34日目4922文字 |
『セグラッツとの邂逅 1』 見渡す限りのかがり火に照らされた夜のすそ野に雪が降る。しんしんと、しんしんと、静かに雪が降り続ける。 兵士達は寒さに震え、身を寄せながら遅い夕食を取っていた。夕食といっても粗末なものである。細く食べ応えのない芋や、成長途上で抜いてきたような人参といった根菜ばかりの入った味の薄いスープと、硬くなった不味いパンだけである。気温の低下と共に士気も下げていく兵士達だったが、時折にぎやかな声が聞こえていた。傭兵達である。 薄いスープを口髭につけたまま、壮年の兵士が恨めしそうに傭兵を睨む。なぜ奴らはあんなにも元気なんだと呟く。仲間が返す、不味い物を食い慣れて、野原で寝るのにも慣れてるからだと。そうやって見下すことで、己の不遇から目をそらす。彼らは知らない、傭兵達の食べている物と自分達の食べている物が全然違うという事を。一部の慣れた兵士は薄々感づいてはいるだろうが、あえて気付かない振りをした。口に出せば自分も周囲もみじめになるからだ。また、傭兵達の笑い声が響いた。 ヴァンドルフ・デュッセルライトは懐からナイフを取り出すと、慣れた手つきで狼の腹をさいた。傭兵仲間から孤狼と呼び親しまれるため、狼を狩ったり喰ったりというのは若干の抵抗がある。だが一方的な親近感などを狼が感じてくれるはずがない。闇にまぎれてあちらから狩ってくる前に、進軍の合間を縫ってこちらから狩った方が後顧の憂いを断てて、なおかつ不足していた栄養と腹を満たしてくれる。 「肉は全員に行き渡っているか?」 顔を上げて一同を見回す。笑顔で応じる面々は皆ヴァンの部下である。ティモン王国ヨークリ侯騎士団デュッセルライト傭兵隊長、それが今の彼の身分だった。 ディミリ・ヨークリ侯爵率いる騎士団とその領民からなる正規兵は東の隣国の侵略に対する反攻作戦を命じられていた。隣国に面していたフォルト侯爵領は既に落ち、隣国は山脈の隙間であるフォルト侯爵領、ヨークリ侯爵領、クィト伯爵領の境界へと軍を薦めていた。山脈が邪魔で思うようにフォルト侯爵領へ援軍を送れなかったのがフォルト侯敗北に繋がっていたが、今となってはその山脈が盾として敵の行軍を遅らせていた。 ティモン王国は大公領と公爵領が一つずつと、二つの侯爵領、三つの伯爵領からなる王国である。現在の王はまだ若く心優しいが気弱で、大公に退いた先王の影響をはね除けられないでいる。関係が悪化していた隣国との外交も、一歩引こうとしたところで先王から物言いがついて強攻策になってしまった。その結果が隣国の侵攻、戦争である。 ヴァンにしてみれば戦争が起これば食いはぐれないので困るわけではないのだが、流石に先王から直々に呼びつけられては迷惑千万であった。 老いた先王はかつて豪腕で知られた。逸話の多くは政治的な意味合いだったが、文字通りの豪腕さを物語る逸話も少なくない。その一つに、名の売れ始めた双剣の傭兵ヴァンドルフ・デュッセルライトを呼びつけ、雇う前の試験と称して決闘を申し込んだというものがあった。 ヴァンも一国の王を相手に無茶をするつもりではなかったのだが、四方八方から弓で狙われた状態で、ヴァンが負ければ容赦なく射殺すなどと無茶苦茶な事を言われては迂闊に手も抜けなかった。王は全身を板金鎧で包むという、いかにも王侯らしい出で立ちで現れた。これならば深手を負わすこと無く勝てると安堵したのだが王は愛馬には騎乗せず、動きにくい板金鎧のままで大剣を構えて襲いかかってきた。その身のこなしは、所詮は王侯の戯れと笑うにはあまりにも研ぎ澄まされていた。軟弱な貴族では身動きさえとれないであろう重量の全身鎧をものともせず、一気に間合いを詰めるその筋力と体力には目を見張るものがあった。結果、ヴァンは勝つには勝ったが王を無傷で諦めさせるということには失敗してしまった。 この時のことを思い出すと、ヴァンは今でも頭を抱えてため息をつきたくなる。 手傷を負った王は、これでは日課だった息子への訓練が出来ぬと嘆き、若かったヴァンは責任を感じてでは自分がと買って出てしまったのだ。それから毎日気弱な王子相手に剣を教え、何かと理由を付けては見物に来る騎士たちにも手ほどきをし、気付けば騎士団の指南役のような立場になっていた。数の少ない騎士団や、領民からなる兵士達だけではいざという時に取れる選択肢が少ないと、それまでティモン王国には馴染みのなかった傭兵隊を雇い入れることを薦め、ヴァンのつてで信用できる傭兵との繋がりを持たせたりもした。よくよく考えれば全て王の計画通りだったのだろう。ヴァンがそれに気付いたのは王の傷の治りが普通よりも遅いなと考えた時だった。王を問い詰めようと決断した矢先に、ヴァンの決意を悟った王は傷が完治したと発表し先手を打った。詰問の機会を失ったヴァンは、王の方が一枚上手だったなと感じながら約束通りティモン王国を辞し、王も礼節を尽くして彼を見送った。 それから五年以上の時が過ぎ、気弱な青年が王になったと風の噂で聞いた時には、優しいから良い王になるだろうが、あの気弱さで外交が出来るのだろうかと心配になったものだ。そこに飛び込んできたのが隣国からの侵攻を受けているという噂と、王位を息子に譲ったはずの先王から届いた、手紙という名の召喚状だった。 これもまた、冷静に考えれば気弱な息子に情を移らせておけば、いざという時にヴァンを味方につけられると見越していたのだろう。だがヴァンがその目論みに気付いたところでとうに情は移ってしまっているし、実際に若き王が窮地に立たされているのは揺るがない。人によってはそんなことは知らんと割り切って無視もできるだろうが、ヴァンは知らんと口で言いながらも手を貸してしまう甘さがあった。そんな所も見抜いた上での計算だったのだろう。ヴァンは、なるほど確かに豪腕だと感嘆するばかりであった。先王は一枚どころか二枚も三枚も上手だったのだ。 ヴァンがティモン王国に到着すると、領内には既に見知った傭兵達が集まってきていた。先王からの手紙を持参して王城へ向かった彼に告げられたのは、つい三日前に王国七領のうちの一つが陥落したということと、直ちに傭兵を選別して部隊を作り、次の戦地であるヨークリ侯爵領に向かってくれということだった。 到着して二日でヴァンは傭兵隊を組織し終えた。これは彼の能力が優れているということではなく、かつて先王に渡した信頼できる傭兵の名簿に載せた面々が既に集められていたからだった。無論その名簿に載っていた人数だけでは傭兵隊を組織するには少ないし、名簿に載っていた傭兵が全員生きていたわけではない。本来ならばもっと難航しただろう。二日という短期間で済んだのは名簿に載っていた傭兵を雇う際に、その傭兵が信用できるという傭兵も聞き出して一緒に雇ったからである。また先王の発想かと思いきや、これは現在の王の発案だと聞いてヴァンは少しだけ安心した。 ヴァンが次の戦地となるヨークリ侯爵領についたのはそれから四日後のことだった。 フォルト侯爵領陥落から僅か九日、隣国がフォルト侯爵領の街々の占領や兵糧の確保に手間取っているうちに、デュッセルライト傭兵隊二百七十三名と、国王からの援軍二千二百余名が補給と共に到着した。その報はヨークリ侯爵領だけでなく、クィト伯爵領や、街々で抵抗を続けていたフォルト侯爵領の領民にも伝わった。双剣のヴァンドルフという名は数年前よりも更に凄味を増し、雷名となっていた。ヴァンが国王の援軍や補給を伴ってきたというのは、人々に勇気と希望を与えた。 ヴァンは到着早々ディミリ・ヨークリ侯爵が直々に出迎えたことからも、自分が異様に高く評価されていると違和感を覚えていたが、招かれた晩餐でその正体を理解した。 数年前に滞在していた頃から先王は少々誇張した客人の噂を国内に流し、彼が国を去ってからもその動向を国内や近隣諸国にまで伝わるよう、吟遊詩人を幾人も雇って広めていたらしかった。全てはこの時のための布石だったのだろう。先王に代わって気弱な王子が戴冠してからはこういった意図的な噂を流す事はなかった。しかし既に噂は広まっており、式典などに貴族や諸外国の有力者が集まった際には必ず新王に、剣の師であるヴァンの話を聞きたがるというのが通例になってしまった。そうして王の憧れと尊敬に満ちたヴァンの人物像や逸話を聞いた有力者達は、話の種として王から聞いた話よりも若干誇張したヴァンドルフの逸話を吹聴する。そんなことが繰り返されるうちに、ヴァン自身が聞いた事もないようなヴァンドルフ伝説が勝手に歩き出していったようだ。 ヨークリ侯も歩いていた伝説からヴァンを知った類の人物だった。自ら騎士団を率いる武人肌の貴族なので、噂に尾ひれが付いているとは解っていたようだが、それでもまだまだヴァンの知らないヴァンドルフ像を抱いているようだった。ヴァンからすれば鯨に飲まれた小魚が自分なのに、侯爵は鯨の尾を取り除いただけで大きな体だと褒められているような感覚に陥る。 しかし確実に味方の士気は上がっているし、領民達の表情にも生気が戻って来ている。聞くところによると、隣国にもこの誇大な噂が伝わっているらしく、敵軍の士気は下がっているという。こうなってくると、わざわざ「伝わっている話はほとんどが嘘だ」などと指摘するのは阿呆のすることだ。戦いを有利に進められるのならば、尾ひれに背びれをつけて巨大なエラでも何でも付けた無茶苦茶な噂も利用するに越した事はない。