた。
 リアは一見ただの少女だ。戦っている時などは小雨と同年代にしか見えず、実際に十二歳まで若返って戦うという無茶苦茶な魔法を使う。そして戦いが終わると若返る魔法を解いて元の二十二歳の姿に戻るのだが――十二歳と何も代わらない姿だった。老いを知らないと言えば聞こえは良いが、体型も子供のままであるという事を本人は気にしているらしい。その証拠がこの殺気である。
「それにだな、着替えではなく戦闘衣装の上に服を重ね着しただけではないか」
「でも靴下は脱ぎましたよ?」
「そこまでは知らん!」
 珍しく狼狽するヴァンに向かってリアが一歩踏み出す。思わず一歩引いてしまいそうになるが、耐える。ディーネはどう止めるか困ったようにおろおろしているし、アゼルはにやにやと楽しそうに笑っているだけで、助け船は期待できない。そう思った矢先に、空気を読まない植物が割って入った。
「リアも紅茶を飲まんか? 絞りたてでおいしいぞ」
 猿の尻尾を握りしめながら現れた唐土によって場の空気が壊される。リアはいつもどおりの笑みを唐土に向けて「それもいいね」と優しく答えた。
 仲良く去っていく二人の背中を見つめながら、ヴァンは冷や汗をぬぐってため息をついた。
「良いのか……生き血を飲むというのに」
「あ、唐土さんはたまに普通のお茶も飲んでますよ」
「お茶に血を混ぜたのも飲むけどね」
 ディーネとアゼルがにこやかに話しかける。
「む、では今日のは普通の紅茶か?」
 それならば先ほど無下に断ったのは可哀相だったかも知れんと若干の罪悪感を抱く。
「ああ、今日のは知らない。どっちだっけ?」
「さあ……私たちもお茶に付き合うときは自分たちで用意するので」
「俺はいっぺんだけ唐土の用意したの飲んだよ」
「アゼル! 怪しいものは口にしたらお腹を壊すとあれほど!」
「大丈夫だって、唐土はいっつも飲んでるじゃん」
 気苦労の絶えない姉と、少年らしい少年である弟、外見とは違い内面はまったく似ていない双子だった。
「お義母さんもいないのにお腹を壊したらどうするの!」
「医者のおっさんがいるから大丈夫だって」
 楽天的な弟の言葉に、先程まで一緒にいた医師の名が出てくる。
「だがリックの知っている医術で解決出来るのか?」
 孤島の生物の生き血や体液を飲むのだ、そんな生物が存在しない世界の医学では対応しきれないかも知れない。その言葉に後押しされて弟の説教により熱の入った姉と、ヴァンに余計なことをとでも言いたげな一瞥をくれた弟を見て、この二人とは上手くやっていけるかも知れないなと、ヴァンは少しだけ安心するのだった。

29日目
 揺らめく炎が六つ浮かんでいた。
 手の平ほどの小さなそれは、豆粒のような目と口が付いている。紛れもない魔物だというのに、歴戦の傭兵であるはずのヴァンドルフ・デュッセルライトは斬ることに乗り気にはなれなかった。
 小さな口がささやく。
「ボクたちは?」
「どこ? いるの?」
 魔物の名は迷光という。炎に対して使うには変な言葉だが、影が薄い炎である。揺らめくうちに消えそうになっては、思い出したように燃え上がる。口々に呟く言葉は全て自信なさげなものだった。
 ヴァンは双剣の片方を鞘に納めると、残った剣を両手で構えた。
 一刀でも二刀でも戦えるのがヴァンの強みではあるが、双剣として作られたものを両手で持つのはあまり意味がない。柄の長さも刃の長さも片手で扱えるように作ってあるのだから当然である。
「……参るぞ」
 そう宣言したものの、揺らめく炎はヴァンの方を見ていない。ただ揺らめいて口々に自信なさげな言葉を呟くだけである。どうしたものか逡巡する間に、ディーネとアゼルの双子が炎の群れに飛び込んで鞭と槌を振るう。
「ちゃんと見て」
「ボクたちを見て」
 二つの炎がそう言ったかと思うと激しく発光する。ヴァンたちの身体に光がまとわりつく。見覚えのある技だ。
(エンチャント・ライトか!)
 それはヴァンの後ろに控える魔術士、ルヴァリア・フェンネリーフの得意とする魔法だった。
 相手を光の膜で包み、攻撃を強制的に光属性に変えてしまう。一時しのぎとはいえ、連射されると攻撃の威力が激減してしまう。
 リアのように最初から属性という概念を知っている者ならば対策もあるのだろうが、ヴァンが駆け抜けてきた戦場には必要のない概念だった。
 せいぜいが火の魔法を得意とする魔法使いが敵にいる場合は、炎に強い兵装を用意するか、炎の防護魔法が使える魔法使いを雇うかといった程度である。
「この手の攻撃は苦手だな」
 光の膜に包まれた左手を見て呟く。光弾による攻撃魔法ならば良い。飛んできた光弾を剣で弾くなり、用意していた指弾で届く前に効果を発現させるなり、視認してかわしたりと対策がいくらでもある。
 物理的な損壊を与える攻撃魔法ということは、ヴァンがわざわざ自分の身体で当たってやらなくても代わりの何かに当てればそこで効果が出てしまうのだ。これまでもそうやって戦場を切り抜けてきた。盾兵に守られた背後から魔法を撃ってくる青瓢箪を何人も斬り伏せてきた。乱戦の中で攻撃魔法を撃たれたときには、斬り結んでいる敵兵の腕を斬り飛ばして光弾にぶつけた事さえあった。
 しかしこのエンチャント・ライトは一定の範囲に指向性の光を放つことで光の膜を不着させる。光に包まれてしまっては避けようがないのだ。
(いかんな……どうも儂は小動物の類に弱い)
 随分前から自覚してはいた問題だった。
 傷だらけの強面に似合わず、ヴァンは子供や動物が嫌いではない。無論戦場で敵として出会えば斬り捨てるのは間違いない。戦乱が続く地域では少年兵などは珍しくもない。完全に兵士になりきっているのであれば、心を乱すことなく、逆に楽な相手に出会ったとばかりに一瞬で殺すことが出来る。だが、あまりにも年端のいかない子供や、迷いや怯えを持っている少年兵などは斬るにしても心が痛むのだ。気まぐれに見逃すことも多々あった。
「キミはボク?」
「ボクはキミ?」
 不可解な問い掛けを発しながら迷光が光弾を放つ。
 正確にヴァンを狙ってきたようでもないので余裕を持ってかわすと、背後でリアの短い悲鳴が聞こえた。どうやら彼女を狙って撃ったらしい。
「不用意に攻撃してこなければ見逃してやったんだがな……自壊せよ」
 光に包まれたまま剣を振り抜く。いつものような確かな手応えはないが、充分に傷を負わせた事は理解できた。
 そのまま迷光の横を駆け抜けて、他の迷光と戦っている双子の姉弟の背中を守る。
「助かるよおっさん!」
「アゼル!」
「おじさん!」
 どうやら昨夜のうちにヴァンの事をおっさん呼ばわりするのは失礼だと姉から説教されたのだろう。息のあった双子に苦笑を送ってからヴァンは迷光に向き直った。
 二組の迷光と向き合うのは双子。その背後を取っていた迷光の横を駆け抜けたヴァンが背を守る形になったが、一見六つの迷光に囲まれている形になっている。本来後衛であるはずのリアも距離があるとはいえ、ディーネ達の背後を取っていた迷光との間を遮る壁はいない。
 普段のヴァンならば絶対に冒さない失策とも言える行動だったが、彼はあえてそうしたのだった。
 リアの身体の内から光が溢れ出し、続いてヴァンや双子の身体からも光がにじみ出る。ライトシンパシィ、これもまた彼女の得意とする魔法だった。攻防を兼ねた強化魔法だ。
 これまでの動きでヴァンは相手が魔法を得意とする魔物だと断定していた。攻撃手段も光を伴うものが多く、それならば同じ光属性の魔法を得意とするリアならば真正面から撃ち合っても負けはないと判断したのだろう。
 ライトシンパシィが完成したと同時に、一筋の閃光が迷光を貫く。紫電一閃、魔法を使う度にリアのステッキを変化させた銃から光線がほとばしり敵を撃つ。ヴァン一行の中でリアが破壊の権化として畏怖されている理由の一つである。
 魔法によって作られた銃が形を変え、広くなった口径から轟音と共に光弾が迷光を貫く。消し飛ぶかとも思えるほど空いた穴を埋めるように激しく迷光が揺らぐ。その揺らぎが収まる前に紫電が更にその身を貫く。
 ヴァンは頬をかすめた光弾に冷や汗をかいたが、その汗も紫電が吹き飛ばして行く。
「小娘! しっかり狙って撃たんか!」
「しっかり避けりゃいいだろっ!」
「ふざけろ阿呆!」
 怒鳴りあいながらも迷光を間合いに入れる。
「崩れ逝け」
 リアへの恨みを若干こめて迷光に斬り付ける。
 返す刀は避けられたが、その間にもディーネとアゼルは連係攻撃で迷光を追い詰めていく。戦況は優勢、そう思った瞬間迷光が激しく明滅した。
「なんだ!?」
 即座に目を瞑るがそれさえも無力化するほどの明滅が網膜に焼き付く。
 ヴァンは気配を頼りに飛び退いて間合いを取るが、ディーネたちが動いた気配はない。守りに戻るかと迷った刹那の隙を光弾が襲う。身体に満ちた光の加護によって幾分か衝撃は和らげられたが、手痛い一撃だった。
「リア!」
「この魔法は知らない!」
 今の一撃ではなく明滅する魔法についてだと断らなくても、名を呼ぶだけで意図を理解する。ヴァンは不意にリアともやっていけるかも知れないと考えかけて、すぐに頭の片隅に追いやった。考えるのは戦闘が終わってからで良い。
「とにかく吹っ飛べ!」
 怒号と共にリアの魔銃から魔法が放たれる。まだ視力は回復していない。気配を頼りに勘で撃っているのだ。そのため、ヴァンはリアの魔法が鏡のような障壁に跳ね返されたことに気付かなかった。
「とどめだ!」
 リアの一撃が跳ね返された音を連撃の好機と勘違いしたまま、剣を振り抜く。手応えの違和感に気付いて即座に身をひねるが、遅い。ヴァンは己の振った剣の威力をそのまま反射されて、まともに受けてしまった。
「反射!? メィレィのようなものか、小癪な!」
 幾たびか見たことのある反射魔法を思い起こし、状況を認識する。
「手の内はこれで全てか? 視力も戻ってきた、最早これまでと心得よ」
 ヴァンの宣言通り、迷光たちが全滅するのにそう長い時間はかからなかった。

       †

 森の泉で休息を取りながら、ヴァンは己の手を見つめていた。
「おっさ――ヴァンおじさん、どうしたの?」
 姉の釘を刺す視線に反応して言い直しながらアゼルが近づいてきた。ヴァンは微笑を浮かべて無警戒な少年に頭に手を置いた。
「なんでもないさ」
「うわべの誤魔化しはきかないよ」
 他の子供と一緒にするなといわんばかりの一言。幼い頃に滅びたとはいえ、仮にも大国の皇族だと納得できる風格の微細な片鱗がそこにはあった。ヴァンは赤毛の上に置いた手を二度、撫でるとも叩くともつかない動作で弾ませた。
「己の弱さを見ていたのだ」
 頭の上から手をのけて、先ほどのように手の平を平げてじっと見る。
「儂には未だに克服しがたい弱点があるのだ」
 興味津々といったふうにアゼルがヴァンの横に座って見上げてくる。
 ヴァンはため息混じりに首を振ると、重々しく呟いた。
「小動物に油断をしてしまう」
「へ?」
 アゼルが思わず間の抜けた声で聞き返す。だがヴァンは真面目くさった口調で同じ事を呟いた。
「小動物に油断してしまうのだ。小鳥や猫、イタチや穴熊、リスやムササビ、兎や猫」
「猫二回言ったよ」
「気のせいだ」
「犬は?」
「躾ければ犬も戦士たり得る。あれは油断できん」
 開いた手を二、三度開閉する。
「今日の迷光、あれも魔物だとはわかっていたし、自分でもすぐに気持ちを切り替えて斬る心構えはできたと思っていた」
 顔を上げて虚空を睨む。
「だがそうではなかった。本来あの場は二刀を以て相手が行動を起こす前に先制攻撃を仕掛けるべきだった。わかるか?」
 頷く少年にニヤリと笑いかけて頭を軽く撫でる。
「そうだな、お前たちは儂よりも先に敵陣に切り込んだ。そしてそれは儂がお前たちに遅れを取ったという油断の証明だ」
「でもリアねーちゃんと敵の相性を見て攻めに転じたのは正解だったんじゃないの?」
 少年の気遣いがよりヴァンに未熟さを自覚させる。
「だが攻めに転じた後で例の明滅だ。あれが直接攻撃をするような技、特に自爆系の技だった場合リアはやられていただろう」
「でもそれは敵の中に突っ込んでいった俺たちの――」
「普段の儂ならばお前たちが突っ込む前に戦型の指示を出しているさ。気遣わずとも良い、儂の油断であり、儂の失敗だ」
「一人で背負い込まなくてもいいのになぁ」
 口を尖らせて言う少年の優しさに、ヴァンは微笑を浮かべて立ち上がった。
「それが大人の責任だ」
 アゼルも負けじと立ち上がる。
「子供扱いすんなよ、俺だって戦場に立つからには戦士だ」
「半人前の戦士を一人前の戦士に育て上げるのも、大人の責任さ」
 そう言って弟の食事の用意をしているディーネを指さす。
「ディーネと組んでるから半人前だっての?」
 少年の反発を、歴戦の傭兵は首を振って否定した。
「背中を預けられる相棒がいるのはむしろ戦士の美徳だ。よく見ろ」
 ヴァンの指さす方を正確に追う。その先には、ディーネのかたわらに置かれた少年の槌があった。
「己の武器から無警戒に離れる者を一人前と呼ぶか?」
「……呼ばない」
「ではもう一つ、気付いているか?」
 今度は何の事かわからないといった表情でアゼルがヴァンに振り返る。
「嫌な気配が満ちてきた。そろそろ来るぞ、急いで飯をかき込め。十分以内だ」
「早食いなら一人前!」
 少年は飛ぶように姉に駆け寄ると、姉が調理した保存食に飛びついた。ディーネもはしたないと弟をたしなめながらも、焦ったように食事をとり始めた。
 森の茂みをかき分けて、褐色の肌をした赤毛の子供が現れたのは、アゼルが食事を終えて三分後だった。
「やれやれ、つくづく赤毛の子供に縁がある」
 ヴァンは口調とは裏腹に、殺気をこめて双剣を抜き放った。

41日目
 避けられる。連撃が避けられる。全てをいなされ、反射され、力尽きた所で目が覚める。
「負け戦を夢に見るとは、本当に惰弱になったものだ」
 とは言えヴァンの眠りは深いものではない。常に表層を漂うように眠り、僅かな時間だけ深い眠りに落ちて一気に心身を休め、また眠りの表層へ戻る。夢を見ることさえ稀である。
 夢幻の造られしものとの戦いと敗戦、孤島に来て初めての敗北であった。
 武功を重ね、気付けば分不相応な扱いを受け、英雄とまで呼ばれた己を打ち捨てたかった。荒々しい戦場の孤狼ではなく、貴族に持てなされる英雄扱いの日々はヴァンの心を冷やしていった。己の心が惰弱になっていないか、孤狼と呼ばれた日の自分は今も芯が通った男であるか。そう自問し、否と自答した。だから彼は孤島に来た。
 敗北を重ねて泥濘を啜っても戦い続ける、泥臭い狼でありたい。
 その願いに突き動かされ、ようやく完成した終世の武器、光双剣を置いて孤島にやって来たのだ。
 この敗北は、むしろ待ち望んだ敗北であるとさえ言える。
 再び目を閉じると、無表情な人形が脳裏に浮かぶ。ほとんど足を動かしていないのに地面を滑るように高速で移動するため、次の行動が予想しにくい。
 牽制で相手を動かし、その次の動きを予想して避けられない一撃を叩き込む。熟練の戦士ならば誰もが基本として行う経験の為せる技。無表情な人形はその次の動きを読み取らせないのだ。足の動きがわからないし、表情もぴくりとも動かないため目線さえ読めない。感情が読み取れるのならばまだしも、ただの命令に従うだけの人形にはそれもない。
 ヴァンとて無策で挑んだのではない。
 相手が展開する、攻撃をはじき返す障壁を炎熱の波動で炎上させて無効化する。そうして相手が障壁を張り直す前に一気に攻め入り、得意技としていた狼牙十連の猛襲撃を絶え間なく繰り出して、十連撃二十連撃と重ねて叩き込む。必要な布石は全て撃ち、戦略は数日前に完成していた。
 後は挑むだけとなった前日に、遺跡を取り巻く空気が変わった。なぜか意識が集中できず、猛襲撃も空を切る。
 そもそもヴァンの考えでは、一撃を当てられればそこから回避姿勢を取らせる前に二撃目を当てることが出来ると読んでいたし、一撃が外れてもその回避姿勢が終わる前にもう片方の手に持った剣で二撃目を必中させられると信じていた。今までの敵にもそうして当ててきたし、回避を得意とする戦士との練習試合でも、避けられる数こそ増えるもののしっかりと当てることが出来た。
 だがその日、ヴァンの剣はいつものように相手を捉える事ができなかった。昨日からの空気の変わり方が嫌な予感を抱かせた。嫌な予感というものは大概にして当たるものだ。そうしてヴァンは敗北した。
 翌日は丸一日を費やして反省と修行に明け暮れた。
 相手の次の動作が読めないのならば、今の動作に当てれば良い。そんな単純な結論に達する。外れる可能性の高い大技で一気に決めようとは思わずに、狙いを付けやすい攻撃を確実に当てる。基本中の基本だが忘れかけていたことでもあった。多少回避されても大技を当てることができたこれまでに胡座をかいでいては、成長は望めない。遺跡の空気が変わってヴァンの攻撃の狙いが付けにくくなったというのは、慢心を諫める天の采配だったと受け入れよう。そう決意したヴァンは命中精度を高めるべく夜半過ぎまで剣を振るっていた。

 仲間たちに再戦を頼んでみると、意外にもあっさりと許可が出た。他にも敗戦した面々を見ると、不死植物生命体の唐土と、年齢不詳の傘女小雨も敗戦組に名を連ねていた。負けは必至だろうと諦めていた所を、策を授けた服部周は見事に策を成功させて勝っていた。策が上手く行った事に若干の満足感と、人に策を与えておいて己は負けたという情けなさがヴァンの表情を微妙なものにさせた。
 今度は必勝の策も用意し鍛錬も積んだ。小雨嬢にも策を与え、いざという段になって急遽三人で組んではどうかという話が持ち上がった。
 あの人形は、こちらの人数に合わせて増減する。多人数ならば、それだけこちらを惑わす精神攻撃と、攻撃を弾く障壁の数が増える。無策で挑めば勝ち目はない。一人で挑むより確実に勝率は落ちる。
 だが、ヴァンはあえてその案に乗った。小雨嬢なら与えた策で勝てるだろうが、唐土はどうにも相性が悪い。ならば自分が支援と攻撃手を常時切り替えながら二人を支えればどうかと考えたのだ。戦場の中心にいるのが誉れではない、戦場の最前線にいるのが誉れではない、味方をいかに殺させずに敵を斃すかというのがヴァンの思う戦士の誉れだった。
 戦況を見抜きながら己の役割を変えて影で支えるというのは、知らぬ者から見れば手柄を捨てた自己抑圧だろうが、ヴァンにとってはやり甲斐のある挑戦であったのだ。


 敗戦の夢の余韻から覚めやらぬまま、少し空を見上げる。遺跡の天上に映し出された偽物の夜空でも、今夜は綺麗だと感じる事ができた。
 既に再戦は勝利で終わっている。
 三人での連係も上手く行き、非の打ち所は無かったとさえ思える圧勝だった。
 それでもヴァンは眠りにつく前に負け戦を思い出す。
 一度掴んだ勝利を二度見る事は好ましくない。一度味わった敗北こそを何度も反芻して苦さを覚えておいた方が良い。敗因を探り、自戒して改善する事で成長が得られるはずだ。
 刻まれた傷は弱さの証。酒杯に顔が映る度、顔を洗おうとすくった水に映る度、掲げた剣にふと映る度、傷だらけの顔に気を引き締める。
「何難しい顔してんだ? そろそろ交替だぞ」
 焚き火に照らされた褐色の顔が笑っている。リックと焚き火を囲むのも久しぶりだと感じる。孤島に来てから現在までで四十一日が経つが、その内の一ヶ月弱を共に闘った。以前は焚き火の番をしながら良く酒を酌み交わしたものだ。現在でも夜番の順さえ合えば焚き火を囲んで杯を交わす。今夜のように。
 ヴァンは革袋から酒瓶を取り出すとリックに掲げて見せた。リックも良いねと応じると、ヴァンの傍に座って自分の酒杯を取り出した。二人とも、自分と相手用の酒杯を持ち歩いている。一人で飲む酒も良いが、誰かと飲む酒もうまいと知っているからだ。焚き火を囲む小さな酒宴には、たまにリリィや義姉エマールなどが加わるが、今日はぐっすりと眠っている。
「俺はバーボンしか持ち込んでないが、そっちは多彩だな。持つべき物は酒場やってる弟子か」
 ヴァンの弟子、ボルテクスは未だ一線級の力量を保った傭兵なのだが、何の気まぐれか酒場を開いている。元来陽気で人好きのする男であるし、かつては彼自身も孤島に渡ってエマールと共に全ての宝玉を集めた経験もあってか、孤島や遺跡、異世界の住人に対する慣れがある。すぐに遺跡外の空気に溶け込むと、積極的に異世界の商人とお互いの世界の特産物を交換するまでに至った。
「今日はこいつだ」
 そう言って栓を開けると熟れた果実の香りが広がった。
「トマトか?」
「そちらの世界ではそれが一番近いな」
 ヴァンとリックもまた、違う世界から孤島に集ったのだ。言語も文化も違うのは当然だが、何かしら似通った点はいくつもあった。その一つがこのポルという果実だった。
 温暖な気候で良く育ち、陽の光を吸収したように赤い。生命の塊とありがたがる地方さえあるように、どのような料理にも使えて栄養も豊富で、何より味が良い。飲用にしても、砂糖や塩と混ぜる物もあれば、酒で割る物や、一から発行させて酒にする物、別種の酒と発酵段階で混ぜる物など様々だ。
 聞けばリックの世界のトマトも似たような物らしい。小雨が花言葉は完成した美だと言っていたことからも、彼らの世界でも好まれている果実だとわかる。もっとも小雨はそう好きではないというような事も言っていたが。
「名前が似ているだけあって、ボルは良いポル酒を選ぶ」
 下手な洒落だが、ヴァンが言うことに妙なおかしさがあったのかリックが笑う。差し出された酒杯にそそぐ。とくとくと流れる紅玉色の液体からは酒精とポルと、かすかな葡萄の香りが感じられた。
 リックが興味深く酒を焚き火に透かして見ている横で、ヴァンも自分の酒杯に酒を注ぐ。片手で器用に栓をするのを待って、リックが酒杯を掲げて音頭を取った。
「再戦の勝利に」
「初戦の敗北に」
 祝ってやろうと思った音頭に返された皮肉に、リックは「ひねくれものが」と苦笑して応じた。
「ちょっと甘いが程よい甘さだな」
 野菜ではあるがよく熟れたものだと果物のような甘味が出る曖昧な果実である。リックの世界では野菜か果物かで裁判になったとさえ聞いた。
「確かに。かすかに混ざった葡萄の香りがまた良いな」
「こりゃ皮ごと入れてるな」
「どこか渋みがあるのはそれだな」
 二杯目をリックの酒杯にそそぐ。
「良い隠し味だ」
 ヴァンも己の杯に手酌でそそぐと、また片手で器用に栓をした。
「そう言えば……」と切り出してきたのはリックである。
「ヴァンは今日何と戦ったんだ? 一人だったんだろ?」
 再戦から一夜明け、単独行動で砂地へと突入したヴァンを待ち受けていたのは一匹の巨大な蠍だった。
「妙に硬い、大きな蠍だったな」
「ジャイアントスコーピオンか」
「どうも殻のような皮膚に衝撃が加わると、逆に回復している気がしてな」
「あれか、ちょっと待ってな」
 リックは鞄をあさると、色んな走り書きが纏められた紙の束を持ち出した。その頁を幾枚かめくっていた手が止まる。
「あった、これだ。お前の勘は間違ってないぜ、見てみな」
 差し出された紙には蠍の絵と様々な文字が書かれていたが、ヴァンには読めない。
「あ、そうか、世界が違うから英語で書いてもわからんわな」
 微妙に恥ずかしそうな表情を浮かべると、リックはポル酒を少しあおって紙に書かれた文章を読み上げた。
「通常の蠍とは違い表皮は硬く、そこに衝撃が加わると薬効成分を含んだ鎮痛剤のようなものがにじみ出るため、中途半端な攻撃を加えると逆に活性化させてしまう恐れがある」
「そのせいか」
 リックは紙片から目を離さずに頷いた。
「傷ついた個体は自ら岩に登ってから飛び降り、衝撃で鎮痛剤を出すことによって傷を治す例が目撃されている……だそうだ」
「便利な身体をしているな。あやかりたいものだ」
 ヴァンの微笑にリックもまったくだと応じて紙の束を鞄に戻した。
「しかしいつそんなものを調べたんだ」
「遺跡外で情報を集めたり、遺跡の中で会った奴から話を聞いたり、自分で解剖して調べたり、色々だな。動物を使役するのなら、こういう知識も持っていた方がいいからな。医者としてもどういう奴らから受けた傷かってのを知っていないと治すに治せない時があるし」
「殊勝な事だな」
「日々の努力が大切なんだよ。わかるだろ、お前さんなら。さて、俺はぼちぼち寝るが一つ忠告しておくぞ」
 酒杯を傾けたヴァンが目で先を促す。
「蝦夷栗鼠に出くわしたら注意しろ」
「リスだと? なんだ、強いのか?」
「強くはないが強敵だ。特に、ジャイアントスコーピオンのような硬い奴と現れた時はな」
「支援能力が凄いという事か」
「地の加護を受けた回復は凄まじいぞ。複数いたら長期戦を覚悟しろ」
 そう言ってリックは寝床へと向かっていった。
 翌朝、赤毛の子供たちと敵に遭遇したヴァンの前には三匹の栗鼠と、二匹の蠍が立ち塞がっていた。
「……あの藪医者、わかっていて言ったんじゃないだろうな」
 独りごちると、ヴァンは双剣を抜いて戦端を開いた。

