12日目4792文字 |
薄暗い店の喧騒に混じって、外の雨音が聞こえる。 心なしか、雨を吸って店の木材が薫り放つように感じた。 男はからになったタンブラーを置くと、閉じられた窓に目を向けて見えるはずのない雨景色を視た。 「降ってますね」 カウンター越しに、無精髭を生やした店主が同じように窓を見る。 「蒸すな」 雨水が入ってこないように締め切られた店内では、酔った男達が盛り上がっている。その熱気が暑苦しい。 「普段は雨が降っても涼しいぐらいなんですがね。無理してでもガラス仕入れてくりゃ良かったかな」 孤島ではガラスは希少である。欠片であっても取引材料になる。仕入れてくるには一度島を出て買い付けに行く必要があった。こんな島まで届けてくれる酔狂な業者などいないからだ。 「高いだけだ、やめておけ。ガラス窓など酒場にあっても酔漢に割られるのが運命だ」 「違いねぇや」 店主はひとしきり笑ってから、思い出したようにカウンターの下に潜り込んだ。 「ちょいと蒸留酒を楽しみましょうや」 男からは見えない位置に何かを引っ張り出して悪ガキのような笑みを浮かべると、店主は手に丁度収まる大きさのガラスの酒杯を出してきた。 「あの旦那何つったっけ、リック? あの人もいりゃ良かったんですがね。まあ師匠だけでも良いや」 店主は手元で酒杯に何かを入れてから、横倒しになった樽から火酒を注いだ。途端に何かがきしむ音が聞こえる。 「ほい、どうぞ」 振り返った店主の手には、氷の浮かんだ酒があった。 「氷か! これは珍しいな」 男が目を丸くして驚くと、店主はしてやったりと言わんばかりに満面の笑みを浮かべた。それほどに氷は希少である。 「ちょいとばかし腕の良い魔術師と知り合えましてね、作って貰いました」 そう言って氷をひとつまみして男に投げて寄越すと、自分も一つつまみ上げて口に入れた。男もそれにならう。舌で冷たい感触を味わってから、奥歯で噛み砕いて氷自体を味わう。 「ほう、水から凍らせたか」 「お、流石師匠、舌も良いや」 「何をぬかすか」 男は店主に剣は教えたが料理は教えていない。まだ若いのに現役を退いて料理も出す酒場などを開いたのは、弟子自身の才覚だった。 口内で砕けた氷を転がしながら、溶けてきた水の味を確かめる。 氷を酒に入れるのは中々骨が折れる。氷が取れたり作れる地方ならばまだしも、それ以外の地域ではわざわざ買い付けるか、魔法使いに作って貰うしかない。そうやって入手した所で値は張るし、何よりも勝手に溶けるので保存が利かない。保存しようと思うと、貯蔵庫を造ってしまうか、また魔法使いに頼んで保管容器に溶けづらくするための何らかの魔法をかけて貰うしかない。それにもまた金がかかる。要するに贅沢品なのだ。 「湧き水を使ったのか?」 男の問いに店主が頷く。 魚や果物を船や馬車で運搬する際に、氷系の魔法を使える魔術師を雇って鮮度を保つという方法はあるのだが、そうした魔法で作られた氷は味が良くない。美味い氷を作るには、美味い水から純粋に冷却させて凍らせるという高い技量が必要になる。 「島なのに何故か湧き水だけは豊富ですからね、誰が作った島かは知らないけどありがたいもんです」 孤島を「何者かが作った」という前提で話しているのが店主らしい。男は直接見ていないが、店主も過去に孤島で百日近くを過ごし、一時は全ての宝玉を集めて最後の戦いにのぞんだという。数百人で挑んだ異形との戦いが終わった後、孤島は消滅した。男がかつていた孤島でも、そういう不思議な現象は起きていた。そもそも、異世界の住人同士が己の言語を問わずに意思疎通をしながら生活できる島なのだ、常識ではかる方が馬鹿馬鹿しい。 ともあれ、今回の島には今までと違った鉄則がある。 遺跡の外では安全であること、遺跡の中でも基本的に命は落とさないこと。この二点だけでも大きな変化である。遺跡の外の安全には食べ物も含まれている。一般人でも狩ることが出来る程度の動物に、豊富な植物、安全な水、よくよく考えれば遺跡などに潜らなくとも楽園のような環境が遺跡の外に広がっているのだ。 「ボルよ」 酒杯に口を付けたまま、店主が目だけで男の呼び掛けに答えた。 「お前は遺跡に潜ろうとは思わんのか?」 「またそれですか。よく聞かれるんですが、あんまり思わないですね。前の孤島で宝玉集めたからかな? 何か衝動が起きないんだよなぁ」 自問めいた呟きを発して首をひねる。 「前の孤島は百日かけて、旅したわけですわ。山越え森越え死闘を越えて、そっから遺跡に潜って、今度は変な転送装置やら熱砂やらを越えて、エージェント何ちゃらって奴らと戦うわけですよ。ニィとかサバトとかスギンディムとかニギアとか、……エロフ? 何か違うな、エモフとイロフだっけか。それとか、ああ神崎のオッサンは渋かったし、ホリィの姉ちゃんは美人だったな。…………くそっ、殴蹴応酬とアンクシャス思い出しちまった」 痛そうな顔で思い出から帰還する。よほど痛かったのだろう。 「まあとにかくそんなエージェント達を二十人ばかし蹴散らして、動物どもの強襲やら宝玉狙いの人狩りどもを警戒しながら何とか生き延びたわけですわ。そんで最後にゃ、頭の上に変な輪っかが浮かんでですね」 「それは生き延びているのか?」 「宝玉何個か持ってる奴が輪っかに触ったら中央の小島に飛ばされる仕組みなんですよ」 「選別か」 「でしょうね。そしたら、赤くてデカい赤ん坊が宙に浮いてやがって、選別を通った奴ら全員で叩きのめしたんですが……」 「前に聞いた異形の化け物が来たわけだな」 「そりゃあもうボロ負けで酷い有様でした。百人近い相手と四日に渡って戦い続けたリトルグレイの野郎も凄かったけど、結局歴戦のつわものの連合が勝ったわけです」 店主の熱弁を聞きながら、冷えた火酒を咽に流し込む。咽の奥から芳醇な薫りが広がり、口内を満たしてから鼻孔と心に薫りを届けた。 「んで、俺らも晴れて島を出れると思いきや、いきなり島が崩壊するから出てけってな事を言われたわけですよ。心に思い浮かべた場所に飛ばしてやる何て無茶まで言いやがる」 「だがお前とジーンは儂の所へ来た」 男の言葉に店主が頷く。 「百日、正確にゃ九十六日か、とにかくそんだけの期間を戦い続けて、いざ終わってみたら宝玉も島も全部消えてやがる。九十六日かけて旅した島が、実は中央にあったちっぽけな島だけだって言われてもね。一日ありゃ探索し尽くせる小さな島だけが本当の島で、残る全ては宝玉だか誰だかが作り出した夢幻の塵芥。それまでの戦いや出会いってのが、全部夢だったのかって思えるぐらいの唐突な喪失ですよ。皆が作ってくれた『孤狼の魂』がなけりゃ、悪い夢でも見てたと思っちまうぐらいのね」 言葉を切って店主も火酒を口に運ぶと、しばらく黙り込んだ。酒を楽しんでいるのだろう。 「失礼、まあそんなわけで俺はもう宝玉にゃ興味ないってわけです」 「そうか……」 目を閉じて考え込む男の姿を見て、今度は店主が疑問を口にした。 「現役復帰しろって話じゃなさそうですね。何が引っかかるんです?」 返答は簡潔だった。 「全部だ」 ヴァンドルフ・デュッセルライトはゆっくりと目を開けると、何かを睨み付けるように険しい顔をした。 「全てが気に食わん。この島は儂がいた孤島とも、お前がいた孤島とも違いすぎている。儂らのいた孤島は違うとはいえ共通点が多かった。だがこの島は違いすぎる。前の島も今の島も何者かの意志が感じられるのは同じだが、この島は……」 言葉を選びかねて言いよどむ。 「悪意? ……違う、何と言えば良いのかよく解らんが……嘘、そうだ嘘だ」 ヴァンは男の目を見据えて言葉を選んだ。 「偽物に思えてならんのだ」 「偽物の……孤島」 弟子の呟きに頷く。 「そう、まるで儂らの知るかつての孤島の模造品。宝玉と財宝という餌に釣られてやって来た者たちを飲み込んで、それを眺めて楽しむ、そういう悪意めいたものを感じるのだ。このような島に何故守護者伝説などがある? あからさまに儂ら探索者以外の勢力も闊歩しているし、奴らは儂らをどこかへ誘導しているようにも思える」 「釣られた者を飲み込む、か。すると宝玉と財宝は疑似餌といった所ですかね」 ヴァンは持っていた酒杯をゆっくりと回した。からんと小さな音を立てて氷が崩れる。 「宝玉が疑似餌とは的を射ているかも知れん。財宝があるというだけで二千人近い人々が押し寄せるというのはな……流石に違和感がある。全員が野心家ならばまだしも、本来ならば財宝などに興味を抱かなさそうな者たちまでが、一様に遺跡に潜っていく光景は確かに不思議でならんかった」 「かつて不思議な孤島があり、そこには不思議な宝玉が眠っていた。それは伝説でもなんでもなく、実際に行って帰ってきた人々が大勢いて、帰ってきた彼らは宝玉や守護者について人々に語って聞かせた」 「酒場や宿で吟遊詩人が歌って聞かせるぐらいには」 「店主が訳知り顔でここだけの話と打ち明けてくる程度には」 「宝玉と孤島の話は広がっていたわけだ」 ヴァンはため息をつくと、火酒を口に運んだ。蒸し暑いからと気を利かせて氷を入れてくれたのは良いが、よくよく考えるとそれを火酒に入れたのでは結局身体が熱を帯びて余計に熱く感じるという事に今更気付く。 一気に残った火酒を煽ると、カウンターに力強く酒杯を置いた。 「水を」 店主は酒杯を受け取ると、代わりに水と氷の入ったタンブラーを師に差し出した。 「随分やる気になってますね。それで、どう見ます?」 その質問に直接は答えず、ヴァンは酒場を見渡した。 「いつかの歌い手はどうした」 店主は肩をすくめて地面を指さした。 「あのような歌を歌える人物でさえ、遺跡の魔力に取り憑かれたままか。ボル、お前一日に何人の顔を見る」 「五十人いりゃ良いところですね」 「では、その顔を見て気付いた事はないか。遺跡に行く前と帰って来た後でだ」 聞かれて、店主は一所懸命に記憶を辿ってみた。 「たまに熱病に冒されたような目で潜る奴がいるぐらいですかね。帰ってきたら別人みたいに大人しくなってますが」 その言葉を味わうように頷いてから、ヴァンは「やはりか」と呟いた。 「宝玉という疑似餌と、財宝という撒き餌。これに加えて、餌に釣られない者のためにじわじわ効いてくる毒もあったようだな」 「厄介な事で」 「厄介ではあるが、調べてみる価値はある」 そう言ってヴァンは立ち上がった。 「世話になった。おかげでこの島が今までの孤島とは性質が違うという事に確信が得れた」 「毎度、お代は結構です」 弟子の言葉を無視してヴァンは懐から数枚の硬貨を出してカウンターの上に置いた。 「明日からまた潜る。続きは今度だ」 「師匠!」 立ち去ろうと背を向けた師に、店主はつい大きな声で呼び掛けてしまった。 「その……この島が今までのとは性質が違うって事は、今までみたいな力を試して選別するための障害じゃなくて、悪意のこもった酷ぇ障害が待ってるかも知れませんぜ? それにぶち当たったらどうすんです」 問われたヴァンは一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに口の端をつり上げると、力のこもった目で弟子を貫いた。 「無論、斬り捨てるまでよ」 そう言い残して、孤狼は夜の闇へと消えていった。 |
20日目4850文字 |
岐路に立っている。 硝子の酒杯ごしに揺れる蝋燭を見つめ、ヴァンドルフ・デュッセルライトは短くため息をついた。 店主がちらりと顔色を伺ってくる。いつもならば間髪入れずにどうしたのかと聞いてくるだろうが、今日は少々店が混んでいるせいか話しかけては来ない。酒場の店主ならば空気を察してというのが普通だろうがこの店主に限って、それもヴァンに対してそれは有り得ない。空気を察した上で、相手がヴァンならばあえてそれを無視するのがこの店主だ。 弟子として色々無茶な育て方をした恩返しならぬ怨返しかも知れない。だが不快にならない範囲での図々しさは気持ちいいものだ。だからヴァンは、この時弟子が話しかけて来なかった事に塵芥ほどの寂しさを覚えていた。 目の高さに掲げた酒杯を手首で回す。 氷の音と酒場の喧騒が心地よい音を奏でる。 夜闇に抗うように酒場の中は幾本もの蝋燭が明るく輝き、その熱と酔客たちの熱気で窓から入る涼しげな夜風さえ押し戻していた。 目と耳で酒を満喫してから、琥珀色の至福を口に招き入れる。口内から鼻にかけて、芳醇な薫りが広がっていく。酩酊しそうな薫りを咽に通し、咽の奥からも立ちのぼる薫りをまた楽しむ。 「良い酒だ」 正当な評価を下し、ヴァンはまた思案に暮れた。 彼は岐路に立っていた。 孤島に来てからというもの、彼の持つ全ての経験が一時的に失われている。そうなる事は以前の孤島で体験済みなので覚悟は出来ていた。まだまだ満足の行く領域ではないが剣の技は辛うじて及第点に届く程度には冴えが戻ってきた。 しかし、刀剣鍛冶の腕はそうではない。 知識面や技巧はかつての勘が戻っている。戻って来てはいるのだが、この酒場の店主ボルテクス・ブラックモアに譲った黒双剣のような、ヴァン自身が己の命を托すに足ると思える剣が作れないのだ。 若かりし頃のヴァンの前に立ちふさがった双剣将軍アズラス、憧れであり仲間の仇でもある彼と渡り合うために選んだ自らも双剣使いになるという道。 双剣使いとして生きるために身に付けた自分専用の双剣を作り上げる刀剣の鍛冶技術。 これまでの人生で三百を越える剣を打ってきた。満足の行く剣も多かった。だが満足の上に座す、命を預けられるほどの信頼が置ける剣はわずかに三対六振。 ボルテクスの兄弟弟子であるソルトソードに托した白双剣。事実上の一番弟子の証としてボルテクスに托した黒双剣。そして、亜人の職人と魔導師の協力で完成した終の剣、光双剣。 白双剣は白鋼と妖精銀で作られた双剣だった。切れ味の鋭さと軽さ、速度を重視した短期乱戦用の剣である。十対一といった戦いでは全ての攻撃を後の先で返して無傷で勝利する事も可能であった。 黒双剣は魔法で強化施術した黒鋼で作られた双剣である。刃こぼれをせず、折れず、曲がらない絶対の強度を目指して作られた、長期乱戦用の剣だった。傭兵として戦争に参加する時には白双剣よりも乱雑に使え、防御にも使える黒双剣の方が向いていた。 これらの剣をソルトソードとボルテクスに与えたのには理由があった。 没落貴族ながらも気構えと誇りだけは捨てず、正当な剣術の発展系としての双剣術を身に付けたソルトソードには、レイピアなどと近い感覚でも使える白双剣が合っていた。 幼い頃から戦場あさりや傭兵として身を立てていたボルテクスは、逃げ出さなかった数少ない弟子の中では一番ヴァンに似た戦い方をする。しかしヴァンほどの沈着さを持たない、良くも悪くも気分で上下する男なので攻防に優れた黒双剣が合っていたし、それ以上に彼の黒双剣に対する思い入れはヴァンにも理解出来た。 二人ともおのずと自分に合った双剣を譲り受けたいと願い出て来たのも譲る理由ではあった。自分の特徴を理解しており、なおかつ使いこなしてみせるという気構えもあった。そうでなくてはヴァン自身もまだ使う機会のある双剣を譲ろうはずがない。 最後に作ったのが光双剣である。 不死の魔人と恐れられたジーン・スレイフ・ステイレスを倒せたのはこの剣があったからに他ならない。 元々はヴァンが旅するうちに知った古代の伝承に似たような武器があったのが始まりだった。 傭兵や旅の剣士として各国を回り、その武器が確かに存在したこと、現在は失われた魔法技術を用いたこと、その魔法技術の載った古文書があることを突き止めた。 既に高名な傭兵だったヴァンは一介の兵士としてではなく、己の名を利用して積極的に作戦の提案をするようにし、次第に軍略の相談役となっていき、各国の支配層にもヴァンドルフ・デュッセルライトという存在を認識させるように動いたのだった。 数年を掛けて、古文書を秘蔵するという国からも信用を得た。古文書を閲覧し、模写させて欲しいというヴァンの不躾な願いを聞いた国王は、快諾するだけではなく古文書を解読するための人材を集めてくれた。 古文書を解読すると、到底ヴァン一人では作れるはずがないということがわかった。基板となる魔法は熟練の魔術士でも難しく、魔法を金属に定着させる技術は人間が持ち得ない技術だったのだ。途方に暮れたヴァンに手を差し伸べたのは、またもこの王であった。魔導師数人と、他大陸に住む亜人の鍛冶職人を数人手配してくれたのだ。彼らの協力があってなお一年以上の時間を掛けて完成させた剣、それが光双剣だった。 ヴァンの意志によって制御される刀身を持ち、刀身の長さや強度を常に制御しながら振るう必要があるというあまりにも特殊な剣。