ヴァンは割り切って英雄ヴァンドルフを演じることにした。 ヨークリ侯騎士団の出陣が決まったのはヴァン達が着いてから三日後だった。 フォルト侯爵領の残党やクィト伯爵領の軍と歩調を合わせての作戦を取るというので、ようやくヴァンは自軍の戦力を教えられた。 ヨークリ侯騎士団が六百名強、正規兵が四千二百名ほど。この中から騎士四百五十名と正規兵二千九百名が出陣する。ここにヴァンの連れてきた国王の援軍二千二百名余りが加わり、デュッセルライト傭兵隊二百七十三名、ヴァン・リヒクト傭兵隊百五十名、バグストン傭兵隊百十一名、ルテバース傭兵隊三百八名、イングアイ傭兵隊四百八十余名が更に加わる。自分以外の傭兵が隊をなして参加しているのは気付いていたが、その隊長の名前はどれも聞き覚えのある猛者揃いであった。正規兵は補給路の確保や後方支援に千百名ほど回るため、実際に前線に送れる人数は騎士四百五十名、正規兵四千名、傭兵隊千三百五十名といった所である。フォルト侯の残党とクィト伯の軍を加えると、総数は一万を越えるだろう。大国同士の戦争のように七万や十万という馬鹿げた数ではないが、充分に大軍である。 今後も各領から援軍の予定がある。一度に多くの援軍を送り込むと近隣諸国が参戦してきた際に対応が出来なくなるため、それを回避する政治的な根回しに時間が掛かっているようだ。 隣国の軍勢は三万とも四万とも聞くので不利は否めないが、隣国が落としたフォルト侯爵領とこのヨークリ侯爵領やクィト伯爵領は長い山脈で遮られており、南西の三領の境界が重なる辺りに僅かばかりの平地が広がっているだけである。この狭い平地ぐらいしか大軍が通れる道はないため、数の不利を地の利で補う事が可能だった。 ヨークリ侯自らが指揮を執り三領の境界が重なる平野へ軍を動かして二日。既に視界には山脈が大きく広がっており、軍はそのすそ野沿いに南下を続けていた。 日が傾こうかという頃になってヨークリ侯は高級騎士や兵士長、傭兵隊長などを招集すると、集まった一同を見回して重々しく口を開いた。 「ここを越えようと思う」 指さされた地図には、山脈の端近くに赤い文字で「後悔の山」と書かれていた。騎士達が息を呑んだのが解った。 ――続 |
35日目4623文字 |
『セグラッツとの邂逅 2』 ヨークリ侯が指さした後悔の山にどういう意味が込められているのかヴァンは知らない。だが山脈の中でわざわざ一つだけ名前が書かれた山であるという事と、騎士や兵士ら地元民の様子が変わった事から、曰く付きの場所であるという事だけは推察できた。一同の様子を見ようと素早く視線を動かすと一人の男と目が合った。身なりからして傭兵だろう。三十前後の、短い金髪を刈り込んだ陽気そうな男だった。彼が軽く微笑んだのを切っ掛けに視線を外す。すぐに様子は把握できた。この国で生まれ育った騎士や兵士には一様に動揺が浮かんでいる。特に兵士長の数人は怯えを隠そうともしていない。対して傭兵たちは誰も心当たりがないのか、皆平然としていた。 「恐れながら侯爵閣下、後悔の山は」 身なりの良い年長の高級騎士が皆を代表してといった風に意見する。ヨークリ侯は彼の言葉を手で遮った。 「騎士団長の意見は聞かずとも解っている。他の皆もそうだろう。だがあえて私は後悔の山を進む。この作戦はクィト伯にも伝達済みだ。彼を通じてフォルト侯爵領で堪え忍んでいる勇士たちにも作戦は伝えた。最早譲る事はできん」 その言葉に兵士長の幾人かが怯えの色を深くする。ヨークリ侯はそんな彼らを認めると薄く笑った。 「諸君らの心配は承知している。何も全員で行軍するわけではないさ」 希望の色を浮かべる兵士長とは違い、騎士や傭兵たちは表情を曇らせた。今の言葉は部隊を分けるという意味だ。ただでさえ敵軍が三万とも四万とも言われているのに、こちらはヨークリ、クィト両軍と既に陥落したフォルト侯爵領の残党などを合わせて一万をようやく越える程度という数の不利を抱えている。それを分割するというのは余程の事が無い限りただの愚策である。 「軍を二手に分ける。片方はこのまま山脈のすそ野沿いに南下し、北上してくるクィト伯と合流したのちに敵軍と対峙。三領境界であるフォルト平地にて軍を展開後、攻め込んでくる敵をじわじわと平地中程まで誘い込んで貰う」 フォルト侯爵領と他領を南北に遮る山脈が途切れた僅かな平地を指さす。山脈のおかげで大軍や伏兵を一度に動かす事が難しいため、地の利を活かしてここで迎え撃つのが数の不利を覆す唯一の方法だろう。 侯爵の指がフォルト平地から山脈をなぞるように僅かに北へ動く。 「残る軍はこの後悔の山を越えてフォルト侯爵領へ入る。標高や主戦場からの距離を考えると、この山しかない。これを越えてフォルト侯の勇士たちと合流し、平地に誘い込まれた敵軍の背後を突く。挟撃作戦だ。敵軍の数が多いと言っても、地の利はこちらのものだ。他領からの援軍も既にこちらへ向かっている。我らに負けはない」 自信満々といった風に断言するヨークリ侯だったが、実際に援軍が既に動いているのかは彼自身も知らない。ヴァンはその嘘に気付いていたがあえて気付かない振りをした。 顎に手を当てて地図を見ていた騎士団長が顔を上げる。 「部隊を分けると仰いましたが、どのように分けるのです?」 「案ずるな、貴公らはクィト伯側だ。後悔の山を越えるのは私と傭兵部隊だ。貴公は残る全軍を率いてクィト伯に合流してくれ」 「無謀です、閣下一人で傭兵に混じるなどと!」 騎士団長は咄嗟に声を上げてから、傭兵隊長を見回して「失礼」と謝った。構わんさと鷹揚に答えたのは四百八十余名の傭兵隊を率いるイングアイという男だった。 「我ら傭兵を信用して頂けるのはありがたいが、騎士団長殿の仰るとおり無謀と言わざるをえないですね。確かにここにいる傭兵隊長の面々は皆私も聞き覚えのある戦士ばかり。ですがその部下全てがどうかと言われると、信用してくれとは言い難い。私の部下にしても全員が全員閣下の首に目が眩まないとは保証できませんな」 元は小国の領主の三男坊だったというイングアイは、傭兵隊として参戦することに慣れた男だった。傭兵隊を預かる事が初めてであるヴァンとは違い、部下の暴走を幾度も経験しているのかも知れない。 先王の時代にヴァンが作った信用できる傭兵の名簿。それに彼の名を書いた記憶はなかったが、今回の戦争では名簿に載った傭兵たちを雇う際に、その傭兵が信用できるという傭兵も雇ったという。恐らく彼もそうして雇われた一人だろう。ならばその実力は信用しても良い。 イングアイの言葉を受けた騎士団長は居並ぶ部下たちの顔を一人一人じっと見据えた。 「貴公らはヨークリ侯の騎士か?」 突然投げかけられた質問に、騎士たちは一瞬途惑ったが力強く頷いた。今度は兵士長たちに目をやると、彼らも深く頷いた。 「ならばヨークリ侯を御守りする事こそ我らが使命。閣下、部隊の振り分けのご再考を。私が後悔の山を越えます、閣下はクィト伯と合流なさいませ」 「ならん!」 騎士団長の決意を侯爵は一喝した。 「こちら側にはクィト伯という旗印があるが、フォルト侯爵領の軍にはそれがない。彼らは勇士だが敗残の記憶も新しい。フォルト侯亡き今、私が行って士気を上げずしてどうする!」 「デュッセルライト卿がいます!」 自信に満ちた騎士団長の声で皆の視線が一斉に目を丸くしているヴァンに向いた。 先王によって意図的に広められた誇張にもほどがあるヴァンの噂は、最早伝説と言って良いほどの大きさにまで膨らみきっている。 「確かに」 そう頷いたのはヨークリ侯や騎士ではなく、意外にも噂など信じていないであろう傭兵長の一人ヴァン・リヒクトだった。彼もイングアイと同じくヴァンが名簿に書き記した傭兵ではない。それでもヴァンは彼を知っていた。勇名も悪名もよく聞く男だったのだ。東の大陸から一族郎党を連れて渡ってきた没落貴族、強盗騎士のリヒクト卿。既に国元からは貴族と認められていないのに、祖国で貴族を意味するヴァンの文字をリヒクトの前に付けて名乗る男だ。 傭兵としては優秀なのだろうが悪行もお手の物らしく、彼の被害に遭った人はヴァンドルフ・デュッセルライトが愛称のヴァンで呼ばれるのを聞く度に表情がこわばる。それがヴァンにとっては迷惑な話なので、いつしかヴァン・リヒクトの名前を覚えてしまっていた。 「ヨークリ侯が行くよりも、伝説の傭兵ヴァンドルフと騎士団長が傭兵隊と騎士団を引き連れて現れた方が士気は上がるな」 「儂もリヒクト卿に同意だ。まだ負けを知らん領主殿の軍とクィト軍には、それぞれの領主を旗印とし、フォルト軍には歴戦の傭兵と騎士団長という力の象徴を示してやった方が良いだろう」 三百八名の傭兵部隊を率いる古つわもの、ルテバース傭兵隊長が若い傭兵の言葉を認めた。 ヨークリ侯は渋面を浮かべて目を閉じ、しばし悩んでからヴァンを見た。 「よかろう。では後悔の山にはデュッセルライト卿、バグストン殿、リヒクト卿の傭兵隊と、我が騎士団の精鋭を百五十、兵士隊を千名向かわせる。残りは――」 「多すぎますな」 遮ったのはイングアイ傭兵隊長だった。 「いや失敬。我々傭兵隊長は誰もその山を知らぬようですが、お国の方々を見るに随分過酷な山と見受けられる。デュッセルライトらの三隊合計で既に五百人を越える。そこに千百五十名では行軍速度が落ちすぎですな。山道ではこのように大きな陣を張ることも出来ず、情報の伝達も一苦労。もっと減らすべきです」 「イングアイ卿の言うとおりだな。