ヴァン日記 総集編
過去編-歴戦の回顧-
--説明--
過去の回想をメインに、現在やちょっと未来を舞台とした日記。回想の時系列がバラバラですが、それも一つの味?
29日分、原稿用紙にして420枚前後です。

2日目(1日目は登録のみ)4795文字
 宮殿のように磨き上げられた王城の広い廊下に力強い足音が反響する。場にそぐわない黒い外套を着た傭兵が大股で歩いていた。
「おお、デュッセルライト卿、この度はおめでとうございます」
 通り過ぎた柱の影から声を掛けられ、ヴァンドルフは足を止めた。古傷だらけの顔に一瞬浮かんだ苦々しさを押し込めて、笑顔を作って振り返ると、見慣れた中年男が顔面に笑顔を貼り付けてすり寄ってきた。名前は知らない。覚える価値がない。
「おお、これは。何かめでたいことでもありましたか?」
 名前など覚えていなくとも、こっぱ貴族の機嫌を損ねずにあしらうすべはいくらでもある。数ヶ月に渡る城での逗留生活で身に付けた貴重な技術だ。
「おやこれは異な事を。城では朝から貴殿の聖騎士叙勲の噂で持ちきりだというのに」
 そう言って男は一人で笑ってみせたが、ヴァンがわずかに浮かべた意外そうな表情を見つけると探りを入れるのをやめた。
「本当にご存じなかったようですな。では改めて、おめでとうございます。名高い十聖騎士をお迎えできて我が国も鼻が高いですな。……おや、どうなさいました?」
 聖騎士、宗教騎士団をそう呼称する国もいくつか存在するが、社交の場で丁重な祝辞を述べられるようなものはアヴァロニアの十聖騎士しか有り得ない。遠く大洋を渡った小さな島、アヴァロニア島の騎士国が任命をする世界で十人の”英雄”。聖騎士とは名ばかりで、高名な賢者や神官なども叙勲される給金の出ない名誉職である。
 権力とは無縁な英雄を任命し、権力を持たない人々や権力に守られない人々のために対価を求めず活動をする慈善精神に満ちあふれた偽善集団、それがヴァンの持つ印象だった。無論、そんなものに興味はない。彼は傭兵だ。力を持たない民が守る力を必要とするのならば、金を払って自分を雇えばいいというのが持論である。力も金も持たない民が守る力を必要とする時は仕方がない、強引に夕食に乱入して勝手に食い、勝手に泊まって、翌朝にのうのうと「一宿一飯の恩だ」とでもうそぶいて守ってやればいい。そういう男だった。
 ヴァンはせっかくの社交術を忘れて呆然としていた己に気づき、恥ずかしそうな表情を作って場を取り繕った。
「失敬、寝耳に水なことでしたので驚いてしまいました。それにしても侯爵閣下はお耳が早いですな」
「なにただの噂好きですよ。どうです、ランルファから腕の良い料理人を呼んでいるのですが?」
「申し訳ない、陛下に呼ばれておりますので……」
「おおそれは、呼び止めてしまってすみませんな」
「いやいや、閣下との親交を深めるためならば陛下もお許し下さるでしょう。ではこれで」
 昼食の誘いを断って名も知らぬ侯爵に背を向けると、ヴァンは苦渋の上に貼り付けた笑顔を剥ぎ捨てた。国王に呼ばれているなど真っ赤な嘘である。
 心なしか呼び止められる前よりも大きな足音を響かせて、ヴァンは颯爽と廊下を抜けた。

         †

 フェントス王国の紋章をつけた早馬が森林を駆け抜ける。だが馬上にあるのは兵士や騎士の姿ではない。”木の多い国”という意味を持つフェントスにはそもそも国軍が存在しない。
 中央大陸の南端に位置することから南の大陸との交易が盛んなのだが、かつては木材しか交易品がなかったために国力が低く、戦乱に巻き込まれる度に傭兵を積極的に雇い入れているうちに、気づけば傭兵ギルドの総本山となっていた。今では木材と傭兵が交易の要である。
 傭兵ギルドの成立以後、国防は傭兵の中でも選りすぐりの精鋭やギルド幹部を中心に編成された傭兵騎士団が担っているのだが、なにぶん傭兵なので個の力量は高くとも忠誠心や統率に難がある。
 傭兵達から信頼の高い者が統率をすれば普通の騎士団以上の連係を取るのだが、そういった指揮官たり得る傭兵は国の中央に配置されるため、国境警備の傭兵隊の士気や統率力は低く成らざるを得ない。
 早馬はそんなフェントスの国境へと疾駆していた。
 馬上には黒い外套を着た傷だらけの男、孤狼と呼ばれる傭兵である。
 馬が地面を蹴った瞬間、鳴子の音が周囲に響いた。通常の木に張り巡らせる鳴子ではなく、落とし穴のように地面に掘った仕掛けを踏むと連動して鳴るという傭兵が得意とする鳴子だった。
 即座に周囲に殺気が満ちる。前方の木々の上から弓兵が、木陰からは槍や斧を持った傭兵達が姿を現した。
「止まれ!」
「止まらん!」
 フェントスの早馬に乗っているのだから止まらなくとも速度を落とせばすぐに傭兵達も事情を理解するのだが、その時間さえも惜しかった。
 だが相手は血気盛んな傭兵である。早馬に紋章がついていようが止まらないのならば敵であると判断した。傭兵に扮した敵兵が密書を奪って逃げているという可能性もある。その判断は間違いではない。
 頭上から数本の矢が飛来する。ヴァンは両腰から双剣を引き抜くとその全てを斬り落とした。
「双剣のヴァンドルフ、押し通る!」
 その声に傭兵達はびくりと動きを止めた。黒い騎影が傭兵達の隙間を駆け抜ける。
「あれが孤狼か」
 既に小さくなったヴァンの背を見つめて、傭兵の一人が憧れのこもった呟きを発した。国境に統率者が現れたのだ。

         †

「聖騎士叙勲だと? 騎士でもない儂がか? 冗談ではない!」
 中庭の池を眺めながら地べたに腰を下ろすと、ヴァンは外壁にもたれかかって毒づいた。
 無論声に出してのことではない。無学な傭兵を自認しているが、すぐ頭上に開かれた窓があるのに声を出すほど無思慮ではない。
 国王が招いた客人という立場なのでいつでも国を離れることはできるが、無駄な敵意を集めるといずれ戦場で害となることもある。
 愛想笑いなどを覚えて気を付けているはずだったが、どうやら既に遅かったらしい。
「冗談ではない。下賤な傭兵ごときが聖騎士叙勲、笑い話にもならん」
 開いた窓からそんな声が聞こえた。
「まったくですな。あの傷といい、宮中で薄汚い外套を着ている神経といい、内外ともに醜い。あんな男に十聖騎士の叙勲。まったく笑えませんな」
 無思慮な馬鹿もいたもんだ、ヴァンは小声でそう呟いた。
 この城の窓は池から涼を取るために開け放たれることが多い。池のほとりには花も咲いており、その風景を愛でるための椅子もいくつか用意されている。
 貴族達もヴァンがお行儀よく椅子に座って池や花を眺めるとは思っていないだろうし、それは正しい。しかし”下賤な傭兵”なのだから土の感触が恋しくなって地べたに座りたくなることもあるという想像力は働かなかったらしい。
 開かれた窓を隔てただけの距離でヴァンは自分の悪口を聞くこととなった。
「陛下やセルク侯は早くもあの醜男をこの国に据えようと動いておられる」
「なんと!」
「権力を持たない聖騎士とは言っても民草や兵士への影響力は充分に巨大な権力。それを囲い込めれば我が国は安泰、そう考えておられるのだ。しかも陛下は騎士団長の座を餌にするおつもりだ」
「馬鹿な、我が国の騎士は代々フェニー侯が率いられる習わし」
「それだ。セルク侯は我が国に侯爵家は一つで良いと漏らしておられる」
「なんと傲慢な。そもそもアヴァロニアの田舎騎士どもは、なぜフェニー侯を聖騎士に選ばんのか。千年続く騎士の家柄を差し置いて、国も持たぬ傭兵如きを選ぶとは騎士国アヴァロンの名が泣くわ!」
「最後の一言だけは同感だ」
 ヴァンは頭上でまき散らされる毒に顔をしかめながら、聞こえないように呟いた。
 騎士団長などに興味はなかった。聖騎士様と比べればまだましな気もするが、どちらにしても貴族や王侯に愛想笑いを浮かべて、社交だの政治だのという煩わしい世界に引きずり込まれるのは御免である。
 窓の中の貴族達はまだ毒を吐き足らないらしく、ますます血気盛んに唾を飛ばしていた。
「あの醜男が選ばれた理由を知っているか?」
「ランルファの件ですかな?」
(あれか……)
 ヴァンは今でもその時の光景を鮮やかに思い出すことができる。それは昨年のことだった。

         †

 日が落ちたというのに国境警備隊の傭兵詰め所は朝市以上の喧騒に包まれていた。ヴァンドルフが早馬でもたらしたのは同盟国裏切りの報告だった。隣国ランルファが国境沿いに軍を集めており、今夜にもフェントス領を侵犯するという緊急の知らせである。
 一時は騒然とした国境警備隊だったが、孤狼が加勢すると聞くと士気を上げて見事な団結力を発揮した。

 夜半、ついにランルファの騎士団が国境に姿を現した。ヴァンの見立て通り部隊を三つに分け、ヴァンと百余名の傭兵が守護する詰め所には五百騎の騎士が押し寄せてきた。
「援軍が駆けつけるまで死守しろ! 生き残れば昇給も期待していいぞ!」
 ヴァンに昇給の権限などないが、期待するだけならばただである。単純な鼓舞だったが効果はあった。ときの声を上げ、傭兵達は斧や槍を手に騎士へと襲いかかった。
 数にして五倍、騎馬対歩兵ということを考えると絶望的な戦力差である。
 訓練された騎士と百戦錬磨の傭兵達の戦いは数時間に渡った。
 ある傭兵は金のため、ある傭兵は名声のため、趣味で戦った者もいれば、それしか生き方を知らない者もいたが、彼らはとにかく戦い続けた。片腕がもげようとも残った腕で手斧を振るい、足を貫かれようとも短剣を手に馬上の相手を引きずり下ろしては鎧の隙間に突き込んだ。
 しかし異様なまでの戦意に飲まれながらも、やはり騎士は強かった。一人、また一人と傭兵達は斃れて逝った。
 最後に残ったのは一人の黒い影。右目に深い傷を負いながら、孤狼は双剣という牙で馬上の騎士達を喰らい続けていた。ひとたび双剣を振ると二つの命が散る。いくら騎士が攻撃を仕掛けようと、かわし、防ぎ、いなして反撃をする。何度かは確実にヴァンに届いていたはずである。現に右目は深手を負っているし、体中から血を流している。それなのに一向に倒れる様子がない。
 傷を負えば負うほどヴァンの振るう剣は力強くなっていた。その様は最早人間ではなく、さながら鬼神のようであった。
 夜が明けた。
 ヴァンはまだ戦場に君臨しており、騎士達は怪物退治の様相を呈していた。
 遠くから地響きが伝わってくるのと、逆方向からかぶら矢の音が聞こえたのは、ほとんど同時期だった。
 騎士達はかぶら矢の音を聞いて救われたように馬首を返した。夜明けになっても先遣隊である彼らの合図が無かったために、本隊が夜襲は失敗したと判断したのだ。
 自国へと撤退を始めたランルファの騎士達は、暁の戦場にたたずむ双剣使いの姿を一度だけ振り返ると、二度と振り返ろうとはせずに去って行った。

         †

「ランルファの弱兵どもめ、ヴァンドルフ如きを”暁の鬼神”などと呼んでおるらしい。王国の要たる騎士団が傭兵に負けて怯えるとは、なんたる腰抜けか」
 貴族の雑言で記憶の旅から引き戻される。
(ランルファの騎士達は勇敢に戦った。隣国同士の争いだというのに加勢も調停もしなかった貴様らに、彼らを腰抜けと呼ぶ資格はない)
 立ち上がってそう言ってやろうかと考えたが、理性が邪魔をしてしまう。
 迷っているうちに、貴族達は悪口の舞台を廊下から広間に移してしまった。
「儂は何をやっているのだろうな……」
 くすぶった感情を持てあまして、ヴァンドルフは空を見つめた。

――続


3日目4790文字
 日が沈み若干の冷気が漂い始める。森の中は未だ争いと死の楽隊が静寂を掻き消していた。
 空気の冷え方から近くに湖があると推測し、ヴァンはそれを探すことにした。歩き出した彼の背後に十人ほどの傭兵が続く。連れて歩いているのではない。名うての傭兵の勘に便乗していればおこぼれにあずかれると、姑息な同業者が勝手に付いてきているのだ。
 少し歩くと視界が開けてきた。予想通りそこには小さな湖と、命を繋ごうとする敵兵がいた。
 木陰から様子を伺う。敵は二人、それもまだ若い傭兵だと知れた。一人はまだ二十代に届かない少年で、もう一人は恐らく二十代だろうが女であった。
 赤い鎧を着込んだ赤毛の女傭兵、戦場ではえらく目立つ出で立ちだがそれ故に自信が伺える。顔を見ると、絶世の美女というわけではないが、思わず見とれてしまうほどの美しさがあった。
(磨かれた魂の美しさか……)
 女傭兵に呼びかけられて振り向いた少年傭兵も、どうやら彼女に憧れを抱いているらしい。
(若いが女を見る目があるな)
 そう苦笑したが、すぐに表情を引き締めた。相手が殺気を飛ばしながら剣を抜く。ヴァンに付いてきた傭兵達が厭らしい笑いを浮かべながら彼女を囲んでいた。耳を澄ますと、いい女だとか誰が先だとかと、下卑たささやきが聞こえてくる。
(屑が)
 ヴァンは逡巡の後、短くため息をつくと黒い双剣を抜いて己も木陰から身を出した。
 敵味方双方が息を呑んだのが解った。
「黒双剣……ヴァンドルフ・デュッセルライトか」
「いかにも」
 女の言葉に短く応える。どうやら女の弟子らしい少年傭兵が、目まぐるしく表情を変える。最初は怯え、次に戸惑い、そして今は戦意をみなぎらせている。この場に呑まれていないのはヴァンと少年だけだった。女に目が眩んでいた傭兵達は味方であるはずのヴァンに怯え、女傭兵も僅かに怯えを見せていた。
「うおおおっ!」
 少年が猛々しく斬りかかってくる。ヴァンは右手の剣で少年の剣を止めた。普段ならば左手で胴を薙ぎ終えているところだが、ふと少年がどうするのかを見てみようと気まぐれを起こした。
「師匠、逃げてください! ここは俺が!」
 その声で師も我に返ったらしい、長剣を構えてヴァンに斬りかかってくる。
「逃げるのはお前だブラックモア。お前ではっ!」
 もう一振りの黒剣が女傭兵の剣を受け止めた。
「この男は黒双剣のヴァンドルフだ! お前では勝てない、早く――」
「早く逃げんだよ師匠っ!」
 少年が師を後ろに蹴り飛ばした。
「ここで逃げちゃ……惚れた女見捨てて逃げちゃ男が廃るんだよ!」
(ほう)
 表向きこそ無表情を装ったが、ヴァンは内心で微笑した。なんとも初々しい。蹴られた師の方を見ると、目を丸くしているが頬は真っ赤だ。やはり初々しい。
 少年が果敢に斬り込んでくる。ヴァンは軽くいなしながら、二人が逃げるのであれば見逃してやっても良いかなどと考えていた。
 少年の目が素早く周囲を探る。頑張ってはいるが隙だらけだ。
(俺には勝てんと見て活路を探るか)
 他の傭兵が手出しを控えているのを少年は好機と見たらしい、ヴァン一人に集中して本気で戦えばどうにかなると判断したようだ。ヴァンの手加減に気づかなかったのだろう。
「戯れ言はもういいな?」
 活路を探った結果が一番してはいけない選択だった事にヴァンは失望した。
 一瞬で少年の死角に回り込むと脳天目がけて左手の一刀を振るう。両断するつもりで振り下ろした剣は少年の額に深く食い込んだ所で止められた。下から跳ね上がってきた女傭兵の長剣がヴァンの剣を止めていた。
 二人して刃向かうのであれば、見逃してやるという選択肢はありえない。
(あの若造も勿体ないな)
 額に剣を受けて気を失った少年を横目に、ヴァンは女傭兵の猛攻をいなしていた。
(惚れた女の一番美しい瞬間を見逃すとはな)
 女傭兵は先ほど以上に輝いて見えた。命を賭けても少年を守ろうという意志が痛いほど伝わってくるが、それだけではない。
「相思相愛ならば二人仲良く屠ってやろう」
 そう言うと、ヴァンは双剣を交差させて相手の長剣を斬った。それでひるむかと思った刹那、半分の長さになった剣がヴァンの左頬を切り裂いた。
(生きる意志、か。美しいな)
 だがその美しさは彼女にとって害となった。今まで怯えて静観していた傭兵達の欲望が膨らみ、ヴァンへの恐怖を覆い隠したのだ。ぎらついた目をして徐々に包囲をせばめてくる。
 女傭兵も異常な雰囲気に気づき、ヴァンだけに集中していた気が霧散する。最早これまでだった。ヴァンは殺気を叩き付けて、彼女の意識を無理矢理自分へ引き戻した。
「楽に死なせてやる。遺言はあるか」
「……ボルを頼む」
「引き受けた」
 彼女は僅かに微笑むと、最期の一刀を振り下ろした。ヴァンは左手の剣でそれを受け止めると同時に、右手の剣で鎧の隙間から正確に心臓を突いた。
 微笑を浮かべたまま絶命した女傭兵の心臓から、ゆっくりと剣を引き抜く。鎧の隙間から貫いたため血が噴き出すことはなかったが、どろりと血が溢れ出した。ヴァンは遺体をゆっくりと地面に寝かせてやると、様子を伺っている傭兵達を睨み付けた。
「失せろ」
 その一言で傭兵達は恐怖を取り戻して逃げ去った。これで少年が生きていると知られることはない。ヴァンは傍目には一切外傷の見えない女傭兵の遺体に視線を落とすと、名前ぐらいは聞いておけばよかったかと独りごちた。

       †

 人の気配でヴァンは目を覚ました。王城の中庭で寝入ってしまっていたらしい。
 昼食会が終わったのか、談笑の場を中庭に移した貴族達が中庭の池のほとりに一人二人と現れては椅子に座る。ヴァンはゆっくりと身を起こすと、風が運ぶ笑い声や鳥のさえずりに耳を傾けた。
「平和だな」
 偽りの平和である。近隣の国々は政治的な衝突を繰り返し、既に何度か紛争も起きている。この国が平和なのは、加勢も調停もせずに目を閉じ耳を塞いでいるからに他ならない。
 誰の意識にも止まらぬように立ち上がり、与えられた自室への道を帰る。
「儂は何をやっているのか……」
 夢で見た十年近く前の戦いに想いを馳せる。名も知らぬ女傭兵の生きようとする意志は、確かに彼女を輝かせていた。
「ならば今の儂は?」
 他人からすれば輝いているのかも知れない。栄光を手に入れたのかも知れない。だが、それは虚飾による偽りの輝きに過ぎないのではないか。
 あの時託された少年はヴァンの弟子として立派な傭兵に成長した。必死の努力でかつてのヴァンに並ぶ名声を得たが、それは己の名誉欲のためというよりも、命を賭けて自分を守った師に恥じない男になりたいと足掻いているように見えた。
 二年前、ヴァンは彼に試練を与えた。
 黒双剣を数名いる弟子達の誰かに与えると言った時、彼は目に今までにない強い光を宿らせて試練を願い出たのだ。
 試練の場は孤島。一歩足を踏み入れた瞬間に、それまでの知識や経験、鍛え上げてきた肉体や技が無に帰す謎の島。外界とは時間の流れをはじめとする全ての法則が違う島。
 彼はそこで二ヶ月間生き延びろという試練を見事に乗り越えた。
 仲間と協力して三ヶ月以上も生き延び、島に眠る宝玉全てを集めてみせたのだ。
 そうして彼、ボルテクス・ブラックモアは黒双剣を受け継ぎ、黒双剣の二つ名で呼ばれるようになった。
(孤島に行くと言った時の目、帰ってきた時の目、黒双剣を手にした時の目、短い期間だというのに全て違っていた。常に成長していた。あれが意志の力か)
 未熟な己の額を割り、惚れた師の命を奪った剣。黒双剣は自分以外の何者にも渡さない、そんな強い意志がボルを成長させていたのだった。
(あの男の目も凄かったな)
 自室の扉を開け、柔らかなソファーに身を投げ出して想起する。
 ボルが孤島より帰還した時に、共に現れた男。百人斬り、嵐の惨殺者の異名を持ち、呪われた魔剣の力で他人の命を吸い続けてきた魔人、ジーン・スレイフ・ステイレス。
 ヴァンとまみえるのは二度目だった。一度目の死闘がジーンにとって初めての敗北だったという。致命傷を負った彼は、恨みを持つ者達にとどめを刺されかけて海に逃げ、魔剣を失って孤島に流れ着いた。不本意ながらもボルと協力して孤島を生き抜き、ヴァンの元へ復讐に現れた。
 一度目の遭遇の際、ヴァンは彼の目を濁りも狂いもしない、何も持たない空虚な目だと感じた。
 二度目の邂逅の際、ヴァンは彼の目を生きる悦びに満ちた目だと感じた。僅か三ヶ月の間にジーンは別人と言えるほどの変化を遂げていた。
 本人は復讐のためと思っていたようだが、ヴァンの目にはただ純粋に強い敵と戦って打ち勝ちたいという、少年のような動機に感じられた。
 ヴァンが負わせた傷も完全には癒えてはいないだろう。生き延びて剣を持てるまでに回復したことさえ奇跡に近い。しかし完調だった以前よりも、傷も癒えず魔剣も失った今の方が遥かに強そうに感じる。
「凄まじい剣気だった……。あれも、生きる意志か」
 勝負は一瞬だった。山をも斬るかというイェリィリパルスの一閃を天を破る一閃で薙ぎ払い、ヴァンが勝利した。
 傍目から見れば圧勝であろう。だが確かにヴァンはその時ジーンを畏怖していた。
 百年に渡って死から遠のき、剣技を磨くことさえ放棄するほど完成した魔剣使いであったジーンが、まったく戦い方の違う剣技を身に付け、狼のような鋭い眼光を持った一人の剣士として現れた。
 彼はたった百日の孤島の生活で、百年の慢心を打ち砕いたのだ。
「生きることへの執着。泥濘に這っても生きることを諦めず、戦うことを諦めない目。……孤狼の目」
 身を包むようなソファーに身体を沈めて呟く。
 ぼんやりとした遠い目を、豪奢な装飾が施された天井へ向ける。
「儂は何をしている……何を見ている」
 神剣、光双剣、剣聖、大仰な二つ名が付く度に彼の心は重りをつけられたように沈んでいき、錆びていった。
「孤狼と呼ばれた時よりも儂の心は強くあるか? 惰弱になっていないか?」
 そう問いかける。
 磨き上げられた天井に、柔らかなソファーに包まれた自分の姿が映り込む。
 僅かに歪んだ天井の鏡像は、ヴァン自身が歪んでいるかのように見えた。
 情けない。
 心にそう浮かんだ言葉を掴み、握りつぶす。ヴァンの目に力が宿る。
「ここは儂の居る場所ではない。こんな所に居ては心が死んでいく」
 起き上がり、壁際に立てかけれられた一対の剣を手に取ると左右の腰に差す。
「がむしゃらに生きることに執着する。儂の原点はそこではないか」
 いつでも旅立てるようにとまとめてあった旅装を掴み、埃を払って部屋を出る。
「孤狼と呼ばれたのは、負け続けても生きるために足掻いて足掻いて戦い続けたからではないか」
 謁見の間に帯剣したまま強引に押し入り、驚く王に「心を鍛え直しに行く」と一礼してヴァンは城を出た。罵る声やあざける声が耳に届く。
「与えられた誇りなど捨てても良い。負けて泥濘に崩れ落ちようとも、生きて天に噛み付く気勢さえ残っていれば……いずれはその天を落とすことも出来よう」
 負けて負けて負け続けて、それでも心の剣が折れなかったからこそ、今の自分があるのだ。
 孤島へ。誰もが死と等距離に身を置く島へ。
 孤狼は再び天に吼え、地を蹴って前へと一歩を踏み出した。

6日目4773文字
 どこかで子供が泣いている。
 降りしきる雨の中、水たまりに跳ねる雨粒に混じって、少年の涙が跳ねていた。
 周囲には屍が山を成し、血が河となって雨と共に死体を洗い続けている。
 捨て去られた戦場にはただ死だけが満ちており、唯一の生は血にまみれた少年の慟哭だけだった。


 木々の葉が成す森の天井から木洩れ日が落ちる。両手一杯に枝を抱えた少年は、つい立ち止まって空を見上げた。葉の隙間から青い空が僅かに見える。雲一つ無い気持ちのいい空だった。
「坊主、ぐずぐずしてんな!」
 怒声に驚いて抱えた枝を落としそうになる。
「あんま子供をいじめんなよフェスおじさん」
 木陰から茶化すような声が掛かると、笑い声が周囲を包んだ。
「うるせえ、俺の子じゃねえし、俺はおじさんでもねえ!」
 フェスと呼ばれた男は少年を待たずに歩いていく。少年はその後ろを一所懸命に追いかけた。
「待ってよフェスおじさん!」
「おじさんじゃねえ!」
 即座に怒鳴り返すとフェスは大股でぐんぐんと歩いていった。
 少年が必死に追いかけると、森の中で少し開けた場所に出た。焚き火の跡があり、その周囲には鎧や剣が置かれている。統一された意匠はなく、種類も様々なことから傭兵のものだと知れた。
「フェスおじさん」
「おじさんじゃねえ! 大体俺とお前じゃ十五しか変わんねえだろうが」
「でも俺の倍以上じゃん」
 まだ十二歳になったばかりの少年が指摘すると、彼はふてくされてそっぽを向いた。
「フェスター、子供を邪険に扱ってやるな」
 傭兵を引き連れて、無精髭を生やした壮年の男が現れる。
「おかしら……はい」
 フェスターは納得できない表情のまま、頭領の言葉に従った。
 彼らは個人で活動する傭兵ではなく傭兵団である。頭領に逆らうことは許されない。
 頭領は余裕のある笑みを浮かべると、先ほどの少年のように空を見上げた。少年もつられて空を見上げる。先ほどより広くなった空に白い雲が流れていた。
「良くないな……そろそろ開戦だというのに」
 頭領の呟きで傭兵達の気が引き締まる。少年はというと気が引き締まるというよりも、緊張で身体が固まってしまった。
「安心しろや」と、少年の頭に手が置かれる。フェスターだった。
「どうせ初めての先陣入りで緊張してんだろ? 俺らは先陣つってもあくまで傭兵連中の先陣だ。ほんとの先陣は名誉ある騎士様達がとっくに済ませてくれてるさ」
「その通りだ。そして騎士様達は名誉ある戦死を遂げられるだろうから、俺たちが稼ぎ放題ってわけだ」
 フェスターの励ましに頭領も追従する。二人とも既に不敵な戦士の表情をしている。
「坊主も十二で先陣ならば早すぎるということもあるまい。俺の傭兵団にあっちゃ遅いぐらいだ」
 そう笑ってフェスターが手をどけたばかりの頭を武骨な手がぐしゃぐしゃと撫でた。
「黄色い腕章は付けたか?」
 頭領は言いながら少年の右腕を見て、よしと頷いた。
「どうやら俺たちの雇い主は間抜けらしい。敵味方を見分けるために黄色い布を縫いつけろとはな」
「血やら泥やらで汚れて、しまいにゃ千切れておしまいですよね」
「まあ馬鹿でも金は持っている。馬鹿の率いる兵は弱い。弱兵は活躍をしない、だから俺たちが余計に稼げる」
 頭領はフェスターとニヤリと笑いあい、急に真面目な表情になった。
「よし、皆を集めろ。そろそろ始まるぞ」
 その判断の通り、頭が全員を集めて準備を終えた頃に開戦を告げるかぶら矢が雲に覆われた空を裂いた。

       †

 空は厚い黒雲に覆われている。頭領は雲の動きを見て雨雲の到来を知っていたのだろう。彼らはぬかるみに対応できるような格好で戦っていた。
 開戦の前に頭領とフェスターが笑いあったように、腕章はすぐに汚れて色を失った。仲間の幾人かはそのせいで味方に背後から斬られた。頭領に言わせれば、弱兵に斬られる方が悪いとらしいが、少年には割り切れない思いがあった。だが割り切れない思いを捨てて戦わなければ自分が死ぬ。
 子供と油断した敵の頭を拾った手斧で断ち割ると、少年は血にまみれて膝を突いた。
 鍛えてきたとはいえまだ少年である。数時間も戦場で戦い、負傷し、殺し、心身共に限界が近かった。
 一息ついて周囲を見回す。
 黄色い腕章は見あたらなかった。正規兵も味方の傭兵も、仲間の傭兵団さえも血と泥にまみれて、こうしている今もどんどん死んでいっている。
「坊主、生きてるか」
 背後からフェスターが声を掛ける。彼も血にまみれていたが、それが誰のものかは分からなかった。
「フェスおじさんは?」
「生きてるから話しかけてんだろう阿呆。それにおじさんじゃねえ。まったくお前なんぞ拾わなかったら良かった」
 いつもの口癖に少年は安堵した。フェスターが軽口を叩ける間は自分も死なない、それがいくつもの戦場で覚えた彼なりの法だった。
「汚い傭兵に拾われてやったんだから感謝しなよ」
 軽口に軽口で返すことを覚えたのは昨年からだった。それまではいちいち軽口に傷ついていたが、傭兵団の一員として戦場を渡り歩くうちに、傭兵が孤児を拾うことの大変さを理解した。自分達が戦場に巻き込んだとはいえ、孤児仲間を失って呆然としていた少年を見捨ててはおけなかったのだろう。甘い男であった。
「おかしら、坊主は無事ですぜ」
 少年が振り返ると、頭領が十名ばかりの傭兵を連れてこちらへ歩いてきた。
「これで十七人か。うちの傭兵団も終わりかも知れんな」
 珍しく気弱な言葉だが、七十人近かった仲間がここまで減っては仕方のないことだった。
「敵将が悪すぎた。適当に戦って後退するぞ。その後は生き延びることだけを考えろ。お前達が踏ん張っている間に、俺が雇い主から契約金をふんだくってくる。額は減るかも知れんが、それを貰ったら俺たちはこの戦から手を引く。異論は?」
 全員が首を振った。
「よし。それじゃあ――」
 頭領が何かを言おうとして固まった。皆が視線を追って振り返ると、正規兵らしき影が脇目もふらずに走ってくる。何から逃げているのかと疑問が浮かんだ瞬間、それは現れた。
 黒い騎士。黒毛の馬を駆り、黒い外套を羽織った、黒髪の男。その手は手綱を握っておらず、両手に二振りの剣を持ったまま足だけで馬を走らせていた。
「黒衣の双剣将軍様か」
 頭領が舌打ち混じりに呟いた。
「敵将のお出ましだ、手前ぇら戦いたいか逃げたいかどっちだ!」
「やってやろうぜ!」
「あいつを倒しゃあ堂々とこの戦いを抜けれるってもんだ!」
「野郎一騎だぜ! 部下も連れないで突出する馬鹿から逃げたとあっちゃ傭兵廃業だ!」
 傭兵達は声を荒げて士気を高めると、一斉に黒衣の双剣使いへと殺到した。
 最初に辿り着いた三人が剣や斧を振り上げた瞬間、黒馬が後ろ足で巨躯を持ち上げる。振り上げられた前足で一人目の頭が割れ、残る二人は双剣の餌食となった。
 僅か一瞬、一挙動で三人が死んだ。
「我が双剣は告死の翼」
 馬上の双剣使いが芝居がかった口調で告げる。
「貴公らが我に剣を向けるのであれば、我ら告死の天馬となって貴公らに等しく死をくれてやろう」
 普段の彼らならばその言葉を笑い飛ばしたであろう。だが、誰もそうしなかった。そうできなかった。彼らは一様にこの剣士を畏怖したのだ。
「なら!」
 頭領が大声を上げる。
「俺たちが引いたらあんたは見逃してくれんのかい?」
 余裕を持った笑みで問いかけると、黒衣の双剣使いも不敵に答えた。
「見逃してやろう。憐憫は美徳だ」
「そうかい、野郎ども聞いたな?」
 見回すと傭兵達は全員同じ表情を浮かべていた。怒りである。
「哀れまれちゃ傭兵の名折れよ!」
 頭領の怒号と同時に全員が躍り掛かった。

 五分にも満たない死闘だった。
 十四対一という圧倒的な戦いのはずだった。しかし今戦場に立っているのは、一騎の人馬のみだった。
 黒衣の人馬は囲まれる前に攻め寄ってくる傭兵の頭上を跳び越え、空中でのすれ違いざまに一刀。着地地点にいた一人を前足で粉砕してまた一人。そのまま駆け抜けて距離を取り、残る十二人に振り返る。
 血気にはやった傭兵が走り寄ってくるが、足の速さや疲労具合で全員同時にとはいかない。一人の歩兵と一騎の人馬という状態に持ち込めばまず負けはない。実力差があればなおさらだった。
 すべてを蹴散らし終えた黒衣の双剣将軍は馬から下りると、片膝を突いて苦しそうに喘ぐ少年に歩み寄った。
「先ほども言ったが、憐憫は美徳だ。助けてやろう」
「断る!」
 眼に烈火を宿らせて少年が立ち上がる。
「まだ戦うというのか。きみらの雇い主はもう降伏したし、頭領も死んだ。きみも右肩が砕けたのではないか?」
 そう指摘された少年は、右肩を押さえていた左手を振って地面に刺さった剣を掴んだ。
「剣を向けるか……。ならば――」
 双剣使いが告死の翼を広げた刹那、その背後に立ち上がる影があった。
「フェスおじさ――」
 立ち上がったフェスターが背後から斬りかかるのを予期してたかのように、双剣使いは右手を振り上げて剣を止めると、そのまま左手の剣でフェスターの胴を薙いだ。
「おじさん!」
 少年は胸に倒れ込んでくるフェスターを抱き留めた。
「まったく……死んだ振りしてりゃ良かったのに……阿呆が」
 フェスターの声は弱々しい。
「俺もなんで……こんな馬鹿を拾っちまったかなぁ……」
 咽に血が詰まった嫌な音がする。呼吸の音もおかしくなっている。彼は助からない。
「フェスおじさん! おじさん!」
「おじさんじゃ……ねえって……。まったく、お前なんぞ……拾わなきゃ良かっ……た」
 フェスの目は既に少年を捉えていなかった。
「生きろ……よ。生き延びろ……何があっても、何をしても……生き延びるんだ。いいな、ヴァン」
 そう言って、フェスターは息絶えた。少年は血に塗れた手で涙を拭くと、左手で剣を構えて双剣使いを睨み付けた。
「いい眼だ。感情的だがどこか冷静、強い意志に満ちている。少年、名は?」
「ヴァンドルフ・デュッセルライト!」
 名乗りを上げてヴァンは双剣使いに斬りかかった。
「アブカントの将、アズラス・スルーシーだ」
 アズラスは剣を使わずに斬撃を交わそうとした。不慣れな左手での子供の斬撃と侮ったアズラスの腕に赤い線が走る。
「少年」
「ヴァンドルフ!」
「失敬、貴公左利きか?」
「知るか!」
 ヴァンは剣を下から跳ね上げると見せて突きに転じた。だが油断を捨てたアズラスは、彼の勝てる相手ではなかった。突き出された腕を脇に抱えると容赦なく肩の関節を外し、あまりの痛みにヴァンが絶叫しようと口を開けた瞬間、肺に強烈な膝蹴りを入れた。左手から落ちた剣が地面に刺さる。
「冷静になれたかね?」
 少年を解放してやると、アズラスは双剣を鞘に納めた。それを見たヴァンがほとんど力の入らない右手で地面に刺さった剣を掴んだ刹那、アズラスの蹴りが地面に刺さったヴァンの剣を砕いた。
「きみなら私のような双剣使いになれるかも知れん。鍛え直してまた来たまえ」
 そう言ってアズラスは愛馬に跨ると、悠然と戦場を去っていった。
 残されたのは両腕を力なく垂れ下がらせた少年と、彼の腕では弔う事の出来ない仲間達の死体だけだった。

7日目4850文字

 石畳を走る子供達の靴音が、ミグ・ラムの路地に反響する。
 酒場の主人と向かい合いながら、ヴァンドルフ・デュッセルライトは元気な足音に耳を傾け微笑した。
「豊かな国だな」
 古代には魔法王国として栄え、神の逆鱗に触れて滅びてからも、僅かに残ったミグの民は近隣の民と手をたずさえて立ち上がってきた。それから数千年、ミグ王国は世界でも有数の豊かな大国となった。かき集めた魔法王国の知識の残滓だけでも、中央大陸のハイドランド法国と並ぶ魔法技術を誇っている。空に海を浮かせているハイドランドに比べれば若干劣ると言われるが、魔法王国時代の技術力を元にして発展した科学力を加えればミグが上とも言われ、よく議論好きたちの議題にもされている。
 広大な王都のほぼ全域に石畳を敷き、建物も火災に強い石造りのものがほとんどである。他の国ではあまり見られない石造りの都というのは、ミグの民の誇りであった。
「お前の店は石に変えないのか?」
「俺はフェントスの出ですから」
 大通りから少し奥まった路地に店を構えた主人が答える。
 フェントスは中央大陸の南端に位置する小国で、木の多い国という意味を持つ。古くから木材しか資源がなく、隣国であり兄弟国であるララントスと共に決して恵まれているとは言い難い歴史を歩んできた。
「まあその方がお前の商売にも良いのだろうな」
「そりゃあ、フェントス出の傭兵ってのは売りになりますからね」
 現在のフェントスは、傭兵ギルドの総本山として名を馳せている。酒場の主人、ボルテクス・ブラックモアもフェントス出身の生粋の傭兵であった。
 傭兵ヴァンドルフ・デュッセルライトの敵として戦場で出会い、初恋の相手であり師でもあった女傭兵を殺され、そしてその遺言でヴァンの弟子となった双剣の傭兵。兄弟弟子と共に、ヴァンドルフの双剣衆と称されることもある凄腕の剣士だった。
 その彼が今は酒場の店主をしている。酒場と言っても大衆向けではなく、傭兵や冒険者などに向けて酒や情報、人脈などを商品とする酒場である。
 ヴァンドルフの弟子である事や、黒双剣のブラックモアの二つ名を知る者はこぞってこの酒場に足を運ぶが、それらを知らないまだ駆け出しのひよっこたちには、木造の店構えと看板で傭兵ギルドの国フェントスの出身だというのを示した方が良い。通常このような酒場は、店主が高名であればあるほど駆け出しを嫌うのだが、ボルは違った。店を「英雄の故郷」と名付け、将来英雄となるかも知れない若い芽を育成することを目的としたのだった。
「しかし何でまた師匠が海越えてミグなんかに? 向こうの大陸の、どこぞの国で結構いい待遇で招かれてたって聞いてますよ?」
 弟子の言葉に、ヴァンは内心で苦笑した。まさか馬鹿正直に「堕落を自覚したので心根を鍛え直しに孤島を目指す」とは答えられない。それは師としての自尊心が許さない。
「国に仕える気ならば、ミグでもハイドランドでも、それこそフィブにでも仕官先はある」
 大国の名前を列挙するが、これらの国から話が来たことがあるのは事実であった。ボルもそれを大言とは受け取らず、納得したように頷いた。
「国に仕えるつもりは無い、師匠の口癖でしたね」
 そういって口元に笑みを浮かべる。持ち上げられた口ひげを見ると中年の男と見まごうが、表情にはまだ二十代の若々しさが残っていた。
 ボルテクスもまた、いくつかあった仕官の話を断り、三十手前にして後進の育成を志したのだった。彼に言わせれば、そのお節介は師匠譲りということらしい。
「ミグに寄ったのはお前の仕事ぶりにケチを付けようと思っただけだが……墓参りもあるな」
「墓?」
「鍛冶の師がジンの人だったのでな」
 隣国の名を挙げて懐かしむように眼を細めたヴァンに、一杯の酒が差し出される。弟子の気遣いを口に流し込み、ヴァンは遠い日のことを語った。

       †

 孤児として生まれ育ったヴァンが仲間たちと暮らしていた町は、戦火に焼かれた。一人生き残った彼を拾ったのは、まだ若い傭兵だった。少年は十二歳までその傭兵と共に傭兵団で暮らし、数年で百近い戦場を転々とした。
 だが十二歳のある日、劣勢の軍に雇われた彼ら傭兵団は瞬く間に数を減らし、最後に残った数人も戦場で出会った敵国の猛将によって殺されてしまう。ヴァンを拾った青年傭兵も彼を助けるために散り、最後まで猛将に挑んだヴァンも子供扱いであしらわれた。
 再び一人となったヴァンは、しばらく少年傭兵としていくつかの戦闘に参加したが、所詮は後ろ盾のない子供、腕が立っても認められることはなかった。
 折しも時は中央大陸全土で戦争が勃発した大戦期へと移行し始めていた。世界中から戦争をかぎつけた傭兵や、戦争を商売にする商人や職人が集まって来ていた。
 ヴァンの鍛冶の師も、そうして集まってきた職人の一人であった。

 アブカントの双剣将軍アズラスに敗北して一年経ったが、ヴァンがアズラスのことを思い出さない日は無かった。
 幼い頃より戦場で生きてきた彼には、これまで仲間が殺されても相手を恨むことはほとんど無かった。負けた者は弱いのが悪かった、自業自得だというのが傭兵の鉄則として叩き込まれてきたからだ。しかしアズラスの一件だけは、ヴァンにとってその例に当てはまらなかった。アズラスは負けたヴァンに情けをかけた。そこまでは良い。彼を育てた傭兵たちも情けをかけるのが悪いとは言わなかった。彼らが教えたのは、中途半端な情けは殺すよりも残酷であり、偽善にもとづいた自己満足でしかないという事だった。アズラスのはまさにそれである、そうヴァンは確信している。
 片腕が折れた状態で、もう片方の肩の関節を外し、剣を蹴り折って戦場に放置する。それが本当に情けだろうか。
 ヴァンは殺された仲間たちを弔うことも出来ず、遺品を持ち去ることも出来ず、敵兵の敗残兵狩りから逃げる事しか出来なかった。既に死んだ仲間たちの身体を、勝利者の狂喜をたたえた兵士たちが楽しそうに槍で刺す。彼らが去った途端に、どこかで控えていたらしい戦場あさりたちが現れ、仲間たちの遺体から遺品を奪い去って行く。両腕が使えない上に、傷と疲労で身動きの取れなくなったヴァンには、遠くの茂みに横たわってその光景を眺める事しか出来なかったのだ。
 いっそ殺されようとも彼らの前に躍り出て仲間の遺体を守ろうかと考えた。だが、ヴァンを拾った青年傭兵の最期の言葉、何があっても生き延びろという言葉が、ヴァンの身体を地面に引き止めていた。
 ヴァンはアズラスに負けたことを恨んではいない。仲間を殺したことも恨んではいない。ただ、傲慢な慈悲を押し付けてヴァンを生かした事を恨んだ。
「いつか、その傲慢の付けを払わせてやる」
 一年の間、毎日そう思い続けて来た。だが、毎日あの双剣使いを思い起こすうちに、ヴァンはアズラスの剣技に憧れている自分に気付いた。
「あいつ、俺が双剣使いになれると言っていたな……」
 何気なく呟いた独り言でヴァンの目標は決まった。アズラスを越える双剣使いとなって、一騎打ちであの猛将を討ち取る。それがヴァンの考え得る最良の付けの払わせ方だった。
 しかし二振りの剣を操ることは至難の業である。いくら練習しても、一振りの長剣を両手で持った方が強いとしか思えなかった。
「思い出せ、あいつの動きを……」
 記憶の中のアズラスは両手に持った剣を広げ、告死の翼と称していた。翼、アズラスの剣は確かに翼のような幅広の形状だったが、長さ自体は短剣よりも少し長い程度であった。ヴァンは己の手にある剣と、記憶の中のそれを比べてみた。
「剣の形が違うのか」
 アズラスのものは双剣として作られているが、ヴァンが使うのは両手でも片手でも使えるようになっている大量生産品だった。アズラスのものは恐らく専用に作らせた特別製なのだろう。ヴァンが欲しがった所で手の出る値段ではないし、作れる鍛冶屋も多くはないだろう。
 短剣をそれっぽく扱ってみても、長剣よりはましだがアズラスには遠く及ばない。勝てる姿が想像できない。ヴァンは途方に暮れた。
 そんなある日、ヴァンは戦場で奇妙な傭兵を見かけた。
 鎧を着けず、奇妙な装束だけで戦う異国の剣士だった。細身の鞘から凄まじい速度で抜剣し、一閃で敵を仕留める。鎧のないわずかな箇所を斬り裂き、皮鎧程度だと鎧ごと真っ二つに斬り捨てる。
 なんと素早く、なんと切れ味が良いのか。感激したヴァンは、戦闘が収まるまでその剣士から目を放さず、両軍が引き上げる時を見計らって話しかけた。
 剣士は南の大陸のジンから来たという。言われてみれば黒髪黒瞳の穏やかな顔立ちはジン特有のものだ。侍を名乗る剣士は、己の腕がどこまで通用するのか腕試しに来たという。ヴァンは珍しがって様々な事を聞き、南から来た侍も少年傭兵に色々な事を教えてやった。
 そうしてヴァンは、刀という武器に目を付けたのだった。
 これならば速さも長さも強度も申し分ない。侍の技術には二振りの刀を使う高等技術もあると聞き、両手に一振りずつ持つことも想定されていると確信できた。
 だが、これには大きな問題があった。
 双剣を作る以上に刀を作ることが難しいのだ。南の大陸で取れる金属や土を必要とする刀を、この中央大陸で作ることなど不可能ではないのか。そう落ち込んだヴァンに手を差し伸べたのは、やはり侍の青年だった。
 彼と同じ船でジンから刀の素晴らしさを広めようとやって来た、腕の良い刀鍛冶がいると教えられたのだ。