だがこの剣だからこそ、斬っても死なず百年に渡る戦闘経験でヴァンに勝るジーン・スレイフを退けたのだ。彼の百年の殺戮にも、振り下ろす途中で刀身の長さが変わる剣など出てくるはずがなかった。それが二振り、既に生も死も忘れ死なない事に慢心していたジーン・スレイフには対処しきれなかった。そうして彼は全身に深手を負い、失った血が多すぎて死なないのに戦えもしないという屈辱的な敗北を喫したのだ。 しかし今その光双剣はない。 あれば修行にならないし、孤島での制限された技量ではあっても使いこなせない。そもそも光双剣は完成したと言っても完全ではなかった。失われた技術で作られた武器なだけに、古文書にも残らず本当に失われてしまった部分の技術がなければ完全とは言えないようだ。幾度となくヴァンは光双剣の不調を訴え、その都度作製の際に世話になった魔導師の所へ相談と調整に行くのだった。 孤島へ来る直前までヴァンが客人として過ごしていた宮廷が魔導師の住処であり、大恩ある国王の宮殿でもあった。 国王から冒険譚を聞かせて欲しいと頼まれ、光双剣の調整もしたいのもあってヴァンは宮廷に招かれ、そこでしばらく暮らすうちに傭兵としての心が死んで行くのを感じて、この孤島に来たのだった。 白双剣、黒双剣、光双剣、命を預けるに足る双剣たちは全て手元に無く、今あるのは辛うじて及第点という剣のみ。それも主に使う方の剣は己が作ったものではなかった。 まだ十にも満たない歳の少女が作った武器の方が、ヴァンの作ったそれよりも遥かに殺傷能力に優れていたのだ。 岐路に立っている。 この孤島において武器を作る腕を磨くのを諦め剣の技に生きるか、それとも己が手に合った武器を自ら作り出せるように精進を重ねるかの岐路に立っている。 今以上の武器を作り出すには手先の器用さを鍛えなければならない。だが十二人の仲間を思えば、十二人に三人も武器職人は要らず、図らずもまとめ役の一人となっているヴァンには武器の腕よりも剣の腕の方が求められているとわかる。 「いや、違うか……」 具体的に求められているわけではない。求めているとすれば、それはヴァン自身だ。 彼が自分自身に嵌めた枷は、仲間で最強の攻撃手でもなければ、最硬の守り手でもない。最高の知恵者である必要もない。どの分野に関しても一番手になる必要はないが、どの分野でも常に一番手や二番手を脅かすほどの実力を持つ。それこそがヴァンドルフ・デュッセルライトという一個の駒を最良の駒とする道だと分析していた。 どこにでも打てる一手、しかしどの盤面でもその一手があれば流れを変えることの出来る駒、能力も戦略も全てが違う集団で動く場合には、そういう駒が有ると無いとでは集団全体の生残性が変わってくる。ヴァンはこれまでの経験で嫌と言うほど理解していた。 今の自分を第三者としての目線で冷静に分析する。戦場という盤面を上から見下ろし、その盤面に置いてあるヴァンという名の駒を見る。ヴァンはどのような力量を持っているのか、どのような場面でどう動くことが出来るのか、盤面全体にどう影響を与えるのか。 「……中途半端な」 思わずぼやく。 「二兎を追わんと二兎は狩れん、だが二兎を追う器ではなければ一兎も得ずに終わる」 果たして今の自分は器か否か。 「否か、やはりこのままではいかんな」 体温で溶けた氷が酒杯の中でからんと音を立てる。 ヴァンは促されたように酒を口に運んだ。じわりと広がる薫りは心を落ち着かせたが、もやを払うには上品すぎた。 「うまい酒だ……勿体ないが」 残った酒を一気に流し込む。本来こういう煽るような飲み方をする酒ではない。流し込まれた酒が抗議をするように最後の薫りを放ったが、それもすぐに薄れ消えていった。 「店主」 ヴァンの声にボルテクスが振り向く。すぐに後ろの棚から三本の瓶を取るとヴァンの前に置いた。 「フョ酒にポルスカ、フェスキとありますが……」 師が何やら思案にふけっているのを横目に見ていたのだろう。先ほどの酒とはまったく違った種類の酒を持ってきた。 「フョ酒の銘柄は?」 「アジ・ムです」 強い薫りと舌に残る甘さが脳裏で再現される。元々果実酒なので甘いのだが、アジ・ムのフョ酒はより甘い。 「甘すぎるな。ポルスカとは何だ?」 「ハイドランド産のポルをフェスキとヴィンで割ったもんです」 初めて目にする酒だった。ハイドランド産ならば気候的にもポルはうまいだろう。一度弟子が生で仕入れたポルを仲間に持ち帰ってやるとリックや小雨などはうまいトマトだと喜んでいた。どうやら異世界には異世界なりに似たような植物があるのだろう。 「それは後で貰って帰る。フェスキはいつものリンエか?」 「もちろん。我がフェントス王国が誇るリン・エブニク!」 「ありゃ不味い。どうせヴィンもリンシだろう、あれも不味いからいらんぞ」 フェントスは傭兵ギルドが出来るまでは木材の輸出しか交易が無かったといって過言ではない。土地も肥沃とは言えず、穀物が土台となるフェスキ酒にも果実が元になるヴィン酒にも適しているとは言い難い。 「師匠、フェントス産の酒はうちの顔ですぜ? 不味い不味いと言われちゃ営業妨害ってもんです」 酒の好みなど人の好きずきである。また、フェントス産は穀物にしろ果実にしろ確かに適さないのだが、適度に荒れた土地での栽培なので美味い物はとことん美味くなる傾向にある。とはいえ当たり年や外れ年もあるし、銘柄や価格によっても大きく変わる。 ヴァンの場合一年中旅をしているので、味にばらつきがある酒よりも常に一定以上の味を保ち続ける酒の方が好きなだけだ。わざわざ不味いと言うのは、それをわかっていて勧めてくる弟子への嫌がらせに過ぎない。 「酒はもう良い、水をくれ。ああ、ポルスカを一瓶といつもの火酒を二瓶括っておいてくれ」 酒で晴れなかったもやは、気づけば弟子との軽口で消え去っていた。 「岐路の先が見えた。行くとしよう」 そう言ってヴァンは再び遺跡へと潜るのだった。 |
21日目4836文字 |
最後の客が酒気を撒き散らしながら店を出て行く。 扉に付けた小さな鐘が名残を惜しむように揺れている。 酔客たちの相手を終え、ボルテクス・ブラックモアは心地よい疲労感に満足げなため息を漏らした。 今日も客の入りは上々である。 遥か遠く海を越えてこの孤島にやってきて、もうすぐひと月になる。自分でも何故この孤島にやって来たのかはわかっていなかった。 切っ掛けは、師ヴァンドルフが再び孤島を目指すと聞いたからだった。それは確かだ。 王都の路地裏に構えた店にヴァンが現れた時の目がそうさせた。風の噂に、師は王宮暮らしをして堕落したというものを聞いていたのだ。 師はそういうものとは無縁だとは思っていたが、海を越えて別の大陸にいた彼の所まで傭兵が噂を運んできたとなれば話は別だ。 師は傭兵たちから畏怖とそれ以上の尊敬を集めていた。死んだ負けたという風説は聞いても、王宮に入って堕落したなどという噂は、ヴァンドルフ・デュッセルライトという傭兵を知る者ならばみな一笑に付しただろう。 事実彼も最初は大いに笑わせて貰った。しかし彼の店は双剣のヴァンドルフの弟子が開いているというのが売りのひとつである。そんな店に来てまでわざわざまったくの嘘を撒き散らすとも思えなかったのだ。ましてや彼の店の客層は、仕事の斡旋もしているので当たり前といえば当たり前なのだが九割方が傭兵や冒険者である。そういった人種だからこそ噂を見極める目も育まれているはずなのだ。 若干不安だったボルの前に現れた師は、最後に会った時よりも更に力強い目をしていた。師に噂を問いただすとあっさりと認め、魂を鍛え直すために孤島を目指すと答えられたのだ。 師の目に籠もった力、その行く末を見てみたいと生意気にも思ってしまったのが、孤島で店を開くようになった一番最初の切っ掛けだった。 奥の扉がきしんだ音を立てた。倉庫から美しい女性が荷物を持って出てくる。彼の店で雇っている冒険者の歌い手だ。彼女もまた遺跡を探索しているので毎日は来れないのだが、遺跡の外にいる時には歌いに来て貰っている。柔らかな物腰がその美声と相まって、彼の店を活気づかせていた。 お辞儀をして店を出て行く彼女を見送ると、ボルは閉店の準備を始めた。いつか歌い手が後片付けを手伝おうとしたこともあったが、それは彼女の仕事ではないと謝辞した。それにどの卓でどの料理が残されているかというのを見れば、今後の参考にもなる、後片付けにも手は抜けない。そんな事を考えている自分に気づき、ボルは苦笑した。 かつて彼は名うての傭兵だった。 いや、今も引退はしていないし年齢的にも現役である。だがしばらく傭兵も冒険もしていない。 いつかの孤島での百日に渡る激闘、手に入れ、そして消えた六つの宝玉。 あの戦いの日々は今でも明瞭に思い出せる。 強大な敵に怯え、敵になり得る味方にも怯え、今までの経験も何もかもが封印されたように戦い方を忘れた自分にも怯えた。 その怯えを越え、仲間と共に宝玉を手にした。 餓えた旅人に食料をわけた事も数知れず、逆に色んな人に助けられて生き抜いてきた。 旅を終えた後の仲間達がどうなったのかは最近まで知る由もなかった。 今の孤島にやってこようと思ったのは、彼らにまた会えるかも知れぬと期待していたのかも知れない。事実、懐かしい顔を見かけることもあった。 九十日近く彼と行動を共にしていたエマール・クラレンスとも再会した。酒場で聞くつわものの名前にもちらほらと聞き覚えのある名が混じっていた。 カウンター周りの食器を集め、水を張った洗い桶に食器を入れる。洗い桶の脇に置いてあった包みから青い粉を取り出してひとつまみし、桶の水に溶かす。知り合いの薬師に調合して貰った薬だ。これを溶かした水に汚れた食器などをつけて置くと汚れが落ちやすくなる。 多少値は張るが、食器洗いに掛ける時間や手間を考えると必需品と言える。 普通の酒場や小料理屋の店主ならば気にせず井戸端で洗えば良いのだろう。 だが、彼は根っからの傭兵だった。 長時間水で皿を洗い続けていてはいざという時に剣が扱いづらくなる。また、しゃがみ込んでの長時間の作業となると、狙ってくださいというようなものだ。 ボルは青い粉が洗い桶に満遍なく溶け込んだのを見届けてから、カウンターに貼り付けてあるものを手に取った。 黒双剣。 かつてはヴァンドルフ・デュッセルライトの二つ名であり愛剣だった一対の剣。 少年の頃、ボルの師であり初恋の相手であった女傭兵の命を奪った剣。 孤島での百日を生き抜き手にした、一番弟子の証であった。 傭兵家業を一時休業していても、この剣を手放すことはない。 カウンターの中にいても何かあれば即座に抜けるように隠してある。 料理や酒を渡すときも客に取りに来させている。もっともこれは小さな店を一人で切り盛りするために仕方のない所ではあるのだが。 ボルは両腰に黒双剣を差すと、倉庫の戸を開けて掃除道具を取り出す。 他人に見られたら、たかが掃除をするだけなのになぜ剣が必要なのかと問われ、場合によっては臆病者のそしりを受けるかも知れない。 以前歌い手が後片付けを手伝うと言って聞かなかった時にも、彼は腰に剣を差してから淡々と閉店の準備を始めたものだ。なぜ剣を差すのかと聞かれた時、ボルは笑って剣士だからさと答えたが真意は別にあった。 卓から食器を集めながら少し前までの生活を思い出す。 それは孤島の店を作る前、王都の路地裏で店を構える更に前。 師と別れた後、冒険者支援のための酒場を作ろうと、ボルはふらりと立ち寄った小さな町の酒場に住み込みで働かせて貰っていた。 常に酔ったように赤みがかった顔の店主と、それを支える女将さんで切り盛りする小さな店だった。 当時のボルは同業者の間では多少名が知れており、彼自身も孤島での生活や、その後の師との旅で自信を確かなものとしていた。そして、新たな環境へ踏み出そうとする気の浮かれが油断を生んだ。 彼は何よりも大事にしていた黒双剣を、酒場の二階に借りた部屋に置いたままで仕事をしていた。 紛争地帯からも遠かったというのも油断を誘ったのだろう。ボルが無警戒に両手に皿を持って酔客の元へ運んでいたその時である。酒場の戸が蹴破られると同時に投げつけられたナイフが女将の命を奪った。押し入ってきた男達は金を出せとも動くなとも言わなかった。もっと単純な方法を知っていたのだ。皆殺しである。 ボルは即座に手に持った皿を投げつけたが、それで殺傷するには至らない。男達は投げつけられた皿など物ともせずに手近な客を斬り殺し、店主の首を跳ねた。 客の持っていたナイフを手に、残った客をかばいながら二階に上げる。食事用のナイフでもいざ手にすると心強い武器となる。ただの店員となめてかかった賊の首筋を切り裂く。男達が警戒で動きを鈍くした隙に、客達は全員二階へと逃げ終わっていた。ボルも牽制しながら後ずさり、階段を後ろ向きに上る。追いかけて来た男の脳天目がけてナイフを投げつけるとボルは階段を駆け上がり、自室に飛び込んで黒双剣を手に取った。 双剣の鞘を腰に差し、黒く光る刃を抜き放つと彼は一気に攻勢に転じた。 駆け上がってきた夜盗を切り捨てながら階段を駆け下り、酒場にいた賊徒をあっさりと薙ぎ払う。剣さえ持てば、心さえ立て直せば、この程度の敵と見下せる程度の相手だった。 だが、彼を温かく迎えてくれた亭主は、料理のこつを教えてくれた女将は、既に息絶えていた。 窓の外では町が燃えていた。 見ると、床に転がっている夜盗の顔は見覚えがあった。懸賞金がかかっている程度に名が知れた盗賊だった。 ボルは店の外に出ると、町に火を点けて回っている男達を睨み付けた。 酒場に押し入ったやり口を見ると、他の家々も家主を殺してから獲物を物色しているのだろう。手配書に載っている賊が何人もいる、悪逆非道を地で行く盗賊団だった。そんな彼らが火を点けているということは、奪うべき獲物は奪い尽くした後なのだろう。それはつまり、火の点いている家々には屍しか残っていないということである。 ボルは盗賊達に斬り込みながら、後悔した。 己の心が鈍っていなければ盗賊達の気配に気付けたかも知れない。少なくとも店に押し入ってきた賊ぐらいは、素手で倒せただろう。黒双剣さえ持っていれば亭主も女将も救えたかも知れない。少なくとも何人かの酔客は死なずにすんだ。 後悔も涙も炎で消し飛ばし、ボルは血の海に一人立ち尽くした。 酒場の二階に逃げ延びていた僅かな酔客が酔いの醒めた顔で表へ出てくる。ボルは彼らに呼び掛けられ、ようやく我に返って生存者を捜して回った。 炎に蹂躙される小さな町、それは彼の原風景だった。 ボルテクス・ブラックモアという小さな戦場あさりが誕生する切っ掛けとなった、故郷の壊滅。燃え落ちる見知った風景が、彼の人生の出発点だった。それから二十年もの時が経ち、彼は見知った風景が燃え落ちるのを防ぐだけの力を手に入れたはずだった。 しかし町は燃えている。木の爆ぜる音と共に滅んでいく。 その日以降、彼は剣を手放さなくなった。 集め終えた食器を淡い青に染まった洗い桶につける。同じように淡い青に染まった雑巾を絞ると、棒の先端に取り付けて店の床を拭く。開店準備の際は先端を取り替えて箒に出来るよう苦心して作った自慢の掃除用具だ。一通り床を拭き終わった後、洗い桶を片手で持ち上げて店から出る。近くの井戸端に水を捨て、汲み上げた井戸水で軽く食器を洗う。そうしてまた片手で洗い桶を持ち上げ、店へ帰ろうと振り返り、ふと夜空を仰いだ。 瞬く星々に一瞬心奪われたが、すぐに首を振って寂しそうな笑みを浮かべる。 己が何のために孤島に来たのかがわからない。 もう一度宝玉を集めるためでもない。つわものと剣を交えるためでもない。旧知の顔を探すためでもない。師を助けるためでもない。酒場で儲けるためでもない。贖罪のためでもない。何ひとつとして自分で納得出来る理由がない。 店に戻り洗い桶を置くと、ボルは酒瓶を手に店の前に出た。 夜風が柔らかな足取りで踊っている。 栓を開けた酒瓶から直接酒をあおる。弱い刺激が咽を駆け降りる。 深く長いため息をつくと、ボルは残った酒を一気に流し込み、再び夜空を見上げた。 弱々しく瞬く星に、自分が何をするべきか、何がしたいのかと問いかける。だが答えは返ってこない。なぜなら答えはすでに彼の中に在るからだ。 戦うこと、戦い続けること、己の戦いを貫き通すこと。 単純に敵と戦い、打ち負かす事ではない。剣を使うにしても何のために剣を取り、何のために剣を振るのか。 見上げた星空が彼の心を照らし、柔らかな夜風が心を晴らした。 助けたい。 それが全ての切っ掛けだった。 焼け落ちる村を、無力に死ぬ人を助けたい。幼い頃には気づかなかったが、力を得て初めて己の中に在ると感じた剣を振る動機。 一人でも多くの人を助けるためには、自分一人では力が足りない。 ならば、一人でも多くの人を助けるために、一人でも多くの人を助ける力を持った心ある傭兵を、冒険者を育成してやろう。 そう、自分は英雄と呼ばれる人物を育成し、自分一人では助けることの出来ない人々を助けるのだ。我が師、ヴァンドルフのように。 ボルテクス・ブラックモアは己の中に通った芯を再認識すると、夜空に背を向け、「英雄の故郷」と書かれた看板を見上げた。 |