45日目
 遙かなる頂を見上げる。
 孤島に来て四十日も過ぎたが、眼前にそびえ立つ岩山はこれまでに見たこともない文字通りの壁となってヴァン一行の前に立ち塞がっていた。
 リックが羊皮紙を広げて周囲の地形を確認する。遺跡外で購入した、先駆者の情報を元にした地図だ。
 一足先に地下二階からの階段を登って来たヴァンやリックからだいぶ遅れて、足の短い唐土と、まだ子供であるディーネとアゼル、それに小雨と彼女に付き添っていた服部がようやく階段を登りきった。
「長い長い階段を登るとそこは雪国だった! なんてのを期待してたんだけどなぁ」
「あついねー」
 少女の額に汗がにじんでいるのは気温のせいではない。雨具を身につけたままで長い階段を登ってきたのだから、子供の体力ではかなり大変だったのだろう。
 鍛えられたヴァンでさえ、愛用している鋼線を編み込んだ外套を脱いで登ったほどだ。リックも普段ならばダークホースに荷物を載せて悠々と歩くのだが、馬が階段を登るのは容易ではなく、文句を言わないのを良いことに夢幻の造られしものにダークホースの尻を押させていた。それでも時折リックが横からダークホースを支える場面が見られた。医者の額からも汗が流れ落ちているのは、何も歳のせいだけではないのだろう。
 そのリックが地図から目を離して少女と幼女趣味に声を掛ける。
「ヤスナリ・カワバタのパロディか? アマネも意外と教養があるじゃないか」
「誰だそれ?」
「……お前はそういう奴だったな」
 ヴァンにも何の事かは分からなかったが、どうやら服部の言葉は彼や小雨の住んでいた国の有名な小説の一節をもじったものだったらしい。リックの国と小雨達の国では言語が違うし海を隔てた異文化のはずだったが、リックはその作家を知っているようだ。
「自分の国のノーベル文学賞作家ぐらい覚えておけよ」
「山田風太郎なら読んだことあるよ」
「知らんな、誰だそれ。どうせお前のことだ、コミックとかだろ」
 そう言ってリックは再び地図に視線を落とした。
 ヴァンは邪魔をしないようにリックの横へ近づくと、地図をのぞき込んで周囲の地形と照らし合わせた。
「この辺りの岩に目印が掘ってあるらしいんだが、岩自体がねえんだよな。ガセネタ掴まされたか?」
 方角におおよその見当をつけて見てみるも、確かに岩は見あたらない。
「ひょっとすると……岩が崩されたのかも知れんな」
「マジかよ。階段の周辺はそんな強い奴出てこないんじゃないのか」
「人狩りと応戦した者が暴れたのかも知れんし、リアみたいな奴が雑魚相手に無茶をしたのかも知れん。可能性はいくらでもある」
 ヴァンの言葉に軽く頷くと、リックはちらりと少し離れた所でリリィと談笑しているルヴァリアを見てもう一度、今度は深く頷いた。
「アゼル!」と、ヴァンが赤毛の少年を呼ぶ。双子の姉と何かを喋っていたアゼルが駆け寄ってくると、ヴァンは地図に描かれた印を見せた。
「そこらの砕けた岩や石にこの印が無いか探してきてくれんか。唐土ではあてにならなくてな」
 少年は快諾すると元気に走って行く。その背を見ながらヴァンが軽くため息をつくと、見透かしたようにリックが笑った。
「子供をあごで使うとはワシも歳かな……か?」
 ヴァンは若干恥ずかしそうに苦笑すると、「そうだ」と認めた。

       †

 結局階段の周囲で一夜を明かし、日が昇る前に登山を開始した一行だったが、日が傾き始めても一向に山を抜けられる気配は見えなかった。
 様々な荷物を載せられたダークホースの不満げな視線を感じながら、ヴァンはそろそろ覚悟を決めるべきかと思案していた。
「ヴァンよ、そろそろ休まないとやばいぜ。嬢ちゃん達の疲労が目に見えて来やがった」
 医者の言葉でようやく決心が付いた。ヴァンはリックを手招きして地図を受け取ると、歩きながらそれを開いた。
「そろそろこの地帯を抜けられるはずだな?」
 地図の山道には色分けがされており、階段の所から続いていた赤い色分けの部分の大半を踏破していた。
「そうだな、小一時間ほど前にこの奇岩があったから、レベ……難易度三の地帯はぼちぼち終わるかね」
 緑の少ない岩だらけの山道だ、これで起伏が少なければ木々の生い茂る森よりは見通しが利くののだが、百舌鳥が見かけたら思わずはやにえをしたくなるだろうというような、鋭く切り立った岩が林のように立ち並んでいる。これではにじり寄る敵を察知するのが難しい。
「この地帯で設営するのは無謀だからな。何とかしてこの黄色、難易度二か? ここまで抜けてしまえば……」
「それでも充分怖いが、まあ仕方ないわな」
「今日中に山岳地帯自体を抜けるのが最良だったが、不可能となると次善はこれだろう」
 地図の距離を見ると、ここが例え平原でも丸一日かかっても通り抜けられない長さであった。起伏に富んだ山道で平原と同じような距離を歩けたのは、むしろよくやったと喜ぶべきなのだ。
「嫌な気配がする。立ち止まるわけにはいかん。皆にはしばらく黙って付いてきて貰うよりないが、医者の見立てではどのぐらい持つ?」
「あと一時間。いや、それも厳しいかもな」
 足を止めないように進みながら、ヴァンはちらりと後ろを振り返った。女性陣で余裕が見られたのは日夜鍛錬を重ねているリドと、かつての孤島で宝玉を全て集めた女傑エマールのみだった。正確には彼女は義妹リリィを陰ながら手助けするために同行しているだけで、一行の一員と数えて良いわけではなかった。
 リリィは女性にしては体力がある方だったが、その長躯と重い荷物で疲労を早めているようだった。冒険者としてある程度の訓練をしたディーネやリアにも疲労の色が見える。小雨に至っては服部が荷物を全て持ってやってなお、限界が近いのは明白だった。
 しんがりを務めているディナとスフィは、ヴァンの位置からでは様子は見えないが、恐らく弓使いのディナは体を鍛えているのでリリィと同程度かそれ以下の疲労で耐えているだろう。スフィもリリィには及ばぬながら、女性魔術師にしては充分以上の鍛錬を積んでいるので大丈夫だろう。
 やはり問題は少女三人の疲労だった。素知らぬ顔をしているが、リックも疲労を隠せないでいる。造られしものやダークホースに荷物を持たせていても、四十過ぎの医者が一日中山歩きは堪えるのだろう。
「どうしたよ?」
「……いや、急ごう」
 医者の強がりを尊重して、ヴァンは前に向き直った。
 男性陣は今の所大丈夫そうだ。軟弱に見える服部や、双子の姉と同じく疲弊しているかと思ったアゼルなどは持ち前の身軽さが幸いしたのか、どうやらまだ余裕があるようだった。
「ん、そうか……服部、アゼル、少し良いか?」
 ヴァンが呼ぶと身軽な二人が駆け寄ってくる。
「すまんが儂は先頭を守らねばならんのでな、お前達二人に斥候を頼みたい。雰囲気が変わる……そうだな、起伏がゆるくなったり、岩が少なくなる地点を探してくれ」
 そう言いながら、切り立った岩を指さす。
「あのような岩に登って遠くを見通しても構わん。ただし、岩陰に敵が潜んでいるかも知れん。くれぐれも注意してくれ」
「忍者の腕の見せ所だな! 行くぜアゼル!」
「行くぞアマネ!」
「呼び捨て!? 俺年上! 十七年先輩!」
「あまやん、早く!」
 二人の声が遠ざかって行く。その背を見送りながら、ヴァンはぽつりと「くれぐれも注意をしろと……」などと独りごちた。

       †

 大き目の焚き火が夜闇を照らしていた。今夜はいつものように小さな焚き火ごとに数人集まるのではなく、大きな焚き火を全員で囲んでの夕食となった。皆で労をねぎらいあおうという意図もあったが、アゼルと服部が斥候から帰ってきた時に興奮して叫んだ「ドラゴンがいた!」という一言を警戒したのもある。
 保存食として持ち歩いていた干し肉の他に、夜営の前に狩ってきた兎を三羽と適当な野菜を煮込んだスープが今夜の夕食となった。
 やはり話題はアゼル達が見たという竜についてだった。
「飛竜程度ならばまだ戦いようがあるが、ドラゴンは少々厳しいな」
 かつて魔竜によって戦友を失った記憶がヴァンの表情を険しくさせる。
「どんな奴だ、でかいのか?」
 あわよくば従者の一員にと考えているらしいリックが興味津々といったふうに問うと、服部とアゼルは顔を見合わせた。
「リック、あんたアメリカに暮らしててドラゴン見たことあるか?」
「あるわきゃねぇだろ」
「俺も日本に暮らしててドラゴンなんて見たことないから、大きいのか小さいのかの基準がわからない!」
「……そりゃそうか。アゼルは?」
「んー、ワイバーンをちょっと大きくしたぐらいだったと思うけど」
 それを聞いたヴァンの表情がようやくやわらいだ。
「それはレッサー種だな。ワイバーンよりは強敵だが、倒せない相手ではない。ただし、複数匹で夜襲をかけられなければの話だがな」
「この辺じゃ、レッサードラゴンよりもブルーウィングマンタやダーティスノウの方が怖いって聞くな」
 サザンの言葉にヴァンやリドが頷く。標高の高い山岳地帯に出るという、空飛ぶエイと黒い雪の脅威は既に噂になっていた。ヴァンが認めるつわものでさえ手も足も出なかったと聞いていたからこそ、山岳を強行軍で突破するという無茶を仲間に強いたのだ。
 疲労が限界に来ていた小雨などは肉を噛む気力さえなかったのか、スープを飲んだだけで早々と夕食を終えてしまっていた。今はリリィの膝枕で寝息を立てている。見た目には微笑ましいのだが、ヴァンは何度かリリィが小雨の顔にスープをこぼしているのを目撃していた。その度に小雨の眉がしかめられるのだが、すぐにエマールが顔を拭いてやるので目を覚ますまでには至っていない。気性は穏やかだがどこか抜けている義妹と、取っ付きにくいが女子供には優しい義姉は良い組み合わせに思えた。
「ここも今までだと夜営を避けていたような、言わば危険地帯だ。常に二、三人の見張りを立てておいた方が良いな」
「交替は二時間置きにしておこうか」
 ヴァンとサザンはそう言いながら仲間達の様子を一瞥した。
 昼のうちから疲労が見えていたディーネとリアは、既に眠そうな表情だが無理して兎肉を齧っている。そうして栄養を摂っておかないと明日がつらいというのを、身を以て知っているのだ。
 斥候に立った服部とアゼルはまだ余裕がありそうだ。
 ディナとリドはまだまだ元気なようで、片方は丁寧に、もう片方は豪快に兎の骨から肉を取っていた。唐土はアゼルから兎の骨を貰ってそれをバリバリと噛み砕いている。疲労の色など微塵も見られない。
 スフィはリリィの膝枕で寝る小雨を微笑ましそうに眺めながら、時折スープを口に運んでいる。しかし平気なように見えて、無理をしているのだろう。
 エマは一度懐から煙草を取り出しかけたが、義妹が小雨の顔にスープをこぼすのを見て思いとどまったようだ。寝ている少女の傍で煙草を吸うのを遠慮したのだろう。かといってここを離れては少女の顔が、義妹のスプーンからこぼれたスープまみれになってしまう。瞬時の葛藤を読み取って、ヴァンは目元にだけ笑みを浮かべた。
 リックを見るとちびちびと酒を飲んではいるのだが、どうにも疲れ切っているらしく限界に見えた。
「男で真っ先に休ませなければいけないのはリックだな」
「医者の不養生はよくないな」
 二人は頷きあって、今夜の見張りの順番を決めたのだった。

46日目
 まばたきほどのほんの僅かな深い眠り。その深淵を泳いでいた意識が、浅瀬まで急浮上する。眠りの表層にたゆたう意識が、何者かに見られている感覚を警鐘として傭兵に目覚めを強いた。
 軽く身じろぎをして、ヴァンはうっすらと目を開ける。
 腰から背にかけて、交差させて地面に刺した双剣のしのぎの感触があった。
 彼は睡眠を取る時に横にならない。外套を身に付けたまま、地面に刺した双剣に軽く背を当てて座って眠るのだ。
 過度に持たれすぎぬように、かといって地面に寝転がらないように、どこか意識を張り詰めた休息を取るのが日常茶飯事となって既に二十年近い。
 睡眠を取らなければまともに動けず、判断力も思考も鈍って良いことがない。そんな誰でも知っている事実を、知識だけでなく、体験だけでもなく、後悔としても知っていた。
 地面に刺した剣を背に眠るのでは、無論ベッドで眠るほどの疲労回復が見込めるわけではないし、また毛布や外套にくるまって横になるほどのそれも見込めない。それでも、闇討ちや夜襲、獣の急襲に備えるためにはこうせざるを得ないのだ。
 ぼんやりとした視界に、焚き火に照らされた自分の腕が映る。座ったまま腕組みをしてうつむいた、いつもの寝姿は崩れてはいないようだ。
 既に意識は覚醒している。何者かに見られているという感覚は目覚めた今も変わらない。だからこそ、急に動いて相手にこちらが気付いている事を気取られてはならないのだ。
 気配の場所を絞りきれずに、ヴァンは僅かに眉根を寄せた。
 殺気は感じられず、敵意さえもあやふやに感じられて、このまま寝たふりをしたままでいいのかと逡巡する。
(……見ている、いや、観ているだけか?)
 ヴァンはゆっくりと顔を上げると、何気ないふうをよそおって周囲を見回した。
 焚き火の番をしていたアゼルと唐土がヴァンに気付く。
「どうしたの、寝ぼけた?」
「気付けに紅茶はどうだ?」
 そんな二人を無視して、気配の位置を探ろうと意識を集中させるが、やはり曖昧で絞り込めなかった。
 ヴァンは探知を諦めて、しかしまだ周囲を見ながら唐土が差し出したティーカップを手に取って中身も見ずに口を付けた。紅茶が唇に達した感触でヴァンは己の迂闊に気付いたが、この仲間達を疑う意義は無いと思い直してそのまま口内へ招き入れた。
「ほう、美味いじゃないか」
 見ると、アゼルも木の器に入った紅茶を飲んでいる。
 唐土の言う紅茶にはどうやら二種類あるらしい。一つは一般的な紅茶、もう一つは倒した相手の生き血や体液を絞った物だ。どうやら今日の紅茶は前者だったようで、安心して飲むことができた。
「ところでお前達、何か変わったことはなかったか?」
「特に無いかな。唐土が焚き火に突っ込んでいった虫にレブナント使ったぐらい? 生き返らなかったけど」
 赤毛の少年の言葉に半ば絶句しながら、ヴァンはのうのうと紅茶を飲んでいる唐土に険しい目を向けた。
「なんで休息を取る時間に疲れる技を使うんだ阿呆」
「問題ない、ダークマナも使った」
 闇の気を取り込んで己の精神力を回復させる技である。ヴァンも炎の気を取り込んで同様の効果を得る技を持っているが、精神力こそ回復できても疲労まで回復するかというと否である。
 とうとうと説教でもしてやろうかと思ったが、ふと目の前にいる存在にはこれで良いのかという気になって思いとどまる。
 二足歩行し、喋り、魔法も使える巨大トウモロコシの植物生命体――が死んだ後に甦って生命亡き者の王を自称している。
 既に死んでいるのに、果たして疲労を感じるのだろうかという疑問がヴァンを思いとどまらせたのだが――
「いやー、しかし疲れるな。疲労ばかりはどうにもならんね」
 肩とおぼしき場所を抑えながら言ってのけた唐土の顔にヴァンの足がめり込む。
「痛いじゃないか」
「ああすまん、つい」
「ついか、ならいい。人間は衝動に身を任せてこそだ」
「貴様はトウモロコシだろうに」
「差別か?」
「区別だ」
 言って、ヴァンは苦笑した。滑稽な会話に乗せられていると気付いたのだ。
「ともかく休める時には休め」
 そう忠告をすると、アゼルがあくびをしながら何か言いたげな視線を送ってきた。あくびが収まるのを待ってやると、少し眠そうに目をこすりながらアゼルが言う。
「僕らは今が見張りの番だけど、ヴァンおじさんは寝る番だよね。休まないの?」
 もっともな言葉にヴァンはまた苦笑を浮かべてすぐに消した。
「さっきも訊いたが異常は無かったか? 何者かに観られている感触はあるのだが、どうにも気配が掴めなくてな」
「敵?」
「わからん。少なくとも殺気は感じられんのだが、敵意の有無となると曖昧でな」
 アゼルは気味が悪そうに周囲をきょろきょろと見回したが、何も見つかるはずもなく、そこにはただ焚き火に照らされた岩陰が立ち並ぶばかりであった。
 ヴァンは空を見上げて星の位置を確認すると、自分が起きなければいけない時間よりも随分早いことを知った。
 遺跡内の空はまやかしの空である。遺跡を作った何者かが天井を昼は空色に、夜は夜色に塗り替えでもしているのか、時間帯によって姿を変えて行く。場所によって多少の差異はあるが、大体にして自然に近い地形の夜の天井には星がまたたいている。その星の動きは本物に忠実で、基本となる星さえ把握していれば時間の経過を計ることができた。
「儂はもう一度寝るが、お前達も重々気を付けるのだぞ。何かあったら大声で叫べ」
「わかった。次の見張りにも伝えておくよ」
 アゼルがちらりと唐土を見ると、唐土は紅茶を注ぎながら重々しく頷いた。
「うむ。次はリックと小雨とディーネの三人だな。伝えよう」
 唐土の言葉に安心するというのは妙な気分だ、などと失礼な事を考えながらヴァンは再び剣に背を預けた。双剣が交差する箇所に丁度腰を当てるようにして目を閉じると、十秒と経たないうちにヴァンは眠りの表層へと歩を進めた。

       †

 早暁のうちに一行は出立の準備を調え終えていた。
 ヴァンが感じた観察されているという感覚は、サザンやディナといった歴戦のつわものも感じたらしい。
 一行は早々に三人一組を基本としたいつもの分隊に分けると、敵を撒くようにそれぞれ違った方向へ散った。
「なるほど」とヴァンが眉根を寄せたのは、払暁から二時間ばかり経った頃だった。
 傭兵は赤毛の子供達に歩調を合わせて追いつかせると、さして大きくない声で言った。
「アゼル、昨夜儂が相手の位置が掴めんと言ったのを覚えているか?」
 赤毛の少年が頷く。
「理由が解った。奴ら、遠巻きに儂らを囲んでいたのだ。儂らがどう動くかを観察して、分隊となった所を奴らも分隊となって襲おうという魂胆なのだろう」
「敵ですか?」
 少年の双子の姉が若干の心配と、それを上回る覚悟を込めた声で訊ねてきた。ヴァンはそれに頷いて答えると、四十歩ほど離れた場所に開けた、なだらかな広場を顎で示した。
「恐らくあそこが狩り場なのだろうな。奴ら、次第に殺気を隠せなくなって来ている。備えておけ」
 傭兵の言葉に赤毛の子供達が臆した様子はなかった。既に何度も共に闘ってきた仲間である。ヴァン自身も彼らの力量に不安は覚えていなかった。
 小柄で敏捷な双子による、鋼線と槌の攻撃、成人にはとても見えない二面性少女による後衛からの魔法攻撃。ヴァンは戦局に合わせて攻撃にも回復にも補助にも回る事を心がけている。子供達の素早さについて行けずに困ることも多いが、なかなかに息のあった戦術が取れるようになったと感じる。
 広場に差し掛かり、ヴァンと魔術師のルヴァリアが前に、ディーネとアゼルの双子が後ろに並ぶように隊列を変える。広場に入ったと同時に、双子が己の得物を構えて振り返り、ヴァンは行く先に敵がいない事を確認してから振り返ってリアを背中に庇った。
 ゆるりと双剣を抜いて悠然と立つ。すると申し合わせたように、岩陰から二頭の飛竜が姿を現した。目を懲らすと、何やら黒い妖精も見える。
「飛竜か。アゼル、お前が昨日見た竜はこいつではないな?」
 振り返る愚を犯さずに前を向いたまま少年が頷く。
「飛竜が群れで行動する時には、往々にしてレッサードラゴンが統率をとる。今頃サザンやリックの所にでも姿を現しているかもな」
「じゃあ私達は運が良いですね」
 こんな時に軽口を叩く余裕を身に付けたかと、ヴァンは親のような気持ちで少女の成長を喜んだ。
「ああ、儂らは一見すると子供を三人連れた、くみしやすい相手だ。奴らの油断を後悔に変えてやれ」
「はい!」
 そうして戦端は開かれた。
 飛竜と妖精が飛来する間に、一行は戦技による自己強化を終えていた。ヴァンの放った実体を持たない赤い戦輪が、飛竜の胴を切り裂いて血を纏いながら手元へ戻る。怒り狂った飛竜にアゼルの鋼線が二度閃く。動きが止まった一瞬を狙って、ディーネの槌が振り下ろされる。
 暴れる飛竜の攻撃を双子は華麗に避け、ヴァンは鍛錬された肉体で真正面から受け止めた。
 破壊衝動に身を任せたリアが、魔法を三連射する。
「やれやれ、この子供らは何でこんなに素早いのか」
 などと独りごちてから、ヴァンは精神を集中させた。その間に妖精の撃つ黒い光弾が一行を襲うが、ヴァンは集中を解かなかった。
(跳狼跋扈……)
 口内で呟き、続いてまた何かを呟くと、ヴァンの身体が火柱に包まれた。
 全身を炎で包んだまま、孤狼が駆ける。最初に攻撃した飛竜は既にリアの魔法で瀕死だと判断し、もう一頭に斬りかかる。炎に包まれた剣が飛竜の鱗を貫くと、傷口から飛竜にも炎が燃え移る。
 続けて双剣を振るう。一刀目を身じろぎしてかわした飛竜の肩に、二刀目が深々と食い込む。そこからまた炎が燃え移る。
「炎剣の業火、存分に味わえ」
 そう言い残して跳びすさる。
 飛竜が力任せに振るった翼での一撃がヴァンをかすめ、炎が燃え移るが、傭兵は顔色一つ変えずに炎を受け入れていた。
 狂乱した飛竜が続けて尾を振り回すが、ヴァンも双子も軽々とそれをかわした。
 リアが背後から魔法を撃つが、そのほとんどは妖精に向けて放たれている。最早飛竜は死に逝く途上だと判断したのだろう。
 ディーネとアゼルがリアに続き、彼らの攻撃の後でまたリアが魔法を撃つ。今度は魔法技というようなものではなく、単純に魔力をぶつけるような攻撃だ。
 ヴァンは手でリアを制すと、つかつかと黒い妖精に歩み寄った。妖精も既に致命傷を受けている。それでも近寄る傭兵に怯えて魔法を連射してくるのは、まさしく死力を尽くした最期の攻撃なのだろう。これで乗り切ったとて、己の命は既に尽きているとまだ気付いていないのかも知れない。
「もう眠れ」
 その一言を残して、ヴァンは炎を纏った双剣を大上段から振り下ろした。

 喜ぶ子供達を横目に、傭兵は飛竜の死体を眺めていた。
 かつては戦友と共に怯える兵士達を叱咤して戦った強敵が、今や取るに足らない相手となった。無論かつて戦った飛竜の方が、この飛竜よりも数段格が上だったと確信してはいるのだが、それでも最早飛竜に怯む心は無い。
「儂も成長できているのか。そうか……」
 軽く目を閉じて一瞬の微笑を掻き消すと、ヴァンは子供達に向き直った。
「お前達、飛竜を葬ってやろう。手伝ってくれ」
 そう言って、ヴァンは亡骸へと歩いていった。

48日目
 朝日が薄紫の木洩れ日となって、眠りの中にいるディーネとアゼルの顔に落ちる。朝もやに包まれた木立の奥から水のしたたる革袋を持ったヴァンが姿を現した。その気配に気づき、ディーネがゆっくりと目を開いた。
「おはよう、夜明けだ」
 ヴァンが穏やかに笑いかけると、ディーネはすぐに目が覚めたのか跳ねるように身体を起こした。
「おはようございます。あの、すみません用意を」
「気にするな。向こうに小川がある」
 その赤毛と同じくらいに顔を赤くすると、ディーネは何度か頭を下げてヴァンが歩いてきた茂みへと駆けていった。
 ヴァンは夜営の跡に近づくと、すっかり火の消えた焚き火の脇に革袋を置いた。中にはなみなみと水で満たされており、革袋の底や側面には木の板が張り付けられているので地面に置いても水がこぼれないようになっている。朝食の用意でもするかとヴァンが焚き火跡をのぞき込んだ時、ディーネが駆け足で戻ってきた。
「すみません、鞄を忘れてしまって」
「ゆっくりでいい。焦るな」
 双子の弟の足元に置いてある鞄を掴むと、また何度か頭を下げてヴァンの背後の茂みへと走っていった。ヴァンはディーネやアゼルをまだまだ子供だと思っていたが、寝起き姿を見られるのを恥ずかしがる年頃になっているらしい。寝癖が酷かった事をあえて指摘しなかったのは我ながら慧眼だったなと、ヴァンは心の中だけで呟いた。
 弟の方はお年頃だとは微塵も感じさせない寝姿で未だに眠りこけている。ヴァンは革の水袋に手を突っ込んで指先に水を付けると、手首を素早くしならせてアゼルのまぶた目がけて水滴を放った。
「ひゃっ!」
 狙いたがわずまぶたに当たった証拠に、アゼルが奇妙な声を出した。
「何、敵!?」
「おはよう、朝だ」
 不可解な事態に対してすぐに敵かと疑って警戒するのは、この子供がすっかり冒険者となっている証拠だろう。
「おじさんか、おはよう。ディーネは?」
「先ほど起きて、今は川で顔を洗っている」
「そっか、それじゃ帰ってきたら俺も行こう。それ水?」
「飲むか?」
「貰う。ありがとう」
 まだ若干寝ぼけた調子で手を伸ばしてくる少年だったが、伸ばしたところでヴァンの手の届く範囲ではない。ヴァンは傷だらけの顔に苦笑を浮かべながら、愛用している木製のタンブラーを水の中に沈めてひとすくいした。
 赤毛の少年は普段の俊敏さからは程遠い、のっそりとした動作で寝床から這い出すと丁寧にお礼を言ってから水を口内に招き入れた。
「やっぱ朝は水だね!」
 すっかり目が覚めた様子で元気に言うと、ヴァンに倣って水の中にタンブラーを沈めて二杯目を飲んだ。