       †

 からになった木製のタンブラーを置くと、ヴァンは腰に下げた双剣を撫でた。
「かなり絞られたよ。儂ら中央大陸の剣鍛冶と、ジンの刀鍛冶ではそもそも剣を作る時の考え方が違う。こっちでも、鍛冶の神や剣の神、火の神なんかに祈ってから打つ鍛冶屋は多いが、ジンの鍛冶屋はそれ以上だ。人のためではなく、神のために打っているという職人もいるぐらいだからな」
 ボルにはわからない話だが、客からは見えないように下げている彼の黒双剣を見ると何となくわかる気がした。
「まあ儂は刀は作れんがな。あれは、この南の大陸でないと無理だ。鉄も土も違う。他で作れば、ある程度の切れ味ぐらいならば再現出来るが、強度が足りん。一人斬るだけで曲がったり折れたりするのだぞ? 挙げ句の果てに血と脂にまみれて切れ味さえなくなる」
「そりゃ使えねぇや」
 師弟は二人して苦笑した。
「だが儂の剣は違うぞ」
 ヴァンは双剣を抜いてみせた。その刀身を見てボルが怪訝な顔をする。
「光双剣じゃありませんね」
「あれは強すぎるから修行にならん。それにまだ調整が必要でな。魔法施術師に預けてきた。これは替わりに打った剣だ」
 刃は両刃だが片側が申し訳程度の切れ味なので、ほとんど片刃の刀である。刀身も細く、長さも短剣より僅かに長い程度の片手用の剣。硬い刀身を木で作られた柄にはめ込み、強度と滑り止めのために獣皮を巻いて、目釘を打ち込んである。鍔は無く、はばきを棟の側だけ長く作って補強している。鍔の無い防御力の低さを、小回りと強度で補うという、いかにもヴァンらしい剣であった。
「心金も皮金も良い物がなかったので少々卸し金を使ったが、まあこれで我慢するしかあるまい」
 さて、と言ってヴァンは立ち上がった。
「行くとしよう。アズラスの話は今度会った時にな」
 立ち去る師の背中を眺めながら、ボルは「孤島か……俺も店出しに行くかね」と呟いた。
「懐かしい顔もいるかも知れんしな」
 ボルは何度か頷くと、一時休業の準備をし始めた。

――続


8日目4825文字

 歌が聞こえる。
 若干の酔いが感覚を鈍らせる。店主が気心の知れた弟子だということもあって、ヴァンはいつになく気を抜いていた。多少の危険ならば酔っていても大丈夫だという自負がある。それ以上の危機は弟子がはね除けるだろうし、その弟子が牙を剥いて命を落とすとしたら、それも仕方のないことだ。今宵の酒は熟達の傭兵をそんな気分にさせていた。
「良い声だな」
 ヴァンの呟きに店主が頷く。
「孤島で店を構える事になるとは思いませんでしたが、案外実入りが良くてびっくりですよ。早々に良い歌い手を雇えましたし、このままここで店を続けるのも悪くない」
 店主ボルテクス・ブラックモアはそう言って店の奥で歌う人影を見やった。吟遊詩人というわけではないが、物語ではなく歌のみで人の心を惹きつける良い歌い手だった。
 ボルが普段の店を一時休業にしてまで孤島に来たのは、ただの気まぐれである。ヴァンだけでなく馴染みの客の幾人かが孤島を目指すので、上客を追いかけて来たのだというのが彼の言だが、わざわざ遺跡外の宿を借りてまで酒場を開いては儲けなど無いだろう。ヴァンの見立てでは、おおかたかつての冒険を思い出したのだろうという所に落ち着いた。
 ボルもかつては孤島に生きた男である。様々な遺跡に潜り、守護者と戦い、六つの宝玉を揃えたという。ヴァンはその宝玉を見ていない。島の中央部に突然現れた気味の悪い化け物と戦ううちに消滅していったのだというのだ。その言葉を信じないわけではない。下らん冗談は言うが、下らん嘘はつかん。ヴァンは弟子をそう評価していた。
「彼女も遺跡に?」
 歌い手をちらりと見てヴァンが問う。透明感のある声質にも関わらず、歌い手の声は喧騒に満ちたボルの酒場中に広がり、染み込んで行った。少々聞き惚れるようにしていたボルが頷くと、ヴァンは僅かに苦笑して「勿体ないものだ」と呟いた。
 ひとたび遺跡に潜れば、性別も年齢も全てが関係ない。実力のみの世界だ。歌い手がどのような声を持っていようとも、多少の動物は魅了できるかも知れないが全ての危険を回避できるわけではない。いつその声を失うか分かったものではないのだ。ボルもそれに同感らしく、しみじみと頷いている。酒場や宿屋がいくつもあるこの遺跡外で、ボルのような男の店にある程度の客が入っているのは歌の魔力に引き寄せられた客が多いからだ。無論、かつて遺跡で宝玉を揃えたという店主の話を参考にしたいと通う客もいるが、それだけでは黒字にはならない。
 ヴァンはからになった木製のタンブラーを置くと、指でカウンターをとんとんと二度叩いた。ボルが即座に自然な動作で酒をつぐ。
「……板に付いてきたな。もう遺跡には潜らんのか?」
 声に批難や皮肉の色はない。だがボルはばつが悪そうに肩をすくめた。
「酒場の店主にするために鍛えたわけじゃないってことですかね」
 珍しい自嘲気味な言葉にヴァンは失笑をもらした。
「そうじゃない。勿体ないだけだ」
 客からは見えないがカウンターの内側には二振りの剣がいつでも使えるように隠されている。ヴァンが与えた剣、かつてはヴァンの二つ名であり、今はボルの二つ名でもある黒双剣だ。それを飾るのではなく手の届く位置に隠しているのは、ボルが今でも現役であるという証拠に他ならない。
「さてね、魂を他人に預けちまったんで、からっぽになったのかも知れねえや」
 そう言ってボルはいつもと同じ表情で笑った。
「孤狼の魂か」
 それはヴァンやボルの中にある誇りであり、ボルがかつての孤島で使った最強のひと振りの名前でもあった。孤島最強の武器を作るという目的を持った職人の呼びかけで、幾人もの冒険者が協力し合い出来上がった剣。本島より海を越えて光陰の孤島に投げ届けられたその剣は、ボルが孤島から去るその日まで彼の命を守り続けた。
 そして今、その剣は彼の元にない。
 孤島から帰還したその日、ヴァンに戦いを挑んで敗れた仲間に貸し与えたのだ。今まで生というものに何の執着も見せなかったその男が、友の命を救うという新たな目標のために旅立つにあたってボルがしてやれる唯一のことは、折れた剣のかわりに絶対に折れない剣をボルの心と共に貸してやるだけだった。
「ジーンの野郎はどこで何してんでしょうね」
「さてな。孤狼の魂を持ったまま、あてのない旅を続けているのかも知れんし、血にまみれた夢を見ているかも知れんな」
 木製のタンブラーに伝った水滴が落ちる。
「師匠」
 弟子の呼び掛けに目だけで答える。
「以前聞いた猛将の話、確か『今度会ったときにな』って言ってましたよね」
 ただの好奇心だけではなく、己の中に一石を投じて波紋を起こしたい、そんな気概が見て取れた。ヴァンはため息をついた。
「やれやれ、あまり面白い話でもなければ格好良い話でもないぞ」
 そう言って、記憶の扉を開いた。

       †

 歌が聞こえる。
 勇ましい行軍歌だった。ヴァンは五十人ほどの傭兵と共に、林の中に潜んで軍靴が過ぎ去るのを待った。
 アブカントの猛将アズラスの双剣によって、家族同然だった傭兵団を壊滅させられて四年が経っていた。双剣将軍とうたわれるアズラスに打ち勝つために自分も双剣を使ってみせると誓って三年、ヴァンは十六歳になっていた。
 三年を掛けて様々な戦場を傭兵として渡り歩きながら、ヴァンは己に扱える双剣を作るために異国の刀鍛冶に師事していた。そうして完成した剣は、ヴァンの世界を大きく変えた。それまでの剣や斧を使った戦い方よりもはるかに戦いやすく、傷を負うことも少なくなった。雇い主たちはヴァンのことを未来のアズラスとまで誉めた。仲間の仇であり、ヴァンに半端な情けをかけた憎むべき相手ではあるが、その評価が嬉しかったのは事実だった。ヴァンは己の中に、確かにアズラスへの憧れがあることを自覚していた。
 今アズラスはヴァンの潜む林の前を行軍している。アズラス率いるアブカント軍の正面ではヴァンの雇い主の軍が示威行動を起こしているはずだ。戦端が開いたのちはヴァンたち傭兵が左後方の森と右後方の林から襲いかかり、敵の混乱をついて正面の正規軍の騎士隊が突撃を仕掛けるという手はずだった。
 アズラスほどの将ならば伏兵の可能性ぐらいは考慮しているだろうが、その伏兵たちがヴァンの知る範囲でも有名な傭兵や傭兵団だらけだとは考えていないだろう。乱戦になった時にこそ傭兵の真価が発揮されるのだ。百戦錬磨の傭兵たちは、正規兵とは比べものにならないほどの戦闘経験を持っている。ヴァンも自軍の傭兵を見て、よくこれほどまでの数と質を揃えたものだと驚き、そして自分もその中の一人に加わっているという事実に満足したものだった。
 ときの声が上がった。
 遠くで群衆の雄たけびが聞こえる。ヴァンが属する右後方の傭兵部隊を指揮する壮年の男が剣を抜き、怒号と共に突撃した。ヴァンもそれに続く。
 右手の剣で相手の腕を止め、左手の剣で胴を薙ぐ。左手の剣で相手の足を刺し、右手の剣で咽を刺す。流れるような動作でヴァンは死体の山を築き上げながら、アズラスに向かって猛進していった。
 三方からの挟撃は上手く行ったようだった。
 騎士隊の突撃で敵の戦列は大きく乱れ、蹂躙されるがままになっている。
「どけぇっ!」
 怒声と同時に二人の敵を斬る。ヴァンは焦っていた。このままでは自分がアズラスを討つ前に騎士隊が討ち取ってしまうかも知れない。それではこの四年が無意味になる。そう焦って猛進を続けた。
 十六歳という心身共に成長しきっていない彼に、乱戦となった戦場に立つ敵兵たちはそびえ立つ壁のようだった。アズラスがどこにいるかどころではなく、自分が今どこにいて味方はどこなのかということさえわからない。だが自分に敵意を向ける者を斬り続けて真っ直ぐ進み続ければいずれは――そう思った時、黒い騎馬の姿が目に飛び込んできた。
 騎士が両手に持った剣を振るって赤い翼を作った。
 告死の翼。
「アズラァァァァスッ!」
 ヴァンは人混みをかき分けるようにして敵兵に斬り込み、黒衣の双剣将軍の元へ走った。 少年の声で名を呼ばれたことに気付いたアズラスは怪訝な顔で周囲を見回し、ヴァンに気付いた。
「あの時の少年か。そうか、双剣使いになったか!」
 嬉しそうに笑うと、突撃してきた騎士を薙ぎ捨ててヴァンに向き合った。
「この戦いもそろそろ終わる。余興に相手をしてやろう。確かヴァンフォルフだったか?」
「ヴァンドルフだ!」
 怒ったように答えながらも、ヴァンの気分は高揚していた。四年も前に一度会っただけの自分を覚えていた、仲間の仇だというのにやはり嬉しかった。
 だが高揚したヴァンはアズラスの言葉が持つ違和感に気づけなかった。挟撃に遭って不利な状況なのに妙な余裕を持っているのだ。
 アズラスは足だけで馬を駆ると、いつかのように馬を後ろ足だけで立たせた。馬が立った瞬間、双剣が群がってきた傭兵を斬る。馬が前足で別の傭兵を踏み砕くと同時に、アズラスは反動を活かして馬から跳んだ。着地しながら更に別の傭兵を斬り、ヴァンの目の前に立ち塞がる。ほんの一瞬、あまりにもわずかな刹那ではあったが、周囲の兵士が敵味方を忘れて二人の双剣使いに目を奪われた。
「アブカントの双剣将軍、アズラス・スルーシーだ」
「フェントスの双剣傭兵、ヴァンドルフ・デュッセルライト!」
「参る」
 長躯から繰り出される右の斬撃に、ヴァンは左足を軸にして回転するように避けつつ、横薙ぎの左の斬撃で返す。最初からその動作が分かっていたように、既にアズラスの右脇には左の剣が防御体勢を取っていた。澄んだ金属音が消えないうちにアズラスは振り終わったかに見えた右の斬撃を、ヴァンの首を狙った横薙ぎに切り替えた。だがヴァンも負けじと右の斬撃を迫り来るアズラスの剣に向けて振るった。二度目の金属音が最初のそれと重なる。ヴァンは右の斬撃同士がぶつかったわずかな隙に、左手の剣を突き出した。アズラスが防御体勢を取っていた左手の剣を振り上げてそれを弾く。
「やるな、ヴァンドルフ」
「そっちは鈍ったか、アズラス!」
 血気にはやったヴァンドルフが更に斬りかかろうとした時、退却を知らせるかぶら矢が空を裂いた。
「惜しいが時間切れだ。次を楽しみにしているぞ」
 言うが早いか、アズラスは一挙に愛馬の元へ駆けよって騎乗した。
 何が起こった分からずに途惑うヴァンの腕を仲間の傭兵がつかんだ。
「後退だ後退、逃げるぞ!」
 そういって強引にヴァンを引っ張って走り出す。
「野郎、別働隊を迂回させて俺たちの本陣を強襲しやがった!」
 ヴァンはそこでようやく、先ほどのアズラスの余裕に気付いた。
 挟撃を読んで、逆に伏兵を送り込んでいたのだ。
「また……負けたのか」
 遠くから、アブカントの勝利を称える歌が聞こえていた。

       †

「それで終わりですか?」
「面白くも格好良くもないと言っただろう」
 ヴァンは酒を口に運ぶと、懐かしむように遠い目をした。
「それで儂とアズラスの勝負は終わりだ」
「決着は付かずってことですか」
 弟子の言葉にゆっくりと首を振る。
「以降何度か会うことはあったが、結局は奴が病死して勝ち逃げだ」
「病死……」
「まったく、儂とあろうものが流行病ごときに勝利をかっさらわれた。……だが人生とはそういうものだ」
 残った酒を流し込むと、ヴァンは店の奥で歌い続ける歌い手を見やった。
 優しくも、どこか悲しい歌が聞こえていた。

9日目4688文字

 夢を見ている。

 血にまみれた、夢を見ている。

 剣を持った小さな手が震えている。
 覚えている。
 これは初めて人を殺したときだ。

 あれは今から何年前か。
 たしか九歳だったから、三十四年も前になる。

 初めて人を殺した日、あの日から今まで百を越える命を奪ってきた。
 そんな自分でも、初めて人を殺したときには、あんなにも情けなくがたがた震えていたのか。

 ヴァンドルフ・デュッセルライトは夢の中で微笑した。
 その途端、視界が歪む。
 ああ、夢の場面が変わるのだ、そう納得して安定を待つ。


       †


「孤狼さんで?」
 薄暗い酒場を出ようとすると、背後からひしゃげた声がかかる。
 外套の中で剣を握りながら僅かに振り返る。声と同じようなひしゃげた顔が、壁に掛けられた蝋燭の炎に照らされていた。殺気はない。
「何の用だ」
「睨まんでください、仕事の話ですよ。アンタに依頼したいってお方がいましてね」
「これが地顔だ。今は懐が温い、話だけは聞いてやるが期待はするな」
 男は下卑た笑いを浮かべながらヴァンの脇をすり抜けて酒場の扉を開けると、ヴァンを先導するように暗い路地を歩き始めた。
 少々のいぶかしさを押し込めてヴァンも後に続く。
 男は治安の悪い路地に足を進めた。目には見えないがこちらを伺う気配がいくつもある。
「入ってくだせえ」
 男は急に立ち止まって古ぼけた扉を開けた。
「くさいな」
 呟き、虎穴に入る。
「ご挨拶だな」
 奥から太い声が聞こえたと思うと、蝋燭に火が点いた。
「アンタが孤狼の先生かい」
「盗賊か。何用だ」
 腕を組んで尊大に返す。組まれた腕の指先は外套に隠された双剣に触れている。
「仕事を頼みたい。護衛だ」
 盗賊から縁遠そうな護衛という言葉に多少の興味をそそられた。
「お察しの通り俺は盗賊だ。森の傍に打ち捨てられた塔があるのは知ってるか? あそこを根城にしている。護衛対象は俺を含む幹部全員だ」
「部下に守らせれば良いだろう。なぜ儂だ」
「……相手が風の盗賊だからだ」
「ほう、百人斬りか」
 面白い、ヴァンの表情にはそう書かれていた。
「怯えるかと思ったら喜ぶとはな。どうだ、引き受けてくれるか? おっと、報酬は保証する。これが前金だ」
 投げ寄越された袋には、優に三ヶ月は暮らせるほどの銀貨が詰まっていた。
「奴を倒してくれれば、更にその倍を成功報酬として用意しよう」
「三倍だ」
「わかった」
 ヴァンの法外な要求に即答すると、盗賊は案内役の男に目配せをした。男が扉を開けると夜の空気が流れ込んでくる。扉をくぐって退出しようとするヴァンの背中に盗賊の声が掛かる。
「期限は明日から野郎を倒すまでだ」
「了解した」

 来た道を帰りながら、ヴァンは案内役の男に聞いてみた。
「で、百人斬りは誰に雇われた?」
 男は目に見えて狼狽した。落ち着き無く周囲を見回して誰もいないか執拗に確認する。
「やめてくださいよ、どこに野郎がいるかわかったもんじゃない」
 批難の声を上げてから、怯えを隠そうともせずに呟いた。
「……恐らく領主でさぁ。偉そうに警告する書状の紙質がえれぇ高かった」
「警告状が来たのか、どんな文面だ」
「すぐにこの領から出ていかないと、風の盗賊が俺たちを襲うって」
「だがあの百人斬りが大人しく領主の言うことなど聞くか?」
 男はまた周囲をせわしなく見回してから向き直り、小さな声で呟いた。
「俺たちもそう思って調べたんでさぁ。なら、領主の周りで最近やけに人が死んでやがる。全員がでっかい刃物で斬り殺されてたって話で……」
「命を吸う黒い大剣を持った銀髪の男が、百年に渡って人を斬り続けている」
 ヴァンの言葉に男は飛び上がらんかという勢いで驚いた。
「旦那ッ!」
「その名、ジーン・スレイフ・ステイレス。盗賊騎士ステイレスの百年前の嫡男にして、一族を皆殺しにした男。その存在はおとぎ話ではなく、人々が忘れることができない頻度で彼による新たな被害者が作られていく。風の盗賊の名は、彼の一族が盗賊騎士だったことに由来するが、彼自身が盗賊というわけではない。強いて言うなら命を盗む。百人斬りの名は、文字通り彼が一晩で百人の騎士を斬り殺したことに由来する」
 ヴァンが語った言葉は、盗賊ギルドをはじめとするこの地方の様々なギルドに書かれた注意書きの一文だった。
「百年の間、老いを忘れて戦い続けてきた鬼人。相手にとって不足はない、これほど胸躍る敵は久しぶりだ」
 力強い笑みを浮かべてヴァンドルフは颯爽と路地を歩く。
 案内役の男は、主人に従う下男のようにその背を追いかけた。

       †

 翌朝のことである。
「孤狼の旦那ぁッ!」
 階下から慌ただしく走ってくる気配でヴァンは目を覚ました。
 昨夜すぐにでも盗賊のアジトに向かおうとした彼は、案内役の男から頼み込まれて宿に泊まらされた。客人として扱うようにと幹部たちから言いつかったので顔を立ててくれと懇願されたのだ。仕方なく決して安くはない宿をあてがわれたのだが、それは間違いだったらしい。
「旦――」
「何事だ、慌ただしい」
 駆け上がってきた男がヴァンの部屋の扉を叩く前に、旅装を整えたヴァンが自ら扉を開いた。
「起きてやしたか! まずいことになりまして」
「百人斬りが出たか?」
 適当な冗談を言ったつもりだったのだが、目の前の男はあからさまに表情を変えた。
「本当に出たのか。いつだ」
「今朝方でさぁ、路地で潰れてた酔いどれが見たって言い張ってたんで締め上げたら、噂に聞く野郎の特徴と一致しやがりまして」
「やれやれ、やはり昨夜のうちに立った方が良かったか。案内しろ、征くぞ」

 案内役の男が乗ってきたらしい馬を奪い取ったヴァンが盗賊たちが根城にしている塔に付いたとき、事態は既に手遅れだった。
 塔の周囲にはいくつもの死体が転がっている。塔を見上げると、窓辺に死体らしい影が倒れ込んでいる。
「既に百人斬りが来ていたか……」
 死屍累々、まさにその一言で語り尽くされる光景であった。
「やれやれ、いずれ盗賊団をどうにかしろって依頼が来るだろうから、その下調べと強敵との戦いが同時に出来ると思ったんだがな」
 ため息をひとつ。未練を振り払うように首を振って、来た道を帰ろうとしたときだった。
「!」
 背後から強風が吹いたように空気が押し流される。
 ヴァンが振り返ると、塔の入り口に青い影が見えた。
 血にまみれた青い外套、片目にかかった銀髪、両手持ちの黒い大剣。ジーン・スレイフ・ステイレス。
「そうか、まだ塔の中にいたのか……」
 額に冷や汗がにじむのを感じながらも、ヴァンは己が笑っていることを自覚した。
 一瞬にして空気が変わったのは錯覚ではない。所々に生き残っていたらしい盗賊の残党たちが震えながら地べたを後ずさっている。怯え、絶望、恐怖、そしてジーンから発せられる殺気がそれまでの空気を押しやったのだ。
 ヴァンは双剣に手を掛けると、ゆっくりと百人斬りの鬼人に近づいていく。向こうもヴァンに気付いたのだろう、黒い大剣を肩に置いた。
 声が届く距離まで間合いを詰めて、二人は立ち止まる。
「光双剣のヴァンドルフだ」
「…………ジーン・スレイフ」
 静かだがよく通る声で名乗る。
 ヴァンは左右の腰に差した一対の鞘から、二本の"筒"を抜き放った。それはまるで、柄だけの剣だった。
 対するジーンは僅かに怪訝な顔をしたが、すぐに無表情に戻ると肩に置いた大剣を両手で持った。
 ジーンの側から風が吹いた。
 その風に乗るように、ジーン・スレイフ・ステイレスが疾駆する。一瞬で十歩も進む。もう一瞬あればヴァンに届いただろう。だがヴァンはジーンが動いた瞬間に"筒"を彼の方に向け――
「参る」
 そう呟くと同時に、筒から一条の光線が放たれた。
 既に地を蹴っていたジーンは肩に担いだ大剣を大きく振って地面を斬ると、その反動で光を避けることに成功した。
「……魔法か?」
 筒から伸びる光が縮んでいき、剣の長さで止まる。
「少し違う、古代の魔法技術と現在の魔法技術を組み合わせて作られた剣だ」
 そう言って、もう片方の手で持っていた筒からも光の剣を伸ばしてみせた。
「光双剣、なるほど」
 大剣を構えなおす。
 ジーンは地を蹴ると、大剣の重さを感じさせない速さでヴァンを己の間合いに捉えた。脳天に一太刀を振り下ろす。ヴァンは双剣でそれを受け止めると、腕に力を込めて黒魔剣を押し戻して光双剣の左の一刀を振り下ろす。
 ジーンは僅かに身をしりぞけて紙一重で回避しようとした。その瞬間、光の刃が僅かに伸びてジーンの頬を裂く。
「これが光双剣だ。儂に間合いがあると思うな」
 ジーンは頬に手を当てて傷を確認すると、邪悪な笑みを浮かべた。手をどけると、そこにあったはずの傷が消えていた。
「これが俺だ。俺に敗北があると思うな」
 お互いに鼻で笑うと、次の瞬間には剣をぶつけ合っていた。
 まるで短剣を振るように軽々と巨大な黒魔剣がヴァンに襲いかかる。だがヴァンはその全てをいなし、防ぎ、しのいでいた。
 間合いと隙を無視した双剣がジーンに襲いかかる。だがジーンは素早く身をかわし、例え斬られようと貫かれようと、即座に傷が治癒していた。
「せいっ!」
 裂帛の気合いと共に、ヴァンは光双剣を伸ばしてジーンの眉間と心臓を貫いた。
 ジーンの動きが止まる。
 腕が徐々に垂れ下がる。
 肩が震え始める。
 魔剣の先端が地面に付く。
 肩の震えが大きくなる。
 ジーンは、笑っていた。
「フッ……フハハ……フハハハハハハハハハッ! やるではないか小僧!」
 どう見てもまだ二十代にしか見えない姿の鬼人は、眉間と心臓を貫かれたまま剣を振り上げた。
「化け物かっ!」
 ヴァンは短く叫ぶと、眉間の剣を上へ、心臓の剣を右下へ振り抜いた。脳や内臓を斬り裂けば流石に死ぬかと思ったのだ。
 血と脳漿を噴出させながらジーンは大剣を横薙ぎに振り抜いた。
 ヴァンが飛び退いて体勢を立て直すと、既にジーンの傷はふさがっていた。
「これでも死なんのか……凄まじいな」
 敗北を覚悟しながら双剣を構え――

 視界が歪む。

 ――夢から覚めるのか

 心中の呟きを察したかのように、夢の風景は黒く塗りつぶされていく。

 目が覚めた時、ヴァンドルフ・デュッセルライトは既に夢の内容を忘れていた。
「夢を見ていたのか? ……何の夢だ、思い出せん……だが、妙な充実感が残っている」
 己の手を見る。
 ごつごつとした、筋肉質な男の手だ。ずっと昔に貫かれた傷痕が意識を覚醒させていく。
 ヴァンはゆっくりと立ち上がると、地面に刺していた剣の鞘を引き抜いた。
「あの夢の感覚、ぼやけてはいるが……」
 おもむろに剣を抜き放つ。
「どうやら夢の中でも戦っていたらしいな」
 夜明けの遺跡を駆け抜ける風に髪をなびかせ、ヴァンドルフは微笑を浮かべた。

another side ≫ geyrn's diary No.04


11日目4741文字

 砂の丘に墓標が一つ。
 盛り上がった砂は赤く染まっていた。
「遺言どおり風の丘に埋めてやったぞ」
 呟く男の言葉に応えるように、風が男の黒衣をはためかせた。
「礼はいらん」
 男は墓標に背を向けると、砂を踏みしめ丘をくだった。丘の下に待たせていた馬に乗ろうとして、ふと墓標を振り返る。
「何をしている。お前は翼を得た、好きなところへ行くがいい」
 その言葉を皮切りに、一陣の風が砂を巻き上げて丘を駆けた。墓標の赤く染まった砂も風に乗って空へと舞う。
「そうだ、それでいい」
 にやりと笑うと、ヴァンドルフ・デュッセルライトは馬に飛び乗り二度と振り返らなかった。

      †

「俺はさ、やっぱ飛びたいんだよ」
 少年は赤ら顔を焚き火に照らして力説した。周囲の大人は誰も耳を貸そうとはしない。
「わかる? オッサンがたにゃわかんないかなぁ」
 馴れ馴れしく肩を抱かれた男が荒々しく振り払って舌打ちをする。少年は悪態をついて酒盛りの輪から離れようとした。
「ん? なんだオッサン、一人で飲んでんの?」
 辛うじて焚き火の光が届こうかという所に男が一人。大人たちは少年を止めようとしたが、少年へのうとましさがそうさせなかった。酔った少年は大人たちが恐れて近づこうとしなかった傭兵の所へ千鳥足で近づいていく。
「アンタも嫌われもんか? 俺もさ。仲良くしようぜ」
 すきっ歯でにぃっと笑うと、馴れ馴れしく肩を抱く。だが傭兵は鋭く睨むだけで手を払おうとはしなかった。
「凄ェ傷だなアンタ。痛くないのかい?」
「古傷がいつまでも痛んでたまるか」
 大人たちは傭兵が鬱陶しい少年の相手をしていることに驚き、奇異の視線を向けたが傭兵がにらみ返すと怯えたように目をそらして、別の馬鹿話で盛り上がることにした。
 残された傭兵と酔った少年は仲間の輪を外から眺めながら、何をするでもなくただ酒を飲んだ。
「なあオッサン」
「まだ二十八だ」
「それでも俺の倍ぐらいじゃん」
 既視感を覚える言葉。かつて少年だった傭兵が、親代わりであり兄代わりであった男へ放った言葉。傭兵は目を閉じると口の端をつり上げた。
「そうだな、俺も二十八になったか」
 ついにあんたを追い越しちまったか、心の内で親愛なる故人へ呟く。
「坊主、お前は何でこんな戦争に参加した?」
「そりゃ金のために決まってんじゃん。兵士は給料良いんだぜ」
「残念だったな、腕の良い傭兵はもっと良い」
 意地悪く笑ってみせる。少年はむっとしたように傭兵を睨むと、酒樽に杯を突っ込んで酒を補充した。
「坊主、今までに何人殺した?」
「三人かな、全部とどめ刺しただけなんだけど。オッサンは?」
「まだ二十八だ」
「案外少ないじゃん」
 少年も意地悪く笑ってみせた。傭兵も釣られて笑うと、少年の頭を軽く小突いた。
「殺した数なんぞ数えてられん。少なくとも二桁ではすまんな」
「サバ読んでない?」
「そんな自慢にならん数を誤魔化してどうする」
「じゃあさ、一番強かった相手ってどんなの?」
 無邪気な問いで彼の脳裏に浮かんだのは二人の男だった。
「……ホリン・サッツァ・トラウムと、アズラス・スルーシーだ」
「赤き賢者と告死の翼じゃん! オッサン戦ったの!? 勝った?」
「勝っていたなら、お前が奴らの名前を知ることも無かっただろうな」
 自嘲気味に笑い、酒樽に杯を突っ込む。ため息を一つついてから、がぶりと酒をあおる。少年も傭兵の雰囲気が変わったことに気付いて口を閉じた。
「さっき言っていた跳びたいとは何だ?」
 止まってしまった会話を動かそうと傭兵が単純な疑問を投げかける。丁度大人たちにあしらわれた話題だっただけに、少年も嬉しそうに乗ってきた。
「そうなんだよ、飛びたいんだよ」
「崖からでも塔からでも跳べばいいではないか」
 茶化す言葉を無視して少年は酒をあおると熱弁を続けた。
「俺はね、生まれてこの方ずっとずっと地べたにいるんだ」
「誰でもそうだ」
「違うよ! 違う。俺とか兄貴とかも、皆ずっと同じ街で生まれて育って死んでいくんだ。街から出ることはできない。用事を済ませりゃ帰る場所は街だし、近くの町にちょっと出かけても結局街に戻ってくんだ。何でかわかる?」
「勇気、力、金、このうちのどれか一つさえ持っていないからだ」
 傭兵の答えに少年はきょとんとした。
「各地で戦争が頻発し、魔獣や盗賊を討伐していた兵力をそちらに傾けるせいで治安が悪くなる。人心も荒む。そうなれば生まれ育った街を捨てるのは難しいだろうさ」
「そう、そうなんだ! だから俺は正規兵になりたいんだ、こんな捨て駒みたいな臨時の兵士なんかじゃ駄目なんだ!」
「跳ぶという話はどうなった?」
「正規兵になってもっと高い給金をためておいたら外の世界で家族が暮らしていける。それに俺みたいなガキがちゃんとした領主様に認められた兵士になれたら、勇気も力も湧くと思うんだ。そうしたら、俺は鳥みたいに自由に外の世界に羽ばたける!」
 傭兵は複雑な表情をしていた。
「己で世界をせばめていることに気付いて……いや、目をそらしているだけか。だが目をつむってはいない。……いつか気付く」
 少年の情熱を削がないよう、聞こえないように独りごちた。

       †

「近くにいる奴と背中を合わせろ! お互いを守り合うんだ!」
 戦場の喧騒の中、傭兵の声が飛ぶ。兵士たちはまったくの素人だと言わんばかりに浮き足だって使い物にならなかった。兵士たちのまとめ役として派遣されていた騎士も義務だから参加したという貴族の子で、怯えてしまって兵士以上に使い物にならなかった。こういう事態が予測されたからこそ、貴族は息子を守らせようと彼を雇ったのだ。
「越権行為失敬!」
 双剣を構えて騎士を守る。
「いや、皆が生き残れるのならばいくらでも越権してくれ」
 震えた声で騎士が答える。義務を賄賂で回避せず、しっかりと戦場に出て来た上に物事の優先度をわきまえている。傭兵は依頼された以上にこの騎士を守ってやろうという気になっていた。
「では従者殿と背中合わせになって少し後退を。敵を引きつけます」
 そう言って走り出すと、両手に持った双剣を派手に振って敵兵を二人同時に斬り倒す。剣から血が尾を引くように斬り、その動きも左右対称、必要以上に人目を惹いたのを確認して傭兵が声を張り上げる。
「我が名、双剣のヴァンドルフ! 我を倒せばいかなる報償も思うがまま、この首取れると思った者は掛かって来い! 我が双剣の錆びにしてくれよう!」
 敵兵の反応は様々だった。士気を上げてヴァンに襲いかかって来る者、ヴァンの名を聞いて怯える者、事態が理解できずにうろたえる者、その全てがヴァンの策に落ちていた。
 意識がヴァンに向いたため、彼の味方の生残性は確実に上がっている。特に、多少立派な鎧を着けた怯える騎士などは眼中にもないだろう。
 士気を上げて襲いかかってくる敵兵を、全て一刀で斬り伏せる。多少の無茶は力任せで押し通す。一撃で倒してこそ、より効果的に相手の士気を削げるからだ。
 彼らの戦場は、主力同士がぶつかり合う主戦場からは外れていたが、その外れた小さな戦場の中心は間違いなくヴァンだった。
 斬って斬って斬り続ける。途中何度か防ぎきれなかった斬撃や、槍の一撃で決して軽くはない傷を負った。背中を守ってくれる相棒がいれば別だっただろうが、そんな勇気と技量を持ち合わせた戦士は味方にいなかった。
 下手に手傷を負ってしまったせいで、動きに精彩を欠く。敵兵も下がった士気を、今なら倒せるのではないかという楽観で立て直してしまった。
「しくじったか? ……あんたより一年も長く生きれば充分かな」
 諦めたような事を言って、返り血で真っ赤に染まった顔に微笑を浮かべる。戦場で笑顔を浮かべていれば、敵が若干ひるむというのは計算の内だ。絶望的な状況でも活路を探す。それは十二の頃に彼を庇って散った親代わりの傭兵の、最後の教えだった。
 怯んだ隙に数人の敵兵に駆けよって一挙動で三人を倒す。
「どうした! 報償が欲しくないのか!」
 疲労や傷を感じさせない声を張り上げ、威風堂々とした立ち姿で威圧する。血気にはやった敵兵が飛び込んできたのを好機として、片方の剣で武器を防ぐと同時にもう片方で命を奪う。華麗な動作だった。
「俺はまだ返り血を浴び足りんぞ! この外套を貴様らの血で赤く染めてみろ!」
 いくらかはヴァン自身の血で染まっているが、さも全てが敵兵の返り血であるというように血染めの外套を誇示する。
 何人かは果敢に挑んできたが、全ては外套の染料と化した。そこで敵兵の士気は尽きた。
 その後、一時間も経った頃にはヴァンの目につく範囲での戦闘は全て終わっていた。
 ヴァンを始め、兵士たちは何とか存命した騎士の元へ集まっていた。
「何人残った、誰がやられたのだ?」
 兵士たちがお互いの顔を確認して誰がいない、誰が死んだのを見たと報告し合っている。ヴァンは兵士たちの姿を見回してから、昨夜の少年兵がいないことに気付いた。
「おい、あの坊主はどうした」
「あのガキですか? さあ……」
「そういや俺あの新入り名前も知らねえや」
 兵士たちの態度は冷たいものだったが、ヴァン自身も少年兵の名を聞き忘れていた事に気付く。
「やられてましたよ」
 耳に入った言葉が胸を貫く。
「あの辺りで、背後から……」
「背中を合わせろと言っただろう!」
 激昂してしまったが、昨夜の様子から想像力を働かせればこうなるのは分かっていた。騎士を守るという仕事さえ無ければ彼自身が少年兵の背中を守ってやるつもりだった。
 兵士が指さした所へ駆け寄ったヴァンの目に飛び込んできたのは、瀕死の少年だった。
 片膝をついて最期を看取る。
「オッサン……観てたよ、強いなぁ」
「喋るな馬鹿もん」
「意外と、アンタが告死の翼じゃないの」
 力なく笑う。目からは生気が消えかかっている。
「飛びたかったなぁ」
「跳べばいい。力や金が無くても、勇気さえあれば飛べるさ。小鳥は巣立ちの時に勇気を持って巣から跳ぶから飛べるようになるのだ」
「ああ、金も力もいらなかったのか……教えてよ」
「お前ならいずれ自力で気付いていた」
「いずれが、もうないんだよね」
 少年は笑って言うが、その言葉はヴァンの心に鋭く突き刺さった。
 ヴァンが少年だった頃、なぜ親代わりの傭兵がヴァンを庇って散ったのか、その心が痛いほど理解できた。
「オッサン……」
「もう喋るな」
「やだ。あのさ、風の丘、知ってる?」
「聞いたことはある」
「俺、飛びたい、だから、そこ……に」
 最期の言葉は途中で消え入るように細くなっていった。
「ああ、わかった」
 ヴァンが力強く頷くと、少年はすきっ歯を見せて笑い、そのまま息を引き取った。
 いつの間にやって来ていたのか、騎士がヴァンの背後で絶句していた。
「生き延びろよ……」
 背中越しに騎士へ呼び掛ける。
「あんたの命はこの子の犠牲の上にある」
 それは真実の一端でしかない。ヴァンもそれは分かっている。守ってやれなかった事実を騎士に責任転嫁したに過ぎない。だが、騎士は黙って頷いた。

14日目(ノーカット版)8196文字

 王都ミグ・ラムの郊外を流れる小川沿いの商店街は、王侯ではなく庶民に向けた様々な商品が揃っていて人気があった。
 ヴァンドルフ・デュッセルライトは露店で買った昼食を手に、適当な長椅子を探してさまよっていた。
 はしゃぐ子供の声が耳に入る。そちらに目をやると、丁度良い具合にくたびれた長椅子があった。ヴァンは小川に向いて長椅子に腰掛けると、たわむれる子供たちを眺めながら平和な昼食を楽しむことにした。
 ガキ大将らしき子供が年少の子供を蹴り飛ばす。泣いている子供をあやそうと、別の子供たちが近寄ろうとするも、ガキ大将が睨むと畏縮してしまった。
「ガキだな……」
「だからガキ大将というのだよ」
 ヴァンの呟きに応じる声。
 振り向くと、真っ赤なローブを着た初老の男が立っていた。
「ホリン……」
 赤衣の魔導師、赤き賢者ホリン・サッツァ・トラウム。中央大陸で名を馳せる蒼空の賢者サイゼルバン・ドグマシィと並んで称される希代の魔術士であった。
「久しいね、デュッセル君」
 若々しい笑顔をヴァンの渋面に向ける。
「デュッセルライトだ。それに貴様、俺のことは敬意を込めてヴァンと呼ぼうとか言って別れた癖にもう忘れたか」
「おや、そうだったか。最後に会ったのが随分前だったからね。何年前だったかな?」
 とぼけた声で問うてくる。ヴァンはため息混じりに首を振った。
「五年だ」
「六年と三十八日だよ」
「貴様っ!」
 殺気のこもった眼光をしてやったりという笑顔で受け流す。
 ヴァンは賢者を無視することにした。
 少年たちの方を見ると、ガキ大将が七つほどの少年に言い負かされて退散しているところだった。
「ほう、暴力ではなく口で言い負かしたか」
「理想的だね」
「独り言だ」
「私もだ」
 再び賢者を睨み付ける。しかし賢者は素知らぬ顔で子供たちを見ていた。
「ホリン。貴様何故ここにいる。貴様は中央大陸経由で東に渡ると聞いていたが」
 賢者は子供たちを見て頷いていた。
「聞いているのか?」
「独り言だろ?」
 視線はあくまでも子供たちを見ている。
「名前を呼んだが」
「聞き間違いだろ?」
「ふざけているのか?」
「当たり前じゃないか」
 ヴァンが激昂する瞬間、ホリンの目がヴァンの目を捉える。
「最初に会ってから十一年か。するときみは三十……」
「三十四だ」
「そう、三十四歳。随分と成長したものだね。初めて会った頃のひよっ子が懐かしいものだ」
 ホリン・サッツァの言葉にヴァンの記憶が遠い日にさかのぼる。
 それはヴァンドルフ・デュッセルライトが二十三歳の秋の出来事。