フォルト平地での戦いは少しでも数が多い方が良い。騎士団長殿やデュッセルライト殿が山を越えるまでの間に、平地では戦いが始まってしまう。確かに少しでも数が多い方が良いですな」 多数の部下を率いた経験がこの場で一番豊富であろうルテバースがイングアイに続く。二人はヴァンのように個人で動く傭兵とは違い、常に己の傭兵部隊を率いて参戦する傭兵団の頭領である。それ故に彼らの言葉には説得力があった。 彼らの意見を皮切りに、高級騎士や兵士長たちが積極的に意見を言い始める。もはやヴァンが自分は承知していないと主張したところで聞き入れられる雰囲気ではなくなっていた。 「意見を纏める。後悔の山を越えるのはデュッセルライト、ヴァン・リヒクト、バグストンの各傭兵隊と、騎士団長率いる我が騎士団百名、勇壮なる兵士たち三百名の計九百名。クィト伯と合流して平地で敵軍を迎え撃つのは、私が率いる騎士たちと兵士たち、そしてイングアイ、ルテバースの両傭兵隊の計四千八百名強。これで良いな?」 ヨークリ侯の言葉に一同が頷く。ヴァンも諸手を挙げての賛成ではないが、断る理由も特になかった。 † 夜営の炎が揺れる。会議の後、軍を二分する前の最後の夜営が張られた。代わり映えのしない粗末な食事が兵士たちに配られるが、傭兵たちはそれを気にする様子がなかった。 「肉は全員に行き渡っているか?」 ヴァンは自分の傭兵隊を見回してみた。皆晴れやかな顔をして食事をしている。正規兵の面々は肉もない芋ばかりの食事を強いられているだろうが、規律のゆるい傭兵隊では休憩の間に狩りを行って肉を確保していた。ヴァンの隊が狩ったのは狼の群れだった。 彼の部下は三百人近くという大所帯なので、群れを狩っても一人が食べられる肉の量などたかが知れている。無いよりは華があるという程度だ。 「よう大将、そっちは狼かい」 そう言って近づいてきたのは会議で目が合った傭兵隊長、バグストンだった。手には木の器を持っている。 「こっちは兎と鳥だ。煮込んでスープにしてみたんでお裾分けだ。これから何日か一緒に旅するわけだからな。親睦の証だ、飲んでくれ」 言いながらヴァンの横に座って強引に木の器を渡してくる。鼻腔をくすぐる匂いに、なんとも言えぬ豊かさを感じた。 「なるほど、肉が少ない時はスープにしてしまった方が皆に行き渡るか」 手に取ったスープを一口飲むと、ヴァンの顔が僅かにほころんだ。 「バグストンだ、よろしくな大将」 笑顔で差し出された左手を、ヴァンは素直に握り替えした。 「ヴァンドルフ・デュッセルライトだ。格闘傭兵バグストンの名は聞いている」 徒手空拳で戦場を渡る珍しい傭兵だという噂の他に、彼の名を聞く時には陽気で誠実で正義感があるという噂もついてきた。先王に渡した信用できる傭兵の名簿にも記した記憶がある。 「んでだ、大将。単刀直入に聞くけどよ、あんたの噂ってどこまでが本当なんだ?」 「どこまで聞いているのだ?」 「一人で敵部隊三百人を蹴散らした」 「嘘だ」 途方もない馬鹿な噂だ。そんな法螺話が自分の名を伴って蔓延していると思うと頭が痛くなってくる。 「やっぱ嘘か。そりゃそうだろうな、あの魔人ジーン・スレイフでさえ一晩で百人斬ったってので伝説になってんだから」 「伝説の盗賊騎士か。本当に一夜で騎士百人を斬り捨てたのならば戦ってみたいものだがな」 スープで心を許したわけではないが、ヴァンはこのバグストンという男の真っ直ぐさが妙に心地よかった。 「ところで大将、あんたあの山に何があるか知ってるか?」 唐突に重要な話を切り出してくる。ヴァンは静かに首を振った。 「若い兵士を一人とっ捕まえて聞いてみたんだわ。伝説だってよ、伝説。あそこにゃ、この国で語り継がれてきた伝説が眠ってんだってよ」 「伝説?」 嫌な予感がヴァンの心を急速に引き締めさせる。 「……竜だよ」 生ぬるい風がぞわりと山肌を撫でた気がした。 ――続 |
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『セグラッツとの邂逅 3』 「竜……竜か」自然と声が小さくなるのは怯えているからではない。部下の傭兵に聞かれてはまずいからだ。 「この事は貴公の他に誰が知っている」 「貴公なんてむずがゆい、バグストンでいいぜ。名前は嫌いなんで苗字で頼む。知ってるのはこの国の奴らと俺らぐらいじゃないか?」 ひとまずは安心かとヴァンがため息をつきかけた所に、バグストンが「もっとも」と続ける。 「俺みたいに知ってそうな奴から聞き出してる可能性はあるな」 ヴァンは揺れる焚き火から視線を外すと、仮初めの部下である傭兵達を見回した。傭兵隊長同士の会話を邪魔しては不味いと気を遣ったのか、バグストンが来る前はヴァンの近くにいた傭兵も離れた所で仲間の輪に加わっていた。士気の乱れはまだ見えない。 「まだ大丈夫だろ。まあ徐々に噂は広がるかも知れないが、そこは何とか抑えるしかないさ。ヴァン・リヒクトの旦那の隊ならこんな心配はいらないんだろうな」 「逆だ」 楽観視する陽気なバグストンと違って、ヴァンは心底難しそうな顔をしていた。 「逆?」 「ヴァン・リヒクトのヴァンは東の大陸で使われる貴族の証。東の大陸と言えば何がある」 「すまん、東の大陸はドラグナイツ帝国とフィブ神聖帝国が数世紀も宗教戦争続けてるぐらいしか知らないんだわ。」 「宗教戦争の理由も知らんか?」 「それは聞いたことあるな。フィブは自分たちの皇帝が神だとか脳みそお天気な事ほざいて、ドラグナイツは神なんかより竜が偉いつって竜信仰してるもんだから――なる」 「そういう事だ。ドラグナイツは創世の伝説で始まりの鳥が最初に産んだのが竜で、神は二番目に産まれたという理由で竜を崇めている。国の成り立ちからして、竜と森の大陸だった所に竜の言葉を解する開祖が現れ、竜に人間の住む場所を荒らさないでくれと頼んだ所から始まっている。ヴァン・リヒクトの傭兵隊は郎党全てがドラグナイツから流れてきた騎士や傭兵。竜に臆する臆さないの問題ではなく、竜とは戦えないかも知れん」 眉間に皺を寄せてスープを口に運ぶ。いつの間にかスープは冷たくなっていた。 † 本隊と別れて行軍を開始して二日が経った。騎士団長率いる別働隊は後悔の山へと足を踏み入れていた。人数を絞ったとはいえ九百名の軍勢では歩みが遅い。砂と岩ばかりで、土や緑が少ないというのも歩みが遅くなる要因だろう。騎士団や傭兵隊長に与えられた軍馬や、荷物を運ぶ騾馬の蹄にも負担が掛かりやすく、乾いた空気が人間の疲弊も早めていた。 そんな山道を進むがごとくゆっくりと、だが着実に、後悔の山に竜が住むという伝説は傭兵たちにも広まっていた。 馬に乗りながら部隊の先頭に立つヴァンの元へ、ヴァン・リヒクト傭兵隊長がやって来たのは一時休息を知らせる早馬が去った直後だった。 「やあデュッセルライト、ご機嫌麗しゅう。元気かね?」 そう言って馬を寄せる笑顔は、身なりさえきちんとして無精髭も剃っていたならば確かに貴族の風格があっただろう。 「いや君の答えは聞く必要が無いんだ。興味がない。私が聞きたいのは一点だ。竜の話は本当か?」 「本当だ」 「いいね、即答か。実にいい。平民なのにヴァンを名乗るとは何事かなどと思っていたが気に入った。敬意を込めて君の事はヴァンドルフと呼ぼう」 どこに敬意が込められているのかは全くわからない。ヴァンは一瞬皮肉を言ってやろうかと考えて、自制した。傭兵隊長同士が険悪になるとその部下も険悪になる。これから戦場で背中を合わせるというのに、それではいけない。 「バグストンは噂など知らないなどと言っていたが、彼は正直すぎる。雰囲気で嘘だと喋っていたよ」 「知っていて儂を試したのか」 「試されたのも知っていて答えたろ?」 意地が悪そうな笑顔に、ヴァンもまたにやりと笑って返した。 「貴公のような人物が儂に聞きに来るのは、何らかの確信がある時だ。それで? 竜信仰の国で生まれ育った貴公は、竜の伝説があると聞いてどうするつもりだ」 「別にどうもせんさ」 「何?」 意外な答えにヴァンは思わず問い返した。 「ドラグナイツで育ったからといって万人が竜をありがたがると思うな。ヴァンドルフ、私が何故傭兵なんぞに身をやつしているか知っているか?」 知らん、と答えながらヴァンは目の前の男を確かに貴族だと納得していた。ヴァンのように幼い頃から傭兵として生きて来た者を前にして吐ける台詞ではない。それも国王に招へいされ、領主の抱える騎士団長とほぼ同格で戦略会議にも参席でき、発言権まであるという破格の待遇で雇われているというのにである。 だが意外にもヴァンはこの男が嫌いではなかった。自尊心の高さは誇りと向上心の表れでもあると感じたのだ。何よりも、傭兵ごとき、傭兵なんぞと言われるのは既に数千回を数えている。怒るには余りにも日常化し過ぎた言葉だった。 「私の一族はな、竜を殺した一族だ」 その一言でヴァンは散っていた意識を集中させた。 「竜を崇め、竜と共に生きるドラグナイツの騎士なのにだ。帝国の外れにある王国の小領主がリヒクト家だ。小さいとは言え百年の歴史を持つ騎士の家柄で、かつては皇帝陛下を御守りする近衛騎士をも排出した名家だ」 遠い目をして遥か東の空を見る。 「私も帝都を訪れた際に、人語を解する竜と話した事もある。崇拝するに足る素晴らしい存在だとも思った。だがな」 下りた視線は、遠き日の栄光から泥にまみれた傭兵にそそがれた。 