 朝食は罠に掛かっていた野兎が一羽。その腹の中に香草と少量の米を詰め、地面に掘った穴を窯として焼いたものだった。
 周囲に凶悪な獣や魔物の気配は感じられず、独特の森閑な雰囲気が辺り一帯に満ちていた。ヴァンが気配を殺そうとせず、料理も香りの強いものにしたのも、そこに理由がある。
「久しぶりだな、この感じ」
「ペリケペルカさんと戦って以来でしたか」
 宝玉の守護者の住処は、一様にこのような他を寄せ付けない雰囲気が壁となって外敵を阻んでいる。守護者本人と戦う時までは安全だと言えよう。
 強い気配は確かに感じる。それでいて静かなのが不気味だった。
 守護者は何者かに使命を与えられて宝玉を守っている。だがヴァンには身命を賭して守るのではなく、むしろ守る姿勢を見せた上で強者に宝玉を与える事こそが使命なのだと思えた。そこに何かの意思が見えて、言い知れぬ不愉快さが心に満ちてくるのだった。
「おじさん、顔が怖いよ」
 アゼルの指摘で表情に出ていたことを知る。
「すまんな、考え事だ」
 子供達に年長者が緊張していると思われてはいけない。余裕を持った表情を意識して作り上げると、ヴァンは不敵な笑みを浮かべて立ち上がった。
「では、そろそろ宝玉を貰いに行こうか」
「いいね」
「行きましょう」
 三人は簡単に荷物を纏めると、強い気配が待つ方へと意識を向けた。

       †

 森の木立をかき分け、小川に足を浸しながら、ひたすらに歩く。
 小川の上流から、相も変わらぬ強い気配が己の存在を誇示している。風の宝玉のように殺気を叩き付けてくるわけではない。ただ自分はここにいると主張しているような気配だった。
「あっ」
 先頭に立って歩いていたアゼルが突然声を上げた。しんがりを務めていたヴァンも数歩歩いてからその意味を悟った。
 森が途切れて水辺が広がっていたのだ。
「ほう、これはまた」
「綺麗ですね」
 ヴァンが口内で納めた言葉をディーネが継ぐ。
 森の中に開けた水辺は、底が浅いのか陽光を反射して蒼い宝石のような輝きを放っていた。それでいて水の透明度が高いため、透き通った水辺の底を小魚が泳ぐ姿が見えた。
 三人は吸い寄せられるように水辺へと近づいてから、ふと顔を上げると巨大な木がそびえ立っている事に気づいた。相当な樹齢を感じさせる風格を持った巨木は、いくつもに分かれた枝の先に青々とした葉と、輝く水色の果実を実らせていた。
「え?」とアゼルが声に出す。
 いつの間にか巨木の下に二人の少女が腰掛けていたのだ。片方は綺麗な水色の長髪と、綺麗な緑色の瞳。もう片方は暗い青色の長髪と、暗い緑色の瞳。二人とも肌がうっすらと透けて見える白いワンピースを纏っていた。
「姉さん、透けちゃってるよ、いいの? どうしよう?」
 アゼルが珍しくディーネを姉さんと呼んだ。見ると、顔が真っ赤に染まっていた。なるほどこいつもお年頃かとヴァンは胸の中で独りごちた。
「私は凍星のアリッサ。こんにちは、初めての人」と、綺麗な緑色の瞳が細められる。
「私は樹氷のメグリア。こんにちは、初めての人」と、暗い緑色の瞳が険しくなる。
「私たちはこの果実を守っているの」
 アリッサは頭上になった水色の果実を指さした。メグリアが一歩前に進み出てヴァン達を睨む。
「奪うのよね? この“宝玉”も」
 そう言って二人が立ち上がると、周囲の水がうねり始めた。
「宝玉だと!? この大量になっている果実全てがか?」
 驚くヴァンをよそに、二人は己の世界に酔ったように語り始めた。
「私はこれを貴方にあげてもいいの」
「私はこれを貴方にあげたくないの」
「でもメグリアが傷つくのは許せない」
「でも貴方が望むから私はこれを守るの」
 陶酔した二人の様子に、ヴァンも双子も若干途惑ったように顔を見合わせた。
「メグリア、下がって!」
「アリッサ、下がって!」
 二人が声を合わせて叫ぶと足元に霜が張った。どうやら冷気の使い手らしい。
「なんとも倒錯した子供達だな……」
 ヴァンが双剣を抜く。
「悪いけど宝玉は貰うよ?」
 アゼルが鋼線を懐から取り出す。その背後ではディーネが無言で槌を構えていた。
「私が貴方を守るから!」
 綺麗な緑色の瞳から正気が失われていく。そんなアリッサを守るように、メグリアがもう一歩前に踏み出した。
「下がってアリッサ、痛めつけられるのは私だけで充分……」
 ヴァンは二人を警戒して少し離れた所で立ち止まった事を後悔していた。剣が届く範囲ではない。こうなっては無策に駆け寄って間合いを詰めるより、相手の出方を見ながら間合いを詰める方が良い。
「水の守護者、か。凍結ごとき炎でしりぞけるまで」
 双剣を持った両手を勢いよく広げると、ヴァン達三人の身体に炎の膜が張られた。
 メグリアが何かを呟くと彼女の前に蒼い光が浮かび、その中から小さな姿が現れる。
「召喚か、ディーネ!」
「はい!」
 赤毛の少女は疾駆して一気に間合いを詰め、現れたばかりの精霊に高速の四連打を打ち据える。力を失って消えていく精霊を吹き飛ばすようにアリッサが冷気を叩き付けてくるが、ヴァン達の足は止まらない。
「紅き血の戦輪よ!」
 炎を纏った闘気の戦輪を放つ。戦輪はメグリアの肩を薙ぎ、血を纏ってヴァンの元へと戻る。最初に纏っていた炎はメグリアの傷口に置いてきた。苦痛に眉をしかめながら、メグリアが冷気を叩き付けてくる。続けて技を放とうと手首をもたげた瞬間、横に回り込んだアゼルの鋼線が少女の身体を縛り付けた。そこに赤毛の姉が滑り込む。
「隙あり!」
 少女の怒号と共に凄まじい速度で槌が縦横無尽に振り抜かれる。赤毛の双子の連係に舌を巻きながらヴァンもようやくメグリアを双剣の間合いに捉えた。
 技を繰り出そうとした所にアリッサの冷気が渦を巻く。
「さぁメグリア……私に続いてっ! 苦しむ姿をもっと見せて!」
 狂喜をたたえた瞳が愉悦に歪み、ヴァン達に雹を伴った冷気が叩き付けられる。しかしヴァンは意に介さずに剣を構えた。アリッサの言葉に一拍遅れて、メグリアがゆっくりと頷く。
「うん……頑張る」
「遅いっ! 命啜る魔剣よ、顕現せよ!」
 魔剣の名を持つ技がメグリアの胴を薙ぐ。傷口から飛び散った血がヴァンの背後に赤い球体となって浮かび、そしてヴァンの身体へと吸収される。
 生気を吸われたようにメグリアの膝がかくんと落ちた。彼女が撃とうとしていた技は何もない空間を撫でただけだった。
「子供だからって甘く見ないでね!」
 ディーネの一撃が脳天に振り下ろされたのを皮切りに、弟の鋼線と姉の槌が連続して少女の身体に繰り出された。
 完全に両膝を地面に付いたメグリアの背後からアリッサが小さな氷の針を飛ばしてきたが、三人ともがあっさりと防ぎきる。
「紅牙双閃!」
 炎を帯びた双剣がアリッサの身体を捉えたと思えた刹那、既に死に体と捨て置いたはずのメグリアが双剣とアリッサの間に割って入った。
「アリッサ……がんば」
 散りゆく前の最後の攻撃。その氷のつぶてをかわしながら、ディーネの槌がメグリアの鳩尾にめり込んだ。
「これで終わりなのね……」
 そう言いながら崩れ落ちるメグリアに、ヴァンは僅かな尊敬の念を抱いていた。倒錯し、他者の介入を許さない閉じた世界。そんな世界に生きながらも、彼女なりの信念は輝いて見えた。
「ずるいわメグリア! あなたばっかり傷ついて! 私も傷つきたい! もっと構って!」
 理性の光が消えた目を歪めて、泣きそうな声でアリッサが叫ぶ。
「阿呆が!」
 ヴァンの声に怒気が混ざっている事に、ディーネもアゼルも気づいていた。双子は鋼線と槌をアリッサに浴びせかけ、連撃に継ぐ連撃でアリッサの身体に傷が増えていく。愉悦の声を上げながら攻撃を繰り出すアリッサをいなし、ヴァンの双剣が渾身の力を込めて振り下ろされた。
「あああぁあァァッ♪ 満足したわ……」
 それが、アリッサの末期の言葉だった。
「倒錯した殻の世界に籠もったまま朽ちるがいい」
 吐き捨てるようにして剣を納めると、倒れた二人の身体が激しく光った。しばらくして光が収まると、二人はまるで眠っているかのように並んで地面に倒れていた。傷もその痕跡も何も見当たらない。その姿は、あどけない少女が手を繋いで眠っているようにしか見えなかった。
 頭上に光る青い輝きに気づき顔を上げると、大樹から果実がゆっくりと落ちてくる。三つ目の宝玉だった。
「…………殻の世界でも、幸せならば……」
 そう呟きかけて、ヴァンは大樹に背を向けた。
「行こう。儂らはまだ進まなくてはならん」

53日目

VS サバス戦より

 ヴァンは己の眉間に深い皺が刻まれている事をうっすらと自覚していた。それほどまでに目の前で繰り広げられる痴態に呆れていた。
「きゃ〜わいぃ〜! きゃあわぃいぃーッ!!」
「だ、だぁめですぅー! ご主人様やめてくださいぃ!」
 馬鹿な貴族が使用人にでも手を出しているのかと思い、成敗してやろうと足を向けた所までは良かった。しかし草むらをかき分けた先に広がっていた光景は予想とは大きく違っていた。
 奇妙な風体の男が何かに抱きついている。少女はそんな主人の奇行を止めようとしていたのだ。良く見ると、男が抱きしめているのは筋骨隆々な緑色の中年――歩行雑草であった。
「……なんだこれは?」
 声に出して呟いてしまったのを己で聞きとがめて口をつぐむ。よく解らないが、とにかく巻き込まれたくはない。
「なんで歩行雑草なんですかぁ!? そんな可愛くないの抱きしめないでくださいぃッ!!」
 少女が泣きそうな声で叫ぶ。その声で我に返ったのか、歩行雑草に抱きついていた男の動きがぴたりと止まって少女へ振り返った。
「ならばお前も抱きしめるッ!」
「なんでだっ!」
「いいぃぃやあぁぁーッ!!」
 こだまする少女の叫び声に、口を突いて出てしまったヴァンのツッコミが入り交じる。
「しまった!」
 咄嗟に身を隠そうとしたが時既に遅し。
「……む?」
 怪訝そうな顔で振り返った男の視線が、気まずそうなヴァンの顔を捉えた。
「な、なんだなんだ! ひとの憩いの場を傍観するとは破廉恥極まりない行為だぞ!?」
 そう言って男がすっくと立ち上がる。顔立ちは端正、羽織ったシャツも派手ではあるが中々の仕立てで趣味が悪いとまでは言い切れない。問題は――
「なぜ貴様は下着なのだ」
 下半身が下着のみという点だった。破廉恥極まりない着衣である。
 ヴァンの言葉に応えるでもなく、男は眉間に指を当ててため息をつきながら首を振った。
「……礼儀知らずな奴め。このサバスが矯正してくれる……」
「黙れこの恥知らずが。そこの雑草ごと灰にしてくれる……」
 睨み合うサバスとヴァンの間で、泣きそうだった少女が目の端に涙を浮かべてうろたえていた。
「ぇ? え!? えーッ!? わ、私は関係ないですからねーッ!!」
 その少女目がけて男二人の怒声が飛んだ。
「下がっていたまえ!」
「下がっていろ小娘!」
 大人しくその場を離れる少女の後を歩行雑草が追っていく。
 ヴァンとサバスはそんな少女に目もくれずに睨み合ったまま臨戦態勢を取るのだった。

       †

「面妖な……斬る……までもない、殴り伏せる」
 そう宣言して、ヴァンが双剣を鞘ごと腰から引き抜く。
「おのれ……」
 なめられたと思ったのだろう、サバスの表情が怒りに満ちる。対するヴァンはいつもの仏頂面を崩さずに、鞘に収まったままの双剣を構えている。先に動いたのはサバスだった。
「えぇい邪魔だっ!」
 叫ぶなりシャツの襟に手を掛ける。斬り――殴り込もうとヴァンも構えるが、続くサバスの行動に動きが止まる。
 サバスが力任せにシャツを引き裂きボタンがはじけ飛ぶ。華麗な動作でシャツを脱ぎ去ると、彼は下着一枚の状態で声高らかに言い放った。
「私を怒らせるとどうなるか……その目で記憶したまえッ!」
 突然の半裸にヴァンが途惑った隙に、サバスの前に五つの光る輪が描かれた。
「召喚陣!? しまった!」
 今から駆け込んでも召喚は崩せない。完全な失策であった。
(五体同時召喚とは、この男、ただの変態かと思いきやただ者ではないのか!)
 召喚陣が輝く。陣の出現から召喚完了まで二秒も掛かっていない。光の中から召喚された魔物が咆哮をあげる。
「モッサァァァァァァッ!!」
「モッサァァァァァァッ!!」
「モッサァァァァァァッ!!」
「モッサァァァァァァッ!!」
「モッサァァァァァァッ!!」
 逞しい筋肉の鎧を身に纏い、頭に揺れるはおいしい草。見事なる歩行雑草の軍団であった。
「……雑草?」
 きょとんとしたヴァンが現実を認識するまでに半瞬。次の瞬間にはヴァンは怒りに満ちた表情で、無防備に外套の隠しに手を突っ込んで何やらごそごそし始めた。
「ああ、あった。これだ」
 そう言って取り出したのは二つの花火。継いで鞘の状態の剣が発火する。何か技を使ったようだが、いまいち気合いに欠ける動作だった。歩行雑草の一団が足並みを揃えて一歩前に出る。ヴァンは彼らを気にする様子など微塵も見せず、花火に剣を近づけて引火させる。
「本当は今晩の花火大会とやらに使うつもりだったのだがな」
 花火に視線を落として少し名残惜しそうに微笑むが、目は笑っていない。
 顔を上げて微笑のまま歩行雑草を見る。一匹の歩行雑草と目が合った。びくっとする歩行雑草に、ヴァンはいよいよ本格的に笑いかけた。だがやはり目は笑っていない。
「よし、お前に決めた」
 そう言って花火をふわりと投げる。歩行雑草が釣られて受け取ろうと手を出した瞬間、花火が激しく炸裂した。
「モッサァァァァァァッ!!」
「次だ!」
 微笑みが一転して憤怒に変わる。ヴァンの身体を炎が包み込む。それはまるで戦場に君臨する鬼神の風格だった。
 召喚に満足したらしいサバスは、目を閉じて両手を広げたまま自信満々に声を上げた。空気が読めていない。
「さぁひれ伏すのだ私に! そして謝罪しろっ!」
 その声色に煽動されて、歩行雑草が一気に間合いを詰めてきた。
「モッサァァァァァァッ!!」
 一匹目がヴァンに殴りかかって避けられる。
 二匹目がマジックミサイルを撃って避けられる。
 三匹目と四匹目が同時攻撃で殴りかかって避けられる。
 ヴァンの花火でふらふらになっていた五匹目も殴りかかってきたが、やはり避けられる。
「猪突では当たらん」
 ヴァンはそう冷静に言い捨てた。
「モッサァァァァァァッ!!」
 どこか悲しそうな響きを込めたもっさぁが響きわたり、五匹目の歩行雑草が地面に倒れた。
「モッサァァァァァァッ!!」
「モッサァァァァァァッ!!」
「モッサァァァァァァッ!!」
「モッサァァァァァァッ!!」
 仲間が倒れたのを見て歩行雑草たちが騒ぐ。その声を聞いてようやくサバスは目を開いた。
 目を開いて最初に飛び込んでくるのは、ヴァンの傍に倒れる愛しき歩行雑草の姿。
「お……お前がやったのかぁぁッ!!」
「そうだ!」
 犯行を認めながらヴァンを取り巻く炎が更に大きく燃え上がる。とんっ、と地面を蹴る音が聞こえたかと思うと、ヴァンは全ての歩行雑草を一刀で斬り伏せられる位置に間合いを詰めていた。焦った歩行雑草たちが一斉にマジックミサイルを撃ってくるが、狙いもせずに撃ったのでは当たらない。
 炎が歩行雑草を薙ぐ。
 燃えさかる歩行雑草たちに二刀目が振るわれる。鞘に収まったままとは言え雑草が炎に耐えられる道理はない。苦悶する雑草たちはサバスに助けを求めようと振り返ったが、主人に目はヴァンに注がれていた。
「地獄はこれからだ……」
 それは誰にとっての地獄であろうか。サバスが両手を掲げると、歩行雑草たちの身体から凄い勢いで生命力が抜けて行き、サバスへと結集する。完全なるとどめの一撃であった。
 主人の裏切りに目を丸くしながら歩行雑草たちが次々に崩れ落ちる。
「モッサァァァァァァッ!!」
「モッサァァァァァァッ!!」
「モッサァァァァァァッ!!」
「モッサァァァァァァッ!!」
 その声は、ヴァンの耳には主人への怨嗟に聞こえた。
 裏切りのサバスはそんな従者たちに視線を向けると――
「お……お前がやったのかぁぁッ!!」
 ヴァンに責任をなすりつけた。
 確かにヴァンは燃えたぎる鞘で歩行雑草たちを二度も殴り伏せた。致命傷だったと自覚しているので否定は出来ない。しかし容赦なくとどめを刺したのはサバスである。
「いや、確かに儂だが、いや、貴様か?」
「わけのわからない事を言うなッ! 詫びろッ! 詫びろッ! 詫びろォッ!」
 視野が狭い。余りにも視野が狭い。ヴァンはしみじみとそう思いながら、迫り来る奇人の攻撃を鞘で受け止め続けていた。
「ハァーハッハッハァーッ!!」
 サバスは何とも愉快そうである。大声で笑いながら、たまに「詫びろォッ!」と言って、また笑う。突然の責任転嫁で気勢を削がれたヴァンにも、だんだんと怒りが甦ってくる。
「ハァーハッハッハァーッ!!」
「やかましいっ!」
 双剣の鞘が容赦なくサバスの脳天と首を叩く。抜剣していれば絶命間違いなしの鋭さだった。
「な、なんということだッ!!」
 演技のような科白を言いながらサバスが崩れ落ちる。ヴァンは一瞬「咽を突けば良かった」などと思ってから、気を取り直してただ「先を急ごう」とだけ呟いた。
 そんなヴァンの背後から何者かが近づいてくる。振り返ると、先ほどの少女だった。
「ぬうぅ……強い、……まるでマナでも吸ったような―」
 つらそうに身を起こすサバスに、少女はゆっくりと近づいていく。
「マスター、マスター……」
「ご主人様と呼べと言ったはずだッ!」
 サバスが怒鳴る。
「ひいぃぃごめんなさぁぁいー!」
 少女は咄嗟に逃げ出した後、駆け足のまま戻ってきた。
「それで先生、あの人なんですけどけど」
「ん? 俺に酷い事をした奴がどうした」
 指さされた状況で酷い事をした奴呼ばわりである。ヴァンはまた眉間に皺が寄るのを感じた。しかし、ここは口を挟まない方が良いと勘が告げていた。
「……マナの香りがするんです」
「なんだと……?」
 サバスはむくりと起き上がるとヴァンの傍まで歩み寄って、鼻を鳴らして匂いを嗅いだ。
「……微かに香るな、エキュオスの近くを通ったか?」
 その表情は先程までの変態とは違い、学者のような知的な色が浮かんでいた。ただし格好は相変わらず下着一枚なのだが。
 しかしヴァンにはエキュオスなる言葉に聞き覚えが無かった。
「……そうか、この島には無知が多いことを忘れていた。ほら、説明してあげなさい」
「私がですかぁ!? うぅー……」
 少女が何もない空間から黒板と教鞭を出して説明を始める。彼女の説明を纏めるとこうだった。エキュオスというマナを生み出す生物がマナをばら撒いており、そのマナを吸うと別の生物に変貌する。サバスはマナで生まれた「変な生き物」を捕獲しようとしている。
「うむ、そういうことだ。」
 ボタンの弾け飛んだシャツを着ながらサバスが頷く。ヴァンは咽まで出かかった「お前が一番変な生き物だ」という言葉を飲み込んで、島の探索における新たな謎を噛み締めた。
「君達のおかげでエキュオスがこの周辺に潜伏していることが分かった、感謝するッ!」
 少女がいそいそと黒板を地面に埋める。出すのは自在だが、消すことは出来ないようだ。
「それでは行くぞ助手よッ!」
「はいはぁーいー!」
 そう言うと、サバスと助手は勢いよく走り去っていった。
「……しかし儂はこの周囲で変な生き物の傍など通ってはおらんのだがな?」
 サバスがあてもなく走り去ったのだとわかったのは、その日の夜営で他の面々も口々に変態に襲われたと証言したからだった。


55日目
 傷だらけの顔にあざやかな光が照る。人の形をした小さな光の塊はヴァン達を見付けると一直線に猛進してきたが、すぐに力尽きて地に落ちた。ヴァンは傷痕の残る左手を伸ばして光の塊を掴もうとしたが、その手が届く前に光は空へと舞い上がって消えてしまう。
「これが光の塊、エキュオスと関係があるという奴か……」
 左手に何かの残滓がまとわりつくような感覚がある。ひょっとするとこれがマナなのかもしれない。振り返るとディーネとアゼル、リアも不思議そうに自分の手を見つめていた。「なにか可哀相でしたね」
 赤毛の双子の姉がぽつりと呟いた。
「確かに哀れな風情ではあったな」
「必死っぽかったもんね」
 ヴァンと双子の弟が応じると、姉の方は光の塊が消えていった空を見上げた。
「いつか助けてあげられたらいいね」
 優しい声音でリアがディーネの心を撫でてやる。ヴァンはそれを見て「あの破壊狂にも優しさがあったのか」と心の内で呟いた後、口に出そうかとアゼルを見たが、少年もリアの言葉に頷いていたので自制した。
「さて、そろそろ発たんと合流に遅れるぞ」
 そんな言葉を投げかけて進むべき道に向き直った。

       †

 透明な姿。そう書かれた巨大な舞台の上に淡い光を放つ魔法陣が描かれている。
「これでいくつ目の魔法陣だ?」
「十三個ですね」
 褐色の肌にうっすらと汗を浮かばせたサザンの問いにスフィが答える。両肩に背負った三人分の荷物を地面に下ろしてため息を一つ。
「おいリック、すまないが荷物をダークホースに積ませてくれないか?」
「金取るぞ」
「仲間だろ?」
「割引な」
 褐色の男達のやり取りを耳に挟んだ褐色の女性が口を挟む。
「今日で遺跡から出るんじゃないんですか?」
「そう聞いてるわね」
 リリィとその義姉エマールがちらりとヴァンを見る。馬に荷物を積むまでもなく、後は遺跡を出るだけだった。
「敵に歯ごたえがなかったせいで日数の計算を間違ったか、それとも遺跡の外でも荷物持ちか」
 言ってから、ヴァンはサザン達が遺跡外でどういう過ごし方をしているのか知らないという事実に気づいた。
 リックは馴染みの宿に年端のいかぬ少女を囲っているという噂もあるようだが、真偽は確かめてはいない。唐土は、ヴァンが弟子の酒場から宿に帰る途中に一度だけ、路傍に座って月を見ながら紅茶を飲んでいる姿を見かけたことがある。宿を取らずに野宿でもしているのだろうか。
 考えてみると、十四人という大所帯で行動しているにもかかわらず相互不干渉の傾向の強い一団だった。サザン達三人が遺跡外でどう過ごしているのかを知らないのも無理はない。
 サザン達三人のまとめ役は端から見ていてもサザンだし実際にそうなのだろうが、それとこれとは話が別というのが男女の力関係だ。男よりも女の数が多ければ、尻に敷かれるのは男というのが鉄則なのだ。
「哀れな」
 声に出して小さく呟いてから、ヴァンはサザンを少し労ってやろうと思いついた。
「サザン、リック、宿に荷物を置いたらボルの店で落ち合わんか? 儂が奢ろう」
「お、英雄の故郷か。いいねぇ、あそこはバーボンも仕入れてくれるからありがたい」
 夜な夜な焚き火を囲んで小さな酒宴を楽しんでいたリックが即座に乗ってくる。
「では俺も付き合おうか。スフィ達はどうする?」
 羽根を伸ばせという意図を理解していないのか、それとも単に優しいだけなのか、仲間にも話を振るサザンだったが、スフィ達は笑顔で謝辞した。やはりここの力関係はスフィ達が尻に敷いているというよりも、サザンが尻に敷かれているというのが正しいようだった。仲が良いのが見て取れる。
「エマさんたちはどうする?」
 義妹と話していたエマールは、軽く手を振って「気が向いたらね」と短く答えた。
「リック、あまり呼ぶな。奢れなくなるぞ」
「そういやお前さんらは食費が高いんだったな」
 そう言って笑い合う。
「全員魔法陣の登録は済ませたな?」
 一同がそれぞれに頷く。
「では出るとしよう」
 そう言った瞬間ヴァンの姿が掻き消える。一瞬遅れて、残る十三人も遺跡の中から姿を消した。