       †

 夜闇に紛れて動く影ひとつ。
 身に纏う物は全て黒く、髪も目もまた黒かった。
 傷だらけの顔には暗褐色の泥を塗り、手に持った双剣も黒く塗られて月明かりを封じ込めている。
 音も立てずに茂みを動く。
 木々を揺らさず木蔭を動く。
 鳥も鳴かさず、虫の音を止めず、夜の闇を征く。
 目指す明かりは王城の灯。
 近づく見張りをやり過ごし、意識の隙間を縫って素早く城壁を突破する。
「他愛ない」
 油断はしない。
 見つかれば死が待つ危険な任務だ。
 傭兵を雇っておいて、暗殺をしてこいという依頼には呆れたものだが、やり甲斐はある。
 少々自棄になっていることは否めない。
 告死の翼と呼ばれた双剣将軍アズラス、その後継者とも称される双剣の傭兵、それが彼、ヴァンドルフ・デュッセルライトだった。
 かつてアズラスに敗れ、再戦を挑んでもまた敗れ、その後も幾たびか顔を合わせ剣を合わせ、未だに勝てないままであった。そして、勝つ機会は永久に失われてしまった。
 遥か遠くの国から猛将アズラス病死の報が届いたのは一週間前のことだった。
 既に様々なギルド筋では真実であると言われ、吟遊詩人作ったアズラスを讃える歌までもが伝わってきた。
 耳を疑ったヴァンは己の知る限りの情報網を使って真偽を確かめたが、国葬が行われたという報を信頼できる人物から聞いて絶望した。
 仲間の仇であり、剣士としての目標であり、遥か高みに座す宿敵でもあった。
 何度挑んでも勝てず、その度にとどめも刺さずにまた来いと突き放し、時には同じ軍で共に闘い、酒を酌み交わしたことさえあった。
 孤児だった彼を拾って育ててくれた傭兵団がアズラスの双剣によって皆殺しにされて以降、ヴァンの人生はアズラスに打ち勝つことのみを目標としていた。
 その宿敵を打ち負かしたのはヴァンではなく、ヴァン以上の使い手でもなく、流行病という見えざる敵だった。
 唐突に目標を失ったヴァンは、己の進むべき道が見えなくなった。
 今回の暗殺依頼を引き受けたのも、そんな状態だったからだろう。
 城壁の中までは安全に侵入できた。
 庭園を潜みながら進み、王城まで接近する。
 見張りの気配がしない一画を探し当てて周囲を見渡す。
「あれを使うか……」
 二階のテラスまで届こうかという高い木を見やる。
 木に登るのは危険が伴う。
 物音もすれば、枝葉も揺れる。登っている最中は無防備になる。高いところに行くということはそれだけ見つかりやすくもなる。
 だが地上や一階でうろうろするよりは、見張りの気配がしないうちに木から二階へ移った方が仕事がしやすい。
 狙うは王の首ひとつ。
 他の者は誰も殺さずに、王だけを仕留められれば名も上がる。
 小国ながらも人望が厚く高名な王だ、常に王を慕って高名な客人が入れ替わり立ち替わり滞在するとも言われている。客人の中には英雄と呼ばれる人種もいるだろう。ならば、英雄も気づかぬうちに王の首を獲れば……ヴァンはそう夢想した。
 己の名を上げることに執着するわけではない。
 ただ、アズラスという目標を失った今、名でも上げてみるかと気まぐれを起こしただけだった。
 木を見上げる。
 揺れが小さそうな太い枝を見つけ、跳躍して掴み、身体を引き上げる。
 太い枝の上で周囲を再度見渡して、誰もいないことを確認する。
「えらく手薄だな」
 楽な仕事になりそうだった。
 幹をよじ登り、枝に乗り、二階のテラスに飛び移れる位置まで登り切る。
 まだ見張りの気配はしない。
 テラスの向こうに見える部屋を凝視する。
 明かりはついていない。人の気配もない。
「行けるな」
 呟くとヴァンは枝を蹴ってテラスへと音もなく着地した。
 すぐさま姿勢を低くして壁に駆け寄り、周囲の気配を探る。何も感じない。
「危機感のないことだ」
 苦笑して、テラスの窓を調べる。
「鍵もかかってないのか。正気を疑うな」
 音もなく窓を開けると、ヴァンは王城の中へと侵入した。
 その瞬間である。
「かかっていないのではなく、かけていないのだよ」
 男の声が部屋に響く。
 同時にヴァンが侵入してきた窓が閉まり、部屋の中に明かりがともった。
「罠かっ!」
「罠さ」
 狼狽するヴァンの前に現れたのは、冗談のように赤いローブを身に纏った壮年の男だった。
「赤いな……」
「そういうきみは黒いね。いや、青いのかな?」
「貴様……!」
「やはり青い」
 怒りをあらわにするヴァンを見て、赤衣の男は声を押し殺して笑った。
「頑張ったきみの名前を聞かせてくれるかな?」
 余裕を見せる男の言葉を無視して、ヴァンは部屋を見回した。
 赤衣の男の他は誰もいない。
 間合いは多少遠いが、相手は魔術士だ。詠唱の隙の間に双剣を届かせることが出来る。
「怖い顔をしているね」
 こちらの意図を読み取ったのか、男は笑みを崩さぬままローブの中へ手を差し入れた。同時にヴァンは黒塗りの双剣を構えて走り出した。
 男の手が何かをつかんでローブから出てくる。恐らく詠唱に必要な魔石だろう。
(紙?)
 だが男が持っていたのは紙片のようだった。
(構わん、詠唱などさせん!)
 ヴァンの間合いに入る。
「雷呪・開」
 男の呟きと同時に紙片から閃光がほとばしる。
 驚嘆の声が出るよりも早く、ヴァンの口から出たのは苦痛の叫びだった。
「雷呪・閉。いきなり斬りかかってくるとは野蛮だね。私はきみの名前を聞いただけじゃないかデュッセル君」
 雷撃の痛みから解放されて片膝を突く。
(なんだ今のは!? 魔法か? あんな魔法俺は知らんぞ!)
「驚かせてしまったようだね。それできみは何をしに来たのかね?」
 痛みは随分と引いた。ヴァンは立ち上がると赤衣の男を睨み付けた。手にはまだ先ほどの紙片を持っている。詰めたはずの間合いはまた離されていた。
「無論、斬りに来たに決まっているだろう」
「誰を?」
「阿呆か貴様は!」
 ヴァンが再び疾駆する。
 男も素早く紙片をヴァンに向ける。
「雷呪・開!」
 雷光が発する前にヴァンは横に飛び退いた。しかし雷光は軌道を曲げ、剣を通して再び彼を雷撃の苦悶へといざなった。
「鉄製の剣なんか持っていたら雷が落ちるのは当然じゃないか。甘い甘い。雷呪・閉」
 雷撃がやむ。
「きみは見た目通りに好戦的なのかね? もう少し理知的だと聞いていたのだが。まあいい」
 ヴァンは苦痛に顔をゆがめながら立ち上がった。
 今度は一刀を投げつけて斬りかかる、そう活路を見いだした瞬間、男がニヤリと笑った。
「風呪・開、連、縛」
 上下左右四方八方から凄まじい勢いでヴァンへ向かって風が吹きつける。
 一歩踏み出すどころか、指先ひとつ動かすことが出来ない。
「すまんね、最初に言ったとおりこの部屋に鍵をかけていないのはわざとなのだよ。きみを誘い込んで、壁や床、天井に張り付けた風符を同時に開いて縛り付ける。前から試そうとは思っていたのだが、うん、やはり効果的だったね」
 ヴァンは呪詛でも吐いてやろうかと思ったが、あまりにも強い風のせいで呼吸さえできなかった。
 腹に当たる暴風が容赦なく肺を圧迫し、強制的に肺の空気がからにされてしまう。
「さて、誰を狙ってきたのか言ってみたまえ。こう見えて私も有名人でね、月に数度は狙われるのだよ」
 赤衣の男は余裕たっぷりにそう言った。
 これほどの魔法を使うのに無名なはずはない、ヴァンもそれは認めようと思ったが、相手が何者かを考える前に意識が遠のいてきた。
「どうした、言ってみたまえ。………………様子がおかしいな」
(阿呆が!)
 最後の力を振り絞って意識だけで罵倒する。そこに至ってようやく男は事情に気づいたらしかった。
「こりゃいかん、風呪・放、連、閉」
 風が止む。ヴァンは手さえ動かせずに顔から地面に倒れ込むと、空気を求めて喘いだ。急に空気が入ってきたせいでむせるように咳き込んでしまう。
「落ち着きたまえ、水呪・開、閉」
 一瞬、だが大量に、ヴァンへと水が降り注ぐ。文字通り冷や水を浴びせられた形となってようやく、ヴァンは男を睨み付けることに成功した。
「デュッセル君は本当に元気だな。その様子だと狙いは私じゃなかったようだね。どうやら今私も標的に選ばれてしまったようだが」
「当たり前だ……」
「おお、喋れるようになったか。すまんね、服がびしょ濡れじゃないか。乾かすかい?」
「変な札ならお断りだ、乾かすのではなく燃やすつもりだろう」
「まあ確かに火力の調整はまだ考えてないね」
 ヴァンは肩で息をしながら天井を見上げた。三枚の紙片が貼り付けてある。恐らく、風、水、火が出るのだろう。
 天井に視線を這わせて別の位置を見ても、他に札は貼っていなかった。
「誘い込まれたか」
「誘い込まれたね」
 男は楽しそうに笑っている。
「今のは魔法か」
「紛れもなく。千五百年ほど前に潰えた魔法大系のひとつだね」
 大それたことをさらりと言う。
「上手く解明できないもんだから、自分でそれっぽく作ってみたんだけども、やはり微調整が利かないね。いやはや、ご迷惑を」
 気勢が削がれそうになるのを内心必死に立て直して睨み続ける。
 男は紙片をローブの内側に戻すと、魔石を取り出した。
「さて、どうだろう。私としてはこのままお話をしてさようならというのをおすすめしたいが、きみの気はすみそうかな?」
「すむと思うか?」
 立ち上がって呼吸を整える。
「その言い方だと無理そうだね」
「無理だ」
 ヴァンは紙片を納めたのを好機としてみたび突進した。魔石を用いる魔法であれば詠唱が必要となる。
「リィ・フォウズ」
 魔術士が詠唱を始めた。だが既にヴァンは間合いに入っている。
「死ねぃ!」
「ガインドフェウシルツァー」
 渾身の力を持って振られた剣が見えない壁に弾かれる。
「なにっ!?」
 驚きながらも弾かれた反動を利用して二刀目を振るう。
「リィ・ファインドピロジャスト」
 それも弾かれる。
「防御魔法ではないのか!?」
 防御魔法にしても詠唱の完成が早すぎる。いや、それ以前にまだ男は詠唱の途中だった。
「スィルフォンド」
 男の詠唱がゆっくりになる。その目は鋭くヴァンに問いかけていた。まだ続ける気かと。
「退けん!」
 双剣を同時に振るう。弾かれる。
「ヴァリム」
 言い聞かせるような詠唱だった。
「これなら!」
 ヴァンは持てる力の全てを振り絞って最後の技を繰り出した。
 だが、それも阻まれる。
 男を包む見えない障壁は、最初のものよりも確実に硬く分厚くなってきていた。
「ドルガイサンド」
 ため息をつくように男が呪文を紡ぐ。
 その雰囲気でヴァンは悟らざるを得なかった。男は詠唱を終えたのだ。
「………………くそっ!」
 ヴァンは吐き捨てると双剣を床にたたきつけた。
「俺の負けだ、好きにしろ」
 悔しそうなヴァンに、男は優しく微笑みかけて、言った。
「フュラフィス」
「っ!」
 身構えるヴァンの髪が風になびく。
「身構えずとも大丈夫、今のは詠唱解除のための詠唱だよ」
 男がヴァンに手を差し伸べる。その意図が解らずヴァンが男の顔を見ると、相変わらずの笑顔だった。
「言ったろう? 私としてはこのままお話をしてさようならというのが良いとね。ようこそお客人、人目を忍んで会いに来るほど私と話がしたかったと見える」
 いたずらをした悪ガキのような笑顔で男は名乗った。
「私はホリン・サッツァ・トラウム。旅の魔術士だ。よろしく、デュッセル君」
「貴様が赤き賢者か……俺はヴァンドルフ・デュ――」
 差し出されたホリンの手を握ろうとした手が止まる。
「ようやく気づいたかね? 遅かったなぁ」
「貴様、なぜ俺の名を知っている」
 引っ込めようとしたヴァンの手が強引に掴まれる。
「いやいや、双剣使いの傭兵さんの噂はかねがね聞いていたよ」
「嘘だな」
「うん、嘘だ」
 この期に及んでまだいたずらな少年の笑みを浮かべている。ヴァンはその手を振り払うと背を向けて退出しようとした。
「いやいや待ちたまえ待ちたまえ。冗談だよ。デュッセル君の噂は聞いているさ」
「双剣を使う傭兵は俺だけではない。俺の噂を知っていても特定は出来んはずだ」
「顔の傷は?」
「同じことだ、特定には至らん。それに今の俺はどう見ても暗殺者だ、傭兵ではない」
「うん、そうだね。無理があった」
 ホリン・サッツァは部屋の奥へ歩いて行くと、高級そうな椅子に座った。よく見ると机の上には紅茶が二つ置かれていた。ホリンはもう一脚の椅子を指し示すと、座るようヴァンに促した。
 ヴァンは完全に相手の調子に巻き込まれてしまっているのを自覚していたが、ここまでくれば乗ってやろうとばかりに席に着いた。
 二人分の紅茶や、天井などに張り付けてある仕掛けを見れば、完全にヴァンが一人でこの部屋へやって来るとわかっていたのだろう。
「まあ話は簡単さ。デュッセル君のことを知る友人から特徴を聞いていたのと、王の暗殺計画を耳にしていたこと、それに加えてデュッセル君がそっちに付いているとわかったこと。これだけ揃えばね。後はわざと手薄な箇所を作ってしまえば、きみならそこを突いてくるだろ?」
 ヴァンは紅茶を口に運ぶ。まだ温かかった。
「いやぁ、きみが諦めてくれて助かった。唱えたはいいが、あの魔法そのまま撃ったら王城が半分吹き飛ぶことを忘れていてね。必死で退いてくれ退いてくれって目で訴えてたのに、きみは言うに事欠いて『退かん!』だからね。吹っ飛ばしてやろうかと思ったよ」
 楽しそうに笑いながらホリンも紅茶を飲んだ。
「……誰から聞いた」
「ああ、アズラスだよ」
 陶器のぶつかる音が鳴る。ヴァンは思わず目を見開いてホリンを凝視した。
「歳も近いし、紅茶の趣味が同じでね、良い友人だったよ」
 過去形。ホリンもアズラスが死んだことを知っているのだ。ヴァンは様々な言葉が浮かんでは引っ込みを繰り返し、ようやく形になった言葉を絞り出した。
「貴様ならアズラスの病を癒せたのではないのか?」
「もちろん。薬神コヨの神官たちと何日も何日も試行錯誤を重ねて薬を作ることに成功した」
 飄々とした口調を崩さずに、あっさりと認める。
「ならばなぜ!」
「アズラスの口癖を知っているかね? いや、きみは知っているはずだ」
「……憐憫は美徳」
 それは、ヴァンを育てた傭兵団がアズラスと対峙した際の言葉。傭兵団が全滅した後に生き残ったヴァンに向けられた言葉。
「そう、だから彼は市井の人々に薬を優先するように言った。後少しで彼のぶんが間に合いそうだったんだがね、残念だ」
 ホリンの顔から笑顔が消えていた。
 誇りや信念を尊重した結果、死んでしまう。よくある話ではある。名誉を重んじる貴族などでは特によくある話だ。だがそれで目標を失ってしまったヴァンとしてはやるせない。
「アズラスから伝言だ。『今度は目の前のにやけ面を叩きのめしてみろ』とね」
 そう言ってホリンはまた笑った。

       †

 思い出の中のホリン・サッツァ・トラウムは無邪気な天才だった。
「いやはや、若かったなぁきみは」
「お前もだろうジジイ」
 厭味を込めて初老の賢者に毒を吐くと、賢者は顔を輝かせた。
「おお、わかるか、そうだよ爺なんだよ。ほれ、見てみたまえ」
 意味が解らず、ホリンの見つめる先を見る。
 先ほど口で追い返されたガキ大将が子分を引き連れて戻ってきていた。口喧嘩で勝った少年がまた口で戦おうと何か言っているようだが、ガキ大将は無視して暴力に訴えた。
 ホリンは何を伝えたいのだろうと思いながら見ていると、小突かれた少年はめげずに立ち上がってまた口で勝負を挑んだ。どうやら腕力に訴えない見上げた少年らしい。横目に賢者を見るとしきりに頷いている。
 また少年を見ると、やはり小突かれていた。少年は頭に来たらしく、それでも暴力ではなく一気に口で捲し立てると――ガキ大将が燃え上がった。
「こらタトゥス! 暴力はいかんと言ったろう!」
 ホリンは突然叫ぶと、手を振って何らかの魔法を掛けて炎上するガキ大将を消火した。
 叱られた少年はヴァンたちに駆け寄る途中で、川辺に脱ぎ捨てていた赤いローブを拾い上げると胸を張って反論した。
「僕は手を挙げてない! 爺ちゃんが口で戦えって言ったから口で呪文を唱えただけだ!」
「……爺ちゃん? ホリン、お前まさかこれ孫か?」
「うむ。似てるだろ?」
「……ああ、お前に似てタチが悪そうだ」
 ヴァンはため息をついて首を振ると、すっかり冷めてしまった昼食を口に運んだ。

23日目4842文字
 初めてその男に会ったのは、彼が少年の頃だった。
 ぬかるんだ戦場、空を覆う灰色の雲、無能な雇い主と無謀な上官、今でも鮮明に思い出せる。
 ヴァンドルフ・デュッセルライトを拾い、育て上げた有能な傭兵団が壊滅した日だ、忘れるはずがない。
 無能な雇い主のおかげでヴァンたちは、敵味方の区別が付かない正規兵に背後から襲われ、そんな正規兵では勝てない練度の敵兵と正面から戦う羽目になっていた。
 七十人近くいたヴァンの傭兵団も十七人にまで減っていた。
 彼の親代わりだった青年と傭兵団の頭領が撤退を決めたその時、その瞬間を今でも夢に見る。
 前方から脇目もふらずに逃げてくる正規兵、異変を察知して緊張が走る十六人の傭兵、そして事態が飲み込めなかった十七人目の自分。
 屍山血河を踏み越えて現れる、一騎の人馬。
 黒い馬、黒い鎧、黒い外套、黒い髪、黒い瞳、黒い――双剣。
 黒衣の双剣将軍、アズラス・スルーシー。
 それが告死の翼と恐れられる敵将の名だった。
「黒衣の双剣将軍様か」
 舌打ちしながら呟いた頭領の顔を覚えている。成長した今ならわかる、あれは絶望的な状況を何とか打破しようと考えている顔だ。何人もの命を預かった将の顔だ。
「敵将のお出ましだ、手前ぇら戦いたいか逃げたいかどっちだ!」
 今ならわかる、頭領には最良の選択を考える時間がなかったのだ。最良を選び取る能力が無かったとは思わない。思いたくない。
 負け戦にもついてきた十六人の部下の心情を尊重したかったのかも知れない。
「やってやろうぜ!」
 グラッツおじさんが叫ぶ。この人は傭兵よりも盗賊向きだった。気の良い馬鹿だと思うのは昔から変わらない。だが傭兵として生き残るには冷静な思考が足りなかった。
「あいつを倒しゃあ堂々とこの戦いを抜けれるってもんだ!」
 チロームおじさんが叫ぶ。本来臆病なのにそれを乗り越えるためにわざと危険や無謀を選び、生き延びて来た人だった。この日まではその選択は間違っていなかったのだろう。
「野郎一騎だぜ! 部下も連れないで特出する馬鹿から逃げたとあっちゃ傭兵廃業だ!」
 キシムフィークの兄ちゃんが叫ぶ。祖父の代で没落した騎士だけあって、騎士や正規兵に対する敵視が激しい人だった。でも普段は優しく物知りな良い兄貴分だった。
 残る十人も戦意を奮い起こしていた。少年だったヴァンもそれに吊られて戦意を上げた。親代わりであり兄代わりであったフェスおじさんが一瞬困った顔をした理由も、今ならばわかる。フェスターはこの中で頭領と同じかそれ以上の傭兵の資質を持っていた。だから敗北と全滅が見えていたのだろう。だが彼も頭領と共にアズラスへ向き直った。それが彼の選択だった。
 ときの声を上げて殺到する十七人の傭兵を相手に、馬上の将軍は臆することなく双剣を抜いた。
 その時ヴァンは確かに双剣将軍に見とれていたのだろう。
 戦場という空間にこれほどはえる男もいまい。特にこの曇天の暗い戦場に、全身漆黒の人馬が一騎のみ君臨しているというのは圧倒的な存在感だ。アズラスが現れる直前に頭領が言っていた「敵将が悪すぎる」という言葉を、一目見ただけで納得できた。
 チロームが斧を振りかざす。
 グラッツが愛用の両手剣を振りかざす。
 キシムフィークが、祖父の遺した由緒ある剣を構えて突進する。
 皆を煽動した三人が最初にアズラスに襲いかかったのだ。
 悪夢が始まる。
 黒馬が後ろ足で立ち上がり、そのままチロームの頭を踏みつぶす。ひしゃげた頭から脳漿が飛び散る前に、アズラスの双剣でグラッツとキシムフィークの首が飛んでいた。
 広げられた両手、空に血で弧を描いた双剣、それはまるで翼のようだった。
「我が双剣は告死の翼」
 戦慄が駆け抜ける。
「貴公らが我に剣を向けるのであれば、我ら告死の天馬となって貴公らに等しく死をくれてやろう」
 それがヴァンドルフ・デュッセルライトとアズラス・スルーシーの初めての邂逅だった。

 二度目の邂逅は四年後、ヴァンが十六歳になった頃の戦場、大部隊同士が激突する乱戦の中だった。
 四年前にアズラスと一騎打ちの末に敗北し、生かされた屈辱。負かした少年に双剣使いの才があるなどと焚き付けて見逃した慈悲という名の傲慢、そのつけを払わせてやると心に決めていた。毎日アズラスに勝つ方法を考えてきた。考え初めて一年で、双剣という手段を選んだ。
 脳裏で双剣将軍の動きを思い出して繰り返し再現するうちに、次第に憧れている自分に気づいてしまい、憧憬を誤魔化そうとアズラスの言った「良い双剣使いになれる」という言葉を盾に、強くなる手段として双剣を選ぶんだと納得させる。アズラスを代名詞である双剣で破り、双剣を己の代名詞に変えてくれると奮い立ち、毎日毎日双剣を振った。その手本は脳裏に焼き付いたアズラスの動きだった。
 乱戦を駆け抜け、黒い騎影をを探す。
 アブカント王国の騎士で黒を身に付けられるのはアズラスただ一人。皆アズラスに敬服して黒は付けないようになったと伝え聞く。四方八方から襲い来る敵兵をしのぎながら視界の外れを横切った黒い騎馬を意識する。
 顔だけでそちらに向き直り、ヴァンは思わずアズラスの名を叫んでいた。
 双剣将軍に向かって一直線に突進しながら敵兵を斬り捨てる。ヴァンの叫ぶ声に気付いたアズラスが声の方に向き、破顔した。
「あの時の少年か。そうか、双剣使いになったか!」
 心底嬉しそうな声だった。味方の騎士の突撃が一瞬遅かったらヴァンは気勢を削がれていたかも知れない。双剣将軍は突撃してきた騎士を斬り伏せるとまだ十六の傭兵に向き直る。
「この戦いもそろそろ終わる。余興に相手をしてやろう。確かヴァンフォルフだったか?」
「ヴァンドルフだ!」
 怒ったように訂正したが、名前を間違えられる事は日常茶飯事だ。そもそも十六歳の傭兵など、間違っていても名前の輪郭を覚えて貰っているだけで有り難い。それが、四年前に一度会っただけのアズラスに覚えられていたという事実が気分を高揚させていた。
 敵将を認めたヴァンの同業者たちが一斉にアズラスへと雪崩れ込む。勝負が邪魔される、そう思った瞬間、アズラスの馬が後ろ足で立った。刹那に四年前の光景が甦る。果たして黒馬は群がってきた傭兵の頭を踏み砕いた。
 四年前と違ったのは、馬が立ったと同時にアズラスがあぶみを外していたことだろう。馬が前足を地面に付けるとその反動を利用してアズラスは跳んだ。いや、その場にいた者ならば飛んだと言っただろう。
 告死の翼の異名を持つ双剣が大きく羽ばたき、着地と同時に傭兵の首が宙に舞う。血で翼が描かれたのはほんの一瞬にしか過ぎない。だが、敵も味方も皆その姿を眼に焼き付けていた。
 翼をたたんで立ち上がった黒衣の双剣将軍の前には、返り血で黒ずんだ姿の双剣の少年。
「アブカントの双剣将軍、アズラス・スルーシーだ」
「フェントスの双剣傭兵、ヴァンドルフ・デュッセルライト!」
 向き合い、名乗るだけの短いやり取り。だが彼らが剣を交えた時間はもっと短かった。
 十五秒にも満たない激闘は撤退を知らせるかぶら矢によって終了した。
 ヴァンの雇い主の本陣がアズラスが率いる軍の別働隊に急襲されたのだ。アズラスは最初からこの展開を知っていたのだ。だからこそ作戦が成功するまでの余興として少年と戦ったのだろう。ヴァンは己と相手との格の違いをまざまざと見せつけられた気分だった。
 こうして二度目も敗北という形で幕を下ろした。

 それからもアズラスとまみえることは何度もあった。だが直接剣を交えたのは二度目が最後だった。
 ある時は同じ戦場にいながら遠目に見るしかなかった。またある時はお互いに存在は認識していても戦況が一騎打ちを許さなかった。アズラスと同じ陣営で戦ったこともあった。
 何度も遭遇するうちに、ヴァンは敵意を忘れていった。最初から敵意よりも敬意や憧れが大きかったのだ。それを認めたくないがゆえの過剰な敵意だったと、成長して初めて認めることができる。
 アズラスもヴァンに双剣使いの共感めいた心情を持っていたようで、同じ陣営の時や平和な時などは頻繁にヴァンを食事に招こうとした。周囲に止められたり、ヴァンが謝辞することも多かったが、何度かは同席して双剣術についての議論やヴァンが各国の戦場を巡って得た見聞を聞きたがった。
 ヴァンとアズラスが最後に会ったのも、そういう食事の席だった。
 最初の邂逅から十年が経ち、ヴァンは二十二になっていた。アズラスも最盛期を過ぎ、直接剣を握って戦っても以前のような無茶はしないようになっていた。この頃にはヴァンもアブカント王国では知らぬ者がいないほど名が知れ渡っていた。傭兵としての評判もあるが、何よりも双剣将軍の後継者の双剣使いとして認知されていたのだ。別にアブカントに仕えるわけでもなければ、将軍になってくれと言われたわけでもない。だが戦乱の時代にアブカントを守り続けてきた双剣将軍は稀代の英雄として崇められていたのだ。
 他の国ならば貴族や有力者たちから妬まれ潰されていたかも知れないが、この時代のアブカントにはお人好しの有力者ばかりしかいなかった。だからこそ戦乱の時代に滅亡の恐怖を味わい、それを告死の翼という名の庇護の翼で守り続けたアズラスが讃えられたのだ。

 そのアズラスが死んだという噂を聞いたのはヴァンが二十三歳の秋だった。
 病死だと言う。そうだろう、奴が自分以外の何者にも負けるはずがないとうそぶきながら、ヴァンは呆然とする心をどう扱って良いのか混乱した。
 アズラスの友人だという偉大なる賢者ホリン・サッツァの口から直接アズラスの死を告げられ、またアズラスが今度は眼前に立つホリンに勝てるよう挑み続けろと言い遺したと知り、最早埋めることの出来なくなった器の差を感じ涙した。

 それから二十年近くの時が過ぎた。
 アズラスが守りきったアブカントは戦乱の時を耐え抜き、平和な国として歴史を重ねている。
 告死の翼は死後に国の守り神として更に崇められ、最早神格化されて久しい。毎年命日には慰霊祭が行われ、五年ごとには大祭が執り行われる。神格化の速度は年々加速し、人々の記憶の中に残る真のアズラスと徐々にかけ離れて行っていた。
 ヴァンは十数回目の慰霊祭以後この国には寄りついていないが、今年は国王から直々に大祭の式典へ出席を促されては出るよりなかった。
 久しぶりに訪れたアブカントは随分と小綺麗になっており、白を基調とした大通りと街並みが平和を感じさせた。
 腰に双剣を下げた黒衣の傭兵が白い大通りを歩く。彼を知る者は深々とお辞儀をし、彼を知らぬ者にはアズラスの幻影と重ね合わせたのか拝んでくる者までいた。
(アズラス、貴様が守り抜いた国が徐々に姿を歪めている。正視に耐えんぞ)
 そう独りごちる彼も、近隣の国の王宮に招かれ客人として飼い殺されている。己も歪んでいると思えるからこそ、かつて憧れた双剣将軍が愛した国の歪みが余計に目についたのだ。
 王城でアズラスの妻から渡されたのは、アズラスの紋章が入った白い式典衣装だった。白いローブの上から黒い前垂れをかけ、その上にまた白い短い外套を付ける。前を留める装飾も外套のふちも金糸が使われている。
 いくら王と未亡人の頼みでもこれは遠慮したかったが、アズラスの遺言でもあると聞かされては仕方がなかった。
(これが最後だ。もう二度と白は着んぞアズラス!)
 鏡に映る似合わぬ姿を睨みながら、ヴァンはもうまみえることは無い宿敵を想った。

24日目4820文字

 鏡に映った自分を見てため息をつく。
 ヴァンドルフ・デュッセルライトは黒い衣服を好む。選択の余地がなかった少年期は別として、いっぱしの傭兵となってからは常に黒い上着を着るようにしていた。
 全身を黒で包むようなことはせず、大体は上着や外套のみを黒とする事が多い。
 ヴァンが幼き日より仲間の仇として、理想の剣士として、その背を追い続けてきたアブカントの猛将アズラスが全身を黒衣で固めていたのが原因だろう。アブカントの騎士はアズラスに敬意を表して黒を身に付けることを避ける習慣があり、それはアズラスが死んで二十年が経つ今も変わっていない。ヴァンが黒を全身にまとわないのも、またアズラスへの敬意の表れなのかも知れない。
 そのヴァンが、全身を白で包んでいる。
 白いローブの上から、膝まで垂れる黒い前掛けに首を通す。その上から短い白の外套を羽織る。ふちは金糸で飾り付けられており、黒い前掛けには翼が描かれている。
 告死の翼。アブカントの双剣将軍アズラスの異名をかたどった紋章である。
「似合わん」
 鏡に映る自分に毒を吐く。確かに似合っていない。
「そう仰らずに、どうかお願いします」
 背後から掛かった声にヴァンは若干ばつの悪そうな顔を見せた。
「しかし奥方、これは本当にアズラスの遺言でしょうか?」
 鏡越しに老婦が頷く。二十年前に病死した猛将の妻だった。
 告死の翼が最も活躍した三十年前は、中央大陸中で大小を問わずに戦乱が勃発していた。当時のアブカントは奇跡的にお人好しばかりが国政に携わり、外圧をはね除ける事も諸外国を丸め込むこともできない程度の政治力しか持たなかった。アズラスが英雄として迎えられたのは、そんな国を双剣で守りきったからだ。全身を黒で包み、大仰な台詞回しと立ち居振る舞いで戦場にいる全ての者を威圧する双剣将軍、そんなケレン味の塊のような酔狂な男を演じたのもアブカントには自分がいると外敵を牽制するための演出だったのだろう。
 少年だったヴァンは時には敵として、時には味方として彼と戦場に在り、気付けば十年が経って酒を酌み交わすような関係となっていた。
 そんなアズラスが病死したと聞いたのが二十年前。彼は絶対的な英雄として国の象徴となり、命日には祭りが行われ五年ごとには大祭が行われてきた。彼が次第に神格化され歪められていく事に嫌気がさしたヴァンは、ここ数年アブカントに寄りつくのを避けていた。
 だがヴァン自身、手にした名声に胡座をかぐわけではなかったが、大恩ある王に招かれて近隣の国で賓客として宮殿暮らしをしている現状に己の歪みを自覚していた。だからこそ、アブカントの王から大祭に招かれてのこのこと顔を出してみようという気にもなったのだ。
「まったく、来るのではなかった」
 アズラスの奥方には聞こえないように呟く。いざ数年ぶりに来てみればアズラスの神格化は最早宗教の域に入っていた。式典にしろ貴族にしろとにかく大仰で、ヴァンにはアズラスが戦場で行った大仰な演出の意図がくみ取られずに歪んで受け取られたとしか思えなかった。黒衣の双剣使いというだけでヴァンにまで手を合わせられては気持ちが悪いとしか言いようがない。
 王に謁見すると、アズラスの奥方まで現れて二人してアズラスの遺言だからと彼が遺したという白い式典衣装を押し付けてくる。故人の紋章が入った服を着せられるというだけでも気分の良いものではないのに、その衣装が故人の趣味とはとても思えないものだと尚更に気が重い。
「奥方、この衣装……アズラスは袖を?」
「通したことはございません。取って置きの機会に着ると笑っておりました」
「あの男、上手く逃げたな……」
 婦人を傷つけないために老獪に誤魔化していたのだ。
「主人はもう着れませんので、貴方が着てくださるのを喜んでいると思います」
「ええ、彼も笑って見てくれていることでしょう」
 愛想笑いに自虐をこめて、ヴァンは黒い双剣の勲章を胸に付けた。
「では式典に参りましょう」
「いやはや、楽しみですな」
 弟子には見せれん姿だと半ばやけになりながら愛想笑いを貼り付けて、ヴァンは数万という民衆が待つ大祭の式場に歩を進めた。
 ヴァンドルフ・デュッセルライトが再び孤島へと旅立つ半年前の夏の日であった。

       †

 照りつける天陽が白い王都を輝かせていた。幸いにして湿度は低いのでさほど暑くはない。
 王都の入り口から大通りを真っ直ぐ進むと、この大神殿の大階段に突き当たる。文字通りの巨大な階段だが高さというよりも目を見張るのは横幅だ。式典をする際の演出を第一に考えた設計だが、ヴァンに言わせると平和呆けの一語に尽きる。大通りから大神殿に入り、それを抜けると王宮があるのがアブカント王都の作りだった。
 居並ぶ列席者に目をやると、数年前には見なかった顔がちらほらと見える。中にはアズラスの生前にはいなかった部類の、いかにも貴族という風情の姿も幾人か見受けられた。
「おお、これはデュッセルライト卿ではございませんか」
 馴れ馴れしい声に振り向くと、底の見える笑顔を貼り付けた貴族がすり寄ってきた。周囲の反応や衣服から察すると、身分は高いようだが見覚えはない。
「失礼だが見覚えがない。私のことは知っておられるようだが、貴殿は?」
 正直にそう言うと、相手の笑顔から棘が覗いていた。やはり底が浅い。
「そうでしょうとも、直接お会いするのは初めてなのでいささか礼を失しました。以前デュッセルライト卿がいらっしゃった頃にはまだ執政官の末席だったので、大衆と同じ広場から見上げているだけでございました。お初お目に掛かります、元老の末席に座らせて頂いているギリク・ヨルクと申します」
 この国では元老と国王で政治を執るため、この男は最高位の権力者の一人だということになる。だがヴァンはこの男が気に食わないと感じた。
「ほう、執政官の末席から元老の末席とは、同じ末席とはいえこれは随分な出世ですな。おめでとうございます」
 一礼をしながらさらりと毒を吐く。目に敵意が宿るのを見て小物だと断じる。アズラスの生前ならばこのような小人が権勢を振るうことなど有り得なかったはずだ。そう考えてふと気付く。
「ヨルクというとアズラスの?」
 奥方の旧姓である。
「兄妹というわけではないのです。ただの従兄弟でございます」
 言外に縁故でこの地位を得たのではないという主張と、アズラスと親戚であるという主張を両方入れている。
「いやいや奥方殿と従兄弟とはいえ、立派なアズラス殿の御親類でしょう、謙遜なさることはありません。陛下もやはりアズラス殿の御親類をお手元に置きたくなるのでしょう。それほどアズラス将軍は立派な方でした」
 貴族間での立ち回りに慣れてしまったことに内心で自嘲しながら、ヴァンは元老に怒る口実を与えないようにして特大の毒を叩き付けた。貴族相手に傭兵たちの代表として交渉に立った経験は伊達ではない、舌戦で遅れを取るつもりはなかった。
 元老はにじみ出る怒気を押さえきれずに笑顔を真っ赤にしていたが、自分は有能であるという自負からか、話題を変えてヴァンにすり寄ってきた。よほどこの国では黒衣の双剣使いに幻想があるらしい。
「アズラス様の後継者と目されるデュッセルライト卿に、是非見て貰いたい者がいるのですが……ほれ、サイレン」
 元老の背後から出てきた少年に目を向ける。赤と紫の入り交じった髪の毛が炎のように逆立っている。目つきは悪く、機嫌も悪そうだった。意外なのはそんな風体なのに僧衣を着ていることだ。若干の戸惑いの後、ヴァンは少年の出自に見当が付いた。
「煉一族か」
「おお、流石お目が高い」
 その言葉がまたヴァンの神経を逆なでする。お目が高いとはまるでこの少年を物のように扱っている言いぐさだった。ヴァンは睨み付けようとして、少年自身が既に元老を睨み付けていることに気付いて思わず微笑んでしまった。元老はそれが自分のおだてに乗ったのだと勘違いし、気を良くして余計に舌が回り始めたが、ヴァンが中腰になって少年と視線を合わせたのでしぶしぶ中断した。
「少年、名は?」
「砕煉」
「ほう、サイ・レンか。さしずめ炎の地獄を砕くとでもいった意味か?」
 ヴァンの言葉に、炎の髪を持つ少年は目を丸くして驚いた。
「儂はこう見えて物知りでな。アズラスの友人だった博識爺にいつも下らん説教をされているうちに色々覚えてしまった」
 そう言ってニヤリと笑いかける。
「その子は今私が預かっている子でしてな。式典の際に隣席となりますゆえ、ご無礼を働くかも知れませんが――」
「気にせん、子供は無礼が常だ。元老殿もそろそろ席に戻られる時間でしょう、後は私が面倒を見ましょう」
 思わず普段の口調に戻ってしまったのを途中で直して元老を追い払う。
「嫌な爺だ」
 元老がいなくなった途端に少年が吐き捨てた。
「おおむね同意だが、爺という所は同意しかねるな」
 少年がヴァンを見上げて不思議そうな顔をする。
「奴が爺なら儂は爺予備軍だ」
「俺から見たらおっさんも爺さ」
 砕煉はからかうような笑みを浮かべたが、次の瞬間脳天に落ちた拳骨で笑みは吹っ飛んだ。
「口は慎めよ、破壊僧」
「おっさん、やっぱり俺らのこと知ってるのか?」
「数百年前に南の大陸から西の大陸に渡り、炎の精霊の加護を受けた一族。炎の精霊神を崇め、世界各地に炎の使い方を伝授する伝道者であり傭兵でもある一族。気性が荒く傭兵としても一流なので、破戒僧ならぬ破壊僧と呼ばれ自称する。現在中央大陸に渡っているのは三名。一番幼いサイ・レンはフェントス王国の傭兵ギルド預かりになっていた」
 目を閉じて一息で言い終わると、目を丸くする少年を見た。
「すげぇ、全部当たってら……」
「お褒めに預かり光栄の極み」
 うやうやしく宮廷作法の礼を行う。周囲の貴族達が何事かとヴァンを見たが、気にはしない。
「おおかた傭兵ギルドから見聞を広げるためにアブカントへ派遣されたか?」
「ああ、なんでもアブカントに行けば黒い双剣使いに会えるとかなんとか。面白そうだと思って来てみたら、二十年前に死んでましたとか言われて途方に暮れてたんだけどな」
 誰の差し金かはわからないが、恐らくヴァンと引き合わせたかったのだろう。
「では未来の傭兵たる少年に問おうか。この王都をどう思う?」
「駄目だね、王都の入り口が一箇所しかない上に、その一箇所がデカすぎて守りが薄い。大通りから真っ直ぐ王宮に進むだけならそういう国もあるけど、ここは通りと王宮の間に神殿がある。これじゃ攻め込まれた時に民衆の逃げ場がない。神殿に逃げ込んじゃえば、民衆を敵からの盾にするだけじゃなく、こっち側の兵を出す邪魔にもなる」
「結論は?」
「平和呆けした建都設計」
「百点だ」
 逆立った髪の毛をくしゃくしゃと撫でて、ヴァンは満面の笑みを浮かべた。
 アズラスの生前は大神殿や民衆の逃げ込める場所がなく、彼は再三それを警告していたが、死後に実施された王都の再構築計画に練り込まれた民衆の逃げ場たる大神殿は、少年が指摘した通り位置が最悪だった。それでもアズラスが指示した大神殿という名目で工事は進み、結果的に英雄の名を貶める大神殿が出来上がってしまった。
 まだ十二、三の少年でさえ見抜ける穴を見抜けないほど平和呆けし、アズラスの意図も歪められてしまった王都を大神殿から見渡し、ヴァンは自分の芯は果たして歪んではいないのかと渋面を浮かべるのだった。

30日目4758文字
 小さく身震いをして、男はゆっくりと眠りの淵から這い出した。
 雨が降っている。気付けば焚き火は消えており、薪も湿気って久しいようだ。
 外套を払うと水滴が月光を反射して刹那の間、幻想的な世界を作る。
「馬鹿な事をしたものだ……夢にまで見るとは」
 過日の出来事が脳裏に焼き付いている。起きてなお夢を見ている。
 矢を一身に受けて血まみれになった友の顔が男を睨んでいる。
「っ! 怯えるな、奴は死んだのだ……」
 天を仰ぐ。
 水滴が涙のように男の頬を伝う。
 身震いを一つ。震えは寒さのせいか、それとも心のせいか。
「まだ、間に合うかも知れない」
 戦場へ、己が捨てた戦場へ。心は向いても身体は向かず。
 濡れて水を吸った外套が、いやに重く感じた。立ち上がって外套の襟を正す。

 ゴトリ、と耳慣れない音を立てて外套から双剣が落ちた。
 目が――友の目――俺を――睨んでいる。
 ン――ヴァン――声が、友の――声。機嫌の良い、声。気分が悪い。
 名を呼ぶ、己の名を呼んで意識を保つ。保つ努力をする。
 些末な努力で、些少な誇りを奮い起こす。
「意外だな」と誰かが言った気がして周囲を見回すも、ただ雨に濡れた木々が闇に沈むだけだった。いや――

       †

 ヒクロティフは帝国とは名ばかりの版図しか持たぬ中途半端な国であった。
 歴史があるかと言えばそうでもなく、新興国かと言われるとやはり違う。
 帝国を名乗るからには幾つかの国をまとめ上げているのだが、その数は三つ。その全てが帝国を支える三部族の長が王となっている国である。始祖を同じくする部族が、他国に滅ぼされないように手を取り合っただけの国。
 世は荒れていた。あちこちで戦乱が産声を上げ、育ち、新たな遺恨と戦乱を産み落としながら大陸を駆け抜けていた。
 帝国もその例に漏れず、戦乱の波に飲み込まれて久しい。
 戦乱の最初は隣国の侵攻というありきたりなものだった。しかし隣国は族長や皇帝が思う以上に強力だった。優れた魔術士もいなければ魔法技術も乏しいが、それを補って余りある弓兵隊がいた。
 集団戦においても他国のように狙いも付けずに空高く射るのではない。空に射るのは同じでも、無駄となる矢が少ないのだ。風を読み、動きを読み、空高くに撃ってなお確実に人のいる所に矢を落とす、そのような技術を弓兵全てが身に付けていた。
 追い込まれた皇帝は決断を下す。傭兵の投入である。
 これまで部族の誇りで自国軍だけで戦ってきたが、相手が錬磨の一軍となれば余裕はない。帝国は戦闘経験の豊富な傭兵ギルド所属の傭兵達や、近隣の国の傭兵を千人単位で雇い入れた。
 傭兵達は瞬く間に隣国の軍勢を押し返し、十ヶ月が経つ頃には開戦前の版図を取り戻していった。
 中でも目覚ましい活躍を遂げたのは二人の傭兵だった。
 片方は長剣で、片方は双剣という違いを除けば二人の剣士はどこか似ていた。
 顔立ちが似ているわけでもないし、戦術が似ているのでもない。顔に傷があるのは同じだし、年の頃が三十代に掛かったばかりだというのも同じではあるが、似通った印象は受けない。それでも周囲から、どこか似た二人だとささやかれるのは、その気質が似ていたからだった。
 剛胆にして冷静、己の美学を強く持ち、心に折れぬ剣を持つ。彼らは傭兵仲間からそう評されていた。
 隣国との戦争も終わりに近づき、そろそろ傭兵もお役御免かと思われたが、戦乱の産声はまだ尽きなかった。内戦である。
 隣国との終戦協定が結ばれるのと前後して、傭兵部隊は解散とならずにそれぞれの族長が継続して雇い、三つの王国に駐屯する事となった。
 三つの王国のうち、例の二人の傭兵を雇う事に成功した族長の言動は次第に不遜になり、人々は族長が帝位を狙っていると噂した。
 そしてその噂が皇帝の耳に入ったとき、内戦が産声をあげた。
 激昂した皇帝は族長を呼び出して悪し様に罵り、悪意を受けて族長の心に叛意が育った。一度芽を出した叛意は、すぐに反逆という形で花開いた。
 しかしその反逆は無謀なものだった。
 七百人ほどの傭兵と二千人程度の正規兵が叛徒の全兵力だった。対する皇帝軍は新たに雇い入れた者を含めて、二千人近い傭兵と、二万四千に及ぶ正規兵という圧倒的な武力を誇っていた。残る二人の族長が皇帝側についたためだ。
 加えて、終戦後の関係を良好にしようと隣国までもが逆徒を討つと名乗りを上げた。無論隣国も疲弊しているし、全軍を上げて余所の内乱に介入するほどお人好しではないので、幾ばくかの兵力を派遣するという程度だったが、その兵力が練達の弓兵部隊だというのが、叛徒たちに最後通牒を突きつけた。

 後に英雄の一人として名を轟かせる事となる傭兵、ヴァンドルフ・デュッセルライトは晩年、弟子に生涯で悔やんでいることはと問われて、この内乱を挙げる事となる。
 己の未熟さを痛感し、恥じても恥じてもまだ恥じたらぬ情けない有様で何とか生き延びた戦いだったと、酒を片手にしみじみ悔いた。
 その後悔から時は内乱の最中に遡り、夜営の夜へと潜り込む。

