ヴァン日記 総集編
『第2期FalseIslandエピローグ』
--説明--
2期偽島の個人的な総決算をという事でエンディングを。
全五話を想定しており、一話と二話で偽島のエンディング、三話以降でヴァン個人のエンディングを予定しています。
第一話「崩壊」、第二話、第三話、第四話、第五話


第一話「崩壊」
13943文字、原稿用紙43枚

 林の中で少し早い夜営の準備をしながら、ヴァンはふと目が霞んだような感覚に気付いた。別段目が疲れるような心当たりもないし、まだ老いるには早いと感じている。
 軽く目をこすってから、再び薪を集めようとしたその時、伸ばした手の先がぐにゃりと歪んだ。
 異常を察した次の瞬間には、ヴァンは後ろに跳びすさりながら双剣を抜いていた。
「アゼル! リック!」
 若く将来性もある少年戦士と、同年代の医者に声を掛けたのは、恐らく彼の中に浮かんだ自分自身の衰えという可能性を否定できなかったからだろう。
「おいヴァン、こりゃ何だ!?」
 背後で驚くリックの声。聞こえかたから、リックがこちらを向いているのではなく別の方向を見ながら言ったのだと解る。だとすれば何者かからの攻撃と考えるのが妥当だ。
 軽く辺りを見回すと、所々で空間が歪み始めていた。
「姉さん!」
 アゼルがディーネを姉と呼ぶことは滅多にない。嫌な予感に振り向くと、ディーネが歪みに取り込まれかけていた。
「儂のっ!」
 考える前にヴァンは走っていた。
「手が――」
 ディーネの腕を掴み、力一杯引き寄せてアゼルに向かって放り投げる。その反動でヴァンの身体が歪みに取り込まれてしまったが、彼は口の端を歪めて笑って見せた。
「儂の手が届く限り、目の前で犠牲は出させんさ」
 そう言い残してヴァンの姿が掻き消える。
「おいヴァン!」
「嘘……」
 伸ばした手をわななかせたリックの横で、ディーネとアゼルは呆然と立ち尽くしていた。
 がさりと茂みが揺れる音にいち早く気付いたのはアゼルだった。亡国の皇子として命を狙われる少年は、まだ幼いながらも充分な戦闘経験と心構え、何よりも双子の姉を守るという覚悟が備わっていた。振り返りざまに鋼糸を放とうとしてその手を止めたのも、彼が立派に戦士として成長している証だろう。
 木陰からリアを抱えた褐色の女性が姿を現す。彼ら一行で一番の長身を誇るリリィだ。普段は少しおっとりしている彼女が、この時は肩で息をしていた。
「義姉さんが……義姉さんがっ」
「慌てるな、落ち着け、エマールがどうした。……まさか歪みに呑まれたか?」
 最年長のリックが落ち着いた声で言ったが、その顔は冷静とは程遠かった。有り得る話なのだ。エマールは男連中には厳しいが、義妹や女子供には優しい女傑だ。リリィとリアをかばってヴァンと同じような事になるのは想像に難くない。そしてその想像は涙を浮かべたリリィの頷きで事実となった。
「何が起きてやがる……そうだ、サザン達はどうした、誰か見たか!」
 年長者であるヴァンとリック、そしてサザンの三人が彼ら一行の行動を決める事が多かった。こういった異常事態の時こそ、歴戦の傭兵であるヴァンの意見が重要なのだが、彼は消えてしまった。
 リックが小雨やクロト、エスといった年端もいかぬ少女達を気に掛ける前に、まずサザンを探して視線を巡らせたのは、無意識のうちにヴァンの代わりに相談できる相棒を欲したからだろう。
「そうだ、嬢ちゃん連中はどうした、アマネとクロウの保護者組もどこに行った」
 一同の顔を見ても、お互いが顔を見合わせて首を捻るだけだ。
「俺が探して来る、お前らはここを動くな、危ないと思ったらすぐ逃げるんだ」
 若干矛盾した指示を出したとは気付かずにリックは白衣をひるがえした。歪みはそこかしこに出現し、大きくなることはあっても小さくなることはない。
「小雨、クロト、エス、嬢ちゃん達はどこだ!」
 大声を上げながら茂みをかき分ける。元々この周囲で夜営をと考えていたのだ、そう遠くに行っているはずはない。
「サザン、サザンはいないのか!」
 目では小雨達を探しながらサザンの名を叫ぶ。