「人間に賢者もいれば下衆な賊がいるように、竜にも人語などまるで理解できず、同じ竜の言葉でさえろくに通じないような阿呆がいるのだ。そういう竜が、竜の法を守らずに好き勝手に巣を作り周囲を荒らす。しかしドラグナイツの法では、人間が竜を害せば死罪だ」 「それでは竜が暴れていても人間にはどうしようもないではないか。待っていても、戦っても、勝っても、待つのは死だけか?」 ヴァン・リヒクトは静かに首を振った。 「竜には竜の法がある。そういった竜は、知恵ある竜が裁きを下す。竜の強さの目安は簡単だ、一番下が阿呆な竜、その次が法を遵守する竜、その上が人語を理解する竜、その上は人語を理解して人と関わりを持てる竜、一番上が思念波で人と会話をする竜だ」 「始祖の竜に近いほど知能が高く、強いということか」 「そうだ。寿命と知力の高さ、膂力と魔力の強さが比例して上がるのだ。存在の強さと考えればいい。私の領地に現れた竜は存在としては弱いものだった。だが裁きを下す竜がやって来るまで我々は待てなかったのだ。好き勝手に暴れまわってくれたおかげで森は崩れ、川の流れは変わり、山道も潰された。開墾してきた農地まで潰されれば、領民たちは冬を越せん。ヴァンドルフ、お前はこの状況でいつ来るとも知れぬ裁きの竜を待てるか?」 待てるはずがない。それは小領主リヒクト家の立場ではなく、僅かな畑にしがみつくしかない農民の側の感覚だった。 「私は待たなかった。一族が築き上げた全てを崩されるわけにはいかん。だから私は槍を取った。一族と家臣を引き連れて愚かな竜を殺してやった。家臣たちも半分以上が死んだがな」 目を伏せるヴァン・リヒクトの姿は在りし日の名君を思わせた。だが、今の彼は強盗騎士と恐れられる傭兵隊長に過ぎない。 「その結果がこのざまだ。一族郎党全員処刑の所を、竜の恩情が頂けたおかげで爵位剥奪と一族郎党国外追放で済んだわけだ」 あえて聞かずともヴァンにはこの男がなぜ強盗騎士と呼ばれたのか理解できた。法に背き竜を殺すという決断に付き従った一族郎党を食わせるためには、強引な手段で稼ぐ事も必要だったのだろう。 「貴公がなぜ今でも貴族を名乗るのかは充分に理解できた。確かに今でも貴公は貴族だ」 リヒクト卿は「当たり前だ」と不敵に笑った。 † 更に半日が過ぎ、騎士団長率いる別働隊は開けた場所を見つけて夜営の準備をしていた。 中央に張られた天幕には騎士団長以下、二人の高級騎士と三人の兵士長、そしてヴァン、バグストン、リヒクト卿ら三人の傭兵隊長が顔を揃えていた。 炎に照らされた円卓には二枚の地図が広げられている。一枚はヨークリ侯爵領、クィト伯爵領、フォルト侯爵領の三領境界付近の詳細な地図。もう一枚はこの後悔の山らしき山道が記された地図だった。騎士団長が説明するには、ヨークリ侯の家に伝わる貴重な地図らしい。その中央付近を指さして、騎士団長が低い声を響かせる。 「現在地はこの辺りだろう。山頂まで一時間も掛からん。明日の昼には山頂を越えて下りの道となる。地図の端書きによると、登りよりも下りの方が道が広くなだらからしい。今頃侯爵閣下はクィト伯軍と合流しているはずだ。我らも明日からは行軍速度を速め、一刻も早くフォルト侯の勇士たちと合流するぞ」 一同が頷くのを確認して、騎士団長が「それでは」と散会を告げようとした時だった。 「竜だ! 竜が出たぞ!」と、天幕の外で悲鳴じみた怒号が飛んだ。 ヴァンはすぐさまバグストンとリヒクト卿に目配せをする。三人の傭兵隊長は一様に深く頷くと、凍りついた天幕から颯爽と出陣した。 残された騎士たちは呆然としながら、竜は伝説だけではなかったのかと呟いていた。 天幕から飛び出した傭兵隊長たちを認めて、傭兵たちが歓喜の声を上げる。その声が兵士たちに広がった動揺を鎮めかけたその時、甲高い鳴き声が響き渡った。 「バグストン、右前方、上だ!」 見上げた先には翼を羽ばたかせ、空から人間を見下ろす竜がいた。 「あれが伝説の竜様かい! なんだ、案外ちっちゃいじゃねえか、なあ皆!」 周囲の傭兵や兵士を鼓舞するようにバグストンが陽気に呼び掛ける。 リヒクト卿は部下からクロスボウを受け取ると飛竜に狙いを定め、大音声で周囲に叫び聞かせた。 「全員聞け! 私はドラグナイツ出身だ、今までに数百の竜を見た! 竜を殺して追放された騎士だ! ヴァン・リヒクトが断言しよう、あの程度、臆するに足らず。なぜなら奴は竜ではないからだ! 奴は飛竜、竜の下等種族! ただのでかいだけの獣である!」 ヴァンもバグストンも自信満々のていで立っているが、ヴァンは確かにバグストンが「え、竜じゃないの?」と呟いたのを耳に捉えていた。苦笑しかけたが、ヴァンもリヒクト卿の言葉が真実なのか方便なのかは解らなかった。 ヴァンは双剣を抜くと、リヒクト卿に続いて味方を鼓舞した。 「矢をつがえろ戦士たちよ! 我が名は双剣のヴァンドルフ、三頭の竜を倒した傭兵! 我ら三人、全て竜を屠った猛者! あれは竜にあらず、貴公らはたかが飛竜に怯える弱兵か!?」 否と兵士たちが声を上げる。そんな様子を見てバグストンも再び叫ぶ。 「ならば戦士たちよ、飛竜を落とせ! 明日の昼食の具にしてやれ!」 応と叫んで兵士たちは一斉に竜に矢を射かけ始めた。戦いの火蓋が切って落とされた。 飛竜に殺到する兵士たちを見ながら、バグストンがぽつりと呟く。 「俺、竜なんて倒した事ないぞ」 「奇遇だな、儂もだ」 「なんだ君たち、案外情けないな。竜の一匹や二匹倒すのは戦士のたしなみだぞ」 そんな軽口に、ヴァンは「ほざけ」と笑みを返すと双剣を振り上げて前線へと駆けだした。 ――続 |
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『セグラッツとの邂逅4』 孤狼の参戦に士気を上げた兵士達が飛竜に殺到する。ある者は矢をつがえ、ある者は手にした槍を突きだし、ある者は手斧を投げた。双剣しか持たぬヴァンは疾駆する速度を落とそうとはせずに、手斧を投げ終わった兵士の背中を蹴って跳躍した。月を背に舞う飛竜に向けて狼が跳ぶ。その切っ先がむなしく空を切ったかと思った刹那、ヴァンは空中で身体をひねって二撃目を飛竜の翼にかすらせた。ヴァンの着地と同時に飛膜に刻まれた裂傷で飛竜が僅かに体勢を崩す。遠目に見れば、それはヴァンの一撃が飛竜をひるませたようにしか見えなかった。ヴァンに先を越されたバグストンが「あいつにゃ間合いってもんがないのかよ」と呟いたのも無理はない。足場にされて無様に地面に崩れた兵士でさえ、起き上がる動作を途中で止めて月に向かって跳ぶ孤狼に見惚れたほどだ。 「飛膜を狙え!」 高まった士気を一箇所に集中させるべくリヒクト卿が叫ぶ。本物の竜を殺して一族郎党全員が国元から追放された強盗騎士の狙いは正確だった。兵士達の放つ矢や手斧が翼に張られた飛膜に集中する。圧倒的優勢を確信したリヒクト卿が人知れず口の端を吊り上げた時、「よっしゃ、俺の出番だな」と格闘傭兵バグストンの陽気な声が聞こえた。 傷ついた翼ではいくら羽ばたいても充分な揚力が得られず、飛竜の巨体は徐々に地面へと近づいてきていた。先ほどまでは槍でも届くか否かという高さだったのが、今では傭兵の持つ長大な両手剣の切っ先がかすめる位置にまで下がってくる。 「ジョル、足場だ!」 妙に明るい声が最前線で戦う傭兵達の耳に届いた。一人の巨漢が即座に武器を手放して、振り返りながら跳躍補助の体勢を取る。二瞬と間を置かずに勢いよく跳躍したバグストンがジョルと呼ばれた傭兵の構える手に着地すると、ジョルは力任せに両手を後方に振り上げた。跳躍をさらに加速させながら、まるで大砲から撃ち出されたようなバグストンの拳が空中ですれ違いざまに飛竜の顎を打ち抜いた。 飛竜の身体がぐらりと揺れるよりも早くバグストンは飛竜の背に降り立った。顎への一撃で羽ばたきが一瞬止まり、飛竜の身体が更に落ちる。 「トドメは貰うぜ!」 叫びながら拳を握りこむと手甲に炎が揺らめいた。飛竜の背と首を足場にし、バグストンの拳が巨大な後頭部を粉砕した。 喝采に包まれる戦場の端で、騎士団長と二人の高級騎士は口を突いて出た感嘆を取り繕うともせずに喜んでいた。 傭兵隊長の独断で正規兵にまで指揮を出されたというのは、平時ならば弾劾に値する越権行為であっただろう。だが騎士団長達は、三人の傭兵隊長に心の底から感動を覚えていた。これほどまでに強く、兵士達の心をまとめ上げる傭兵が三人もいる。指揮も正確で歴戦の経験を感じさせる。何よりも飛竜と出会っても余裕を崩さず、逆に兵士を鼓舞して弱卒の士気さえも上げてしまう英雄の資質を、奮い立つ心と粟立つ肌で理解できたのだ。 その事実は、劣勢を覆す賭けの作戦に行軍しているという先行き不安な現実を楽観視させてくれる、ありがたい事実であった。指揮権がどうだとか、傭兵の身分がどうだとかという事に、国が滅ぶか否かの瀬戸際においてまでこだわるほど彼らは無能ではなかった。 騎士団長は意図的に鎧を鳴らせて周囲の視線を集めながらヴァン達の元へ歩み寄ると、頭の潰れた飛竜の死骸を見て満足げに頷いた。 「バグストン殿は先ほど飛竜を昼食の具にしてやれと言っていたな」 喧騒の収まった場に騎士団長の声だけが響く。司令官の言葉に皆が注目していた。実直で融通が利かないと知られる騎士団長は、意外にも破顔一笑すると声を張り上げた。 「昼食にするまでもない、夜営の具にしてやれ。