 焚き火を囲む男が二人。酒を酌み交わす姿は似ても似つかないが、部下からはよく似た二人だと言われる傭兵達だった。
 百人隊を任されるまでに出世し、各地で連戦を続けてはいたが潮時だと二人ともが感じていた。
 引き際を考えるも、雇い主は負ければ死を待つのみである。引かせてくれるはずがない。
 片方の男は、戦いを続けて痛み分けとなれば処刑は免れるかも知れぬ、それで雇い主を説得できまいかと主張した。
 片方の男は、既に自分たちにも四方から敵が迫ってきている、隣国の弓兵などはすぐ近くまで来ているだろう、一刻も早く逃げるべきだと主張した。
 冷静で剛胆と言われる二人の傭兵の意見が初めて食い違った。
 片方の男が言う、逃げてしまえば汚名が付く、誇りにかけてそれは出来ぬ。
 片方の男が言う、名よりも誇りよりも命が大切だ、生きてさえいればどうとでもなる。
 お互いの意見にどこか納得し、そう主張できる友に若干の憧れを抱きながらも、二人は対立した。
 既に手勢は百人を切っている。百人長が二人いても、既に半数以上が死んでいる。
 片方の男が激昂する、どこへ向かっても敵がいる。作戦が漏れている。裏切り者がいるのだと。それさえどうにかなれば負ける我々ではないと。
 片方の男がたしなめる、仲間を疑うものではない。仲間を生かすためにも、無謀な戦いを望む雇い主を見捨てるのも傭兵だ。我らは私兵にあらず、死兵にもあらず、生きて何かを掴むのが傭兵なのだと。
 雲行きが怪しくなっていた。
 また明日語ろうと友と誓い、二人の傭兵はそれぞれの寝床へ別れた。
 翌朝は夜が明けたとは思えない暗さの曇天だった。
 男は己の剣が見当たらない事に気づいた。異変を感じた時には最早手遅れだった。異様な気配は鬨の声に転じ、一斉に射かけられた矢の精度が隣国の弓兵の襲来を悟らせる。
 もはやこれまで、仲間は悉く矢に倒れ、友の姿も見えない。
 男は伏して期を伺い、仲間の死体から剣を奪うと、身を潜めながら弓兵の指揮官へとにじり寄った。
 簡易な天幕を見つけ、切り込んだ男が見たものは、地図を広げて敵と語り合う友の姿だった。
 売ったのか、そう呟く男の言葉に、友は答えなかった。だがそれでいいとも男は思った。死なずに生き延びてこそ立ち上がれる、死んでは立ち上がれない、常々友が言っていた事だ。
 立ち尽くした男の背に、矢が射かけられる。その瞬間、男は修羅と化した。
 もう片方の男は、天幕の中から友が血にまみれていく姿を見て戦慄した。己の美学は生き伸びる事、無様でも生き抜く事、だが友を犠牲にしてまで守る美学か。
 答えが出ぬまま傍の弓兵を斬り殺して振り向いた彼は、血にまみれ戦鬼となった友の形相を目にし、逃げ出した。
 三日三晩森を走り通し、行き着いたは大樹の広場。男は薪を集めると、火をおこして休息を取った。

       †

 小さく身震いをして、男はゆっくりと眠りの淵から這い出した。
 雨が降っている。気付けば焚き火は消えており、薪も湿気って久しいようだ。
 外套を払うと水滴が月光を反射して刹那の間、幻想的な世界を作る。
「馬鹿な事をしたものだ……夢にまで見るとは」
 過日の出来事が脳裏に焼き付いている。起きてなお夢を見ている。
 矢を一身に受けて血まみれになった友の顔が男を睨んでいる。
「っ! 怯えるな、奴は死んだのだ……」
 天を仰ぐ。水滴が涙のように男の頬を伝う。
 身震いを一つ。震えは寒さのせいか、それとも心のせいか。
「まだ、間に合うかも知れない」
 戦場へ、己が捨てた戦場へ。心は向いても身体は向かず。
 濡れて水を吸った外套が、いやに重く感じた。立ち上がって外套の襟を正す。

 ゴトリ、と耳慣れない音を立てて外套から双剣が落ちた。
 脳裏に焼き付いた友の目が男を睨んでいる。
「――ン」
 声が、友の名を呼ぶ声がする。機嫌の良い、どこか浮かれた自分の声。気分が悪い。
 己の名を呼んで意識を保つ。保つ努力をする。些末な努力で、些少な誇りを奮い起こす。
「意外だな」と誰かが言った気がして周囲を見回すも、ただ雨に濡れた木々が闇に沈むだけだった。いや――

「お前がそんなにも怯えているとは」
 声は確かに聞こえていた。幻聴などではない。
 草むらをかき分け、血にまみれた友が森の中から歩み出る。
「馬鹿な……馬鹿な馬鹿な馬鹿なっ! お前は死んだはずだ、殺してしまったはずだ!」
 血まみれの友は、ゆっくりとした足取りで男に近づいてきた。
 すぐ傍までやって来ると、血まみれの友はひざまづき、足元に落ちていたふた振りの剣を拾い上げた。
「落としたぞ?」
 そう言って双剣を差し出してくるが、男はそれを受け取る気になれなかった。
 友は血まみれの笑顔を意外そうな表情に変えると、その双剣を自分の腰に差した。
「では、俺が返して貰うとしよう」
「ヴァン」
「呼ぶな、名が穢れる」
 拒絶の言葉が男の心を吹き飛ばす。
「自分の剣はどうした?」
 男はただ首を振るだけしかできなかった。逃げるうちに気付けばなくなっていた。
「心の剣も折れ、虚勢を張る剣さえも失ったというのか……哀れな」
 ヴァンは腰に差した双剣を引き抜くと、ゆったりと構えた。
「お前の事を一時でも友と思ったのは、今でも間違ってはいないと信じる。俺が未熟だったように、お前もまた未熟。お前はただ、成長する前に堕落しただけの事。それを導けなかったのも俺の未熟なれば、共に歩む事も出来なかったのもまた、俺の未熟」
 殺気を叩き付けられても男はピクリとも動かなかった。動じなかったのではない、最早心が死んでいる。
「さらば友よ、儂の未熟を連れて逝け」
 振り下ろし、振り抜かれた双閃は、死を悼む墓標のように大樹に十字の傷を作った。
 衝撃が大樹の葉に溜まった水を弾き落とし、滝のように男の亡骸に降り注いだ。
 月光が虹を浮かべ、霧散する。
 ヴァンは剣を鞘に納めると、大樹から降り注ぐ雨露を払おうともせずに僅かに立ち尽くした。
 嘆息を一つつき、大樹に背を向ける。歩き去る双剣使いの頬に、水滴が涙のように伝っていた。

40日目4881文字
 月が雲間に隠れる。男は眉をしかめて舌打ちをしかけたが、すんでの所で自制した。
 林のどこかで梟が鳴いている。
 腰の両側に差した双剣に手を置いて意識を研ぎ澄ませる。
 梟の声、木々のざわめき、二十歩東に動物の気配。雰囲気からして四本足の草食獣だと判断する。
 人の気配は周囲にないが、安心は出来ない。この場での安心は慢心であると自戒する。熟練の使い手ならば気配を消すどころか、近くの獣の気配に紛れ込ませて油断を誘う。そこにいるのはただの獣だと油断させて、致命的な一撃を繰り出すという光景を間近で何度も見た。彼が渡り歩いてきた戦場は常に死に満ちていた。
 月明かりは雲を照らすばかりで地上には届かない。気配だけを頼りに、一歩また一歩と前へ踏み出す。踵を置き、爪先を降ろす最中で、足の裏に違和感を覚えて足をどける。乾いた小枝が一本。彼は小枝を避けるように歩を踏み出すと、また一歩先へ進む。例え小枝を踏み折った音であっても気付かれる可能性は高い。彼もまた、それで察知できる自信があった。
 太い幹を持つ木を見付け、もたれないようにしながら木陰に潜り込む。もたれた調子に枝葉の先が揺れてしまっては敵に気付かれる可能性がある。
 空を見上げる。木の葉の先から見えるのは、薄い雲と朧月。先ほどよりは月光が地上に届きやすいが、月の位置を正確に知りたい彼にとっては充分とは言えなかった。
 月光が鈍いのはある意味では好機とも取れた。彼は左腰に右腕を伸ばすと、音を立てないように双剣の片方を抜いた。黒い刀身が闇に溶け込む。そのつもりで作られたわけではないが、彼の持つ黒双剣は奇しくも夜間の暗殺に適していた。
 右腰の剣はまだ抜かない。完全な戦闘状態になるまでは片手は空けておいた方が良い。月明かりを反射しにくい黒い刃とは言え、何かの拍子に気付かれる可能性は否定できず、彼は剣を逆手に持つと腕の影に隠すようにして木陰から出た。
 しばし進み、もう一度意識を研ぎ澄ます。梟の声、木々のざわめき、三十四歩北西に草食獣の親子。僅かな騒音。鼻孔にごくごく僅かながら焼けた肉の匂いが一瞬だけ感じられた。敵だ。
 夜闇に溶け込みながら、木々の間を縫って南東に進路を取る。
 五歩右でぱきりと枝の折れる音。即座に左手で剣を抜き放ち、左足で足払いをするように地面を踏みつけ、その左足を軸に回転して低い姿勢で斬撃を繰り出す。
 声を上げる暇さえ与えず、見張りの胴が上下に分断される。崩れ落ちる前に双剣で上半身と下半身を別々に刺し、そっと地面に置いてから引き抜く。見ると、見張りは腕利きで名の知れた傭兵だった。一度は同じ戦場で味方として戦った事もあったが、運がなかったと諦めて貰うしかない。
 周囲の気配を探りながら、死んだ傭兵の服で血をぬぐう。自分の持ち物でぬぐうと血の匂いで気付かれてしまう。彼なら気付く自信がある。剣から血を垂れ流していては、やはり血の匂いもあるし、剣からしたたる血が何かに落ちた音でも気付かれかねない。彼はそれで気付く人間を知っている。
 剣を右腰の鞘に納めると、数歩だけ進んで気配を探る。人の気配は感じ取れなかったが、用心して音を立てないようにしながら落ち葉や土を身体にかける。血の匂いを少しでも誤魔化す必要がある。傭兵の死体は捨て置いて良い。
 肉が焼ける匂いと、食事の喧騒がはっきりと感じられるようになってきた。どうやら相手はのんきに夕食を楽しんでいるらしい。
 ろくに歩哨も立てておらず、たまに見張りがいたかと思えば、同じ木の幹を挟んで反対側にいる彼の気配にも気付かずに、幹にもたれかかっていた。
 逆手に持った双剣を順手に持ち替えて、幹を抱くようにそっと右腕を動かす。左手でわずかに幹をこすり、向こう側の相手が左に意識をやった瞬間、右手の剣が咽を刺す。
 死体が倒れる前に素早く首根っこを掴んで、音を立てないように木陰へ引き倒し、そこでようやく咽に刺した剣を抜いた。勢いよく血が噴き出すが、噴き出す先は湿った土しかなく、音はほとんど周囲に届かない。
 すっかり手慣れてしまった感のある暗殺術に内心で少し苦笑する。生きるために身に付けたこの技術を誇った時期もあった。青かった。双剣を習熟し、いっぱしの傭兵として名を上げてからは暗殺術に頼らず、一対一でも多対一でも多対多でも真正面から堂々と戦えるように研鑽を重ねてきた。暗殺術の封を解いたのは、孤島での命を賭けた日々だった。仲間と生き抜くためにどうしても必要になったのだ。そうして苦渋の決断で封印を解いた暗殺術を、孤島から帰ってきた今もまだ使い続けている。
 そんな事を考えながらも、彼の手は休まずに死体と己の痕跡を消す作業を行っていた。
 一通り終えてから移動を再開する。今仕留めた相手は傭兵ではなく兵士のようだった。簡単な制式鎧を身につけていたのが何よりの証拠だ。鎧のおかげで相手の素性も知れた。国境を越えてきた南の隣国の兵だ。南からこの場所へ来るには、どう考えても西の隣国の領土を通る必要がある。とすると、敵は単純に一国というだけではないだろう。表立っての敵対行為は無いかも知れないが、南の隣国の通過を黙認したという事は敵対行為と同義であった。
 戦争になる。
 それを止めようなどと大それた事を考えてはいないし、戦争はいけないなどと聖人ぶってこれまでの人生と出会ってきた人々を否定するつもりもない。彼は傭兵だ、戦場で人を殺して己を生かすのが生業だ。
 じわりじわりと歩を進める。ふと、遠くから木々のざわめきが迫ってくると感じた。彼は程よく高い木の傍で足を止めると、ざわめきが追いつくのを待った。
 ざわりと風を感じた瞬間、彼は地を蹴って木によじ登った。枝が激しく揺れるが、同時に周囲の木々も風に揺られている。樹上から見た敵の野営は、思っていたよりも規模が大きかった。彼が登っている木の高さからでは全容が見渡せない。兵の総数はどのくらいだろうかと目算し、数百では足りぬと知る。千を越える敵兵に対して、こちらはたった一人。援軍が来てようやく互角になるが、申し合わせた頃合いを測るのは難しい。
 木の上から空を見上げる。朧月かと諦めていたが、空には柔らかい月の輪郭がはっきりと浮かんでいた。月は天頂へと差し掛かっている。申し合わせた頃合いだ、内心ではなく顔に出して不敵な笑みを浮かべると、彼はこれまでの慎重さなど無かったように木から飛び降りた。
 黒双剣を抜き放ち、くすんだ金髪が月光を浴びて輝く。まだ敵は彼に気付いてはいない。黒双剣の二つ名を持つ男、ボルテクス・ブラックモアは援軍が動く事を微塵も疑わず、千倍の敵が待つ戦場へと駆け出した。

       †

 ボルが名もなき辺境の村にたどり着いたのは、二日前の昼だった。
 領土の果てにあり、林と森と山で周囲を埋め尽くされて外界と途絶えた村だけに、外部からの客など一年に一人あるかないかだ。まったく村と縁のない男の出現に村人達はいぶかしがり警戒した。だが男は宿屋の機能を果たしていない農家に世話になった翌朝、村人達が見たこともない異国の料理を振る舞い、老農夫を喜ばせた。狭い村ゆえすぐに噂は広まり、半日もしないうちに料理の上手い陽気な旅人は村に受け入れられた。
 ボルは村人からさりげなく異変はないかと探りを入れた。森の動物や鳥の異変、風に乗ってくる匂いの僅かな違いなど、村で生まれ、村で育ち、村で死ぬという村民達は、変わらないはずの日常に生じた微妙な違和感をはっきりと感じ取っていた。見慣れない兵士の姿を見かけたという証言が決定的だった。ボルは夕食どきに村長の家に押し入ると、強引に夕飯を馳走になって、夜明け前には出発の準備を調えた。翌朝、村長が目覚めた時に彼の姿は無く、ただ一宿一飯の礼がどうのと書かれた手紙だけが残されていた。
 ボルは南に向かうと、名もなき村を踏みつぶして行軍しようとする敵の気配を察知した。腰の黒双剣に手を置いて心を研ぎ澄まし、傭兵は一人の斥候となったのだ。
 そして今、斥候は再び傭兵に立ち戻り、黒双剣を振るって敵と斬り結んでいた。
 突き出される槍を右手の剣ではね除け、左手の剣で振り下ろされた手斧をはね除け、蹴りで反撃してから剣でとどめを刺す。
 荒々しい戦いぶりだが、傷一つ負わずに十数人の兵士を斬り伏せた腕前は確かなものだった。騒ぎはまだ千人以上の兵士全てに伝わっているわけではない。これからどんどん騒ぎは大きくなり、窮地は脱しきれない程の大きさまで膨らむだろう。だがボルは恐れてはいなかった。申し合わせていた援軍がすぐに来ると信じて疑わなかったからだ。
 騒ぎに気付いて野次馬にやってきた傭兵が、ボルの姿を見て顔色を変える。ボルはそれに気付くと、敵兵を斬り捨てながら片手を上げて傭兵に手を振った。隙と思ったのだろう、別の兵士が槍を突き出そうと腕を引いた瞬間、黒双剣が心臓を一突きする。
 黒双剣のブラックモア。かつてはヴァンドルフ・デュッセルライトの二つ名だった黒双剣を受け継いだ傭兵。傭兵稼業をしていると一度は耳にする練達の戦士だ。
 傭兵はきびすを返すと仲間達の所に向かって何かを叫んでいる。ボルは聞かずとも内容に予想がついていた。黒双剣が来たと吹聴して貰えれば動きやすくなる。
 三十人ばかりの兵士を倒した頃には、ボルの強襲は野営の半数以上に知れ渡っていた。傭兵が彼の名を叫んで回った事から、余計に早く広まったらしい。
 火球がボルを襲ったのは三十四人目を斬った時だった。
 焦ってそちらを見やると、魔術師風の男が手をかざして口を動かしている。二発目の火球はその男とは違う所から飛んできた。咄嗟にかわした所を、最初の男の火球が襲う。
 魔術師を的確に用兵に組み込める指揮官がいた場合、一人の魔術師は五十人の雑兵に勝ると言われる。即座に倒しに行きたいが、その前に数十人の兵士という壁がある。三つ目と四つ目の火球と、一つの光球が飛ぶ。この一角だけで五人も魔術師がいるとなると、この部隊の指揮官は本格的に魔術師を戦略に組み込もうと考えているとわかる。容易な相手ではない。群がってきた兵士の数は最早捌ききれる数を陵駕している。
 三人同時に突き出された槍を避けきれず、双剣で受け止める。動きが止まった瞬間を狙って四つの火球と光球がボルを襲う。これまでかと覚悟した刹那の事であった。光の刃が魔力球を薙ぎ払い、同時にボルを襲っていた兵士達が十人ほど倒れる。援軍が来たのだ。
 光る刃を両手に持ち、黒い外套をはためかせた傷だらけの剣士。その名、光双剣のヴァンドルフ。たった一人の援軍でも、ボルにとっては文字通りの千人力だった。
「師匠ぉッ!」
 叫びながら敵を斬り倒し、敵陣の中枢を黒双剣で指し示す。
 ヴァンは胸の前で腕を交差させ、光双剣を肩の上で止めて溜めを作った。一瞬の静寂。そして――
「天破ァァッ!」
 光の奔流が刃となって敵陣を襲う。まるで竜が吐く破壊の息吹のように光の刃が伸び、交差して振り切られるまでの間に数百という兵士が薙ぎ倒された。
 その一撃は、戦意を削ぐには充分すぎた。
 指揮官が集まっていた本陣が壊滅した事もあり、兵士達は散り散りに逃げ始めた。制止しようとする小隊長でさえ、指令を与えてくれる上官の死に戸惑い、迷った挙げ句に逃げを打つ。留まっていた兵士達もそれを見て逃げ、十分と待たずに部隊は潰走した。
 南の隣国がまた派兵したとして、この周囲を通る事はもうないだろう。これで名もなき村が戦争に巻き込まれることはない。一宿一飯の恩を報酬に、気ままな傭兵は師と共に戦場を後にした。


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●つうかあ参加中●
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注:第40回更新は「セリフを一言〜二言」、「それ以外は全て地の文で表現(漫画の場合は絵で)」、「人と人とのやりとりがあること」という条件で日記を書くという、ユーザー企画のイベント「つうかあ」に参加していました。
なお、この話の時系列はひそかに偽島終了後です。当時の「つぶやき」↓

【つぶやき】
ボル「って事で、「つうかあ」は俺の武勇伝だ」

ヴァン「貴様は敵に囲まれていただけではないか」

ボル「ところで師匠、アンタなんで光双剣持ってきてないんだ? 俺の黒双剣貸そうか?」

ヴァン「馬鹿者、惰弱な心根を鍛え直すために来ているのに、強力な武器を持つ阿呆がいるか」

ボル「なるほどね。で、これいつの話なんです? 俺こんな活躍した記憶ないんですが」

ヴァン「……二年後だ」

ボル「……後?」

ヴァン「うむ」

ボル「……そうッスか」

ヴァン「細かいことを気にするな。ここは駱駝が悪態をつき、雑草が疾走し、宝玉の守護者が胃炎で倒れる遺跡だ。どんな事でも起こると覚悟しろ」

ボル(今の遺跡どうなってんだ……)

42日目4831文字
 朝露の双剣、そう謳われたふた振りの剣があった。
 ヴァンドルフ・デュッセルライトが光双剣をもって暁の戦場に君臨する遥か前、黒双剣をもって後の一番弟子ボルテクスの師を殺す更に前、彼が白双剣のヴァンドルフと呼ばれ始める少し前の話である。

 朝露に濡れたような白い輝きをたたえた剣の噂を聞きつけ、傭兵の青年がふらりとグルスの街に現れたのは初夏の天陽が輝く昼過ぎの事だった。
 グルスは中央大陸の中心よりやや南東に位置する小国、グラエス共和国の一都市である。グラエスは三百年ほど前の大陸大戦期までは絶対君主制をとっていたが、終戦間際のどの国が敵でどの国が味方かわからないという状態に混乱した王家が密かに国外へ脱出してしまったため、絶対君主制は終わりを迎えた。王家は分家も含めて老人や赤子もまとめて全てが秘密裏に逃げ去り、残された貴族たちが結集して国政を代理して滅亡を防いだ。終戦後、のうのうと戻ってこようとした王族を貴族たちは許さず、民衆に王族が国を見捨てて逃げた事実を誇張して知らしめて、王族の追放と貴族たちによる支配を民衆自身に選び取らせた。それから三百年近く経った今も、当時の貴族の末裔によって作られた元老院が議会で国政を決めるという共和制をとっている。
 近隣の大国ファウに通じる交易路が国を東西に貫いているため、グラエス共和国も交易で発展してきた国である。小国ゆえに交易路の活気が国中に満ちているように伝えられるが、ヴァンが訪れたグルスの街は少々事情が違っていた。
 グルスは王政の頃に王族の避暑地として栄えていたが、現在の体制になってからは逆に過去の記憶を忌避するように人々が離れていったという歴史がある。避暑地は何も気候から逃れたいだけではなく、煩わしい政治や外交からも逃れたいという事情もあって、グルスは交易路からもっとも離れた街として作られていた。商人も足を伸ばすのを億劫がって寄りつかず、他国からの客人もわざわざ訪れたいと思うようなものも何もない。そんな立地が選ばれたのだ。だがそれは王族にのみ愛された土地でしかなく、王族がいなくなった今ではかつての残光を懐かしむよりなかった。
 虚栄に押しつぶされそうな街、それがヴァンのいだいた感想だった。
 剣の情報を得ようと考え、まずは酒場に行こうと街並みを見るが、それらしき建物は見当たらない。しばらく街を歩いてみたが、一向に酒場は見当たらなかった。
「おや珍しい、旅の人かい?」
 突然の声に振り返ると、人の良さそうな婦人が窓から顔を見せていた。
「こんにちはご婦人。少しおたずねしたいのだが、この街には酒場はないのかな?」
 顔の傷で怯えられないように、出来るだけさわやかに聞いたつもりだったが、婦人は一瞬だけ目に恐怖と警戒を浮かべた。ヴァンは警戒を解くために自然さを心がけて苦笑して見せた。
「怖がらせて申し訳ない、幾たびか戦場に立つ事があったもので」
 こう言ってみせると人の良さそうな婦人の事だ、すぐに気を遣って取りつくろうとするだろう。そういう計算を働かせたのだが、予想は見事に的中した。
「あらごめんなさい、そういうつもりじゃなかったのよ。そう、戦争でね……大変でしたね」
 大変、その一言で片付けられる事に僅かな引っかかりを覚えたが、悪意があっての事では無い。ヴァンは笑顔を崩さなかった。
「そうそう、酒場ね。この街は王様に献上する葡萄酒を作っていたのよ。だから酒屋さんはあるけれど、お酒を飲めるのはアラ・グラエ亭だけね」
「アラグラエ」
「そう、昔の言葉でグラエの神様のあずま屋、王様のあずま屋ね」
 この国で王制が滅んで三百年近くも経つというのに、グルスの街は未だに王を絶対視しているらしい。
「もしやそこは、このような身なりの旅人は入れないのでは?」
「ええそうね」
 あっさりと肯定され、ヴァンは思わずため息をつきかけた。大層な名前からひょっとすると客を店が選ぶ類ではないかと危惧したが、その通りだったようだ。
 人が来ない街で客を選り好みする余裕があるのかとも思うが、それでやってこられたという事は別に本業があるのだろう。
「この街の人々は皆そのアラ・グラエ亭へ?」
「行かないわよ、元々は王様にこの地方の料理を味わって頂くためにできた店だもの。私たち庶民が行くなんてそんな」
 婦人はそう笑うが、ヴァンには笑えなかった。
「ではご婦人、この街で人が集まる所を教えて頂けないか?」
 口調に若干の切実さが混ざる。
「そうねぇ、収穫期は皆で酒蔵に集まるわよ?」
 今度こそヴァンはため息をついた。収穫期にはまだ遠い。
 人が多く集まり、酒の力で余所者を受け入れやすくして口も軽くさせる酒場は、情報収集に最適な場所だったのだが、この街では諦めざるを得ない。
「ご婦人、私はこの街に朝露の双剣と呼ばれる剣があると聞き、ひと目みたいと思ってやって来たのだ。ご存じないか?」
 婦人は頬に手を置いて何かを見上げるようにして考えはじめたが、やがて首を振った。「私は知らないねぇ。でも旦那の弟なら知ってるかもしれないよ。そこの角を曲がって、次の角を曲がった三軒目だから行ってみなよ」
「これは助かる、さっそく行ってみよう」
 ほっとした表情は作り物ではなく心底のものだった。

 ヴァンが自分の剣を作り始めたのは十三歳の終わり頃だった。それから十年近いの時が過ぎ、及第点に辛うじて引っかかる程度の双剣は作れるようになった。それでも鍛冶の師が作る刀のような、剛柔を兼ね備えた逸品には遠く及ばず、この大陸の鉄や土では耐久性がまるでなかった。
 苦心して耐久性の高い材料を探し出したが極端に錆に弱く、なんとか対策は取れぬものかと悩んでいる時に耳にしたのが、朝露の双剣の話だったのだ。
 婦人に言われたとおり角を曲がった次の角を曲がると、そこは裏通りだった。
「なんとも……表通りとは違うな」
 思わず口に出してしまうほど、表通りと裏通りは雰囲気が違っていた。大通りは華やかで、そこから逸れた表通りも小綺麗だったが、裏通りは普通の下町といった風情だった。
 三軒目の家の前で立ち止まり、中の気配を伺う。
 食器を鳴らす音が聞こえる。特に不穏な様子はない。そこまで考えてからヴァンは自嘲混じりの苦笑を浮かべた。
「ここでも敵を警戒するとは、俺は臆病者か」
 そう呟いて軽く扉を叩く。野太く応じる声。大きなものが動く気配が扉の前で止まると、勢いよく扉が開いた。
「なんでぇ。……誰でぇ?」
「旅の傭兵でデュッセルライトという。表通りの義姉上から貴方が『朝露の双剣』について詳しいと聞いたのだが」
 婦人はあくまでも知っているかもしれないと言っただけだったのだが、ヴァンは会話を誘導するために小さな嘘をついた。
「おお知ってるぜ。まあ上がんなよ」
 気を良くしたのか男はヴァンを招き入れると、乳脂肪を溶かした香茶を淹れた。粗野な手つきで淹れられた茶が二つ、乱雑に机へ置かれる。その拍子に幾分かがこぼれたが男は気にする様子もなくヴァンに座るよう促した。
「飲みな」
 言いながら男も木製のコップを傾けた。ヴァンもそれにならう。
「……うまい」
 素直に口を突いて出た感想が男を喜ばせた。茶葉が高いわけでも食器が良いわけでもない。混ぜた乳脂肪も安い物だろう。それでも香茶は美味だった。
「ハイドランドの高地地方で飲んだものに似ているが、それとも少し違う……」
 ハイドランド法国の高地地方は天を突くとまで言われる高山地帯である。茶に乳脂肪と砂糖と塩を混ぜて煮込む茶が、嗜好品であり必需品であった。ヴァンも数年前に立ち寄った際は、寒さと高山病を防ぐためにその茶を愛飲したものだ。
「この味がわかるか、兄ちゃん若いのにやるじゃないか。旅の傭兵ってのもまんざら嘘じゃねえな。気に入ったぜ」
 男は嬉しそうに笑うと、咽を鳴らせて香茶を流し込んだ。
「この国にゃ交易路が通ってるからよ、ハイドランドで取れた安い茶葉を大量に仕入れられるのよ。その茶葉を、酒を造った後の葡萄の絞りかすと一緒に煎るんだ」
 茶の講釈を聞いていると日が暮れるかと思ったが、ヴァンにとっても旅先で再現できるものならしてみたいと思える味だったので黙って聞く事にした。
 男は茶への熱い想いをたっぷり一時間以上喋ってから、ようやくヴァンがたずねて来た目的を思い出した。
「そういや朝露の双剣がどうのと言ってたな。見たいのか?」
「見れるのか!?」
「おうよ、俺の知ってる爺さんが家宝つって大事にしてらぁな。俺が頼めばすぐ見せてくれるぜ。行くかい?」
「ああ、お願いしよう」
 ヴァンも急いで茶を飲むと、男に従って家を出た。道すがら、男が聞いてくる。
「しかし何でまた朝露の双剣なんて知ってんだ?」
「旅の途中で聞いたのだ。朝露に濡れたように白く輝く刃を持った剣があると。俺もこの通り双剣使いなのでな、その剣が双剣と聞けば興味も湧く」
 外套の裏地に縫いつけられた双剣をちらりと見せると、男は少し意外そうな顔をした。
「双剣……兄ちゃんひょっとしてアズラス将軍の知り合いか?」
 今度はヴァンが意外な顔をした。ヴァンの育ての親である傭兵団を壊滅させた双剣の猛将アズラス。一年前に病死してしまったが、大陸東部では名を知らぬ者はいないとさえ謳われた黒衣の将軍だった。それが中央部でも少し西側に位置する小国の、交易路からも離れた街にまで知られているとは思ってもみなかった。
「いやよ、俺ぁこう見えて本を読んだりもするんだが、最近読んでるアズラス将軍の伝記に若い双剣使いがどうのって書いてたからよ」
 そのような本が出ているとはヴァンは知らなかった。中央大陸には学術都市サウントがあるため、他大陸では一度失われたと言われる製紙、印字、製本の知識と技術が色濃く残っている。印字と製本を産業としている国もあるぐらいで、王侯などが自伝や気に入った小説家の物語などを印字してやって大量に作り、交易路に沿って売り広げていくという事もある。多少値は張るが、一般市民でも奮発すれば印字された本を買う事が出来るのだ。交易路を横断しているこの国ならば尚更買いやすいだろう。
「……ヴァンドルフだ」
「おおそれだ、ヴァンドルフだ。嬉しいねぇ、俺ゃ今読んでる本の登場人物と茶を飲んでたわけかい」
 永遠に訪れる事のない好敵手との再戦に未練が断ち切れぬヴァンとしては、伝記として「アズラスの物語は既に終わった」と扱われる事が喜ばしくない。だが事実としてアズラスは死に、英雄として伝記になって世界中の人に知られて行こうとしている。
 男の純粋な喜びに水を差すのも悪いと思い、ヴァンは笑顔を浮かべるだけだった。

「いやぁ、悪いね。期待はずれで」
 夕陽が街への帰り道を朱に染めていた。老人の家にあった朝露の双剣は、既に錆び朽ちていた。それでも美術品的な美しさはあったが、ヴァンの求める実用的な錆びにくい金属ではなかった。
「構わんさ、美味い香茶の淹れ方を教われただけでも充分な収穫だ」
「そう言って貰えるとありがたいな。そういやまだ自己紹介もしてねぇや、ゴレイフだ」
 差し出された手を利き手で握り返す。
「ヴァンだ。また立ち寄った時には茶を頂くかも知れん」
「そん時ゃ、詫びにとびっきり美味い奴を淹れてやるよ」

 こうしてヴァンの素材探しは振り出しに戻った。彼が試作を経て完全な白双剣を作るまでにはまだ一年近くの時間が必要となる。だが、この時できたゴレイフとの縁は彼の弟子の代まで続く大切な縁となるのだった。

44日目4795文字
「野郎っ、タダじゃ置かねえ!」
 若い傭兵の声は、疲れ切った空気に飲み込まれて消えた。
 つい先程まで戦場だった平原は、今は野晒しの墓所となっている。
 吼える金髪の傭兵を遠目に見ながら、ヴァンは馬上で深くため息をついた。傍に立った青年傭兵も、気障ったらしく帽子のつばを人差し指で持ち上げると短くため息をついた。
 そんな二人の背後に重厚な足音。
「あそこで吼えとるのは貴公の弟子か?」
「恥ずかしながら」
 振り返るまでもなくヴァンには誰かわかっていた。ヴァンと弟子達を雇った傭兵隊長、ルテバースである。
 老練な傭兵が近づくたびに、がしゃがしゃと大きな音が鳴る。軽く振り返ったヴァンからもまた、がしゃりと音が鳴った。
「……こう言っては何だが、デュッセルライト殿はあまり鎧が似合わんな」
「自覚はしているさ」
 ヴァンは苦笑を浮かべながら、鎧に包まれた腕を持ち上げて見てみた。腕は一部を板金で補強しているだけだが、具足は鉄で構成されている。胸から腹を覆う板金も各所とこすれあって音を立てる。
「それに、金属鎧は好きじゃない」
 正直な気持ちを呟く。事実ヴァンは金属鎧が好きではなかった。嫌いであるとさえ言える。
 いくら気配を消しても音が鳴る。重く動きづらいため、長時間の戦闘には耐えられず、咄嗟の回避の邪魔にもなる。では防御力が高いのかというと、戦斧どころか手斧にさえ割られかねず、鉄兜を被ったとて手の平大の鉄球でさえ致命傷を与えてくる。そもそも敵の攻撃に当たる前提なのが気にくわない。ヴァンにとって金属鎧とは、ただの邪魔な拘束具でしかなかった。
 老境に入って久しい熟達の傭兵ルテバースは、まだ若いヴァンの素直さに笑みをこぼした。
「貴公、そんなだから傷だらけになるのだ」
 その言葉に帽子の若者が目つきをきつくしたが、ヴァンがあっさりと「まったくだ」と応じたので怒気を納めた。ヴァンは己の傷を勲章などとは思っていなかった。金属鎧を着けておけば負わなくて良かった傷も数多い。だがそれ以上に金属鎧を着けない身軽な身体で死線をくぐり抜けてきたという実感があるからこそ、着ける気にならないのだ。
 ルテバースは敵が去った方角を眺めながら、ゆっくりと腕を組んだ。また鎧がかちゃりと鳴る。
「今日の所は痛み分けだな。恐らく夜襲は無いと思うが、朝は早いかも知れん。今日はもう休んだ方が良かろう。デュッセルライト殿にはティモン王国からの積もる話も聞きたいが、それは敵を全て討ってからの楽しみとさせていただこう。ではな」
 口の端を歪めてみせると、ルテバースはきびすを返した。

       †

 静かな街にたたずむ酒場の扉を開けると、そこは喧騒に満ちた別世界だった。
「すみません、今日は貸し切りなんです」
 ヴァンの姿を認めた店員が告げる。一目見て満席だとわかるが、酒を買って帰ることさえ許さないということは、この客達が幾分かの金を払って貸し切りにして貰ったからだろう。
 素直に店を出ようとしたヴァンの耳に、彼の名を呼ぶ声が届いた。声の主を捜すと、どこかで見た顔が手招きをしていた。
「やはりデュッセルライト殿か、久しいな。覚えているか?」
 初老の域を若干越えた男が親しげに言う。ヴァンは不自然な沈黙になる寸前で相手の事を思い出した。
「勿論だルテバース殿。ティモン王国ヨークリ侯爵領の一戦以来だな」
 ヴァンが珍しく傭兵部隊を率いて参戦した戦である。ヴァンは別働隊、ルテバースは本隊に組み込まれたが、挟撃作戦だったためにお互いの戦いぶりを見ることは叶わなかった。ヴァンにとっては別働隊が魔竜に襲われて壊滅に近い打撃を受けた、痛い思い出のある戦いだった。
 侵略してきた隣国の勢いを削ぎ、停戦まで持って行けたので大局的に見れば勝ち戦だったのかも知れないが、ヴァンにとっては負け戦の記憶である。
 ルテバースとは作戦会議を開いた天幕と、三領境界での最後の決戦が終わった後に少し話した程度だった。明瞭な記憶に残すのは少々難しい、薄い関わりだったと言える。
 それでも以前からお互いの勇名を知っており、同じ陣営で戦い、立ったまま戦闘を終えられたという共通点は、なぜか親近感を覚えさせた。
「あれは何年前だったかな、歳を取ると物覚えが悪くなって困るわ」
「嘘つけ、大将昨日『十日前に三口残して置いた酒が無くなっとる!』って犯人捜ししてたじゃねえか」
 ルテバースの部下が軽口を叩くと、他の部下がどっと笑った。
「しかしデュッセルライト殿も見違えたな。以前にまして精悍な顔つきになった。何でも弟子を取っているとか?」
「未熟ながらも後進を育てようとな。この前の仕事で中々の働きを見せてくれたので、ねぎらってやろうと酒を買いに来た所だ」
「おお、それなら引き止めては悪いな。店主、デュッセルライト殿に酒を売ってやってくれ、代金は儂が持つ」
 おごって頂くわけにはとヴァンが制止する声は、部下達の喝采に掻き消された。
「ここはおごらせてくれ、その代わりと言っては何だが、一つ話を聞いてくれんか?」

       †

 ヴァンは酒場から宿に帰ると、すぐに弟子を集めた。これまでに何人もの弟子を取ってきたが、この場に残る六名のみが今の弟子全てである。それ以外は全て戦場で命を落としたり、ついて来られずに去っていった。ごく一部だが、己の力を過信して離反した者もいる。
「ルテバース殿が明日戦場に発たれる」
 この街から半日ほど行った先の平原で、地方領主の軍同士が睨み合っている。両方とも国王の縁者ゆえ、日和見主義の王が黙り込んだ今、彼らを止めうる者はいなかった。
 ヴァンは弟子の修行を兼ねて、この戦に加わってみようかとこの街まで来たのだ。国と国の争いではないので戦闘の規模が違う。同じ国の民同士で戦わなければいけない正規兵達の士気も低い。士気が高いのは傭兵ばかりという奇妙な争いである。
 戦場の最寄りの街まで来たのだから、後は期を見て傭兵を捜している官吏に話を持ちかけるだけだった。
「そこで、儂らを雇いたいとの事だ」
「傭兵が傭兵を? ルテバースの爺さんって言や、自前の傭兵部隊が何百人規模だって聞いた事あるぜ。何で俺らを?」
 師にくだけた口調で問いかけたのは、弟子の中でも随一の力を持つボルだった。
「ボル、師に向かって何という口のきき方だ。阿呆も程ほどにしろ」
 わざと挑発するように止めたのは、ボルと並ぶ実力を持った弟子クレイだった。ヴァンはいつもこの二人の口喧嘩に頭を悩ませていた。この時もいつもの調子になりそうだったので、機先を制して口を開いた。
「ルテバース殿が言うには、敵陣営に少し厄介な傭兵がいて士気が下がりがちなので、儂らの名を借りたいという事だ」
「ほう、厄介な傭兵」
 まだ二十代に入った所なのに、妙に芝居がかった口調でクレイが興味を示す。
「うむ。名を、双剣のラーマークと言うそうだ」
 六人の弟子の目に殺気がこもる。
「野郎、生きてやがったか!」
「師よ、我らに討伐の命を」
 ボルとクレイが珍しく同調するのも無理はない。ラーマーク・アルマー、それは彼ら二人の前にヴァンの一番弟子を名乗っていた傭兵だった。そして、ヴァンの元を離反した数少ない弟子の一人でもある。
 こうして弟子達の熱気に押され、ヴァンはルテバースの傭兵部隊に一種の旗印として雇われたのであった。

       †

 夜明けと共に鬨の声が上がる。
「ラー公はどこだぁぁぁっ!」
 姿は見えないが、どこの誰が叫んだのかは嫌でもわかる。
「貴公の弟子か」
「お恥ずかしい」
 眉間に指を当てて首を振る。ヴァンは今日もまた馬上の人であった。
 ルテバースは後方で指揮して戦う司令官型の男で、ヴァンのように前線で戦うという事はあまりしない。そのルテバースに旗印として雇われたヴァンが前線に送られるはずもなく、昨日のように金属鎧に身を包んで馬上に君臨し、兵に将が健在であると誇示するだけの存在となっていた。
 黒双剣も両腰に差したまま、抜くことを禁じられている。ルテバースが言うには、不動の将として構え、剣を抜かないことで兵に安心感を与えるのだという。剣を抜くのは突撃を指揮して最前線に躍り出る時だけである、というのが彼の美学らしい。
 風に乗ってきた矢がヴァンの傍に飛来する。いつもの癖で剣を抜きかけたが、瞬時に自制して手甲の拳背で矢を殴り払った。
「お見事。さすがはデュッセルライト殿だな」
「なに、力を失った矢だからです」
 そう謙遜してみせたが、それを目撃していた兵にとっては神業に見えたのだろう。僅かに士気が上がっていた。
「なるほど、背後に強力な戦士が構えているというのも安心感になるわけか」
 独りごちた言葉はルテバースに届いていたらしい。
「その通り。儂と三十人の騎兵が背後に構える事で、百十名の歩兵が安心して戦えるのだ。大局的に見れば三十の騎兵など雑兵も同然だが、局所戦では勝敗を明確に分かつ一手となる」
「勉強になりますな」
 答えてから、ヴァンはルテバースの傭兵隊が随分減っている事に気がついた。
「ティモンの頃は三百人ほどいたのでは?」
「あの戦いで百人近く逝ったのでな。その後にも集め直したが、戦場を渡り歩くうちに徐々に減って、今では百四十数名だ」
 十数人いたヴァンの弟子も、現在は六名である。一騎当千の傭兵を育てるという気概を持って育成してはいるが、半数近くは命を落としてしまった。小競り合いから大いくさまで、年中どこかで争いが起きている。このような時代だからこそ、身一つで生きて行けるのは事実だが、このような時代だからこそ、散るには早い命が散っていくのもまた事実であった。
「無常ですな」
「まったくだ」
 馬上で二人の傭兵が同じ感傷を共有した時、敵軍の最深からかぶら矢が上がった。
「む、もう決着か?」
 ルテバースがそう呟いて一分と経たぬうちに、早馬が到着した。
「正規軍の騎士殿が敵将の首を討ち取ったとの事です!」
 ルテバースは大仰に頷いて早馬を下がらせると、ぽつりと「哀れな」と呟いた。
 王の縁者同士の、言わば臣民を巻き込んだ内輪揉めというのがこの戦いの姿である。自制を知らぬ子供が二人、権力を持ったまま大人になり、権力を使って喧嘩をしていたというのが本質なのだ。敵将、つまり王の縁者同士の命の取り合いに発展させてはならず、彼ら傭兵が集められたのも、傭兵同士を戦わせて疲弊させ、鬱憤が晴れた所で和解させようという家臣の考えであった。
 万が一敵将の命を奪わなければならないとすれば、それも傭兵に押し付けるべきだったのだ。正規兵の騎士が王の縁者の首を落としたとなると、今は良くても数ヶ月、数年後には責任を取らされることだろう。
 戦いは敵軍の撤退が始まり、所々に小競り合いが見えるだけとなってきていた。
 元々が権力者に振り回されただけの同じ国の民なのだから、殲滅戦に移行するはずもなく、あっさりと戦いは鎮まっていった。
「これで命を落とす兵はたまったものではないな」
 馬上からヴァンは弟子の姿を探すと、金髪と血に濡れた帽子が見えた。ボルとクレイだ。その周囲にも弟子の姿があったが、開戦前より一人少ない。どうやら離反したラーマークによって、年若い弟子が殺されたらしい。
「禍根を残す戦いとなったか……」
 ため息混じりの声は、弟子達の嗚咽に吸い込まれて消えた。