 ヴァンやサザンといった数々の戦いをくぐり抜けてきた異世界の戦士とは違い、リックは小雨や服部周と同じように本土が戦場になる事がない時代のアメリカと日本で生まれた。少なくとも生きる過程で戦争に巻き込まれる事の無い環境で育ったのだ。貧困層の多い黒人街で生まれ育ったリックは四十数年の人生で数え切れない荒事を経験し、また医者として数々の死を見届けてきた。小雨や服部は元より、同じアメリカ人の中でも剛胆さには多少なりとも自信があったが、こういった彼らの常識に収まらない事態、こと魔法や魔物、戦闘となると門外漢であるという自覚もあった。
「くそっ、アマネ! クロウ! お前らちゃんと嬢ちゃん達の傍にいるんだろうな! サザンはどこだ!」
 彼が考える適材適所では、こういう事態に最も適応出来るのは幼少の頃からの戦闘経験と老賢者の知己を持つヴァンであった。続いて死してなお英霊として戦う神兵サザンか、かつての島で宝玉を全て集めたという、リリィの義姉エマールが候補に挙がる。
 だが既にヴァンはディーネを庇って歪みに呑まれ、エマールもまたリリィとリアを守って歪みに呑まれてしまっている。残っているのはサザンだけだった。
「リド、スフィ、ディナ、お前らもどこだ、サザン!」
「リックか?」
 返事に振り返ると、左腕を押さえたサザンが苦い顔で木陰から姿を現した。その横には普段の無表情を崩して悔しそうな顔をしたリドもいる。
「おお、嬢ちゃん達を見なかったか!?」
 そう言いながらもリックの視線はサザンの左腕に注がれる。医者としての習性のようなものだろう。だからこそ彼は即座に違和感に気付いた。
 サザンの左腕は二の腕から下が失われていた。しかし一切血が出た様子はないし、サザンの顔色からも失血の影響が感じられない。
「……すまない、小雨達は……」
「私が気付いた時にはもう変な歪みに呑まれていたわ」
 最悪の事態にリックはしばし絶句したが、すぐに状況把握に努めようとした。
「アマネとクロウの保護者コンビはどうしたよ?」
「あまやんは小雨が呑まれたのを見て歪みに飛び込んで一緒に消えた……」
「クロウは……よく見えなかったけれど、エスとクロトを守ってたのかしら。二人を抱き寄せてたように見えたけど、すぐに消えてしまって……」
 そう言ってリドが首を振る。
「後はディナとスフィか、あいつらはどうした? サザンは一緒じゃなかったのか?」
「ああ、最初に二人が呑まれたんだ。助けようとして手を伸ばしたんだけど、このザマだ」
 左腕に視線を落とす。やはりこの腕は歪みに呑まれて消えたようだ。
「身体全部が持っていかれる前にリドが鞭で引き寄せてくれたから助かったんだが、二人は駄目だ、間に合わなかった」
「あまやんの時にも、首に鞭を巻き付けたんだけど鞭ごと持って行かれたわ」
 軽く掲げた鞭は中程から綺麗に無くなっていた。リックはその断面を少し触ってから、サザンの腕に視線を戻した。
「血は出てねえみたいだが、痛みはあるか?」
 問診にサザンが首を振る。
「いや、痛みは無いんだ。腕の感覚だけが消えてしまった感じだ。俺の腕より、他の皆は大丈夫なのか? ヴァンとエマさんはこの事態をどう見てるんだ?」
 サザンの言葉に、今度はリックが首を振る番だった。
「いや、ヴァンとエマは……。ディーネやリリィを庇って呑まれちまった。それ以外の奴らは今の所無事だ」
「とりあえず早く合流した方が良さそうね」
「ああそうだな、呑気に触診なんぞしてる場合じゃなかった」
 サザンの腕から手を放すと、ようやくリックは笑みを浮かべた。

 残してきた仲間の元へ向かうリック達の耳に悲鳴が届いた。
 元々そう離れていなかった事もあって、すぐにリリィ達が待つ夜営予定地に戻って来れたが、そこにあったのは凄い勢いで広がっていく空間の歪みと、怯えるディーネ達に覆い被さったリリィの姿だった。
「リリィ! くそっ!」
 彼女たちの頭上に広がり始めた歪みはどんどんと正常な空間を侵食していく。駆け寄るリックを目に止めたリリィは、自分の身体の下に庇っていたディーネ達を突き飛ばすようにしてリックへと送り出した。
「馬鹿っ!」
 突き飛ばす時に姿勢を起こしたせいで、リリィの背中が歪みに触れる。
「サザン!」
 その名だけを呼んで、リックは突き飛ばされて来た少年少女を更に背後へと受け流してリリィのもとへと駆ける。振り返りもしなければ、呼ばれたサザンが応じる声も無い。だがサザンはしっかりとディーネ達を受け止めると、すぐさま身を低くして周囲の歪みの位置を確認した。今や林のほとんどが歪みに取り込まれているようだった。