33日目4567文字 |
からんと小さな音を立てて、粗雑な作りの鐘が鳴る。 「お客さん、まだ準備中――」 言いかけて店主は顔を上げた。皿を拭く手が止まる。 扉の隙間から陽の光が差し込む。客の顔は影になって見えないが、誰が来たのかは雰囲気でわかった。 「師匠でしたか」 若干の遠慮を感じ取って破顔する。店主の師も意図をくみ取って酒場の中へと歩を進めた。 「今回の探索はどうでした?」 拭いたばかりの酒杯をカウンターに置き、師に背を向けて酒瓶を探す。酒場の本領たる夜とは違い、日差しがうっすらと差し込む昼間は驚くほどに雰囲気が違う。夜の喧騒の中でならば一瞬で見つけられるはずの酒瓶が見当たらない。店主の背後で椅子がきしむ。酒杯を置いた席に師が座ったのだ。 「青い瓶の影だ」 背後からの指摘に青い瓶を探す。 「ああ」と、思わず声を出してしまう。青い硝子瓶に日光が当たっていたせいで、乳白色をした陶器の瓶が青く見えていただけだった。 「まいったな、ここは常連さんの好きな酒で探索の労をねぎらう渋い酒場の店主って見せ場だったのに」 差し込む光に金髪を輝かせ、店主が髭面を歪める。 それを受けて、影に黒髪を溶け込ませた師が傷だらけの顔をゆるめて微笑する。 「英雄の故郷という大層な名はまだ相応しくないな」 「良いんですよ、師匠がここに帰って来るたび故郷って名前が本物になるんです」 あからさまなおべっかを軽口として使いながら、店主は小気味良い音を立てて酒瓶の栓を抜いた。 硝子の酒杯にとくとくと酒がそそがれていく。一見すると葡萄酒のような深い赤と錯覚するが、よく見ると濃い青だった。 「フョ酒か、そう言えば以前も飲んだな。旨かったやつだ」 「うちのは全部旨いですよ」 「言ってろ」 予定調和の軽口を鼻で笑って流す。 硝子の酒杯を顔の高さまで持ち上げて、陽光にあててみる。酒杯の細工が微妙な影を生み、青と黒の模様が入った影を酒場に落とす。そこで初めて、酒杯がなかなか凝っていると気付く。 「調子は良いようだな」 以前立ち寄った時にはこのような酒杯は無かったはずだ。彼が遺跡に潜っている間に購入したのだろう。一部の人間は遺跡外に住処を作って外部と交易をしていると伝え聞くが、それにしても硝子製の細工の凝った酒杯など安くはないだろう。 「まあまあですよ。それも常連さんだけに出す特別な酒杯ですから」 弟子の言葉を聞きながら、ヴァンドルフ・デュッセルライトは異世界から来た仲間のことを思い出していた。 彼の世界では亜人種の技術と魔法技術の融合で作り出される小型の時計も、仲間の数人が住んでいた世界では子供でさえ持てるほど当たり前のように作られ普及している様子だった。携帯型のいわゆる懐中時計などは貴族や王侯が、平民が一年は暮らせるほどの金を掛けて作る物だとばかり思っていたのが、それよりも一回りは小さい物を子供がさも当然のように持っているというのは衝撃的だった。 あれほどの技術があるのならば、この弟子が買い求めたような硝子細工も安価で大量に普及しているに違いない。そう思うと、何も知らぬ弟子の笑顔が少し寂しい。ヴァンはそんな自分に気付いて、内心で苦笑して首を振った。金や希少性の問題ではないのだ、客を喜ばせようという心の問題だ。ならば弟子は良くやっている。それを褒めずして何が師か。 「うむ、いい細工だ。お前にしては趣味が良い」 だが素直には褒めないのがヴァンという男であった。弟子もそれを解っているのか、意味ありげにニヤリと笑うと厨房へと姿を消した。 弟子が去ったところで酒杯に口を付ける。 果実の薫りが口内から鼻腔にふわりと柔らかく広がる。舌先で酒を踊らせてから嚥下すると、一拍遅れて薫りがまたふわりと咽を下りていく。 「旨い」 呟いて、弟子が居ないことを確認する。こんな科白を聞かせれば調子に乗るだろう。 「聞こえてますよ」 厨房の奥から楽しそうな声が聞こえた。 ヴァンの性格を熟知している弟子のことだ、姿を見せなければ口を突いて出る感想をあえて止めずに呟くと解っていたのだろう。その上で耳をそばだてていたに違いない。なんとも底意地の悪い弟子だ。そんなことを考えながら、もう一口酒を飲む。悔しいが素直に旨い酒だった。 「良い味でしょ」 姿を見せないまま弟子が言う。ヴァンは黙って頷いた。無論見えていないのは解っている。嫌がらせではない、声に出さず姿も見せずとも、感想は言うまでもなく伝わっていると確信しているのだ。 厨房からは包丁の音が軽やかに響いてくる。その音がヴァンに空腹を思い出させた。そういえば今日は朝から何も食べていなかった。 自然に酒を勧められたので当然のように酒を口にしたが、元々は何かちょっとした料理は作れないかと聞きに来たのだ。 「ほい、出来ましたぜ」 そう言って弟子が持ってきたのは、野菜の盛り合わせだった。 「まかないみたいなもんですが、ポルは今朝取れたての逸品なんで食べてみてください」 白い皿に緑の葉と、黄色い根菜、そして真っ赤なポルが乗っていた。 「良ければパンもどうぞ」 練った小麦粉を発酵させて薄く焼いたものだ。弾力はあるが食感はパリパリとしている。手に取る前からヴァンは知識としてそれを知っていた。このパンの作り方を教えたのは他ならぬヴァンだからだ。 あくまでも目の前の男、酒場の店主ボルテクス・ブラックモアは双剣使いとしての弟子である。しかし傭兵家業を続けていると、どのような食材でも様々な手段で食える物にして食ってしまわないといけないという場面によく出くわす。ヴァンはそのような場面ですぐに対応できるよう、既に焼いてあり、しかしかさばらず、カビも生えにくいパンを常備食の一つとして作る方法を教えたのだ。 思えばしばらく自分でも作っていないし、他人が作ったのも食べていない。懐かしい味が記憶の中で甦るが、彼はそれを一旦押しのけた。 手づかみでポルを一切れつまんで口に入れる。酸っぱさの中に甘さがある。果実のような野菜だった。 「ほう」と簡単の息を漏らす。 「うまいでしょ」 「悪くないな」 ヴァンが弟子に言う「悪くない」は即ち「良い」である。ボルテクスもそれを知っているので師の言葉に嬉しそうに笑った。 「近所にメシが専門の店ができましてね。そこの店主が自分で育ててるのをわけてもらったんですよ。もっとも厳密にゃポルじゃないらしいんですがね。なんつったかな……」 ヴァンには一つ思い当たる名前があった。 「トマト、ではないか?」 「そう! それだ! さすが師匠だ、何でも知ってらぁ」 どうやら仲間と同じ世界から来た者の店なのだろう。ヴァンやボルテクスの知るポルと似た野菜を、ヴァンの仲間がトマトと呼んでいたのを彼は覚えていた。 「なかなか陽気な男でね、どうも俺らとは国ってか、なんだろ、世界が違うみたいな感じなんですが気があってね」 「恐らく温かい国から来たのだろう。美味いポルが育つ地方は温暖陽気で、育てる人間も同じだと相場が決まっている」 「違いねぇや」 不味いポルは酸っぱいだけで食べられたものではない。料理に使おうにも、煮れば煮崩れ、焼けば不格好に焦げ崩れる。だが美味いものだと生で食べても美味いし、煮ても焼いても美味い。腐りかけてなお酒と混ぜるといい味になる。それが仲間たちの世界のトマトも同じかどうかは解らないが、少なくともボルテクスが出したトマトを食べた感じでは同様だと期待しても良さそうだ。 「お、そういや珍しい塩も手に入ったんだった。かけてもいいですかね?」 そう言われて拒否することもないだろう。普段のヴァンならば毒などを警戒するが、この弟子ならばその心配もない。彼に恨まれることをしていないとは言えない。彼の敬愛する師を殺したのは他ならぬヴァンだ。戦場で敵として出会ったのだから仕方がないし、遺言として彼女の代わりにボルテクスを鍛え上げたのもヴァンである。そのことを恨んで牙を剥くようならばそれでよしだと覚悟は十年以上も前に決めている。もっとも、その程度の器に育てたつもりは無いので安心してもいるのだが。 ボルテクスが細かな塩を野菜の上から振りかける。 「ひとつまみ貰えるか」 差し出した手の上に小さな塩の山が出来る。 「細かいな」 呟いて塩をひと舐めする。確かに味が少し違う。 「儂は普通の塩の方が好きだが、悪くはないな」 「これも例の店に譲って貰ったんでさぁ」 ならばこれも異世界から持ち込まれた塩なのだろう。先ほどの粒の細かさからある程度想像は付いていた。圧倒的な技術の差を実感するが、味は己の世界の塩の方が美味いと自信を持って言える。この塩も美味いのだが、風味やコクはこちらの勝ちだ。一事が万事全て劣っているというわけではないらしいと解って少し安心する。もっとも、ヴァンの知る塩はそこそこ値の張る物が多い。異世界の男がボルテクスにあっさり塩を譲ったという所から考えて、向こうの世界では塩も入手が容易い庶民的な調味料なのだろう。 薄いパンを手に取ると、塩の掛かった野菜を乗せて半分に折りたたむ。塩以外の調味料はかかっていないが、素材が良ければそれだけで充分だ。ヴァンは一口頬張ると、ゆっくりと噛み締めて遅めの昼食を味わった。 しばし無言で食を進め、食べ終わる頃には店主が香茶を用意していた。 「美味かった」 一言で褒める。自分で考えたパンの焼き方で弟子がパンを焼き、その上に自分の世界の野菜と、異世界のトマトと塩を掛けて食べる。どのような王侯でも、この島に来ない限りは味わうことのできない料理だった。 出された香茶には一滴だけ酒が垂らしてあった。温かい香茶に酒のほのかな薫りが乗って気分を落ち着かせてくれる。 「……ボルよ」 一息ついて弟子の顔を見る。 「このポル、トマトだったか。それにこの塩、これらが異世界のものだというのは知っているのだな?」 「一応ね。昔の俺なら異世界なんて馬鹿な話は信じねえけど、まあ俺も前の孤島でエマさんとかあからさまに住んでる世界が違う奴らと旅をしたんでね。異世界があるってのも今じゃ当たり前みたいに理解してますよ」 その辺りはヴァンと似たような経緯で認識を持ったようだ。 「お前は儂と似たような事情で傭兵になったのだったな」 ヴァンもボルテクスも幼い頃に孤児となり、戦火に巻き込まれて居場所を失った口だ。ヴァンは最初から傭兵団の元で死線をいくつも越え、ボルテクスは戦場あさりとして生きるうちに傭兵に弟子入りをしていたという程度の違いである。 「儂は思うのだ」 自分も師に倣ってパンに野菜を挟んで頬張ったボルテクスが間の抜けた顔でヴァンを見る。 「この塩は恐らく大量に作ったのだろう。彼らの世界では魔法は失われているというから、機械技術を使ってな。この他にも儂らには想像も付かない技術の数々が当たり前のように普及しているという。だが……それでも争いは無くならんというのだ」 ヴァンは静かに目を閉じた。 「豊かになろうとも、更なる豊かさを求めて争い、己の沽券を守るために争い、己の水準を落とさぬよう他を貶める。儂ら戦士の戦い抜いた先に、恒久の平和などありえんのだろうか?」 「師匠……」 「下らん話をした。儂も老いたかな?」 ヴァンは苦笑を浮かべると、いつもの力に充ち満ちた眼を開いた。 「世話になった。また潜るとしよう」 そう言って立ち上がり、孤狼は己の戦場へと戻って行った。 |
43日目4852文字 |
扉につけられた小さな鐘がからんと鳴る。夜気が酒場に流れ込み、暖気が夜闇へ逃げて行く。一瞬の風に気付いた者は少なく、店主のボルテクスと入り口近くに陣取った酔漢のみが、ヴァンドルフ・デュッセルライトの来店を知った。 「いらっしゃい」 食器を拭く手を止めて、ボルが陽気に笑いかけた。既に食事の注文が殺到する時間は過ぎ、こうして皿を拭く余裕が出来ている。 ヴァンはいつものようにカウンター席へ座ると、一番弟子たるボルに目配せをした。店主は師の扱いに慣れたもので、自分が酒選びを任されたと判断してかねてより師が来たら出してみようと準備していた酒をタンブラーに入れた状態で差し出した。酒瓶からではなく、まるで師が今来るとわかっていたような対応に、ヴァンが少し驚いた表情を見せる。 「大体五日か六日に一度帰ってくるんでね、今日のこの時間に来るんじゃないかと思ってましたよ」 弟子の悪童のような笑顔に対して、師は渋面を浮かべた。 「習慣化か……歓迎はできんな」 「こんな島まで来て師匠の命を狙う奴なんぞいないでしょうや。異世界と交わってる不思議な島なんだし、簡単に来れるわけでもないでしょう。心配しすぎですよ」 そう言いながらも、ボル自身カウンターの影に二つ名でもある黒双剣を常備してあるのだ。例え店の準備のために井戸へ水を汲みに行くときでも、必ず腰に双剣を差してからである。半ば傭兵を引退して、冒険者の集まる酒場の店主などをしている彼でさえそうなのだ。現役の傭兵であるヴァンが警戒するのも無理はない。それほどまでに、彼らは元いた国で名が知れている。悪名ではないが、討ち取れば功名となる。一騎打ちを挑まれる事もあれば闇討ちもあったし、腕試しもあれば逆恨みによる復讐を意図したものもあった。 ヴァンが習慣化を恐れるのは、行動の様式を読み取られるとそれに併せた計画が立て易いという単純な一点である。ヴァンを狙ってくるのならばまだいい。最初から勝てないと踏んで、ヴァンの留守中に親しい者を狙うという兇行に及ぶ者までいた。以来、ヴァンは身近に己の身を守れぬ者を置く事をやめ、もしそういう者が身近にいる場合には極力行動が習慣化せぬように意識してきた。だからこそ、いくら弟子にとは言え行動を読み切られたのが気に障るのだ。 「思えば、師匠が一つの所に一ヶ月以上留まり続けるのって随分久しぶりじゃないですか?」 「孤島に来る直前は城に招かれて暮らしていた」 ボルは「ああ」と納得の声を上げて苦笑した。 「そのまま招かれてりゃいいものを、心が腐るなんて言い捨てて飛び出すんだから、師匠もつくづく変わりもんですね」 「腐るなどと言い捨ててはおらん。心を鍛え直しに行くと言ったのだ」 「建前はね」 間髪入れずにボルが返す。反論はない。本当なのだから反論のしようがない。酒杯を傾けようとして、ヴァンはふと思い出したように訂正した。 「いや、本音でも腐るとは思わんかったぞ。心が死んでいくと感じたのだ」 「より深刻じゃないですか」 返事の代わりに酒杯を傾ける。馴染みの薄い変わった味だったが、中々に美味だった。タンブラーから口を離して、一言褒めてやろうと口を開いた時、またからんと小さな鐘が鳴って酒場の扉が開いた。 外気との温度差で酒場内の空気がそよぐ。新たな客は店の中を見回すと、ボルの顔を見てから入ってきた。その背中に入り口近くに陣取った酔漢達が、若干の苛立ちを隠そうともせずに険しい目を向けた。男が扉を開けていた時間が長かったせいで、大量に入り込んだ夜気で酔いを覚まされてしまったようだ。ヴァンもまた、新たな客に対して無粋だなという印象を持った。 「フョ酒あるかい?」 そんな事を思われているとはつゆ知らず、男は酒の名前を口に出した。即座にヴァンの意識が引き締まる。異世界からの住人が集まる島だからこそ、ヴァンやボルがいた世界の酒を知っている者は、すなわちヴァンにとっての警戒対象たり得る。酒を傾けながら上目で軽く弟子を睨む。何が簡単には来れないのだと。対するボルも男に酒を出しながら横目で「だからと言って、師匠の事知ってるってわけじゃないでしょう」と訴えかけた。 男はヴァンの横の席に座ると、やはりヴァン達の世界で使う硬貨を使って代金を支払おうとした。 「ああお客さん、この島じゃこれでも釣りは出ませんぜ」 男の出した金額は、通常ならば値段に差があってもとりあえずは足りるというものだった。 「高いな」 その率直な感想は確かに否定できない。高いのだ。 「仕入れが大変なんでね。まあどうしても嫌なら、何日か為替相場と睨めっこして、その硬貨が高値で他の世界の金と交換できるのを待つしかないや」 いつの間にか、他国を通り越した異世界の金を売買する為替市場が出来ているらしい。その他にも遺跡の中で手に入れた物を売って金を稼ぐという方法もあるが、この男はどうやら島に来たばかりらしい。 「めんどくせぇなぁ、まあこれで払うよ」 そう言ってフョ酒を咽に流し込むと、嬉しそうなため息をついた。 「いやぁ、俺船酔いするからよ、船の上じゃ酒は御法度だったんだ。