      †

 月夜だった。薄い雲の向こうに朧月が真円を描く、良い月夜だった。
 ヴァンは仲間と別れてすぐに宿へ向かおうとはせず、直接弟子の開いている酒場へと向かっていた。
「こんな月夜は、月見で一杯というのも旨そうだな」
 わざと声に出して呟いてみる。
 リックとサザンが酒場『英雄の故郷』へやってくるまで少し時間があるだろう。その間に弟子とも少し言葉を交わしておきたかった。エキュオスや榊について、かつて孤島で百日を生き抜き、全ての宝玉を集めた愛弟子ならば何か知っているかもしれない。
 ゆるやかな風がヴァンの髪を乱した。朧月の天辺にかかっていた雲がゆっくりと動き、満月が僅かに姿を見せた。
「ん?」
 異変に気づいたのは視覚か嗅覚か、それとも戦士の経験か。ヴァンは何かが近づいてきていると感じ取った。
 風に僅かな血の匂いと腐臭が混じる。一条の月光に照らされた石造りの路地に誰かが立っていた。
「子供か?」
 子供好きだが子供からは好かれない強面の傭兵が、一歩踏み出すのを躊躇する。
 これまでの戦場では少年兵も斬ってきたし、子供に化けた妖魔と戦った事もある。孤島の遺跡外が安全地帯だと知ってはいても、それは昨日までの事かもしれない。例え己の家でも、寝床の上でも、恋人の横でも、安全な場所などこの世には無いと痛感してきた人生経験が、一歩踏み出すのを躊躇わせた。子供に見えても警戒は必要だ。
「そこの小僧、貴様そこで何をしている?」
 ひたひたと石畳を歩いてきた子供がヴァンの声に立ち止まる。
「小僧なんかじゃないのです!」
 まとった雰囲気とは違い、笑顔で桃色の髪の少女が答える。年齢的には小雨やディーネとアゼルの双子に近いように見えた。
「すまんな小娘、して貴様何をしている?」
「無礼なおじさんですね、待ち合わせなのです」
 何か大事な物を抱えるようにして立っているが、持っている物が何なのか、ヴァンの位置からではよく解らなかった。
 風に乗って血臭と腐臭がヴァンの鼻孔をくすぐる。雲が流れて朧月が朧を保てなくなってきた。
「ん? 貴様どこかで見た顔だな」
 月明かりに照らされた顔に見覚えがある。
「傷のおじさんもどこかで見ましたね」
 ヴァンは記憶の糸を辿ると、それらしき姿を導き出した。
「そうか、闘技大会で戦った事があったな」
 随分と前の闘技大会の最終戦で、六勝を掛けてぶつかった相手の一人だった。
「確か父上と母上が一緒だったな。ディーネとアゼルの姉弟が亡父を思い出しておったわ」
 赤毛の双子、ディーネとアゼルは滅ぼされた帝国の皇女と皇子であった。彼女らの父も赤毛の皇帝だったらしく、闘技大会で戦った相手が赤毛の皇帝だったために父を彷彿とさせて攻めあぐねていたのだ。赤毛で、皇帝で、自分たちと同じような歳の子供を連れた夫婦が相手ではそれも仕方がないだろう。
「リアの奴は母上を盾にする貴様の戦い方に度肝を抜かれていたようだがな。おかげであの時は負けてしまった」
 異常を感じてはいたが、ヴァンは僅かに笑って見せた。異常の正体が見極められないうちは友好的な姿勢で様子を見た方が利口だからだ。相手が皇帝一家だった事も思い出して、口調も多少改める。
「して、ご両親は元気かな? 特に盾にされていた母上はあれでは身が持たんだろう」
「ええ、だから首だけになりました」
 半分の愛想笑いと、もう半分の思い出し笑いが一瞬にして固まる。
「……何?」
 険しい表情で聞き返すと、少女は大事そうに抱えていた物を胸の高さに持ち上げた。
 風がそよぐ。
 心なしかきつくなった血臭と腐臭、その正体を月明かりが照らし出した。
 そこには首があった。
 安堵のような、悲しみのような、悔恨のような、何とも言いがたい表情を浮かべた女性の首があった。
 そして、ヴァンはその顔に見覚えがあった。
「クローヴィス殿……か?」
 闘技大会で戦ったとき、この少女に盾にされて騒いでいた女性だ。
 困ったような、楽しいような、母のような、そんな表情が印象的だった。
「ママです」
 異常の正体は果たしてどちらか。
 首だけの死体となったクローヴィスか、それともその首を持ち歩いている壊れかけた娘か。
「……なぜ、このような姿に?」
「わたしが切りました」
 狂っている。激しい狂気ではない、ただ静かに壊れている。
「……なぜ、母の首を切った?」
「おねえちゃんに持って行かれそうになったからです」
「お姉ちゃん?」
「はい、13のお姉ちゃんです」
 名前に聞き覚えがある。しばし考えて、以前小雨に依頼をしてきた包丁を持った人形のような女と組んでいた女だと思い出す。確かその時は小雨が夢幻の造られしものに敗れたため、合流地点にたどり着けず仕舞いだった。だが、彼女らが人狩りを、それも命を奪うような手を使うとは聞いたことがなかった。
「……それは、そのお姉ちゃんが母上を殺したのか?」
「殺したのは私なのです」
 ヴァンは額に手を当てて頭を振った。狂っている、そう解っていてもやりきれない。
「もういいですか? 私は待ち合わせがあるのです」
 そう言って少女は立ち去ろうとする。
「待て小娘!」
 強い口調に少女が足を止めた。
「貴様、その首を持ってなんとする? なぜ弔わん、安らかに眠らせん!」
「うるさいのです! あなたもママの首を取ろうとしてるのですね!? ママはわたしません!」
 駄々をこねる子供のように叫んで少女が走り去る。ヴァンは無力さを噛み締めながらその背を見送るしかなかった。
「儂の言葉では届かんか……誰か、彼女に近い大人が導いてやってはくれんものか……」
 ため息を一つ。弟子の酒場へ向かおうと振り向きかけた方向から声が掛けられた。
「そこのアナタ!」
 振り返ると、赤い髪の少女が息を切らせて走ってきていた。
「女の子っ、女の子見なかったっ、十一歳の!」
「十一歳という特徴で解ると思うか?」
 少し意地悪く口の端を歪める。息を切らした少女はすぐさま己の失態を悟って再び説明しようと口を開いた。それをヴァンが制止する。
「だが儂は解る。運が良かったな、桃色の髪か?」
 頷く少女に、ヴァンは桃色の髪の少女が去っていった方角を指さした。
「……貴公、クローヴィス殿の娘か?」
 走り出そうとする少女が動きを止める。
「見たのね?」
 深く頷く。
「儂では止められんかった。だが……」
 十一歳、奇しくもディーネ達と同じ歳だった。首を持った少女と、快活に笑う双子の姿が重なる。
「もし何か困ったことがあれば力になろう。この道を真っ直ぐ行った所に英雄の故郷という酒場がある。そこを訪ねろ」
「……ありがとう」
 一礼して走り去る少女の背中を見届けてから、ヴァンは空を見上げた。既に雲はそこにおらず、満月だけが全てを見おろしていた。
「嫌な月夜だ……」
 ぽつりと呟いて、ヴァンはいつものように弟子の酒場へと足を向けた。

58日目
 険しい山を下りきり、ヴァンドルフ・デュッセルライトは背後を仰ぎ見た。
「あんな所から下りてきたのか……」
 そう呟いたのは彼ではなく横に立つサザンであったが、胸中の呟きを代弁して貰ったようなものだったので、ヴァンは黙って頷いた。
 切り立った岩が連なり重なり山となる。
 この島の山は大抵が森を伴う山ではなく岩山である。
 山であり森であるというのは至って普通なので、そういう山ばかりでも良いだろうとは思うが、山の動物と森の動物を同時に相手にしなければいけないと考えると、このような明瞭な区分もありがたい。
 先頭を歩いていたヴァンとサザンに続いて、ディーネとアゼルの双子とスフィも山から緩やかな平地へとたどり着く。
「ふう、ちゃんと山が終わったってわかるのが良いね」
「久しぶりの砂地ですね」
 双子が嬉しそうに砂を地面を踏みしめる。
 あからさまに不自然なほどではないが、この島では開拓地図に示された地形のとおり、一定の面積で区画が区切られており、そこを外れるとすぐに次の地形に変わったとわかるほど地形が分かれている。
 この山だと岩山から砂地への移行なので若干分かりづらいが、山裾からの地形が平原ならば山の区画が終わった一歩先からうっすらと草が生えている。
 続いてリアとリックが下山する。魔術師のリアは少女のような見た目の通り、酷く脆い。だが攻撃に回ると酷く惨い。攻撃の要であり、だからこその落とされてはいけない弱点でもある。その彼女と医者のリックを一行の中盤に加えるのは至極当然だった。二人とも狙われては困るのだ。
「やっと砂地か。オッサンにゃ岩場はつらいもんだ。足腰に響く。なあ、ヴァン?」
「知らん、鍛えろ」
 歳が二つしか変わらぬとはいえ、筋力差が軽く倍以上有る。身長こそリックの方が明瞭に高いし、リックも医者とはわからぬ体躯の持ち主だが、医者と傭兵では鍛え方が違う。
 馬のいななきが聞こえ、リックの従者であるダークホースと夢幻の造られしものが砂地へと降り立つ。
「動物に挟まれるのは余り楽しい行軍ではないな」
 そう言いながら、弓使いのディナが続く。その横には顔立ちの整った人形の少女が従っている。少女がディナを見上げると、ディナは薄く微笑んだ。
「きみのことではない」
 サザンと同じく既に死んだ後に英霊となって黄泉帰っている女傑だが、こうして笑うとなかなかに気品がある。戦場にて矢面に立って戦った王女であり、戦争終結のために大国へと嫁いだという戦いの人生を駆け抜けてもなお、生まれ持った気品は色あせず、むしろ荒波に揉まれて磨かれて来たのだろう。
「彼らのことだよ」
 振り返るディナの背後からリックの従者であるワイバーンと、先ほど倒したらしいミニベヒモスとちわわがうろちょろしている。
「まあそう言うなや、あいつらが壁になってくれるから背後からの奇襲を警戒しなくて良いわけだからな」
 普段ならばリド、小雨、リリィ、エマールの四人も加わるので、サザンとヴァンとリドの三人を先頭としんがりに振り分けるのだが、今はリド一行は別行動だった。
「リック、そろそろ選んでやったほうが良いのではないか?」
 ヴァンがワイバーンを指し示して言う。
 リックには獣使いの才能でもあるのか、倒した動物が従者になろうと付いてくる事が多い。しかし一行に加える数にも限界がある。取捨選択を迫られていた。
「むぅ……そうだな、お前なら誰が良いよ?」
「今お前と組んでいるのは儂ではない。服部と唐土だろう」
「二人とも今いないからなぁ」
 リックと組んでいる忍者となまものは、斥候としてリド一行を捜しに行っている。
「それに、唐土の奴は……な」
「そうか、次の守護者を倒したら島を去ると言っていたな」
「まったく腐っててつかみ所の無い奴なのに、変な所で律儀だよな」
「奴にも仲間意識はあるさ。儂の知っているもろこしとあの唐土が同一の個体ならばな」
 若かりし日のヴァンが孤島を旅した時について来た、トウモロコシの生命体もろこし。ヴァンの弟子ボルが孤島を旅した時についてきた、森の人を自称するトウモロコシ生命体もりこし。ジーンやエマール、ディーゼルの養母であるプラリネが旅をした孤島に現れた魔法使いのトウモロコシ生命体まろこし。そして、そのまろこしが死した後に復活し、生前の記憶も人格も無くしてしまったという生命亡者王唐土。まろこしと唐土は同一の個体だが、ヴァンの知るもろこしと、ボルの知るもりこしも含めて同一なのかは唐土本人にも分からない。生前の記憶が無いのだから当然だろう。
 島を去った後にどこへ向かうのかはわからない。島から出ても亡者の命が続くのかもわからない。仲間を捜しに行くのか、生き返る方法を探しに行くのか、別の目的があるのかも彼は語らず、ただ紅茶を飲むだけだった。
「名残惜しいような、別段何も感慨が無いような、不思議な気分だな」
 リックの言葉で一瞬流れかけた湿っぽい空気がゆるむ。
「ああ、確かにな。儂は面倒な仕事を押し付けられたしな」
「遺品を若者に配ってくれって奴か」
「遺品と言うな、死ぬわけではない。……いや、既に死んでいるか」
「亡者の王様だからな」
「二人とも」とサザンが声を掛ける。そちらを見ると、サザンは己の背後を指さしていた。
「王様がお帰りだ。女王様も一緒のようだ」
 唐土が悠々と歩いて来る。その背後にはリドに飛びつこうとしては鞭で叩き落とされる服部がいた。小雨に叩き落とされたと泣きつこうとでもしたのだろうか、小雨に近づいた所をさらに鞭で叩かれ、その直後にエマールから魔法で追い打ちを入れられている。
「……服部は何をやっているんだ」
「女王様ってのはリドなのかエマなのかが難しい所だな」
「エマールは女王というよりも女帝の風格だな」
 三人の男はしみじみと呟きながら、仲間の合流を待った。

       †

「どこまで行っていたんだ?」
 ヴァンの問いにエマールは細い煙草に火を点けてから答えた。
「ちょっと先までね」
 煙と共に答えになっていない答えを吹かせる。
「敵はいたか?」
 ヴァンも慣れたもので要点だけを訊ねた。
「このぶんなら夜までは大丈夫」
「ならば今日の戦闘はもうないか」
 夜までには宝玉の守護者がいる地帯に行く予定だった。
 守護者の領域内では守護者以外の敵は襲っては来ない。ただし人間を除いてはという一文が必要だが。
「リド、この周囲に人狩りの警戒情報はあったか?」
 ヴァンの呼び掛けにリドがどこからか取り出した手帳を開く。
 こういった情報はリックやサザン、リリィよりもリドやヴァンの方が詳しい。
「主立った人狩りはいないわね。大体地下二階にいるみたい」
「ふむ、ならば新鋭の人狩りが来ない限りは大丈夫か。よし、それでは守護者の領域まで進むとしよう」
 先頭はヴァンとリドの二人、しんがりはサザンとディナ、それに挟まれるようにリックとその従者達がおり、周囲に残りの仲間が固まるといった形だった。
「リック、従者は誰を連れて行くか決めたのか?」
「ああ、ワイバーンをここで開放する。山が近い方が良いだろう。引き入れるのはミニベヒモスだ」
「えー、ちわわは?」
 不満そうな声を上げたのは小雨である。
「ちわわは齧歯類だという噂ですよね義姉さん」
「それは嘘だと教えたはずよ。三回ほど」
 リリィとエマールがまったく関係無い話をしている。
「ちわわは連れて行かない」
 周囲の雑音を打ち消すように、少し強い語調でリックが宣言する。
「なんで?」
「ありゃ犬だ」
「齧歯類じゃないんですか?」
「違うわよ、四度目ね」
「リリィとエマはちょっと黙ってろ。良いか小雨、ありゃ犬だ。そして俺は何が好きだ?」
「可愛い女の子!」
「アマネも黙れ。埋めるぞ」
「かわいいおんなのこ! ……わたし?」
「小雨、埋めるぞ」
 頭が痛いといった風に眉間を押さえて首を振る。リックがちらりとヴァンに助けを求めるような視線を向けたが、ヴァンはサザンと二人でニヤリと笑って無視をした。
「あ・れ・は・い・ぬ・だ、わかるな? そんで俺は何が好きだ?」
「美味い紅茶は好きだぞ。きみもいかがかね?」
「唐土! てめぇは黙って島出てく準備でもしてやがれ! 俺が好きなのは猫だ! わかるか? 仲間にして欲しそうにちょこちょこついてきたツインテールキャットを泣く泣く無視した俺が、なんで犬を飼う!」
「怒ると紅茶がまずくなるぞ、落ち着きたまえ」
 唐土が紅茶を飲みながら諫める。リックがさらに何か言おうとした時、スフィが一歩進み出た。
「そうですよ。それに本人の前でそんな事を言っては可哀相です。ほら、ちわわさん今にも泣きそうな目ですよ?」
 皆の視線が泣きそうな目でぷるぷるしているちわわに注がれる。
「…………いやっ、騙される所だった! ちわわはいつでも泣きそうな目じゃねえか!」
 額の汗をぬぐって「危ねぇ危ねぇ」と言っているリックを余所に、ヴァンはスフィが小さく「残念」と呟いたのを聞き漏らさなかったが、黙っておいた。

 結局ワイバーンとちわわを開放し、代わりにミニベヒモスを加えた一行が火の宝玉の守護者、イガラシの待つ山へとたどり着いたのは日が暮れてからだった。
 枯れ木を積み上げて、フレイムリッカーで炎を纏ったヴァンがそれに点火する。
「ヴァンが燃えるようになってから夜営の準備が楽になったな」
 サザンの軽口に軽く微笑み返して、ヴァンは次の焚き火に炎を燃え移らせた。
「しかし炎か……ヴァンよ、お前さんイガラシと同属性じゃねえのか?」
「そうだよな、俺たちがこれまでに集めてきたのは風、地、水だ。先行した人達の話から考えてもイガラシとやらは火の守護者、同じ属性だ」
 リックとサザンの懸念はヴァンも考えていた事だった。しかしとうの昔に答えは出ていた。
「儂の攻撃が届きづらいという事ならば、奴の攻撃も儂に届きづらいということだ」
 それならば『火の宝玉の守護者』という枷に捕らわれているイガラシよりも、元々一介の剣士として訓練を積み、更なる飛躍の足がかりとして炎剣を修得したヴァンの方が動きやすい。
「それにな」
 ヴァンはおもむろに双剣を抜くと、ゆっくりと剣を頭上で交差させた。リック達が怪訝そうな顔をしたのを確認してから、ヴァンは口の端を歪ませて交差させた剣で頭上に双円を描いた。
「火龍顕現!」
 双円を双剣が突いたかと思うと、光り輝く双円から炎に燃える竜が現れた。
「召喚!? いや、それにしては朧な……」
「火龍着装!」
 炎の竜がヴァンを飲み込むように襲いかかる。ヴァンは身じろぎもせずに竜に呑まれると、身体全体で炎を吸収するように竜を吸収した。
「……そうか、これがドラゴンインストールって奴か!」
「ご名答だ。イガラシは赤竜を呼ぶと聞いたが、こちらは火龍を身に纏う。条件は五分。そしてこちらにはリアやディーネ達がいる」
「負ける気がしないってか?」
「さあな。だが少々ふざけた戦法をとるつもりではある。リアとディーネ、アゼルを信頼しているとも言えるがな」
 そう言って赤毛の子供達に笑いかける。
「これで無理ならばまた一人で挑むさ」
 火狼は不敵に笑うと、守護者が待つという山頂を仰ぎ見た。

59日目

VSイガラシ戦より

 炎を見つめながらヴァンは夜明けの気配を感じ取っていた。
 パチリと薪が爆ぜる。火の番を始めてから、一度もヴァンは薪を追加してはいない。それなのに炎はゆるまることを知らず、しかし燃え尽きもしない。
「火の守護者か……」
 そう呟く。思えばランス美と名乗る女性と戦った初めての守護者戦から、守護者達は己の持つ宝玉を表す環境にいた。ランス美、他の探索者から聞いた話ではエリザという名前だそうだが、彼女が居た山では風が吹き荒んでいた。ペリケペルカは鬱蒼とした森の中から現れたし、アリッサとメグリアは水辺に現れた。
 再び焚き火がパチリと鳴る。
 イガラシという火の宝玉の守護者、彼が待ち受けている山に足を踏み入れて夜営をしているのだから、中々豪気なものだとヴァンは苦笑した。
「……焚き火の勢いが衰えぬのは、イガラシとやらの影響なのかもしれんな」
 白んできた空を見上げ、ヴァンはそっと火を消して仲間を起こし始めた。

       †

 昨日に引き続き起伏の激しい岩山を登る。広げた地図には突破難易度が一段階目の山だと書いてあったが、気分的には昨日の突破難易度三段階目の山と大差がない。
 すばしっこいアゼルは斥候がわりに少し先を進み、双子の姉のディーネと戦闘になれば豹変する魔術師のリアが後に続く。ヴァンは慣例通り一番後ろを進んでいたが、守護者の領域では基本的に奇襲を警戒する必要はない。ランス美ことエリザのように守護者自身が問答無用で奇襲を仕掛けて来なければの話ではあるが。
 ヴァンはふと、自分が地面しか見ずに歩いている事に気づいた。いつもならば足元を確認しながらも、視界全てを警戒しつつ気配にも敏感になるはずなのに、今日は足元ばかりを見てうつむき加減になりがちだった。
(……身体が重い?)
 奇妙な違和感を覚えて顔を上げる。目の前にはディーネとリアが必死になって登山している後ろ姿がある。
(こやつらが後十年もすれば扇情的な光景にもなって、リックなどや服部などは喜ぶかも知れんな)
 そんな下らない事を考えてから、
(いや、服部ならば今の時点でも喜ぶか)
 などと余計に下らない事を考えて苦笑する。ヴァン自身はそのような欲を切り捨てて十年近い。服部周のように十以上も歳が離れた少女、幼女と言っても良いぐらいの年齢である小雨に対して本気になるというのは想像も付かない。もっとも服部周の場合は小雨が将来いい女になると見越しての先物買いだそうだが、端から見ていると変態と大差がない。これも服部に言わせると、千年前の文学に彼と同じ事を考えた貴族のお話があると言う。ならばその貴族も変態ではないのかと言いかけたが、ヴァンは黙って流しておいた。
 また俯いていたことを自覚して顔を上げると、斥候として先に進んでいたアゼルがそびえ立つ崖の岩肌に持たれているのが見えた。
「どうした?」
「なんか身体が上手いこと動かないから休憩中」
 近づいて聞くと、意外にもアゼルもヴァンと同じ違和感を抱いていたようだった。
「お前もか」
「ヴァンさんも?」
「リアやディーネも少々つらそうだった。こうなってくると、儂が歳だからというわけではなさそうだな」
 剣を抜いて一つ素振りをしてみる。風を斬る音が鈍い。
「これも守護者の領域ゆえか? それとも……」
 作り物の空、何者かの作為が感じ取れる島、それならばヴァン達の身体能力を落とすことも可能だろう。それが島で戦う全ての者に対してなのか、ヴァン達に対してのみなのかがわからない。守護者も同様に鈍くなっているのならば勝ち目はあるが、これ以上はない不安要素であった。
「はは……本当に来やがったよ、全く欲の強い」
 突然の声にディーネとアゼルが周囲を見回す。
「あそこ!」
 リアが指さした先、アゼルが持たれていた崖の上に派手な服を着た男が座っていた。
「いよッ! 太古の記憶が眠るこの地にようこそ」
 さしたる大声ではないが、岩肌に反響してヴァン達にも充分に聞こえる。
 男はすっくと立ち上がると、崖からヴァン達のいる場所へと跳躍した。
「ととっ……ふぅわぁ危ねぇ危ねぇ……、もう歳かねぇ」
 着地に失敗して転びそうになりながら、男は体勢を立て直した。
(この男も動きが鈍っているのか? こいつが守護者だとすると……)
 期待を込めたヴァンの疑念に答えるように男が名乗る。
「……あーっと、俺はイガラシっつー……まぁ下っ端だな、うん。訳あってここの宝玉ってのを守ってんのよ。あぁ、宝玉ってのはえぇっとー…………坊主、そこちょっとどいてくれ」
 崖の傍に居たアゼルを退かせて、崖に手を触れるとその手が吸い込まれていく。何かを探すように動いた後、引き抜かれた手には紅く焼けた石が三つ握られていた。
「……うん、これね。なんか熱そーだけどぜーんぜん、……触ってみる?」
 アゼルが素直に手を伸ばすと、イガラシは即座に手を引っ込めた。
「なーんてなっ! 俺はこれ守ってんだよ、渡せねぇよぉ。まぁでもそちらさんはこれを集めるとー……って噂でやってきたんだろ? 知ってるぜ?」
 イガラシは軽快にひょいひょいと岩山を進むとヴァン達に振り返って笑って見せた。
「こっち広いんでこっち来なッ! 俺を負かしたら宝玉をやるよ」
「喰えん男だ」
「男に喰われる趣味はないんでね」
 一瞬、ヴァンとイガラシの視線が激突するが、イガラシはすぐに視線を外すとまたひょいひょいと岩山を進んでいった。
「どうします?」
「宝玉をくれると言うのだ、進むしかないだろう」
 一行がイガラシの進んだ方へ向かうと、戦うのに充分な広さを持った場所に出た。その真ん中でイガラシは呑気に準備体操を始めていた。
「どうやらもう宝玉を手にしているようだしなぁ……ちょっくら気合入れてやるかねっ!」
 宣言と同時にイガラシの身体から強烈な熱風が吹き付ける。
「気合いだけでこれか、よかろう、受けて立つ!」
 ヴァンが双剣を抜いた。
はあぅッ!? ……おぇ、ちょ、ちょッ……タンマッ!!」
 口を押さえながらイガラシが跳びすさる。
「知るかっ!」
 裂帛の気合いと共にヴァンが炎に包まれる。
「わ、わりぃ……ちょっとてきとーにやってて……」
 間合いを離したイガラシも炎を纏う。その炎にヴァンは見覚えがあった。
「ディーネ、アゼル、エターナルフレイムだ気を付けろ。儂が使う物とは桁違いの威力だぞ」
「ん、アンタ剣士なのにエタフレ使えるのか。そりゃ……あいたたたたた…………参ったなぁ…………」
 今度は右手で胃の辺りを押さえながら、イガラシは左手で魔法陣を描いた。これはヴァンにもリアにもディーネ達にも見覚えがなかった。
 陣が輝く。
「……凄いね」
 アゼルが呟く。陣から現れたのは巨大な赤竜だった。
「赤竜が一匹か、ならば!」
 ヴァンは双剣を頭上で交差させると、それぞれを二回転させて二つの円を描き、その中心を突いた。
「火龍顕現!」
 頭上の円が輝き、二頭の炎の竜が現れる。
「火龍着装!」
 二頭は大きく口を上げてヴァンを飲み込むように食い掛かる。ヴァンは身じろぎせずにその炎を受け入れると、身体全体で吸収するように炎を纏った。
「こちらは火龍二頭と火狼が一匹だ」
「おー、格好良い、また今度これ教えてよ」
「後だ、行くぞ!」
「了解!」
「はい!」
 アゼルとディーネが答えると同時に走り出した。
 これまでのような鋼線と槌で戦うのではなく、小雨に作って貰った大傘で相手の攻撃をそらしながら懐に潜り込み、一気に槌で速攻を仕掛けるという戦法に変わっていた。
 若いだけあって戦い方が柔軟に変化するのを嬉しいような眩しいような不思議な気分で見つめながら、ヴァンは己の出番を待った。
 背後に光を感じる。リアの攻撃が始まる。大量の光弾が放たれ、その着弾を待たずしてさらに光弾が降り注ぐ。レッドドラゴンが怯み、背後に守られていたイガラシの姿が見えた刹那、その頭上に雷が落ちる。リアのサンダーボルトだ。続いてヴァンの横をかすめて青く光る雷球がイガラシに向けて突き進む。それを確認してヴァンも走り出す。出番だ。
 雷球がイガラシに着弾したのに一秒遅れて、ヴァンがレッドドラゴンの懐に飛び込む。 右の剣と左の剣、それぞれから繰り出される神技レーヴァテインがレッドドラゴンの命を刈る。
「よし次!」
 レッドドラゴンの身体が崩れ落ちた影からイガラシが飛び込んでくる。
「避けろっ!」
 アゼルに向けたヴァンの警告は一瞬間に合わなかった。強いとは言ってもまだ子供である。レッドドラゴンの巨体に視界を防がれて回避が遅れたアゼルの首にイガラシの手が掛かる。
「爆撃ッ! 全てを粉砕する大火力ッ! 精霊さんよぉ存分に炎を注ぎなッ!! 炎に負けて死んだら死んだで俺は地獄に君臨してやるさッ!! ついでにお前も連れていってやるぜえぇぇッ!!」
 イガラシの両手から爆炎が吹き出し、アゼルが宙を舞う。常人ならば一撃で戦闘不能になるほどの炎だった。
「次はアンタだ」
 炎を手に纏ったまま、イガラシがヴァンに向き直る。
 爆発音と共に地を蹴る。予想していた倍以上の速度で間合いが詰められてしまった。
「足からも爆炎を!?」
 その反動での加速であった。
「大・爆・殺ッ!」
 跳びすさるヴァンの首に手を伸ばし、だが少し指先が届かない。それでも至近距離には違いないとイガラシが爆炎を解き放つ。しかしヴァンの顔に浮かんだのは焦燥ではなく、余裕の笑みだった。
 炎が透明な壁に阻まれてイガラシへと反射する。
「レッドドラゴンの影に隠れているから反射障壁に気づかんのだ」
 ヴァンの視界の隅に、なんとか起き上がったアゼルの姿が見える。ヴァンとの連係のために火霊との調和を図っていただけの事はある。炎への耐性がついていたのだ。
 凄まじい速度で走り寄るアゼルの一撃を脳天に受け、体勢を崩した所にリアの雷撃が降り注ぐ。ヴァンの双剣による二発同時のレーヴァテインが身を切り裂く。
 致命傷を補うように六角形の光る板がイガラシの身体を覆い、一瞬でその傷を塞ぐ。再形成である。
「再形成如きで凌げるほど我らは甘くはないぞ」
 ヴァンの言葉が終わる前に、ディーネとアゼルが再び連撃を叩き込む。その後はいつものようにリアが雷撃を放ち、ヴァンが二発同時のレーヴァテインでとどめとなった。