この肉を喰らって飛竜の力を我が物とし、我が国に喧嘩を売ってきた愚か者どもに痛い目を見せてやれ!」 おおっ、と夜の冷気を吹き飛ばす熱気が巻き起こる。 わざと下級兵士にも受けが良い言葉を選んだ初老の騎士団長は、自信に満ちた三人の傭兵隊長に頷きかけると天幕へと戻っていった。 † 誰かの意識が自分に向いたのを感じ取りヴァンは目を覚ました。夜はまだ明け切っていない。むくりと起き上がると二十歩ほど先で意外そうな顔をしていた騎士団長と目が合った。そちらへ歩み寄ると、騎士団長が板金鎧を身につけておらず、鎖帷子も上半身だけだと知れた。恐らく下級兵士を起こさぬよう音を立てない気遣いなのだろう。 「兵士達が戦死した仲間を埋葬したいと言っていたのでな。見届けようと思ったのだ」 どうしたのかと聞く前に控えた声でそう言った。ヴァンも立ち会おうと埋葬場所に同行すると、バグストンとリヒクト卿の姿もあった。 「私の部下も死んだのでな」と、ヴァンの姿を認めたリヒクト卿が騎士団長に倣って控えた声で言う。何人だ、と問うと、リヒクト卿は四人だと答えた。他にも負傷者がいるらしい。 「うちも何人かやられたよ」 いつになく沈んだ声でバグストンも言った。 「さっきまで頑張ってたんだがな、逝っちまった」 部下達と混ざって重傷者の看病をしていたのだろう、あまり寝ていないのが見て取れた。傭兵たるもの休める時にしっかりと体力を回復させるのが鉄則だが、この男にはそれよりも仲間の死を看取る事の方が大事なのだと理解した。そっちはと聞かれ、ヴァンは深くため息をついた。 「十六人だ」 バグストンが軽く息を呑んだ。 「飛竜が最初に降下してきた位置に居た四人が即死だ。夜営の準備に気を取られて反応が遅れて更に八人、戦ってる最中に三人、終わってから深手が悪化して一人」 「兵士隊は七名が死亡、二十一人が戦闘に影響のある負傷、騎士隊は軽傷者二名だ」 近づいてきた高級騎士がそう続けた。 「馬と食料は無事だ。こう言っては何だが、死んだ兵士達の分だけ余裕が出来たおかげで、重傷者を馬で運ぶことが出来る」 声に哀悼の色があった。見ると、高級騎士はまだ若い顔をしていた。正義感の強い貴族の次男といった所だろう。その後ろから騎士団長が足音を立てぬように近づいてきた。 「デュッセルライト傭兵隊、残存兵力を」 「二百五十七名、うち十一名が負傷」 「ヴァン・リヒクト傭兵隊」 「百四十六名、うち三名負傷」 「バグストン傭兵隊」 「百四名、うち三名負傷」 「ジョクル、騎士団はどうだ?」 「団長閣下と高級騎士合わせて百名全員生存です」 「そうか。兵士隊は二百九十三人が生存、うち二十一人が負傷だ」 この場合の負傷とは戦闘に影響のある負傷を指す。大半は主戦場に着くまでには戦闘可能になっているであろうが、何名かは戦えず、更に何名かは回復を待たずに命を落とすだろう。 「生存者は九百人丁度か」 騎士団長はそう呟くと、作戦を決めた際にヨークリ侯が言った「後悔の山を越えるのは計九百名」という端数を取り除いた言葉を思い出し、予言めいた不気味さを感じて薄ら寒くなった。 「ワイバーン一頭に三十四人が戦死、三十八人が負傷か。設営中の奇襲とは言えこれはあまりにも……」 増援としての九百三十四人というのは小規模な戦闘では充分な大軍だが、興亡をかけた一戦の増援としては心許ない。それが道半ばで減ってしまっては、劣勢を覆す事がより難しくなってしまう。 「後悔の山、か」 嘆息混じりに呟いたその言葉に、ヴァンはふと好奇心が湧いた。そもそも何故この山が後悔の山と呼ばれているのかが気になったのだ。ヴァンがそう問うと、同じく気になっていたらしいバグストンも追従した。騎士団長は沈んだ苦笑を見せて、飛竜を倒した今となったら隠す必要もないと口を開いた。 「昔はこの場所が山頂だったという伝説があるのだ。それをこの山に棲む竜が吹き飛ばし、我々が設営出来るほどの平坦な場所になったという」 周囲を見回してみる。さすがに九百人の夜営では窮屈な感は否めないが、それでも九百の人間と、その食料や荷物、騎士達の軍馬や荷物運搬用の騾馬を休ませるだけの場所が確保できている。ヴァンのこれまでの傭兵経験の中で、山頂近くにこれほどまでの開けた場所があったことはない。魔法で吹き飛ばしたとしても、これほどにはならない。ヴァンの知己に賢者と称される魔導師がいるが、禁呪を識るという彼がそれを使ったとしてもここまでの芸当は無理ではないかと思う。 他の傭兵隊長も似たような事を考えたのだろう、周囲を見回していた目が合った。確かにこの場所が以前は山頂だったとしたのならば、竜がいると言われても納得が出来る。それも伝説として残り、国中で今も恐れられる竜だと。 「なるほど、それで騎士団長殿は後悔の山を越えるのに反対していたのか」 「うむ。蓋を開けてみれば飛竜だったが、それでもやはり私が志願して良かった。侯爵閣下が来られていては危なかった」 騎士団長はそう言って、沈んでいた表情に若干の安堵を浮かべた。その表情に呼応するかのように、昇ってきた陽光が冷えた夜の空気を駆逐する。既にそこかしこで兵士や傭兵が起床して出立の準備を始めていた。 「しかし――」とリヒクト卿が顎に手を当てたまま疑問を口にする。 「何故『後悔』の山なのです? 何か後悔するような事がなければそのような名前にはならないでしょう」 「ああ、それは伝説に出てきた竜の名前だ」 伝説の正体である飛竜を倒したとの気楽さから騎士団長はさらりと答えた。だが、その効果は彼の予想したものとは違っていた。リヒクト卿は顎に手を当てたまま目を見開いて騎士団長を凝視していたのだ。 「ど、どうなされたリヒクト卿?」 「今何とおっしゃった!」 突然の大声に驚いたのは騎士団長だけではなかった。出立の指揮を執っていた兵士長や傭兵達が何事かとヴァン達を見た。 リヒクト卿の豹変に気圧されながら騎士団長はもう一度言った。 「伝説に出てきた竜の名を取ってこの山は――」 「後悔……」 言わせておいて最後まで聞かない非礼を騎士団長は咎めなかった。怯えるようなリヒクト卿の表情が気になったのだ。 「どうしたよ?」とバグストンの手が肩に置かれてようやくリヒクト卿は我に返った。軽く謝罪し、取り繕うように咳をして首を二度振る。説明を求める視線に応じて顔を上げると、意を決したようにリヒクト卿は一同の顔を見た。 「世界を作った始まりの鳥が最初に産んだ卵から孵ったのは竜だったという」 有名な創世の伝説だった。最初の卵から孵ったのが竜で、次の卵から孵ったのが神と天界の双子だったという理由で、リヒクト卿の母国は神ではなく竜を信仰している。その国で領民のために竜を殺し、追放された強盗騎士が続ける。 「始まりの鳥が直接産んだ『竜』や『神』は姿を消し、彼らが生み出した、言わば始まりの鳥の孫とも言える竜や神達が今の世界を作った。竜も神も今在る者は血が薄れているという神学者もいるが、その中でもより濃い、始原の存在に近い者がまだ残っている。特に竜にはな」 ヴァンは誰かが唾を飲んだ音を聞いた。ひょっとするとそれは自分の咽が鳴らせた音かも知れない。 「今も伝わる至高の竜。神に挑みしグロウヴァイド、風と踊りしリン・シクルゥ、眠りにつきしクォンウェクタ、怒りに燃えしクラウキオ、幸福与えるアウェバストラ、そして……後悔もたらすセグラッツ」 『そう、其れが吾の名だ』 ヴァンの、いや、その場に居た九百人全ての脳裏に声が響いた。 ――続 |
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『セグラッツとの邂逅5』 突然の声にざわめきが広がる。『畏れよ人間』 耳を塞ぐ兵士がいる。何が起きているのか理解できずに怒鳴る傭兵がいる。眠っていた所に精神を揺さぶられて目覚めた騎士がいる。声は彼ら全ての意識に直接響いた。 『吾が名はセグラッツ、後悔をもたらす者』 傷つき、心身共に衰弱していた兵士が発狂する。あまりにも強大な存在を感じさせる声は、九百人の猛者達全てに強制的な畏怖をもたらした。そしてそれは後悔へと続く。 『貴様らの愚行、看過は出来ぬ。焦熱に藻掻き、死に逝け』 騾馬や軍馬が暴れ出し、幾人かの世話係が蹴られて顔の形を変える。 「我々が何をした!」 騎士団長が果敢に叫ぶ。震えを隠して胸を張って天を睨んだ。 『吾が従者を殺し、喰らい、埋葬もせずに遺骸を打ち捨てた』 九百人全員が昨夜の飛竜を思い出したのだろう、誰の顔にも一様に後悔が浮かんだ。彼らは確かに飛竜を殺し、喰い、そして喰えない部分を埋葬せずに野晒しにして捨て置いた。誰も仲間を殺した飛竜を埋葬しようなどとは言わなかったのだ。 『吾が寝所を守る任を果たせず死んだのは仕方がない。貴様らの方が強かっただけのこと。自然の摂理だ』 「ならば!」 叫んだのはリヒクト卿である。 「喰われることも自然の摂理ではないのか!」 『然り。されど、吾にも感情がある』 山頂方向から風が巻き起こる。ヴァン達がそちらを見やると、昨夜の飛竜とは比べものにならない巨体がゆっくりと浮き上がってきた。深い海の色をした鱗が朝日にきらめく。言いようもない荘厳さを感じたと自覚し、ヴァンは首を振って意識を切り替えた。 『貴様らが弱き従者を悼めば、吾の怒気も鎮まっただろう』 「丁寧な説明痛み入るが、ならば今からでも丁重に埋葬し、祠を建てて祀り敬うというのではいけないのか!」 