久しぶりに飲むと美味いねぇ。ところでアンタ、ひょっとしてボルテクス・ブラックモアか?」 ヴァンとボルは目を合わせずに、意識だけで目配せをした。 「そうだが、何で俺を?」 「やっぱりか! 店の名前でそうじゃないかと思ったんだよ。英雄の故郷、確かミグの首都にもあったよな。って事ぁ、こっちの黒ずくめの旦那は光双剣のヴァンドルフかい?」 いつでも腰の剣を抜けるようにしながら、ヴァンはちらりと男を見た。知った顔ではない。視線を前に戻し、男への返答を避ける。 「やっぱりそうか! ついてるねぇ、初日から光双剣のヴァンドルフと黒双剣のブラックモアに会えるたぁ、思ってもみなかった」 「お客さん、その口ぶりじゃ、俺たちがここにいるのを知ってたみたいだね」 「おうよ、孤島に行こうってのは前から決めてたんだがよ、本当にあるのか信憑性がなくてよ。そういや、あのヴァンドルフとボルテクスも孤島に行ったことがあるって噂を思い出して、アンタに会いにわざわざミグまで足を運んだんだよ」 ボルは母国のある中央大陸から南の大陸の大国ミグへと渡り、その王都で酒場を開いている。中央大陸の南端、ボルの母国であるフェントスから南の大陸のミグへは、魔術士を動力に用いた魔動高速船という特殊な船が出ている。十人近い魔術士が交替で魔法を使っているらしいが、魔法大国でもあるミグが他国への示威の意図を込めて運用している船なので詳しいことはわからない。ボルのようなただの客にとっては、値段は高いが帆船の数倍で進む船というのはありがたく、余計な事をせずにただ乗せて貰うだけで充分だった。もし他国から魔動高速船を乗っ取って持ち帰れという依頼をされれば別だが、それでも常に護衛の騎士や兵士が乗っており、動力である魔術士がそのまま戦力となるので、生半可な方法では乗っ取りは不可能だった。結局は、金を払ってただの乗客になるのが一番だ。 男はその高速船に乗ってミグまで行って、無駄足を踏んだというわけだ。凄まじい浪費である。 「そりゃ悪かったな、んじゃその酒は半額にしとくよ」 ボルがそう言って釣りを置いてやったのも無理はない。高速船の料金は本当に高いのだ。 「お、ありがたいねぇ。まあそれでよ、アンタがいないもんだからどうしたもんか迷ってたんだが、あれ思い出してよ。白双剣のクレイモア」 ボルの手が再び釣りの上に置かれる。 「なんつった?」 「白双剣さ、アンタの兄弟弟子、ソルトソード・クレイモア。一度戦いぶりを見たことがあったんだが、凄かったぜ。その時にミグで酒場をやろうかと考えてるって聞いてたからよ。アンタも一番弟子のあの人を追っかけてミグで酒場開いたんだって?」 ボルの手が釣りを掴むと、そのまま引き上げていく。それに気付いた男が途惑った表情を浮かべるも、ボルは険しい笑顔を向けるだけだった。 「おっさん」 「おう」 「帰れ」 ヴァンは苦笑混じりのため息をついた。男に対する警戒を若干緩め、タンブラーを傾ける。酒杯としては少々大きいが、酒精が薄いためあまり気にならない。 ソルとボルはヴァンの弟子となった時期が近く、歳も近く、性格だけが離れていた。戦場あさりとして育ってきた孤児のボルに対して、没落貴族の出身で気位の高いソル。陽気で基本的には単純なボルに対して、物静かで冷笑癖のあるソル。名前の頭二文字が韻を踏んでおり、苗字の最後二文字も同じモアで終わるため、傭兵仲間や他の兄弟弟子達からもしばしば対比されてきた。表向きは無関心を装うソルと真っ向から対抗心を燃やすボルの喧嘩には、ヴァンも何度困らせられたことか。 ヴァンには弟子と認める者が少ない。弟子入りさせてくれと頼んできた者や、ヴァンがそれを許した者は両手で数え切れないが、逃げ出さず、そして死なずについてきた者は少ないのだ。ボルとソル――ボルはその呼び名を嫌ってクレイと呼び、ヴァンもいつしかクレイと呼ぶようになったが、この二人はヴァンの弟子の中でも筆頭であった。 かつてヴァンが使った白双剣をクレイに譲り、そしてヴァンが終世の剣を完成させた際に用済みとなった黒双剣をボルに譲った。ヴァンは意識していなかったが、ボルや他の弟子、傭兵達は、長らくヴァンの二つ名でもあった黒双剣を受け継ぐ者こそがヴァンの後継者たる一番弟子であると考えていたらしい。ボルは自ら志願して黒双剣を得るための試練を受け、かつての孤島を生き抜き、宝玉を全て揃えるという、若き日のヴァンも成し遂げられなかった苦難を乗り越えた。好敵手たるクレイの方は、そんな事に興味を微塵も示さずに、己の美意識と戦い方にあった白双剣を求め、あっさりとヴァンに与えられたのだが、その事実をボルは知らない。 「俺の前でクレイの話をするたぁ、いい度胸だ。帰れ」 いい大人が未だにこうである。 「ボル、お前はクレイにからかわれているのだ。貴公、クレイから何と聞いてこの島に来た?」 突然帰れと言われた哀れな男が取りつくろうように口を開く。 「俺が黒双剣の旦那から話を聞こうと思ってたって言ったら、先に孤島に行ってしまった、あれは本当にあるぞって」 「他は」 「えっと、俺が孤島に行くって言ったら、ボルの奴は私の後を追いかけて同じ街で酒場を開いて鬱陶しかったんだって」 「何ぃ?」 「黙れボル。続けてくれ」 「二番弟子だから、誰かの後をついて回るのが好きなんだ。前は私の後を、今度は師の後を追いかけたらし――って、旦那待っ!」 男の鼻筋に放たれた拳をヴァンが掴む。 「こいつを殴ってもクレイの鼻は折れんぞ。だからお前はからかわれるのだ」 ため息を深々とついて、ヴァンはボルの手を離した。 「こいつがお前に会うと踏んで、この会話の事を口に出させて挑発してやろうという魂胆がわからんか?」 クレイの方が速さや正確さといった技量ではボルに勝るが、膂力や応用力、勘などではボルが勝る。実際に真剣勝負をすればボルが勝つというのはクレイ自身もヴァンの前では認めていた事実であった。何より弟子の一番二番にこだわる男ではないし、ボルが店を開いた街に後から店を開いたのはクレイである。 「わかるからむかつくんですよ!」 「だからって俺を殴らんでくださいよ」 「あいつは手前ぇが殴られるのも予想のうちなんだよ!」 顔をつきあわせていなくても、昔のように喧嘩ができるというのは果たして仲が良いのか悪いのか、ヴァンは軽い頭痛を覚えて酒で誤魔化すことにした。 |
49日目4677文字 |
「三日ほど潜ってくるから、美味い酒調達しといてくれよ!」 酔漢が下品に笑いながら店を出て行く。 「ちゃんと生きて帰ってきたらな!」 そう返してから、ボルテクス・ブラックモアは苦笑混じりのため息をついた。それを見咎める者は誰もいない。閑散とした店を見回してから、店じまいの準備を始める。 「三日程度で死ぬはずもないか。そもそもここは俺や師匠がいたような、命がけの島とは違うって言うしな」 独り言を口にしてから、客に聞かれれば侮辱と取られるかも知れないと、誰も聞いてもいないのに口をつぐむ。 だがボルが九十日以上を過ごし、人狩りをかわしながら宝玉を揃えきったかつての孤島は、実際に死者が出た。 師ヴァンドルフが若き日に過ごした孤島では、いくら飢えても死ねず、どんどん身体だけは弱っていくと聞いた。飢えて衰え、衰えれば勝てず、勝てねば飢える。師から聞かされた連環する悪夢に恐怖を覚えたものだ。 だが彼が足を踏み入れた孤島では、悪夢は輪になってはいなかった。飢えれば衰え、衰え続けば死ぬ。それだけに、全ての孤島で共通する「島に来る前にどのような英雄、豪傑であろうと、島に足を踏み入れれば一般人の女子供と変わらぬ戦闘力になってしまう」という魔の拘束がより一層恐ろしかった。 餓えの怖さはボルにとって恐怖の原体験の一つであった。 物心付いた頃より戦場あさりで生き延びてきた彼にとって、餓えと病気と死は三つ子の兄弟のように良く似たものに感じられたのだ。仲の良い友人が何人も飢えて死んでいくのを見た。それ以上に戦果に巻き込まれて死ぬ者が多かったが、一瞬で命を奪われるそれよりも、じわじわと死に侵食されていく餓えの方が、より身近な恐怖として染みついているのだ。 「飢えねぇだけでもマシだわなぁ……」 この孤島では食事をおろそかにすると体調が悪化していき、いよいよ駄目かという段になると遺跡の外に排出されるらしい。 そして、ボルも暮らすこの遺跡外では凶悪な魔物や動物も出なければ、悪意ある人による人狩り行為も禁じられている安全地帯である。そこに餓えはなく、言ってみればボルのような酒場や食堂などは本来必要ないのだ。わざわざ金を出さずとも、飲まず食わずでも一定以下の空腹感は味わうことがないし、それで死にもしなければ体力が落ちもしない。それでも金を出して美味い酒や料理を求めるのは、人の性なのかも知れぬといつか師が語っていた事があった。ボルもそれに同意した。食を放棄しても己の人生が潤沢だと思えるのならば、それは最早人という種から逸脱しているのではないかと考えたことがあるからだ。 「考えても仕方ねぇか。しかし師匠今日はついに来なかったな」 声に出すことで気分を切り替える。 実際師が気に掛かっている気持ちもあった。遺跡に潜っている師は、いつもならば五日ないし六日で遺跡外へと戻ってくる。その日を待ちわびて師に美味いと言わせる酒を用意するのが、ボルのささやかな楽しみであった。この日は師が遺跡に潜って六日目、いつもならば昼頃か、遅くても夕方にはボルの酒場『英雄の故郷』にやってくるものだが、閉店の時間を過ぎても師は姿を現さない。 「まさかポックリ逝ってるんじゃねえだろうな」 そう言って少し笑ってみる。師が文句を言いに出てくるのではないかという期待は、静寂によって外された。 あからさまな落胆のため息をついてから、ボルはカウンターの裏に隠した双剣を手に取った。何があろうとも手の届く範囲に双剣を置くというのは、苦い失敗から得た彼の決まり事だった。 「今日はジャニスの姉さんもいないし、さっさと片付けるか」 いつか師が歌声を褒めた歌い手は一昨日から遺跡に潜っている。店をたまに手伝ってくれる少女も、あろう事か歌い手と意気投合して一昨日から一緒に潜ってしまった。昨日一日だけで、ボルの口から「何も一緒に潜らなくてもいいだろうが」という愚痴がもれたのは十や二十では収まらない。 簡単に皿を洗い桶に突っ込み、水桶を掴んで店を出る。 井戸まで水を汲みに行く途中でふと師との会話が脳裏をよぎった。 『大体五日か六日に一度帰ってくるんでね、今日のこの時間に来るんじゃないかと思ってましたよ』 『習慣化か……歓迎はできんな』 『こんな島まで来て師匠の命を狙う奴なんぞいないでしょうや。異世界と交わってる不思議な島なんだし、簡単に来れるわけでもないでしょう。心配しすぎですよ』 丁度六日前にかわした会話だ。 「まさか師匠の奴、習慣を崩そうとしてんのか? こんな所にまで師匠狙いの奴なんぞ……」 「兄ちゃん危ねえぞ!」 しわがれた大声がボルを一瞬で戦場に引き戻す。 飛来した矢を神速の抜剣で切り捨て、即座に射線を割り出してそちらに構える。 二射目を桶で撃墜しようとして、水桶に穴が空いたら何かと不便だと思い直してまたも剣で切り落とす。 「くそっ、邪魔だ!」 水桶を割れない程度に荒々しく投げ捨てる。師がそれを見ていれば、悪ぶってるだの豪快を装い切れてないだのと笑うだろう。 「誰だか知らねえが、俺は命を狙われる覚えはないぞ!」 嘘である。 傭兵などという生き方を選んだ時点で、思いも寄らぬ恨みを背負い込む事は覚悟していた。 「兄ちゃん、待ってな、俺が加勢してやらぁ!」 先ほどのしわがれた大声が遠ざかっていく。ボルがそちらをちらりと見ると、一度だけ客で来たことがある老人だとわかった。 流石に一度来た客の顔は全て覚えているなどという職人芸は持ち合わせていないが、その老人は印象に残っていたのだ。 ボルの額に刻まれた十字傷を見て一瞬怯んだ様子が目に焼き付いている。ボルの傷を珍しそうに見る者は少なくないし、怖がられる事も慣れている。しかし老人の反応はそれらとは少し違っているように感じられたのだ。その時はどうしたか問うてみても老人は取りつくろうだけだったが、それが余計に印象的だった。 酒を出しながら話してみると、ボルや師ヴァンドルフと同じ世界から渡ってきたと知り、印象は決定的になった。三十年以上前は傭兵をやっており、息子が一人前になったから引退したと言っていた。どうやら息子は既に亡くなっているらしく、思い出話の最中に急に涙が滲んだのを隠すように、浴びるように酒を飲んでいたのを覚えている。 自分がその場にいたらむざむざ殺させなかったといった呟きを耳に留めたが、よほど腕前に自信があるのだろうなと感じたものだ。 その傭兵の経験と自信が先ほどの「加勢してやらぁ」に繋がったのだろう。 「まずいな、引退済みの爺さんにヨボヨボ来られちゃ足手まといだぞ」 失礼な事を言っている自覚はあるが、事実は事実である。老人はとてもじゃないが腕利きの元傭兵という雰囲気ではなかった。 「おら、さっさと済ませるぞ! 姿見せやがれ!」 腰に下げたもう一振りの剣を抜き、双剣を構える。向かいの建物の屋根で何かが動いた気配があったが、屋根の上は夜闇に包まれていまいち見えづらい。逆にボルがいる地上は店や家々の明かりが漏れているために格好の的となってしまう。 「その剣、黒双剣と見るがどうか!」 屋根の上で何者かが立ち上がる気配があり、問いかける声が届く。 「いかにも! 暁の剣聖ヴァンドルフが一番弟子、双剣衆筆頭ボルテクス・ブラックモア、黒双剣のブラックモアだ!」 今考えたばかりのハッタリを自信満々に叫び返す。ヴァン自身が彼を一番弟子と明言した事はなく、ヴァンドルフの双剣衆と呼ばれる彼の弟子達の筆頭も特に決められてはいない。真実は黒双剣とその二つ名を受け継いだという一点のみだった。 「相手にとって不足は無し! お相手願おう!」 「お前が俺の相手だと? 役不足もはなはだしいぜ、名乗りな!」 屋根の上の影が動く気配がある。次第に地上からの明かりに身体が照らされたかと思うと、男は屋根のへりから飛び降りた。 ボルは一瞬、着地の瞬間を狙って切り込みたい衝動に突き動かされかけたが、何とか自制した。自制してから、矢で闇討ち仕掛ける相手なのだから武人として扱う必要がなかったと後悔したのだが。相手の口上ですっかり武人同士の一騎打ちという気分にさせられてしまったのだ。 「ライ王国聖魔双刃騎団のエキル・ドル・ラルク。お相手願おう」 ボルは大きくため息をついた。 「まぁたうちの世界からか。なんだ、この一角は俺らの世界からの客が集まってんのか?」 様々な異世界から多種多様な種族が集まる孤島において、近頃同じ世界の住人と出会いすぎだと嘆いてみせる。 そうしながら、ボルは冷静に相手を分析していた。相手は南の大陸と東の大陸に領土を持つ大国の主要騎士団を名乗った。ライは清濁併せ持つ国風で最大の特徴は弾劾裁判である。貴族や神官から二割、聖刃団や魔刃団から三割、民衆から五割という割合で選ばれた、計百四人から百十一人の裁判官により四日かけて行われる弾劾裁判は、例え王であろうと力量不足や不正をしていると判断されれば回避はできず、裁判に負けた場合は一族の男子全てが皆殺しという苛烈さで知られていた。 「聖魔双刃ってか、あんた魔の方だろ?」 二百年ほど前まで厳しい身分差で国内が荒れていた際に、当時の騎士団長と次代の騎士団長が二代に渡って奔走して組織したものだ。下層民や盗賊などでも実力があれば取り立て、諜報や暗殺、奇襲や斥候などに長ける魔刃団と、旧来の騎士団を再編し高潔を第一とした聖刃団を合わせて双刃騎団と呼ぶ。正反対の組織を纏めねばならず、騎士団長は度量の広さと政治力、騎士としての実力全てを兼ね備えていないと務まらない。歴代の騎士団長の就任最短記録は僅か二分で暗殺というものであった。 ボルが相手を魔刃団の所属と判断したのは、聖刃団はボルから見れば馬鹿じゃないのかと思うほど正々堂々としているからだった。闇討ちや暗殺の機会があっても、わざわざそれを指摘して名乗りを上げ、相手が武器を構えるまで待つのが聖刃団の馬鹿共だというのがボルの印象である。夜闇にまぎれて矢を射かけるなどという、ボルに言わせれば正しいやり方をするのは魔刃団に決まっている。 エキルと名乗った男が両腰から短剣を抜いて逆手で構える。 「あんたも二刀か、なるほど、それで俺か?」 「本当ならば貴公の師とやり合いたかったのだがな」 不敵に答えるエキルに対して、ボルは急に構えを解いた。意図が掴めずにエキルが不思議そうな顔をすると、ボルは肩の力を抜くように笑った。 「なら師匠と戦えばいい、今日あたり帰ってくるはずだったからな。明日には帰ってるんじゃねえか?」 そう言って双剣を鞘に納める。納めた瞬間に襲いかかられれば一巻の終わりである。相手との実力差が読み切れていない今の段階で無防備な姿をさらすのは一種の賭けだった。 「悪ぃが俺は力試しの類は師匠に押し付ける事にしてんだ。丁度アンタも師匠が良いと来たら、俺が戦うだけ損じゃねえか。違うか?」 エキルは七秒ほど考えてから、短剣を腰に納めた。 「相違ない。ならば貴公の店で待たせて貰おう」 「悪ぃなお客さん、今日はもう閉店だ」 食えぬ笑みを浮かべて、ボルは悪童のようにそう言った。 |