「リリィ、手ぇ伸ばせ!」
 歪みに取り込まれかけたリリィが精一杯その長い腕を伸ばす。リックは地面を蹴って頭から飛び込みながらその手を握ると、リリィを地べたに叩き付けるようにして歪みから引き離した。
「背中はあるな?」
 ニヤリと唇を歪ませて笑ってみせる。
「へ? わかりません」
 地べたに突っ伏しながら、いつものようにどこか間が抜けた返事。無事なようだ。
「よし、レディには失礼だがちょっと我慢してくれや」
 言うが早いかリックはすっくと立ち上がり、リリィの両手を持って己を軸に身体ごと回転させると、後方に伏せるサザンに向かって彼女を投擲した。投擲といっても宙に浮かんでいたのは一秒にも満たず、悲鳴混じりのリリィは地べたを滑りながらサザンとリドの元へと吹っ飛んでいった。
「ふう、これでオッサンとしての格好はついたか?」
 リックは白衣のポケットから煙草とライターを取り出すと、余裕のある口元に加えて火を点けた。意外な行動にアゼルがきょとんとする。よく見ると、リックの背は歪みに触れてしまっていた。
「リック!」
 立ち上がろうとするサザンを手で制し、医者は煙草の煙をゆるりと吐き出した。
「もう手遅れだ、背中と腰が完全に取り込まれちまってる。引きはがしても歩けない。足手まといはプライドが許さねえよ、格好つけさせてくれや」
「リックさん!」
 助けられたリリィが絶望したような表情を浮かべる。見れば、目尻に涙が光る。
 サザンは既にリックを見ておらず、周囲に広がる歪みのどこかに活路はないかと目まぐるしく視線を移している。それがリックには心強かった。下手に同情されると、その間に活路が消える。サザンならば何とか出来ると信じて托したのだ。
「泣くなよリリィ。俺が最後にしたのが女を泣かせる事なんてのは趣味じゃねえ。それに俺は自己犠牲もまっぴらだ。医者は生き延びてこそ、より多くの命を救えるんだからな。俺も助かると思ったから助けてやったんだよ。こうなってるのは……ただのだせぇ計算ミスだ」
 立てた親指で呑まれた背中を指さす。その指も歪みに呑まれた。
「さて、ちょっくらヴァンと酒でも呑んでくらぁ、それじゃあな」
 軽く手を上げ、そして男は歪みに呑まれた。

「行くぞ、立つんだ」
 茫然自失となっていたディーネは無情な声で我に返った。
 左腕を失ったサザンが一点を見ながらリアとディーネを立ち上がらせる。リドとアゼルは既に先程のサザンに倣って周囲を見回していた。
「行きましょう」
 目元の涙をぬぐって、リリィがディーネの肩に手を置いた。
 十五人いた大所帯の一行も、既にサザン、リア、ディーネ、アゼル、リド、リリィの六人にまで減っていた。最年長のリックと、最も戦闘経験を積んだヴァンはもういない。いつも皆を引っ張っていたまとめ役たる三人も、サザンが残るのみだった。
 リリィを常に見守っていた、かつての孤島で宝玉を揃えたエマールも消えた。サザンと共に英霊として闘っていたディナとスフィも消えた。まるで三姉妹のようだった小雨とエスとクロトも消えてしまった。姉妹の母であるクロウも消え、普段はふざけすぎのお調子者だったあまやんもいなくなってみてようやく、その役割を痛感させられた。
「おじさん二人とお調子者がいないだけで、随分と不安になるものね」
 ぽつりと漏れたリドの言葉が重かった。
「遺跡外に帰ったらボルさんにも報告しないと……」
 遺跡の外で酒場を営むボルテクス・ブラックモアは、ヴァンの一番弟子にして、かつての孤島でエマールと共に全ての宝玉を集めた傭兵だった。ヴァンとエマが消えた事実を伝えないわけにはいかない。
「ボルには俺から……まて、遺跡外?」
「そうだ遺跡外に帰れば良いんだ!」
 アゼルが喜色満面に叫んだのを切っ掛けに、皆が一様に目を閉じて意識を集中させる。普段ならば遺跡外への脱出を脳裏に描いて集中すれば、足元に魔法陣が現れて遺跡外へと転送されるのだが、しかしこの時は魔法陣が現れる気配はなかった。
「……無理か」
 一転して残念そうなアゼルの横で、サザンは納得したように頷いた。