音もなく着地した竜の体躯はあまりにも大きく、手を伸ばせばすぐに触れるように錯覚するが、ヴァン達とは随分離れている。果たして声を張り上げたとて聞こえるかはわからない。それでもヴァンは叫んだ。会話ができるのならば生存への糸口を探すのは当然だった。そう、彼はもはやこの巨竜に勝てるなどという幻想は微塵も抱いていなかった。 『駄目だ』 希望の糸は断ち切られた。 『吾は何も激怒しているわけではない。寝所を荒らされ、気の良い従者を殺され……そうだな、少々むっとしている程度だ』 「手前ぇ、この気さくなトカゲ野郎が! むっとしたぐらいで俺ら皆殺しかよ!」 『貴様ら全員の余生と、貴様らが奪った従者の余生、比較すれば似たようなものだ。未来を奪った代償として、貴様らの未来も等価値に奪うだけの事』 バグストンのトカゲ呼ばわりに気を悪くした様子もなく、しかしあっさりと巨竜は皆殺しを宣言した。 着地したままで、空を濃くした色の翼が羽ばたく。ばさりという音は巻き起こされた風に消された。 騎士団長が全員に戦闘態勢を下命した。物資や夜営の撤収を放棄しても良いと怒号が飛ぶ。騎士達は怯え途惑う軍馬に駆け寄り、なだめすかして騎乗する。訓練された軍馬は大半が怯えながらもそれに従うが、まだ訓練が足りない軍馬や騾馬は狂乱のまま逃げ出している。 「これでは最早援軍どころではないな」 ヴァンの呟きを耳にしたリヒクト卿が頷く。三人の傭兵隊長は部下に戦闘準備を伝えて騎士団長や高級兵士、兵士長の所へ駆け寄った。 『戰うか。五分待つ、足掻いてみせよ』 竜が笑った気がした。バグストンもそれを感じ取ったのだろう、苛ついたように拳を平手に打ち込んで舌打ちをする。 作戦はすぐに決まった。彼らに残された選択肢は元々二つしか無いのだ。来た道を引き返して逃げるか、巨竜が立ち塞がる山頂を抜けて逃げるか。戦うという選択肢が無いわけではないが、戦って勝つという選択肢は無い。勝てるはずが無いと誰もが認めていた。 進むか戻るか。戻れば被害は少ないかも知れないが、敵に占領されたフォルト侯爵領の残党と合流し、ヨークリ侯の本隊と対峙する敵軍の後背から挟撃を仕掛けるという作戦は崩れてしまう。ならば進むしかないが、そのためには巨竜を突破しなければならない。 だが相手は伝説の竜なのだ。どちらの道を選んでも巨躯を空に舞わせて先回りをするだろう。伝説どおり山頂を吹き飛ばす力があるのならば、一瞬で九百人が消滅し、山頂が更に削り取られるかも知れない。その割り切りが早かったのは、負け戦をいくつも経験してきた傭兵隊長達だった。彼らの説明を受けて騎士団長も命を割り切った決断を下した。セグラッツへの一撃離脱である。 ここまで無傷の騎士隊が突撃を仕掛け、続いて兵士隊が巨竜を無視して山頂方面から下山、馬を失った騎士と一部の兵士は騎士隊の突撃と同時に負傷兵を連れて後退し、これまで昇って来た道を下山する。最大戦力である傭兵隊は、人数の多いヴァンの部隊が兵士隊と共に巨竜を無視して下山、リヒクト卿とバグストンの部隊は騎士隊が突撃を仕掛けた後に、彼らが撤退する猶予を与えるべく突撃の第二陣として一撃離脱を仕掛け、後はひたすら逃げを打つ。 最初に突撃を仕掛ける上に兵士隊がある程度逃げ、且つ傭兵隊が追いついてくるまではセグラッツ相手に引くことが許されない騎士隊にとっては、決死の作戦と言って良い。 もっと時間があれば最良の作戦を思いつけたかも知れないが、巨竜が気まぐれで与えた五分という時間で作戦を決めて部下に伝達をするとなれば、これが最良だと信じるほか無い。無謀な上に賭けの要素が大きいが、出会った瞬間に全員が消し飛ばされなかっただけでも僥倖、後は僅かでも兵士と数人の指揮官が生き延びれば良いのだ。 彼らが最後まで揉めたのが、突撃の指揮官と生き延びる側の指揮官である。決死の突撃を部下にさせるには、まず自分が陣頭に立たなくてはいけない。生き残れる可能性はほとんど無いだろう。だが彼らが揉めたのは全員が突撃部隊の指揮官に名乗りを上げたからだった。騎士達は貴族の義務として危険を買って出た。ヴァンとバグストンは己こそが生存率が高いと考え、リヒクト卿はそれに加えて竜に対する恨みと、これまでにも竜を倒したという実績を武器にした。その結果論戦を制したのは騎士団長とリヒクト卿だった。 ヴァンは遁走部隊のしんがりを務めるというのが譲歩の限界だった。バグストンは自分の部隊が突撃するのだからというもっともな理由でヴァンの主張を退け、騎士団長とリヒクト卿と共に突撃を指揮するという事となった。 遠雷がヴァンの意識を巨竜へと引き戻させた。そろそろ五分が経つ。命令はほぼ行き渡ったと見える。ヴァン達は傭兵隊長に与えられていた軍馬を馬に逃げられた騎士に貸してやったが、意外にも騎士の戦意は落ちていなかった。配置につく傍らで傭兵や兵士の顔を見ても、思ったよりも士気は低くない。昨夜の飛竜戦で、三人の傭兵隊長の物怖じせぬ堂々とした戦いぶりを眼に焼き付けたせいだろう。彼らは伝説の巨竜相手でも、この三人ならば勝たせてくれるのではないかと、恐怖の隅に期待を隠しているのだ。 また遠雷が鳴った。遠くの空に黒雲が見える。嵐が近づいている。 「まさかあの雷までトカゲ野郎の仕業じゃないだろうな?」 手甲を調整しながらバグストンが舌打ちをする。そんな彼にリヒクト卿が苦笑を返す。 「嵐を巻き起こす竜はセグラッツではないさ。嵐はアウェバストラのものだからな」 「幸福もたらすアウェバストラか」 昨日聞いた名前を思い出してヴァンが言い、どうせなら幸福をもたらす方に現れて欲しかったものだと、若干の愚痴を苦笑に乗せる。そうでもないさとリヒクト卿が相変わらずの苦笑を浮かべて小さな声で謡った。 「――海上の空を仰ぎ見よ、陽光を遮る雲の中、アウェバストラは座している。……祖国に伝わる歌だ。アウェバストラ、別名を暴風の覇王という」 「あまりお会いしたくない御名だな」と言ってヴァンは肩をすくめた。違いないとバグストンが笑う。僅かに温かい流れを感じたが、それを振りほどいて三人は戦士の顔に戻った。時間が来た。 騎士達に死を告げる角笛が吹き鳴らされる。騎士団長と二人の高級騎士が剣を抜き放ち怒号と共に死出の旅路を駆け抜ける。 負傷兵を連れた騎士と兵士の五十人程の分隊が来た道を下山する。同時に三人の兵士長が歩兵を率いて全速力で騎士隊の後を追う。騎士隊が命を散らす間に一兵でも多くセグラッツの脇を抜けてフォルト侯の残党と合流しなくてはならない。 次に前進するバグストンとリヒクト卿の傭兵隊が突撃準備を行う。ヴァンは僚友の背を見つめながら、視界の端を通り過ぎる傷病兵分隊の人数が多すぎる事に気付いた。そちらに目をやると、五十人程度の分隊のはずが八十人程に膨れあがっている。中には突撃部隊だったはずの騎士や、ヴァンも知る傭兵の姿があった。だが逃亡も仕方がない、そう見過ごすことにした。生き延びたら生き延びたで、ここで死んだ友を思い出し、ここで捨てた誇りを思い出し、いずれ後悔するのだ。 「後悔もたらすセグラッツ……なるほど、確かに」 そう独りごちて副官格の傭兵に奇妙な顔をされる。 前方で部隊を纏めているリヒクト卿とバグストンがヴァンの方を向いて軽く手を挙げた。遥か前方の死闘が喧騒の壁となって、二人の声は最早聞こえない。彼らもわかっているのだろう、口を動かさずにただ頷くと戦場へ向き直った。 かすかに届く怒号と共に、二人の傭兵隊長に率いられた二百五十名弱の勇士が突撃する。感傷を理性で押し込め、ヴァンは己の部下に向き直った。 「儂はしんがりを務める。副隊長の先導で兵士隊と合流せよ! 背中は守る、安心して逃げろ!」 生への執着を喚起させ、ヴァンの傭兵隊が遁走のための前進を開始する。 最後の一人の七歩後ろからヴァンも遁走を始めた。 戦うために逃げるのだ、人間同士で殺し合うために逃げるのだ、そう己を割り切って僚友の死地たる戦場まで差し掛かる。騎士隊が死力を尽くした結果だろうか、山頂へ続く道を塞ぐように翼を開いていたセグラッツが、若干道を開けるように戦場は山道からずれ始めていた。死屍累々のただ中に、見知ったマントが見えた。今朝言葉を交わした若い高級騎士だ。既に残存する騎士隊は兵士隊に続いて下山に移っている。騎士の屍はざっと見ても四、五十は下らない。過半数はここで死に絶えたのだ。 傭兵隊も一撃離脱を基本としてすぐに撤退に移るはずである。が―― 閃光がヴァンの十歩前を薙ぎ払う。 セグラッツに群がっていた傭兵達と、そのそばを通ろうとしていたヴァンの部隊の大半が消えた。死んだという実感はない、ただ目の前から、この世から、唐突に消えてしまった。ヴァンは一瞬の自失を振り払い、七歩前で立ち尽くしていた部下の背中を叩いて先を急がせた。真横に見える僚友の戦場に目をやる。燃える拳が巨竜を叩き、狙い澄ました矢が鱗に跳ね返される。友はまだ生きている。 自分も戦場に加わりたい、僚友を助けてやりたい、そんな思いがヴァンの理性を駆逐する。 「行けぇぇっ!」 突然響いたバグストンの怒声で我に返る。格闘傭兵はこちらをちらりとも見ずに、巨竜の爪をかわしながら叫んでいた。ヴァンは軽く頭を下げると、部下の背を追って山道を駆け下りた。己の戦場はここではない、自分にしか出来ない戦いがこの先にある。理性という名の感情を半ば暴走させながら、ヴァンドルフはセグラッツの元を去った。 次回終幕