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老人は思うように動かぬ足を殴りつけた。異世界の孤島で一人で鬱屈した生活を始めてひと月以上が経っている。その生活の中で知り合った酒場の若旦那は陽気で人好きのする男だった。一度だけしか飲みに行った事はないが、同じ世界出身という事もあったし、生きていれば息子と同じぐらいの歳だろうというのもあって、妙に気に入っていたし、気になっていた。 その酒場の亭主が何者かに闇討ちを仕掛けられている。死なせてはいけない、そう思った老人は孤島での仮の住まいへと急ぎ、息子が愛用していた剣を手に取って酒場への道を戻っていた。 若い頃は傭兵だったとは言え、引退して既に二十年か三十年か。ろくに走ることさえままならない。同世代に比べればまだまだ動けているという自信はあるが、全盛期を思うと衰えた身体に情けなくもなる。 酒場への角を曲がる。 闇討ちを仕掛けた男が両手に短剣を構えていた。 「二刀……」 半瞬、血の気が引く。 「いや、短剣じゃあない」 すぐに我に返り、酒場の亭主が生きている事を確認しようとして、今度こそ血の気が引いた。 「二刀……剣……双剣!」 酒場の亭主は腰に下げていた二本の鞘からふた振りの剣を――黒い剣を抜いていた。 呆然としながらも、足は二人の元へと進んでいく。僅かに声が聞こえる距離になったが、二人とも幽鬼のような老人には気づいていない。 酒場の亭主が双剣を鞘に納める。老人が三歩進んだ頃に、闇討ちの男も短剣を納めた。 「相違ない。ならば貴公の店で待たせて貰おう」 そんな声が聞こえる。 「悪ぃなお客さん、今日はもう閉店だ」 悪戯めかした口調で亭主が言う。闇討ちの男は面食らったような顔をしてから、苦笑した。 「冗談だよ、入って待ってな。俺は水を汲みに行かなきゃならん」 「この先にある井戸か? ならば私が行ってこよう。迷惑をかけた詫びだ」 打ち解けたように喋る二人は、まだ闇の中から近づく老人に気づいてはいない。 「命狙われた詫びにしちゃ、えらい簡単な雑用だな。まあいいや、頼むわ」 亭主が水桶を投げて寄越す。男はそれを受け取ると、亭主や老人に背を向けて、井戸へと水を汲みに向かった。 ボルは水桶を手に去っていくエキルの背をしばらく見送っていたが、店に戻るかと振り返ってようやく老人の姿に気がついた。 「よう爺さん、何とかなったわ。ありがとうな」 笑顔でそう呼び掛ける。 老骨で加勢されては足手まといだと思っていたのも真実ならば、若造を助けようと老体に鞭打ってくれた事に感謝しているのもまた真実だった。 礼を言われた老人の方はボルの言葉には一切の反応を示さず、ただその腰に下げられた双剣の鞘を見つめていた。 「爺さん?」 不思議に思ったボルが老人に一歩歩み寄る。 「その剣」 老人の指がボルの剣を指さす。 「刀身が黒かった」 妙な違和感を覚えながら、ボルは鞘に収まった剣に目を落とす。 「ああ、黒双剣だ」 剣の名を教える。老人の変化は劇的だった。 「黒双剣!」 老人の表情は幽鬼から鬼へと変貌していた。 「額の十字傷、黒い双剣、貴様がっ!」 叫んだかと思うと、老人は手に持った剣を抜き放ってボルへと猛進してきた。 「ちょっと待て爺さん、落ち着け!」 腰だめに構えられた剣には紛れもない殺気が籠もっていた。 「ってんだよ!」 黒双剣が閃く。十字に交差された双剣で老人の剣を押さえつけ、そのまま体当たりで老人の体勢を崩させて間合いを取る。 「爺さん、手前ぇまじに俺とやる気か?」 「黙れっ、額に十字傷を負った黒い双剣、息子の仇だ!」 往年の勘を取り戻したかのように、老人の剣は鋭かった。ボルは力任せに跳ね上げた右手の剣で老人の一撃を弾くと、左手の剣で老人の胴を――薙ぎそうになるのを堪えて、剣を握った拳で殴り飛ばした。 「アンタの息子なんて知らねえよ!」 だがボルには心当たりが有りすぎた。これまでに何人斬ってきたか解らない。恨みが無くても、相手が善人でも、戦場で敵として出会えばそれは敵なのだ。斬った相手を全て覚えているはずもない。 「くそっ、でも額に十字傷がある黒い双剣使いなんぞ俺以外にゃ…………いるじゃねえかよ!」 「何をごちゃごちゃ言ってる! ワシは誤魔化されんぞ、黒双剣のヴァンドルフ!」 「やっぱりか!」 斬りかかってくる剣を横に飛び退いて避けると、ボルは老人の横腹に蹴りを入れた。 「爺さん、そりゃ人違いだ」 蹴っておいてから堂々と言い放つ。 「今更言い逃れる気かヴァンドルフ!」 「だぁから、俺は――」 「儂に用か?」 老人の背後から待ちかねた声が聞こえた。ボルは喜々として師ヴァンドルフを指さした。 「爺さん、そっちだそっち、それがアンタの息子の仇だ」 老人は振り返ると月明かりに照らされたヴァンの姿を値踏みするように見た。 「……貴様かぁ!」 息子の遺品の剣で仇に斬りかかる。 「知らん!」 叫ぶと同時にヴァンの双剣が放たれる。老人の剣は交差する双剣によって真っ二つに斬り裂かれた。形見の品を破壊された老人が目を丸くしたままボルの元に吹き飛ばされてくる。ヴァンが全力で蹴りを入れたのだ。 「ボルよ、何だこの無礼な老人は」 第三者がいれば、師弟揃って蹴りを入れてから考えるのかと呆れた事だろう。 「師匠が息子の仇だそうだ」 「ふむ、そうか。剣を壊してしまったがまだやるか?」 腹を押さえながら立ち上がった老人はボルをギロリと睨み付けた。 「あの師匠を殺すってんなら、貸してやりたいのはやまやまだがな」 言葉を切って、戦士の目で睨み返す。 「俺の剣は誰にも触れさせねぇ。欲しけりゃ俺を殺してみろ」 彼の黒双剣にはそれだけの思いが詰まっている。師の二つ名であり、一番弟子の証であり、ヴァンの前の師を殺した剣でもある。ボルにとっては一番弟子の座や二つ名を受け継ぐ事よりも、最後の一点こそが重要だった。この剣を手に入れるためだけに、かつての孤島で百日の試煉を生き延びたのだ。 老人は一瞬怯んだ様子を見せたが、すぐに代わりになる武器はないかと辺りを見回した。水汲みから帰ってきた男がその視界に入る。騒ぎを聞いて駆けつけたエキルは口の端を歪めると、腰に差していた短剣を老人に投げて寄越した。 「せいぜい壊されんようにしてくれ。爺さんが終わったら次は私が挑むのでな」 ヴァンはボルに目配せで誰だと聞いたが、ボルは肩をすくめて説明を放棄した。 短剣を構えた老人の姿は中々様になっていた。どうやら元々短剣の方が得意だったが、息子の形見で仇を取りたいとこだわったのだろう。 ボルもエキルも老人の姿に感心したような目を向けたが、ヴァンだけは双剣を持ったまま無表情に老人を見つめていた。 老人が牽制の短剣を振るう。その切っ先から高い金属音が聞こえたかと思うと、短剣が宙に舞った。ヴァンが牽制の軌道を読み切ってはじき飛ばしたのだ。短剣が持ち主の足元に落ちる前にヴァンの拳と膝が老人の腹と顎に決まっていた。 「まだやるのならば止めを刺す」 そう言うと殺気をこめて睨み付ける。 『その必要はありませんよ』 突然の声。老人を除く一同は咄嗟に警戒態勢を取りながら声の出所を探った。 『ククッ、その老人は招待状を持ってませんねェ。そこの貴方も』 声がエキルを指していると解る。 『招待状もないのにやってくるお客さんの多いこと多いこと。それも仕方ありませんねェ、こんな愉快な一大パーティー、見たくなるのは当然です』 ヴァンは声に聞き覚えがあるように感じ、記憶を探っていた。ボルも同様に聞き覚えがあるという顔だった。 「そうか」と口を開いたのはヴァンだった。 「貴様、造られしものが出てきた時に響いていた声か」 『ご明察です、名も無き参加者の方。貴方は招待状を持った参加者、言わば舞台俳優。この老人とそこの貴方は持たない見物客。見物客が舞台俳優に手を出そうとしたら……ククッ、解りますよねェ?』 異様な威圧感が周囲を包んでいる。エキルは両手を広げて肩をすくめて見せた。 「私はそのつもりはない。勝てる相手ではないと悟った今、挑むつもりはない」 老人をけしかけてヴァンの力量を計っていたのだ。その結果、現時点では勝てぬと判断した。そういった判断が出来るというのは、エキルもまた相応の腕を持った戦士であるという証明に他ならない。 『賢明ですねェ。では、その老人は私が引き取りましょうかね。ヒヒッ』 「ちょっと待ちな」 ボルが止める。 「気に食わねぇな。手前ぇの声はどっかで聞いたことがあるぞ」 『おや? おやおやおや? そこの貴方、ひょっとしたらボルテクス・ブラックモアさんじゃありませんか?』 ヴァンに対しては名も無き参加者と言っておきながら、遺跡外で酒場をやっているボルの名は知っているというのは奇妙な話だった。 「腐れ爺のダンパーグ、違うな。スーティワルツのスゥ、エンドネイトのフェイト……いや」 『ククッ、懐かしい名前ですねェ』 「コーヌコゥピアのビュー、プライマリーティントのリドロック、紅一筆のエタニスフ、違うな、この辺の木っ端じゃねえ」 『そうですねェ』 声の主は幾分面白そうに答えた。ヴァンやエキルは何の話かまったく解らないといった風にボルを見ていた。 「水のサバド、火のニィ、風のホリィ、土の神崎。神崎……いや……」 『惜しいですねェ』 「榊……? 榊か!」 『お久しぶりです』 「思い出したぜ、光陰の孤島の入り口で脅してきやがった嫌な野郎の名前が、榊秘密だったな」 『クククッ、相変わらずですねェ。上の名前が榊、下の名前は秘密、確かにそう言いましたが真に受けられていたとはッ! ヒヒッ、何故貴方が此処に?』 ボルは懐から招待状を取り出して見せた。 「手前ぇが自分で招待状送ったんだろうが」 『いえいえ、そういう事ではないのですよ。確かに私は貴方に招待状をお送りしました。前の島でも数少ない、全ての宝玉を集めきった方です。言わば貴方はシード選手、お送りしないはずがありません。しかし貴方は遺跡に潜ってはおられない。以前の島で私が作った疑似温泉にも一度も足を運んでくださらなかったですし、てっきり私は嫌われているのかと思ってましたよ。ククッ』 「いや、嫌いだぞ。そこは間違っていない」 『ヒッ、これは手厳しい』 ヴァンはボルの元に歩み寄ると「お前が行った孤島の守護者か?」と耳打ちした。それに答えたのはボルではなく榊だった。 『いかにも。私がエージェントに指示を出していた榊です。そしてこのパーティーに皆さんをお招きした者でもあります』 ヴァンが視線を移すと、そこにいたはずの老人の姿が消えていた。 「……あの老人はどうした?」 『ご退場願いました。島からなのか、人生からなのかは想像にお任せしますがね。ヒヒッ』 「いちいち癪にさわる口ぶりだな。気に喰わん」 『おやおや、師弟両方から嫌われてしまいました。ではこれ以上嫌われないうちに、私はおいとましましょう。また、いずれ……クククッ』 「待て、貴様には聞きたいことがある! この島は――去ったか」 ヴァンは苦虫を噛み潰したような表情で夜空を見上げた。 「いずれ、か。良いだろう、覚悟して待っていろ」 |
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水滴が木製のタンブラーを撫でる。 からんと小気味良い音を立てて氷が酒の中で身じろぎするのを、男は珍しそうに見つめていた。 ヴァンはそれを見逃さず、僅かに頬を吊り上げた。 「氷が珍しいのだろう」 男は少し恥ずかしそうに頷いた。 「貴公、ライ王国の騎士だと言ったが、普段はウェイティル大陸に詰めているのか?」 ヴァンが口に出したのは、彼やその弟子ボルテクスが住む世界にある五つの大陸のうち、東の大陸と呼ばれるものの名前だった。 森と山の大陸や、竜の集う大陸と呼ばれる通り、険しい山や鬱蒼と生い茂る森が大陸のほとんどを占めており、開墾しようにも森に住む竜達の縄張りを荒らしてしまって襲われるという事が多々ある大陸だった。 元々は僅かな人が住める場所で肩を寄せ合った人々が都市国家を作り、それがいくつも集まって小国家が乱立する大陸だったが、神の力を持つと自称する男と彼を崇拝する者達が現れてから状況が一変した。 男の持つ不思議な力は竜を圧倒し、人々は男の元に結束して強力な国家が誕生した。周囲の小国の王達も彼の力に惹きつけられ、次第に神聖視されていく男の号令で一つの大国として纏まっていった。大陸の南東部から広がっていくこの巨大な国を、人々は男の名を取ってフィブ神聖帝国と呼ぶようになった。それは同時に、神聖皇帝を神と崇めるフィブ教の誕生も意味した。 初代神聖皇帝が死んだ後に即位した息子も父と同じ能力を持ち、いよいよ彼がペテン師ではなく本物の神だったのではないかとフィブ教も広まっていった。 いつしかフィブ神聖帝国は武力と信仰による侵攻を推し進め、人だけでなく竜からも住処を奪って大陸の六分の一をその版図に加えた。 フィブ建国から五十年近くが過ぎたある日、大洋シーライズに浮かぶ孤島アヴァロニアから一人の男が東の大陸の北部に降り立った。青い髪と赤い瞳を持った男は、大陸の人々が開墾したくとも竜が恐ろしくて身を縮こまるしかないと知り、自分が何とかしようと竜の住処へと足を運んだ。三日ほどして男が竜を伴って戻って来ると、彼は竜と話し合いをして、少しの土地を分けて貰ったと言った。 竜と話す男の噂は次第に広まり、彼の元には自分たちも助けて欲しいと頼む人や、自分たちの言葉を話せる奇妙な小さい生物を見てみようとやって来た竜などがごった返した。 そうして三年と経たないうちに彼は最も高貴なる竜と話し合い、人と竜がそれぞれの法をもって共存し発展していくために新しい国の建国を宣言する。ドラ・グ・ナイル(御竜の加護)を受けた国、ドラグナイツ王国の誕生である。竜を狩る国に対しては人と竜の力を持って討ち滅ぼし、竜の脅威に怯えるばかりだった国は庇護を求めて自発的に傘下に収まり、気づけば北の大帝国として大陸の五分の一を支配していた。 その頃からドラグナイツとフィブの衝突が始まった。 最初は単純な紛争として始まり、百年経つ頃には、竜を信仰するドラグナイツと、皇帝を神と崇めるフィブの宗教対立に発展し、最早いかなる妥協も不可能な状態へと陥っていた。 ライ王国が出来たのはフィブとドラグナイツの対立が膠着状態に陥り、一時の平和が訪れていた頃である。 東の大陸の南西部に存在していた小国群と、南の大陸の東端に存在していた小国、両大陸の中間地点に浮かぶ諸島の国々が手を結び、ライ王国として名乗りを上げた。 まとめ上げたのは諸島を根城にしていた大海賊の娘で、彼女を女王に二つの大陸の中間に浮かぶ島を首都とし、領土の大半を二つの大陸に分かれて持つという奇妙な国が誕生したのだった。 南の大陸の東端と、東の大陸の南西端と、その間の海に浮かぶ島々が一つの国だと声を上げても、当時の周辺諸国の王達は世迷い言をと笑っただけだった。海賊の娘が王というのも軽視された一因だったのは間違いない。 まともに危険視して派兵した国もあったが、あろう事か兵士鼓舞のために出征した王子の船が嵐で難破してしまう。一命を取り留めた王子は救ってくれた娘と恋に落ち、そしてその娘こそがライの女王その人であったのは運命の悪戯としか言いようがない。結局は危険視した国は王子の熱烈な説得によりライ王国と同盟、女王と王子が結婚し、長子が生まれた後にはライ王国へと併合されてしまった。 海賊や山賊を味方に付けての諜報戦や神出鬼没の奇襲作戦、併合された王国からの外交技術や知識、文化などが組み合わさり、清濁併せ持つ国風の基盤が出来上がった頃には、ライ王国を驚異に思わない国は無くなっていた。 ライ王国が大国へと成長した理由の一つには、南の大陸における大国間の戦争という背景があった。 南の大陸には数千年前に存在した古代王国最後の愚王を討ったナギ王国と、古代王国の系譜を受け継ぐミグ王国、ジン王国の三大国が千年単位で対立を続けたまま膠着していたのだ。友好国である北西のミグ王国と、南西のジン王国の千年の結束は強く、大陸を縦断する山脈によって自然の要害に恵まれた中央のナギは東端に出現したライ王国への対応に苦慮していた。