「ははは…………やっぱ若い子には勝てないねぇ」
 仰向けに倒れたままイガラシが呟く。ヴァンとイガラシはそう歳が離れているようには見えないが、恐らくディーネやアゼルに言っているのだろう。
「ほらよ」
 粗雑な動作で宝玉を投げて寄越す。
「よいしょっ……と。んじゃせいぜい頑張りな、おじちゃんは帰るからね」
 つらそうに身体を起こすと、イガラシはふらつきながらどこかへと去っていった。
「……ともかくこれで四つか。今の所、一階で入手できる宝玉はこれで全てか。これでようやく下層に潜れるというものだ」
「敵も強いんだろうなぁ」
「怖いか?」
「んー、ちょっと怖いけどわくわくするね」
「儂もだ」
 そう言って少年と笑いながら、ヴァンは仲間との合流地点に向かうのであった。

60日目
「やはり鈍い……」
 ヴァンはそう呟いて額の汗をぬぐった。
 異変に気づいたのは昨日。宝玉の守護者、イガラシとの戦いを前にして抱いた違和感が最初だった。どうにも身体が思うように動かない。四十を越えた年齢のせいかと疑いもしたが、まだ若いディーネやリア達も同様の違和感を抱いていたため、それも違うと疑念を追いやった。
「くそ、暑いな」
 火の守護者と戦った山からは随分と離れている。守護者の影響を疑うのは無理があった。単純に、長袖の上に皮鎧を纏い、その上から鋼線の編み込まれた外套を着るという、ヴァンにとっては慣れ親しんだいつもの装備が負担になっているのだ。首まわりについた羽根の襟飾りもこうなっては暑いだけである。
 旧知の魔導師に白さを維持できるように魔法付与までして貰った羽根の襟飾りを、まさか邪魔に思う日が来るとは、ヴァンには思いも寄らないことであった。
 多少の暑さ寒さは耐え抜く精神も身体も持っている。孤島での日々でも、遺跡に潜っている間に外套を邪魔に感じたことなど皆無だった。
 寝ている間でさえ、体温を奪われないように着込んだまま寝ているし、日の照りつける砂地でも脱がずに歩を進めた。
 そもそもこの外套は特別製の中の特別製とも言える逸品であった。
 柔軟にして頑強な鋼線を編み込んだ外套、鎧套と呼ばれるそれ自体が特別な物だった。そこに着ていても涼が取れるような魔法付与をして貰い、首もとの羽根には汚れが付きにくく、落ちやすいように魔法付与をして貰った。鎧套の布部分にも魔法を受け流し易い素材を使っている。燃えづらく、ほころびにくい、最高の品だとさえ思っている。この一着を普通に作ろうと思うと、傭兵団を丸ごと雇えるほどの金をかけても難しいだろう。魔法付与に掛かる金だけで数年は暮らせるはずだ。そんな魔法付与を知己というだけで高名な賢者にただでやらせたというのも、ヴァンの自慢の一つだった。
 襟元に手を掛けて、逸品を脱ぎ捨てたい衝動に駆られるのを自制する。
「厄介だ……まったく厄介だ」
 原因はわかっていた。火霊の加護を身に受けて火の属性を纏って戦うように戦法を切り替えて随分経った。それがようやく形になってきた矢先に、昨日からの己の身体が制御しづらい異変が重なった。つまりヴァンは本来加護であるはずの火霊の力を制御仕切れずに、自ら発した力で身を蝕んでしまっていたのだった。
 リアやディーネ、アゼル達と別れた単独行動をしたのは早計だったかと不調を嘆きかけ、子供達に頼ろうとする己の不覚に気づく。
「儂が守るという気概を持たんでどうする」
 声に出した自嘲で弱った心を叱咤する。
 立ち止まり、汗をぬぐって前に進もうとしたその時、ヴァンは一人の男が立っている事に気づいた。
「人? いや……敵か」
 仮面を付けた奇怪な男はゆっくりと近づいてくると、ヴァンとは十歩ほど離れた所で立ち止まり、深々と一礼した。
「ようこそ、私の舞台に」
「ようこそ、私の舞台に」
 顔を上げた男が二人にぶれる。疲労で目までおかしくなったかと目に手をやりかけて、ヴァンはそれが相手の特性だと悟った。
 二人に増えた男が同時に指を鳴らすと、何もない空間から揺らめきながら虎が現れた。
「参るぞ」
 ヴァンは懐から火の付いた花火を三つ取り出して投げつける。気焔万丈と呼ばれる戦闘技術を身に付けてから覚えた自己発火と、火薬を使う花火師の技術を組み合わせた牽制の一手である。
 相手の攻撃を封じながら接敵状態にまで持ち込むと、ヴァンは更なる炎を顕現させた。

       †

 喧騒を乱さぬよう酒場の扉を静かに開ける。ひんやりとした外気が頬をそっと撫でた。ヴァンは酒瓶を手に持ったまま、両手で外套の襟を直すと、暖かな酒場から一歩踏み出した。
 店の外は何日か前に弟子のボルテクスがヴァンと間違えられて襲撃された通りとなっている。深夜になると人気が無くなり、明かりも月明かりと星明かりに頼るのみなので、先日の襲撃騒ぎのような事が起こるのだろう。
 もう少しましな立地も有っただろうと弟子に聞いたこともあったが、地底湖へ通じる大洞穴や、様々な店が並ぶ大通りの中心街からは幾分離れた立地をわざわざ選んだという。その甲斐あってか、知る人ぞ知る名店といった評判を得ているらしい。
 ヴァンが研究した錬金術の合成表や各種属性の研究誌を、誰にでも読めるように置いてあるのも理由の一つだろう。かつて実際に孤島で宝玉を揃えた店主の経験談を聞きたいという客層もあると聞く。中々どうして弟子は立派にやっているようだった。
 その弟子から貰い受けた酒瓶を手に、店から数件ほど離れた空き地に足を運ぶ。
「良い月夜だな」
「まったくだ、紅茶がうまい」
 風にそよぐ雑草と同化したように、深紅の房が揺れる。いつもの空き地にいつものように、生命亡き者の王は座っていた。
「島を去るのか」
 ヴァンの言葉に微笑を浮かべて紅茶を一口。
 間を置いて開かれた口からは、言葉ではなくため息が一つ。
 何かを懐かしむように目は遠い月を見つめていた。
「月に」
 唐土が呟いた。
「小雨が月に兎がいると言っていた」
「ほう」
 釣られてヴァンも月を見上げたが、よく解らなかった。
「その兎は美味いのかな」
「……お前は植物なんだから、光合成で事足りるだろう」
「だが肉と紅茶は好きだぞ」
 つかみ所のないのは相変わらずである。
「酒はどうだ?」
 ヴァンは持ってきた酒瓶を掲げて見せた。
「試してみるのも悪くないな」
「紅茶が好きだと言うのでな、薫りが味わえる物を選んできた」
 からになった唐土のティーカップに酒を注ぎ、続いて自分の酒杯にも注ぐ。
「お前の前途に」
 目の前に掲げて乾杯をする。そのような習慣がなかった唐土は、少し途惑ったような表情を浮かべてからヴァンに倣った。
「お前達の多難な前途に」
「ひと言余計だ」
 苦笑して酒を口内に招く。すぐには飲み込まず、口の中で広がる薫りを楽しんでから、咽を通す。焼けるような熱さが咽から下りていくのがわかった。
「島を出てからどうする?」
「どうしようかな」
 唐土はちびちびと舐めるように酒を飲んでいたが、慣れてきたのか普通に飲み始めた。答えをはぐらかすのはいつも通りだった。
「お前が生前の記憶を失っているのは知っている。……戻ったのか?」
「秘密」
 その答えが来るのはわかっていたので、ヴァンは僅かに笑った。
「儂が昔、そう、二十年ほど前に孤島を旅した時にも、お前と似たような奴が仲間にいた」
 若き日に思いを馳せる。あの時の仲間がどうしているのかはわからなかった。
「孤島の時の流れと、外界の時の流れはまったく違う」
 ちらりと唐土を見る。
「儂が今組んでいるリア、本名をルヴァリア・フェンネリーフと言うが、二十年前の仲間にホーク・フェンネリーフという少年が居てな」
 この話を唐土にしたことはなかった。
「それがこのリアの弟だと言う」
 唐土が少し興味深そうな顔をした。
「驚いたぞ。二十年前に旅をした少年が恐れていた姉が、奴から聞いたとおりの姿で今儂と旅をしている。奇縁と言うしかあるまい」
 また酒を一口。
「そして酒場をやっているボル。奴も昔孤島に送り出した事があったが、あいつが旅をしていた時の仲間には、リリィの義姉のエマールがいた。あいつに言わせると、昔旅をした時とまったく変わっていないそうだ。エマールが不老の秘術でも使っていない限りは、儂らの世界とエマールの世界でも時の流れ方が違っていたのだろう」
 唐土も酒を一口飲んでから相槌を打った。
「そのボルの仲間にもお前に似た奴がいたそうだ」
「ほう」
「お前がなぜ急に島を出るのかは知らん。無理に聞き出すのも無粋。だが、もしもお前が同種の仲間を捜すというのであれば……また孤島を目指せ。エマールの話では、この島の前に一番最近出現した孤島、ジーン・スレイフやエマールが旅をした島にもお前と酷似した奴がいたという」
 その後を続けるか逡巡する。
 唐土は一度死に、不死の魔物として甦った際に記憶を無くしたという。生前の姿を追っているのか、同種の仲間を追っているのか、それとも亡者の王という野望のためか、目的を知らずにこの先を軽々しく続けて良いのか否か。
 時間にしては一秒と少し、その間の葛藤を経てヴァンは続ける事にした。
「それが、お前の生前の姿ではないかという話だ」
「そうだろうなぁ」
 返ってきた言葉に目を丸くする。
「お前、知っていたのか?」
「いや、たまに俺の後ろで杖を持った半透明の俺みたいな奴がうろうろしてるからな。それじゃないのか?」
「知らん、儂には見えん」
「んー、まあ俺は生命亡者王だからな! 生き霊だろうが幽霊だろうが気にしない!」
 僅かな鈍痛を感じ、ヴァンは眉間を押さえて首を振った。
「つかみ所がないのもここまで行けば頭が痛い」
「ありがとう」
 褒め言葉ではないが、わざわざ指摘するのも疲れたといった風に、ヴァンはため息を酒で流し込んだ。
「それで、いつ発つのだ?」
「明日お前達が遺跡に潜るのを見送ってからかな」
「そうか……」
 それからしばらくの間、二人は黙って酒を飲んでいた。
 十分ほどの沈黙が流れ、最後の酒を飲み干してヴァンが立ち上がった。
「さて、酒が切れた。儂は酒場に戻るとしよう。お前はどうする?」
「ここでまた紅茶を飲む。ああヴァン、一つ頼まれてくれ」

       †

 カランと小さく鈴が鳴って、酒場『英雄の故郷』にヴァンが入ってくる。
「お帰りなさい師匠。その荷物はどうしたんです?」
 ボルが見咎めたのは、唐土の持っていた武器や防具だった。
「島を発つ仲間からの頼まれ事だ。これをなるべく苦労してそうな奴にただで配ってくれとな」
「また面倒事引き受けて……師匠、アンタいっつも何だかんだで馬鹿みてないですか?」
「そうだな、敵の遺言を聞いて儂が代わりにその弟子を一人前に育て上げたのが一番の馬鹿だったな」
 無論、ボルの事である。
「その弟子の酒場でよくタダ酒呑んでるのはどこの誰です、馬鹿どころか先行投資大成功じゃないですか」
「弟子がやっと一人前になったと思ったら剣を置いたんだが、これは師として成功なのか?」
「……師匠、良い酒が入ったんですがどうです? もちろんタダで」
「貰おう」
 そう言ってヴァンが酒杯に手を伸ばした時、またカランと音がなって酒場の扉が開いた。
 ヴァンはある種の予感を持って、椅子ごとそちらへ向き直った。
 赤い頭と桃色の頭がひょこりと覗く。
「やあ来たな小娘ども。果実酒でも飲むか?」
 去っていく仲間がいれば、歩み寄ってくる新たな仲間もいる。
 ヴァンは微笑を浮かべて、新たな一歩を踏み出した子供達を迎え入れた。

63日目
 平原の土を軽く湿らせる程度に降った雨は、陽が沈む前にやんだ。
 土が湿れば薪もまた湿る。ヴァン一行に火の魔法を得意とする者はいない。火の加護を得ているのも、ヴァンに他はディーネとアゼルの双子しかいない。自在に火を操る領域にいるのはヴァンのみである。結果、湿った薪に火を点けて回るのは彼の役目となった。
 フレイムリッカーで体中に炎を纏い、炎を伝わらせた剣で幾つかの焚火を作る。
 一通り回ってから、リックと服部周が座る焚き火の脇へと腰を下ろす。
「お疲れさん」
 差し出された酒杯を受け取って、リックに頷きかける。
「点火係として体よく扱われる事にも慣れてきた」」
 笑って酒を呑む。
「普通の剣だから着火も出来ているが、これが光双剣ならどうなっている事やら」
 そう呟いたのを、リックと服部は聞き逃さなかった。
「光双剣って言や、ヴァンの昔語りでも何度か聞いたな。酒場のボルも、それがヴァンの最後の剣だって言ってたが」
「おお、最強剣か! オッサンもそんなの隠し持ってるとはやるね!」
 何がやるのかはわからないが、ヴァンは最後の部分だけを否定した。
「持って来てはおらんさ。儂はこの島に自分を鍛え直しに来ておるのだ、あれを使えば修業にならん。それに、まだ完成したとは言いにくい出来でな、不安定なのだ」
「不安定? 剣がか?」
 怪訝そうなリックに、ヴァンは頷いて肯定した。
「剣と言って良いかも怪しいがな。一番しっくりくるのは……そうだな、魔法兵器だ」
 二人の表情が何かとんでもない物を想像しているように見えて、ヴァンは言い繕うように続けた。
「見た目はたいした事はないのだ。ただの筒だ、そう……これくらいだな」
 そう言って酒杯を脇に置き、両手で大きさを表現する。確かにその大きさは普通の片手剣の柄と同じか、それよりも多少小さいくらいだった。
「知り合いに希代の大賢者をやっている爺がいてな。そいつに儂が世界各地で探してきた数千年前の魔法技術を解読して貰い、ドワーフやエルフの職人に協力を仰いで、数年掛かりで作って貰ったのだ」
「何か聞いてるだけで恐れ入るな。それでもまだ完成してないのか」
 ヴァンは酒を口に運びながら少し考えるそぶりを見せた。
「理論上は完成した。しかし実際に使ってみると、まだまだ足りない部分が出てくる、そんな感じだな」
「どんな武器なんだ?」
 服部が目を輝かせて聞いてくる。リックも少し興味があるようだった。
 二人にとってヴァンは異世界の住人である。ヴァンも彼らの世界の科学技術の話を聞いて驚嘆したので、気持ちはわかる。
「儂の世界には、万物に魔素というものが宿っておる。人にも動物にも草木にも、路傍に転がる小石にもな。その魔素が大きく、そして使いこなす技術と才能を持った人間が魔術士だ。光双剣を作るのに手伝わせた爺さまはその中でも屈指の才能でな、儂も何度か殺そうとしたが返り討ちにあった」
 さらりと物騒な事を言う。
「精製不能と言われていた魔素を含んだ金属をドワーフの職人達に精製して貰い、それに三十二種の付与魔法を掛けるのをエルフの職人達に頼んだ。そうして出来たのが、使い手の意思に応じて刃を成すふた振りの無刃剣、それが光双剣だ」
「さっきも筒だとか言ってたな」
 リックと服部の顔に、何か予感めいた色が見える。ヴァンの世界では弟子達でさえ実際に見せるまでは光双剣がどういう物なのかを理解できなかった。ひょっとすると、彼らの世界では光双剣と同じような武器があるのかも知れない。魔法技術に優れた自分の世界と、科学技術に優れた彼らの世界で行き着く先が同じ武器というのも面白い、そう夢想の翼が羽ばたこうとするのを、ヴァンは押しとどめた。
「殺気や闘気というものを知っているか?」
 二人が頷く。
「この島に来るまでは嫌な予感とか、誰かに見られてる感覚ぐらいしかなかったけどな。こんだけ死線をくぐりゃ嫌でも実感するさ」
 自分の酒杯に酒をつぎながらリックがいつもの小憎らしい笑みを浮かべた。
「光双剣はそういうものに反応して刃が発生する。儂は本来魔法が使えんが――」
 言いながらフレイムリッカーで右手にだけ炎を発生させ、すぐに消す。この島でのみ、本来魔法が使えない人間でも魔法が使えるらしい。
「先ほども言ったように、身体に魔素は宿っている。闘気と魔素が反応して、儂の意図する時、意図する長さで、光の刃が発生するのだ」
「ライトセーバーか!」
「ビームサーベルだ!」
 二人が同時に叫んだ。ヴァンは珍しく目を丸くして驚いていたが、それは光双剣が彼らの世界にもあるという驚きだった。
「やはりお前達の世界にもあるのか?」
「いや、ない」
「あるぜ!」
 今度の答えは違っていた。リックが咎めるような視線で服部を見た事から、無いと発言したリックが正しいのだろう。
「アマネ、お前ら日本人は確かにロボット作ってそうだが、ライトセーバーを作ったなんて話は聞かねぇぞ。それにレーザー兵器を作るなら、普通剣じゃなくて銃だろうが」
 言われた服部も何か弁明をしていたが、ヴァンは僅かに自分が落胆していると気づき、彼らのやり取りが耳に入らなかった。だが、どういう武器かを理解して貰えただけでも幸いだったと気を取り直す。
「まだ剣も使い手も完全じゃないから、お前達の言う武器ほど洗練されているかはわからんよ」
 そう言って二人の言い争いに水を差す。
「さっきから言っている完全じゃないってのはどういうこった?」
「武器の面では、思った通りの時や長さで刃が現れない事があるのと、儂の中に迷いや雑念があると刃が急に消える事があるのでな」
 それでは実戦で使えない。
「一度戦場で少年兵を切ろうとしたら、少年じゃなくて少女だった時があってな。女の傭兵だろうが、子供だろうが、殺気を向けてくれば斬るが……少女が兵士をやってたのは初めてだ。途惑った瞬間刃がふっと消えて、不覚にもその娘の短槍で脇腹を貫かれた」
 服部が「痛ぇ」と脇腹を押さえた。リックは医者なだけはあって、平然としているように見えたが、僅かに眉根が寄っている。
「ただし、完調の時だとそれはもう完璧な武器だ。ジーン・スレイフは知っているか?」
「名前だけはな」
 リックが答えると、服部も頷いた。
 ジーン・スレイフ・ステイレスは、かつて二度ほど孤島に姿を現した剣士である。今ヴァン達と行動を共にしているリリィの義姉エマールや、遺跡外で酒場『英雄の故郷』を営んでいるヴァンの弟子ボルが、かつての孤島で全ての宝玉を集めた際の仲間であった。
 見た目は青年だが呪われた魔剣の力で百年以上も生きており、ヴァンやボルの住む世界で魔人と恐れられた不敗の剣士だった。彼が敗れた生涯で初めての相手、それが光双剣を持ったヴァンであった。
「斬っても斬っても死なん奴でな。儂の武器が光双剣でなければ、今頃儂は土の下だ」
 その戦いで傷つき海に逃れたジーンは、命を繋いでいた魔剣と誇りを失い、その両方を取り戻すために孤島で再起を図ったのだった。
「長さが変えられるから、儂の頭さえ付いて来れば……」
 ヴァンは手刀を作って振り上げて見せた。
「こう振り下ろす。服部、腕で受けてみろ」
 言われた服部が腕を顔の前に掲げて、真っ直ぐゆっくりと振り下ろされるヴァンの手刀を待ちかまえた。
「この腕に打ち合う刹那に刀身を引っ込めて――」
 ヴァンは一度手刀を引っ込めてから、服部の腕の下に手刀を差し込んだ。
「相手の剣をくぐり抜けた刹那にまた刀身を出現させる」
 そのまま振り下ろされた手刀が服部の額を叩く。
「そうすれば相手の防御を無視して斬り伏せる事が出来る」
 服部は妙に感動したような顔になっていたが、リックは驚きながらも怪訝な表情だった。
「理論はわかるが、剣を振り下ろすのって零コンマ何秒って所だろ? その中で出したり縮めたりって、零コンマ零何秒でも足りないぐらいの判断が必要じゃないのか?」
 リックの言っている単語の意味はよく解らなかったが、言いたいことはヴァンにもわかった。弟子達にも無理ではないかと言われた事があったからだ。
「だから完調じゃないと無理なのだ。後はそうだな、こう……」
 今度は指を第二関節で曲げた手刀を横薙ぎにして服部の首を狙う。ゆっくりと近づく手刀を、服部が少し身体を後ろに倒して紙一重で避けようとする。ヴァンは途端に指をぴんと伸ばすと、服部の咽に振れた。
「紙一重で避けようとした相手に当てることも出来る。どちらも相手の勘や先読みを、儂が更に先読みしなければならんがな」
「すげぇ、チート武器じゃん!」
 今度は服部がよく解らない単語を言ったが、恐らく卑怯臭いといった部類の言葉だろうと推察する。今の説明から反応を返されるとすると、感嘆かそれかのどちらかしかないだろう。
「まあ卑怯と言われる部類の武器かも知れん。なんせ賢者の爺が言うには、理論上は天まで届く刀身にも出来るそうだからな」
「すげぇな、チートだなぁ」
 やはり卑怯臭いという意味だとは思うのだが、なぜ服部が目を輝かせて卑怯臭いと言うのかがヴァンには理解できない。
「しかし扱うのが大変そうだな」
 リックの呟きでヴァンは己の失敗を思い出し、苦笑した。
「大変だった、確かに大変だ。最初に使ったときなんぞ、勝手が解らずに自分の左腕を斬り落としてしまった」
「は!?」
「賢者の爺さまが見てる前だったから即座にくっつけてくれたがな、そうでなければ儂は双剣を持てないどころか、傭兵を引退しておったかも知れん」
「なんつう危ない武器だよそりゃ」
 呆れたようなリックに、ヴァンは真面目な表情を向けた。
「そう危険なのだ。普通の剣と違って刀身の重さがない。お前は剣を振ったことはあるか?」
「いや、せいぜい野球のバットぐらいだ」
「俺はあるぜ!」
 服部がなぜか手を挙げて言う。
「バットもあるけど、全然違うぜリック。本物の刀は凄ぇずっしり重くてな、振っても重さに振り回されてピタっと止まってくれないんだよ。おかげで俺は肩痛めたね!」
 いつもは見当違いな事ばかり言う服部だったが、この時はヴァンの欲しかった答えを言ってくれた。
「それだ。儂らは武器を扱う際に重さを計算したり、身体に覚え込ませて戦うのだ。大剣などではその重さで叩き斬るように、ハルバードでは遠心力で威力を増すようにな。双剣もそれは同じだ。重さや速度、遠心力や重力など、その場面に合わせて最良にして最大の一撃を生むためにはどうすればいいのかというのを、身体に染み込ませた経験が覚えている」
 そこまで説明すると、リックはもうわかったとばかりに頷いた。
「そうか、光双剣だと刃の重さが無いから経験で使おうとするとズレが出来るんだな。多分、意識して動きを修正しても残るような僅かなズレが」
 ヴァンは深々と頷いた。己の未熟さは自分自身が一番知っているつもりだった。
「それにしてもチート武器使いこなして、死なないチート野郎のジーンを倒したんだろ? ならヴァンのおっさんがベストチート野郎だな!」
 服部の言っている言葉は相変わらず意味不明だったが、ヴァンは何だか励まされた気がして微笑を浮かべた。ヴァンが完全に光双剣を使いこなせるようになるのは、これから十年近くも後の話である。

69日目
 夜の森は意外な程に賑やかだ。
 ほうほうと鳴くフクロウの声。
 りんりんと鳴く虫の声。
 かさりと落ち葉が踏まれる音。
 かさかさと茂みを動物が行く。
 ごうと風が吹けば木々がそよぐ。
 さわさわと枝葉が合唱を奏で、そしてぱちりと焚き火が爆ぜる。
 浅い眠りの表層をただよっていた意識を掴み、ヴァンは静かに目を開けた。