47日目(ノーカット版)5286文字
 軽く握った右の拳を振るい、相手に届いた一瞬だけ強く握り込む。無精髭だらけの顎を打ち抜いた右腕は、すぐには戻さない。脇腹を右側から迫る団子鼻の男にわざと晒してやっているのだ。好機と釣られて迫ってきた無防備な咽に、ためを作って待ちかまえていた右肘を叩き込む。
「グェッ」
 蛙のような声を上げて団子鼻が昏倒する。咽が潰れたかも知れないが、そんなことは知ったことではない。夜闇にまぎれて路地裏で待ち伏せをしていたのだ、それも俺一人を相手に四人がかりだ。殺されても文句は言えまい。
「俺が誰だか解っていて襲っているのだな?」
 そう言って残る二人を睨み付けてやる。痩せぎすの男は顔に似合わぬ脂汗をじわりとにじませ、筋肉質の男は怯えを隠そうともしない。
 なんとも情けない。
「それで俺を襲おうとは片腹痛い!」
 思ったことをそのまま口に出して怒鳴りつける。試作とは言え、二つ名として知れ始めた両腰の白双剣を抜く価値さえ無い三下だ。戦場で戦士に向けるべく作られた剣の相手にはふさわしくない。それ以前に、このような臆病者に剣を抜いてはあの世のアズラスに笑われる。
 黒衣の双剣将軍、俺の仲間を皆殺しにした男。告死の翼、幼かった頃に追いかけた遠い目標。最後に敵として剣を交えたのは八年前。最後に僚友として戦ったのは六年前。最後に模擬戦で剣を交えたのは五年前。最後に酒を酌み交わしたのは二年前。流行病での死を知ったのは一年と少し前。仇であり、師であり、友であり、父であった年長の双剣使いは、今や墓の下。だが奴の事だ、確実に俺を天の上から見ているだろう。賢者ホリンに、自分の代わりに好敵手となってやれという余計なお節介をするぐらいだ。
 足音に気付いて意識を引き戻すと、痩せぎすも筋肉質もその場から消えていた。
「戦場でなくて良かったな」
 そう呟いたのは相手に対してではない。これが戦場ならば、目の前の敵から意識を逸らした時点で死んでいる。ことアズラスにかけては、喪失感が大きすぎると自覚はしているのだが、こればかりはどうしようもない。
 最初に埋めようのない喪失感を抱いたのは、今から十二年も前、丁度十二歳の頃だったか。大きな喪失感で言うと、親の顔も知らずに育った孤児時代、仲間と暮らしたあの町が戦場に飲み込まれて俺以外皆死んでしまった時もそうだった。しかし、あの時はフェスおじさんやお頭達に拾って貰ったからましだった。お頭の傭兵団と一緒に旅を続ける慌ただしさと、陽気な大人達の輪の暖かさで友達が死んだという現実を忘れられた。だが、十二年前のあの日、七十人近くいたお頭の傭兵団が全滅したあの日、あの時の喪失感は本当に埋めようが無かった。
 昨日まで一緒に暮らしていた大人達が次々に死んでいった。最後に残ったお頭と、フェスおじさん、グラッツおじさんにチロームおじさん、キシムフィークの兄ちゃんにセルホンの旦那、俺以外に残った十六人の仲間達だけでも生き延びていれば別だっただろう。しかし皆死んでしまった。チロームおじさんはアズラスの馬に頭蓋骨を踏み砕かれた。グラッツおじさんとキシムフィークの兄ちゃんは、アズラスの双剣で首を飛ばされた。お頭に至っては殺される瞬間さえ見届ける事ができなかった。その前に馬に吹っ飛ばされて昏倒したからだ。すぐに意識は取り戻したが、その間にも仲間は皆やられていった。死んだふりをしてやり過ごしていたフェスおじさんも……馬鹿な餓鬼が力量もわきまえずにアズラスに挑んだのを見て、助けに入って殺された。
 二十四になった今にして思うと、十七だったキシムフィークはまだまだ子供だったし、俺を拾ってくれたフェスターも二十七にして「フェスおじさん」呼ばわりで、四十過ぎだったチロームおじさんと同列に扱われて憤るのも無理はなかった。まだ二十になったばかりのフェスターが俺を拾ってお頭に掛け合ってくれたのは、今二十四の俺でさえ真似はできない。傭兵をしながら戦力にもならない子供を一から鍛えながら育てていくなどというのは、とてもじゃないが俺には不可能だ。
 それをフェスターはやってくれた。投げ出さずに何年も掛けて俺を一人前の戦士に育ててようとしてくれた。そして最後は、半人前だった俺を助けるために、生き延びられていたはずの命を散らした。その死を代償にして、本来死ぬはずだった馬鹿な餓鬼は生き延びて今ここにいる。あと三年でフェスターの歳に追いついてしまう。
 俺は生きなければならない。
 戦場に飲み込まれた街で孤児仲間と共に死を待つばかりだった俺を拾い、そして無謀なだけの未熟者だった俺を助けるために散ったあの人のためにも。二度も命を救って貰っておいて、簡単に生を諦めるのは、フェスターの生を、死を、人生を否定することになる。
 そんな物思いにふけりながら、俺は脳震盪を起こして倒れている男と、咽を潰されて呻いている団子鼻の襟を掴んで井戸まで引き摺って行った。
 路地の中の少し開けた小広場に井戸はあった。都合良く水の張られた桶があったので、昏倒している男の上でひっくり返してやる。
「ななっなんだっ!?」
 間抜けな声を上げながら意識を取り戻した男が、俺の顔を見て固まった。
「目が覚めたか?」
 あまり凄味を利かさずに微笑みかける。すると、みるみるうちに男の表情が恐怖へと変わっていった。傷だらけの顔で微笑むと怖いというのは自分でも良く知っている。道ゆく子供に微笑みかけて泣かれた回数など、両手では収まりきらない。小動物だけが怯えずに寄ってくる。そう、俺は人相が悪い。悲観しても治しようが無いのであれば、仕事に利用するのが一番だ。
「さて、貴様はどこの誰に頼まれて俺を襲った?」
 通り掛かった相手なら誰でも良かったとは言わせない。これだけの古傷を抱えた、どう見ても堅気ではない男をわざわざ囲む追いはぎもいまい。
「喋る、喋るから殺さないでくれ!」
 がちがちと歯を鳴らしながら震えてくれる。本当に脅しには使える人相だ。笑いかけただけで怯えてくれるのだ、まったくもってありがたい。
「誰だ!」
「ひぃっ、クイロフの旦那だっ! です!」
 聞いた名だった。ホルグという男とこの辺りの裏社会を二分して対立している悪党だ。一昨日、丁度そのホルグが自分でそう言っていた。
「クイロフがなぜ俺を狙う」
「あんたがホルグについたからだです!」
 奇妙なことを言う。思わず眉をしかめてしまったので、余計に男を怯えさせてしまった。しかし俺はホルグについた覚えはない。仕事を頼みたいと屋敷に招かれたが断り、奴の指定した酒場で一応話は聞いてやった。クイロフの持っている倉庫の荷を奪ってきて欲しいという話だった。馬鹿馬鹿しい。俺は腐っても傭兵だ、盗人ではない。あまりにも馬鹿馬鹿しいので鼻で笑ってそのまま帰ってきたが、どこで俺が奴に雇われたなどという情報が流れたのだ。
「おい貴様、俺をクイロフの所に連れて行け」
「そっ、そしたら」
「命は助けてやる」

       †

 倉庫の扉が重い音を立てて開く。続けて隣の倉庫の鍵が外される。
「双剣の旦那、本当に手打ちにしてくれるんだな?」
 つい三十分ほど前までは綺麗に調えられていた髪を無様に乱したまま、クイロフが聞いてくる。弱卒を三十人ほどのしてやっただけで音を上げるとは、付近を二分する悪党が聞いて呆れる。
「二言はない。貴様の倉庫から好きな物を好きなだけ貰う、それで手打ちだ。ホルグの偽情報に踊らされて俺を狙ったことは忘れてやる」
 まるで強盗のような事を言っているが、死なずに済んだのだから感謝すべきだろう。俺としてもホルグが嘘の情報を周囲にばらまいていたという事実の方が腹に据えかねている。クイロフを斬っても意味はない。
 松明に照らされた倉庫の中には、密輸したとおぼしき酒樽と酒瓶が所狭しと並んでいた。
「麻薬はないのか?」
 あったら焼いてやろう。
「すまないが俺の所は酒が稼ぎ頭だ。麻薬なんぞこんな街で売っても、短期的な利益になっても長期的には街が潰れて共倒れだ。ホルグの馬鹿は解ってねえがな」
 つまりホルグは麻薬に手を出しているわけだ。あれはいかん。一度使えば抜け出せず、子が親を、親が子を殺し、戦場で使えば戦士の魂と尊厳を殺して思考を奪う。
「そう怒らないでくれ、代わりに酒なら何でもある」
 勘違いで怯えるクイロフに次の倉庫を開けるように指示した。こちらも酒だ。
「あいにくだが、俺はあまり酒はやらん。最後の倉庫を開けろ」
 どうせまた酒だろう。酒は嫌いではないが、飲み過ぎたり酒が好きだという噂が広まると、そこにつけ込まれる可能性が高い。まだ俺には酔いどれた所を襲われて、返り討ちにする自信はない。
「どうした、早く開けろ」
 妙に渋る様子だったのを見咎めて急かす。ゆっくりと扉が開くと、そこには二十人ばかりの子供が怯えた目をしてこちらを見ていた。人買いか。
「どこでさらってきた?」
「二週間ほど前に、西の戦で潰れた町だ」
 俺も戦った記憶がある。町には行っていないが、その町を守る側の軍を攻め落としたのは、俺が雇われた側の軍だ。
「よし、ならこの子たちを全て貰おう。異論は?」
「旦那それは買い手が決まって――」
「白双剣のヴァンドルフに倉庫を襲われて奪われた、そうだな?」
「……ああ」
 倉庫の中をのぞき込むと、子供達が俺に怯えているのが解る。いつもの事だ。
「餓鬼ども、貴様らは自由だ。どこにでも行って好きに暮らせ」
 それで再び人買いに掴まったり、野垂れ死んでもそれは知らん。戦乱ばかりのこの時代に、子供だからといって安穏に生きられる道理はない。俺はこいつらの町を滅ぼす原因となった戦に少しでも荷担していた事の責任を果たしたに過ぎない。
 立ち上がって倉庫から出て行く子供もいれば、無気力に座り込んだ子供もいる。年長の子供が、年下の子供達に笑いかける姿が見えた。恐らく大丈夫だろう。
「クイロフ」
 去っていく背中を呼び止める。
「この餓鬼どもに服と食事と少しの金を与えれば、貴様に良いことがあるかも知れんぞ」
 意地悪く笑って見せたが、意外にもクイロフは周囲の部下に服と食事と金の用意を命じた。存外に見所のある悪党かも知れん。
「さて、ホルグが麻薬を隠している倉庫と、奴の寝床を教えてくれんか」
「双剣の旦那……」
 目を丸くするクイロフに、自嘲を含めた笑みを返す。まったく、こんな事は傭兵の仕事ではない。しかし、このまま捨て置けば俺は麻薬を売りさばく悪党の手先と吹聴されたままだ。けじめは付けんといかん。

 ホルグの倉庫に向かいながら、俺は後から付いてくる頭痛の種に眉をしかめていた。振り返ると、先ほどの子供の一人が俺を見上げていた。まだ十歳になったかどうかという少年だ。
「何の用だ」
 本気で睨み付ける。これで泣かなかった子供はいない。
 だが、少年は泣かなかった。少し怯んだが、泣きそうなのを堪えて俺を見てくる。
「姉ちゃんを助けて」
「姉?」
「僕の前に連れてかれた。ホルグって人の手先だっておじさん達は言ってた」
 どこのおじさんだ。情報にしても曖昧すぎるし、俺には何の関係も……いや、西の町ならばやはり儂に責任の一端は欠片でもあるのか。
「ホルグがさらっていった餓鬼どもは既に買い手が付いて引き取られたと、さっきもクイロフが言ってただろう」
「探して、助けてよ」
 これだから子供は嫌いだ。すぐ泣く癖に調子に乗る。
「勘違いするな、俺は正義の味方ではない。金で雇われる傭兵だ。貴様に金があるのならば雇われてやるが、そうでないのならば自力で探せ」
 そう言い捨てて前を向こうとした。
「ならおじさんを雇う!」
 頭が痛い。
「お金はないけど稼ぐ!」
「どうやってだ……」
「おじさんみたいに傭兵になって稼ぐ!」
「貴様じゃ無理だ、どうやって戦うつもりだ!」
「おじさんに教わる!」
 幾分、虚を突かれたのは確かだ。傭兵を雇う金がない、自力で探す力もない、ならば俺に戦う術を教われば、自力で探す力も身につくし、少年傭兵でも幾ばくかの金は入る。子供じみてはいるが、子供なりの正論ではある。
 少年は深々と頭を下げてきた。
「僕を弟子にして下さい! お願いしますおじさん!」
「おじさんおじさんと貴様、俺はまだ二十四――」
 ふと、少年の日の自分と、フェスターの会話を思い出す。
――『おじさんじゃねえ! 大体俺とお前じゃ十五しか変わんねえだろうが』
「小僧、貴様いくつだ?」
「え、あ、九歳です!」
 そうか、『十五しか変わんねえ』か。
「……ついてこい。ホルグの倉庫に火を掛けるぞ!」

52日目4825文字
 きしむ車輪がゆっくりと山道を登る。木々もなく、荒涼とした岩肌と崖ばかりが広がる山地を十人ほどの隊商が進む。だれも無駄口を叩かない。声を出したところでごうごうと吹き付ける風に掻き消されるだけだと知っているからだ。いや、それ以前に彼らは声を出すことを恐れていた。
 風の棲処。
 そう呼ばれる地帯に自分たちは立っている、そう自覚すると自然と口数は減るものだ。

 中央大陸は文字通り五大陸の中央にあるため交易が盛んである。その中でも特に中央を走る交易路の傍には、いくつもの街に跨った荷馬車の貸し出し業が成功を収めていた。
 馬車を何台も所有するほどの経済力がある豪商が始めた商売だったが、彼はそこに私財のほとんどをつぎ込んで魔術師に荷馬車の位置をある程度割り出せる魔法を掛けて貰うことで、馬車の持ち逃げや置き捨てを防ごうと考えた。最初のうちこそ客が付かない上に野党などに荷馬車ごと盗まれもしたが、気の強い豪商は金に飽かせて傭兵や魔術師を雇って野党のねぐらを強襲し、高い元手の掛かった馬車を取り返すという無茶をした。時には繋がりのある領主に野党を一掃出来れば治安もよくなると進言して兵を借り、無惨に馬車を壊した野党を一網打尽にしたことさえあった。
 そんな事を繰り返すうちに、交易路周辺のならず者達は彼の貸し出し馬車に手を出したら損をすると学習した。商人達の中にも自分で荷馬車を買って盗賊が出る地域では人を雇う従来の方法よりも、乗っているだけで盗賊が手出しをしてこない馬車を借りられるのならば、そちらの方が安く付くと考えた。しかし盗賊もしたたかなもので、豪商が目の色を変えて報復に来るのは荷馬車に手出しをした時だけで、商人と積み荷がどうなろうと豪商は動かないと判断して、油断しきった無警戒な商人をカモにする事を覚えてきた。

 荷馬車を二台、六人で借り受けて荷物を積む。そこに、自分のロバに荷物を載せた商人が一人加わり、自力で荷物を背負って進もうという商人が一人加わった。
 彼らが隊商を組もうと思ったのは、最近この付近に盗賊が出るという噂を聞いたからだ。
 酒場で情報を集めている時に、同じく情報を求めてやって来た商人同士の利害が一致し、それを聞きつけた耳ざとい商人達が一人また一人と加わって八人での隊商となった。
 ここに、護衛役の傭兵を雇えば一応の格好は付く。商人達自身も旅に必要ということでナイフや短剣を扱える者は多い。自力で背負って運ぶと息巻いている若い商人などは腰に剣を下げているほどだ。更に彼らは旅の御守り代わりでもある貸し出し荷馬車を二台も使っているのだ。これであと二人でも傭兵を雇えば、三、四人程度の盗賊ならばどうにもできる。相手が五、六人でも人数の有利はまだある。相手が熟練の盗賊ならば厳しいかも知れないが、最近噂を聞くようになったということは、駆け出しかどこかの地方から流れて来たのだろう。
「しかしほんとに出るのかね」
 腰に剣を下げた若い商人が言う。盗賊の話である。
「出るんだろうさ、噂になってるんだからな。もっとも、噂を流したのが仕事に困った傭兵という落ちかも知れないがね」
 皮肉っぽく口髭を吊り上げて壮年の商人が応じた。笑って振り返った禿げ上がった商人が、笑みを引っ込めて顎で壮年の商人の背後を示した。
「そこまでだ、傭兵の旦那が気を悪くするぞ」
 見ると、赤毛の商人が二人の傭兵を連れて戻ってきた所だった。傭兵は気にしないといった風に肩をすくめて見せたので、どうやら聞かれてしまった後らしい。
「ヂームだ。得物は斧、一日三百二十センで日数は目的地に着くまで。目的地はラムラクの街。契約内容は間違いないな?」
 年の頃は三十前後といった所だろうか。頑強な筋肉と険しい顔つきに黒い短髪と口髭が風格を滲ませている。商人達が頷くと、ヂームの横に立っていた傭兵が軽く会釈した。
「トルンクです。武器は弓と投げナイフ、条件はヂームと同じでよろしいですね?」
 また商人達が頷く。一日三百二十センというのは、周辺で使われる貨幣価値としては充分な報酬だった。これで彼ら一行はこの場にいる七人の商人と二人の傭兵、まだ戻ってきていない最後の一人を合わせた十人の隊商となった。
「おーい、吉報だ吉報!」
 声を上げて手を振る男がいた。最後の一人、この隊商を最初に考えた若い商人だった。若いとはいえ行動力も実績も一定の評価を得ている男である。その彼の後ろにもう一人、傭兵らしき人物が見えた。
「傭兵連れてきたぜ!」
 その言葉に商人と傭兵達が顔を見合わせる。出るかどうかも解らない盗賊の対策として傭兵三人は商人としては歓迎できないし、傭兵としても分け前が減らされるという危惧がある。だが若い商人がこの隊商の中心となっているので無下にも出来ない。
「アシュホ・コムンさんだ!」
 剣を下げた商人が小声で「誰だよ」と悪態をついたが、傭兵二人は即座にコムンの腰を見た。両腰に剣が下げられている。
「ヴァンドルフの双剣衆か」
「それだ! いやー、酒場で見付けた時にはビックリしたよ!」
 聞き覚えのある傭兵の名が出てきたことで、商人達が改めてコムンを見直す。コムンは堂々とした口ぶりで軽く頭を下げた。
「アシュホ・コムン、武器は双剣。一日四百センでの警護依頼を引き受けた」
「四百!?」
「おい、えらく高いじゃないか!」
 口々に金の事を言い始めたのは商人達らしい。傭兵二人は複雑な表情でコムンを睨み付けていているだけだが、あまり友好的な雰囲気ではない。商人達を静めたのは、両手で制していた若い商人ではなく、傭兵の言葉だった。
「高いのならば二百五十で良い。この辺りには昨日着いたばかりで相場を知らん」
「いや、四百で良いんじゃないか」
 コムンの謙虚な言葉に即座に覆い被せたのはヂームだった。
「双剣衆と言えば使い手揃いで高名な傭兵集団だ。その実力の有る無しにかかわらず、名前だけで盗賊共への牽制になるだろう。我々にも値段の異存はない。もしもらい過ぎと感じたならば、後で返金すれば良い」
 言葉の端に若干の棘が混ざっていた。何もコムンの味方をしたわけではない。コムンの賃金が二百五十になれば、自分たちもまとめて下げられかねないからだ。今はこの周辺に戦争の類はなく、生きていくには安くとも護衛の依頼を受けざるを得ない。三百二十などという相場以上の金額が貰えるのならば、値段の格差には目を瞑った方が得策だと判断したのだ。
「で、そのヴァなんとかは……何なんだ?」
 剣を下げた商人の無知は他の商人と傭兵達の白けた視線を一身に集めた。商人たるもの世情に精通していないといつ大損をするか解らない。戦争や紛争が頻発する現在では戦の動きは重要な情報だ。それを調べていると、高名な傭兵達の名前は自然と覚えていくはずだった。
「コムンさんは双剣衆でどのぐらいの位置だったんですか?」
 今まで発言をしていなかった眼鏡をかけた商人が空気を変えようと問いかける。
「末席と思って頂いて結構だ。師やボル、クレイといった兄弟子には遠く及ばん」
 空気はあまり良くならなかった。

       †

「動くな!」
 ごうごうと吹き付ける風に乗った怒声と共に二十人程の盗賊が現れた時、禿げ上がった商人は思わず仲間への批難を口にした。
「何が“風の棲処”を通ったら安全だ畜生!」
「俺のせいだってのかよ、いいさ、片付けてやらぁ!」
 剣を下げた商人が抜剣した。商人達にも盗賊達にも禁忌とされている場所、それが風の棲処と呼ばれる岩山の一帯である。そこには残虐な魔人が何百年も棲み着いており、通った者は皆殺しにされるという伝説が残っていた。そんなものは迷信だと剣を下げた商人が言い放ち、若い商人もそれに同意したので、嫌々ながらこの道を選んだのだが、やはり噂になっていた盗賊というのは流れ者だったらしい。周辺の伝説など知る由もなく、逆に人が寄りつかないので格好の隠れ家になると住み着いていたのだ。
「二十三人か、一人当たり八人、行けるか?」
 コムンが二人の傭兵に問いかける。二人とも怯んだ様子だったが、辛うじて頷くだけの気勢は残っていた。そんな様子を見てコムンは自分が十人を引き受ける覚悟を固めた。
「有り金と荷物、あと服だ、全部置いていったら命だけは助けてやる。裸で街まで逃げ帰りな!」
 頭領とおぼしき盗賊の口上に、部下達が笑い声を上げる。コムンはその隙に目立たぬように臨戦態勢を整えていたが、ふとトルンクが未だに弓に手を掛けていないのを目にして思わずため息をついてしまった。熱心に頼まれたからといって、こんな仕事を引き受けるのではなかったかと若干の後悔をした時、不意に風が止んだ。

 岩山の頂点、全てを見下ろす場所で、ゆっくりとまぶたが開かれ、緑の瞳があらわになる。

「なんだ? 風が?」
 呟いたのは盗賊の一人だった。日頃から風の音がうるさくて苛立っていた彼は、唐突に風の音がしなくなった事にいち早く気づいた。他の盗賊も異変に気づいて辺りを見回している。
 商人の一人が頭を抱えて泣き出したのを見て、頭領もいよいよ何かがおかしいと思ったようだった。頭を抱えた商人は「もう駄目だ、お仕舞いだ」と人目をはばからずに大声でわめき散らしている。

 細い風に乗って泣き声が耳に入る。蒼空の色をした外套をひるがえして男が立ち上がる。傍らに刺していた黒い大剣を抜き、泣き声のする方へと意識を向けた。

 ごうっ、と一陣の風が叩き付けられた。それが実際の風ではなく、強烈な殺気だと気づいたのはコムンただ一人であった。
「何かが来る? 何だ?」
 そう呟いて、彼が高い岩山を見上げた刹那、視界の下方で悲鳴が聞こえた。すぐに視線を下ろして盗賊達を見ると、そこに立っていたはずの三人の盗賊がいない。代わりに、一瞬前まで盗賊と呼ばれていた肉塊が転がっていた。背後で悲鳴が聞こえて振り返ると、そこには真っ二つになった盗賊の死体が転がっている。戦慄を覚えるよりも早く悲鳴が聞こえ、そちらを見るとまた盗賊が一人肉塊に変わっていた。
「何だっ、何が起こっている!?」
 叫んで周囲を見回すも、二十三人いた盗賊は頭領を残して全てが冥界の住人となっていた。ひっ、という短い叫びと共に頭領の胴が二つに分かれる。
 崩れ落ちる死体の向こうに立っていたのは、青い外套に身を包んだ銀髪の青年だった。二十代半ばだろうか、凍りついたような緑の瞳には年齢を超越した醒めがあった。
「ここはどこだ?」
 凍りついた声が問いかける。自分のいる場所が解らないといった口調ではない。子供を諭すような雰囲気だ。
「風の棲処ですっ!」
 泣きわめいていた商人が土下座をしながら応える。青い外套の男は身の丈ほどの黒い大剣を片手で持ち上げると、満足したように頷いた。
「解っていて我が領域を侵すか。まあ良い」
 土下座していた商人がほっとしたように顔を上げた。次の瞬間、コムンの胸にほっとした表情のままの首が飛んできていた。
「どうせ殺す事には変わらん」
 凍てついた声が商人達の心を凍らせた。コムンは双剣を抜いたまま、ぽつりと呟いた。
「ジーン・スレイフ・ステイレス」
 師や兄弟子が畏れた魔人の名だった。呼ばれたジーンが双剣に気づく。
「双剣、貴様ヴァンドルフやボルテクスの知己か?」
「双剣衆が末席アシュホ・コムンだ!」
 構えた彼に、魔人は残虐な笑みを浮かべるのだった。

 一刻の後、岩山の頂上で深い瞑想に戻った魔人の身体には傷一つ残ってはいなかった。

57日目4716文字
 焚き火に照らされて薄い刃が光る。
 リックは眠い目を一度だけこすって眼鏡をかけた。
「起きたか」
 ヴァンがリックをちらりとも見ずに呼び掛けた。
「そろそろ交替の時間か?」
 言いながら、リックは枕元に置いた時計を見た。
 ヴァンはもう慣れたもので気にする様子もなかったが、かつてはその時計に驚いたものだった。
 彼が住む世界では時計は王侯貴族しか持てない高級品だった。
 リックの世界では、リックだけでなく、小雨のような子供でも時計を身に付けている。
 最初はヴァンはあちらの機械技術に、リックはこちらの魔法技術に心底驚いたものだ。
「で、お前は何やってんだ?」
 焚き火で刃物をあぶっている姿を見咎めてリックが眉根を寄せる。
「見ればわかるだろう。刃を焼いている」
「……なんでだ?」
 ヴァンは答える代わりに空を指さした。
 遺跡に広がる偽物の空が僅かに明るい。夜明けが近い。
「あん? 今は……朝四時だな。それが?」
「わからんか? 髭を剃るんだ」
 確かに明け方近くは髭が伸びやすい。
 だがリックは理解に苦しむといった風に、無精髭の生えた顎をさすった。
「お前さんはヒゲ似合うと思うんだがな。ほれ、鴉や鎖の旦那みたいによ」
 火から刃を離し、ヴァンは相変わらずそちらを向かないままでリックの顔を指さした。
「それが嫌いなのだ」
 指さされたリックは不思議そうな顔をした。
「鴉や鎖の旦那が?」
「違う、無精髭がだ」
「なんでだ?」
 至極もっともな質問にヴァンはようやくリックの顔を見た。
「……良かろう、話してやる」
 太ももに敷いたなめし革の上に薄刃の剃刀を置いて、ヴァンはリックへと体ごと向き直った。

       †

「陛下、敵が動きました、川を越えるつもりです!」
 報告に来た下級騎士に馬上から鷹揚に頷きながら、ヴァンは鉄兜の奥で小さく舌打ちをした。
 下級騎士が下がると、ヴァンの両脇に馬を並べた上級騎士の片割れが他には聞こえぬ音量の声で話しかけてきた。
「デュッセルライト殿、どうなされる?」
「それを影武者の儂に訊くのか? やれやれ、給料に軍師や指揮官は含まれておらんかったはずだがな」
 上級騎士の鉄兜が下を向く。恐らく兜の奥では赤面しているだろうが、顔を覆う兜に遮られて見えない。
「仕方がない、儂とて死にたくはないし、全軍に逃げろとも言えん。それに――」
 小国同士の小競り合いである。原因を思い出すのも馬鹿馬鹿しい。隣国の夜会に招かれたフキ公国の大公とウォキ騎士団領の侯爵が下らない理由で口論となり、運の悪いことに二人はそれぞれの国の最高意思であったために、口喧嘩の延長で戦争に発展してしまった。これで死ぬ兵はたまったものではない。
「兵士達もさっさと家に帰って畑の様子を見たいだろう。雨続きで気が気でならんはずだ」
 ヴァンがフキ大公から影武者を頼まれたのは開戦が決まる少し前である。どうやら今回の戦はフキ大公とウォキ侯爵がそれぞれ親征で決着を付けるという話らしい。恐らく誇りや勇気に関する事が口論の原因だったのだろう。ヴァンにしてみれば、それならば影武者を立てずに立派に戦えと思う。戦場で死ぬのが怖いのならば、馬上試合の決闘で決着を付ければ良いだけの事だ。
「まったく、一度儂が影武者をやったと聞いたから、自分も頼むだと? 臆病者めが」
 上級騎士には聞こえているはずだが、彼は甘んじてその言葉を黙殺したようだった。
「かといって手をこまねいていては不利になるか……良かろう、儂が出る」
「デュッセルライト殿!?」
「声が大きい。儂が先頭に立って突撃を仕掛ける。敵が川を渡りきった所に、儂の合図で横合いから川沿いに突撃を仕掛けて、そのまま駆け抜けて離脱する。良いな、一撃離脱だ」
「しかし声を出されると影武者がばれてしまいます」
「兜越しのくぐもった声だ。そもそもあの大公の声を下々の兵士が知っているのか?」
 間違っても領民と気楽に喋る類の人物ではなかった。上級騎士もそれを認めた。

 川を越えてきたウォキ騎士団は横合いからの奇襲に迅速に対応した。
「儂の策が読まれたか?」
 一撃離脱で駆け抜けるつもりが、意外にも重厚な敵軍の展開に阻まれて失速してしまっていた。
「フキ大公の声を知っている者に聞かれるのは上策ではないが……」
 馬上から長剣を振り下ろしながらヴァンは戦場を見渡した。
「影武者と気づかれても口を封じれば問題ない」
 身に纏う板金鎧の重さが苛立ちを助長する。
「ウォキ騎士団が首魁に告ぐ! フキ大公はここだ、尋常に勝負しろ!」
 戦の喧騒にざわめきが混じる。遠くで「応!」と声が聞こえた。
 ヴァンは馬首をそちらに向けると真っ直ぐに突進した。
 騎士団領の兵だけあって、敵軍は領主同士の一騎打ちに水を差そうとはしなかった。ヴァンが進む道を素直に空ける。
「騎士道精神という奴か? 戦場では命取りだろうに」
 そう呟きながら前方を見ると、向こうからも立派な鎧に身を包んだ騎士が向かってきていた。
「ウォキ騎士団領が主、ウォキ侯爵ギュスフィム三世である。貴公の決闘に応じよう、勝負!」
 相手が名乗りを上げる。ヴァンはその声にまた違和感を覚えた。
 突進してくる相手の剣を真正面から受け止める。
 双剣術ならば片手で受け流して、もう片方でとどめと行きたい所だが、ひと振りの長剣ではそうも行かない。
「…………やるなウォキ侯!」
 二合目を打ち合いながら、ヴァンはわざとそう言ってみた。
「! ……貴公こそやるではないかフキ大公!」
 三合目は馬上での鍔迫り合いの形となった。お互いの鉄兜を打ち合わせるほどに顔が近づく。
「……クレイ、貴様こんな所で何をやっている」
「師匠こそ何をやっているのです」
 お互いに聞き慣れた声だった。フキ大公がヴァンに影武者を頼んだのと同じように、ウォキ侯爵はヴァンの高弟であるソルトソード・クレイモアに影武者を頼んだようだった。
「儂は仕事だ。下らんがな」
「私もです。どこかの高名な双剣使いがっ」
 ヴァンがウォキ侯ことクレイの剣を弾いて、僅かにそれた馬首を修正する。四合目もまた鍔迫り合いの形となった。
「師匠が以前に影武者をやったのを聞きつけて、弟子の私もやってくれるだろうと思ったんでしょう!」
「お前が相手ならこの仕事はボルに押し付ければ良かったなっ!」
 今度はヴァンの剣が弾かれる。わざと弾かせた。
 ボルとクレイはお互いに認め合い対抗し合うヴァンの高弟であった。今は英雄の故郷という店を作るためにヴァンの元を離れていた。
 五合目も鍔迫り合い。傍目からは実力の伯仲した名勝負に見えている事だろう。
「どうします?」
「儂らが殺し合っても仕方あるまい。引くぞ」
「せいぜいお互いを讃え合うとしますか?」
「そうだな、その方が兵士が迷惑せん」
 双方の剣が弾かれたように見せてお互いの剣を引き、六合目は互いにすれ違うように駆け抜けながらの一刀だった。
 少し距離を置いてからヴァンとクレイはお互い向き合って剣を胸前に掲げた。
「ウォキ侯、貴公の勇猛さ、感服に値する。さすがは騎士団領の長と讃えさせていただこう!」
「なんの、フキ大公! 閣下も並の騎士を凌駕する腕前、政治手腕だけでなく剣の腕もここまでとは恐れ入った!」
 司令官同士の奇妙な空気を感じ取ったのだろう、戦場の殺気が鈍る。
「過日の非礼、詫びさせていただく!」
「私からも非礼をお詫びする! ここは停戦と行きたいがどうか!」
「受けよう! 全軍戦闘を停止せよ!」
「こちらも全軍戦闘やめぃ! 停戦だ!」
 お互いに影武者を頼まれた一介の傭兵にしか過ぎない。だが、彼らが影武者であることを知っているのは極少数しかおらず、権力者の気まぐれで命を落とす兵士にとっては、ヴァン達の言葉こそが王の言葉なのだ。
「後日、改めて会談の席を設けたいがどうか!」
「了承した、今後は貴国との友誼を結びたい!」
 勝手なことを言って、二人の傭兵は自分のではない軍隊を率いて国へと戻って行った。

「デュッセルライト殿、どうするのです陛下にどう申し開きを?」
 宮廷への凱旋のさなかに上級騎士が兜を取って馬を寄せてきた。
「申し開き? そんなものは必要ない。儂は大公の代わりに血と汗を流して、行水も出来ぬ髭も剃れぬ強行軍を戦い抜いてやったのだぞ、薄給で」
 最後の部分を強調しながら門を潜る。これより先は貴族以外立ち入りを許されていない巨大な中庭だ。フキ公国の貴族とそのご婦人が大挙として押し寄せて勇敢な影武者を見ようと集まっていた。
「見ろ、貴族どもも喜んでいる。ということは、大公も儂の行動を怒ってはおらんと言うことだ」
 そう言ってヴァンは兜を取った。後ろで纏められた髪が風になびく。汗と垢を洗い流したい欲求を風で代用する。
「相手も影武者、それも儂の弟子を立てておったのだ。馬鹿馬鹿しい戦いを終わらせて、お互いの部下からの評価を上げる戦いぶりを見せて、更には賢明なる英断までして見せたのだ。わかりやすく周囲に聞こえる大声でな。大公も侯爵も黙っておれば株が上がる、荒立てる必要などどこにも無いわ」
 ヴァンは無精髭に包まれた口の端を僅かにつり上げると、不敵に笑って見せた。

       †

「……で、その話のどこに無精髭嫌いの原因があるんだ?」
 無精髭を撫でながらリックが問う。
「気が早い、問題はその後だ」
「大公に怒られたか?」
「それはもう少し先、原因は同じだがな」
 ヴァンはなめし革の上に置いた薄刃を触り、熱が逃げたのを確認すると顎に当てて剃り始めた。
「良く熱して滅菌せんと剃刀負けをするからな」
「剃刀どころか顔中剣で斬られておいて何を今更」
 リックが笑うと、ヴァンもにやりと笑って返した。
「リックの世界では髭はどう処理してるのだ?」
「電気シェーバーか剃刀かね。五枚刃の抗菌剃刀なんてのもあるが」
「ふむ。儂のは特別でな、知り合いの魔導師に頼んで熱を帯びればちょっとした治癒魔法が発動するように剃刀を加工して貰った」
「何のためだそりゃ?」
「髭を剃った時に肌も切るだろう、その切った肌を即座に癒して菌が入らないようにするから、二度剃りでも逆剃りでも、特に肌を濡らさなくとも平気だ」
「何だそりゃ、滅茶苦茶便利じゃねえか。俺にもくれよ」
「並の傭兵が三ヶ月かかって稼ぐぐらいの金が必要だぞ」
「高ぇ! そうだよ、何でお前そんなに髭が嫌なんだ、話それてんじゃねえか」
 リックの言葉にすぐには答えず、ヴァンはしばし髭を剃ってから口を開いた。
「……凱旋の際にな、儂の無精髭が荒々しく男らしかったとかで、ご婦人方に持てはやされたのだ」
 答えを待っていたリックは、ようやくの返事にどう反応して良いかわからず、何度か表情を変えてから言った。
「自慢か?」
「違う。それに嫉妬した貴族達から反感を持たれた挙げ句、大公妃が儂を庇ったものだから大公まで怒ってな」
 深いため息をひとつ。
「給料を貰う前に国を追われる羽目になった」
「……とりあえず呑むか?」
「頂こう」

※この回はArmored Styleイベントに参加していました。
分類的には偽島と過去回想が混ざっているので両方に掲載しておきます。

61日目4800文字
「若頭!」
 幾分懐かしく感じる呼び名に足を止めて振り返る。懐かしい顔が子供のように喜色満面の笑みを浮かべていた。
「やっぱりヴァンの若頭だ! いやぁ、久しぶりだなぁ。どうしたんです、こんな所で。双剣衆の皆さんは一緒じゃないんですか? ボルの兄貴とかもいませんが?」
 呼び止めた男は早口で矢継ぎ早に質問を繰り出して来る。
「お前は相変わらずだな」
 苦笑しながら言うも、昔から変わらぬ特徴がどこか嬉しい。
「儂はしばらく双剣衆とは行動を別にしているのでな。酒場なんぞをやっている高弟以外は、今頃どこで何をしているのやら」
 双剣の傭兵ヴァンドルフ・デュッセルライトと、彼の弟子の双剣使い達を纏めて双剣衆と呼ぶ者がいる。発祥はヴァンの名を知らぬ敵兵が、相手に双剣使いの一団がいると上司に報告し、敵方でヴァンと弟子達を双剣衆と仮称したのが最初だと言われている。
 ヴァンや弟子達がそう名乗ったわけではないが、新たな雇い主を探す際に細かく自分や弟子達の特徴を述べて売り込むよりも、「ヴァンドルフの双剣衆だ」と言った方が相手の理解が得られやすくなって来たために、彼ら自身もそう自称する事となった。
 弟子の双璧、ボルとクレイの二人にヴァンがかつて二つ名としていた剣、黒双剣と白双剣を譲ってからは、彼ら二人を副官とする傭兵隊と扱われることも増えた。
 しかしここ二、三年はヴァンの言葉通り師と弟子達は行動を別にしており、それぞれの道を歩んでいた。
「儂が宮廷で腐っている間に見切りを付けたのかも知れんな」
 そう笑ってみせる。賓客として王宮に招かれ、そこで無為な時間を過ごした日々を思い出すとそんな考えも出てくる。心が惰弱になっていくと感じたからこそ、ヴァンは王宮を去り、孤島で己を鍛え直そうとその旅路を急いでいるのだ。
「若頭が王宮暮らしって噂は本当でしたか! そうだ、親父にも知らせなきゃ。一緒に飲みましょうよ!」
「頼むから道ばたで若頭若頭と大声で言わないでくれ」
 先程から街の人はあからさまにやくざ者を見る目でヴァンをちらりと見ては、関わり合いになりたくないと目を逸らして早足で去っていく。
「行きましょう若頭!」
 ヴァンはあからさまに肩を落とすと、口の中で「そう言えば昔から人の話を聞かん奴だった」と呟いて、酒場に向かう男の後をついていった。

       †

「若頭!」
「おお、若頭だ!」
「お久しぶりです若頭!」
 店に入った瞬間からこの騒ぎである。ヴァンは眉間を押さえて首を振ってから、すぐに苦笑した。
「もう儂も若頭と呼ばれる歳ではないはずなのだがな」
「それをこの国で言っちゃぁマズイぜ、デュッセル」
 大きくはないがよく通る声が一番奥の席から届く。それまでヴァンを若頭と呼んでい男達がヴァンのために道を開けた。その先には白髪交じりの筋骨隆々な男が酒を飲んでいた。
「やあ親父殿、相変わらず生きてるのか」
「そろそろ飽きてきた」
 ヴァンが席に着くと、白髪の男は大きな酒瓶を荒々しくテーブルに叩き付けた。飲めと言うことだ。ヴァンは酒瓶から直接一口がぶりと飲んでから軽くむせこんだ。
「相変わらず酒が弱いなデュッセル。それじゃ俺の後を任せられん」
「酒精が強すぎる、これでは消毒液だ!」
「ん、ばれたか。これは消毒液だ。酒はこっちだ」
 そう言って別の酒瓶をテーブルに置く。ヴァンはそれも一口がぶりと飲むと、今度は落ち着いたように息を吐いた。
「親父殿は消毒液を飲んでいるのにその毒気は消せんのか」
「消毒液なんぞ飲む馬鹿がどこにいる。……ああ、お前か」
「ぬかせ」
 そう言ってヴァンが笑うと、白髪の男も大いに笑った。
「若頭、どうぞ」
 店のカウンターから若い男が酒杯を持ってくる。ヴァンには見覚えのない顔だった。新入りなのだろう。
「若頭はよせ、そんな歳ではないし、儂はお前達の傭兵隊に入っているわけではない」
「デュッセル、さっきも言ったがこの国じゃそれは禁句だ」
 白髪の男が酒をあおる。
「この国の王子様の歳を知っているか? 七十三だぞ。生まれたときから王子でそれから七十年以上ずっと王子だ。しかも乗っている馬が白馬ときたもんだ」
 周囲の男達がどっと笑う。
「七十過ぎの白馬の王子様は、いい加減王子と言われる事に嫌気が差してるってもっぱらの噂だ。二年前に第二王子だった弟が六十七で死んでからな」
「……王は幾つだ」
「来年で百だ。お前はまだ四十かそこらだろ?」
「もうすぐ四十三だな」
「なら若頭で良いじゃねえか。何、俺もそろそろ生きるのに飽きてきたから、戦場をあの世に移そうかと考えてるんだ。お前にうちの若い衆預けるって話、まだ諦めてねえぜ?」
「親父殿、いや、ランドウィン殿。貴公の申し出はありがたいが、以前にも謝辞した通り私は大所帯を率いる器ではない。それに貴公の部下にも立派な跡継ぎ候補が何人も――」
「デュッセル、立派な物言いが出来るようになったじゃねえか。それも例の宮廷暮らしで身についたか? その辺の話を聞かせろよ」
「ランドウィン殿、話を――」
「チラッショとギラ以外の分隊長どもはお前を頭にしたがっている」
「だがチラッショは才覚のある戦士だ――」
「だった、だな。もう死んだ。ギラは分隊長の末席だ、どのみち奴には継がせられん」
 ヴァンは精神的な頭痛を押し込めるために酒を飲んだ。
「そうか……チラッショが死んだのか」
 一方的に嫌われていたが、ヴァンは死んだ傭兵が嫌いではなかった。野心もあったが戦士としての才覚だけでなく、部下を率いる才覚もあった。
「デュッセル。部下四百七十人の命を預けると言うのは、思いつきや贔屓なんかで出来ることじゃないぞ」
「親父殿……」
 ランドウィン傭兵隊はヴァンや弟子達の古巣とも言える大規模な傭兵隊だった。
 古兵であるランドウィンの知名度と信用度は抜群で、若き日からヴァンは何度も彼の傭兵隊と共に雇い主に売り込んで貰ったという恩がある。未熟な弟子を引き連れての参加も歓迎してくれ、おかげで弟子が良い戦場で成長出来た。数々の戦場で仲間として戦い、また共同作戦も幾度も成功させてきた。
 戦士としての腕前以上に、部下を生還させる確率が高く、人柄も魅力的というので、気づけば人数が増えていくのがランドウィンの傭兵隊だった。共同作戦などで組んだ後に、自然とランドウィンの傘下に収まっていた傭兵隊というのもいくつかあったほどだ。
 ヴァンも何度か仲間にならないかと誘われ、若き日には揺らぎもしたが断り続けてきた。それが七年ほど前からは仲間ではなく、次期頭領にならないかという勧誘に変わった。
「儂は親父殿に恩がある。だが――」
「その恩を返す方法は、お前が俺の部下を引き受ける事しか認めんぞ」
 部下も話を聞かない男だったが、ランドウィンもまた、話を遮って自分の流れを作るのを得意としていた。
「若頭にボルの兄貴とクレイの兄貴が入ってくれりゃ、百人力ですよ!」
 彼らはランドウィンを親父と呼び、格上の傭兵を兄貴と呼ぶ、まるで家族かやくざ者のような繋がりの強さを持っている。その中で、ヴァンは若頭と呼ばれ、彼の弟子の中でもボルとクレイの高弟二人は兄貴と呼ばれている。
 それほどまでに慕ってくれるのは嬉しいが、ヴァンには荷が重すぎた。断る理由は己にも掴めていないが、それでも引き受けるのはありえないという確信だけはある。
「百人どころか三人だから三百人ですぜ!」
「いや、若頭だけで五百人だ!」
「そうそう、何たって暁の鬼神だからな!」
 傭兵達は純粋にそう言っているだけなのだろうが、その言葉がヴァンの心に若干の居心地の悪さを覚えさせた。それを敏感に感じ取ったのか、ランドウィンが酒瓶を置いた。荒々しくはないが、その音で軽口がやむ。
「デュッセル。ランルファの件は聞いているぞ」
 それは昨年の戦いだった。傭兵ギルドの総本山がある小国フェントスに、隣国ランルファが同盟を破棄して奇襲をしかけてきたのだ。その情報を知ったヴァンが国境警備の傭兵部隊に奇襲を報せに走り、指揮官として前線に立った。
 国境を守る百人の傭兵と、先遣隊として現れた五百騎の騎士、絶望的な戦力差だった。
 ヴァンは数時間にも渡る戦いの中、ただ一人最後まで立っていた傭兵だった。
 仲間の大半は死に、生き残った傭兵達もいつ彼岸へ渡るか分からない重傷ばかりである。ヴァン自身も重傷を受けていたが、迫り来る敵の刃をいなし、反撃で切り捨てる。いくら斬っても刺しても倒れない双剣使いの姿は、敵兵には怪物に見えたらしい。
 夜明けが来て、先遣隊の奇襲が失敗したと判断した本隊は退却のかぶら矢を放った。
 先遣隊の隊長は後に、引き上げる途中一度だけ背後を振り返り、暁の陽光を受けながら立つヴァンが鬼神に見えたと話した。
「お前、あの一件で聖騎士叙勲を受けるそうじゃないか」
 ランドウィンの何気ないひと言で、ざわりと空気が揺らぐ。
「親父、聖騎士って十聖騎士ですか?」
「アヴァロニアの!?」
 反応を無視してランドウィンとヴァンは同時に酒を飲み、同時に酒杯を置いた。
「例の宮廷に招かれたのもあの一件のせいだからな。宮廷でもその話は小耳に挟んだ。ただの噂に過ぎん。だがな親父殿、例え真実だとして儂が受けると思うか?」
「思わんが、受けろ」
 この答えに面食らったのか、ヴァンは酒杯を持ち上げかけた手を止めた。
「ありゃただの名誉勲章だ。紛争地に派遣されては面倒事を押し付けられる、何の権力も無い面倒な名誉職だ。だがな、名誉ってのが重要だ。俺ら傭兵じゃいくら頑張っても馬鹿な王侯に通じる名誉なんてのは無い。せいぜいお前を招いた王様みたいな好事家な王侯や、その名と力を良いように使ってやろうってのが手元に置きたがるぐらいだろう」
 止めていた手を動かし、酒杯を口に運びながら頷く。
「だがな、十聖騎士って分かりやすい名誉を持っていれば、それだけで潰しが効く。今の世代の聖騎士様だとドワーフ王ギミッカや、ドラグナイツのプログレス皇帝がいるせいで、余計に潰しが効いている」
 ランドウィンは自分の酒杯を飲み干すと部下に投げてよこして、新しい酒を要求した。
「デュッセル、お前今なにしてる?」
「……孤島への旅の途中だ」
「二十年ほど前に天破を修得したって島か。つまりは鍛え直しか?」
 黙って頷く。
「まだ己が未熟と感じるか。なら行ってこい。納得が行くまで心を鍛えればいい」
 何も言っていないのに、身体ではなく心の問題だというのを見抜く眼力はさすがだった。ヴァンは改めて目の前の傭兵に感服したが、言葉に出さなかった。出さずともどうせ見抜かれる。
「帰ってきてから、俺の傭兵隊を継ぐか、それとも聖騎士叙勲を受けるかを考えれば良いさ」
「二択か、まったく親父殿は意地が悪い」
 ふん、と鼻で笑ってランドウィンは部下に差し出された酒を飲んだ。
「どうせお前のことだ。金を稼ぐとか名を上げるという目的で傭兵をやっているのではないのだろう。最初は生きるためでも、今は何か思うところがあるはずだ。それを成すために、俺の部下達という武力か、聖騎士叙勲という名誉か、そのどちらかの力は必要だ。違うか?」
「いや、正しい」
「よし、行ってこい」
「また会おう」
 そう言ってヴァンは一礼し、ランドウィンの元を去った。
 ヴァンが新たな孤島へ着く二日前の出来事だった。