ミグとジンはライへの協力を惜しまず、ライは東端の一部から次第に勢力を広げて南の大陸の四分の一、東の大半にまで広がっていく。 南の大陸でナギが滅べばライは更に巨大な国になり、今度は東の大陸の南西を拠点に東の大陸でも脅威となるだろう。そう判断したフィブ神聖帝国はナギを支援。こうしてミグ、ジン、ライの三国同盟対ナギとフィブの二国同盟が南の大陸で睨み合い、東の大陸ではドラグナイツ、フィブ、ライの三国がそれぞれ牽制し合うという、下手に動けば全てが滅びかねない、二つの大陸の五つの大国が絡み合った膠着状態が生まれてしまった。 一度その膠着状態が崩れた時には、中央大陸や北の大陸まで巻き込み世界中に争いが広がった。後の世に言う第二次大陸大戦である。ヴァンの生まれる遥か前、彼の父が生まれるよりも遥かに前で、祖父さえも生まれていない時代の話であった。もっとも、彼は父の顔を覚えてはいないし、祖父の顔など見たこともないので、彼らが正確に何年前に生まれたのかなど知る由もないが。 「私は見聞を広げたかったのだ」 ライより旅に出て、ボルやヴァンと同じく数多の異世界が交差するこの孤島へと辿り着いた騎士エキルが呟く。その視線は再び氷へと向いている。 「武者修行も目的の一つだが、一目見て勝てぬと悟れる相手には喧嘩を売らないのが、我ら聖魔双刃騎団の鉄則だ」 「儂には勝てんと言ったのは、あの榊とやらを引き下がらせる方便ではなかったのか?」 「まさか、私はそこの亭主殿と良い勝負と言ったところだろう。いや、亭主殿が相手でも若干私が不利だ」 勝てぬと解っていても誇りのために散る騎士が多い中で、ライ王国の騎士が強いのは戦って良い戦と、引くべき戦を心得ているからだというのが傭兵達の定説である。だからこそ、ライの騎士団が向かってきた時にはあちらに勝算があるという事だから逃げろというわけだ。 エキルとヴァンの会話をカウンター越しに聞いているボルなどは、傭兵稼業なのに誇りのために命を賭けるという傾向があるのだが、ヴァン自身もその傾向があると自覚しているので口うるさく咎めはしなかった。 「氷、これが氷か。いいな、国を出た甲斐があった」 ヴァンやボルの生きる世界では氷は稀少品である。地方によってはそれを名産品のようにしているが、どの国でも氷を飲み物に入れるというのは王侯貴族の楽しみ方であった。氷を見つめていたエキルがふと思い出したようにヴァンに向き直った。 「貴公は私がウェイティル出身だと解ったようだが、何故だ?」 「簡単な事だ、南の大陸の冬は冷える。雪や氷なども比較的見ることが出来るし、魔法技術に優れるミグ王国があるので、魔法で氷を作る技術も伝わっているはず。片や東の大陸は、九十年ほど前にフィブとの戦に親征したドラグナイツの王師が、珍しく降った大雪で瓦解したと聞く」 「東出身ならば雪や氷が珍しかろうと言うことか。その通りだ」 エキルが感服したといった風に頷くのを、ヴァンは満足げに見ていたが、それを見咎めたのは店主のボルであった。 「師匠も俺が氷出した時にゃ目を丸くして驚いてたじゃねえか」 「珍しい物は珍しいだろうに。旅から旅では氷など冬場の水辺でしか目にせんわ」 ヴァンは自分で口に出した旅から旅という言葉で何かを思い出したようにエキルに問うた。 「貴公、見聞を広めるために出たという事は各国を回ったのか? 今の情勢はどうなっている」 そう聞いた瞬間、エキルの眉間に皺が寄る。 「そこかしこで紛争の噂を聞いた」 今度はヴァンとボルの眉間に皺が寄る。二人は顔を見合わせると真剣な表情になった。 「近いうちに大きな戦が起きるのは避けられんか。儂が旅していた時期にも戦の噂は聞いたし、宮廷に招かれて腑抜けておった時にも、何やら剣呑な噂話を聞いたことがある」 「大陸大戦って奴か。次は三度目だったか?」 ボルが腕組みをしてカウンターの向こうで呟いた。 「予兆は随分前からあった。儂やボル、お前が幼い日より住処を無くして戦場に生きたのも予兆の一つだろう」 小国同士の紛争は絶えることなく続いている。ボルやヴァンが生まれる前から世界中で常に紛争は起きており、ヴァンが生まれ育った街もそうした戦火に巻き込まれた一つだった。幸いにもヴァンは傭兵に拾われ、今日まで戦場を一対の剣で切り抜けてきた。だが傭兵が日銭を稼ぐ職場がヴァンの少年期から四十を越えた今まで、絶えることなく常に存在したというのは世界が争いに包まれている証明に他ならない。 ボルが幼少の頃、ヴァンが少年兵だった時代には中央大陸全土に広がった大戦も起きた。ヴァンを育てた傭兵隊が壊滅し、その手を下した猛将アズラスが双剣という鮮烈な印象をヴァンに刷り込んだのもその大戦期の話である。 「二十五年ほど前の大戦、あれは幸いにしてと言うべきか、中央大陸だけで収まった」 その言葉に、東の大陸出身のエキルが頷く。 「私が物心付く頃には、中央大陸で大きな戦があったという昔話になっていた。大人達はその話をするたびに、決まって大陸大戦にならなくて良かったと結んでいた」 「だが避けられん」 確信を持ったヴァンの声色に場の空気が重くなる。それを砕こうとボルが酒場の客から得た知識を明るい口調で披露した。 「でもよ、俺がミグで酒場やってた頃に聞いたが、なんでも平民出身の凄ぇ騎士が世界中を旅してるそうだぜ。そいつが行く所じゃ必ず紛争が収まるって話だ」 また氷を眺めていたエキルが顔を上げる。 「ラカン・サガか? 奴は東の大陸にも来たぞ」 「そう、そいつだ」 「ドラグナイツで皇帝と高貴なる竜に謁見を許されて、竜の従者を与えられたと聞く」 エキルの言葉でようやく思い出したといった風にヴァンが口を開いた。 「聖竜の騎士とか呼ばれてる奴か。そう言えば宮廷で腐っていた時に貴族どもが噂していたな。ドラグナイツの竜に乗ったまま、敵国のフィブに堂々と乗り込んで神聖皇帝に気にいられたとか何とか」 中央大陸にいたヴァンと、南の大陸にいたボルと、東の大陸にいたエキルの全てが存在を知っている騎士。それは世界中から注目を集める、後に伝説の英雄と呼ばれる若者であった。もっとも、その伝説の最後は悲劇で幕を閉じ、未だ二十代になったばかりの若者は今が後に書かれる伝記の六割を過ぎた辺りであった。 「会ってみたいものだな、その若者と」 奇しくもその若者の死が大陸大戦勃発の引き金となる事を、今は誰も知る由がなかった。そしてその大戦に大きな影響を与える若い戦士を鍛え上げるのが自分だと言う事も、ヴァンはまだ知らない。 |
56日目4430文字 |
「死んだ人間が生き返る事ってあると思うか?」 バーボンの入ったグラスを何気なく回しながらリックが呟いたのは、ヴァン達が酒場『英雄の故郷』に集って一時間が過ぎた頃だった。 「どうした、突然」 酒杯を傾ける手を止めて、ヴァンはちらりとリックの顔を見た。 「さっきの話でな、少し気になっただけだ」 ヴァンが酒場に来る前に出会った少女の話だろう。 死んだ母の首を持ち歩く。そんな少女の話をしたとき、リックの顔は嫌悪に歪んだ。だがその表情の奥にはただの嫌悪ではなく、リックという人格を形成する様々な事象がにじみ出ていたように思えた。 ヴァンもリックも四十年以上の人生を生きてきた。ヴァンは傭兵として戦場に立ち、リックは医者として街に立ってきた。どちらの立ち位置でも数え切れないほどの命が通り過ぎていったのだろう。 救いたくても救えなかった命の数は、三十を越えたところで数えるのをやめた。今では百は下らないはずだ。そしてそれは、数は違えど恐らくリックも同じだろうとヴァンは思う。 生き返らせることが出来るのならば、生き返らせたい人がいる。救えなかった悔いが、そのまま杭となってヴァンの心をある地点に打ち付けている感覚がある。 カランと氷がなって、ヴァンはため息をついた。 「儂の手元にはそのすべはなかった。だが……」 ヴァンとリックでは住む世界が違う。比喩ではなく、実際に違う。 最初から無かったのかそれとも滅びたのか、リックの世界には魔法がない。対してヴァンの住む世界には様々な魔法や神の奇跡に満ちあふれている。実際に人を生き返らせる奇跡の魔法を使う賢者もいれば、神の慈悲によって二度目の生を頂いた幸運な人間もある。そのどちらも、ヴァンが救いを求めて伸ばした手には届かず、救いの事実があるがゆえに救えなかった事実がより重くのし掛かるだけだった。 「あるのか? そっちの世界には」 最初からそんな奇跡は起きないとわかっている世界と、奇跡があるがゆえに手を伸ばして無力さを味わう世界と、どちらが幸せなのだろうか。そう考えてヴァンは苦笑した。亡くしたくない人を亡くして幸せなはずがないのだ。 「あるが、頼りにはならんさ」 酒杯を傾けてフョ酒を招き入れる。カウンターの向こうで簡単な料理を作っている弟子を見てから、ちらりとサザンを見る。サザンもリックと同じく、店主ボルテクスが仕入れてきたブランデーを飲んでいた。 「お前の所はどうだ?」 美味そうに酒を飲んでいたサザンに問いかけた。 ヴァンはサザンの出身を良く知らない。リックも同様だ。少なくともヴァンの住む世界とは違うが、リックの住む世界とはいくつかの共通点があるらしい。似たような世界なのか、それとも時代が大きく違うだけで同じ世界からの旅人なのかはわからない。 ただわかっているのは、彼は既に死んでいるという事だった。 「確かお前は死んでいるという話だったが……」 そのわりには、元気に酒を飲んでいる。 「ああ、俺はもう死んだ。英霊として戦っているだけだ」 子細はよくわからないが、似たような話はヴァンの世界にもある。英雄として散った人物が神格を得て本物の神として誕生するという伝説はどんな地方に行ってもおとぎ話として語り継がれている。 「それは生き返れるのか?」 リックが問う。英霊の戦士はまた美味そうにグラスを傾けてから、首をかしげた。 「どうなんだろうな。神の力をもってしたら生き返れるかも知れないが、俺は神じゃないからわからんね」 そう笑う。良い笑顔だった。 「俺もヴァンもサザンも、色々亡くしたくない者を亡くしてきたよな」 リックの呟きに二人が頷く。カウンターの向こうで耳を傾けていたらしい店主のボルも、若干頷いた。彼は最初の師であり思い人でもあった女傭兵をヴァンによって殺されていた。 「生き返らせるなんてのは人間にゃ無理だよな」 可能ならば、やっていた。 「その嬢ちゃん、俺は見てないが、どうだった?」 ヴァンは先ほど遭遇した少女を思い起こした。 いつか闘技大会で戦った娘だった。仲の良さそうだった母と共に闘っているのが印象的だったが、その母はもう亡く、その首だけをずっと持ち続けているようだった。母への愛情と未練が、母の遺体から首を切り落として、復活させるために持ち歩くという狂気へと繋がったのだろう。 ヴァンのやるせない表情に気づいたサザンが、そっと酒杯にフョ酒をついだ。 「壊れているが、壊れきってはいない。…………そう信じたいだけかも知れんがな」 自嘲気味に鼻で笑って、サザンがついでくれた酒杯を軽く持ち上げて黙礼する。 果実酒特有の甘い風味が口内に広がるのを、またヴァンは自嘲気味に笑った。 「この甘い酒のように、儂の心根も甘くなっているのかも知れん」 サザンは黙ってヴァンの手から酒杯を取ると、フョ酒を一口招き入れた。 「うん、優しい味だな。店主、俺にもこれを」 言わんとすることを察したヴァンに、サザンはかすかに笑うのだった。 「二対一か」 リックは頭にかかったもやを払いのけるようにして頭をかいた。 「……まあいいか、子供を見捨てるのもな。俺の前に現れた時にまだ首持ってやがったらぶん殴ってやる」 本気の言葉を呟いて、リックは店主に「俺にもこの酒をくれ」と告げた。店主のボルは無精髭の生えた顔に微笑をたたえてフョ酒のボトルをリックの前に置いた。 「話は纏まったみたいですね。んじゃ、赤毛の嬢ちゃんがうちに来たら師匠達に連絡を取りゃいいんですね」 「ああ、儂らで面倒を見よう」 「同じような年頃の子供も多いしな」 そうして、彼らの一行に新たな同行者が加わることが決まったのだった。 † 夜も更けて、サザンとリックはそれぞれの宿へと戻っていった。 酒場『英雄の故郷』にも客はまばらで、カウンター席にはヴァン一人が座っていた。 ヴァンの手元にある酒瓶には深い琥珀色の液体がたゆたっていた。 「師匠、今日はちょっと酒量多くないですか?」 心配したボルが声を掛けてくる。 「酒場の亭主が客に酒を飲むなと言うのか? 変わった店だ」 酔っているのか、それともただの軽口か、長年師事したボルにも判断がつきかねた。 「ボルよ」 呼び掛けながらも、ヴァンは弟子のいる斜め前ではなく、真正面を見つめていた。 「……お前……いや」 「ワシが殺した師を生き返らせたいと思ったことがあるか、ですか?」 ヴァンが飲み込んだ言葉をボルが継いでみせた。少し驚いた顔で弟子の顔を見る。 「ありますよ。何度もね」 ヴァンとボルが最初に出会ったのは何年前だったのだろうか。既に高名な剣士として名を馳せていたヴァンと、駆け出しの少年傭兵だったボルは、敵同士として出会ったのだった。 その時のボルは彼我の実力差もわからぬ未熟者で、当時の師であった女傭兵への恋慕からか冷静さも失っていた。彼女を逃がそうと敗残兵狩りに出されていたヴァンに挑みかかった結果が、彼の額に刻まれた深い傷痕だ。 ヴァンはボルのあまりの青臭さに若干感心して、二人を見逃してやろうかとも思ったのだが、ヴァンのおこぼれを狙おうとついてきていた三下の傭兵たちのせいで、そうもいかなかった。 女性が戦場に立ち、負けるという事は男性のそれとは意味の違った悲劇を呼ぶ。ヴァンが彼女を殺したのは、偽善じみた慈悲の心だった。 彼女は死ぬ際にボルを托し、ボルもまたヴァンの刃の意味と師の遺言を理解した。そうしてボルは『黒双剣のヴァンドルフ』の弟子となった。彼が後に、一番弟子の証として黒双剣を欲し、その資格を証明すべく孤島で百日を生き延び、そして全ての宝玉を揃えたのは、ひとえにヴァンに殺された師の血を吸った剣を他の誰にも渡したくないという一心だったのだろう。 「……そうか」 ヴァンは謝らなかった。ボルも謝罪など求めていなかった。昨日酒を酌み交わしても、翌日に別の陣営にいれば本気で殺し合うのが傭兵である。そういう生き方を選んだのは自分自身であり、相手も同様であるというのが彼らの矜持だ。 「……師匠も」 ボルは言いかけて、やはり先ほどの師のように出かかった言葉を引っ込めた。 「ああ、ある」 今度は師が弟子に倣う。 「アズラスとも決着を付けていない」 アブカントの猛将、告死の翼の異名を持つ黒衣の双剣将軍アズラス・スルーシー。ヴァンの育ての親であった傭兵団を単騎で壊滅させた男。ヴァンに双剣という翼を与えた男。成長したヴァンが再戦を挑もうと考えていた矢先に、流行病でこの世を去った。 「リヒクト卿も、酒場で飲もうと言ったきり実現しなかった」 竜を神聖視する東の大陸のドラグナイツ帝国で領民を救うために竜を殺し、一族郎党全て国外追放となった元貴族の強盗騎士。窮地に追い込まれた国にヴァンと共に傭兵として雇われ、敵の後背を衝くために竜が棲むという伝説のある禁じられた山を行軍し、出現した巨竜から仲間を逃がすために散った戦友だった。 「それに……」 ボルに話していない後悔の種も数え切れないほどある。ボルが知る話でも、ヴァン自身が口に出したくないものもある。ボルもそれを察して何も言わなかった。 己の未熟で最愛の人を亡くしたのは、何もボルだけではないのだ。 その傷を未だに引き摺っているのもまた、ボルだけではなかった。 ヴァンがこの歳になってまだ独り身なのがそれを証明していた。 「俺も失礼して飲みますよ」 そう言ってボルは手酌で酒杯にフョ酒をついだ。 一口飲むと酒精の柔らかさと果実の甘さが口内に広がって鼻孔をくすぐる。 「我ながら良い酒だ。仕入れた奴は目利きだな」 自画自賛の軽口を叩きながら、ボルはヴァンの表情をうかがった。 師であり初恋の人でもあった女傭兵を失ってから、ボルは恋愛事で本気になることはなかった。だが、酒場や娼館で浮き名を流す事は幾度もあったし、言いよられて身を固めようかと揺らぐ恋愛も無いわけではなかった。 しかしヴァンは違った。己の未熟さで最愛の人を失ってから今に至るまで、一度たりとも浮いた話を聞かない。女遊びをしたという話も聞かない。ヴァンに本気になった元雇い主の女伯爵をつれなく袖にしたというので、追っ手をかけられたことさえあると聞く。 「もう少し楽に生きれないんですかね?」 独白のようにぽつりと呟いた。 「……それが出来るようなら、こんな生き方をしてはおらんさ」 「違いねぇや」 そう言って双剣の師弟は杯を鳴らした。 |