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39日目4824文字 |
きしんだ音を立てて酒場の戸が開く。カウンター席に座ったヴァンは横目でちらりとそちらを見る。待ち人ではなかった。若干興奮した様子の男が二人、大きな声で喋りながら前も見ずにカウンターを目指してヴァンの傍までやって来る。 「だからよ、俺の甥っ子が言ってたんだから本当だって」 男達はヴァンから一つ席を隔てたカウンター席に座り、酒を注文するなり話を再開した。 「ホラ吹きフィッツの甥だろ? そりゃ信用しろって方が無理だ」 「俺はホラは吹いても嘘は吐かないぜ。それに甥っ子は兄貴に似て馬鹿正直なんだよ。わざわざ兵役に就いた先から俺に嘘書いた手紙送ってくるはずがねえ」 ヴァンは周囲への警戒を緩めないまま、兵役という言葉に興味を惹かれて聞き耳を立てた。 「ほれ、丁度一年ぐらい前にも似たような噂があったじゃないか」 「一年前ってぇと、あれか、うちの騎士団サマが隣のなんちゃら侯爵を倒して快進撃続けてた奴か」 酒杯を傾けるヴァンの手が一瞬止まる。 「それだ、隣国最強って話だったフォルト侯爵騎士団を潰して、勢いのままに隣国掠め取っちまおうってやってたのに、いきなり軍を引き上げたろ?」 「フォルト領の半分貰って和平だったか。国全部頂くって息巻いてたのに、ほんの一欠片で満足するたぁ情けないと思ったもんだ」 ヴァンは舌端に触れた酒を苦く感じ眉をしかめた。一年前の記憶が酒の味に移ったらしい。 「なんで引き上げたか知ってるか?」 「なんかド偉い英雄サマがどこからともなく大軍率いて現れて、別の侯爵サマと戦ってたうちの奴らを後ろから挟み撃ちにしたとか何とか」 もう一度酒杯を傾ける。やはり苦い味がした。 『セグラッツとの邂逅 6』 「行けぇぇっ!」そう叫ぶバグストンの声に背中を突き飛ばされたようにヴァンは山を駆け下りた。 遠雷が大きく鳴った。山腹から空を見上げると、山頂から見えた遠くの黒雲は急速にこちらに近づいてきていた。じきにこの辺りも嵐に包まれるだろう。嵐の行軍は体力を一挙に奪い去る。 山の麓まで下りた頃には既に雨の気配が忍び寄っていた。ヨークリ侯とクィト伯の連合軍が隣国の軍とにらみ合っている三領境界の辺りでは既に雨が降っている頃だろう。 「デュッセルライト卿」 呼び掛ける声に、ヴァンは自分が完全に周囲の気配に無防備だったと気付く。声の主を見やると頭に包帯を巻いた騎士団長が見慣れぬ騎士に支えられていた。セグラッツが君臨する山頂に見知った若い上級騎士の死体があったことを思い出し、もう一人の上級騎士も恐らくは戦死したのだと知る。 「やあ、生き延びてしまったよ」 見た者に空虚を印象づける笑顔を浮かべる。初老だった騎士団長が急に老人になったように感じられた。 「部隊はどれだけ残ったかね?」 その問いに答えたのはヴァンではなく、先頭を任されていた副長格の傭兵だった。百名ほどですという言葉に耳を疑う。今朝数えた時には二百六十人近くいた部下が半数以下になっていた。騎士団長が思わずうなった。 「兵士は二百十余人、騎士は百人いたのが三十人ほどだ。傭兵隊を合わせても三百五十弱か。負傷兵を除くと三百を切る」 そこにバグストンとリヒクト卿の部隊は含まれていなかった。全滅と数えているのだろう。 「この数では予定通りフォルト侯の残党と合流しても焼け石に水、挟撃どころか全滅も有り得る。いや、数以前の問題か。負け戦を経験したフォルト軍の士気を上げるつもりが、我々のような味方を盾にして逃げ延びた敗残兵が加わっても逆効果かも知れん」 汗と血にまみれた顔を泥にまみれた手甲でぬぐい、騎士団長は虚ろに言った。 「我々はこの国で生まれ育ったが貴公らはそうではない。負け戦に付き合う必要はない。付き合っても国がなくなるのだ、約束の給金が払えん。貴公は傭兵隊を率いて離脱してくれ」 「お断りする」 即答したヴァンの目には強い意志が満ちていた。 「バグストンもリヒクト卿も彼の部下も貴方の部下も、儂を命惜しさに仕事を投げ出す臆病者にするために戦ったのではない。彼らは傭兵として仕事を、この国を助けるという仕事を引き受け、あの状況で仕事を完遂させる最良の方法は儂に托すことだと信じて死地に残ったのだ。引くはずがない、引けるはずがない」 その熱が、芯を失いかけていた騎士団長の心に触れた。 † 昨日の嵐が嘘のように晴れ渡った空の下、三領境界にて両軍の激突は二日目に突入した。 フォルト侯爵領を占領した勢いで南進する隣国の大軍を迎え撃つのは、クィト伯とヨークリ侯の連合軍である。フォルト侯爵領と他領を隔てる山脈が要害となっており、三領境界と呼ばれる僅かな平地のみが山脈の切れ目となっている。 ここを突破されれば、後は豊かなヨークリ侯の領土で兵糧を補充し、自由自在な侵略を許してしまう。この三領境界の適度な狭さこそが、隣国の大軍を真正面から迎え撃てて、なおかつ相手に自由な用兵をさせずに済む最後の砦なのだ。 真正面から迎え撃っても彼我の戦力差は三倍以上、ヨークリ侯自身が行軍に加わり陣頭指揮を執っているのは、少しでも士気を高めないと即座に瓦解するからである。 敵軍との戦端が開かれて一時間、ヨークリ侯は確実に減っていく自軍の数に焦りを隠せないでいた。ヨークリ侯の手勢は六千、クィト伯の手勢が三千、その内から九百強が別働隊として後悔の山を越えて、千六百名余りのフォルト侯の残党と合流して挟撃をするというのが予定されていた作戦だった。挟撃に充分な数とは言えないが、先王が過大なまでに広めた英雄ヴァンドルフの名と彼の経験は、敗残兵を勇士に立ち戻させる力があると信じていた。だがそれも今朝までのこと。明け方にもたらされた伝令で、後悔の山の顛末を聞いた。傷病兵を連れて下山した一隊からの情報だったので、ヴァン達の安否は彼らも知らなかった。恐らく全滅、良くても部隊としては壊滅だろうとヨークリ侯は絶望した。 挟撃により流れを作り、相手を警戒させて膠着状態にし、他領からの援軍が到着するまでの時間を稼ぐ。その戦略構想が崩れてしまう。減っていく兵士の数に焦りが加速する。流れは確実に相手の側にあった。 その時、地響きが戦場を振るわせた。東の山麓で地滑りが発生したのだ。昨日の嵐で地盤がゆるんだ所に数万の人馬が起こす振動が加わったためだろう。クィト軍が展開している辺りだったが、劣勢で押し返されていたのが幸運した。地滑りは勢いづいた敵軍のみを飲み込みクィト軍はほぼ無傷で反撃に出られたのだ。 そしてまた地響きが戦場を振るわせた。今度は北西からだった。またも地滑りかと期待したヨークリ侯だったが、そうではなかった。 地響きの先頭を駆ける黒い馬、黒い戦装、黒い双剣。 「ヴァンドルフだ!」 傭兵の一人が叫ぶ。その一言で兵士達の目に気力が戻る。先王が過大に広めた数々の逸話はこの時のための布石に思えた。実際はただの一傭兵に過ぎない、決して最強でもなければ英雄でもない傷だらけの男の姿に、兵士達は神格を見出したように熱狂した。流れが来た。 ヴァンと馬を並べて騎士団長とフォルト侯残党を纏める騎士が走る。敵軍は完全に浮き足立っていた。地滑りと機会を申し合わせたように現れた背後からの敵。ここにいるはずのない騎士団長と、一度は耳にしたことのある双剣の傭兵が迫ってくる。敵軍で最も動揺したのは貴族出身の騎士達だった。双剣で空に血の翼を描く黒衣の人馬に、彼らはかつての大戦で名を馳せた近隣の国の英雄、告死の翼アズラスを重ね合わせたのだ。同時に彼らはアズラスが双剣を継ぐ者としてヴァンと親交があったという噂を思い出し、まるでヴァンが猛将アズラスと同様の存在であると錯覚した。先王が誇大な噂を流し、現王がアズラスの愛馬と同じ黒馬を与えたのは、このような効果を期待したからだろう。そして効果は彼らの予想を遥かに上回って敵軍の恐怖を煽った。 昨日の嵐での疲弊に加えて、大雨が戦場に大小様々な川を作っていたのも幸いした。慣れ親しんだ土地で大雨が降ればどうなるかを把握しているヨークリ侯側に比べ、侵攻のために不慣れな土地で軍を展開している敵は川の出現に途惑っていた。平地とはいえ山脈の間である。浅い川ばかりではなく、所々急に深くなる。地元の兵士達はそれを知っていた。 三倍から四倍にもなる大軍勢を相手に、今や対等に戦えていた。 それから数時間を戦い、正午を回って幾分か過ぎた頃には敵軍も体勢を立て直して来た。ヴァンもヨークリ侯も敵軍を挟んで同じ事を考えていた。このままではじきに劣勢になってしまう、何か手はないものかと。だが彼らに最善たる手は思い浮かばなかった。三領境界一杯に広がる敵軍に対して、ヴァンの挟撃隊は三領境界の北西を塞いでいるだけに過ぎない。南進する敵軍が進路を北西に変えれば容易に包囲されてしまう。敵軍の指揮官もそれに気付いているだろう。後一押し、何かが欲しい。 三度の地響きが戦場に到達する。何事かとそちらを見やったヴァンは信じられないものを見た。腕に炎を纏わせた男が、手甲で敵軍を殴り飛ばしていた。 「炎拳のバグストンだ!」 驚愕の叫びが敵軍から漏れる。炎を操る格闘傭兵、それは紛れもなく山頂で別れた僚友の姿だった。傭兵隊を引き連れたバグストンは敵を殴り飛ばしながら猛進し、ヴァンのすぐ傍までやって来た。 「どうしたよ、亡霊でも見たか?」 一瞬本当に亡霊かと思ったが、近くで見るバグストンはかなりの深手を負っていた。