「考えてみれば、ヴァンやエマさんにリックが遺跡外脱出を試みなかったというのはありえないな。仕方ない、正式な魔法陣や、もっとまともな空間に出れば遺跡外に戻れるかも知れない。行こう」
 最早、林は木々の代わりに歪みが生えているような有様だった。僅かに残された正常な空間へ向け、サザンが林道を歩き始める。
 一見広い空間を避けて、リリィが身をかがめなければ通れないような隙間を選ぶ。誰も疑問は口に出さない。刻一刻と様相を変える空間の歪みがいつ道を塞ぐとも限らない。サザンがあえて今にも閉じそうな道を選んだということは、広く安全に見える正常空間こそが逆に危険だと判断したからなのだろう。
 先頭のサザンが狭い道を抜け、ディーネとアゼルが続く。魔術士のリアがその後を歩き、一行で最も背が高いリリィが身をよじるようにして隙間を抜ける。最後尾のリドは、リリィの白衣の裾が歪みに取り込まれて消えたのを目撃したが、何も言わずにしんがりを努めた。
 少し新鮮だと感じたのを胸中だけで抑えてリドが隙間を抜ける。これまでの旅では先頭がヴァン、続いて斥候などが得意で、ヴァンが一人前の戦士として育てようと考えているらしかったアゼルが続き、中衛に医者のリックと、遠近両方の敵に対応出来るリドがいた。大概その後にスフィとディナが続き最後尾にサザンがいたのだ。
「ダメね、気を引き締めないと」
 そう独りごちてリドは真面目な顔つきになった。
 気配や罠の察知に優れ、様々な事態を経験したヴァンが先頭を歩いて、臨機応変な対応と一撃の威力で奇襲をはね除ける事が出来るサザンが最後尾を歩く。今までそうして来たのは、それが一番安全だったからに他ならない。サザンが先頭を歩き、リドが最後尾を守るというのは、最善の手が打てなくなってしまった現状での次善策でしかないのだ。
 追い込まれている、その自覚が無ければ次に歪みに飲み込まれるのは自分かも知れない。リドはそう考えて意識を切り替えたのだった。
 サザンが半瞬足を止めて、若干方向を変えて歩き出した。少し歩いてリドにもその意味が解る。歪みに侵食されていない道が四つもあったのだ。歩みを止めてしまうとその僅かな時間で活路が消えてしまうかも知れない。サザンは即座に決断を下して四つの中から己が正解だと信じる道へ足を向けたのだ、自分には真似の出来ない芸当だと感心する。
「この辺りは足元にも歪みが来てるから気を付けろ、リリィとリドは身をかがめるんだ」
 サザンが振り返らずに言う。彼ら三人を除けば、ディーネもアゼルもリアも子供のような体格なのでまだ安全だった。
「こんな所を襲われたらひとたまりも無いわね」
「縁起でもないや」
 リドの言葉にアゼルが笑う。しかし噂をすれば影が差す。どこからとも無く異常な臭気が漂ってきた。
「なんでしょう……この匂い」
「ひょっとして敵?」
 赤毛の双子がきょろきょろと敵を探す。大人達では歪みに取り込まれないように進むのが精一杯で周囲を見回す余裕がない。
「こういう時にリックもヴァンも居ないのはつらいわね」
 倒した敵を従者として従え、また研究もしていたリックと、対外交渉を担当する中で様々な敵の情報も集めていたヴァン。いつもはこの二人が敵に目星を付けて即座に対応を考えていたのだ。
「サザン、敵の位置掴めない?」
 リドが声を掛けてもすぐに返事は来なかった。
「サザン?」
「……まずいな」
 身をよじりながら進むリドからはサザンの表情は見えなかったが、声色から容易に想像がついた。
 サザンがいまいち敵の気配を掴めないように、リドもまた周囲に何かがいるのかさえ解らなかった。空間の歪みが気配を読む邪魔をしている。何かがいたとしても歪みの向こうの気配はわからず、歪みの向こうを何かが通ってもそれがリド達に見えるかどうかもわからない。逆に、何かが動いたように見えても本当にその向こうに何かがいるとは断言できない。今は強烈な悪臭と嫌な予感だけで警戒をしているに過ぎないのだ。
「確証はないが、囲まれているかも知れな――」
「魔力の流れを見やがれ、魔法が来るぞ!」
 サザンの言葉を遮ってリアが鋭く叫ぶ。普段は可憐な少女のようにしか見えないが、魔術士の一族に生まれ育ったれっきとした魔女だ。戦闘用の衣装に着替えてから銃器の形をした魔法の杖を振りかざすことで戦闘状態へと変身し、性格も随分強烈なものに豹変するのだが、この時はいつものワンピース姿のままだった。二十二歳の姿と、変身後の若返った十二歳の頃の姿で外見がまったく変わらないために解りにくいが、魔法のサブマシンガンを創り出しているので既に変身を終えているのだろう。