62日目4617文字
 頭領と話をしていたヴァンが立ち上がり、酒場を出て行く。その背中を見つめながら、少年傭兵はあの男は一体何者なのだろうと考えていた。
 彼の所属する傭兵隊の人間ではないのに皆から若頭と慕われ、頭領が人目をはばからずに跡を継げと言い寄り、しかもそれを袖にする。
「どうした?」
 分隊長を任されているオドムが少年の表情を見咎める。彼が疑問を口にすると、オルドは笑って頷いた。
「お前はまだ十三だったか、若頭と俺たちが最後に戦った時にはまだ青二才にもなってなかったな。よし、俺と若頭の出会いを聞かせてやるよ」
 オルドの言葉に興味深そうな顔をしたのは少年だけではなかった。オルドから青二才と呼ばれる若い面々はそろって身を乗り出した。
「そうだな、俺が若頭と初めてあったのは十二、三の頃、十五年ほど前だから若頭が今の俺と同じぐらいの歳の頃だ――」

       †

 念願叶ってランドウィン傭兵隊の一員になった。戦場にも二度立って、敵兵を五人倒した。最初の戦いでは一人。兄貴分だったチラッショが頭を撫でて褒めてくれたが、ガキ扱いされているようで不満だった。二度目の戦いで四人を倒した時は、分隊長達も褒めてくれたと後で聞いたが、その頃オルドは生死の境をさまよっていたので褒められた現場には居合わせていなかった。
 三度目の戦場は、今までとは違い最初から前線に配置された。二度目の戦いが評価されたご褒美みたいなものだろう。
 ちらりと斜め前に立つ男に視線をやる。知らない男がランドウィン傭兵隊の栄えある最前線に配置されていた。
「あれが孤狼だ」
 兄貴分のチラッショが小声で教えてくれた。聞いたことはある。滅法強い二刀流の傭兵。どこかの国の、もう死んだ二刀流の将軍と仲が良かったらしい。将軍と仲が良いということは金を持っているか、身分を持っているか、世渡りが上手いのだろう。そんな邪道な傭兵が栄光のランドウィン傭兵隊にいるだけでも気に食わないのに、分隊長と同格とでも言わんばかりに最前線の先頭に立っていては気分が悪い。一番槍は分隊長と決まっているはずなのに、あれではあの男が一番槍を取ってしまう。
「その一匹狼がなんでうちにいるんですか」
「ランドウィンの親父が呼んだらしい。古い友人の忘れ形見だってよ」
 その答えが更に気に食わない。
「ただの縁故じゃないですか。どこが一匹狼だ、感じ悪い」
「だが強いぞ」
 オルドが兄貴分に振り返った時、チラッショはもう前を向いて戦士の顔になっていた。
 遠くで開かれた戦端が、次第に彼らの所にも迫ってきていた。

 雇い主からの合図が戦場に響き、ランドウィン傭兵隊が戦線に投入された。
 戦場に慣れぬオルドは、迫る敵ではなく、一番最初に敵と斬り結ぶのが分隊長なのか一匹狼なのかばかりを気にしていた。分隊長が最初の敵を斧で薙いで初めて自分の戦闘に意識をやったが、雑な突撃をしたせいでお互い助け合うはずだったチラッショとはぐれてしまっていた。恐怖、初めて押し寄せる孤立の恐怖。前に味方がおらず、横に味方がおらず、後ろを見ようものなら前の敵に頭を割られる。恐怖、恐怖、恐怖。泣き出したくなる恐怖がオルドの身を包み、それが戦場の狂乱と相まって、更に彼の冷静さを奪っていった。
 恐怖からくる狂気に身を任せて、一心不乱に斧を振る。身体中に細かな傷が出来ているが、痛みは感じない。斧を振って敵兵の肩を砕き、前に進んでまた斧を振る。敵兵も新兵特有の無理性な暴走を警戒してオルドを避けているのが幸いした。普通ならば二、三人で短槍や手斧を繰り出して一瞬で殺されているだろう。そうしてこないのは、オルドが狂気で痛みを感じないと悟っているからだ。致命傷を喰らっても気づかずに反撃してくる事があると知っているからだ。
 これまで四人しか倒したことのないオルドが、この戦場ではすでに七人に手傷を負わせて三人を絶命させている。自身の血が一割と、他人の血が九割、彼の身体は血まみれだった。
 四人目を絶命させた後、頭蓋から斧を引き抜こうとして血で手が滑った。すっぽ抜けそうになった斧を咄嗟に掴んで安堵のため息をつく。
 それが、オルドに理性を取り戻させた。
 我に返った瞬間に繰り出される敵の短槍を避けるが、反撃には繋がらない。
「えっ!?」
 情けない声が出る。周囲に味方が見えない。横にいる敵兵はオルドの後方にいる味方と戦うために前を向いているが、前にいる敵兵は確実にオルドへ殺気を向けていた。
「ひぃっ」
 そんな悲鳴を聞いて、敵兵の殺気が膨れあがる。狂気が解けたと確信したのだ。
 先ほどまでの恐怖とは比較にならない、現実的な死が目の前にあるという恐怖が押し寄せてくるが、それは狂気ではなく硬直に繋がった。一瞬翼が見えたと思ったのはそんな時だった。
「ひっ、告死の翼だ!」
 そんな悲鳴が敵兵から上がった。熟達の兵士達にざわりと動揺が広がる。若い敵兵はそんな動揺を感じて、自らも動揺した。
「違うっ、こいつは」
「孤狼だ!」
「何で孤狼がいる!」
「こいつらランドウィ――」
 敵兵の首が叫びながら宙を舞う。
 空に鮮やかな翼が血で描かれる。それを見た敵兵の怯えた顔を、オルドの斧が叩き割る。相手が怯んでいる隙にとにかく手当たり次第に斧を振って、死を必死で振り払う。
「うわぁぁぁぁっ!」
 叫んで斧を振って相手を殺して、次の相手に狙いを定めた瞬間、背後から伸びた剣がその敵を貫いていた。
「オルド、先走りすぎだ」
 まるで一年も聞いていなかったように、兄貴分の声は懐かしく感じられた。
 迫る敵をまた剣で貫く。続いてオルドも斧で敵を薙ぐ。
「先走るにはあれぐらいの強さがいる」
 チラッショが意識だけで前方を指し示す。それが感じ取れなくとも、前方にいる味方はヴァンただ一人、誰のことを言っているのかは間違うはずもない。
 決して巨漢ではないが、ヴァンは敵兵の波の中でどこにいるか明瞭にわかる。敵の恐怖の中心にいる。無様にオルド達に背を向けている敵兵はヴァンに意識を持って行かれている。その背骨を斧で砕いて、ランドウィン傭兵隊は前進する。
 人垣の狭間にちらりと見えたヴァンは満身創痍だった。疲労も見て取れるし、傷も負っている。だが――
「強い……」
 オルドは思わずそう呟いていた。
「戦場じゃっ! 限界なんてのはすぐに来る」
 敵兵を倒しながらチラッショが言った。
「あいつは限界が来てからが凄いんだ。絶対に倒れない、折れない」
 オルドはそれを聞いて――

       †

「ああ、あの人は一匹狼じゃなくて孤狼なんだと悟ったのさ」
 十五年分の成熟を感じさせる声で、オルドは得意げに語った。しかし少年傭兵はいまいち理解しているとは言い難い表情だった。オルドは僅かに苦笑して酒で唇を潤してから続ける。
「何て言うかな、一匹狼とは違うんだ。孤独、孤立、そんな雰囲気もあるんだが、それ以上に孤高なんだよ」
「群れを捨てたり、群れに入れない一匹狼ならば、俺があいつに跡目を譲ろうなどと考えるわけがない」
 オルドの後ろに、いつの間にか彼らの頭領ランドウィンが立っていた。
「事実、あいつは少年兵がいると死なないように陰で支えるし、弟子も付いてくる限りは見捨てない。群れを大切にするから狼だ」
「そういうこった。だから分隊長の兄貴達も若頭を次期頭領にしたいのさ」
 少年兵は納得したように頷いてから、また疑問があるような表情に戻った。
「どうしたよ?」
「えっと、チラッショ分隊長とギラ分隊長は、あの人を迎え入れるのに反対だって聞いてました」
 先日戦場で散った兄貴分の名前を出されて、オルドの心が一瞬ざわつく。まだ立ち直り切れていない。
「ああ、あいつらは反対していたな」
 オルドの代わりにランドウィンが答える。少年傭兵は少し畏縮しながらも、おずおずと疑問を口に出した。
「でも、オルドさんの話を聞いているとチラッショ分隊長はあの人を嫌っているようには聞こえなくて」
「ああ、ヴァンの奴は嫌われてると信じ込んでたみたいだな」
「兄貴は気難しかったからなぁ」
 野心家で面倒見が良かった兄貴分はヴァンを迎え入れるのを最後まで反対していた。
「兄貴は自分こそが頭領になるって野心もあったけど、若頭に憧れてもいたからな」
「ほう、お前にはそんなことを言っていたか。俺にはヴァンをこんな所に縛り付けるべきではないと言っていたぞ。こんな所たぁ何だと叱ってやったがな」
「結局若頭は一箇所に縛り付けられるよりも、自由に飛び回っているのが似合いますからね」
 オルドの言葉にランドウィンも深く頷いた。
「身分も血筋も無い、誰の子とも知れなかった小僧が今や傭兵のくせに王侯に客人として招かれる始末だ」
 かつてランドウィンがヴァンを紹介する際に古い友人の忘れ形見と言ったのは、間違いではないが正確ではない。ヴァンの親は誰も知らない。ヴァンを拾った兄代わりの傭兵と、彼が所属していた傭兵隊の頭領が、ランドウィンの知己だっただけだ。幼き日のヴァン自身、傭兵隊の面々を家族と考えていたので、その紹介に口を挟まなかった。
 ヴァンを拾った傭兵隊が、告死の翼の異名を持った猛将、双剣将軍アズラスによって全滅した時、ランドウィンはヴァンを拾おうとは考えなかった。良くある話だからだ。だが、ヴァンがアズラスを仇と定めて自分も双剣を修得した頃、異質を感じてヴァンの動向を気にするようになった。気づけば、ヴァンはそのアズラスと幾度か戦い、そして戦友となって和解していた。孤高の猛将の邸宅に招かれるまでになって、ランドウィンはヴァンに一目置くようになったのだった。
「俺はな、あいつに傭兵の希望になって欲しいんだ。俺みたいにでかい傭兵隊作って名も上げると、傭兵の限界が見える。だがあいつはその限界の先に行ける気がする。だが、それにはまだ力が足りない。そのための足がかりにお前らを使えば良いと思ったんだがな。あいつぁ、あのツラで意外と甘いから、何だかんだでお前らを見捨てずに良い思いさせてくれるだろうしな!」
「違いねえや」
 オルドだけでなく、他の傭兵達もどっと笑った。少年傭兵もつられて笑った。彼には未だにヴァンという傭兵の実像が掴めなかったが、それでも信頼する仲間達に好かれている事だけはわかった。それで充分だった。
「しっかしまた修行の旅とは、若頭も求道に貪欲なこった。……しばらく会えねぇなぁ」
 そう言って、十五年前の戦いを思い出す。あの時、狂気が解けたオルドの気配を感じて、ヴァンは無茶をして敵の意識を引いたのではないか。その疑問は今日も聞けなかった。聞くのも無粋かと思いながらも、ずっと疑問だった。
「ま、やっぱり無粋か」
「何がです?」
 聞いてきた少年傭兵の頭をくしゃりと撫でてオルドは笑顔を見せた。
「こっちの話だ。さて親父、若頭の旅の無事を祈って乾杯しましょうや!」
「お、良い口実だな。そうしよう!」
 酒場の喧騒はまだ収まりそうになかった。

64日目4751文字
 風を切って矢が走る。
 耳元を過ぎ去る音と共に、ヴァンの頬には矢羽がかすった感触があった。
「……なんのつもりだ?」
 低く、決して大きくはないヴァンの声が木立に響く。
 頬に触れた矢羽の感触から射手を割り出すのは容易だった。
「あの感触はフォキンド鳥の石打の矢羽、それが逆回転で頬を撫でたという事は乙矢、そのような矢を愛用するのは貴様しか知らん」
 返事はない。少し開けた草地にはヴァンしかおらず、それを囲む木立にも気配はない。
「隠しおおせると思ったか?」
 僅かに怒気を含ませて、孤狼が腰に差した牙を抜く。
 再び風を切る音。今度の矢はヴァンの眉間を正確に狙って飛来した。矢を叩き斬ろうと腕を動かしながら、ヴァンは何かに思い至ったように手首を返した。
 半瞬にも満たない刹那の後、矢は真っ二つに折られてヴァンの眼前で金属音の悲鳴を上げた。
 地に落ちた矢を見て、ヴァンは己の判断が正解だったと安堵する。
 先ほどの矢と違い、先端に錆びた矢尻がついていた。飛来した速度も先ほどより速く、狙いも正確。矢の中程から斬っても、勢いを殺しきれずに前半分が身体のどこかに刺さる可能性が高い。そう判断して剣の腹で叩き折り、もう片方の剣の腹で叩き落としたのだった。
「次は殺すというわけか?」
 ヴァンは矢が飛んできた方を睨み付けながら、やはり大きくない声で静かに言った。
 相手が殺すつもりならば眉間など狙わない。ヴァンほどの使い手を相手に、真正面から眉間などを狙っては顔を振って避けられるだけだ。本気で殺したければ避けづらい胴や足を狙って、二射目で確実なとどめを狙うだろう。
 かといって金属製の矢尻を付け、最初の牽制よりも速い矢を射るという時点で冗談ではない。錆の浮かんだ矢尻は、きちんとした処置をしなければ後々まで残る傷になるか、最悪の場合は菌が入って命を落とすような矢傷を付ける目的で用いられる。
 そして何よりも、ヴァンは理屈でなく矢に込められた殺気で相手の本気を悟っていた。
 今の射撃はヴァンが牽制と舐めてかかれば、例え矢を斬っても錆の浮いた矢尻で傷を付けられるだろうという意図が籠もっていた。
「やりづらいな……」
 今度は相手に聞かせるのではなく、ぽつりと独りごちた。
 これまでヴァンが慣れ親しんだ戦場で飛んでくる矢は、大抵が短弓や空に打ち上げた後の落下してくる軌道のものだった。そのぐらいならば剣で払えば容易に防げた。だが、近距離からのクロスボウや、大型の弓から放たれるそれは容易には防げない。ヴァンを狙ってきた矢は、その大型の弓から放たれたものだった。
 目の前には木立が広がっており、ヴァンの視界に射手はいない。しかし矢の軌道は間違いなく木立の中から放たれていたと語っている。そうするとあの矢は木立の中から木々の枝葉を縫って正確に眉間を狙ってきたという事になる。
 ヴァンは左手に持った剣を鞘に納め、右前方に向けて駆け出した。真っ直ぐではなく横方向にも移動を入れれば、木立を縫っての狙撃は難しいと判断したのだ。五歩走った所でヴァンは左に跳躍しながら右手の剣を振った。飛来した矢が真っ二つになって地に落ちる。
「読まれていたのか……相変わらず、やるな」
 右側に移動すると読んで、二度目の射撃の後に相手も移動していたらしい。
 ヴァンは体勢を立て直すと、今度は左前方へ向けて走り始めた。
 四度目の射撃は右前方からだった。射角から相手も多少は移動したとわかるが、右からという事は移動が間に合わなかったと見るべきだろう。
 開けた場所からようやく木立の中に踏み入ったヴァンは、近くにあった太い枝を斬り、それを更に三つに斬ってから五歩ほど走って立ち止まり、斬った枝を二つ前方に投げて気配を消した。
 木陰に隠れながら地べたに這いつくばり、来た道を匍匐前進で戻る。少し進んで、地面に耳をつけて足音を探る。かさりかさりと木の葉を踏む僅かな音が動いていた。少なくとも相手は樹上ではなく地面を移動している。
 音の動きから相手の位置を予測して目を懲らす。木立に溶け込むような茶色の服を纏った姿が、一瞬だけ目にうつる。
「あそこか」
 呟いて、ヴァンもまた地に伏したまま相手へ向かう。相手はヴァンが枝を投げた地点からヴァンの動きを予測しているようだった。三つに斬った太い枝を二つ投げたのは、ヴァンが気配を消した地点を錯覚させるためだったが、どうやら上手く行ったようだ。
 相手は弓なのでこちらの姿を見付ければ即座に攻撃が可能だが、ヴァンは双剣なので至近距離まで近づかなければならない。間合いの不利だけでなく、地の利も向こうにあるとなれば、どれだけ注意しても慎重すぎることはない。
 時折地面に耳をつけて相手の足音を探り、じわじわと距離を詰める。相手もいつでも矢を射られるように構えながら気配を殺して進んでいる。
「走ればぎりぎり届く距離か? ……いや、少し遠いか」
 再び相手の姿を認めたが若干距離が遠い。こちらにはまだ気づいていないので、奇襲で斬り込めば届くかも知れないが、それには相手を一撃で殺す気概が前提となる。しかしヴァンは相手を殺すつもりがなかった。
「斬るにしても、儂に矢を向けた理由を聞き出してからだな」
 己に言い聞かせるようにして、ヴァンは懐から最後の枝を取り出した。
「これ以上近づけば気取られる可能性がある。かといって、相手が奴ではこの距離から斬り込んでも対応されるか」
 右手に握っていた剣を地面に突き刺す。続いて右腰に納めていた剣を抜き、これもまた地面に突き刺した。
 相手の顔の動き、視線の動き、気取ろうとする気配の動きを読み取りながら、ヴァンの潜む場所からその全てが逸れた一瞬を狙い澄まし、右手に握った太い枝の切れ端を相手の進行方向上方に向けて投擲する。続いて、地面に刺していた片方の剣を抜き、回転させながら真っ直ぐ相手の頭上目がけて投擲し、もう片方の剣を引き抜きながら相手目がけて駆け出した。
 まず前方の頭上に聞こえた物音に対応して弓を向ける。しかしそれが何であるかを確認する前に、ヴァンが走り出した気配を感じ取って即座にそちらへ向き直る。投げた枝が稼いだ時間は一秒にも満たない。矢を射ようとした際に、走り寄るヴァンが広げている両腕の違和感を察知する。片手にしか剣が握られていない。瞬時に風を切る音を感じ取って頭上から振ってくる剣を跳びすさって避け、着地する前にヴァンへと矢を向けた。
「遅い!?」
「遅い!」
 異口同音の叫びはそれぞれ驚愕と確信が込められていた。
 射手は着地を待たずに矢を放とうとしたが、ヴァンが手に持っていた方の剣を投げつけて来たのを見て半瞬後の着地を待った。着地をして投剣を避けてから狙いを定め直そうとした時には、ヴァンは既に懐に潜り込んでいた。その手には最初に投げ上げた剣がしっかりと握られていた。
 木が囮で投げ上げた剣が牽制、本命は手に持った剣と思わせるまでが一連となった策であった。
 細い首筋に剣が突きつけられる。
「私の負けです、どうぞ」
 落ち着いた声色で、その女性は言った。
「命を取るつもりならば、こんな迂遠な手は使わん」
 落ち着いた声色で、ヴァンが応える。
「読み切ったと思ったのですが、甘かったようで」
「読み切ったと思わせるのが肝要だったからな。お前の技量を高く評価していなければ、直接斬りかかるか、枝で注意を逸らしてからの斬り込みか投剣で終わらせておる」
 お互い笑顔を浮かべているが、緊張は解かれていない。
「さて、聞かせて貰おうか。何故儂の邪魔をした」
「我が主は貴方を歓迎する意向がございません」
 てっきり答えられないと返されるとばかり思っていたヴァンは、あっさり答えが得られた事とその内容の両方に驚きを隠せないでいた。
「我が主? お前、誰に仕えている。それにこの地は誰の物でもなかったはずだ」
 不快そうに眉をしかめたヴァンを見て、女性も少し哀しそうな顔をした。その表情が妙に懐かしく、そして美しく感じる。
「先生は相変わらずですね」
 ヴァンの雰囲気を察して、女性は苦笑した。その表情もまた、懐かしい。
「相変わらず、私と距離を取ろうとする」
「ノーク……」
 続く言葉は出てこなかった。
「先生は立ち止まらず、振り返らず、相変わらず。そして私は追いかけ続ける事を諦めてしまった。それだけです」
 ヴァンは心の奥底に隠した古傷に血が滲むのを感じた。
「並んで歩くために、先生にゆっくり歩いて貰おうとは思わなかった。代わりに私が走って追いかければ、いつかは横に並んだ私を見ていただけると思っていました」
 離別の言葉が静かに紡がれる。
「…………そうか」
 返事をするまでに三度、すまなかったと言ってしまうのを制した。それは彼女の努力への冒涜だと感じた。
「傭兵を辞めたか」
「ええ、今はドミリコ伯の部下です」
 懐かしい名前だった。ヴァンと何度も対立し、最終的にはヴァンを仇敵と定めて命を狙ってきた男だった。悪人ではなかったが、ヴァンには一つ気に掛かったことがあった。
「この地、ドミリコの領土となったか?」
 ノークは無言で頷いた。思わずため息をつく。ヴァンの知る限り、ドミリコ伯爵の領土はもっと北だったはずだ。
「紛争に乗じてここを押さえたか」
 この場所には戦略的価値も政治的価値も存在しない。経済活動にも何の影響も与えない見捨てられた土地である。小さく貧しい村々があるだけで、凶暴な魔物の生息地も多いため、下手に占領してもあまり良いことはない。
 だがこの地には、ヴァンとドミリコにとってのみ価値があった。
「儂に墓参りをさせるなと言われたか?」
 ノークはゆったりと首を振った後、笑顔を見せた。
「姿を見かけ次第殺せと言われました」
 この地には、ヴァンが生涯の伴侶と心に決めていた女の墓があった。妻となる前に彼の不手際で命を落とした女の墓があった。それは、ドミリコ伯が見初めた女の墓でもあった。
「…………なるほど」
 微笑むノークが、かつて少女だった頃の彼女と重なる。父性と異性を混同したような憧れを真っ直ぐに向けてきた少女を思い出す。恋心の為せる業か、女性の弟子の中で最後までヴァンの修行についてきた少女は今、美しく成長し、彼の敵として立ち塞がっている。
 ドミリコとノークを結ぶ線は、共にヴァンを墓に寄りつかせたくはないという一点なのだろう。
 恋慕した女性の心を下賤な傭兵に奪われ、更には護りきれずに殺されるというドミニク伯の怒りと恨みはヴァンが一番よくわかっている。ヴァン自身が己をドミニク伯のそれと同じぐらいに怒り、恨み、悔い、嘆いてきたからだ。だからこそ、ヴァンに墓所に立ち入る資格はないと考え、死後ぐらいは自分が護ってみせるという彼の決意と純愛を否定することは難しかった。
 少女だったのノークの気持ちも、背伸びも、無理も、全て承知で無視をし続け、ただの弟子と扱った己の残酷さも承知している。
 ヴァンはしばし無言で目を閉じた後、ノークの背後の木に刺さった剣を抜き取り、双剣を鞘に納めて彼女に背を向けた。
「すまなかったな」
 別離の言葉を返し、孤狼は来た道を去っていった。
 ノークはその背を追わず、ただ立ち止まってずっと見つめていた。ヴァンの姿が見えなくなるまで、ずっと、ずっと。

65日目4725文字(Heat of Battleイベント参加)
--Heat of Battle--

「祝勝がてら戦場あさりに行こうぜ!」
「上からも許可が出たってよ!」
 固辞するヴァンに手を振って去っていった二人は、今ヴァンの足元で冷たい骸と成り果てていた。
 雨が流れ出た血を洗い流してしまったが、恐らくは即死かそれに近い傷だったのだろう。それならばまだ苦しむ時間は少なかったはずだ。
 敵軍が潰走したのは既に丸一日以上前だった。
 敗残兵狩りも昨日のうちにあらかた終わっている。死んだ兵士から装備をはぎ取る戦場あさりも多少は行われていたが、長引いた戦いの疲労と上からの自粛命令で兵士や傭兵は我慢を強いられていた。
 今日になってヴァン達傭兵の雇い主側から戦場あさりの許可が下りたのは、敵が侵攻を諦めた可能性が高くなってきたからだ。昨日は散り散りになっても、明日はまた部隊を再編して攻めてくるかも知れない。その際に戦場あさりで得た武器や鎧などを後生大事に持っていては話にならない。
 昨日は片手に収まる貴重品のみがお目こぼしを貰えただけだったが、戦局が変わったことにより今日は周辺の偵察がてらの戦場あさりが許可されたのだ。正確には黙認するという雇い主の言葉が密やかに傭兵達に伝わっただけだが、傭兵達はそれが意図的に流された言葉だと悟っていた。
 傭兵が自主的に戦場あさりに出向き、敵がまた動いてくるようならば急いで戻ってそれを知らせれば金一封。正規兵を使わずして斥候の代わりを出せるというので、この雇い主が好む方法だった。

 昨夜遅くに降り始めた雨は随分と小降りになっていた。
 近くの戦場で火を使った戦闘が行われたのはヴァンも感じ取っていた。例え黒煙が見えなくとも空気の匂いで何となくわかるのだ。雨が降り始めたのも、恐らくは林などを焼いた炎のためだろう。なぜ大火の後に雨が降るのかなど、ヴァンは理由を知らない。知らなくともそういう事が起こるという事例だけを認識しておけば、それがいつか生存への鍵となる。傭兵稼業とはそういうものだ。
 太陽はまだ灰色の雲に阻まれて姿を見せないが、確かにその向こうにいるのだとわかる煌めきが時折雲の切れ間に覗いていた。
 ヴァンは傭兵仲間の死体の傍にしゃがみ込むと、その懐や傷の様子を確かめてみた。
 懐に金目の物は入っていない。手にもそれらしい物は持っていなし、握りしめていた物を奪われたという様子でもない。もう一人の死体も同様だった。つまり戦場あさりをしてから成果を強奪されたのではない。
 傷の様子はどちらも肩口から切り裂かれた一撃が致命傷だった。
「見事なものだ」
 切り口が似ている事から、どうやら同じ相手にやられたのだとわかる。
 二人が同じ方向を向いたまま倒れている事から、囲まれた訳でもなさそうだ。奇襲にしても近接武器での一撃必殺。片方がやられてから反応も出来ずにもう片方もやられたと推察する。
「金目当てでもなければ、私怨でもないか」
 裏切った味方の不意打ちでもない。二人が武器を持ったまま絶命している事からそう判断する。
「……わざわざ抜かせたのか。その上で一対二で戦って二撃二殺、強いな」
 陽光が雲間からちらりと覗いたその一瞬、足元で何かが光るのをヴァンは見逃さなかった。
 足元の泥を良く見てみると、そこには一つの指輪が落ちていた。もう一つの死体の足元も同じように泥を払ってみたのはただの勘だったが、やはりそこにも鞘に収まった良質の短剣が落ちていた。ヴァンの記憶する限り、この二人はこんな物を持っていなかった。だとすると、これは戦場あさりの成果なのだろう。それが盗むでもなく奪い返すでもなく、ただ野に打ち捨てられている。
「……読めた。そこの奴、死んだ振りは終わりだ。それとも儂がこれを懐に収めんと大義が立たんか?」
 短剣から視線を外さずに、よく通る低い声で何者かに告げる。数秒の間があって、ヴァンより十歩ほど離れた所に倒れていた男が立ち上がった。
 泥と血で薄汚れた白い外套をまとい、手には同じ色の羽根付き帽と長剣が握られている。
 悠々と帽子の泥をはたいて落とし、きざったらしく被ってみせる。
「何故気づいた?」
 薄い口髭とは裏腹に、声は青年のそれであった。ヴァンは驚きを隠すように不敵な笑みを浮かべると、肩をすくめて言い放つ。
「本当に傍にいるとは驚きだ」
 死んだ振りというのはただの鎌掛けだった。ひょっとするとという疑念はあったが、まさか素直に立ち上がるとは思ってもみなかった。
「素直な小僧だ、戦場あさりか?」
「そのような下劣、私がすると思うか!」
 挑発にもしっかりと引っかかってくれる。白い外套の汚れの少なさから、布製ではなく皮を脱色して白くした高級品だと推察する。戦場にそぐわない羽根付き帽、優雅できざな動作、戦場あさりと言われて激昂する性格。それに傭兵仲間の死体の様子を照らし合わせる。武器を抜かせて正面から戦うこだわり、一対二という不利を許容する自信、二人の戦場あさりの成果を奪わず野に捨てた事。貴族、それも正義感の強い没落貴族の子弟といった所だろう。
「見たところ味方ではないようだが、敵の傭兵にも見えんな。まあ見逃してやろう、去れ」
 仲間の傭兵を殺されてはいるが、見たところ罠にはめられるでもなく二対一で年下の青年を相手に真正面から戦って敗れている。それは傭兵達が未熟だったのを責めるべきであって、青年を称賛するならまだしも憎む道理はヴァンにはなかった。
 対する青年の反応は小さな舌打ちと、怒りに満ちた睨み付けだった。
「その物言い、傲慢だな。貴公が見逃してくれと頼むならばまだしも、私を見逃すとは片腹痛い。手下がやられて仇を討とうともせぬ臆病者が、我が剣の錆にしてくれる!」
 女子供でも殺気の籠もった剣を向ける相手は斬り捨ててきた。この青年にだけ特例を与える必要はない。ヴァンは黙って黒い双剣を抜くと、相手の名乗りを待った。
「ララントス王国ソルムレア・クレイモア元男爵が長子、ソルトソード・クレイモア、参る」
「傭兵、ヴァンドルフ・デュッセルライトだ」
 ソルトソードと名乗った青年の表情が僅かに揺らいだが、それも一瞬の事だった。

 先に動いたのはソルトソード青年だった。長剣を右腰に流すように構えると、姿勢を低くして十歩の距離を駆け抜けようと走り出す。
 対するヴァンは、同じようにこちらも間合いを詰めて相手の拍子を崩そうかと逡巡したが、結局は右足を半歩退いて僅かに左半身を斜めに向けただけだった。双剣の両手は垂らしたまま構えず、悠然と相手を迎え撃つ。
 何も青年の力量を舐めたわけではない。こうすれば青年は舐められたと激昂して、本来の剣筋を発揮できないのではないかという計算はあったが、青年がヴァンの仲間を二人倒したという事実は評価に値した。二撃二殺の腕前だからこそ、受けもいなしも可能な姿勢で出方を見ようと考えたのだ。
 長剣の間合いに入った。
 ソルトソードは右腰に流した剣を、ヴァンの左太ももから右袈裟まで跳ね上げて振り抜くようにした。
「っ!?」
 二人の口からほぼ同時に驚嘆が漏れる。
 ヴァンは左足を軸にして無謀にも剣の軌道に向かって右足を踏み出し、ソルトソードは斬り上げると見せかけた勢いのままヴァンの懐で一回転し、体勢を低くした横薙ぎの斬撃でヴァンの足を狙った。咄嗟にヴァンも双剣を十字に構えて斬撃を食い止める。
 鈍い音がして三本の剣が交差した。
 お互いが意表を突いた行動を取ったために間合いが崩れ、次の行動に繋げるための反応が遅れた事を悟った。
 二人の動きが止まったのは一瞬か二瞬か。ヴァンは青年があの本気で斬りかかるような速度で動きを変化させた事に驚き、変化した後の足を狙うという意図、剣線の鋭さに相手をまだ低く評価していたと己の未熟さを痛感した。ソルトソードは激昂を抑えつけての機略に反応された事と、本来斬撃が通るはずの所へ踏み込んできたヴァンの行動が読めず、お互いの動きが失敗に終わった今でも意図が理解できない事に、彼我の絶対的な経験差を感じ取った。
 二人は同時に飛び退くと、即座に戦意を回復させた。向き合ったまま円を描くようにお互いが右後方に歩を進めて間合いを取る。
 ソルトソードは深く息を吐いて、また右腰の後ろに切っ先を流すように剣を構えた。
 対するヴァンは、左手の剣を右の腰、右手の剣を左肩に置いて、身体の力を抜くようにふわりと腰を落とした。
 そのまま二人の動きが停止する。数秒睨み合った後、ソルトソードが口を開いた。
「もう一度、名を聞かせてくれ」
「ヴァンドルフ・デュッセルライト」
「黒双剣か」
 何かを馬鹿にしたように鼻で笑ったが挑発の色はない。言うなれば、黒光りする双剣に傷貌の傭兵というわかりやすい特徴で、黒双剣のヴァンドルフだと気付けなかった己を笑ったようだった。
 もう一度息を吐いて構えなおしたソルトソードの身体からは、無駄な力が抜けていた。ヴァンも意識を研ぎ澄ませる。
「参る」
 ソルトソードが地を蹴って一気に走り込む。右腰に構えた剣を右肩の上に振りかぶり、そのまま剣気だけを叩き付ける。牽制だ。ヴァンに後三歩、振りかぶった腕は頭上を越えて素早く左側へと構えられ、逆袈裟ではなく左腰に剣を落としての胴を薙ぐ一閃が放たれる。
 ヴァンは迷わず踏み出すと、ソルトソードの手首を蹴った。鈍い悲鳴を上げてソルトソードが長剣を手放す。ヴァンは更に踏み出すと右腰と左肩に構えた双剣を振るい、その柄頭でソルトソードを打ち据えた。骨の砕ける鈍い音、青年の絶叫がこだまする。
 ヴァンは双剣を納めると、片膝を突いたソルトソードが呼吸を整えるのを待ってやった。
「卑怯者っ!」
 それが呼吸を整えた青年の第一声だった。
「未熟者」
 壮年の傭兵は短く返した。
 ソルトソードは反論を飲み込んだ。戦士が戦場で負けてなお命がある。生かされている。そんな状況で相手を罵倒するのは己を下げる行為だと知っているのだ。
「相手が剣を持っていれば剣で攻撃してくるか? 甘いな」
 傷だらけの顔に不敵な笑みを浮かばせる。
「儂の構えを見てお前はこう思ったはずだ、右の剣が先か、左の剣が先か、それとも同時に振ってくるか」
 左手の剣を右腰に構え、右手の剣を左肩に置く、そうなると右手の剣は振り下ろさざるを得ず、左手の剣は横薙ぎか左上への斬り上げになってしまう。変化をさせるにしても、どちらかの手を振り抜きながらでないと隙が大きい。だからこそソルトソードは右が先か、左が先か、同時かという三つに意識を集中させながら斬りかかってきたのだ。
「お前の意識を双剣に集中させて、他の動きをより有効にする。これも剣の使い方だ」
「正々堂々とした戦い方ではない……」
 絞り出した言葉には、それが負け惜しみだと自覚している苦みがあった。
「戦いは貴族の遊びではない、戦士が人生をぶつけ合う、数百数千の刹那の積み重ねだ。貴様もそれはわかっていよう」
 ヴァンはソルトソードに歩み寄ると、傷だらけの手を差し伸べた。
「お前は見所がある、儂の弟子となれ。貴様が停滞しているその場所の、先を見せてやる」
 ソルトソードは呆けた顔をすぐに引き締めると、逡巡してからその手を取った。
 それが、後に白双剣のクレイモアと呼ばれる事となる、ヴァンと高弟の出会いであった。

66日目4802文字(Heat of Battleイベント参加)
-Heat of Battle-

 からんと乾いた鐘の音。軽くきしんだ音を立てて酒場の扉が開かれる。
「お客さんまだ準備――師匠でしたか、お帰りなさい」
 無精髭が生えた口周りを吊り上げて店主が笑った。
 孤狼の二つ名を持つ傭兵ヴァンドルフと、その弟子ボルテクス。今は遺跡の探索者と、酒場の店主であるが、根底にある師弟関係と傭兵の心は変わらない。
 ヴァンは遺跡での探索を終えると必ず、ボルの酒場『英雄の故郷』に姿を現す。それを狙った刺客が待ち伏せていた事もあったが、人違いで襲われたボルが勝手に撃退をしてヴァンに禍害は及ばなかった。
「師匠、そういや五日おきに遺跡外に戻ってくるって習慣の件、どうなりました? 前みたいに狙われた以上、やばいんじゃないですか?」
 開店準備を中断し、師と向かい合って酒を飲みながら弟子が問う。
「諦めた」
 真剣に苦慮していたはずの問題だったが、ヴァンはあっさりそう言った。
「考えてみれば、儂が習慣を変えたくとも、仲間の都合を変えるわけにはいかんからな。なるようにしかならん」
 ボルは呆れたように肩をすくめて、酒をあおった。
 ヴァンは懐を探りながら、意地悪な笑みを弟子に向ける。
「なに、不穏な気配があれば、儂の優秀な弟子が払ってくれよう。まさか師を煩わせるような事はあるまい?」
「はいはい、頑張らせて頂きますよ。酒の仕入れの次ぐらいにはね」
 フンと鼻で笑って、ヴァンは懐から目当ての物を探り当てた。
「これがツケていた酒代と……」
 彼岸花を置く。真っ赤な花弁が、ボルに哀愁の念を喚起させた。
 真っ赤に染め上げた皮鎧を纏った女性傭兵、青き日のボルが思慕を抱いた相手にして、三番目の師であるヴァンに殺された、彼の二番目の師であった。
「ありがたくそなえさせて貰います」
 彼岸花を受け取るボルの顔には怒りや憎しみは浮かんではいない。二番目の師への思いは変わらずとも、三番目の師への敬慕もある。傭兵としての命の割り切りはとうの昔に済んでいた。
 少ししっとりとした空気のまま、二人は酒を酌み交わす。
 それからしばらく経って、ボルが思い出し笑いをしたように、少し顔を伏せた。ヴァンが見咎めると、ボルは笑顔に少々の苦みを混ぜて顔を上げた。
「いやね、昔師匠とケンカした事を思い出しちまって」
「喧嘩などしたか? ……ああ、エレイン紛争の時か?」
「そうそう、懐かしいもんです。覚えてますか、あの時――」

     †

 横合いから突き出された槍がヴァンの鼻をかすめる。乱戦の中とは言え、まったく殺気を感じられない一撃だった。反射的に突き手に斬り返そうとして、相手が味方だったと知る。恐らく前の敵に突き出すつもりが別の敵に腹を刺され、目標を誤ったのだろう。崩れ落ちる味方の死体に視線を向けたのは一瞬、ヴァンは前方の殺気に向けて左手の剣を突き出し、別の敵の振り下ろした戦斧を右手の剣でいなして避けた。
 ヴァンは双剣で敵を斬り倒しながらも、味方の進軍速度に合わせて特出を避けた。
「孤狼の旦那」
 自軍の傭兵がヴァンの横について敵へと短槍を突き出す。左手には片手剣を握っており、短槍で刺し、片手剣で防ぐという攻防を好む傭兵だと知れた。
「敵にえらく強い奴がいるそうなんですがね」
 短槍を突き出すも、直線的な軌道をかわされて反撃を受けそうになる。ヴァンはその反撃を左の剣で止めながら右の剣で相手を刺した。
「おっとすまねぇ。そいつ、双剣使ってるらしいんでさぁ。旦那の知ってる相手じゃないんですかい?」
 ヴァンは返事をせずに、振り下ろされた戦斧を交差した双剣で一瞬だけ受け止め、すぐに斜めへいなしてから、隙を突こうと繰り出された槍を斬り、斧の相手を刺し、返す剣で槍の相手を斬った。
 返事をしようかと自軍の傭兵に向き直ったが、彼は既に咽を突かれて死んでいた。ヴァンはすぐに意識を敵に向けると、また繰り出された剣を弾いて敵を殺した。
「強いのならば、いずれ儂とぶつかるだろう」
 心中での呟きが、正確な予感だったとわかるのは三十分後の事である。