67日目4748文字 |
からんと湿った鐘の音。軽くきしんだ音を立てて酒場の扉が開かれる。 「いらっしゃい」 「よう大将、メリークリスマス」 「メリークリスマス」 既にどこかで一杯引っかけて来たらしい酔漢が陽気に挨拶をする。ボルは笑顔で陽気に返してから、カウンター席で不思議そうな顔をしている師に気づいた。 「どうしました?」 「なんだ、今のは?」 メリークリスマスという合言葉のような挨拶、ヴァンには馴染みのない言葉だった。 どこかで聞いた気もするが、やはり馴染みはない。 「ああ、メリーとかいうやつですか」 すっかり酒場の店主姿が板に付いたボルが笑う。 「あの客の世界じゃ、そういう行事があるんだそうですよ。なんでも、彼らの世界じゃ何十億って人が崇めてる宗教があって、その教祖が生まれた日を祝うんだとか」 「何十億だと? 凄まじい規模だな……」 ヴァンは心の底から驚いたといった顔で、一口火酒を煽った。 ボルやヴァンの住む世界ではほとんどの宗教が多神教である。それもそのはずで、実際に神々が人間の生活に干渉する事が多く、学神ウォムに到っては学術都市サウント市国のどこかに居を構えて老学者を装っていると言われるほどだった。 神との距離が近いぶん畏れや信仰心は深く、神々同士の関係とその神を信仰する宗教の関係も対応する事が多い。 例えば、慈愛と癒しを司る男神、白手神ロウフォは薬と癒しを司る女神、作薬神コヨと夫婦である。そのため、ロウフォ神殿にはコヨ信徒の薬師が間借りしている事が多い。 白手神ロウフォの兄弟神である黒手神ブラフィブラは、弾劾ととどめの神という苛烈な性質をもつが、ロウフォと兄弟神である事からやはり両教徒は対立を好まない。 信徒こそ少ないが、知恵と知識と探究の神である学神ウォムは、ロウフォとコヨに癒しの知識を与えたため、両教徒からも親しまれている。 それだけの神々がいると無数の宗教が乱立し、一つの宗教で何十億という信徒を集めるのは不可能だと思われていた。 ヴァンは火酒の代わりに若干軽い酒を頼むと、何かに気づいたように弟子の背に声を掛けた。 「お前今、教祖が生まれた日を祝うと言ったか?」 「らしいですよ。俺はよく知りませんが」 「神が生まれた日ならわかるが、なぜ教祖なんだ?」 ボルは目当ての酒を探り当て、新しい酒杯になみなみとそそいで師の前に置いた。 「だから俺はよく知らないんですって。さっきのお客さんに聞きゃぁ良いでしょう。何か彼らの神様は人前に姿を現さないし、名前もあんまり口にしちゃいけないそうですぜ」 「姿を現さないし、名前も口に出来ないだと? それでどうやって信仰心を保つのだ?」 また湿った鐘の音が鳴り、扉が開く。酒場の熱気を押し込めるように、冷えた夜の外気が吹き込んできた。 「師匠のお仲間と同じ世界から来たみたいだし、お仲間に聞いても良いんじゃないですかね」 ボルはそう言うと、顎で扉を示した。振り返るまでもなく、入ってきたリックがヴァンの横に腰を下ろした。 「よう、邪魔するぜ。何か良い酒はないか?」 「いらっしゃい、うちのは全部良い酒ですよ。全部飲みますかい?」 「ハッ、ツケでいいなら飲んでやるよ」 軽口を叩く間にも酒はそそがれ、リックの前に置かれる。 ヴァンとリックは酒杯を打ち付け合うでもなく、顔の前で軽く掲げた乾杯を交わした。 「んで、何の話だ?」 「お前達の世界の宗教についてだ」 「ほう、どれだ? カトリックか、プロテスタントか、それともムスリムか、仏教か、ヒンドゥーか。お前さん炎剣だからゾロアスターか、それとも空飛ぶスパゲッティー・モンスター教か?」 「最後の二つが気になるが、それは別の機会にしよう。数十億と信徒がいるらしい宗教はどれだ?」 「スパゲッティ・モンスターはおすすめなんだがな」 リックは笑いながら酒で唇を湿らせた。 「億を越えてるのなら、キリスト教、イスラム教、ヒンドゥ教と、あとは仏教ぐらいか」 「メリー何とかという挨拶をするのはどれだ?」 「クリスマスか? それならキリスト教だな。一番でかくて、宗派も多いし、戦争にも強い」 リックは酒杯を傾けながら目でヴァンに先を促した。 「そこの神は人前に姿を現さず、名前も呼ぶなと言うらしいが、なぜそれで信仰が保たれているのかと思ってな」 酒杯から口を離したリックが皮肉っぽい笑みを浮かべる。 「それどころか明瞭に神様の仕業と分かるような奇跡も起こさないぜ。まあ人間なんてのは、自分の力や他人の力、下手すりゃ別の神様の力で起こした奇跡であっても、信じてる神様のおかげってありがたがるからな。気持ちはわかる。医者なんてやってりゃ、俺でさえ神様にすがりたくなる事もたまにはあるさ」 ヴァンのように戦場で育ったような環境ではないのだろうが、リックも決して安寧で裕福な環境で育ったわけではない。 暴力や差別、貧困などが常に隣り合わせだったのだろう。医者をやっていれば嫌でも死に立ち会うことも多い。医療を施したくとも薬や手術代が払えずに死んでいく者もいただろう。手を尽くしても助けられなかった者、助かって退院した次の日に物取りに刺されて死んだ者、そういった無力感を何度も味わってきた者特有の哀しさを、リックは持っていた。 「そういう意味では、ヴァンの世界の宗教とは意味合いが違うかもな。道を踏み外さないため、己を保つため、高めるため、守るため、そしてすがるため。直接神に手を貸して欲しいってのじゃなくて、自分を律するために宗教を求めるのかも知れん」 そう言ってからリックはまた皮肉っぽい笑みを浮かべた。 「まあ本気で信じてる奴も多いがな」 自分がどうだとは口にしない。 「で、信じてる奴同士でもまた争うわけさ。まったく、神も止めろってんだ」 それはヴァンの世界でも同じ事だった。神々が人間に干渉する事の多いヴァンの世界でも、直接神々が争いを止めることは皆無ではないにせよ、それに近いほど少ない。 「三大宗教の中でも、しょっちゅう喧嘩してる二つなんぞ信じてる神様は同じなのに争っているからな」 心なしかリックの酒杯の減りがいつもより早い。 「……神様が姿を見せず、言葉もかけず、名前さえ呼ばれることを好まず、積極的に存在を示そうともしない、か。だからこそ人間の欲が絡み、欲が絡めば嫉妬や恨みが絡んでほどけなくなる……」 また一口酒を飲んでから、リックはぽつりと「治す方の身にもなれってんだ」と毒を吐いた。 「儂らが神が何を考えているのかわからんように、神もまた儂らが何を考えているのかわからんのかも知れんな」 ヴァンが己なりの傍観の理由を口に浮かべて酒で流し込む。リックは「かもな」と苦笑してから、気分を切り替えるように酒を一気にあおって酒杯をからにした。ボルが別の酒を入れてやる。ヴァンはその酒瓶から、悪酔いしにくく酒精の低いものだと悟ったが、特に何も言わなかった。 「しかしヴァンの口からメリークリスマスなんて、そんな季節外れな挨拶が出るとは思わなかったな」 「季節外れなのか?」 「ああ、あれは十二月、お前の世界で言う終狼の月だっけか? あれの二十五日に祝うんだ。まだ今二月だぜ? 先月に新年祝ったばかりだから気が早いにもほどがあらぁ」 言われてみれば確かにそうだった。 ついひと月前、遺跡探索を始めて三十一日目に小雨やリック、服部周などが新年を祝っていた。 そこでヴァンはかつてのボルがこぼしていた愚痴を思い出した。 「そうか、時間のずれか」 「でしょうね」 ボルを孤島に送り込んだ際、ヴァンはあまりに戻ってくるのが遅いボルに近況を問う手紙を送った。そこで明らかになったのは、孤島の中と外では時間の流れ方にずれがあるという事だった。様々な世界と繋がっているからこその奇妙な現象だ。 「どういうこった?」 「リック、小雨や服部の時計も同じ進み方をしているか?」 「ああ、アマネは携帯の電池が切れたらしいからわからんな。小雨と俺は同じだ」 リックが表情で問い返してくる。 「このボルが居た孤島もそうだったが、どうやら孤島の中と外では時間の流れが違うらしい。だからボルにその挨拶を教えた奴らはリックよりも十ヶ月遅れてこの島に来たのか、それとも十ヶ月後の世界から来たのかだな」 酒杯を唇に当てたまま何かを頭の中で組み立てていたらしく、リックはすぐに理解したように頷いた。 「なるほどな。確かに俺と同じ世界の何百年か前から来たとしか思えない奴や、未来から来たんじゃないかと思える奴もたまに見かける。それを考えると時間の流れが違うというよりも、時間の壁ってぇか断層みたいなのがあるのかも知れねぇな。いや、これも少し感覚が違うか。すべての世界、すべての時間から、今この時のこの島ってピンポイントで飛んでくるんだな。船に乗ってくるしか無いわけだが、船がどのタイミングでこのポイントに飛ぶのかも興味深いな。俺が医者じゃなくて学者なら、一生この島に住んで研究したくなるだろうな」 ヴァンも決して頭が悪いわけではないが、リックのように勉強して医学を修めた者と比較するとどうしてもついて行きにくい所がある。ボルに到っては随分早い段階で理解を諦めたらしく、黙ってグラスを磨いていた。 「それはつまり……」 ヴァンはさきほどのリックのように唇に酒杯を当てたままで言葉を選び、リックとは違って酒杯を傾けて咽を潤してから続けた。 「例えば儂の先祖や、成長した未来の弟子などがこの島に来ている可能性もあるという事か?」 「だと思うぜ。ただ、多分似て非なる世界から来てる可能性もある。パラレルワールドってわか――るわけねえわな。平行世界とか並行宇宙とか言われるんだがな」 「それならばわかる」 ヴァンがあっさり頷いたのはリックにとって大いなる予想外だった。 「簡単に言えば、儂がボルと初めて会った時に儂はボルを斬らなかった。しかし斬り捨てた未来も可能性としてはあっただろう。その斬り捨てた、黒双剣のボルテクスが存在しない世界がそうだろう?」 これには例で挙げられたボル自身も驚いていた。 「なんで師匠のくせにそんな哲学者みたいな事言ってんだよ気持ち悪い」 「まったくだ、お前さんどこでそんな知識を」 「……儂の悪友には賢者を名乗る爺さまがいるのでな」 二人の反応に少々気を悪くしたのか、ヴァンは幾分硬い声色で言った。リックはまだ驚いた様子だった。 「いや、それで正解なんだが、そういう平行世界から来ているらしい奴もこの島にいるんだわ」 リックがそれを確信したのは、母国とかつて争った東の大国、その大統領とそっくりな男がこの島を歩いていたからだった。 「ならば……」とヴァンは口を開きかけたが、子供じみた願望だと思い直して口をつぐんだ。 ならば、流行病で命を落とさなかった世界の、宿敵にして道標、双剣将軍アズラスがいる可能性もあるのではないか、などと口に出すのはとんでもない事だった。 「未練だな、やめよう」 「……ま、酒を飲む口実が出来たってだけでいいわな」 リックも何か思うところがあったのか、そんな軽口を叩いた。ヴァンもにやりと笑って同意する。 「まったくだ、ではメリークリスマス」 「おう、メリークリスマス」 今度は、酒杯を打ち付けて乾杯をした。 |
71日目4760文字 |
カランと乾いた音が鳴り、酒場の扉が開かれる。 開店準備のこの時間に入ってくる客は一人しかいなかった。 「お帰りなさい師匠、今回はどうでした?」 店主が無精髭の生えた口周りを吊り上げて笑いかける。ヴァンはいつものようにカウンター席に座ると、僅かに肩をすくめてまあまあだと答えた。 「どうしました、何か疲れてるように見えますが」 師が来たら出してやろうと用意していた酒を酒杯に注ぎ、静かに置く。ヴァンはそれを軽く掲げて謝意を示すと、一口飲んでから深く息を吐き出した。 「少し忙しくてな」 「ほう、あれですかい、またあそこの地底湖さんで?」 半ば街のような様相になっている遺跡外にあって、探索に行く者のほとんどが訪れる場所が地底湖だった。遺跡の入り口である魔法陣以外では、ここまでの利用率を誇る場所は他に無いと言って良いだろう。 ヴァンが独自におこなっている物質を合成して別の物へと変化させる錬金術の調査も、利用者は多いだろうが、そちらは様々な所に資料を置いて自由に閲覧出来るようにしているため、特定の場所に集うというわけではない。 「人数が多いのでな、取引にも時間が掛かって仕方がないわ」 地底湖に出来た街、地底湖一番街と呼ばれるそれは、遺跡外に常駐して物を作り続ける職人が中心になって築き上げたという。 様々な商品が並び、品々の販売から職人の斡旋まで手広くおこなわれている。 ヴァンたちも遺跡から出てきた時には、そこで戦利品を売りさばいたり、職人の派遣をし、逆に自分たちが求めている品々や職人を募集するという事をしている。 「今回は何人ほどなんです?」 杯のふちを持って手首でくるくると回しながら、ヴァンは少し考えて「十六人かな」と答えた。 「ただし、取引の代表者だけでな」 付け加えられた言葉にボルの表情が一瞬だけ固まった。 「でも前よりは少なくないですか?」 「それでも取引に関わる人数は充分に多いさ。三十人は越えたのではないかな」 肩が凝ったというように首を左右に倒してヴァンが苦笑した。 「地底湖を通さない取引を合わせるともっと多いかもしれん」 「疲れましたか」 「ああ」 そう答えながらもヴァンの顔はどこか晴れやかだった。 「その割りには、ちょっと楽しそうじゃないですか」 「充足感はあるさ、儂らの歩んできた道のりが間違ってはいなかったのだという達成感も若干な」 酒を飲み干して一息つくと、ヴァンは己の言葉を確かめるように二度頷いた。 「それでも疲れるのは歳ですかね?」 弟子の軽口に苦笑で返す。 「歳なのは認めるが、何よりも慣れん事をしている気疲れさ」 「交渉や取引が上手けりゃ、何も傭兵なんか続ける必要もないですもんね。商人してた方が安全だ」 ボルは笑って見せたが、そのような単純な問題ではないというのはわかっている。自分もそうであるように、師も金や他に出来ることがないという理由で傭兵をやっているわけではない。 「で、収穫はあったんですかい?」 少し思考が横道に逸れかけたため、話題を元の道へ戻す。 「理想には届かんが、儂らの理想は高すぎるのでな。充分どころか過分な程度には収益が出たのではないかな」 ヴァンが話している途中にカランと乾いた音が鳴った。 「充分と過分の中間、ちょっと充分よりって所じゃないか?」 そう言いながら、褐色の肌を持つ中年男が店に入ってきた。ヴァンの僚友の一人である、フェリックス・ベルンシュタインだった。 「まだ開店準備中か? まあいいや、一緒に飲ませろよ」などと言ってヴァンの横に座り、酒を要求する。ボルも特に注意をするでもなく、ヴァンとリックに同じ酒を出してやった。 「どうした、買い物は済んだのか?」 「あらかた。さっきディーネとアゼルの双子を見かけたんで、そろそろ皆も準備が整ってきたかもな」 「お、師匠たちもう出発ですか、いつもよりちょっと早くないですか?」 「おう、ちょっと冒険しようと思ってな」 酒杯に口を付けたばかりのヴァンに変わってリックが答える。 「冒険ってぇと、守護者に挑むとかですか?」 「いや、居場所の分かってる守護者はもう全部倒しちまった」 「んじゃ、念願の地下三階?」 「いや、行きたかったんだけど、な?」 口内を潤したヴァンに同意を求める。 「黒い翼というのを聞いたことはあるか?」 酒杯を置いて店主に問う。酒場をやっていると様々な情報が集まってくるものである。ボルも少し考えていたが、やはり知っていたらしく頷いた。 「ウナギとかウツボの化け物みたいな奴ですよね? 結構な数が棲息してるとかなんとか」 「ウツボの化け物たぁ、言い得て妙だな」などとリックが笑う。 ヴァンは見たことが無いが、ボルやリックは黒い翼を持つ者の絵を見たことがあったらしい。 「ひょっとして師匠らあそこに行くんですか?」 驚いた様子で地図を取り出す。遺跡外に戻ってきた各員の情報を集めて作られた地図だ。遺跡の探索に赴かない者でも手に入れられるように何枚も刷られている。彩色で大量に印刷するというのは、ヴァンやボルの住む世界では未知の技術なのだが、それはまた別の話である。彼らも最初は驚いたが、既に慣れていた。 「ここの道からですよね、確か隠し通路がここにあって……」 指が地図をなぞる。森の絵を突っ切って、魔法陣の印で止まった。 「ここが魔法陣、でも黒い翼の話が出たって事は、まさかここで出ないんですか?」 ヴァンたちは女子供の多い一行なので、あまり無理をせずに全員が体調の良いうちに探索を切り上げるという行程が多かった。