「なんで衛生兵とか支援要員が全滅してんだ!」
 少女の声で雄々しく怒鳴りながら銃口をサザンの頭上に向ける。サザンが見上げるよりも早く、銃口からクルーエルタキオンという名の銃弾が撃ち出された。
「ボサっとしないで戦え! アタシは魔力の流れしか見えないんだ、物理攻撃は――くそ!」
 銃口を別の所へ向ける。歪みと歪みの隙間、子供の頭ぐらいの大きさしかない正常な空間に異形の姿が覗いていた。背徳の児である。
 そちらにも魔法の銃撃を加えるが、その隙に先程撃っていた頭上の敵が体勢を立て直す。
「背徳の児が二匹か、リド、狙えるか!?」
 斧を構えながら身をよじるサザンに応えたのはアゼルだった。
「この距離なら!」
 小柄な体格を最大限に使って鋼糸を放つ。身動きが取りづらいリドよりも、この場はアゼルが適役だった。
 鋼糸が背徳の児を貫き、アゼルが鋼糸を引き戻そうと手首をしならせたその瞬間、鋼糸がぷつりと両断された。
「へ?」
「見えない刃に当たったような……いけない、ファントムレイザーです!」
 アゼルの間抜けな声に姉の声が被さる。
「それを喰らうのは頂けないな、一旦敵を無視だ、もう少し先にまともな空間が見え――」
「サザン!」
 リアの叫び声に振り返るサザンの眼前に黒い光弾が迫っていた。背徳の児のワンオンキルだ。咄嗟に斧を盾のように構えて光弾を防ごうとするも、右腕一本ではどうしても動作が遅れてしまう。光弾が直撃し、サザンが体勢を崩す。
「いけないっ」
 リドが不安定な姿勢のままでサザンへ向けて鞭を振るう。吹っ飛んで歪みに呑まれる寸前でサザンの身体に鞭が巻き付く。ディーネとアゼルが即座に鞭を掴む。リドの体勢からでは鞭を引っ張る力が出ないと察知したのだ。
 双子が力を入れて鞭を引っ張ろうとした刹那、ぷつりと音を立ててその命綱が千切れた。
「まさか!?」
 手を伸ばしてもサザンには届かない。むなしく伸ばされたディーネの手がファントムレイザーの見えない魔法刃に触れ、鮮血がほとばしる。
 歪みに飲み込まれたサザンの口が「しくじった」と動いたが最早声は届かなかった。戦士は倒れながらも指先で活路を指し示し、そして消えた。

「行きましょう!」
 リックが消えた時をなぞるようにリリィが気丈に声を出した。
 サザンが最期に指し示した方へとディーネとアゼルが先陣を切って駆け出す。歪みの影から出てきた背徳の児の腹を、少女の剣がすれ違いざまに薙ぐ。そこを少年の炎を纏った短剣が刺し貫き炎上させる。
「ヴァンみたいね」
 二人の姿を見てリドが少し落ち着いた声で呟いた。
 ディーネとアゼルの双子とリアは、この歪みに押しつぶされそうな中でもある程度自由に動けるが、リドと長身のリリィはそうはいかない。苦しそうに進むリリィの後ろでリドは焦燥感を押さえつけながら後方を警戒していた。
 先程からつきまとう悪臭は未だに消えてはいない。背徳の児を一体倒したといっても、歪みの影に姿を隠したもう一体と、少なくともこの悪臭の主がどこかに潜んでいるはずだった。
「身動きが取れたらまだ良いんだけど、こう狭くっちゃ……」
「ごめんなさい」
「なんで貴女が謝るのよ」
 リド以上に身動きが取りづらそうなリリィの見当外れな謝罪に笑みがこぼれる。
「あ、リドさん見てください、ちょっとだけ広いです」
 リリィの身体に視界を塞がれて見ることは出来ないが、そこにさしかかったらしく、リリィが身体をずらしてみせた。
「リドさん先に行って貰っても良いですか?」
「? 良いけど……」
 いまいち意図がわからず、しかしのんびり理由を聞くような余裕も無いので、リドは素直にリリィの前に出た。
 歪みに触れないように進むだけでもかなりの神経を使う。急がなければいけないのに、歩くよりも遅い速度でしか進めないもどかしさと焦りがあり、視界を防いでいたリリィが後ろに回っただけでも確かに開放感があった。そう感じてしまう事に若干の罪悪感を覚えて何か言葉を探そうとするが、良い言葉が思いつかない。