 敵の群れの中から振り下ろされた剣を右手の黒い剣で受け止める。その直後にもうひと振りの同じ剣が振り下ろされる。ヴァンは左手の白い剣を素早く振って相手の剣の腹を弾いた。敵も双剣だ。
「師匠か!」
 ご丁寧にも叫んでくれたおかげで相手が知れた。ボルテクス・ブラックモア、ヴァンの弟子であった。
「手前ぇらどけ、邪魔だ! こいつぁ孤狼だぞ死にてえのか!」
 味方を押しのけてボルが前に出てくる。
「ほう、儂をこいつ呼ばわりか、説教をくれてやらんとな」
 ヴァンはボルに押しのけられた敵兵を二人斬り倒しながら笑ってみせた。
「孤狼!?」
「四剣のヴァンがいるぞ!」
「ひっ」
「倒せ倒せ!」
 様々な声と思惑が飛び交う。功名心に駆られた敵兵が斧を振りかぶった瞬間、ヴァンの白い剣が喉笛を切り裂く。白い剣をそのまま腰に差した鞘に納めると、その上に差されていた黒い剣を引き抜いて、繰り出された手斧ごと敵兵を切り裂く。
 剛性が高く、歴戦をくりぬけても刃こぼれしない黒双剣。軽くしなやかで、強度は低いが素早く鋭い斬撃が繰り出せる白双剣。二種類四振りの双剣を両腰に差したヴァンは随時剣を変えながら戦場を切り抜けていた。
「手前ぇら師匠に手ぇ出してんじゃねえ、こいつぁ俺の獲物だ!」
 ヴァンに襲いかかろうとした味方を蹴り飛ばしてボルが叫ぶ。
「戦場では儂と会っても敵と思えと教えたが……獲物呼ばわりは不快だな」
 両手に黒双剣を握ったヴァンの殺気がふくれあがる。功名心に駆られた敵兵達が後ずさりをし、その隙に味方の兵が敵兵を駆逐する。
「来い、狼を狩ろうとする事の愚かしさを教えてくれる」
「はっ、こちとら双牙の虎よ、狼なんぞに負けるかっ!」
 ボルの双剣が半瞬の時間差で繰り出される。片方は縦、片方は斜めの軌道を描いてヴァンへと襲いかかる。
 ヴァンは黒双剣を防御姿勢で構えると、ボルの双剣を受けようとした。剣がぶつかる。予想外の重さだ。即座にヴァンは刃筋を変えて受け流すように構えを変えた。
「甘ぇ!」
 ボルは姿勢を崩されかけた勢いを逆に利用して蹴りを放った。その足目がけてヴァンは肘を落とす。ぶつかり合った衝撃は軽微、双方が途中で勢いをゆるめたのだ。足も肘も今痛めてしまえばこの後の戦いに耐える事ができない。今戦っている相手だけが敵ではない。相手を倒したがその次の相手と戦う体力が残っていないようでは、戦場で生き残ることは出来ない。
 幸い周囲の兵は敵も味方もこの戦いに手を出して来ない。乱戦の中にあって、ヴァンとボルだけが決闘をしているようだった。
 ボルがまたも双剣を繰り出してくる。ヴァンはしゃがむように姿勢を低くしてかわしながら右足を軸にくるりと回転し、遠心力を加えた斬撃を浴びせた。まともに打ち合えば膂力と剣の重さで勝るボルが有利なので、その土俵に乗ってやる必要はない。
 ボルはヴァンの黒い剣を真正面から受け止めた。力では勝てると考えているのはボルも同じだった。だが、次の瞬間にはボルの腰から血が噴き出していた。ボルにはヴァンの斬撃が見えなかった。
 踏ん張りが利かない。僅かに力がゆるんだ所をヴァンは見逃さなかった。受け止められていた黒い剣に力を込めて無理矢理ボルの防御を崩すと、もう片方の手に持った白い剣でボルの肩を刺した。
「白双っ!?」
 ボルの驚愕は更なる斬撃に塗りつぶされた。ヴァンは黒い剣を振り下ろしてボルに防御姿勢を取らせる。傷を負ったボルでは両手で防がなければいけない。その隙にヴァンは先ほど姿勢を低くした際に抜いた白い剣を鞘に納め、再度黒い剣を抜いた。
 力を振り絞ってボルがヴァンの剣を押し返す。彼の傷は腰の刀傷と、肩の刺し傷、戦闘能力を削ぎ落とすには充分だ。しかしヴァンは弟子を見逃そうとはしなかった。
「死ねぃ!」
 裂帛の気合いで黒双剣が振り下ろされる。ボルは防御を諦めて後ろへ跳び退ったが、腰の痛みが僅かに動作を鈍らせた。黒双剣の刀身がボルの皮鎧に食い込み、孤狼の牙が肉に届いた。食い千切る。
「がっ!」と短い悲鳴を上げるボルの両肩から腹にかけて双剣が走る。
 噴き出した弟子の血を浴びながらヴァンは振り下ろした剣を己の腰へと引き絞る。とどめの二刀突きが弟子の胴目がけて疾駆した刹那、四本の剣がヴァンの双剣を阻んだ。
 ヴァンは即座に黒双剣から手を離すと瞬時に両腰の白双剣を抜き、とどめを阻害した剣の持ち主へと刃を走らせた。見知った二人の首筋に刃が触れた所で剣が止まる。
「ラーマークにクレイか」
 黒双剣を止めた四本の剣は、二組の双剣だった。ヴァンの一番弟子ラーマーク・アルマーと、同じく弟子でボルの好敵手でもあるソルトソード・クレイモア。ソルトソードは自軍にいると知っていたが、ラーマークが参戦していた事をヴァンは知らない。恐らくボルと同じく敵軍に傭兵として雇われたのだろう。
「弟子を三人同時に失うのは惜しい、命拾いしたな」
 ヴァンは白双剣を納めると、地に落ちた黒双剣を拾い上げ、そのまま乱戦の中へと躍り込んだ。ボルはそんな師の背中を見送りながら、ゆっくりと意識を失った。

     †

「――で、俺はラー公に背負われて戦場から連れ帰られた、と。情けない思い出ですがね」
 重傷だったボルを助けて自陣の奥深くまで連れ帰った兄弟子ラーマークは、その僅か数ヶ月後にヴァンの元を離反し、他の兄弟弟子達を戦場で葬り去る事となった。ボルにとってラーマークは命の恩人であると同時に、兄弟弟子の仇でもあった。
「あの時はこいつだの、獲物だの、狼なんぞと言われて、儂も少々頭に血が上っていたな」
 ヴァンは成長した弟子と酒を酌み交わしながら笑ってみせた。
「師匠と戦場で会って、力試ししたいって気持ちと、敵になったからには倒さなければってのがあったんですがね……」
 ボルも売り物の酒を口に運んでから、万感を込めたため息をついた。
「黒双剣を見て、ついつい師匠が殺された時の事を思い出しちまって、復讐する機会だなんて考えたんだなぁ……」
 ボルの二番目の師、思い人でもあった女傭兵の命を奪った剣こそが黒双剣であった。
 傭兵としての命の割り切り、女傭兵をしっかりと殺したヴァンの気遣い、女傭兵からヴァンに託されたボルを頼むという遺言、それらを青き日のボルはちゃんと理解していた。だからこそヴァンを師と仰いでついてきた。
 それなのに、いざ戦場で敵として出会い、女傭兵の命を奪った剣を振っているヴァンの姿を見た時、ボルの中で何かが弾けたのだろう。
「ま、それも今となっちゃ良い思い出ですよ」
 笑うボルの腰には、ヴァンより受け継いだ黒双剣が下げられていた。
 孤島で六十日を生き抜くこと、それを試煉の条件に以前の孤島に送り込まれたボルは、百日間生き抜いて宝玉をすべて揃えるという師の予想を遥かに上回る成果を見せた。
 そうしてボルは他の弟子達を抑えてかつてヴァンの二つ名でもあった黒双剣を受け継いだ。
 そうまでして剣を欲したのは、過去がボルの言うような良い思い出なのではなく、今でもボルの心の奥底であの時弾けた何かがくすぶり続けているのだと思えてならなかった。
 だが、ヴァンはわざわざそれを指摘するような無粋はしなかった。今はただ、笑って酒を酌み交わせる。それだけで良い。

68日目4818文字
 剣戟響く乱戦の中に、ヴァンは確かな異音を聞いた。
 盾が相手の武器を弾く音、剣と剣がぶつかる音、斧が肩口を切り裂く音、その中にあってかすかに頭上から音がした。空気を切り裂く音がした。
「矢だと!?」
 ヴァンは狼狽を押し込めて飛来した矢を左手の剣で払った。その瞬間を狙ったわけではないが、敵の槍が左肩を切り裂いた。
 痛みに眉をしかめながらもヴァンの判断は速かった。左手に持っていた剣をあっさりと手放すと、痛む左手を背中に回してくくりつけていた盾をもぎ取る。右手の剣で槍の相手を刺してから、左手でしっかりと盾を握った。
「防御体勢だ! 矢が来るぞ!」
 そう言いながらヴァンは身を沈め、今殺したばかりの敵兵の体を倒れないように左手の盾で受け止めて自分の体を隠す。好機と見て取った別の敵兵の剣を払ってこちらも刺すと、ヴァンはその兵士の体も倒れないように今度は右手で支えた。
 矢の雨が降り注いだのはその一瞬後だった。対応しきれなかった兵士達が敵味方問わずに矢を受けて倒れていく。
 ヴァンは両手で支えた敵兵の死体を盾として、しゃがんだままで矢の雨が降り止むのを待った。
 戦況判断が出来ない敵兵が両手の塞がったヴァンを見て、手柄に焦った下卑た笑みを浮かべたまま射抜かれる。
「盾っ、誰か盾をっ!」
 背後から仲間と思しき声がした。
「周りの死体を盾にしろ! 友人だろうが気にするな!」
 叫んで振り返ると、叫んでいた味方が射抜かれた瞬間だった。
「畜生……味方じゃねえのか! 俺――」
 前方から聞こえた敵兵が怨嗟の途中で絶命する。
「なんと酷い……何たる非道」
 悲鳴や今際の叫びに混ざって、明瞭な声が聞こえた。
「俺たちは使い捨てか」
 意外なほど近くでも呟く声。
 最前線でぶつかり合った兵士達は敵も味方も傭兵ばかりだったようだ。
 しばらく続いた矢の雨がようやくやんで十秒ほど経ってから、ヴァンはこれまで盾として使っていた死体を地面にそっと下ろしてゆっくりと立ち上がった。
「誰か生きている者はいるか? 敵も味方も最早無い、生存者はいるか!」
 前方で僅かに手が持ち上がった。ヴァンはそこまで歩いていくと、傷だらけの手で先程までの敵の手を掴んで引き起こしてやった。どうやら背に倒れ込んできた死体が盾がわりになってくれたらしい、その男は二本の矢傷を負っていたが致命傷には到らなかったようだ。
「他にはいないか!」
 呼び掛けに応じる声、自力で立ち上がる者、反応はあっても目に見える致命傷を負った者、全てを合わせても五十人に満たない。矢が飛来するまでは少なくともこの戦場には三百名近い兵士がいたはずだった。
 生存者の割合は味方の方が多かった。矢は敵の後方から飛んできた。正面から受けることが出来たヴァン達とは違い、敵兵からすると背後から味方に射かけられた形となって防ぐどころの話では無かったようだ。事実、生き残った敵兵の多くはヴァンの近くで戦っていた者ばかりだった。ヴァンに飛んできた矢を見て、あるいはヴァンの矢を知らせる声を聞いて、また死体を盾にする方法を目にして、咄嗟に対応できた者だけが生き残ったのだろう。ヴァン達にとっては、矢の雨より先行して飛んできた一本の矢に感謝するしかない。あれがなければ対応もできぬまま死んでいただろう。
「お前達の雇い主はお前達を捨てたぞ! こうなれば我らで争うのは命の無駄遣いだ、儂は第二射が来る前にこの場を移動する。死にたくない奴はついてこい、死にたい奴も後で殺してやるからついてくるんだ」
 大きな声でそう告げてから、ヴァンは先程捨てた左手用の剣を拾い上げて鞘に納めた。
「馬が来るぞ!」
 誰かが叫び、皆が身構える。だがやってきたのは騎馬隊ではなく、ヴァンが見知った傭兵一人だった。
「師匠は生きてるか! 白双剣のヴァンドルフを見た奴はいないか!」
「あいにく見てはいないな」
 そう言いながら本陣との連絡役を頼んでいた弟子の前に進み出る。ボルは安心したように口の端をつり上げてから、惨状を見回してすぐに表情を険しくした。
「手遅れだったか……師匠、いや他の奴も聞け! 俺らの雇い主は和解したぞ」
 どよめく傭兵たちを手で制してボルは言葉を続けた。
「お前らもこんな田舎貴族の喧嘩にしちゃ、敵味方に傭兵の数が多すぎると思わなかったか? それも湖の所有権の争いなんぞで傭兵まで雇うなんてよ! なんの事はねぇ、奴ら女の取り合いをしてたのよ。それも大貴族のご令嬢をな。俺らに払う金なんぞその女をモノにできりゃ払えるだろうって皮算用だ。いかに大勢の兵と金をその女のために使えるか見せつけたかったんだとさ」
「ボル、話は後だ。すぐにでも移動せんといかん」
「大丈夫だ師匠、二射も来なけりゃ追撃もないぜ。あいつらとっくに引き上げ準備だ」
 その言葉に周囲の傭兵たちから怒りの声があがった。
「昨日のうちに決まったのさ、今日こうやって傭兵同士でぶつけた後に矢を射かけてとどめを刺すってな。なぜなら金が払えねぇからだ」
「何だと?」
 さすがにヴァンの表情も険しくなる。金を払わないというのは金銭の問題ではなく、傭兵という生き様に対する愚弄である、斬ってきた命、守れなかった命、それらに対する愚弄である、師はそう考えているとボルは知っている。だがボルは師の怒りを諫めようとはしなかった、彼も同じ考えだったからだ。
「目当てのお嬢さんを勝ち取れると考えてたのは馬鹿貴族のお二人だけ。ご令嬢もそのお父上も、とっくに別の目当てがいたってわけだ。それをようやく知った馬鹿どもは、争う理由もなくなったし、下手に長引かせれば国王陛下のお咎めがあるかも知れねえからやめようって話になった。いつまでも湖の所有権争いなんて嘘でごまかせるはずもないしな」
「なるほどな、自前の兵は引かせればそれで良いが、儂ら傭兵は引かせてしまえば金を払わねばならんからか」
「そういう事。適当に傭兵部隊だけでぶつけ合って数を減らして、その上で両方巻き込んで射かけて皆殺しにすれば金を払わなくて良い。何なら双方に被害が大きくなってきたから和解しましたって言い訳もできる。見事な浅知恵ってわけだ」
「一つ聞かせてくれ」
 ヴァンの後ろから声をあげたのは、先程まで敵方だった傭兵だった。
「何でお前らの方からは射かけて来なかったんだ?」
 彼の疑問はもっともで、ヴァンの雇い主側からも矢を射かければ確実に全滅していただろう。
「そりゃ発案したのがお前さんらの雇い主だからだ。俺らの雇い主は小心者でね、そこまでは出来ないと尻込んだ所で家臣連中にも止められて、お断りしたのさ。で、お前さんらの雇い主はじゃあ俺がやってやるから感謝しろと喜び勇んで騙し討ちだ」
「もっとも、和平前提で儂らに殺し合わせる時点で五十歩百歩だな」
 ヴァンの言葉に頷いてからボルが声を張り上げた。
「さて、ここで俺らが金を払っていただく見事な計画だ!」
 皆の視線を確認してボルはニヤリと笑った。
「矢をくれたお礼をして差し上げよう。んで、大将首ひっさげて俺らの大将に『仕事は果たしたから金よこせ』って請求しちまおうぜ」
 先程までの敵傭兵を味方に引き入れて、傭兵たちの独断で動こうと言っているのだ。だが敵方だった傭兵たちから裏切りを咎める声は無い。怒りと復讐の対象でこそあれ忠誠や義理など最早無いのだ。
「もちろん傭兵ギルドを通じて、殺された傭兵たちの礼はいずれ双方に味わって貰うが……ぶっちゃけこの手で晴らしたくねえか?」
 煽動するボルの言葉に傭兵たちは賛同の声で応じた。
 数万にも及ぶ勢力の傭兵ギルドは確かに影響力を持っているが、地方の貴族同士のいざこざとなると、王が命じて貴族の領地を没収の上で賠償金を払うというのが最大限の罰だろう。恐らくは処刑を命じる所までは行かない。傭兵たちも薄々それを悟っていた。
「問題にはならないのか?」
 中年の傭兵が困惑したように聞いてくる。ボルはその困惑の奥に潜んだ熱に気づいていた。
「俺たちへの依頼は何だ? お前さん方のは知らねえが、たぶん敵兵を倒してあわよくば大将首も取っちまえって感じだよな? で、その依頼は撤回されたか? 俺たちに退却命令は出たか? 依頼の解消はされたか?」
「いや、無ぇ!」
「そうだ、俺たちはまだ敵殺して金いくらって状態のままだ!」
 既に熱に浮かされた傭兵たちがボルの言葉に乗って困惑した傭兵の熱を呼び覚まさせる。
「よし、俺も乗ったぜ!」
「んじゃ裏切りもんを倒しに行こうや!」
 ボルは最後の煽動をおこなった。

 その夜、領地への帰途で夜営をしていた地方貴族の陣に四十数名の傭兵が雪崩れ込んだ。
 傭兵たちは行きの道では雇い主の宗教的な理由で迂回せざるを得なかった山を越え、先回りして潜んでいたのだ。行きの道で夜営を張った場所を雇い主がいたく気に入っていた事、雇い主の天幕がどこに作られたのかなどを覚えていた傭兵の手柄であった。
 すっかり油断しきった地方貴族は行きと帰りで同じ場所に天幕を張り、そのまま斬り込まれて身柄を抑えられた。
 天幕を囲む兵士達を見回して、ヴァンは貴族にひと言「最初に矢を射かけた者は誰だ」と聞いた。貴族が命惜しさに、一番前で貴族を助けようと剣を抜いていた騎士を指さすと、ヴァンはその騎士に礼を言った。曰く、貴公の罪悪感が我らを救ったと。あからさまに他と歩調を合わせなかった矢、一番最初にヴァンを襲った矢の意図は、主の命令と己の倫理観の狭間であえいだ騎士の妥協点だった。
 騎士が静かに剣を納めると、周囲の騎士や兵士達にも戸惑いながらも武器を納める者が現れた。そのまま傭兵たちは貴族の身柄を拘束し、ヴァン達の雇い主の所まで連行していった。
「傭兵をぶつけようと言ったのは私ではない、そいつだ! だから私は助けてくれ!」
 泣き叫ぶ貴族を縛り付けたまま、三十数名の傭兵たちが雇い主の前にずらりと並んだ。数名は天幕に斬り込む際に命を落としていた。
「矢を射たのは手前ぇだろうが」とボルが貴族の頭をはたく。
「さて閣下、こやつはこのように申しておりますが、我々は約束の金額を払っていただければそれで良いのです」
 ヴァンが傷だらけの顔に笑みを浮かべる。
「嘘じゃない、本当だ! 矢は確かに私がやった、しかし罪はそいつも同じだろう! 下賤な傭兵ごとき何人死んっ――」
 鞘走る音はなかった。貴族の首が胴から離れてようやく、ボルは師の剣が抜かれている事に気づいた。
「失敬、これ以上お耳汚しをするのも失礼だと思い、黙って頂きました」
 笑顔はまったく崩れていなかった。ただ、ボルの「あぁ、師匠キレてら」という呟きだけが静寂に包まれた場に、妙に響きわたった。
「ぶ、無礼」
「何か?」
 恐らくは無礼者とでも言おうとしたのだろう。下賤な傭兵が貴族を手に掛けるとはなどと言いたかったのだろう。しかし彼は自分が雇った傭兵に恐怖した。
「無礼打ちだ、許す。そう仰ったのだ」
 代わりに家臣が一歩前に出て声をあげた。見上げた胆力だが冷や汗が出ていた。
「では我々の仕事は果たしましたので、約束の報酬を。無論、死んだ仲間の遺族への賠償もありますので、傭兵ギルドに提示した報酬全額でお願いします」

 この話が広まって以後、傭兵への報酬を不当に踏み倒そうとする者は目に見えて減った。酒場の噂話で例の貴族がこの話を知った王の不興を買って領地を没収されたと聞き、ヴァンとボルは軽く笑って酒を酌み交わしたのだった。

69日目4330文字
 夜の森は意外な程に賑やかだ。
 ほうほうと鳴くフクロウの声。
 りんりんと鳴く虫の声。
 かさりと落ち葉が踏まれる音。
 かさかさと茂みを動物が行く。
 ごうと風が吹けば木々がそよぐ。
 さわさわと枝葉が合唱を奏で、そしてぱちりと焚き火が爆ぜる。
 浅い眠りの表層をただよっていた意識を掴み、ヴァンは静かに目を開けた。

「眠っていたか……」
 小さな声で呟くが、はたから見ればただ目を閉じていたのと大差はない。
 ヴァンが深く寝入る事はあまりない。
 眠っていても、僅かな物音で即座に意識が覚醒する。
 眠りが浅いのとも少し違う。その本質は眠りというよりも瞑想に近い。睡眠の大半をそうして意識の表層をたゆたうようにしてとっていた。
 深い眠りは数十秒からほんの数分。三十分意識の表層を泳ぎ、三十秒深く眠り、二十分浅い眠りをたゆたい、三分だけ深く眠る。
 浅い眠りの中でヴァンは休息を得る意識と、外界へ向けた意識を分離させていた。
 深く眠るときは外界へ向ける意識を一、残りを九に。浅く眠るときは随時割合を変えるように。
 あくまでも薄く眠りながら外界を意識で探り、安全だと判断してから「では今から一分二十秒深く眠ろう」といった具合に意識で制御して深いところへと沈んで行くのだ。
 この睡眠方法が身につくまでには随分と時間がかかった。完全に意識で制御出来るようになるまでは三年ほどかかっただろうか。
 身に付けたくて身に付けた技術ではない。
 身に付けざるを得なかっただけだった。

「眠りたくない」
 かつてヴァンはそう言った。
 そう言って、一週間以上眠らなかった。

「眠ると悪夢を見る」
 気絶するように倒れ、目覚めた第一声がそれだった。

「儂が眠ったら誰が守るのだ」
 心配する弟子たちにそう告げたが、大半の弟子たちは正しく言葉の意味を理解していなかった。
 正確にヴァンの言葉が自分たちに向けられたものではないと理解したのは、三、四人ほどの高弟と、その一人に泣きつかれてやって来た赤衣の賢者のみだった。

 取り乱すというのとは少し違うが、常に威風堂々としていたヴァンが弱った所を見せたのがそれが最初で、そして多くの弟子たちにとってはそれが最後でもあった。
 後に魔導師の中の魔導師、魔導王とまで称された赤衣の賢者は、一人の友人としてヴァンに薬を煎じてやった。
 ただの睡眠薬と、精神を安らがせる香であったが、あまりにヴァンが眠らない時は、弟子が食事に睡眠薬を混ぜて無理矢理眠らせるという方法を取った。
 そうしてふた月が経った頃には、ヴァンには睡眠薬が効かなくなっていた。高弟の一人ボルテクスなどは師の前ではばからずに「弱ってるくせに無駄に頑強だ」などと憤ったものだが、眠りを拒否する精神と、元来の体質が薬を凌駕してしまったのだから仕方がない。
 困り切った弟子達は再び賢者に対策を訊ねた。
 それから二ヶ月間、賢者はヴァンを連れたまま姿を消した。
 ヴァンが弱り切ってからの四ヶ月の間に、二人の弟子が彼の元を去り、四人の弟子が戦死した。
 そうして戻ってきたヴァンは、少し陰こそあるものの、力強さを取り戻していた。
 威風堂々とし、豪快で、どこか優しく、たまに笑う。今までと違ったのは、物憂げな表情で何かを考え込むようになった事と、やはり眠りにつきたがらない事だった。

「懐かしいものだ」
 過去を想って独りごちる。
 そんな事を思い出したのは、恐らく自分がたった今十分ほど深く寝入ったからだろう。
 この島に来て以来、二番目に長い深い睡眠だった。
「疲れているのかな、儂も歳か?」
 小さく呟きながら、そうして口に出すのが老いなのかも知れぬと胸中で苦笑する。
 島に来て一番長く深い睡眠を取ったのは、十日目頃の二十分だった。
 この島は戦場ではなく、ヴァンに恨みを持った者や、倒して名を上げようという者も、今でこそいるかも知れないが当時はいなかった。十人を超える仲間に囲まれ、つい気がゆるんだのだろう。
 二十分も寝たと高弟のボルテクスに話した時には大層喜んでいた。他にヴァンが十分以上眠れるのは、ボルテクスとソルトソードの高弟二人や、赤衣の賢者ホリン・サッツァがいる時ぐらいのものであった。
 深く眠るためには条件があるのだ。周囲にある程度危険がないとわかっており、交替で見張りに立つ同行者がいて、そしてその同行者が一定以上の力量を持っている事。何よりも、その同行者にならば寝首を掻かれても構わないという苦い信頼が必要だった。
 こうなってしまう前は、戦場以外では毎夜ベッドで深い眠りについていたが、思えばそれが一生分の深い睡眠だったのかも知れない。そんな馬鹿なことを幾度か考えたが、口に出せば弟子は笑って馬鹿にするだろう。自分でもわかっているのだ。
 そこらに落ちていた小枝を拾って焚き火に放り込む。
「あれ? 起きてたの?」
 今の動作でようやく気づいたらしく、夜番のアゼルが声を掛けてきた。
「寝ていたさ。ぐっすりとな」
 笑って答えるが、アゼルは困ったような顔でヴァンの後ろを指さした。
「そんな寝方でぐっすり眠れるはずないじゃん。おじさんもおじさんなんだから、ちゃんと横になって体を休めないと」
 指摘されて初めて自分の寝方が普通ではないのだと思い知る。
 双剣を鞘ごと地面に交差するように刺し、交差点が丁度腰に当たる程度に調整する。そうして腰だけを当てて、背中は何にも持たれずに座ったまま毛布も掛けずに眠るのだ。
 夜気は想像以上に体温と体力を奪う。本来ならば体温を逃がさないように何かを掛けて眠るのが一番だし、地面からの冷えや夜風を遮るためにも敷布や天幕が必要なのだが、ヴァンは一切そういった物を使わない。代わりに黒い鎧套を着る。
 外套に鋼線を編み込んで防御力を高めたのが鎧套という高価な防具だ。ヴァンの物はそこに片手では足りない程の魔法付与をした特別品である。
 涼を取りやすく、体温を逃がしにくく、自己治癒力を高め、魔法を受け流しやすく、燃えにくく、ほころびにくく、汚れや匂いが付きにくく落ちやすい。首周りの羽は更に汚れにくく、全体的に防御力も高めてあり、そして何よりも短い睡眠時間で心身を休めるための魔法が付与されている。
 傭兵団を丸ごと雇う金があってもこれほどの物は作れない。魔法付与ができる魔術師を探すのにも苦労するし、一つの媒体に複数の魔法付与が可能な者などさらに限られている。そこに複数の種類の魔法付与をして貰うなど、金だけでやって貰おうと思うと数年は遊んで暮らせるほどの金額が必要だった。
 ヴァンがこの鎧套を手に入れたのは運と縁であった。
 幼い頃に彼を拾ってくれた傭兵団が、戦場で黒衣の双剣将軍アズラスによって全滅した事。アズラスに復讐しようとする中で双剣術を身に付けていった事。アズラスの目に留まり、いつしか好敵手となり、歳の離れた友となった事。アズラスが流行病に倒れ、事後を託された賢者ホリン・サッツァという知己を得た事。
 点が線となり今に続く。
 高弟のボルテクスにしても、当時の師の遺言とはいえ師を殺した張本人であるヴァンの弟子になり、いつしか高弟と呼べる程に成長し、信頼に足る人物になった。彼がホリンを呼ばなければ、自分は潰れていたなと何度も感謝を反芻する。無論口にも態度にも出したことはない。照れ隠しに調子に乗る姿が目に浮かぶからだ。
 ボルテクスにもそうだが、それ以上にヴァンはホリンに対して返しきれない恩がある。
 アズラスが病死したと聞いた直後に、以後の好敵手代理として姿を現した時よりずっと陰ながら支えられたという自覚がある。
 様々な恩の中で、最新でそして最終にしたいのが、この鎧套の魔法付与だった。
 一つの魔法付与だけでも大金が必要で、複数の魔法付与を一つの媒体に行うとなると金額が跳ね上がる。それを大量に付与して貰っているのだから、あまり考えたくは無い金額になっている。
 ホリンは笑って「十年ぐらいなら、土地と城を買って兵士を雇った方が安く付くよ」などと笑っていたが、恐らく冗談めかした真実なのではないかと睨んでいる。
 後に聞いたところでは、短い睡眠時間で心身を休める魔法などは、魔術士にもあまり知られてはいない魔法技術で、一握りの魔導師のみが古代の魔法技術を解読して使えるという、言わば大魔導師専用の魔法だそうだ。
 この魔法が掛かっている事はヴァンに伝えられておらず、三ヶ月ほど使ってから違和感に気づいてホリンを問いただし、そこでようやく知らされた。
 無料で良いという厚意をはね除けて、蓄えておく必要がなくなったこれまでの稼ぎを全てホリンに押し付けたが、それでも並の傭兵の稼ぎの四年分程度で、鎧套の値段には頭金にもならないと感じたものだった。
「おじさん、それいつものコートと違わない?」
 アゼルの言葉に少年の成長を感じる。
 この孤島に来て以来、ヴァンは二着の鎧套を常備している。一着は魔法付与をしてもらった物、もう一着は見た目はまったく同じだが、ただ鋼線を編み込んだだけの普通の鎧套であった。二着ある事に気づいている仲間もいるが、それがまったく性質の違う物だという事に気づいたのは、アゼルが最初だった。サザンなどは気づいている可能性もあるが、恐らくリックは気づいていない。
 幼くして両親を殺され、傭兵に拾われて戦場を転々としてきた赤毛の双子。ヴァンと少し境遇が似たこの子供が最初に気づいた事実に、心のどこかが喜んでいる。
 己の心を鍛え直すために孤島に来たのだ。終世の剣と決めた光双剣や、魔法付与の塊である鎧套などを使っては意味がない。普通の双剣と、普通の鎧套を身に付けてこそ修行になるというもの。魔法付与した鎧套は眠る時のみ身に付けるようにしていた。
 ヴァンはアゼルの問い掛けに応えてやろうかと逡巡したが、結局何も言わなかった。
 この少年ならば、どう違うのか、なぜわざわざ違うようにしているのかという所にもいつか気づく。その成長を見守りたい。
「おじさん、聞いてるの? 寝てるの?」
 アゼルの声に無視を決め込んで、微笑を浮かべたまま再び目を閉じる。
 今まで歩んできた道、生きてきた証を凝縮したようなこの鎧套に包まれて、ヴァンは安らかな眠りの表層へと身を投じるのだった。

70日目4830文字
「今日はどこかの王侯でも来ているのか?」
 窓の外を行き交う人々の流れを見つめながら、ヴァンがぽつりと呟いた。
 酒場『英雄の故郷』店主のボルはグラスを拭いていた手を止め、師と同じように窓の外を見た。幾人かが正装をして遺跡外の街を歩いている。奇妙な光景に思えたが、すぐに昨日の酔客から聞いた話を思い出した。
「ああ、ドレスコードって奴ですね」
 ヴァンは酒杯を手にとって僅かに口内に流し込んでから、「なんだそれは」と訊ねた。
「いや、俺もよく解ってないんですがね。なんでも正装をしてみようぜってなお祭りだそうですよ」
「各々違う国や違う世界から来ているのだから、正装と言っても一括りにはできんだろう」
 師の言葉に突然ボルが噴き出した。いぶかしげに睨む視線を受けながら、グラスについた飛沫を拭き取る。
「失礼、師匠がそれを言うかと思いましてね」
「何かあったか?」
「忘れてるんですか? 師匠あんた、雇い主が戦勝の調子に乗って晩餐会に招いた時、その鎧套姿で押しかけたじゃないですか、二年ほど前ですよ」
 言われたヴァンは思い出そうと眉間に皺を寄せたが、いまいちぴんと来ないようだった。
「ほれ、流石に血とか泥は落としてたけど、まったくの平服に鎧套だけ着込んで堂々としてたじゃないですか。衛士に止められたら凄味利かせて『これが儂の正装だが何か?』とかなんとか」
「言ったか」
「言いました。貴族様達も度肝を抜かれてましたよ。好意的な反応してくれる人が、『地方色溢れる正装ですな。いや、郷里を大切にするとは流石です』、なんて引きつった笑顔で言うもんだから、俺ぁ笑い堪えるのに必死でしたよ」
「それで思い出し笑いか」
「せっかくあの時ゃ耐えれたのに、二年越しで笑っちまったや」
 弟子と二人で笑い合うも、ヴァンは僅かに幼き日の傷が疼くのを感じた。

     †

 煌びやかな衣装を着た貴人達の宴、その入り口に一人の少年が立っていた。顔には若干目立つ傷があり、歳にそぐわぬ雰囲気を纏っていた。
 招待状は持っている。しかしいざ入るのはためらわれる。なぜこんな所に自分がと、もう三十回は浮かべた疑問を脳内から振り払う。
 そうしている間にも、招かれた貴族が衛士に招待状を見せて宴の会場へと通される。彼らは揃って、奥に進む前にヴァンを一瞥してから去っていった。それが余計にヴァンの足を動かなくさせる。
 数人の貴人を見送ってから、ようやく意を決して招待状を見せた。衛士は顔に傷のある、どう見ても貴族の子弟には見えない子供が一人でやって来たことに怪訝な顔を見せたが、招待状の文章を読むとすぐに笑顔を貼り付けてヴァンを奥へ通した。
 一瞬、どう言い表して良いのかわからない気持ちが浮かんだが、それがどんな感覚なのかが自分でも捉えきれなかったため、すぐに押し込めた。
 そもそもヴァンがこのような夜会に招かれるのはおかしな事であった。
 アブカント王国の猛将アズラスによって、家族代わりだった傭兵団を潰され、復讐のために双剣術を身に付けようと決意してから既に一年、十四歳の少年傭兵として戦場で剣を振るってきた。
 先日ヴァン達を雇った王侯が、戦勝のねぎらいを賜るとの事でヴァン達を呼びつけたのが二週間前。そこで前列にいたヴァンを見咎めた雇い主は、どこの傭兵団にも入らずに一端の傭兵として戦っている少年に興味を持ったらしい。違う世界を見せてやろうというのか、それとも話が聞いてみたいのか、どちらにせよたわむれでヴァンを戦勝を祝う夜会に招待したのだった。
 根城にしていた木賃宿に突然貴族の使いがやってきて採寸をされた。いぶかしく思っているうちに、報酬とは別に支度賃という名目で金を渡される。その金額が、命を賭けて戦った傭兵の報酬よりも高かった事に、やはりヴァンは何と表現して良いのかわからない感情を抱いた。
 指定された店で紹介状を見せて正装を買うようにと言われ、支度賃を持って服を買う。少し安い物を買ったら支度賃は半分ほど残った。その後、貴族の邸宅での礼儀作法等を教え込まれて今日に至った。

 聞いたことの無い音楽、美しい衣装を着込んだ貴人達、壁際には見たことも無いような豪華な料理の数々、広間に入ったヴァンはまるで異世界に迷い込んだように感じた。
 ヴァンに作法を教え込んだ白髪の老人がこちらに気づき、軽く頷いた。
 大きく深呼吸をする。自分がなぜここに呼ばれたのかはわからない。何か気に入って貰える要素があったのだろうか。ひょっとすると騎士に取り立てようというのだろうか。まさか養子という事はあるまい。何にせよこのような場に特別に招かれたのだ、失礼のないようにしなければ。そんな事を考えてから大広間の一番奥に座っていた貴族の前に歩み出る。
 うやうやしく教わった通りの礼をする。
「此度はお招きいただきありがとうございます」
 そこまで言って、頭が真っ白になる。次に何を言うべきだったのかが出てこない。必死で思い出しながら、とにかく変な間を作らないように挨拶をした。
「俺、わ、私のような者がこのような絢爛な宴に、来れるとは、誠に得難い幸せでございます」
 情けなく声が震えている。失敗だ、これでは騎士に取り立てて貰えない。そんな事を考える少年の頭に声が掛かる。
「この度は遠路はるばるよくお越し下さった」
 声が掛けられれば顔を上げても構わないと教わった。ヴァンはこんな自分に丁寧な声を掛けてくれるとは、なんと度量の大きい方だと感動を覚えながら顔を上げた。
 貴族はそんなヴァンの顔を見て、不思議そうな顔をした。
「おや、その顔の傷はどうなされた?」
「え?」
 どういう意味だろうか、顔の傷など前に会った時には既にあったはずだ。疑問を浮かべたヴァンの視線の先で、貴族は脇に控えていた白髪の老人に耳打ちをした。ヴァンはその時確かに、「これは誰のご子息だ」という声を聞いた。聞き間違いだと思いたい、まさかそんなはずはない。白髪の老人が主に耳打ちをする。ヴァンに作法を教え込んだ老人だ、何か言ってくれるに違いない。そんな期待は、貴族の「はて、そうだったか。忘れたな」という呟きで打ち砕かれた。
 貴族は何事もなかったようにヴァンに笑顔を向けると、「貴殿のおかげで勝つことが出来た、今日は存分に楽しんで行かれると良い」などと言い放った。
 膨らんだ期待の反動で晴れやかな気持ちが急激に萎えていく。悪い人ではないのだ、そう弁護する。お忙しいのだ、忘れもする。そもそも招いてくれただけでも有り難いではないか。だがそんな自己を守る弁護に誤魔化されるほど、ヴァンの落胆は軽いものではなかった。

 音楽が替わり、踊りが変わった。
 ヴァンは広間の壁にもたれかかり、踊る貴族を眺めながら食事を摂っていた。給仕に料理はただなのかと尋ねて、笑顔の返事の裏に失笑を感じ取ってからは、もうヴァンは食べることに徹していた。
 所詮住む世界が違うのだ。そう思うようにして皿を空け、何かまた別の料理でも物色しようとした時だった。
「あら珍しい、私と同い年ぐらいの方がいるなんて」
 鈴が転がるような声がして、ヴァンの前に十五、六歳の少女が立った。ふわりと広がる軽やかな髪に、美しい顔立ち、今までヴァンが見たことも無いような美貌だった。
「踊っていただけるかしら?」
 そう言って優雅に手を差し出してくる。
「いや、俺は――」踊れない。そう答えようとしてから、白髪の老人に異性から踊りに誘われた際には断るなと教えられたのを思い出す。女性に恥をかかせてはいけないと。老人から教えられた答えは一つだった。
「ええ、喜んで」
 既に乾いてしまった笑みを浮かべて女性の手を取った。
 踊りなど初めてだったが、幸いにしてヴァンは吸収が早い性質だった。周囲で踊っている男性の動きを見てそれを真似る。幼い日より傭兵としての訓練を続けてきたので運動神経も良い。少し踊れば同じ動作の繰り返しは完璧に取りつくろう事が出来た。
 しかし、音楽の流れが変わったと意識した時にはもう遅かった。緩やかな転調で踊りに初めての動作が組み込まれた途端に、ヴァンは少女の足を引っかけてしまった。倒れそうになった女性をかばって、自分が下敷きになって転ぶ。
 無様な姿に周囲の視線が集まる。微笑ましいと笑う目、子供だとあざ笑うような目、くすくすと笑う声、ため息混じりの声。恥ずかしい、そう知覚すると同時に頬に平手が飛んだ。目に涙を浮かべた少女は、怒りに満ちた一瞥をくれるとすっくと立ち上がって広場を出ていった。
「なんだこの場違いなガキは?」
 ヴァンの素性をしっているらしい男の声が、なぜか心の奥深くにまで入り込んできた。
 居たたまれなくなったヴァンは、立ち上がると軽く一礼をして大広間を出て行った。

「お嬢さま、大丈夫ですか」
 そんな声が聞こえて、ヴァンは思わず足を止めた。耳を澄ませるとすすり泣く声が聞こえた。先程の少女だ。
「せっかくのお招きだったのに、沢山練習したのに」
 そんな涙混じりの声がヴァンの心を締め付ける。思わず近くの柱に身を隠してしまう。
「犬に手を噛まれたと思って諦めなさいな」
 声の雰囲気からすると、少女の従者兼乳母といった所だろうか、中年の女性が慰めているのを柱の影からちらりと確認する。
「あの男は平民ですよ、お嬢さまの失敗じゃありません」
 平民、分かり切った言葉がなぜか痛い。
「恥をかかされたら充分失敗よ! もし次の夜会に呼ばれても、あの時平民と踊って転けたと笑われるんだわ! いいえ、ひょっとしたらもう呼んでいただけないかも知れない!」
 白髪の老人に言われた、女性に恥をかかせてはいけないという言葉が思い出される。悪いことをしてしまった。
「お嬢さま、あの男は平民、いいえ、平民より下賤な傭兵です。領主様が戯れで呼んだだけの事、お嬢さまが踊ったのだって、皆さん下賤な傭兵が踊る見せ物を見せてくれたのだと思って下さいますよ」
 住む世界が違う、違いすぎる。理解はしていたはずなのに、どうしてこんなに痛いのか。ずっと表現の仕方がわからなかった感情が、ここに来て何なのか唐突に理解できた。下賤と見下される悔しさ、怒り、そう甘んじなければならない己の情けなさ、そんな気持ちが入り交じっていたのだ。命を賭けて戦った額よりも大きい金額を与えられて、戯れに呼ばれ、しかし顔さえ忘れられる路傍の小石のような扱い。十四年と短いながらも、己の生き様が馬鹿にされたと感じる。
「俺は決めた」
 小さな声で独りごちる。
「もう取り込まれない、騎士や貴族になど憧れん、名声などいらん、傭兵として、戦士として生き抜いてやる」
 数刻前までの騎士や貴族といった身分への憧れを完全に消し去って、そう呟いた。傭兵の否定は自分を拾い育ててくれた傭兵団の優しさを、生き様を、ヴァンを守って散った死に様さえを否定することと同義である。そう心に刻み込んで、柱の影から姿を現した。
 泣いている少女に迷い無い足取りで近づき、完璧な礼をしてみせる。
「下賤な傭兵ゆえ踊りは不得手でございました。恥をかかせてしまい誠に申し訳ない。この首を差し出したい所ですが、まだ成し遂げねばならぬ事がある身なのでご容赦いただきたい。いずれ名を上げ、その上で首を差し出しに参る。その際はご笑納して首を跳ねられよ」
 そう言い切り顔を上げ、ヴァンは少女の前から立ち去った。
 少年の色を消した精悍な顔に涙が伝っている事を少女は不思議に思ったが、なぜか去っていく背から目が離せなかった。

76日目4685文字
「封異血統?」
 聞き覚えの無い単語に若きヴァンは眉をひそめた。
 そんな反応が返ってくると予期していた赤衣の賢者は笑みを浮かべたまま頷いた。
「そう、封異血統だ。やはり知らなかったようだね。きみのような人間には、恐らく忌避したくなる力だ」
「力、それはそういう物なのか。邪神信仰の類か?」
 伝説などではなく、実際に神々の力で奇跡や破滅を起こされてきた歴史がある以上、邪神と呼ばれる存在の力を利用したがる者は後を絶たない。ヴァンはその手の人間をあまりこころよく思ってはいなかったが、同時にそれは正当なる神官などにも言えた。
 自分の力以外のものに頼る弱さは誰しも持っている。その弱さまでをも否定するつもりはないが、頼り切った上にそれを恥じることなく、それどころか人にまでそうするようにと薦める行為に、何とも言い難い思いを抱くのだ。愚かしいとまでは思わないし、唾棄すべき行為とまでは思わないが、良い感情でも勿論ない。しかし尊敬すべき神職も幾人か知っているために、ヴァンの語彙では他人に誤解無く理解して貰うように説明するのは難しい感覚だった。説明出来ないという自覚もあるので、彼はこの感覚を他人に言うことはない。
「そういうものではない、言うなれば才能さ」
「才能……」
 オウム返しに呟いてしまうのは、ヴァンが自分には特別な才能は無いと考えているからだった。眼前の賢者はかつて、「きみには決して諦めないという立派な才能があるじゃないか」などと言ったが、若きヴァンはそれを余計な慰めと感じていた。その言葉が真実かも知れないと思うまでに、まだ数年の時を要するのも仕方のないことであった。それほど、彼は特別な才能を持った人々に対する憧れと劣等感を抱いていた。そんな感情を恥と思い、何度も割り切って捨ててきたはずだが、様々な事に負ける度に、捨てたはずの劣等感がいつの間にかまた根を張っていると気付くのだった。
 賢者は続ける。
「それも特別な才能だよ、神から与えられたと言っても良い。事実そう主張する人さえいる。回りくどいのは嫌いだったね、まあ端的に言うと異常な才能さ」
「天才という奴か?」お前のような、という言葉は胸の内だけに秘めた。眼前の賢者は恐らく歴史に名を残す程の傑物だ。それ故に、胸の内の言葉さえ聞こえてしまうのかも知れない。
「私がそうかはわからんよ、自分でもね。ただ天才というのとも少し違う。天から与えられた才能、天賦の才という言葉を考えると、本当の意味での天才とは言えるかも知れないがね。しかし我々の言う天才とはあくまでも人の範疇だが、封異血統は時に人の範疇を越えるのさ。ドラグナイツの建国王を知っているかね?」
「竜と喋れたという奴だろう」
「そう、それが彼の封異血統だった。そして、その力は血に宿り子孫へと伝えられる。ドラグナイツの歴史の中で、時折竜と喋れる皇帝が現れるのはそのせいさ。他には南の大陸のミグ王国や、南と中央大陸の間に浮かぶアカソー島、まあこれは私の故郷なんだが、ここなどには封異血統を持った人間が多い。これは二つの国が古代王国時代には繋がっていたが、神々の逆鱗に触れて――神に竜が持つ逆鱗という言葉を使うのも変な話だね」
 この賢者はよく話が飛ぶ上に、長い。ヴァンはため息をついて自制を促した。
「おっと失礼。まあ神々の逆鱗に触れて古代の王都が消し飛んで、海になったという伝説の裏付けとなると私は思うんだがね。それは置いておいて、そのアカソーは別名で英雄を生む島と言われていてね。いや、これは自分たちで広めた別名じゃないかとも思うんだが、あそこは海の交易路だしね」
「ホリン」
 賢者の名を呼んで再度自制を促す。
「失敬、そのアカソー出身の気鋭の二人組がいるわけだ。バルトーとエイグス、風のエイグス地のバルトーと呼ばれる二人だ。バルトーは領主の息子で、エイグスはミグ王国の貴族の家系だから、二人ともお坊ちゃんなんだが、中々真面目でいい子なんだ。これがまた強くてね」
「ホリン」
「この二人が、封異血統を持っているわけだ」
 そう言ってニヤリと笑う。別に横道に逸れたわけではないと言いたげだった。
「地のバルトーは巨漢ではないが、剛力だ。風のエイグスはとにかく素早い。本気で走れば馬にも追いつけるのではないかという程ね」
「馬に追いつく早さだと?」
「バルトーの方は老いたロバが過大な荷を引かされているのを見咎めて、代わりに自分がその荷を引っ張って悠々と歩いていったという逸話もある」
「そんなものが……」
 そう言って、ふとヴァンの脳裏に赤い翼が浮かぶ。
「アズラスは、あいつも封異血統を持っていたのか?」
 ヴァンの親代わりだった傭兵達を殺した黒衣の双剣将軍。一昨年病没した英雄であり、仇であり、友であり、目標であった。心の中では何度か師と仰ぎたくなったほど、憧れた双剣使いである。
 人馬一体となって戦場を駆け抜け、双剣を振る度に鮮血が舞い、告死の翼とまで恐れられたアズラスの剣技。それがもしも封異血統なる異常な才能によるものだとしたら――
「いや、彼のは恵まれた才能とそれ以上の努力さ」
 爽やかに言われたその言葉に、ヴァンは何故か救われたような気がした。
「覚えておくと良い、封異血統はすなわち強い、素晴らしいというわけではない。それで身を滅ぼした者も大勢いる。七十年以上前になるか、ドラグナイツで大逆罪で処刑された騎士がいた。彼は人から恐れられる異貌を持っていたが、同時に凄まじく嗅覚が研ぎ澄まされているという封異血統を持っていた。その結果、彼は助けてはいけない者を助け、暗殺されそうだった主君の命を救い、しかしあっさりと罠に嵌められて大逆罪で処刑となった。それは能力をどう使うかというのを考えなかったからだ、使いこなせずに失敗する者もいるが、使いこなしすぎて自分も周囲も制御できなかった破滅の例が彼さ」