ボルもそれを見越して、師が遺跡に潜って五日もすると師のための酒を用意するのが習慣となっている。 ボルが指さした魔法陣は、距離的に言えば二日半で踏破できる距離である。問題はその道の険しさだった。 「ここの森はかなり深いと聞きますよ?」 「無論知っている」 地図には三段階に分けられた危険度で、最も高い三の数字が書かれていた。 ヴァン達も地下一階でこそ同じ危険度三を持つ山に踏み込んだことがあったが、地下一階と地下二階では脅威の差は段違いである。森三に踏み込むこと自体が初めてであり、尚かつ地下二階で危険度三地帯に踏み込むことも初めてであった。 どうしても大人数だと戦力にも片寄りが出るし、苦手とするような相手がはっきりと分かれてしまって、相性次第では惨敗と帰す可能性も高い。 「大丈夫なんですか?」 そう聞いたのは師の腕前に不安があるという意味ではない。大所帯だとどうしてもどこかが苦戦をすれば、残る小隊もそちらに合わせなければいけない。難関な地形を進むには歩調を合わせるうちに探索日数が伸びていくという事もあるのだ。 「さてな」 曖昧な返事がボルの不安を掻き立てる。 「ここで出ないんでしょ?」 二日半の魔法陣を指さす。 「出んな」 ボルは地図の上で指を走らせながら口内でぶつぶつと距離と日数を計算している。しばらく指を走らせた所にあった魔法陣で指を止めた。 「で、ここで出るつもりですか?」 ヴァンとリックが地図を覗き込み、「ここだな」、「そうだな」と異口同音に頷いた。 「んな無茶な、ここいらの敵はかなりのもんだって聞きますぜ? それに加えて、黒い翼のウツボが群れで棲息してるってのに、大所帯で十日も潜るつもりですか!?」 「十日も潜らんよ」 「流石にそりゃ潜ってられねえわな」 ヴァンとリックの反応にボルが固まる。 「あんたら……」地図の上に置いた指がわなわなと震え始めた。 「まさか休み無しの強行軍か!?」 「今の所はその予定だな」 「ま、敵の強さと消耗具合からフレキシブルに旅程変更はするけどな」 「馬鹿か!?」 そう咄嗟に返してから、師に対して失礼であったと気づいたらしい。 「っと、すみません、馬鹿ですか?」 動揺は収まっていなかったようだった。 「使える技にも限りがあるし、食料も大量に買い込まなければいけない。そして戦いのほぼ全てが未知の強敵と来た。これは確かに馬鹿と言われても仕方がないが……」 ヴァンは酒杯を傾けてから、ニヤリと笑って言葉を続けた。 「楽しそうではないか?」 ボルにはそれを否定することができなかった。何故なら彼もまた、かつての孤島で未知の強敵と何度も戦い、仲間と共に切り抜けてきたからだ。当時誰も為し得なかった非戦闘員を連れての光陰の孤島への進出、二十名近い光と闇の宝玉の守護者たちとの戦い、二番手と遅れを取ったが全ての宝玉を揃えた達成感、その全てが経験として今のボルを形作っている。 孤島での激戦で成長し、その結果として師ヴァンドルフより念願の黒双剣を与えられた。今があるのは当時の無茶のおかげだという意識が確かにあった。そして何よりも当時のボルは、その無茶が楽しかったのである。 「……認めますよ、確かに楽しそうだ。師匠、アンタなんて活き活きとしたツラしてやがるんですか」 「お、そうか、儂はそんなに良い表情か」 歴戦の傭兵の不敵さと、少年のような純粋さが入り交じった笑みを浮かべたまま、ヴァンは酒杯を傾けた。 「久しいのだ」 空になった酒杯を置いてぽつりと呟く。 「しばし続いていた弱輩との戦い、リアやディーネ、アゼルの成長が著しいのもあるが、どうにも楽な戦いが多くてな。心根が熱くなるほどの戦いに恵まれないと思っておったのだ」 「おお、さすが歴戦の傭兵さんは言うことが違うな。俺なんかは自分の手当で嬢ちゃんたちの回復が間に合うのか心配だってのに」 「茶化すなリック、お前も自分の力がどこまで通じるか興味があるのだろう?」 四十男が二人して不敵な笑みを浮かべる。 二人とも決して戦闘狂ではないが、己の鍛錬の結果を知りたい、己の限界を知りたいというのはボルにもわかる欲求であった。 「そんなわけで、儂らは多少強行軍になるが、黒い翼を薙ぎ払う」 「そしてディノとティルダとか言う悪の騎士団をぶっ倒す」 「彼奴らにはどうにも悪い噂を聞くのでな、成敗してくれよう」 「期待してるぜ孤狼の旦那」 二人の様子を見ながら、ボルは若干「自分も遺跡の探索に加われば良かったかな」と羨む気持ちが芽生えたのを自覚した。 「さて、ではそろそろ行くか」 「まずはトライアドチェインの旦那方に追いつくってな目標を掲げるか」 「三合鎖か、十日以上も先行する相手だな。ふむ、追いついて共闘なども面白そうだ、目標は高い方が目指す甲斐があるな、そうしよう」 そう言って二人の中年男が立ち上がる。ボルはかねてより包んであった紙袋を取り出すと、師の前に置いた。 「餞別です。まさかそんな長い日程になるなんて思ってなかったんで足りませんがね」 言いながら後ろの酒棚から数本の酒瓶を見繕う。 「今までにない長期探索、今まで挑んだことのない危険度の高い行程、未知の強敵の群れ、まったくアンタと来たら、まだ挑戦者であることを楽しむんですか」 「無論。命尽きるまで挑戦し続けるからこそ、高みを目指せる、前に進めるのだ」 「それでこそ俺の師匠だな、御武運を」 紙袋の横に四本の酒瓶を置いて、ボルは嬉しそうに笑った。 「行ってくる」 ヴァンも笑顔で紙袋と酒瓶を受け取ると、軽く手を挙げて新たな探索へと旅立った。 |
77日目4558文字 |
-Scent of Brine- 波止場に腰を下ろし、ヴァンは海を眺めた。 この向こうに孤島がある。かつて挑み、満足のいく成果を残せなかった島がある。若き日に挑んだ島とは別の孤島だと理解しているが、それでも過日の鬱積を晴らせる機会ではあるだろう。 ふと視線を感じて肩越しに振り返ると、彼を見ていた数人の男が視線を逸らした。海風に消されがちだが、僅かにその声が聞こえてくる。 (人違いか) そういった言葉を耳に捉えた。曰く、確かに双剣で額に傷はあるが、髪の色が違うと。 「ひょっとして、初代の方の黒双剣じゃないのか?」 その言葉が妙にはっきり聞こえた。黒双剣のヴァンドルフ、十年以上も前に名乗った二つ名だった。数年前に高弟ボルテクスに黒双剣を譲ってからは、彼がその名を受け継いでいる。 「って事ぁ、あのおっさんが暁の剣聖か!?」 「なんだそれは!」 ヴァンは思わず声を上げて立ち上がっていた。 先日より一部の者から暁の鬼神と呼ばれているのは知っていた。五百騎の侵略者の夜襲に対して百人の傭兵部隊を率いて防戦を行い、全身を傷だらけにしながらもただ一人明け方まで生き残った事があったからだ。本隊から奇襲失敗とみなされて撤退していく敵兵が、暁の陽光を背に浴びながら血まみれで立ち尽くすヴァンに鬼神を見たと話したのが切っ掛けだと聞く。 実際のヴァンは鬼神でも何でもなく、ただ後一撃でも受けたら倒れる程度の体力しか残っておらず、失いすぎた血に朦朧としながら気力だけで立って、去りゆく相手を睨み付けていただけに過ぎない。 だがその逸話と新たな二つ名が過大に広まり、またヴァンを雇っていた国が失策で奇襲を許したのを取りつくろうために、英雄に仕立て上げたおかげで、噂の伝播が加速してしまった。かつてから縁を結んでいた隣国の王に招かれたのもそのせいだ。 ヴァンがこうして孤島へ行くための船を待っているのも、王宮での客人暮らしで己が腐っていくと自覚したからだった。 親も知らず、育った街と孤児仲間も戦火に奪われ、親代わりの傭兵も戦場で散り、好敵手と定めた双剣将軍は病に倒れた。彼の人生は喪失と無力感の連続だった。それが高名な傭兵として王宮暮らしなど、耐え難い苦痛だった。そこを到達点とする野心家は多いが、ヴァンにはその気持ちを理解することは出来ても共感はできなかった。そこにいては、己を磨くことが出来ない、先に進めない、そう感じるばかりなのだ。 「鬼神と呼ばれた事はあっても、剣聖などという気色の悪い名で呼ばれた事はないぞ」 そもそも過分な名で呼ばれること自体が気に食わない。 「噂です、噂、アンタが聖騎士様になるって話が傭兵どもの間で持ちきりなんでさ」 宮廷でも耳にした噂だった。ヴァンの知る老傭兵に言わせてみればただの名誉勲章だが、その名誉を世界最高の名声と羨む王侯貴族は数知れない。 「あくまでも噂だろう。で、その剣聖とやらはなんだ」 「いやアンタが聖騎士になったらそういう二つ名を授けられるって噂が」 「また噂か……」 腐る自分を自覚し、未熟な自分を痛感し、このままではいけないと鍛え直すために孤島へ向かうというのに、周囲の状況はヴァンを「その位置でお前が行ける高みは終点だ」と押しとどめようとしているように感じた。まったくもって不快な気分だった。 † 潮風を帆に受けながら船は軽快に進む。孤島へ向かう船は、ヴァンが思っていたよりも遙かに大きな船だった。 ヴァンは甲板で海を眺めながらも周囲への警戒を怠らなかった。港での話を聞く限り、意図せぬ所でヴァンの名が上がっている。そしてこれから向かう孤島は、一歩足を踏み入れたその瞬間から、老若男女を問わず一定の戦闘能力にまで身体や経験が制限されてしまう不思議な島だ。だからこそ鍛え直す最良の場として選んだのだが、ヴァンを倒せば名が上がると考えた刺客が船に同乗していないとも限らない。孤島についた時、もし先にヴァンが船から下りれば、力を制限された直後の彼を船上から攻撃して仕留める事も出来るだろう。今のうちに怪しい者がいないか気を配っておく必要があった。 一瞬、ヴァンへ意識が向いた気配があった。即座に気配は消えたがそれが逆に怪しい。さもヴァンなど意識してはいないといった調子で背後から足音が近づいてくる。ヴァンは海を眺める姿勢のままで剣に手を掛けた。 「やめた」 苦笑するような声には聞き覚えがあった。 「ボルか?」 振り返ると確かに高弟ボルテクスの姿があった。 「まったく師匠ときたら、ちょっと気配消しただけで警戒するんだもんなぁ」 傍目から見てもヴァンが警戒したことは気取られにくかったはずだ。それを見抜いたのはヴァンと接する事の多かった弟子というだけでなく、ボル自身の技量の高さを物語っている。彼はかつて孤島で百日近く生き延び、宝玉をすべて揃えるというヴァンにもできなかった事をやってのけた。それ故に彼は高弟の証でもある黒双剣を与えられ、二代目の黒双剣の二つ名を名乗っているのだ。 「どうしてここに? 招待状は届いたが島にはいかんと言ってなかったか」 「探索はしませんがね。何となく気になったもんで来ちゃいました。安全そうな所でもありゃ、そこで酒場でも開きますよ。酒も持ってきてますしね」 まだ若いのにボルは既に傭兵を半ば引退し、後進の育成に力を入れている。英雄の故郷という酒場がそれだった。様々な情報を若者に提供し、生きていくため、状況を切り開くための基礎を作る。その若者がいつしか英雄となった時、その原点、故郷として誇れる店であれというのが名の由来だそうだ。 「まあ邪険にしないで下さいよ。招待状を送ってきた榊って野郎と直接会った事のある奴は、今回の孤島にゃ恐らく少ない。俺は良い情報源になれるかも知れませんぜ?」 「そうだな、それに今回の孤島はかつてのそれとは随分毛色が違うらしい」 ヴァンは甲板で歓談する男達を指さした。どこからどう見ても裕福な商人と、貴族の坊ちゃんといった風体だ。 「あの男に先程聞いたが、今回の島には遺跡が一つしかないそうだ」 二十年近く前のヴァンが行った孤島にも、ボルが行った孤島にも複数の遺跡があった。遺跡に辿り着くまでにも長い道のりが必要で、遺跡の入り口を守る守護者までいたのだ。 「しかも、遺跡の外では怪物も出ないので、遺跡の周囲には店が軒を連ねて街のようになっているそうだ」 「なんだそりゃ、まったく別物じゃねえか」 「あの商人は異世界からの来訪者相手に商売をしに来たらしい。あっちの坊ちゃんは見物だな」 孤島はどうやら様々な世界が交差する場所のようで、この船も恐らく進んでいるうちに世界を越えて孤島に着くのだろう。そんな噂を聞きつければ、物見高い人々も集まるはずだ。 「それでこんなにデカイ船と大量の荷物ってわけか……榊の野郎、何考えてやがる」 「己を鍛え直すだけではなく、榊とやらの目論見を見定めるという目標も出来てしまったな」 「昔から野郎は気に食わなかったんだ。必死で戦ってる俺らを高みから見下ろしてやがった。全ては盤上の駒で、自分はそれを使って遊んでいるとでも言いたげにな」 一人憤るボルの横で、ヴァンは船の行く先を睨んでいた。何か厭な気配が満ちているような気がした。 † 孤島の波止場から砂浜に足を向ける。ボルは積み込んだ酒や荷物を下ろすのに時間が掛かるとかで、しばらく時間を潰してきて欲しいと言ってきた。ヴァンとしては探索をするわけでもないボルを待つ必要はないが、邪険にして置いていく理由も特になかった。 砂浜を歩くと、二十年ほど前の孤島の同行者を思い出す。歩くトウモロコシという奇妙な生物が、よくこうした水辺で釣りをしていたのだ。聞けば、ボルが旅した孤島でも同じようなトウモロコシと同道したらしい。ひょっとすると、また今回もひょっこりと現れるかも知れない。そんなことを考えると、僅かに笑みが浮かぶ。 遠くに砂浜でたわむれる子供の姿が見える。どうやら子供もいるようだが、まさか観光ではあるまい。いくら遺跡外は平和という話でも、そこまで簡単に来れる島でもない。 子供の姿をしていても、しっかりとした冒険者という例はかつての孤島でも嫌と言うほど見た。彼らもそんな冒険者なのだと思いたい。 浜辺に立って海を眺めるヴァンの後ろからも軽快な足音と「ほら、姉さん早く」という声が聞こえる。無邪気なものだ、そう思ってからヴァンは声が意外に大人びている事に気付いた。 振り返ると、ヴァンよりも拳二つほど大きい長身の女性が走って来ていた。褐色の肌は日焼けというわけではなく地だろう。どうみても大人である。 そんな彼女は誰かに呼び掛けながら後ろ向きに走ってくる。実に危なっかしい、そう思った時には足が絡んでいた。 短い悲鳴と共に倒れそうになった彼女を後ろからそっと支える。 「ちゃんと前を見ないと危ないぞ」 「ごっ、ごめんなさい!」 弾かれたように勢いよく頭を下げてくる。ヴァンがすんでの所で頭突きのような謝罪をかわすと、彼女の背後からため息が聞こえた。 「リリィ、それじゃ頭突きよ。落ち着きなさい」 長い黒髪に白い肌、恐らくは姉さんと呼ばれていた人物だろうが、血縁があるようには見えない。義理の姉妹といった所だろうか。 「師匠、お待たせしました!」 足早に近づいてくるボルの足が止まる。 「げっ、エマさん!?」 黒髪の女性は醒めた目つきでボルを一瞥すると、「あら、ボルじゃないの。老けたわね」と何でもないように言った。 「エマというと、ボルと共に宝玉を集めたエマール・クラレンス殿か。失礼、ボルの師でヴァンドルフという傭兵だ」 「ヴァンドルフ?」 今度はボルの後ろを通り過ぎようとしていた赤毛の少女が足を止めた。 「ひょっとして貴方、以前にも孤島に来たことはありませんでしたか?」 「ああ、随分昔になるが」 「やっぱり! その節は弟がお世話になりました。ホークの姉でルヴァリアと申します」 天使のような笑みを浮かべる少女に、ヴァンは二十年前の同行者を思い出した。魔術士の一族だという少年ホークは確かに姉がいると言っていた。凄まじく恐ろしい、破壊神のような姉が。 「弟に聞いていたのとはお歳が違うようですが、恐らく世界が違うせいで時間にも歪みがあるのでしょう」 笑顔の少女に、ヴァンは若干の苦手意識を覚えながら「ああそうだな」とだけ頷いた。 その時、遠くではしゃいでた子供が驚いたような声を上げたので、一同はそちらを向いた。 「姉さんあれ見てよあれ、トウモロコシが紅茶飲んでるよ!」 「アゼル、人に向かって指を差すのは失礼でしょう!」 そんな会話に反応したのはエマとヴァンだった。 「赤毛で双子でアゼル?」 「トウモロコシが紅茶を飲んでいる?」 反応した理由は違えども、二人にはそれぞれ相手の心当たりがあった。 エマは、以前孤島を旅した際の仲間が、ディーネとアゼルという名の赤毛の双子を引き取って育てていると話していた事を。そしてヴァンは、孤島に来るたびに微妙に姿を変えて現れる、歩くトウモロコシの事を。 エマはヴァンに向き直って肩をすくめて見せた。 「仲間探しの手間は、どうやら省けたみたいね」 「ああ、そうだな。よろしく頼む」 そう言ってヴァンはエマールに手を差し伸べた。何故かリリィが握手に応え、一行は新たな探索の仲間となったのだった。 |