 先陣を切った斥候役のアゼルの背は随分と遠い。ディーネはリアを守るように中衛に位置し、アゼルとリド達の間で周囲を警戒していた。二人ともまだ幼いというのに随分と頑張っている。その健気な姿が、身動きが取れず足を引っ張ってしまっているという感覚を強くさせ、リドの焦りが大きくなる。
「リリィ、急ぎ――」
 振り返ろうとした瞬間、リリィが大きな音を立てて地面に突っ伏す。
「つまづいちゃいました」
 鼻を押さえながらそう笑う彼女につられてリドの顔もほころんだ。焦りは隙に繋がるとわかっていたはずなのに、それを忘れかけていたと思い知らされた。
「急ぎましょう、ディーネが何度か牽制の鋼糸をはなってるわ。敵も痺れを切らしたみたいね」
「ええ、こっちに攻撃が来る前に、戦えるような場所へ辿り着かないと……きゃっ」
 また地面に倒れる音。リドは今度は振り返らずに周囲から敵が来ないかと警戒を強めていた。
「リリィ、後ろからも敵が来るかも知れないから気を付けなさい」
「リドさん、義姉さんみたいですね」
 真剣な声で言ったリドに対してリリィから笑い声が漏れる。彼女のどこかずれた反応は戦闘の気を削がれるが、落ち着くことが出来るという利点もあった。
 遠くでアゼルが短剣を取り出したのが見えた。鋼糸だけでは対応出来なくなったという事は、敵がいよいよ本腰を入れ始めたのだろう。中衛で踏ん張るディーネが、弟のもとへ駆けつけたそうにしながらもリアやリド達のために自制している。やはり急がなければいけない。
 ディーネに守られるようにしながら進んでいたリアが、銃口から魔法を撃ち出しながら駆け出した。魔法使いを守る役目として同じく中衛に留まっていたディーネもつられるように三歩走ってから、リド達を振り返った。
「リドさん急い――リリィさんっ!」
 悲鳴のような声でその名を呼ぶ。弾かれたようにリドが振り向くと、リリィが額から血と脂汗をたらしたまま無理のある笑顔を作っていた。
「どうしました?」
「どうしましたって貴女――」
 ドンっという音と共に衝撃でリリィがつんのめりそうになる。
「また、つまづいちゃいました」
 下手な嘘だった。
 彼女はその長躯を盾にして背後の敵からの攻撃を全て受け止めていたのだ。リドの位置からでは彼女の身体が視界を塞いで背後の敵などまったく見えない。空間の歪みのせいで気配が掴めないのに、姿も見えなければ後は攻撃の音でしか敵が確認できないのだ。
「リリィ、代わりなさい、私が!」
「代われるだけの広さはないんです。だから」
 アゼルが戦っている場所をすっと指さす。鋼糸を振るうアゼルが時折敵の攻撃を避けていた。どうやら正常な空間が少しは残っているらしい。
「あそこに辿り着くまでは、私が引き受けます」
 柔らかい声色だったが、頑として譲らない強さもあった。
「……走りましょう。サザンは片腕を歪みにもぎ取られても平気だったわ、多少なら歪みに呑まれても、ここで身動き取れずに命を落とすよりマシよ」
 リドに続いてリリィも駆け出す。既にディーネもリアと共にアゼルの元へ辿り着き、弟と二人でリアを守りながら槌と剣を両手で構えている。
「リリィ、頭を低くしな!」
 リアが怒号と同時にリド達の背後に向かって魔法を放つ。不思議な軌道で敵を追う弾道は、必中魔法と恐れられたシヴァだと知れた。しかしその必中もまともな空間ならばという但し書きが必要だったらしく、敵を追う軌跡の途中で歪みに取り込まれてしまった。
「リドもだ、打ち抜かれたくなかったら匍匐前進で走ってこい!」
 無茶な事を言いながら、リアは魔法で創り出したサブマシンガンをバズーカへと変容させた。
「極太レーザーが行くから注意しな」
 危険な笑みを浮かべたリアがそんなことを呟いたが、リド達の耳には届かない。砲口から特大のスペシームビームが放たれ、リド達の悲鳴を飲み込んで突き進む。
 すんでの所で地面に伏せて回避した二人は敵が怯んだ隙にと、低い中腰の姿勢のまま転げるように走った。
 まずはリドがアゼル達がいる開けた空間に躍り込み、すぐさま腰に付けた千切れた鞭を抜いて棘付き果実のような敵を打ち据える。
「リドさん、歪みが凄い勢いで!」
 ディーネがみなまで言わずともリドにもそれは解っていた。これまで通ってきた狭い通路のような正常な空間も、いつ歪みに呑まれるとも知れない。