 なぜ今そんな何年も前の会話を思い出すのか。敵兵の剣を受け止めながら、ヴァンはそう考える。考えながらも双剣を振る。
「孤狼の旦那、すまねえがあっちへ加勢に行ってやってくれ!」
 仲間の傭兵から声が掛かる。乱戦の中でヴァンは確かにその違和感を感じ取っていた。有利なはずの自軍が、ヴァンの三十歩ほど横の戦列のみ押し戻されている。
「ここは任せるぞ」
 そう言って、苦戦しているらしい仲間の元へ駆けつける。
「なるほど、それで思い出したのか」
 一瞬だけ苦笑を浮かべる。仲間達を押し返している敵兵は、攻撃をことごとくかわしながら一撃で確実に急所を突いて仲間を殺していく。異常な動きだった。
「俺が行く、少しどいてくれ」
 及び腰になっている仲間を押しのけると、周囲に孤狼と呼ぶ声が広がっていく。功名心など下らないと思ってはいても、少々心地良い。
「双剣のヴァンドルフだ、相手になろう」
 ヴァンは気鋭の傭兵として少しずつ知名度が上がってきていた。敵兵の中にも孤狼の二つ名を知っている者がちらほらと居るようで、若干怯んだ顔をしている。
「知らんな、引っ込んでろ若造」
 先程から奇妙に攻撃をかわしていた敵兵が自信満々に言い放ちながら、また仲間を刺し殺す。良く見ると手にする武器も刺突専用の剣だった。装備も軽装、戦斧どころか剣の一撃でも食らえば致命傷だ。余程腕に自信があるのだろう。
「こいつは俺が引き受けた、皆は無視して自分の手柄を立ててくれ」
 そう言うと、仲間達の意識が敵兵へと集中する。
 ヴァンは功名心や名誉欲よりも、己をそう在りたいと思える自分へと高める事を優先する性質がある。それでもあえて戦場で名乗るのは、ある程度名が上がった今のヴァンだと敵味方の士気に影響を与えることが出来るからだった。少年の頃に戦場で遭遇した敵将アズラスが、その名と圧倒的な強さで味方の士気を完全にくじいたのをまざまざと見せつけられた。その原体験が名乗りを上げる習性となっている。
「封異血統を持った傭兵、いつか戦う日が来るとは思っていたが、ようやくといった所だな」
 その言葉を聞いて、相手の表情が少し引き締まった。周囲の乱戦に二人だけが参加せずに睨み合う、不思議な空気が生じていた。
「奇剣のゲイブル、そう呼ばれている」
「知らんな、引っ込んでいろ老頭」
 悪態をつきながらも口元は笑っている。先程の意趣返しでからかって見せた。相手も安すぎる挑発に乗るほど愚かではなく、ヴァンと同じように一瞬だけ笑った。
 最初の激突は瞬時に終わった。横薙ぎで振られたヴァンの右の剣を、ゲイブルが腰から上を真後ろに倒すという脅威の柔軟性でかわし、そんな体勢から繰り出されるゲイブルの刺突をヴァンが左の剣で打ち払う。
「貴様の力、まさか関節が柔らかいとかそういう事か?」
 ゲイブルは答えず、ただ口元を歪めるだけだった。それが答えである。
 ヴァンは今度は左の剣を縦に振り下ろした。ゲイブルはただ紙一重で避けるのではなく、身を沈めながら斜め下へぬるりと回避しつつ、地面近くからヴァンの股間へと刺突を繰り出す。避けるのは不可能、ヴァンは右の剣で何とか刺突の軌道を逸らして飛び退いた。左右の剣で同時に攻撃していれば確実にやられていた。左は縦、右は横などと単純に同時攻撃をしたい衝動を抑えた、数瞬前の自分を内心で褒め称える。
 だがその半瞬にも満たない隙も見逃しては貰えなかった。地を這うほどに体勢を低くしたゲイブルが踏み込んだ足をそのまま軸にして、飛び退いたヴァンの足に大きく旋回する足払いを仕掛けて来る。今度は飛び退くのではなく、逆に相手の側へ突っ込んで回避と攻撃を同時に行ってやろうとヴァンが前に踏み出した瞬間、急に旋回していた足の軌道が変わり、鞭のようにヴァンの足へ絡みつこうとしてきた。前に出る動きではなく、飛び退く動きならば恐らく刈り取られていた。そうならなかったのは、ただの偶然だった。
 体勢を崩しながらも左手の剣で突きを繰り出し、右手の剣は地面を刺して倒れそうになる軌道を制御する。相手の刺突が僅かに逸れ、ヴァンの刺突が相手の左肩をかすめる。
 立ち上がったゲイブルとすれ違うようにしながらヴァンも体勢を立て直した。二人は再び睨み合う形となった。その直後、背後からの嫌な気配を感じ、ヴァンは振り向きざまに剣を振った。味方の攻撃をかいくぐって来た敵兵の槍を眼前で弾く。流れるようにもう片方の剣で敵の胴を薙いだが、半瞬の隙も逃がさないゲイブルに背中を向けるという隙を晒したのは致命的な失敗だった。
 焦りを感じながら、とりあえずの牽制に剣を振りながら体ごとゲイブルへ向き直る。既にゲイブルはヴァンの間近に近づいて刺突を繰り出そうとしていた。しかしぴくりとも動かない。ゲイブルはその姿勢のまま絶命していたのだ。
 胸から突き出た槍が引き抜かれ、ようやく倒れたゲイブルの背後には怯えた顔の少年兵がいた。ヴァンが背後から襲われたように、ゲイブルもまた、背後から襲われたのだ。ヴァンとゲイブルの差、それは襲いかかろうとしたそれぞれの敵兵の躊躇だけだった。ヴァンに襲いかかった敵兵は隙を見せた敵がいたから即座に襲いかかった。ゲイブルを刺した少年兵は、ゲイブルの背を見ても隙があるのかわからず躊躇した。ただ目の前で戦っていた味方の双剣使いが危ないと思ったので、何も考えず咄嗟に槍を繰り出したのだ。
 結局の所、ヴァンは運良く生き残った。運良く勝ったのでもなく、ただ生き残った。傭兵としては生き残る事こそが勝利とは理解しているのだが、名乗りを上げた者同士の戦いとしては決して勝ってはいない。
「……いや、むしろ負けていたか」
 そう呟いて、勝ち鬨をあげる味方の喧騒から一人離れるのだった。

77日目4569文字
-Scent of Brine-
 波止場に腰を下ろし、ヴァンは海を眺めた。
 この向こうに孤島がある。かつて挑み、満足のいく成果を残せなかった島がある。若き日に挑んだ島とは別の孤島だと理解しているが、それでも過日の鬱積を晴らせる機会ではあるだろう。
 ふと視線を感じて肩越しに振り返ると、彼を見ていた数人の男が視線を逸らした。海風に消されがちだが、僅かにその声が聞こえてくる。
(人違いか)
 そういった言葉を耳に捉えた。曰く、確かに双剣で額に傷はあるが、髪の色が違うと。
「ひょっとして、初代の方の黒双剣じゃないのか?」
 その言葉が妙にはっきり聞こえた。黒双剣のヴァンドルフ、十年以上も前に名乗った二つ名だった。数年前に高弟ボルテクスに黒双剣を譲ってからは、彼がその名を受け継いでいる。
「って事ぁ、あのおっさんが暁の剣聖か!?」
「なんだそれは!」
 ヴァンは思わず声を上げて立ち上がっていた。
 先日より一部の者から暁の鬼神と呼ばれているのは知っていた。五百騎の侵略者の夜襲に対して百人の傭兵部隊を率いて防戦を行い、全身を傷だらけにしながらもただ一人明け方まで生き残った事があったからだ。本隊から奇襲失敗とみなされて撤退していく敵兵が、暁の陽光を背に浴びながら血まみれで立ち尽くすヴァンに鬼神を見たと話したのが切っ掛けだと聞く。
 実際のヴァンは鬼神でも何でもなく、ただ後一撃でも受けたら倒れる程度の体力しか残っておらず、失いすぎた血に朦朧としながら気力だけで立って、去りゆく相手を睨み付けていただけに過ぎない。
 だがその逸話と新たな二つ名が過大に広まり、またヴァンを雇っていた国が失策で奇襲を許したのを取りつくろうために、英雄に仕立て上げたおかげで、噂の伝播が加速してしまった。かつてから縁を結んでいた近隣の王に招かれたのもそのせいだ。
 ヴァンがこうして孤島へ行くための船を待っているのも、王宮での客人暮らしで己が腐っていくと自覚したからだった。
 親も知らず、育った街と孤児仲間も戦火に奪われ、親代わりの傭兵も戦場で散り、好敵手と定めた双剣将軍は病に倒れた。彼の人生は喪失と無力感の連続だった。それが高名な傭兵として王宮暮らしなど、耐え難い苦痛だった。そこを到達点とする野心家は多いが、ヴァンにはその気持ちを理解することは出来ても共感はできなかった。そこにいては、己を磨くことが出来ない、先に進めない、そう感じるばかりなのだ。
「鬼神と呼ばれた事はあっても、剣聖などという気色の悪い名で呼ばれた事はないぞ」
 そもそも過分な名で呼ばれること自体が気に食わない。
「噂です、噂、アンタが聖騎士様になるって話が傭兵どもの間で持ちきりなんでさ」
 宮廷でも耳にした噂だった。ヴァンの知る老傭兵に言わせてみればただの名誉勲章だが、その名誉を世界最高の名声と羨む王侯貴族は数知れない。
「あくまでも噂だろう。で、その剣聖とやらはなんだ」
「いやアンタが聖騎士になったらそういう二つ名を授けられるって噂が」
「また噂か……」
 腐る自分を自覚し、未熟な自分を痛感し、このままではいけないと鍛え直すために孤島へ向かうというのに、周囲の状況はヴァンを「その位置でお前が行ける高みは終点だ」と押しとどめようとしているように感じた。まったくもって不快な気分だった。

     †

 潮風を帆に受けながら船は軽快に進む。孤島へ向かう船は、ヴァンが思っていたよりも遙かに大きな船だった。
 ヴァンは甲板で海を眺めながらも周囲への警戒を怠らなかった。港での話を聞く限り、意図せぬ所でヴァンの名が上がっている。そしてこれから向かう孤島は、一歩足を踏み入れたその瞬間から、老若男女を問わず一定の戦闘能力にまで身体や経験が制限されてしまう不思議な島だ。だからこそ鍛え直す最良の場として選んだのだが、ヴァンを倒せば名が上がると考えた刺客が船に同乗していないとも限らない。孤島についた時、もし先にヴァンが船から下りれば、力を制限された直後の彼を船上から攻撃して仕留める事も出来るだろう。今のうちに怪しい者がいないか気を配っておく必要があった。
 一瞬、ヴァンへ意識が向いた気配があった。即座に気配は消えたがそれが逆に怪しい。さもヴァンなど意識してはいないといった調子で背後から足音が近づいてくる。ヴァンは海を眺める姿勢のままで剣に手を掛けた。
「やめた」
 苦笑するような声には聞き覚えがあった。
「ボルか?」
 振り返ると確かに高弟ボルテクスの姿があった。
「まったく師匠ときたら、ちょっと気配消しただけで警戒するんだもんなぁ」
 傍目から見てもヴァンが警戒したことは気取られにくかったはずだ。それを見抜いたのはヴァンと接する事の多かった弟子というだけでなく、ボル自身の技量の高さを物語っている。彼はかつて孤島で百日近く生き延び、宝玉をすべて揃えるというヴァンにもできなかった事をやってのけた。それ故に彼は高弟の証でもある黒双剣を与えられ、二代目の黒双剣の二つ名を名乗っているのだ。
「どうしてここに? 招待状は届いたが島にはいかんと言ってなかったか」
「探索はしませんがね。何となく気になったもんで来ちゃいました。安全そうな所でもありゃ、そこで酒場でも開きますよ。酒も持ってきてますしね」
 まだ若いのにボルは既に傭兵を半ば引退し、後進の育成に力を入れている。英雄の故郷という酒場がそれだった。様々な情報を若者に提供し、生きていくため、状況を切り開くための基礎を作る。その若者がいつしか英雄となった時、その原点、故郷として誇れる店であれというのが名の由来だそうだ。
「まあ邪険にしないで下さいよ。招待状を送ってきた榊って野郎と直接会った事のある奴は、今回の孤島にゃ恐らく少ない。俺は良い情報源になれるかも知れませんぜ?」
「そうだな、それに今回の孤島はかつてのそれとは随分毛色が違うらしい」
 ヴァンは甲板で歓談する男達を指さした。どこからどう見ても裕福な商人と、貴族の坊ちゃんといった風体だ。
「あの男に先程聞いたが、今回の島には遺跡が一つしかないそうだ」
 二十年近く前のヴァンが行った孤島にも、ボルが行った孤島にも複数の遺跡があった。遺跡に辿り着くまでにも長い道のりが必要で、遺跡の入り口を守る守護者までいたのだ。
「しかも、遺跡の外では怪物も出ないので、遺跡の周囲には店が軒を連ねて街のようになっているそうだ」
「なんだそりゃ、まったく別物じゃねえか」
「あの商人は異世界からの来訪者相手に商売をしに来たらしい。あっちの坊ちゃんは見物だな」
 孤島はどうやら様々な世界が交差する場所のようで、この船も恐らく進んでいるうちに世界を越えて孤島に着くのだろう。そんな噂を聞きつければ、物見高い人々も集まるはずだ。
「それでこんなにデカイ船と大量の荷物ってわけか……榊の野郎、何考えてやがる」
「己を鍛え直すだけではなく、榊とやらの目論見を見定めるという目標も出来てしまったな」
「昔から野郎は気に食わなかったんだ。必死で戦ってる俺らを高みから見下ろしてやがった。全ては盤上の駒で、自分はそれを使って遊んでいるとでも言いたげにな」
 一人憤るボルの横で、ヴァンは船の行く先を睨んでいた。何か厭な気配が満ちているような気がした。

     †

 孤島の波止場から砂浜に足を向ける。ボルは積み込んだ酒や荷物を下ろすのに時間が掛かるとかで、しばらく時間を潰してきて欲しいと言ってきた。ヴァンとしては探索をするわけでもないボルを待つ必要はないが、邪険にして置いていく理由も特になかった。
 砂浜を歩くと、二十年ほど前の孤島の同行者を思い出す。歩くトウモロコシという奇妙な生物が、よくこうした水辺で釣りをしていたのだ。聞けば、ボルが旅した孤島でも同じようなトウモロコシと同道したらしい。ひょっとすると、また今回もひょっこりと現れるかも知れない。そんなことを考えると、僅かに笑みが浮かぶ。
 遠くに砂浜でたわむれる子供の姿が見える。どうやら子供もいるようだが、まさか観光ではあるまい。いくら遺跡外は平和という話でも、そこまで簡単に来れる島でもない。
 子供の姿をしていても、しっかりとした冒険者という例はかつての孤島でも嫌と言うほど見た。彼らもそんな冒険者なのだと思いたい。
 浜辺に立って海を眺めるヴァンの後ろからも軽快な足音と「ほら、姉さん早く」という声が聞こえる。無邪気なものだ、そう思ってからヴァンは声が意外に大人びている事に気付いた。
 振り返ると、ヴァンよりも拳二つほど大きい長身の女性が走って来ていた。褐色の肌は日焼けというわけではなく地だろう。どうみても大人である。
 そんな彼女は誰かに呼び掛けながら後ろ向きに走ってくる。実に危なっかしい、そう思った時には足が絡んでいた。
 短い悲鳴と共に倒れそうになった彼女を後ろからそっと支える。
「ちゃんと前を見ないと危ないぞ」
「ごっ、ごめんなさい!」
 弾かれたように勢いよく頭を下げてくる。ヴァンがすんでの所で頭突きのような謝罪をかわすと、彼女の背後からため息が聞こえた。
「リリィ、それじゃ頭突きよ。落ち着きなさい」
 長い黒髪に白い肌、恐らくは姉さんと呼ばれていた人物だろうが、血縁があるようには見えない。義理の姉妹といった所だろうか。
「師匠、お待たせしました!」
 足早に近づいてくるボルの足が止まる。
「げっ、エマさん!?」
 黒髪の女性は醒めた目つきでボルを一瞥すると、「あら、ボルじゃないの。老けたわね」と何でもないように言った。
「エマというと、ボルと共に宝玉を集めたエマール・クラレンス殿か。失礼、ボルの師でヴァンドルフという傭兵だ」
「ヴァンドルフ?」
 今度はボルの後ろを通り過ぎようとしていた赤毛の少女が足を止め、ヴァンに声を掛けてきた。
「ひょっとして貴方、以前にも孤島に来たことはありませんでしたか?」
「ああ、随分昔になるが」
「やっぱり! その節は弟がお世話になりました。ホークの姉でルヴァリアと申します」
 天使のような笑みを浮かべる少女に、ヴァンは二十年前の同行者を思い出した。魔術士の一族だという少年ホークは確かに姉がいると言っていた。凄まじく恐ろしい、破壊神のような姉が。
「弟に聞いていたのとはお歳が違うようですが、恐らく世界が違うせいで時間にも歪みがあるのでしょう」
 笑顔の少女に、ヴァンは若干の苦手意識を覚えながら「ああそうだな」とだけ頷いた。
 その時、遠くではしゃいでた子供が驚いたような声を上げたので、一同はそちらを向いた。
「姉さんあれ見てよあれ、トウモロコシが紅茶飲んでるよ!」
「アゼル、人に向かって指を差すのは失礼でしょう!」
 そんな会話に反応したのはエマとヴァンだった。
「赤毛で双子でアゼル?」
「トウモロコシが紅茶を飲んでいる?」
 反応した理由は違えども、二人にはそれぞれ相手の心当たりがあった。
 エマは、以前孤島を旅した際の仲間が、ディーネとアゼルという名の赤毛の双子を引き取って育てていると話していた事を。そしてヴァンは、孤島に来るたびに微妙に姿を変えて現れる、歩くトウモロコシの事を。
 エマはヴァンに向き直って肩をすくめて見せた。
「仲間探しの手間は、どうやら省けたみたいね」
「ああ、そうだな。よろしく頼む」
 そう言ってヴァンはエマールに手を差し伸べた。何故かリリィが握手に応え、一行は新たな探索の仲間となったのだった。

78日目4478文字
「レグル卿が儂を呼んでいる?」
 喧騒に掻き消されそうな耳打ちに、ヴァンは戦勝の杯を置いた。
 レグル男爵邸の中庭にはヴァン達傭兵が座り込み、いくつもの小さな輪になって祝杯を仰いでいた。振る舞い酒と勝利に浮かれる傭兵仲間達を掻き分けて、邸宅の中へと進む。
 木彫りの模様が描かれただけの、貴族にしては簡素な扉を開けると、外の熱気とはまた違った熱気があった。邸内では男爵直属の家臣達が酒宴を開いているのだ。
 入ってきた傭兵に嫌な顔をせず、逆に笑顔を向けてくる者も多い。主人の気風が家臣にも行き届いているようだった。
「お連れしました」
 ヴァンを案内していた家令が恭しく礼をすると、白髪の交ざり始めた髭面がヴァンへ向いた。
「おお、来てくれたか黒双剣」
「お呼びにあずかり光栄の極み、この傭兵めに何用でしょうか?」
 左胸に右拳を置き腰を折って礼をすると、男爵ではなくその横の客が「ほう」と声を漏らした。
「下賤な傭兵かと思えば、中々堂に入った礼をするな。気に入った、こやつなら構わんぞ」
 下げた頭の上から尊大な物言いを浴びるが、ヴァンは微動だにしなかった。この程度の言葉にいちいち腹を立てるのは既に飽きている。男爵から頭を上げるよう言われてから、ようやく尊大な物言いの男を視界に捉えたが、あくまでも視線は苦笑を浮かべた男爵に据えられたままだ。
「貴公を呼んだのは他でもない、少し厄介な事があってな」
 そう言って横に座る尊大な男をちらりと見る。あくまでも話の流れで紹介するための動作だが、ヴァンにはこの男自体が厄介事に思えた。座っていてもわかる長身と、自信が現れたように逆立った金髪を持った、一見歴戦の騎士とも思える初老の男だった。
「こちらはドグマシィ殿とおっしゃってな」
 その名前には聞き覚えがあった。だがヴァンが反応する前に、尊大なドグマシィが口を開いた。
「サイゼルバン・ドグマシィだ。蒼空の賢者と人は呼ぶ」
 厄介な客人はそう名乗った。
「あの真紅の――」
「トラウム如きと同列には置かれたくはない」
 男爵は真紅の賢者と呼ばれる大魔導師、ホリン・サッツァ・トラウムを引き合いに出そうとしたのだろう。世間的にもホリン・サッツァの方が高名であり、ヴァン自身も知己であるのだが、この青い賢者は赤い賢者を敵視しているようだった。
 非礼を詫びる男爵を見ながら、このような狭量さで恥ずかしげもなく賢者を名乗る男にヴァンは僅かな嫌悪感を覚えた。
「この近隣に人をさらっては魔法の実験台にしている邪悪な魔術士がいる、という噂があってな。我が領民も被害に遭ったと聞いては捨て置くわけにもいかん」
 男爵は小さいながらも領地を与えられている。その村の一つで、農夫が一人行方不明になったという。
「その背景に邪悪な魔術士がいると教えてくださったのが、このドグマシィ殿だ」
 ようやくの説明に、サイゼルバンも仰々しく「うむ」と頷く。
「つまり私にその邪悪な魔術士を討ってこいと?」
「ああ、無論報酬は支払う、傭兵への礼儀だ。ただ、正規の兵も他の傭兵もそちらへは割けないのだ」
 心底申し訳なさそうに言われたが、ヴァンにもその程度の道理はわかる。
 隣の子爵領と山の所有権で小競り合いが起きており、ついに紛争が起きたのでヴァン達傭兵が呼ばれたのだ。一応は勝利という形で終わったが、相手が諦めたとは限らない。居るか居ないかもわからず、どの程度の脅威かも分からない邪悪な魔術士とやらに貴重な兵力を割いて、その隙に子爵が再度仕掛けて来ればたまったものではない。
(それに、このサイゼルバンとやら自体が子爵の罠かも知れん)
 そんな疑念を表には出さず、ヴァンはいかにも使命感に燃えたような表情を作った。
「お任せ下さい、この黒双剣が必ずや邪悪な魔術士を仕留めてみせましょう」
「おお、引き受けてくれるか。助かった、いや助かった、では後はドグマシィ殿の指示に従ってくれ」

       †

(予想外だ。まったくもって予想外だ……)
 馬の背に揺られながら、星空を仰ぐ。
「おい傭兵、何を腑抜けた顔をしておる」
 いちいち口が悪い賢者が隣の馬上から絡んでくる。
 まさか祝勝の宴を中座していきなり今すぐ出発だなどと言われるとは思ってもみなかった。
「体力を使うしか価値が無いのだから、よもや夜を明かしてから出発したいなどと情けない事は言わんだろうな?」
(言いたいな)
「言わんな、では進もう」
 昼の戦いでの疲労は確かに残っているが、その大半は男爵の邸宅へ戻る道と、その後の僅かしか出席できなかった酒宴である程度回復している。地方の小競り合いだけでなく、大国同士の戦に参加したこともあるので、その時などは丸三日も徹夜で動き続けた事もあった。それに比べると今の疲労などは微々たるものである。だが、戦闘が終わってようやく皆とわいわい酒が飲めると思った矢先に連れ出されたので、戦いとはまた違った疲労感が押し寄せるのだ。
(呑みそびれたか……祝い酒は本来以上に酒の味を旨くするんだがな)
 女々しいと思いながらも、過ぎ去った酒宴に未練が残る。
「このままあと一時間ほど進んでから十五分休憩を取る。その後、夜が明けきる前に襲撃する」
 蒼空の賢者は懐から取り出した物を眺めながらそう言った。
「時計か?」
「おや、時計を知っているのか。傭兵のくせに大したものだ」
 時計には機械時計、精霊時計、魔法時計の三種類があり、大国の首都級の大都市に行けば稀にそれらの大時計がある。だがそれをここまで小型化できるというのは聞いたことがなかった。
「高いぞ。普通に金銭で買おうとすると、レグル男爵領の税収四年分ぐらいはかかるだろう」
 比較対象自体がよく解らないが、要するにそれは自分が金持ちであるという自慢ではなく、本来ならばそれほどの価値がある物を手に入れることが出来る程の、金以外の力を持っているという自慢なのだ。どちらにせよ自慢には変わりが無いのだが。
 しかしヴァンは、なるほど賢者と呼ばれ、ホリン・サッツァと並び称されるのも無理はないなどと感心していた。
「西の大陸に手先の器用な亜人種がいてな」
「精霊国ノームボルトのドワーフ族か」
「ほう、本当に博識だな。貴様なぜ傭兵などをやっておる?」
「生まれと顔が悪いからだ」
「ふん、口の悪さも加えておけ。ドワーフ族の細工技術に、精霊術、魔法技術を組み合わせた世界でただ一つの、私が使う限り一秒の遅れもありえない永久時計だ」
「高いはずだな。それで、先程の計画はどういうことだ? 賢者殿はまるで邪悪な魔術士とやらの居場所を知っているようだが」
 ヴァンの質問には答えず、サイゼルバンは意味ありげに笑うだけだった。

       †

 夜の森へと入って五分ほどした所でサイゼルバンは馬を下りた。長い足で軽やかに着地する彼は、賢者と言うよりもやはり騎士のように見える。ヴァンも倣って馬を下りるが、こちらはいつもと同じ歴戦の傭兵の風格だった。
「ここからは徒歩だ。武器の用意をしておけ」
 囁いて返事も待たずに進み始める。やはりこの男は邪悪な魔術士とやらの居所を知っているようだった。
 ある程度進んだところで立ち止まり、ヴァンに前方を指し示した。月明かりも木々に遮られているので、目をこらしてようやく小さな丘のような地形になっているとわかった。丘の上にも木々が生い茂っているので、特に周囲の森と雰囲気は変わらない。だがヴァンは僅かな違和感をしっかりと感じ取っていた。
「なるほど、丘を掘って隠れ家にしているのか。で、何故賢者殿はそれを?」
「すぐに解るさ。あと五秒待て……よし、歩花の刻になった」
 時計によると日が変わって四時間が経ったらしい。
「研究を終えて床に入った所のはずだ。奴は私が始末する、貴様はそれ以外を始末しろ」
 それ以外という言葉に眉をしかめる。これまでの話では邪悪な魔術士とやらは一人のはずだった。疑問を口にする前に、サイゼルバンが懐から取り出した魔石を構えて呪文の詠唱を始める。
『ヴォーグの息吹よ!』
 古の火神の名を呼んだサイゼルバンの魔石から突風のような炎が丘へと吹き付ける。森林火災の心配をするよりも早く木々が炭化していく。ヴァンが見たことも無いような凄まじい魔法であった。丘が半分ほど炭化した所で、サイゼルバンの炎が止まった。見ると、崩れた消し炭の向こうで寝間着姿の魔術士が魔法障壁を張っていた。
「久しいな我が弟子よ」
 サイゼルバンが邪悪な笑みを浮かべる。障壁を張っていた魔術士は怯えたように蒼空の賢者を凝視した。
「我が師サイゼルバン、何故貴方が!」
「貴様の実験、あれは私も研究していたのでな。あまり広められると困るのだ」
 魔術士の周囲の炭化した瓦礫が崩れる。むくりむくりと身体の半分を焦がした人々が立ち上がる。ヴァンは即座に『人をさらっては魔法の実験台にしている』という男爵の言葉を思い出した。
「死人を兵士にする禁呪か!?」
「いや違う。生きた人間を死なない兵士にする実験だ」
 醜悪な魔法に腹の底からむかむかとした気持ちがせり上がってくる。
「私は愚かな弟子を始末する。貴様はこの人形共を始末しろ。何、まだ実験だ、首でも斬れば死ぬだろう」
「お前の魔法なら儂の助けなどいらんはずだ」
「助け? 勘違いをするな。貴様は私に何の罪もない純朴な田舎者を殺せというのか? 何のために金で手を汚す下賤な傭兵を雇ったと思っているのだ馬鹿者が」
「貴様は……!」

       †

 最後に切った農民は恐らく意識があったのだろう。その顔は恐怖に歪んで涙を流していた。吐き気のするような仕事を終え、ヴァンはサイゼルバンに向き直った。
「貴様、さっき自分も研究をしていたと言ったな?」
「ああそうか、口外されても困るな」
 その目は彼も始末してやろうという冷たさを持っていた。そしてヴァンは自分では勝てない事を自覚していた。
「儂がただでやられると思うな、何度ホリンの爺を相手にしてきたと思っている」
 赤い賢者の名を聞いて、青い賢者の顔つきが変わった。
「傭兵、貴様……トラウムを知っているのか」
「ホリン・サッツァ・トラウムとは腐れ縁だ。いつか倒す」
 いよいよサイゼルバンの表情が変わってきた。先程の冷たさが消え、まるで喜劇を見るような目に歪む。
「はっ、貴様があのトラウムをか、笑わせる」
 この賢者は大魔導師ホリンを嫌悪しながらも、好敵手として評価しているようだ。
「これまで十八度挑んで十八度負けた。だが負けるたびに差は縮まっていると実感出来る。諦めん限りはいずれ倒す」
「十八回も負けて生き恥を晒しているのは、奴が貴様を見逃しているからだ。殺す気になればいつでも貴様は死んでいた」
「あのホリン・サッツァが殺す気になると思うか?」
 ヴァンは挑戦的な笑みを浮かべてそう問うた。サイゼルバンはそれまでとは少し違った笑みをうっすらと浮かべた。
「いいや、あの偽善者が殺すはずがない」
「そういう事だ。だからいずれ倒す」
「一理ある。貴様の如き下賤な傭兵に下され地に這いつくばる奴を見ながら一杯やるのも悪くはないな」
 そう言って蒼空の賢者は背を向けた。
「帰るぞ傭兵。今なら酒宴に間に合うだろう」
 それが孤狼ヴァンドルフと、賢者サイゼルバンの出会いだった。

81日目4962文字
 引き絞られた弓矢のように、木陰に隠れた男たちは解き放たれる瞬間を待っていた。
 手を伸ばせば届きそうな距離にある戦場に向けて、男たちの殺気が充ち満ちてゆく。
「伝令っ!」
 走ってきた軽装兵が歴戦の傭兵へ走り寄り耳打ちをする。
 周囲の傭兵も、自分たちの頭領が突撃命令を下してくれるのかと期待に満ちた顔で注目していたが、頭領の表情が険しくなるのを見て、まだ動かせては貰えないのだと悟る。
 伝令が去り、頭領が苛ついた表情のまま苛ついた声を出す。
「戦況は五分五分、危うくなった時のため、持して控えろだそうだ」
 普段ならば口々に不満の声が挙がる所だが、今の彼らは伏兵である。無駄にざわめいて敵に気取られては意味が無い。頭領たるランドウィンが発言を許したものだけが口を開くことができる。
「各分隊長をここに」
 ランドウィン傭兵隊は頭領直轄の本隊で五百人弱の規模である。今回の戦ではその中から百五十名程度を連れて参戦しており、十名前後の分隊長にそれぞれの統率を任せてある。
 各分隊との伝達兵が分隊長を連れて戻ってくると、ランドウィンは地べたに座り込んで、分隊長にもそうするように指示した。
「さて、上からの命令は自分たちが不利になるまで待て、だ。待ちたい奴は手を挙げろ」
 九人の分隊長のうち、三人が手を挙げた。
「待ちたくない奴は?」
 これも三人。
「んじゃ残る三人はどういうこった? チラッショ」
「俺が命令を聞くのは雇い主じゃない、あんただ親父殿」
「ボロト」
「右に同じ」
「デュッセル」
「私も弟子たちもこの傭兵隊の客分。命運を分かつ判断は差し出がましいから、右に同じだ」
 三十半ばの双剣使いがそう言う。
「なら仕方ない、待たずに攻めよう」
 ランドウィンはがあっさりそう言うと、待つべきだと手を挙げた三人が何か言いたげに身を乗り出した。
「言ってみろ。フィリッツ」
「命令違反をして約束の金が貰えなかったら、俺たちゃ何のために命張るんだ?」
「セリム」
「違約金なんて払わされるかも知れないじゃないですか、そんなのごめんですよ」
「セラロス」
「機じゃないのにのこのこ出ていっても危険だと思います」
 三人の意見を聞いて、ランドウィンは膝をぽんと打った。
「よし、お前らの意見は聞いた。だが行こう。命令は自分たちが不利になってからという阿呆なもんだ。こんなのは将軍どころか傭兵総括のドトキ殿の発案でもないだろう。さてこれはどういうことか、チラッショ」
「戦況は五分、ならば将軍も騎士たるドトキ殿も既に命令を下せない状況にあるのかも知れない」
「だな、死んでるかも知れねえし、生きてても忙しくてそれどころじゃない、もしくは伝令が途中で死んじまったってのも有り得る。さてどう見るデュッセル」
「傭兵を束ねるドトキ殿でも将軍でもなく、しかし命令を下せる立場、つまりは名ばかりの総司令である御曹司が、保身のために下したと見るべきかと」
「侯爵様のお坊ちゃんはとにかく臆病ってので有名だからな。今戦場に出てきているのも、指揮を執ったという既成事実がいるだけだ。侯爵の力で要職に就いた時のハクが欲しいってこったな。フィリッツ、セリム、セラロス、わかるな? 坊ちゃんは将軍が崩れかけてから、自分の判断で傭兵を動かして窮地を救おうって魂胆だ。恐らくもうちょっと激しく崩れたら、自分を守るために逃げる間の時間を稼げって命令に変わるぜ。今すぐに俺たちを動かしてしまえば、その後で崩れた場合の時間稼ぎ役がいなくなるからな。そりゃ待てと言いたくもなるだろうよ」
 珍しく長台詞を吐いて、ニヤリと笑う。
「もう俺はひと言しか言わないぜ?」
 その言葉を受けて分隊長達は持ち場へと駆け足で戻っていった。中腰で進むのではなく堂々と走る姿を見て、他の傭兵達も身を隠す必要が無くなった意味を理解する。
 持ち場に戻ったヴァンの元に、一番弟子のラーマークを筆頭に、二十を少し過ぎたばかりのボルやクレイといった高弟たちが集まる。
「出るぞ」
 そのひと言でヴァンドルフの双剣衆と呼ばれる食客の一団の表情が引き締まる。ヴァンの下に付けられたランドウィン傭兵隊の傭兵たちもいつでも走り出せるように立ち上がって準備運動を始めた。
 にわかに林の中が賑やかになる。少し先で戦っている敵兵たちも、勘がいい者ならいつ気付いてもおかしくはない。
 ランドウィンが悠々と林の際まで歩いて行き、自然と皆の視線を集める。
 ゆっくりと手を挙げると、彼は『ひと言』の大音声を挙げた。
「野郎共仕事だ、行くぞ!」
『おおっ!』
 雄たけびは風を裂き、放たれた傭兵という名の矢が戦場へと殺到する。

       †

「この戦、勝ったな」
 戦場を見下ろす丘で馬に乗った将が呟いた。そのひと言に副将が恭順する。気をよくしたのか将は笑みを浮かべて言葉を続けた。
「所詮は三流侯爵の軍よ、練兵もせずにぎりぎりまで野良仕事をさせて重税を絞っていただけのことはある。極めつけは総司令に臆病者と有名な馬鹿息子を放り込むとは、どこまで士気を下げたいのだ。見よ、敵兵たちの覇気のない顔を、人心掌握下手もここまで来ると芸術だな」
 そう笑った時だった。遠くから雄たけびが聞こえた。
「何だ?」
 副将がすぐに馬を下りて地面に手の平を当てる。
「……敵に援軍のようです」
 馬に飛び乗ってそう言った。
「援軍、今更か?」
 戦場の移動の仕方からして、林に兵でも潜ませているのかと思ったが、押しても引いても伏兵が出てくる事はなかった。それ故にこちらの伏兵を投入して五分だった戦況をこちらに傾けたのだが、やはり伏兵は出てこなかった。だからこそ勝ちを確信したのだ。
「林から、傭兵のようです」
「所詮雑多と切り捨てたい所だが……これまで機をうかがっていた事といい、あの統率の取れた突撃といい……何者だ?」
「解りませんが、警戒はした方がよろしいでしょう。こちらの兵は千七百、あちらは千三百程度まで減らしておきましたが……増援約百二十、いえ百五十」
「数の有利は変わらんが、この局面だ。疲労していない、戦慣れした百五十はこの状況では五百にも勝る。弓兵用意!」
「弓兵用意!」
 陣形変更を伝える太鼓が打ち鳴らされる。
 横に広がった前衛の層を狭く厚くしながら僅かに後退し、既に前衛に混ざって戦っていた弓兵たちは近接武器から背負っていた弓に持ち替えて全速力で後退する。
「敵増援が参戦しきる前に叩く! 今の乱戦相手を三人殺すよりも、増援一人を殺すことを心がけよ!」
 増援の参戦を許せば敵の士気は上がり、こちらの士気は下がる。相手が雑兵ならまだしも、戦場を渡り歩く傭兵たちの戦慣れというのは脅威であった。だからこそ、早めに叩いて無力化すれば相手の士気は完全に潰え、こちらの勝利が完全となる。将はそう考えたのだった。しかし――
「なんだあの一団は?」
 増援の中で十数名の一団が他の傭兵よりもあからさまに速い。
「奴ら、軽装というよりもほとんど鎧を着ておらんのか? それに素手だと!?」
「馬鹿なと笑うには、少々不気味ですな」
「先頭を走る男、あの黒い外套の男が頭だ、奴は何だ!」
 視線を釘付けにしながら副将に問う。
「……黒衣、黒髪、軽装、傭兵、何か聞き覚えがありますな」
「いかん、奴らもう乱戦に雪崩れ込むぞ、速すぎる!」
「格闘傭兵のバグストン? いや、彼は緑色の鎧に金髪」
「ん、腕組み? 違うあれは……二刀流だと? 奴ら盾もまともな鎧も着けずに、双剣で戦うというのか!」
「双剣!?」
 いつも落ち着いている副将が驚いた声を上げた。
「ああ双剣だ、後ろの奴らも全員双剣だ、いかん乱戦に入られた!」
「ヴァンドルフの双剣衆、奴は黒双剣のヴァンドルフです!」
 副将が叫んだ言葉に、周囲にいた兵士たちのどよめきが返る。
「ヴァンドルフというと、アブカントの双剣将軍の剣技を受け継いだと言われるあれか!」
「ヴァンドルフと親交の深い傭兵で、あの規模、あの統率……?」
「弓兵まだか! 乱戦に到達したヴァンは仕方がない、残りの奴らが突入してくる前に早く射かけるんだ! くそっ、なんだあの双剣どもは!」
 双剣衆と呼ばれた一団が到着した周囲から、あからさまにこちらの軍が押し返されていた。
「いけません閣下、あの増援ランドウィン一家です!」
「“丸呑みの大器”か!?」
 一瞬副将の顔を見てからすぐに戦場に目を戻す。
 ヴァンの勢いに押し戻された兵列が弓兵の動きを阻害している。
「ええい、隊列は気にするな、射るんだ!」
「閣下、その命令を伝達する術がありません」
 太鼓の叩き方で作戦を伝達するように練兵してきたが、この事態に備えての叩き方などは考えてもいなかった。今から早馬で丘を駆け下りて伝えに行っても、若干間に合わない。
「くそっ、黒双剣ならともかく、“丸呑みの大器”なんて大傭兵がなんで三流侯爵の軍に!」
「閣下、命令を。陣が崩れます」
「太鼓、遅打ち三、早打ち六、大打ち二だ!」
「撤退ですか。遅打ち三、早打ち六、大打ち二! 矢を敵頭上に射かけてからの全速後退急げ!」
 太鼓が命令通りに遅く三回、早く六回、大きく二回打ち鳴らされる。
 既に弓兵の準備をしていた所だったのが幸いして、即座に弓兵が真上よりも若干前方よりに矢を放ち、敵に背を向けて全速力で撤退を始めた。前衛で戦っていた兵士たちも、既に斬り結んでいて背を向けられない者以外は次々に退却を始める。
 斬り結びながらも背を向けて殺される者、突然の退却に足をもつれさせて転んだ所を味方の雪崩れに踏みつぶされて命を落とす者もいるだろう。しかし撤退せずに死者を増やすよりはましだった。
「見事な決断です閣下」
「この戦局は勝ちを譲ってやるが、この戦争自体に負けたわけではない。次の戦局を勝つためにも兵を死なせるわけにはいかん」
 声こそ冷静だったが、手綱を握りしめる手が怒りに震えていた。

       †

 今日の勝利を祝う夜営には、密やかに祝い酒が振る舞われていた。
 ヴァンからすれば勝てたというよりも、負ける所だったのを相手に引いて貰ったという感覚だったが、酒はしっかりと呑む。
「双剣の兄貴、親父が呼んでますぜ」
 弟子たちと歓談していた所を呼ばれる。この傭兵隊は頭領であるランドウィンを親父と慕い、目上を兄貴と呼ぶ少し変わった所であった。ヴァンも青い日より縁あってこの傭兵隊に時折参加しており、正式な隊員ではないが兄貴と呼ばれる奇妙な客人であった。
「どうした親父殿?」
「来たかデュッセル。おう、一番槍が来たぞ」
 見ると、他の分隊長も呼ばれているようだった。
「いきなりだけどよ、お前この傭兵隊継がねえか?」
「は?」
 ヴァンが目を丸くすると、七人の分隊長が一斉に笑った。
「何だお前その間抜け面、面白ぇな」
「ボロトの奴にも見せたかったぜ」
 頭領の両腕と呼ばれていたチラッショとボロトのうち、片方は今日の戦で最後に敵が放った矢の雨を浴びて落命した。
「お前は正式なうちのもんじゃないが、分隊長連中の誰よりも昔からうちで戦ってきた。実力もあれば人気もある。何より生き延びる事に対する意識がしっかりしてる。チラッショ以外はお前を次期頭領にしたがっている。俺もな」
 突然の言葉に途惑うばかりだったが、一つだけはっきりしているのは継ぐ気にはなれないという事だった。
「ありがたいが、儂のような風来坊では皆が納得しないだろう。それに儂はまだ未熟だ、弟子をとってはいるが、儂もまだ修行の途中、すまないが……」
「ほれ言った通りだろうが親父」
「まだ早ぇんだよな」
 分隊長たちがまた笑う。ランドウィンは肩をすくめて口の端を歪めた。
「仕方ない、んじゃお前の修行が終わるまで待とう。俺がくたばる前に終わらせろよ?」
 丸呑みの大器と呼ばれる男は、そう言って破顔一笑すると、ヴァンに強引に酒を薦めるのだった。
「やれやれ、親父殿の事だ。十年経ってもまだ言われそうだな」
「おう、十年でも二十年でも、お前以上の逸材が見つからない限りは言い続けるぜ」
「親父はしつこいからな」
「この前も酒場の姉ちゃんを三日連続で口説きまくってたもんな」
「四日目で店に出入り禁止だ」
 笑う傭兵たちの輪は確かに心地よい。傭兵隊を継げと言う言葉に魅力を感じないわけではなかったが、それでもヴァンは継ぐ気にはなれなかった。
 しかしヴァンが口にした予感は正確で、実際に十年近い時が経ち、孤島へ旅立とうとするその日に再会してもなお、ランドウィンの跡継ぎ攻勢は続くのであった。

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