「眠っていたか……」
 小さな声で呟くが、はたから見ればただ目を閉じていたのと大差はない。
 ヴァンが深く寝入る事はあまりない。
 眠っていても、僅かな物音で即座に意識が覚醒する。
 眠りが浅いのとも少し違う。その本質は眠りというよりも瞑想に近い。睡眠の大半をそうして意識の表層をたゆたうようにしてとっていた。
 深い眠りは数十秒からほんの数分。三十分意識の表層を泳ぎ、三十秒深く眠り、二十分浅い眠りをたゆたい、三分だけ深く眠る。
 浅い眠りの中でヴァンは休息を得る意識と、外界へ向けた意識を分離させていた。
 深く眠るときは外界へ向ける意識を一、残りを九に。浅く眠るときは随時割合を変えるように。
 あくまでも薄く眠りながら外界を意識で探り、安全だと判断してから「では今から一分二十秒深く眠ろう」といった具合に意識で制御して深いところへと沈んで行くのだ。
 この睡眠方法が身につくまでには随分と時間がかかった。完全に意識で制御出来るようになるまでは三年ほどかかっただろうか。
 身に付けたくて身に付けた技術ではない。
 身に付けざるを得なかっただけだった。

「眠りたくない」
 かつてヴァンはそう言った。
 そう言って、一週間以上眠らなかった。

「眠ると悪夢を見る」
 気絶するように倒れ、目覚めた第一声がそれだった。

「儂が眠ったら誰が守るのだ」
 心配する弟子たちにそう告げたが、大半の弟子たちは正しく言葉の意味を理解していなかった。
 正確にヴァンの言葉が自分たちに向けられたものではないと理解したのは、三、四人ほどの高弟と、その一人に泣きつかれてやって来た赤衣の賢者のみだった。

 取り乱すというのとは少し違うが、常に威風堂々としていたヴァンが弱った所を見せたのがそれが最初で、そして多くの弟子たちにとってはそれが最後でもあった。
 後に魔導師の中の魔導師、魔導王とまで称された赤衣の賢者は、一人の友人としてヴァンに薬を煎じてやった。
 ただの睡眠薬と、精神を安らがせる香であったが、あまりにヴァンが眠らない時は、弟子が食事に睡眠薬を混ぜて無理矢理眠らせるという方法を取った。
 そうしてふた月が経った頃には、ヴァンには睡眠薬が効かなくなっていた。高弟の一人ボルテクスなどは師の前ではばからずに「弱ってるくせに無駄に頑強だ」などと憤ったものだが、眠りを拒否する精神と、元来の体質が薬を凌駕してしまったのだから仕方がない。
 困り切った弟子達は再び賢者に対策を訊ねた。
 それから二ヶ月間、賢者はヴァンを連れたまま姿を消した。
 ヴァンが弱り切ってからの四ヶ月の間に、二人の弟子が彼の元を去り、四人の弟子が戦死した。
 そうして戻ってきたヴァンは、少し陰こそあるものの、力強さを取り戻していた。
 威風堂々とし、豪快で、どこか優しく、たまに笑う。今までと違ったのは、物憂げな表情で何かを考え込むようになった事と、やはり眠りにつきたがらない事だった。

「懐かしいものだ」
 過去を想って独りごちる。
 そんな事を思い出したのは、恐らく自分がたった今十分ほど深く寝入ったからだろう。
 この島に来て以来、二番目に長い深い睡眠だった。
「疲れているのかな、儂も歳か?」
 小さく呟きながら、そうして口に出すのが老いなのかも知れぬと胸中で苦笑する。
 島に来て一番長く深い睡眠を取ったのは、十日目頃の二十分だった。
 この島は戦場ではなく、ヴァンに恨みを持った者や、倒して名を上げようという者も、今でこそいるかも知れないが当時はいなかった。十人を超える仲間に囲まれ、つい気がゆるんだのだろう。
 二十分も寝たと高弟のボルテクスに話した時には大層喜んでいた。他にヴァンが十分以上眠れるのは、ボルテクスとソルトソードの高弟二人や、赤衣の賢者ホリン・サッツァがいる時ぐらいのものであった。
 深く眠るためには条件があるのだ。周囲にある程度危険がないとわかっており、交替で見張りに立つ同行者がいて、そしてその同行者が一定以上の力量を持っている事。何よりも、その同行者にならば寝首を掻かれても構わないという苦い信頼が必要だった。
 こうなってしまう前は、戦場以外では毎夜ベッドで深い眠りについていたが、思えばそれが一生分の深い睡眠だったのかも知れない。そんな馬鹿なことを幾度か考えたが、口に出せば弟子は笑って馬鹿にするだろう。自分でもわかっているのだ。
 そこらに落ちていた小枝を拾って焚き火に放り込む。
「あれ? 起きてたの?」
 今の動作でようやく気づいたらしく、夜番のアゼルが声を掛けてきた。
「寝ていたさ。ぐっすりとな」
 笑って答えるが、アゼルは困ったような顔でヴァンの後ろを指さした。
「そんな寝方でぐっすり眠れるはずないじゃん。おじさんもおじさんなんだから、ちゃんと横になって体を休めないと」
 指摘されて初めて自分の寝方が普通ではないのだと思い知る。
 双剣を鞘ごと地面に交差するように刺し、交差点が丁度腰に当たる程度に調整する。そうして腰だけを当てて、背中は何にも持たれずに座ったまま毛布も掛けずに眠るのだ。
 夜気は想像以上に体温と体力を奪う。本来ならば体温を逃がさないように何かを掛けて眠るのが一番だし、地面からの冷えや夜風を遮るためにも敷布や天幕が必要なのだが、ヴァンは一切そういった物を使わない。代わりに黒い鎧套を着る。
 外套に鋼線を編み込んで防御力を高めたのが鎧套という高価な防具だ。ヴァンは物はそこに片手では足りない程の魔法付与をした特別品である。
 涼を取りやすく、体温を逃がしにくく、自己治癒力を高め、魔法を受け流しやすく、燃えにくく、ほころびにくく、汚れや匂いが付きにくく落ちやすい。首周りの羽は更に汚れにくく、全体的に防御力も高めてあり、そして何よりも短い睡眠時間で心身を休めるための魔法が付与されている。
 傭兵団を丸ごと雇う金があってもこれほどの物は作れない。魔法付与ができる魔術師を探すのにも苦労するし、一つの媒体に複数の魔法付与が可能な者などさらに限られている。そこに複数の種類の魔法付与をして貰うなど、金だけでやって貰おうと思うと数年は遊んで暮らせるほどの金額が必要だった。
 ヴァンがこの鎧套を手に入れたのは運と縁であった。
 幼い頃に彼を拾ってくれた傭兵団が、戦場で黒衣の双剣将軍アズラスによって全滅した事。アズラスに復讐しようとする中で双剣術を身に付けていった事。アズラスの目に留まり、いつしか好敵手となり、歳の離れた友となった事。アズラスが流行病に倒れ、事後を託された賢者ホリン・サッツァという知己を得た事。
 点が線となり今に続く。
 高弟のボルテクスにしても、当時の師の遺言とはいえ師を殺した張本人であるヴァンの弟子になり、いつしか高弟と呼べる程に成長し、信頼に足る人物になった。彼がホリンを呼ばなければ、自分は潰れていたなと何度も感謝を反芻する。無論口にも態度にも出したことはない。照れ隠しに調子に乗る姿が目に浮かぶからだ。
 ボルテクスにもそうだが、それ以上にヴァンはホリンに対して返しきれない恩がある。
 アズラスが病死したと聞いた直後に、以後の好敵手代理として姿を現した時よりずっと陰ながら支えられたという自覚がある。
 様々な恩の中で、最新でそして最終にしたいのが、この鎧套の魔法付与だった。
 一つの魔法付与だけでも大金が必要で、複数の魔法付与を一つの媒体に行うとなると金額が跳ね上がる。それを大量に付与して貰っているのだから、あまり考えたくは無い金額になっている。
 ホリンは笑って「十年ぐらいなら、土地と城を買って兵士を雇った方が安く付くよ」などと笑っていたが、恐らく冗談めかした真実なのではないかと睨んでいる。
 後に聞いたところでは、短い睡眠時間で心身を休める魔法などは、魔術士にもあまり知られてはいない魔法技術で、一握りの魔導師のみが古代の魔法技術を解読して使えるという、言わば大魔導師専用の魔法だそうだ。
 この魔法が掛かっている事はヴァンに伝えられておらず、三ヶ月ほど使ってから違和感に気づいてホリンを問いただし、そこでようやく知らされた。
 無料で良いという厚意をはね除けて、蓄えておく必要がなくなったこれまでの稼ぎを全てホリンに押し付けたが、それでも並の傭兵の稼ぎの四年分程度で、鎧套の値段には頭金にもならないと感じたものだった。
「おじさん、それいつものコートと違わない?」
 アゼルの言葉に少年の成長を感じる。
 この孤島に来て以来、ヴァンは二着の鎧套を常備している。一着は魔法付与をしてもらった物、もう一着は見た目はまったく同じだが、ただ鋼線を編み込んだだけの普通の鎧套であった。二着ある事に気づいている仲間もいるが、それがまったく性質の違う物だという事に気づいたのは、アゼルが最初だった。サザンなどは気づいている可能性もあるが、恐らくリックは気づいていない。
 幼くして両親を殺され、傭兵に拾われて戦場を転々としてきた赤毛の双子。ヴァンと少し境遇が似たこの子供が最初に気づいた事実に、心のどこかが喜んでいる。
 己の心を鍛え直すために孤島に来たのだ。終世の剣と決めた光双剣や、魔法付与の塊である鎧套などを使っては意味がない。普通の双剣と、普通の鎧套を身に付けてこそ修行になるというもの。魔法付与した鎧套は眠る時のみ身に付けるようにしていた。
 ヴァンはアゼルの問い掛けに応えてやろうかと逡巡したが、結局何も言わなかった。
 この少年ならば、どう違うのか、なぜわざわざ違うようにしているのかという所にもいつか気づく。その成長を見守りたい。
「おじさん、聞いてるの? 寝てるの?」
 アゼルの声に無視を決め込んで、微笑を浮かべたまま再び目を閉じる。
 今まで歩んできた道、生きてきた証を凝縮したようなこの鎧套に包まれて、ヴァンは安らかな眠りの表層へと身を投じるのだった。

71日目
 カランと乾いた音が鳴り、酒場の扉が開かれる。
 開店準備のこの時間に入ってくる客は一人しかいなかった。
「お帰りなさい師匠、今回はどうでした?」
 店主が無精髭の生えた口周りを吊り上げて笑いかける。ヴァンはいつものようにカウンター席に座ると、僅かに肩をすくめてまあまあだと答えた。
「どうしました、何か疲れてるように見えますが」
 師が来たら出してやろうと用意していた酒を酒杯に注ぎ、静かに置く。ヴァンはそれを軽く掲げて謝意を示すと、一口飲んでから深く息を吐き出した。
「少し忙しくてな」
「ほう、あれですかい、またあそこの地底湖さんで?」
 半ば街のような様相になっている遺跡外にあって、探索に行く者のほとんどが訪れる場所が地底湖だった。遺跡の入り口である魔法陣以外では、ここまでの利用率を誇る場所は他に無いと言って良いだろう。
 ヴァンが独自におこなっている物質を合成して別の物へと変化させる錬金術の調査も、利用者は多いだろうが、そちらは様々な所に資料を置いて自由に閲覧出来るようにしているため、特定の場所に集うというわけではない。
「人数が多いのでな、取引にも時間が掛かって仕方がないわ」
 地底湖に出来た街、地底湖一番街と呼ばれるそれは、遺跡外に常駐して物を作り続ける職人が中心になって築き上げたという。
 様々な商品が並び、品々の販売から職人の斡旋まで手広くおこなわれている。
 ヴァンたちも遺跡から出てきた時には、そこで戦利品を売りさばいたり、職人の派遣をし、逆に自分たちが求めている品々や職人を募集するという事をしている。
「今回は何人ほどなんです?」
 杯のふちを持って手首でくるくると回しながら、ヴァンは少し考えて「十六人かな」と答えた。
「ただし、取引の代表者だけでな」
 付け加えられた言葉にボルの表情が一瞬だけ固まった。
「でも前よりは少なくないですか?」
「それでも取引に関わる人数は充分に多いさ。三十人は越えたのではないかな」
 肩が凝ったというように首を左右に倒してヴァンが苦笑した。
「地底湖を通さない取引を合わせるともっと多いかもしれん」
「疲れましたか」
「ああ」
 そう答えながらもヴァンの顔はどこか晴れやかだった。
「その割りには、ちょっと楽しそうじゃないですか」
「充足感はあるさ、儂らの歩んできた道のりが間違ってはいなかったのだという達成感も若干な」
 酒を飲み干して一息つくと、ヴァンは己の言葉を確かめるように二度頷いた。
「それでも疲れるのは歳ですかね?」
 弟子の軽口に苦笑で返す。
「歳なのは認めるが、何よりも慣れん事をしている気疲れさ」
「交渉や取引が上手けりゃ、何も傭兵なんか続ける必要もないですもんね。商人してた方が安全だ」
 ボルは笑って見せたが、そのような単純な問題ではないというのはわかっている。自分もそうであるように、師も金や他に出来ることがないという理由で傭兵をやっているわけではない。
「で、収穫はあったんですかい?」
 少し思考が横道に逸れかけたため、話題を元の道へ戻す。
「理想には届かんが、儂らの理想は高すぎるのでな。充分どころか過分な程度には収益が出たのではないかな」
 ヴァンが話している途中にカランと乾いた音が鳴った。
「充分と過分の中間、ちょっと充分よりって所じゃないか?」
 そう言いながら、褐色の肌を持つ中年男が店に入ってきた。ヴァンの僚友の一人である、フェリックス・ベルンシュタインだった。
「まだ開店準備中か? まあいいや、一緒に飲ませろよ」などと言ってヴァンの横に座り、酒を要求する。ボルも特に注意をするでもなく、ヴァンとリックに同じ酒を出してやった。
「どうした、買い物は済んだのか?」
「あらかた。さっきディーネとアゼルの双子を見かけたんで、そろそろ皆も準備が整ってきたかもな」
「お、師匠たちもう出発ですか、いつもよりちょっと早くないですか?」
「おう、ちょっと冒険しようと思ってな」
 酒杯に口を付けたばかりのヴァンに変わってリックが答える。
「冒険ってぇと、守護者に挑むとかですか?」
「いや、居場所の分かってる守護者はもう全部倒しちまった」
「んじゃ、念願の地下三階?」
「いや、行きたかったんだけど、な?」
 口内を潤したヴァンに同意を求める。
「黒い翼というのを聞いたことはあるか?」
 酒杯を置いて店主に問う。酒場をやっていると様々な情報が集まってくるものである。ボルも少し考えていたが、やはり知っていたらしく頷いた。
「ウナギとかウツボの化け物みたいな奴ですよね? 結構な数が棲息してるとかなんとか」
「ウツボの化け物たぁ、言い得て妙だな」などとリックが笑う。
 ヴァンは見たことが無いが、ボルやリックは黒い翼を持つ者の絵を見たことがあったらしい。
「ひょっとして師匠らあそこに行くんですか?」
 驚いた様子で地図を取り出す。遺跡外に戻ってきた各員の情報を集めて作られた地図だ。遺跡の探索に赴かない者でも手に入れられるように何枚も刷られている。彩色で大量に印刷するというのは、ヴァンやボルの住む世界では未知の技術なのだが、それはまた別の話である。彼らも最初は驚いたが、既に慣れていた。
「ここの道からですよね、確か隠し通路がここにあって……」
 指が地図をなぞる。森の絵を突っ切って、魔法陣の印で止まった。
「ここが魔法陣、でも黒い翼の話が出たって事は、まさかここで出ないんですか?」
 ヴァンたちは女子供の多い一行なので、あまり無理をせずに全員が体調の良いうちに探索を切り上げるという行程が多かった。ボルもそれを見越して、師が遺跡に潜って五日もすると師のための酒を用意するのが習慣となっている。
 ボルが指さした魔法陣は、距離的に言えば二日半で踏破できる距離である。問題はその道の険しさだった。
「ここの森はかなり深いと聞きますよ?」
「無論知っている」
 地図には三段階に分けられた危険度で、最も高い三の数字が書かれていた。
 ヴァン達も地下一階でこそ同じ危険度三を持つ山に踏み込んだことがあったが、地下一階と地下二階では脅威の差は段違いである。森三に踏み込むこと自体が初めてであり、尚かつ地下二階で危険度三地帯に踏み込むことも初めてであった。
 どうしても大人数だと戦力にも片寄りが出るし、苦手とするような相手がはっきりと分かれてしまって、相性次第では惨敗と帰す可能性も高い。
「大丈夫なんですか?」
 そう聞いたのは師の腕前に不安があるという意味ではない。大所帯だとどうしてもどこかが苦戦をすれば、残る小隊もそちらに合わせなければいけない。難関な地形を進むには歩調を合わせるうちに探索日数が伸びていくという事もあるのだ。
「さてな」
 曖昧な返事がボルの不安を掻き立てる。
「ここで出ないんでしょ?」
 二日半の魔法陣を指さす。
「出んな」
 ボルは地図の上で指を走らせながら口内でぶつぶつと距離と日数を計算している。しばらく指を走らせた所にあった魔法陣で指を止めた。
「で、ここで出るつもりですか?」
 ヴァンとリックが地図を覗き込み、「ここだな」、「そうだな」と異口同音に頷いた。
「んな無茶な、ここいらの敵はかなりのもんだって聞きますぜ? それに加えて、黒い翼のウツボが群れで棲息してるってのに、大所帯で十日も潜るつもりですか!?」
「十日も潜らんよ」
「流石にそりゃ潜ってられねえわな」
 ヴァンとリックの反応にボルが固まる。
「あんたら……」地図の上に置いた指がわなわなと震え始めた。
「まさか休み無しの強行軍か!?」
「今の所はその予定だな」
「ま、敵の強さと消耗具合からフレキシブルに旅程変更はするけどな」
「馬鹿か!?」
 そう咄嗟に返してから、師に対して失礼であったと気づいたらしい。
「っと、すみません、馬鹿ですか?」
 動揺は収まっていなかったようだった。
「使える技にも限りがあるし、食料も大量に買い込まなければいけない。そして戦いのほぼ全てが未知の強敵と来た。これは確かに馬鹿と言われても仕方がないが……」
 ヴァンは酒杯を傾けてから、ニヤリと笑って言葉を続けた。
「楽しそうではないか?」
 ボルにはそれを否定することができなかった。何故なら彼もまた、かつての孤島で未知の強敵と何度も戦い、仲間と共に切り抜けてきたからだ。当時誰も為し得なかった非戦闘員を連れての光陰の孤島への進出、二十名近い光と闇の宝玉の守護者たちとの戦い、二番手と遅れを取ったが全ての宝玉を揃えた達成感、その全てが経験として今のボルを形作っている。
 孤島での激戦で成長し、その結果として師ヴァンドルフより念願の黒双剣を与えられた。今があるのは当時の無茶のおかげだという意識が確かにあった。そして何よりも当時のボルは、その無茶が楽しかったのである。
「……認めますよ、確かに楽しそうだ。師匠、アンタなんて活き活きとしたツラしてやがるんですか」
「お、そうか、儂はそんなに良い表情か」
 歴戦の傭兵の不敵さと、少年のような純粋さが入り交じった笑みを浮かべたまま、ヴァンは酒杯を傾けた。
「久しいのだ」
 空になった酒杯を置いてぽつりと呟く。
「しばし続いていた弱輩との戦い、リアやディーネ、アゼルの成長が著しいのもあるが、どうにも楽な戦いが多くてな。心根が熱くなるほどの戦いに恵まれないと思っておったのだ」
「おお、さすが歴戦の傭兵さんは言うことが違うな。俺なんかは自分の手当で嬢ちゃんたちの回復が間に合うのか心配だってのに」
「茶化すなリック、お前も自分の力がどこまで通じるか興味があるのだろう?」
 四十男が二人して不敵な笑みを浮かべる。
 二人とも決して戦闘狂ではないが、己の鍛錬の結果を知りたい、己の限界を知りたいというのはボルにもわかる欲求であった。
「そんなわけで、儂らは多少強行軍になるが、黒い翼を薙ぎ払う」
「そしてディノとティルダとか言う悪の騎士団をぶっ倒す」
「彼奴らにはどうにも悪い噂を聞くのでな、成敗してくれよう」
「期待してるぜ孤狼の旦那」
 二人の様子を見ながら、ボルは若干「自分も遺跡の探索に加われば良かったかな」と羨む気持ちが芽生えたのを自覚した。
「さて、ではそろそろ行くか」
「まずはトライアドチェインの旦那方に追いつくってな目標を掲げるか」
「三合鎖か、十日以上も先行する相手だな。ふむ、追いついて共闘なども面白そうだ、目標は高い方が目指す甲斐があるな、そうしよう」
 そう言って二人の中年男が立ち上がる。ボルはかねてより包んであった紙袋を取り出すと、師の前に置いた。
「餞別です。まさかそんな長い日程になるなんて思ってなかったんで足りませんがね」
 言いながら後ろの酒棚から数本の酒瓶を見繕う。
「今までにない長期探索、今まで挑んだことのない危険度の高い行程、未知の強敵の群れ、まったくアンタと来たら、まだ挑戦者であることを楽しむんですか」
「無論。命尽きるまで挑戦し続けるからこそ、高みを目指せる、前に進めるのだ」
「それでこそ俺の師匠だな、御武運を」
 紙袋の横に四本の酒瓶を置いて、ボルは嬉しそうに笑った。
「行ってくる」
 ヴァンも笑顔で紙袋と酒瓶を受け取ると、軽く手を挙げて新たな探索へと旅立った。

72日目
 薄暮の森に落ちていた残照が遠のいていく。
 鬱蒼と生い茂る木々の間を縫って移動する一団には、疲弊の色が見て取れた。
 先頭を行くヴァンの元に、中盤の警戒を任せていたリックが駆け寄って来たが、その顔にも疲労が見える。褐色の肌に皮肉っぽい笑みを浮かべるいつもの表情が今は消えていた。
「おいヴァンよ、そろそろヤバイぞ、小雨の嬢ちゃんやアマネが限界だ」
 医者が言うのだから本当に余裕が無くなってきたのだろう。ヴァンは口内で「むぅ」と呟いて、前方を見回した。
「斥候に出したアゼルがまだ帰ってきておらん、もう少し進むしかあるまい」
「確かに十一の小僧を斥候に出しておいて、大人が腰下ろして休むわけにはいかんが……アマネは野郎だから良いとしても、小雨の嬢ちゃんは厳しいぜ?」
 背後を振り返ると、まだ九歳の少女が健気に付いてきている。だがリックの言うとおり、顔色からも限界が近いと伝わってくる。ただ倒れないように足元だけを見て歩くという状態だった。
 リックの従僕であるダークホースにでも乗せられれば良いのだが、既に馬には様々な荷物が積載されていた。小雨を乗せるためにはいくつかの荷物を持ち主に持って貰わなくてはならないのだが、量が量だけに急速に体力を消耗して共倒れになりかねない。
 特に先頭を歩くヴァンと、しんがりを務めるサザン、斥候に出て貰っているアゼルの荷物はある程度をダークホースに積載しておかなければ、咄嗟の対応が遅れてしまう。
「……仕方あるまい、倒れるまで歩かせよう。倒れたら先頭をリドに任せて小雨は儂が背負って行く。小娘とて足手まといは本意ではないだろうしな」
「やれやれ、厳しいんだか甘いんだか」
 リックは苦笑しながら肩をすくめると、歩く速度を落として本来の位置である隊列の中盤に戻っていった。身をひるがえして戻っていくよりも、若干ながらも体力が温存できる方を選んだ事に、リックも孤島の生活に慣れたのだと実感させられる。軽く背後を見やったヴァンはすぐに前に向き直ると、薄暗くなってきた森の景色に焦燥感を掻き立てられた。

 がさりと茂みが音を立てた。ヴァンは即座に抜き身で持っていた右手の剣を構えながら、鞘に納められた双剣に左手を伸ばした。
 いつもならば隊列を一端止める合図を出すが、疲弊した今の状態では立ち止まってしまうと動けない可能性がある。
「何者だ!」
 声を上げて相手への牽制と仲間への警告を走らせる。
 前方の茂みがまたがさがさと揺れると、葉っぱにまみれた赤毛の頭がヴァン達の前に躍り出た。
「斥候に向かって何者だはないよなぁ」
「アゼル!」
 労うよりも早くヴァンの後ろを歩いていた双子の姉が飛び出した。心配そうな姉に軽く笑いかけてから、アゼルはヴァンに向き直った。
「もうちょっと先に休めそうな所があるよ。結構広いから皆で固まって天幕張っても大丈夫だと思う」
「ご苦労だったな、随分遅かったが何かあったのか?」
 問い掛けながらもヴァンは歩みを止めない。ディーゼルはヴァンの横を歩きながら、少し声を落とした。
「んー、大丈夫だとは思うんだけど、一日か二日前ぐらいの焚き火の跡があったんだ」
「やはりか」
 傷痕の残る顎に左手を当てて頷く。
「道中に何ヶ所か茂みや草を切り開いた跡があったのでな。おかげで儂の剣は綺麗なもんだ」
 そう言って右手に持った抜き身の剣を構えて見せた。
「まあいい、四の五の言っている余裕はないしな。そこに案内してくれ」
「了解っ」
 まだ若干余裕がありそうな少年が笑顔で答える。ヴァンは歩みを止めないまま、肩越しに振り返って皆に呼び掛けた。
「この先に休めそうな場所があるらしい、後少しだ、頑張れ」
 疲れた顔に輝きが戻る。下を向いていた小雨も少しだけ顔を上げて、薄く笑った。気づけばリリィが小雨の手を引いてやっていた。