服が赤く染まっているのは返り血ではなく、傷口が塞がっていないからだろう。 群がる敵を黒い剣と赤い拳が駆逐する。 「リヒクトは!」 双剣が閃く。 「死んだ!」 炎拳が炎を吹く。 予想していた事実にヴァンは半瞬の自失を覚えかけたが、すぐにそれを戦意に置き換えた。 夜半まで続いた戦闘は両軍に極限までの疲弊を強いた。翌朝、がら空きだった三領境界の北東側から敵軍は撤退を開始した。フォルト侯爵領の北半分を差し出す事で一時的な和平が成立したのはそれから三日後だった。 † 一年が経ち、ヴァンはこうして敵国の酒場で人を待っている。 「だからもう一回攻め込むってんで甥っ子が徴兵されたんだよ」 「でもまた山脈の切れ目で睨み合ってんだろ?」 酔漢の声で回想から引き戻される。 「それよ、うちの軍は一年前の意趣返しを狙って何とかって山に全軍の半分を向かわせたってんだよ」 「半分ってお前、無茶過ぎるだろ。お前甥っ子に騙されてんだ」 「甥っ子は睨み合ってる方に残されたけど、半分だから不安だって俺に手紙をくれたんだよ!」 「そりゃ甥御さんは運が良い」 割り込んだ声は待ち人の声だった。いつの間に店に入ったのだろうか。恐らくはヴァンが回想をしていた僅かな間だろう。 「後悔の山に向かった半分、全滅したぜ」 声の主はヴァンの横に座ると、勝手にヴァンの酒杯を取って一気にあおった。 「よう大将、美味い酒飲んでるじゃないか」 そう笑いかけるバグストンに、ヴァンは嬉しそうな苦笑を浮かべた。 「そんなわけで俺らの雪辱戦は始まる前に終わっちまった。どうするね?」 「そうだな……墓参りでもするか?」 そうするか、と二人は席を立った。三人目が眠る山へと想いを馳せて。 ――了 |
Extra Scene 3340文字 |
『セグラッツとの邂逅 Extra Scene』 風が運ぶ木々の薫りが心地良い。もっと栄えた都市に行けば、貴族は音楽を嗜み、お気に入りの作曲家や演奏家を幾人も抱えると聞く。だがそんなものは彼には必要なかった。森全体が風にそよぎ、木の葉や枝のこすれ合う音に鳥や獣の鳴き声が合わさり、彼にとっての至上の音楽を奏でてくれる。豊かな森と豊富な水の恵みさえあれば、他に何も要らない。館の窓から見渡す自分の領地を、彼は心の底から愛していた。遠くを歩く領民が、窓辺の彼に気付いて笑顔のままお辞儀をする。その後ろを歩いていた子供が飛び跳ねながら手を振ってくる。見えるか解らないが、彼も軽く手を挙げてそれに応じると、今年の収穫祭はどのような趣向を凝らしてやろうかと悪童のような表情を浮かべた。 陽光が降り注ぐ大地がかげる。雲の悠然とした影ではない。不吉な予感に突き動かされ、空を見上げる。 「御竜? この周囲に御所はないはずだが……」 どこからか流れ着いた暴竜が彼の領地を荒らし、領民の嘆きが耳に届くまでそう長い時間は掛からなかった。 領主に与えられる魔道具で王都に連絡を入れ、そこから帝都にも連絡が行っているはずなのに、いつまでも経っても竜を裁く断罪の竜はあらわれない。刻一刻と領地は荒らされ、収穫前の畑は潰され、森は焼かれ、これ以上手をこまねいていては領民達が冬を越せない。 重大なる決意を胸に彼は鎧を着けた。胸に掘られた、「ドラ・グ・ナイル(御竜の加護)」の文字が皮肉に感じられた。御竜の加護を受けた国、ドラグナイツ帝国の騎士としてこれまでの人生を真っ当に生きてきた。帝都に留学した少年時代に謁見を許された知恵有る竜に感動をし、国と領民と竜のために剣を振るおうと決め、今まで走り続けてきた。だがもう立ち止まらざるを得ない。竜を手に掛ければ死罪、貴族がそうすれば一族皆死罪となってもおかしくはない。老いた父の顔が浮かぶ。若い自分に領主の力量が備わったと自ら領主の椅子を去った父の笑顔が浮かぶ。胸に痛みを覚えるが、泣き叫ぶ領民の顔はもっと深くに痛みを感じさせた。 郎党全てを招集し、彼は決断を伝えた。出陣のかけ声は、いつものように「御竜の加護を!」だった。 竜に恨みがあるわけではない。敬愛の念は薄れていない。だが領民が苦しんでいるのならば、全てを捨ててでも領民を助ける事こそが領主の在りようだと信じている。例えそれが敬愛する竜でも、竜の法を外れた竜に容赦はしない。人は人が、竜は竜が裁くと決められた帝国憲法を破ってでも、帝国貴族として剣を取らなければいけないのだ。 「行けぇぇっ!」 拳から炎を吹き上げながらバグストンが叫んだ。死闘の最中に何を思い出しているのだと自嘲しながら、アーセルク・ヴァン・リヒクトは部下が手渡してきたクロスボウを構えた。矢は狙いとたがわずにセグラッツが開きかけた口へと突き進む。セグラッツは口を閉じてそれを防ぐと、彼をぎろりと睨み付けた。爪を振り上げようとした脇を狙って炎拳が迫る。バグストンとリヒクトは申し合わせたようにお互いを補いながら、味方に決定的な攻撃が飛ばないように戦っている。彼らの攻撃は、セグラッツの攻撃の威力を最大限に削ぐ事こそが目的だった。 従者にクロスボウを渡し、部下からいつでも発射できるようになった別のクロスボウを受け取る。リヒクトがそれを構え、従者が部下にクロスボウを渡し、部下は新しい矢をつがえて弓を引き絞る。リヒクトが撃ち、従者がクロスボウを受け取り、部下が引き絞って固定したクロスボウをリヒクトに手渡す。この繰り返しで間断なくリヒクトはクロスボウを撃ち続けていた。 先ほどのバグストンの怒号は、ヴァンドルフに放ったものだろう。冷徹な熟達の傭兵に見えて、どうやらあの男はこちらに後ろ髪を引かれたようだ。「馬鹿者が」と独語したのを従者に聞かれ彼は笑って誤魔化した。 僅か数日の行軍を共にしただけだったが、ヴァンドルフもバグストンも好漢だった。こいつらと組む仕事ならばさぞかし戦い甲斐があるだろうと思ったが、どうやら自分はここまでらしい。 ヴァンドルフもバグストンも知らないようだが、竜と森の帝国であるドラグナイツ出身の自分にはわかる。神に挑みしグロウヴァイド、風と踊りしリン・シクルゥ、眠りにつきしクォンウェクタ、怒りに燃えしクラウキオ、幸福与えるアウェバストラ、後悔もたらすセグラッツ、これら伝説の竜は神をも凌駕するのだ。現に神に挑みしグロウヴァイドは天界に昇り、神格を得て神々の争いでも武神の如く覇を見せた。それは紛れもない事実として、母国で竜の長が語っていた。竜神帝グロウヴァイドとして全ての竜に加護を与える、竜族が唯一認めた「神」。セグラッツはそれと同格なのだ、勝てるはずがない。 焦り、怯え、諦め、奮起。そんな感情の流れを繰り返しながら、リヒクトは周囲の部下に目をやった。父の代から仕えてくれた老兵士の死体が目に入った時、彼は自分の戦いが終わったと悟った。 「リヒクト傭兵隊!」 大声で叫んでクロスボウを撃つ。迂闊にも振り返った部下がセグラッツの爪で粉微塵にされる。耳を傾けるだけで良かったものをと哀れに思いながら、リヒクトは大音声を上げた。 「これよりバグストン傭兵隊に併合! バグストン! 隙を作るから撤退しろ!」 バグストンは戸惑いの色を即座に消すとすぐさま行動に移った。一瞬の戸惑いで何人もの命が散ると理解しているのだ。納得しての行動ではないだろう。 二挺のクロスボウを両手で構えて時間差で撃つ。バグストンが撤退を叫んで部隊を移動させるのを横目に、リヒクトは剣を抜いた。代々伝わる家宝の剣だった。リヒクト家の男は皆この剣を掲げて国と竜と領民への忠義を誓ってきた。 「後悔もたらすセグラッツに一騎打ちを申し込む!」 追撃に移ろうとバグストンの背に首を向けていたセグラッツが、意外そうに横目でリヒクトを見た。 「我が名はドラグナイツ帝国が一国、ドラグラク王国リヒクト領が領主、アーセルク・ヴァン・リヒクト!」 鎧の胸部に掘られた「ドラ・グ・ナイル」の文字に剣を持った拳を叩き付けて名乗りを上げる。ドラグナイツの騎士が行う宣誓の様式だった。祖国を追われ、竜殺しの大罪に付き従った一族郎党を喰わせるために傭兵となり、強盗騎士と呼ばれるほどに身をやつした。堕ちて何年が過ぎたのか最早数えてもいない。既に忘れ去ったと思っていた正式な様式を魂が覚えていた。 『よかろう、吾が名はセグラッツ。矮小なる人間に自覚をもたらす者』 竜が応じた。 「我の往く道に御竜の加護を!」 屍山血河を踏み越えて、強盗騎士が疾駆する。 何も小細工をろうさない真正面からの一騎打ちだった。 振り下ろされた剣と巨竜の爪がぶつかり、リヒクト卿の体が宙に舞った。一撃で腕がもげ、足も半ばまで千切れ、深い爪痕が内蔵を潰した。吹き飛ばされながら、リヒクト卿は逃げもせずに自分を見つめる従者や部下の姿を見た。 「馬鹿者、主の命令に従わんか」 声にならない呟きは口の中で消えた。 『見事だ、矮小にして偉大なる騎士。アウェバストラも来た、吾のたわむれもこれまで。お前の仲間は見逃してやろう』 地面に打ち付けられたリヒクトが見たのは、一面の曇天とその中心で白く輝く巨竜の姿。その横に音もなく飛翔した青い巨竜セグラッツが並び、一瞬笑ったような気配があった。 駆け寄る部下の声も最早聞こえない。しかし彼らが生きている事と、己が強盗騎士リヒクトではなく、竜の騎士リヒクト卿アーセルクとして散れた事に充実した人生だったと納得出来た。 降り始めた雨がリヒクトの顔を洗い流した時、彼の従者は主が笑って死んだのだと知った。それだけが、彼らの救いとなった。 ――Extra Scene END |