 まだ通路から出てきていないリリィへと振り返ったリドの目に飛び込んできたのは、見えない刃によってボロボロになったリリィと、通路の出口となっていた空間に生じた歪みだった。
「リリィッ!」
 鞭を振るってリリィに絡ませようとするも、あまやんを助けようとした際に歪みに呑まれ、そしてサザンを助けようとした際に見えない刃に両断された鞭では、リリィのもとまで届かなかった。手を伸ばせば掴めそうな位置をかすめ、鞭は力なく地に落ちた。その鞭も歪みに取り込まれて消える。
「リリィ……ッ!」
 使い物にならなくなった鞭の残骸を捨てて駆け寄ろうとしたリドの足に見えない刃が突き刺さった。勢いよく倒れたリドは、先程鞭で打ち据えた果実のような敵がニヤニヤと笑っているのを見た。その瞬間、リドの脳裏に歪みに呑まれたサザンが浮かぶ。
「……貴方ね?」
 ファントムレイザーを撃ち続けていた悪臭の主にリドの拳が叩き込まれる。棘で傷つくのもお構いなしに打ち貫いた一撃で悪臭の主が弾け飛ぶ。
 仇敵を倒し我に返ったリドは再びリリィへ駆け寄ろうとしたが、通路の入り口の歪みはもうリリィの長身が通る隙間を残していてはくれなかった。
 四方八方を歪みに取り囲まれたリリィは最後にもう一度笑うと、深々とお辞儀をした。
 そんな姿を、歪みが取り込んだ。

 歪みの広がり方はこれまでとは明らかに違っていた。
 焦る頭で周囲を見回すと、この場所が先刻夜営を行おうとしていた場所よりも更に開けていると判る。リドはこの場所に見覚えがあった。今から一時間以上前に、夜営の候補地として挙がった場所だったのだ。どうやら歪みを避けながら今日辿ってきた道を戻っていたらしい。
 候補から外れた理由は夜営には早すぎるというものと、少し広すぎて襲われやすく守りにくいというものだったが、今はその広いというのがありがたい。
「うわぁっ!?」
 アゼルが叫び声を上げて倒れる。見ると、右足の脛から下が足元から発生した歪みに呑まれて消えていた。姉が駆け寄ろうとする前に目で制すると、地面に座り込みながらため息をついた。
「これじゃ走れないや。ディーネ、剣を貸してくれない?」
「大丈夫? 肩を……」
 肩を貸そうとする姉に首を振って謝絶すると、ディーネは剣を杖代わりにして何とか立ち上がった。
「敵も追い詰められてるみたいだね」
 これまで歪みの影の正常な空間に隠れていた敵も今や隠れる場所を無くして、アゼル達の前に一体、また一体と姿を晒していた。良く見ると、アゼルのように身体の一部を歪みにもぎ取られた敵もいる。
「ディーネ、母さんに会ったらよろしく言っといてよ」
 しゃらりと音を鳴らして鋼糸を垂らす。驚愕に目を見開くディーネの背後からリドの手がぬっと伸びたかと思うと、アゼルの頭を鷲掴みにした。
「動けないんなら私が貴方を持っていくわ。適当に背負ってあげるから、鋼糸でも使って戦いなさい」
 そう言いながら軽々と少年を片手で持ち上げて背負う。リドはリリィほどの長身でもなく、女性的な体つきなせいで剛力という印象こそ薄いが、実際はヴァンやサザンに勝るとも劣らない筋力を持っている。だがそれでも少年を背負ったまま戦うというのは随分つらいはずだった。
「大人に甘えるのは子供の特権よ、たまには甘えておきなさい」
 表情を変えずに手袋を引っ張って拳を構える。鞭を失った今、リドに出来る攻撃は筋力に任せた肉弾戦だけだ。
「敵の動きが鈍いわね」
「恐らく彼らも歪みに途惑ったり怯えたりしてるのでしょう」
 敵意を見せている敵もいるが、じりじりとにじり寄るだけで攻撃に転じる気配が見えない。
「好機ね。アゼル、歪みが来てない場所を探して。ディーネ、リア、足元にも気を付けて周囲を警戒」
 誰かが欠けるたびに、戦闘経験と年齢を加味した上で最適と思える人物が自然と指揮を執り、皆がそれに従う。最初からそうしようと申し合わせていたわけではないし、これまでにそういった話がちらりと出たことさえない。そもそも、今この場にいる四人はヴァンやサザンがいなくなる状況など想像したこともなかったのだ。
 主導権を争わず、指示にも抗わずにすんなりと指揮を引き継いでいけるのは、細かい理屈よりも単純に彼ら一行の気が合っていたという方が真理に近いのだろう。