 アゼルが見付けた場所は十数人の一行が充分に休める広さがあった。
 皆に腰を下ろして休んでおくように言って、ヴァンはサザンとリックを呼んだ。焚き火跡をどう判断するかを相談したかったのだ。
「この周囲に人狩りが来ているという情報はあったか?」
「いや、主立った奴らは大抵地下三階や、涎の嬢ちゃんの近辺だ」
「エスが昔世話になっていたという一団が、確かこの方向を目指しているという話は聞いたな」
 三人は地図を広げながら自分たちの行程から現在地を推測する。
「儂もエスからそのような話を聞いたが、確か二日ほどあちらが先行しているといった内容だったな」
「だとすると、奴らはこの辺りか?」
 リックが地図の先を指さす。その位置を見てサザンが頷く。
「それなら大丈夫じゃないかな」
「この焚き火跡も彼らか、もしくは別の先行する集団の物かも知れないな。人狩りが周囲にいないとなれば、警戒すべきは動物のみか。ここに天幕を張るのは問題ないな?」
「OKだ」
「良いと思うよ」
 リックとサザンの同意も得て、ようやくヴァンは皆に振り返った。
「よし、ここに天幕を張っても良さそうだ、さっさと準備して体を休めよう!」
「ほれアマネ、テント出せテント」
 リックの指示に従って服部周がダークホースに積んでいた荷物から夜営用の物を引っ張り出した。
 ヴァンとサザンの住む世界も違うが、リックや服部、小雨などの住む世界は更に違う。文明の方向性自体が違ったのだ。
 服部が取り出した荷物の中から布にくるまれた円盤のような物を投げると、バンと大きな音と共に円盤が形を変え、空中で簡易天幕となって地面に落ちた。
「ほい、設置完了!」
 誇らしげに胸を張る服部の頭をリックが軽く小突く。しかしヴァンとサザンは遠巻きにそんなやり取りを眺めながら、ぽつりと「何度見ても慣れんな」などと呟いていた。
「奴ら、出会った頃は魔法に大層驚いていたが、儂からすると魔法も使わずに一瞬で天幕を用意するアレの方が不思議でならん」
「まったくだ。……さて、俺たちは普通のやり方で天幕を張るとしよう」
 ヴァンたちは普段はあまり天幕を張らない。それ以前に最近は大所帯過ぎて全員で固まって夜営を張る事も少ない。ヴァン、ディーネ、アゼル、リアの一団と、リリィ、リド、服部に、遅れて合流するエマールの一団、小雨、エス、クロト、リックの一団、サザン、ディナ、スフィの一団と、四つに分かれてそれぞれ個別に夜営を作る。全員が集まるのは開けた場所がある場合や、なるべく固まった方が良いと判断した場合のみである。
 今日のように体力の消耗が激しいときには、天幕を張るように心がけている。地面の冷えで体温を奪われ、肌に当たる風や夜気でも体温を奪われる。それはすなわち体力を奪われてしまうという事だ。
 また、森の探索だと凶暴な動物や化け物以外にも、小さな虫や蛇なども脅威となる。
 それらを防ぐ意味合いでも、風などから身体を守る意味でも天幕は非常に有用だった。
「リド、女性陣の大天幕は作れるか?」
 今回の探索は強行軍が続くため、なるべく夜の間に体力を回復させようということで、久々に天幕を人数分持ち込んできた。その中でも一番大きいのが、リックの従僕に持たせてある大荷物の天幕であった。
「リリィがいるから大丈夫」
 そう言って指さした先には、寝入っている小雨に薄い毛布を掛けてやっているリリィがいた。指さされている事に気づいてゆっくりと立ち上がると、褐色の長身がそびえ立つ。この一行で一番背が高いだけあって、確かに天幕作りに重宝しそうだ。
「女性陣の天幕を作るのを手伝ってやってくれ」
 そう声を掛けると笑顔で気合いを入れるような格好をした。恐らく頑張るぞとでも言いたいのだろう。足元で寝ている小雨を起こさないための配慮だった。
「おーい、小型テントに毛布とか敷いたぜー」
 どこか間の抜けた服部の大声が無神経に響く。しかし小雨は身じろぎをしただけで起きる様子はなかった。リリィは安心したように小雨を抱き上げると、服部が先程展開させた天幕へと運んでやった。
 子供ならば二、三人は寝られる大きさである。最初こそ持ち主である服部と小雨が寝る予定だったが、何か危ないというので今は小雨とエス、クロトの三人専用となっている。
「サザン、リック、儂ら用の天幕は任せるぞ。アゼル、周囲の警戒に行こう」
 サザンとリックが軽く手を挙げて答え、アゼルが駆け寄ってくる。
「少し仕掛けを作る、紐か鋼糸があれば持ってきてくれ」
 周囲に人狩りがいない今、焚き火を見付けた人狩りが夜襲を掛けてくるという心配はない。しかし、強力な怪物の中には火を見付けると獲物を察知して襲いかかってくる類がいる。だからと言って火を焚かなければ、火を恐れる獣や怪物を喜ばせるだけだ。
「まったく、面倒くさいな」
 そう苦笑して、ヴァンは鋼糸を持ってきたアゼルと二人で茂みへと歩き出した。

 焚き火がぱちりと爆ぜる。夕食も既に終わり、ディーネとスフィも薬草での食器拭きを終えて天幕へと戻っている。
「よう、今日は熱燗でやらないか?」
 サザンとアゼルが眠る天幕からリックが酒瓶を片手にやって来た。見張りの交替で先程ディナに起こされていたが、すぐに出てこないと思えば酒を探していたらしい。
「もう今日のフレイムリッカーは打ち止めだぞ」
 追い払うように手をひらひらと振るが、リックは構わずに焚き火の傍に座り込んで酒瓶を開けた。
 小さな酒杯にとくとくと薄い色をした酒を注ぐと、無言でヴァンに差し出してくる。素直に受け取って一口呑むと、確かに熱燗が合うなと感じた。
「ほれ、そのツラは熱燗も悪くないってツラだぜ。酒の肴も持ってきたし、一杯やろうや」
 そう言って薄く切られた干し肉を見せる。保存期間を長くするためか塩味がきつく、しかし火で炙るとうまい干し肉だった。
「……仕方ない奴だ」
 苦笑しながらヴァンは酒瓶を手にとって意識を集中し、炎を発現させた。この島に来て身に付けた技の一つ、フレイムリッカーである。なまじ自己発火出来るせいで、焚き火の際には火をおこさずに済むというので重宝されている。
 炎を身に纏った状態で自発的に攻撃をする事で対象物を燃やせるため、こうして酒瓶を持ったまま使用すると、燃やさないまま熱を伝えることもできる。ただし、ヴァンは自分が調理器具のような使い方をされるのは本意ではないため、いつも気乗りしないと言って断っていた。今回は見事に酒とつまみに釣られた形である。
 熱くなってきた酒を互いの酒杯に注ぎ、リックが焚き火で焼いていた干し肉も食べ頃になった頃、カラカラと鳴子の音が響いた。
 ヴァンは即座に酒を煽って酒杯を捨てると、音のした方へ向き直りながら双剣を抜いた。
「まったく、なんなのよこれ」
 困ったような苛立ったような女性の声、リリィの義姉エマールの声だった。
「随分明るいわね。おかげですぐに場所がわかったわ」
 艶やかな黒い長髪を火に照らしながらエマがやってくる。
 夜営の周囲の森には、ヴァンがフレイムリッカーで仕掛けたかがり火がいくつも配置されており、そのそばにアゼルが仕掛けた鋼糸付きの鳴子が仕掛けられている。エマはそれに引っかかったのだ。
「来たか、リリィが夕食を取って置いてくれたぞ。今暖め直すからのんびり休め」
「ありがたいわね」
 ヴァンが鍋を火に掛け、リックが酒を差し出す。そうして今日もまた、いつものように遺跡の夜は更けていく。

-Blanket of Night-

74日目
 血にまみれた黒い影が飛躍する。
「アゼル!」
 ヴァンが声を掛けるよりも早く、ディーネが懐に仕舞っていた鋼糸を取り出して、頭上から襲い来るブラックドッグを打ち据える。
「浅い!」
 叫ぶなりヴァンはアゼルの腹を蹴った。吹っ飛んだアゼルがたった今まで居た場所に、ブラックドッグが着地する。蹴らなければ太い爪の餌食となっていただろう。
「ヴァンさん!」
 ディーネの声に振り返りながら剣を振る。二頭目のブラックドッグの牙がヴァンのすぐ傍まで迫っていた。二頭目が剣に怯んだ隙を狙ってアゼルが槌を振り下ろそうとする。ヴァンが嫌な予感に駆られてもう一つの敵、背徳の児へ向き直った時にはもう遅かった。
「魔法防御だ!」
 叫びながら精神を集中させる。三体の背徳の児から、禍々しく光る魔力球が放たれる。ヴァンはその魔法に見覚えがあった。かつてリリィの義姉エマールが使っているのを見たことがあった。
 三発のワンオンキルが放たれる。ヴァンは眼前に構えた払暁の結晶で闇の力を分散させたが、横目でアゼルを見ると柔軟に地面へ伏せて回避していた。
「あれは真似できんな」
 苦笑しながらも、背後からリアの罵声が聞こえるので彼女も無事だと確認する。背徳の児へ斬り込んでやろうと剣を持つ手に力を入れたが、向き直ったヴァンから出たのは若干焦った声だった。
「連射体勢だと!?」
 さらに三発のワンオンキルが飛来する。一発はディーネに、残る二発はリアに。ヴァンやディーネ達がブラックドッグを止め、その隙にリアが背徳の児を撃つという定石の戦術だったが、定石だけに相手も同じ事を狙っていたらしい。胸中で「頭が回る!」と毒づきながら、ヴァンは身体にフレイムリッカーの炎を纏った。
 視線を前に向けたままで仲間の気配を察すると、ディーネが耐えきれずに吹き飛ばされたらしく、悲鳴のような叫びが聞こえた。リアの方へ向かった二発は、一発は地面を砕く音が聞こえたが、もう一発はリアに当たったらしい、いつもより盛大な罵声が聞こえる。だがリアには事前に黄昏の結晶を渡してある。ヴァンの持つ払暁の結晶と同じように、闇に属する力を弾く品だ。
「三発目、来るぞ!」
 三体の背徳の児のうち、二体が三発目を放とうとしていた。片方はアゼルに、もう片方はディーネに狙いを定めている。アゼルはともかく、先程一撃を食らったディーネが狙われるのはまずかった。ヴァンはディーネを狙っている方の背徳の児へ向けて走り出す。気付いた背徳の児が狙いをヴァンへと変更する。まさしくヴァンの狙い通りだった。
 飛来するワンオンキルを再び払暁の結晶で受け止めて、即座に周囲の味方を見回す。アゼルはまたも身を低くして回避し、ディーネはようやく立ち上がろうとしていた所だった。
「全員伏せていろ、薙ぎ払う!」
 走り込んでいた身体を右足で急停止させながら、反発で跳ね上がる勢いを回転に変える。
「神剣奥義!」
 裂帛の気合いと共に身に纏っていた祝福の力場を剣へと収束させる。水面蹴りの要領で身体を回転させながら、剣から伸ばした祝福の力場で敵を斬り伏せる。
 二頭のブラックドッグが両断されて地に落ちる。背徳の児は間合いが遠かったのかまだ生きていたが、最早瀕死のていだった。
 ディーネとアゼル、そしてリアの猛攻に耐えきれず回復に専念しようとするが、ヴァンでさえ一目置く三人の高速戦闘に対応できるはずもない。無惨に致命傷を刻まれていく。最後にヴァンが再度ジハードを放ち、唯一致命傷を免れていた背徳の児が崩れ落ちる。
「ん?」
 戦闘も終わったかと剣を納めかけたが、妙な違和感に気付く。その正体が掴めずに考え込もうとした刹那、リアの声が響いた。
「野郎、道連にする気だっ!」
「防御姿勢だ!」
 一瞬で理解して防御を呼び掛けた瞬間、背徳の児の死骸が爆ぜる。ヴァン達を狙ったように飛来する爆炎と凶悪な力に包まれた肉片を何とか防ぐ。
「甘いわ!」
 凌ぎきった直後に、一行の身体が白い光に包まれる。ヴァンの持つ一殺多生の能力だった。
「よし、先を急ごう」
 双剣を鞘に納めて平静を装ったが、ヴァンの内心は平静とはほど遠い。
(最後の攻撃、リアが注意を喚起しなければ危なかった。しかもこの島でしか使えない能力を使って致命傷を防ぐなど、情けないにも程がある)
 島の外での技術や経験が島では通用しないように、島の中で駆使する技や能力は島の外へは持ち出せない。そんなことは重々承知していたが、いざという時に頼ってしまった己が情けないのだ。
「未熟だな……」
 口に出して呟き、ヴァンは他の仲間との合流地点を目指した。

       †

 翌日も深い森の強行軍は続いた。
 休憩が全くないわけではないが回数も時間も少なく、疲れが取れるまでは休まず、息を整えて水分を取る程度のものだった。
 普段ならば斥候を任されるアゼルも体力温存のために姉の横について歩いている。
「お前達、気付いているな?」
 ヴァンの言葉に三つの赤毛頭が頷く。
 先程から彼らを遠巻きに観察していた気配がじわじわと近づいて来ている。
「儂らで攻撃を食い止める。リアは好きなようにやるといい」
 体力に余裕のないリアは声も出さずにただ頷いた。年齢こそ成人しているらしいが、見た目はディーネやアゼルと同じ十代前半といった程度にしか見えない。体力もそうある方ではないので、この強行軍はつらいのだろう。
 それから二十分ほども歩いただろうか。ヴァンの視界の隅にちらちらと小さな火が姿を現した
「お出ましのようだ」
 ヴァンは立ち止まると水袋を取り出して水分を補給した。ディーネ達もそれに倣う。
 こちらの迎え撃つ気配に気付いたのか、これまで遠巻きに木立の合間をよぎっていただけだった敵が姿を見せる。
「火蜂か?」
「それに昨日のもいます」
 ファイア・ビーと背徳の児が連れだったようにこちらへと進んでくる。
「なんだありゃ?」
 既に戦闘時の衣装に着替えたリアが、性格をも戦闘用に切り替えて怪訝な顔をした。
 背徳の児の後ろから、奇妙な風体をした男が二人進み出る。
「勘違いした気取り屋のようだが……雰囲気からして人間ではないようだ」
「んじゃ、撃っても良いんだな?」
 リアは魔法で銃器を作り出して邪悪な笑みを浮かべた。
「撃っても構わんが、何なんだあれは」
 脇目もふらずに何やら書類を引っ張り出していたディーネが「ありました」と人相書きにような物を差し出してくる。
「グレートダンディ? 良くわからんが、精神攻撃に注意と書いてあるな」
 探索者の持ち寄った情報で作られた動物や怪物の情報帖である。
「まあ気持ち悪いもんね。他には?」
「書いていないな、まだ情報が少ないのかもしれん」
 手作業で作られた情報帖なだけに、むらがあるのは仕方がないことだった。初めて遭遇する難敵と戦った者がいても、遺跡外でその情報を持ち込む余裕がなかったり、持ち込むほどの情報が得られなかった場合には、その存在さえ他の探索者が知らぬままという事もある。
「さて、あの燃えている奴に炎剣が通じるのかどうか……やってみればわかるか」
「ですね」

       †

 戦闘が終わって既に二時間ほど歩いている。
 水場が近い、そう感じてアゼルを斥候に走らせて数分。気配を消そうともしない少年の足音が遠くから聞こえてきた。
「どうした、水場はあったか?」
 奇妙な事にこの孤島では一日に一度の襲撃だけと決められている。アゼルが気配を消さなかったのも、今日の襲撃はもう無いと判断したからだろう。
「あったけど、誰か、いる」
 息を切らせてそれだけ告げると、姉の差し出した水袋を受け取ってがぶりと水を流し込む。
 いきなり戦いになることは無いだろうが、万が一人狩りだった場合にはその可能性も有り得る。また、常識を覆す一日二度目の戦いという可能性もある。この島に働く何者かの意思はどうにも気まぐれだ。そう考えて、ヴァンはふと一つの可能性に行き当たった。
「アゼル、その誰かは榊ではないだろうな?」
 ヴァンが時折感じる何者かの意思、その中には確実に招待状をばらまいた榊のそれもあった。
「えっと、なんか銀髪で長髪で、詩人っぽい感じの――」
「ああ、なら違うな。榊がそんな素直な姿をしているはずがない。皆もう休憩はいいな?」
 三つの赤毛が頷く。
「では行こうか」

 最後の木立を抜け、深い森林から出る。強行軍の甲斐あって随分予定よりも早く第一の目的地、道中最初の魔法陣に着いたのだ。
 水辺に描かれた魔法陣の傍には、確かにアゼルが言ったとおりの風貌の青年がいた。
「おお……こんなところで人に会うなんて。」
 皮の帽子を被り、楽器を背負った詩人のような冒険者だった。
「貴公は何者だ、仲間とはぐれたか?」
「私はジョシュアという、旅人さ。君達がこの先の探索を目指しているのなら……」
 青年はふと対岸を見て、嫌な顔をした。
「この先は危険だ。……狂っている者しかいない」
 そう言って偽物の空を見上げる。ヴァンもつられて空を見た。
「流れ星が見えたと思ったら、空から雪のように降ってきたんだよ。不思議な光が。……それに触れた者が化け物に変わるところを見た」
「化け物に変わる? ……変わる」
 サバスが語ったエキュオスの存在が脳裏に浮かんだ。思えば光の翼を持つ少女も正気を失いかけていた所を助けてやったのだった。何かの核心に触れそうで届かない、そんなもどかしさが胸中に芽生えた。
 ジョシュアは更に嫌な顔をして頭を抱えて縮こまる。
「どうしても行くというのなら……気をつけて。私には止める権利も手段も無いからね」
 道具袋から小瓶を取り出し、投げ渡してくる。
「よかったら使うといい、私にはもう……必要ないから」
「貴公は諦めるのか?」
 ヴァンの言葉に、ジョシュアは寂しそうな笑みを浮かべて首を振るだけだった。
「そうか、貴公の旅路に光あらんことを」
 剣を抜き、握った手を胸に当てて祈る。
「我々は先を急ぐ身、それでは失礼する」
 剣を納めて身をひるがえす。ディーネは慌ててジョシュアに一礼するとヴァンの後を追った。
「おじさん、水の補給をしなくてもいいの?」
「それはもう少し先でしよう。彼の戦いに邪魔をしてはいけない」
 振り向きもせずに進むヴァンの言葉に、アゼルは意外そうな顔をした。
「戦い?」
「ああ、彼の心は既に折られているのだろう。だが、彼はなぜ遺跡外に戻らず、あそこに座り続けている?」
 アゼルが既に遠ざかって見えなくなったジョシュアを振り返る。
「彼はもう進めない、しかし逃げもしない。儂らのような者に忠告を与えることで、進めなくなった自分の代わりに、後続の背中を押してやろうとあそこで戦っているのだ」
 まだ意外そうな顔をしているアゼルに軽く笑いかける。
「なんだ、儂はああいう手合いが嫌いだとでも思ったか? 違うぞ、心が折れた後にあのような孤独な戦いをするのは、軟弱者には無理だ。折られたように見える心の芯に、絶対に折られてはならんと守り続けている誇りと勇気が、細いが確かに存在しているのさ」
 ヴァンはアゼルを見ていた顔を上げて、前をしっかりと見据えた。
「心に折れん剣がある限り、人は真に負けることはない」

77日目
-Scent of Brine-
 波止場に腰を下ろし、ヴァンは海を眺めた。
 この向こうに孤島がある。かつて挑み、満足のいく成果を残せなかった島がある。若き日に挑んだ島とは別の孤島だと理解しているが、それでも過日の鬱積を晴らせる機会ではあるだろう。
 ふと視線を感じて肩越しに振り返ると、彼を見ていた数人の男が視線を逸らした。海風に消されがちだが、僅かにその声が聞こえてくる。
(人違いか)
 そういった言葉を耳に捉えた。曰く、確かに双剣で額に傷はあるが、髪の色が違うと。
「ひょっとして、初代の方の黒双剣じゃないのか?」
 その言葉が妙にはっきり聞こえた。黒双剣のヴァンドルフ、十年以上も前に名乗った二つ名だった。数年前に高弟ボルテクスに黒双剣を譲ってからは、彼がその名を受け継いでいる。
「って事ぁ、あのおっさんが暁の剣聖か!?」
「なんだそれは!」
 ヴァンは思わず声を上げて立ち上がっていた。
 先日より一部の者から暁の鬼神と呼ばれているのは知っていた。五百騎の侵略者の夜襲に対して百人の傭兵部隊を率いて防戦を行い、全身を傷だらけにしながらもただ一人明け方まで生き残った事があったからだ。本隊から奇襲失敗とみなされて撤退していく敵兵が、暁の陽光を背に浴びながら血まみれで立ち尽くすヴァンに鬼神を見たと話したのが切っ掛けだと聞く。
 実際のヴァンは鬼神でも何でもなく、ただ後一撃でも受けたら倒れる程度の体力しか残っておらず、失いすぎた血に朦朧としながら気力だけで立って、去りゆく相手を睨み付けていただけに過ぎない。
 だがその逸話と新たな二つ名が過大に広まり、またヴァンを雇っていた国が失策で奇襲を許したのを取りつくろうために、英雄に仕立て上げたおかげで、噂の伝播が加速してしまった。かつてから縁を結んでいた隣国の王に招かれたのもそのせいだ。
 ヴァンがこうして孤島へ行くための船を待っているのも、王宮での客人暮らしで己が腐っていくと自覚したからだった。
 親も知らず、育った街と孤児仲間も戦火に奪われ、親代わりの傭兵も戦場で散り、好敵手と定めた双剣将軍は病に倒れた。彼の人生は喪失と無力感の連続だった。それが高名な傭兵として王宮暮らしなど、耐え難い苦痛だった。そこを到達点とする野心家は多いが、ヴァンにはその気持ちを理解することは出来ても共感はできなかった。そこにいては、己を磨くことが出来ない、先に進めない、そう感じるばかりなのだ。
「鬼神と呼ばれた事はあっても、剣聖などという気色の悪い名で呼ばれた事はないぞ」
 そもそも過分な名で呼ばれること自体が気に食わない。
「噂です、噂、アンタが聖騎士様になるって話が傭兵どもの間で持ちきりなんでさ」
 宮廷でも耳にした噂だった。ヴァンの知る老傭兵に言わせてみればただの名誉勲章だが、その名誉を世界最高の名声と羨む王侯貴族は数知れない。
「あくまでも噂だろう。で、その剣聖とやらはなんだ」
「いやアンタが聖騎士になったらそういう二つ名を授けられるって噂が」
「また噂か……」
 腐る自分を自覚し、未熟な自分を痛感し、このままではいけないと鍛え直すために孤島へ向かうというのに、周囲の状況はヴァンを「その位置でお前が行ける高みは終点だ」と押しとどめようとしているように感じた。まったくもって不快な気分だった。

     †

 潮風を帆に受けながら船は軽快に進む。孤島へ向かう船は、ヴァンが思っていたよりも遙かに大きな船だった。
 ヴァンは甲板で海を眺めながらも周囲への警戒を怠らなかった。港での話を聞く限り、意図せぬ所でヴァンの名が上がっている。そしてこれから向かう孤島は、一歩足を踏み入れたその瞬間から、老若男女を問わず一定の戦闘能力にまで身体や経験が制限されてしまう不思議な島だ。だからこそ鍛え直す最良の場として選んだのだが、ヴァンを倒せば名が上がると考えた刺客が船に同乗していないとも限らない。孤島についた時、もし先にヴァンが船から下りれば、力を制限された直後の彼を船上から攻撃して仕留める事も出来るだろう。今のうちに怪しい者がいないか気を配っておく必要があった。
 一瞬、ヴァンへ意識が向いた気配があった。即座に気配は消えたがそれが逆に怪しい。さもヴァンなど意識してはいないといった調子で背後から足音が近づいてくる。ヴァンは海を眺める姿勢のままで剣に手を掛けた。
「やめた」
 苦笑するような声には聞き覚えがあった。
「ボルか?」
 振り返ると確かに高弟ボルテクスの姿があった。
「まったく師匠ときたら、ちょっと気配消しただけで警戒するんだもんなぁ」
 傍目から見てもヴァンが警戒したことは気取られにくかったはずだ。それを見抜いたのはヴァンと接する事の多かった弟子というだけでなく、ボル自身の技量の高さを物語っている。彼はかつて孤島で百日近く生き延び、宝玉をすべて揃えるというヴァンにもできなかった事をやってのけた。それ故に彼は高弟の証でもある黒双剣を与えられ、二代目の黒双剣の二つ名を名乗っているのだ。
「どうしてここに? 招待状は届いたが島にはいかんと言ってなかったか」
「探索はしませんがね。何となく気になったもんで来ちゃいました。安全そうな所でもありゃ、そこで酒場でも開きますよ。酒も持ってきてますしね」
 まだ若いのにボルは既に傭兵を半ば引退し、後進の育成に力を入れている。英雄の故郷という酒場がそれだった。様々な情報を若者に提供し、生きていくため、状況を切り開くための基礎を作る。その若者がいつしか英雄となった時、その原点、故郷として誇れる店であれというのが名の由来だそうだ。
「まあ邪険にしないで下さいよ。招待状を送ってきた榊って野郎と直接会った事のある奴は、今回の孤島にゃ恐らく少ない。俺は良い情報源になれるかも知れませんぜ?」
「そうだな、それに今回の孤島はかつてのそれとは随分毛色が違うらしい」
 ヴァンは甲板で歓談する男達を指さした。どこからどう見ても裕福な商人と、貴族の坊ちゃんといった風体だ。
「あの男に先程聞いたが、今回の島には遺跡が一つしかないそうだ」
 二十年近く前のヴァンが行った孤島にも、ボルが行った孤島にも複数の遺跡があった。遺跡に辿り着くまでにも長い道のりが必要で、遺跡の入り口を守る守護者までいたのだ。
「しかも、遺跡の外では怪物も出ないので、遺跡の周囲には店が軒を連ねて街のようになっているそうだ」
「なんだそりゃ、まったく別物じゃねえか」
「あの商人は異世界からの来訪者相手に商売をしに来たらしい。あっちの坊ちゃんは見物だな」
 孤島はどうやら様々な世界が交差する場所のようで、この船も恐らく進んでいるうちに世界を越えて孤島に着くのだろう。そんな噂を聞きつければ、物見高い人々も集まるはずだ。
「それでこんなにデカイ船と大量の荷物ってわけか……榊の野郎、何考えてやがる」
「己を鍛え直すだけではなく、榊とやらの目論見を見定めるという目標も出来てしまったな」
「昔から野郎は気に食わなかったんだ。必死で戦ってる俺らを高みから見下ろしてやがった。全ては盤上の駒で、自分はそれを使って遊んでいるとでも言いたげにな」
 一人憤るボルの横で、ヴァンは船の行く先を睨んでいた。何か厭な気配が満ちているような気がした。

     †

 孤島の波止場から砂浜に足を向ける。ボルは積み込んだ酒や荷物を下ろすのに時間が掛かるとかで、しばらく時間を潰してきて欲しいと言ってきた。ヴァンとしては探索をするわけでもないボルを待つ必要はないが、邪険にして置いていく理由も特になかった。
 砂浜を歩くと、二十年ほど前の孤島の同行者を思い出す。歩くトウモロコシという奇妙な生物が、よくこうした水辺で釣りをしていたのだ。聞けば、ボルが旅した孤島でも同じようなトウモロコシと同道したらしい。ひょっとすると、また今回もひょっこりと現れるかも知れない。そんなことを考えると、僅かに笑みが浮かぶ。
 遠くに砂浜でたわむれる子供の姿が見える。どうやら子供もいるようだが、まさか観光ではあるまい。いくら遺跡外は平和という話でも、そこまで簡単に来れる島でもない。
 子供の姿をしていても、しっかりとした冒険者という例はかつての孤島でも嫌と言うほど見た。彼らもそんな冒険者なのだと思いたい。
 浜辺に立って海を眺めるヴァンの後ろからも軽快な足音と「ほら、姉さん早く」という声が聞こえる。無邪気なものだ、そう思ってからヴァンは声が意外に大人びている事に気付いた。
 振り返ると、ヴァンよりも拳二つほど大きい長身の女性が走って来ていた。褐色の肌は日焼けというわけではなく地だろう。どうみても大人である。
 そんな彼女は誰かに呼び掛けながら後ろ向きに走ってくる。実に危なっかしい、そう思った時には足が絡んでいた。
 短い悲鳴と共に倒れそうになった彼女を後ろからそっと支える。
「ちゃんと前を見ないと危ないぞ」
「ごっ、ごめんなさい!」
 弾かれたように勢いよく頭を下げてくる。ヴァンがすんでの所で頭突きのような謝罪をかわすと、彼女の背後からため息が聞こえた。
「リリィ、それじゃ頭突きよ。落ち着きなさい」
 長い黒髪に白い肌、恐らくは姉さんと呼ばれていた人物だろうが、血縁があるようには見えない。義理の姉妹といった所だろうか。
「師匠、お待たせしました!」
 足早に近づいてくるボルの足が止まる。
「げっ、エマさん!?」
 黒髪の女性は醒めた目つきでボルを一瞥すると、「あら、ボルじゃないの。老けたわね」と何でもないように言った。
「エマというと、ボルと共に宝玉を集めたエマール・クラレンス殿か。失礼、ボルの師でヴァンドルフという傭兵だ」
「ヴァンドルフ?」
 今度はボルの後ろを通り過ぎようとしていた赤毛の少女が足を止めた。
「ひょっとして貴方、以前にも孤島に来たことはありませんでしたか?」
「ああ、随分昔になるが」
「やっぱり! その節は弟がお世話になりました。ホークの姉でルヴァリアと申します」
 天使のような笑みを浮かべる少女に、ヴァンは二十年前の同行者を思い出した。魔術士の一族だという少年ホークは確かに姉がいると言っていた。凄まじく恐ろしい、破壊神のような姉が。
「弟に聞いていたのとはお歳が違うようですが、恐らく世界が違うせいで時間にも歪みがあるのでしょう」
 笑顔の少女に、ヴァンは若干の苦手意識を覚えながら「ああそうだな」とだけ頷いた。
 その時、遠くではしゃいでた子供が驚いたような声を上げたので、一同はそちらを向いた。
「姉さんあれ見てよあれ、トウモロコシが紅茶飲んでるよ!」
「アゼル、人に向かって指を差すのは失礼でしょう!」
 そんな会話に反応したのはエマとヴァンだった。
「赤毛で双子でアゼル?」
「トウモロコシが紅茶を飲んでいる?」
 反応した理由は違えども、二人にはそれぞれ相手の心当たりがあった。
 エマは、以前孤島を旅した際の仲間が、ディーネとアゼルという名の赤毛の双子を引き取って育てていると話していた事を。そしてヴァンは、孤島に来るたびに微妙に姿を変えて現れる、歩くトウモロコシの事を。
 エマはヴァンに向き直って肩をすくめて見せた。
「仲間探しの手間は、どうやら省けたみたいね」
「ああ、そうだな。よろしく頼む」
 そう言ってヴァンはエマールに手を差し伸べた。何故かリリィが握手に応え、一行は新たな探索の仲間となったのだった。

80日目
 森の中を進むヴァンの足が止まる。背後から付いてきていた三人の赤毛も慣れたもので、即座に自分の武器を構えた。
 赤毛の三人には特に怪しい気配は察知できなかったのだが、熟練の戦士である孤狼が意味もなく立ち止まる事はないと、これまでの旅の経験が教えている。
 何かの提案や指示ではなく、無言で立ち止まったまま周囲の気配を探っている事からも自分たち以外の何者かが近くにいるのだと判断できる。
「一人だな、儂らの後ろから走ってくる者がいる」
 そう言って双剣を抜くと、ヴァンは振り返って赤毛の三人を剣で手招きした。ヴァンが前衛、ディーネとアゼルの双子が中衛、魔術士のリアが後衛といういつもの布陣だ。
「む? ……戦闘にはならんかも知れんな。随分疲れているようだ」
 遠くの茂みががさりと鳴るのがアゼルの耳にも届いた。気配を消そうともしていないのだろう。しばらくすると、木立の間から若い男が姿を見せた。男はヴァンを見て怯んだ様子だったが、後ろにいる赤毛の子供達を見てあからさまに安心した顔になった。
 汗をぬぐって近づいてくる。年の頃は二十代中盤といったところだろうか、灰色の短髪と動きやすそうな格好から、彼もまた冒険者なのだとわかる。
「焦った焦った、あんた悪人じゃないよな?」
 笑顔を浮かべながら歩み寄ってくる。
「いいや、残念だったな。山賊だ」
 微笑を浮かべたヴァンの言葉に足が止まる。即座にヴァンの背後に控えるディーネとアゼルの顔色を伺ってから、ほっと胸をなで下ろして破顔した。
「なんだ、冗談かよ。後ろの子たちがうろたえてるぜ」
 そう言ってまた近づこうとする男に、ヴァンはそっと剣を向けて制止する。
「すまんがこちらは警戒を解いていないぞ。貴様は何者だ、何故一人で儂らを追って来た」
 男の額に浮かんだ汗は、疲労ではなく冷や汗だろう。両手を挙げて引きつった笑みを浮かべる。
「お、俺はホフラム、二十四歳、家族はいない、恋人もいない、友達は――」
「そんな事を聞いているのではない」
「ああ、すまない、あんた達を追いかけてたわけじゃないんだ、この先の集落に行きたいだけなんだ。急いでたもんだから、誰かが作ってくれた道を辿ってたら、あんたがいただけで、あんたとどうこうしようってんじゃないんだ」
 焦ったように視線を右往左往させるさまはどこか情けない。ヴァンは呆れたようにため息をつくと剣を下ろした。
「一応だが信じよう。その道とやらは、恐らく儂が茂みを切り開いて作った道だな」
「よかった、殺されるかと思った」
 安堵したのか大口を開けてそう言った。すきっ歯がちらりと見えて、より一層頼りない雰囲気に拍車を掛けた。
「誤解が解けたところで、俺は先を急がなきゃならないんだ、行っても良いかな? あ、その前に水を分けて貰えないかな、走り通しで咽が渇いて渇いて」
 ヴァンは双剣を納めると、懐から酒瓶を取り出して放り投げた。ホフラムと名乗った青年は嬉しそうにそれを一口飲むと、勢いよく噴出した。
「さっ、酒じゃないか!」
「口を付ける前に匂いで気付け。いや、それ以前に瓶で気付け」
 そう言って今度は水袋を投げた。ホフラムは咽を鳴らして水を飲むと、大きく息を吐き出した。
「かぁ〜っ、生き返るね! ありがとよ、んじゃ!」
「待て」
 去ろうとする首根っこをつかまえる。
「酒を含んだ後すぐに走るのは良くないな。少し話をしていけ、貴様この先に集落があるとか言っていたな?」
「うわ、酷いなあんた。まあいいや、俺の友達が住んでるんだよ。俺もそいつも元々流れ者なんだけどな。ただ、なんかやばいことが起きてるって手紙を貰って、様子を見に来たら、ほらなんつったっけ、吟遊詩人みたいな兄ちゃん」
「魔法陣で警告をくれたジョシュア殿か?」
「そうジョシュアさん! あの人にこの先は化け物しかいねぇって言われたもんだから心配になってさ……こうしてる場合じゃねえや、いかないと」
 ヴァンに水袋を投げて寄越し、ホフラムはすきっ歯をちらりと見せて満面の笑みを浮かべた。
「ありがとな、んじゃ俺ぁ先に行くよ。あんたらも気を付けて!」
 そう言って元気に走り去っていった。

       †

 ホフラムが去ってから数日が過ぎた。ヴァン達の進む道は深い森から険しい山へと場所を移し、途中一度の遺跡外脱出を経なければならなかった。
「ギィィアァァァアアアァァアアァァァァッ!!」
 醜い叫び声が山々に轟く。リアの魔法によって腹を穿たれた、黒い翼の怪物の断末魔だった。残るはヴァンが対峙する一匹のみ。怪物が腕を振り上げようとした所に鋼糸が煌めき、その腕を絡め取る。アゼルの援護だ。
「さあ、貴様で最後だ」
 双剣を振り下ろす。
「ギィィアァァァアアアァァアアァァァァッ!!」
 何度聞いてもこの断末魔は聞くに堪えない。ディーネなどは少し怯えて涙目になっている。
 黒い翼の怪物が塵になるように消滅していく。その目が一瞬正気を取り戻したように見える。
(殺す度にこうだ、やってられん)
 少し心が沈みかけた瞬間、黒い翼の怪物がにぃっと口の端をつり上げて笑った。そのすきっ歯には見覚えがあった。
「お前っ!?」
 差し伸べた手が届く前に、怪物は塵となって霧散した。
「ヴァンさん?」
 気遣うようなディーネの声。だがヴァンは振り向けなかった。今振り向けば、またディーネを怯えさせてしまう。
 幸い赤毛の子供達は誰も今の笑顔を見ていない、気付いてはいない。
 ヴァンは心の奥に煮えたぎった灼火の怒りを自覚したが、それを消そうとはしなかった。ただ「征くぞ」とだけ呟いて足早に道を進むのだった。ホフラムが進もうとしていたその道を。

       †

 道を進んでいくと、険しい山に囲まれるように存在する集落を発見した。
「これがあいつの言っていた集落か」
「そのようですね」
 いつものヴァンとは少し雰囲気が違う事を悟りながらも、ディーネはあえていつものように接した。大人には自分たち子供とは違ったものが見えるのだろうと、理解に努めた聡明さがそうさせた。
 ヴァン達に気付いたのか、荒れた建物から数人が姿を現し、こちらをうかがう。
「……どうしてこんなところに?」
「早く帰った方がいい」
 口々にそう言いながら、不安そうな顔で見つめてくる。
「……いや。しかしこれでは俺達と状況は一緒だ」
「抜け出す手段を得るまでは俺達と……」
 一人の男がこちらに近づき、手を差し伸べる。
「ここに集落があると、ホフラムという男に聞いてな」
 男は友人の名前を聞いて驚いた顔をしたが、すぐに嬉しそうな笑顔に変わった。
「そうか、あいつが。あいつは元気か? あんた知り合いなのか?」
「来る途中に会ってな、怪我をしていたので儂らが先に来たが、じきに……そう、じきに来るだろう」
「ははっ、あいつ来てくれたのか……。おっと、いけない、ここには危険な雪が降る、とりあえず建物の中へ……」
 ホフラムの友人が手招きしたその時だった。
「……! お……おい! また光が降ってきたぞ!?」
「っ!?」
 皆が一斉に空を見上げる。小さな光がいくつか落ちてきているのが見える。
『流れ星が見えたと思ったら、空から雪のように降ってきたんだよ。不思議な光が。……それに触れた者が化け物に変わるところを見た』
 ジョシュアの言葉が思い出される。
「これが……これがっ!」
「早く建物の中へ!! 急ぐんだ!!」
 ホフラムの友人がヴァン達を建物へと誘導して押し込める。その背後に突然黒い影が現れた。
「つーかまーえた」
「っなぁっ!?」
 長い黒髪の女が、男の背後から縄のように長い鞭で動きを封じ込める。
 動けない男に小さな光が舞い落ち、身体に染み入る……。
「お、お前えぇぇっ!! なんてことをぉっ!!」
「ぬかった、こいつ何処から!?」
「やめろッ! もう……手遅れだ…………」
 集落の男とヴァンがホフラムの友人を助けに行こうとするのを、別の男が止めて扉を閉めた。脆そうな窓が開け放たれているので意味が無いというのに、男は閉めた扉に背を預けて頭を抱えていた。
「くすくす……。……さぁ、変わって?」
 長髪の女は艶美な笑みを浮かべていた。彼女が着ている服には見覚えがある。以前会った少年や、手配書きで見たベルクレア騎士団の制服だった。
「……つまりこいつは人間なのか? 騎士なのか?」
 握った拳が怒りに震える。そうする間にも、ホフラムの友人の目から正気が失われていく。
「ああぁ……あああぁ……」
「ふふ……」
「あああぁぁああぁぁぁあああぁあああ゛あ゛ア゛ア゛ア゛ア゛ァァア゛ア゛ァァァア゛ア゛ァア゛ァァアァァァッッ!!」
 絶叫と同時に一瞬にして黒い翼の怪物へと変貌する。
 噂には聞いていた、これまで自分たちが切り伏せてきた黒い翼の怪物が、元は人間だったという事を。遊び半分で命をもてあそぶ悪漢がいるという事を。
「アッハッハッ! 変わった変わったぁッ!!」
 そう言いながら、どこからともなく現れた短い黒髪の男がテクテクと歩いてきた。
「…………でも、弱いねこれ」
「そうみたい……殺しちゃ―――」
 怪物に無数の槍が刺さった、ように見えた。
「―――ぅ?」
「ハハッ! ごめん、殺しちゃった」
 緑色の目を歪めて黒髪の男が笑う。
「…………つまんないわ、ディノ」
 緑色の目を細めて黒髪の女が呟く。
「引きずり出そうかぁ、あの辺。……ね、ティルダ?」
 こちらに向けて怪しげな笑顔を浮かべる。
「ひっ!」
 男達がディーネ達子供の前だというのに、ガタガタと震え始める。ディーネとアゼルは、若干の怯えはあるものの、それ以上に義憤に燃えた目で窓の外で笑うディノとティルダを見据えていた。リアはとっくに戦闘用の準備を終えている。
 ヴァンは三人に頷くと、扉を開けてディノとティルダの前に進み出た。
 剣も抜かずに無言で近づいてくるヴァンに、二人は顔を見合わせてから笑い出した。
「何このおじさん、怖い怖い」
「これって義憤って奴? 正義感? アハッ、格好いい」
「どうしようティルダ、僕たち正義の味方にやられちゃうよ」
「だってディノってば悪党だもの」
 笑う二人の前にヴァンが立ち塞がる。
「で、おじさ――」
 何かを言おうとしたディノの頬をヴァンの鉄拳が打ち貫く。
 吹っ飛んだディノの元にティルダが駆け寄る。ディノは頬をさすりながら立ち上がると、足元に落ちた自分の血に気付いた。
「アハハハハッ、ティルダ、僕血を流してるよ!」
「ホントだっ、ディノ格好悪い、アハッ」
 ヴァンは無言のまま双剣を抜くと、背後に駆けつけたディーネ達でさえ怯むような殺気を解き放った。

→Battle Phase


82日目
-Peace of Mind-

 岩陰に身を潜めながら、ヴァンは小さく舌打ちをした。
 背後を振り返ると、数人の仲間達も身を伏せている。
「……アゼル」
 若干の間はリックを呼ぼうとして考え直したからだった。医者のフェリックスはヴァンと歳が近いこともあって、よく夜営時にも酒を酌み交わすし雑多な相談事の相棒ともなっている。しかし、幼い日より戦場で生き抜くために身体を鍛え続けてきたヴァンと、黒人街で悪たれとして育っては来たが、医者という道を選んできたリックでは基礎体力に大幅な違いがある。医者として命と向き合う彼の職場もまた戦場だが、比喩的な意味でなく本当の戦場として年端もいかぬ子供であろうとも斬らねば生き延びて来られなかったヴァンとの環境の差は確かにある。
 振り返った際に見えたリックの表情は余裕こそ見せていたが、額に浮いた汗から疲労も見て取れた。
 ただでさえ年長者であるリックには同行する小雨とエスという二人の少女の手前、少女達が望む望まぬに関わらず保護者のような役回りを引き受ける事が多い。エスに同行するホムンクルスの少女に対しても同様だ。
 四十半ばという事も考えると、この所の強行軍の疲労も抜けきってはいないだろう。医者に倒れられても困るので、今負担を掛けるわけにはいかない。
「呼んだ?」
 駆け寄ってきた赤毛の少年が若干緊張した声を掛けてきた。
「ああ、やはり人狩りのようだ」
 ヴァン達が身を隠している理由はそれだった。
 何者からかの追跡を感じ取りすぐさま身を隠してみたが、それに反応するようにこちらを探すような気配が動き回っている。
 ディーネとアゼルの双子は奇しくもエスと、遺跡外で待つクロトと同じ年代で、どちらも赤毛、そして皇族という共通点があった。違うのは、ディーネとアゼルには皇族の前に元という言葉が付くことだろう。
 彼らが物心付く前に故国は攻め滅ぼされ、本来ならば彼らもそこで短い人生を終えている所だった。彼らが今も生きており、更にはヴァンもが認める戦士の素質を秘めているのは、ひとえに彼らの国を滅ぼした敵軍にいた女傭兵のおかげである。城に攻め入ってきた最前線の敵兵だった彼女が、幼い双子を見付け、何を思ったのか双子を連れて軍を脱走して彼らを育ててくれたのだ。
 物心付く前からの戦闘訓練、それも亡国の皇子と皇女といういつ刺客が現れるかも解らないという、常につきまとう身の危険をはね除ける力を得るための戦闘訓練を受け続けてきた。それ故に、ヴァンはこの双子を一個の戦士として見ている。
 特に素早い身のこなしで鋼糸を使うアゼルは、姉に比べて体力もあるというので、よく斥候役を頼んでいる。今呼んだのも、そういうことだ。
「お前には左手のあの岩で気配を発して相手の注意を引いて貰いたい。できるか?」
「できないとは言えないね、やってくる!」
「頼む。儂は右手の岩陰から相手を伺って戦力を分析する。追いつかれたり姿を見られたりせずに、相手の注意を引いた後はすぐに気配を消して逃げるんだ」
 黙って頷く。この少年ならばわざわざ注意しなくても、真っ直ぐリック達が待つここへと戻ってくるという愚は冒さず、万が一に備えて迂回してから戻ってくるだろう。
 リック達に振り返り、一人一人の顔を見て口を開く。
「儂らが先行して様子を見る、皆はここで気配を殺して潜んで置いてくれ。では行ってくる」

       †

 岩陰に身を潜めながら、ヴァンは判断に迷っていた。
 背後を振り返ると、いつの間にかアゼルが合流していた。
「どう思う?」
「微妙」
 追っ手はアゼルが発した気配にも気付く様子が無く、業を煮やしたアゼルが鋼糸で岩肌を引っ掻いてわざと音を立ててようやく気付いてくれた。
 殺気だった顔で現れた追っ手は三人だったが、一人は既に満身創痍といったていであった。三人が現れてすぐ、血の匂いに引き寄せられたのか彼らは怪物に襲われてしまい、そちらにかかり切りとなっている。
 ヴァン一行は人狩りはやり過ごすというのを基本方針としていた。日中は通常四つの部隊に分けて移動する彼らにとっては、どこか一部隊が人狩りに負けて宝玉や荷物を奪われれば残る三部隊にも影響が及ぶ。このようになったのは遺跡に潜った初日に、ヴァン、リリィ、リックの三人が人狩りに襲われたのが切っ掛けだった。当時は辛くも撃退したが、それでも計画に狂いは生じてしまった。相手の強弱に関係なく、戦わないというのが最善の一手なのだ。
 万が一やり過ごせないような相手ならば、こちらから仕掛ける他ない。そのためにも戦力分析は必要だった。
 そのため今も様子を見ていたのだが、どうにも違和感が残るのだった。
「名だたる人狩りの特徴とも一致せんし、この周囲に人狩りが移動してきているという話も聞かんな」
「動きを見ても結構素人っぽいね」
 三人が苦戦している怪物は、ヴァンとアゼル達ならば後二、三匹増えても苦もなく倒せる程度の相手だった。
 ヴァンはしばらく様子を見ながら、アゼルに姉と魔術師のルヴァリアを連れてくるように指示を出した。
 三人の男達は結局全員が満身創痍になってようやく襲ってきた怪物を撃退することに成功した。
 一息ついて傷の具合を見ようとした彼らの前に現れたのは、既に陣形を調えて臨戦態勢となったヴァンの部隊であった。
「落ち着いた所を悪いが、儂らをつけ回していた理由を聞かせて頂こうか」
 双剣を手にしたヴァンが真剣な面持ちでそう言うと、三人の男達は一斉に顔を青くしてこう言った。
「ちっ、違うんです!」

       †

 いつもより少し小さめな焚き火が、いつものようにぱちりと爆ぜる。
 すっかり日も暮れ、仲間達も各々の天幕を張って既に寝入っている。
 近づいてくる足音の主が無意識に蹴った石が、夜の岩山に乾いた音を響かせる。
「リックか」
 夜番の交替にはまだ早い。おおかた酒でも飲みに来たのだろう。
「やっぱ山は冷えるな、目が覚めちまった」
「つまり酒で温まりたいという事だろう、何が良い?」
 かたわらに置いた革袋から三本の酒を取り出して岩肌に置く。リックはヴァンに手が届くぎりぎりの所に腰掛けると、一瞬腰を浮かした。岩の冷たさが少し意外だったのだろう。「何があったっけ? バーボンが欲しい所だが、ウィスキーでも良いな」
「フョ酒とポル酒とヴィンのみだ」
 全てヴァンの世界の酒である。元々ヴァンが遺跡外で酒を仕入れてくる酒場自体が、ヴァンの弟子が開いている酒場なので当然と言えば当然なのだが、様々な世界の住人が集まるこの島ではリックのいた世界の酒も手に入れる事は意外にたやすい。今回の探索に持ってきた酒に、リックの世界の物を持ってこなかっただけである。
「フョ酒ってのは果実酒だったか、まあ結構美味いな。ポルってのは……あれか、トマトみたいな奴だっけ? 酒になんのかあれ? ヴィンはまあワインで良いだろ、気分じゃねえな」
 酒を好み年齢も近い二人は、自然とお互いの世界の酒の味と名前を覚えてしまっていた。いつだったかリックが「異世界交流ってのは良いな、世界の数が一つ増えれば、飲める酒の種類が何百と増える」と言っていたが、ヴァンにもそれは同感だった。面白いのは似たような製法と味の酒があることで、世界は違えど美味いと思う味覚は共通するのかも知れないと思ったものだ。
「よし、トマト酒にしよう」
「ポル酒だ。儂もあまり飲まんが、まあ変わった味だ」
 そう言って酒杯を二つ取り出し、両方に少しどろりとした赤色の液体を注いだ。
「ボルが言うには、朝摘みの新鮮なポルを使って作るらしい」
「ボルだけにポルを知るってか?」
 ヴァンの弟子の名前と野菜の名前をかけた軽口を言うが、師の方は口の端を軽くつり上げただけだった。少し外したかと照れくさくなったリックが、つくろうように続ける。
「しかし酒にするのに朝摘みとか関係あるのか?」
「あるらしいぞ。朝に摘んだ新鮮な物を正午までに芯まで魔法で一瞬にして凍らせるのが肝要だそうだ」
「魔法か、世界が違うと常識も違うもんだな」
 渡された酒杯をまじまじと見つめてから、ヴァンと黙って酒杯を掲げて目礼での乾杯をする。
 リックが酒杯に口を付けるのを見て、ヴァンも久しぶりのポル酒を味わう。口の中に酸味と甘味が広がる。
「なんだ、美味いじゃないかこれ。トマトの酸味と、熟れたトマトの甘味を上手いことブレンドした感じだな。バーボン党が望む味じゃないが、これはこれで味がある」
 そんなリックの評を聞きながら、ヴァンも酒を楽しむ。リックには言っていないが、凄まじく高価な酒だった。弟子のボルが請求した金額は他の酒よりも少し高いという程度だったが、ヴァンは相場を知っていた。この種のポル酒は最低でも他の酒の三倍、物によっては五倍はするはずだ。
「魔法で一瞬にして凍らせるからな、熟練の魔術師がいる地方でのみ作ることが出来る。この酒だと恐らくはアークランド大陸の西国、ラフカントのウェリック地方じゃないかな?」
 言いながら酒瓶を見ると、確かにリックには読めない文字でウェリキシンと銘柄が書かれている。五倍に属する銘柄だ。
「ウェリック地方は温暖な気候なので過ごしやすくてな、人々も穏和だったり陽気だったりとまあ暖かだ。そこに惹かれて、人との関わりを求める類の魔術士が集まってきて、気付けばそこかしこに魔術士の家が出来てしまった」
 そう言って酒に口を付ける。やはり美味い。
「魔法の研究をしながら、畑を手伝ったり村の人を手伝ったりするうちに、気付けば特産品のポルを使って村おこしを始めてな。試行錯誤を重ねた結果、このポル酒に行き着いたわけだ。儂の世界でも、恐らくこのウェリキシンはポル酒の中でも五指に入る逸品だ」
「これは確かにうちの世界じゃ再現出来ないだろうなぁ。液体窒素とか使って凍らせても、この深みは無理だわ。最上級のトマト料理顔負けの味わい深さだぜこれ」
 二人はしばし無言で美酒を味わっていたが、突然リックが咳き込んで笑い始めた。
「どうした?」
「いや、夕方のお騒がせ野郎がな」
 ヴァンとアゼルが偵察に行ったあれである。
「思い出し笑いか」
「散々俺らを緊張させて置いて、いざ向き合ってみると、俺に薬箱を作って欲しくて必死で後を追いかけていたってのが可笑しくて可笑しくて」
「……拍子抜けにもほどがある」
 日中にヴァン達が遭遇した三人の男達は、遠目にも特徴的なヴァン一行を見かけ、急いで追いかけてきたという。その理由がリックに薬箱を作って欲しかったというものだったのだが、見失うまいと目をぎらつかせて必死になっていたせいで、ヴァンやアゼル達に警戒されてしまったというのだから本末転倒だった。しかも聞いてみたら、彼らは仲間を回復させる魔法も技も持ってはいなかった。
「久しぶりの人狩りかと思って緊張したのが馬鹿みたいではないか」
「まあ良いじゃねえか、こうして酒の肴になった上に、緊張したぶん酒が美味くて一石二鳥、俺はむしろ感謝してるぜ」
 そう言って笑うリックを見て、ヴァンもまた肩の力を抜いて微笑した。
「そうだな」
 疲労と緊張を終えた後の一杯、そこに笑顔と愉快な話がある。苦楽を共にする仲間とのこうしたひと時こそが、遺跡探索における最良の清涼剤であった。 

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