「あった! 振り返って右前方!」
「リア、ディーネ!」
 二人の名を呼ぶと同時にリドはアゼルが指し示した方へと走り出した。リドの足よりもディーネとリアの方が遥かに速いため、二人はすぐにリドを追い抜くと凄い早さで右前方へと走っていった。先に安全な所まで行ってから振り返って魔法で援護射撃をするつもりなのだろう。ディーネはその護衛といった所だ。
 走る二人の前方がゆらりと歪む。リドが注意を促すよりも早く、足元に発生した歪みを同時に跳び越える。
「姉さん!」
 アゼルが叫んだ時には、ディーネとリアの姿は掻き消えていた。跳んだ二人の目の前に巨大な歪みが突然出現したのだ。空中にいては避けようがない。あまりにもあっけない、一瞬の出来事だった。
 放心するアゼルをあえて叱咤しようとはせずに、リドは周囲を見回した。
「潮時かしら……」
 不安を滲ませた独り言がもれるのも無理はない。十五人いた一行も最早二人、唯一の活路と目指した場所には立ち塞がるように歪みが広がっている。
 見回してみても、人が通れそうな大きさの正常な空間は一つも見当たらない。四方八方を歪みに囲まれ、何も無かった所に新たな歪みが出現する。
「逃げ場、ないね」
 感情を抑えなければ全滅すると、感情の上に無理矢理に冷静という仮面を被ってアゼルが呟いた。リドも背中の少年に向かって笑いかける。
「こうなったら、邪魔してくれた奴らを殴らないと気が済まないと思わない?」
「それもいいかもね」
 逃げ場はない。座して歪みに呑まれるのも気が乗らない。絶望して自害するなど論外だ。残ったのは、戦士として戦いながら最後の時を迎えてやろうという空元気だった。
「よし、僕を敵に向かって投げてみてよ。一度空中殺法とかやってみたかったんだ」
「投げた先に歪みが出来ても知らないわよ?」
 敵に向き直ると、相手も急速に広がった歪みに呑まれて右往左往していた。
 リドは背負っていたアゼルを掴むと、身体ごと回転させて遠心力と腕力の合致した最良の一投を見せた。
 アゼルは雑多な歪みを飛び越えて、宙に浮かんでいた背徳の児に短剣を投げつけ、羽ばたいて逃げようとした闇孔雀を鋼糸で穿った。
「確かにあと数年もすれば凄い戦士になりそうね、ヴァン……」
 少年に目を掛けていた傭兵の名を呟いて、リドも歪みを避けながら敵へと間合いを詰めて行く。
 アゼルは随分長い滞空を終えて片足で着地すると、ふわりと身体のばねをゆるめて前転をするように衝撃を受け流した。回転を止めると同時に再び鋼糸を閃かせて、落ちてきた背徳の児に刺さっている短剣を絡め取る。手首をしならせて鋼糸と短剣を手元に戻すと、次の相手に狙いを定めた。
「私の分も残しなさい!」
 アゼルが短剣を投擲しようとした射線にリドの身体が割り込んだかと思うと、素早い拳撃の音が三度鳴り響く。アゼルの目には二発までしか見えなかったが音のみが三発目の存在を主張した。
 ぐらりと体勢を崩したグレートダンディの顔に渾身の右拳が叩き込まれ、轟音と共にその巨体が吹っ飛んだ。その先に広がる歪みに呑まれてしまったために見えなかったが、恐らくその顔は原形を留めてはいなかっただろう。
 リドは袈裟斬りのように腕を振り下ろすと拳に付いた血を払った。
「いたぶるのは好きじゃな……好きだけれども、貴方達が邪魔をしなければリリィもリアもディーネも助かっていたかも知れない。私達もこの広場を抜けられていたでしょうね」
 敵に語りかけるように拳を鳴らし、近寄ってきた闇孔雀に回し蹴りを喰らわせてから蹴り上げる。
「悪いけれどっ」
 右拳が宙に浮いた闇孔雀を打ち砕く。
「こうして私にいたぶられる原因を作ったのは貴方達なの。責任を取って殴られなさい」
 顔に付いた血を舐めとり、リドは嗜虐的な笑みを浮かべた。
「ねえアゼル、歪みに呑まれるまでに何匹倒せるか私と競争してみない?」
 そう言ってアゼルがいた方を向いたが、そこにあったのは新たに出現した歪みの壁だった。一瞬、自分が最後の一人になったのかと思ったが、かすかに向こうから鋼糸の閃く音がする。アゼルはまだ無事だ。
 残された敵も逃げ場を失ったからか、それともリドの攻撃に激昂したのか、敵意を見せて次々に襲いかかってきた。
 一匹、また一匹とリドの拳が打ち据える。
 三匹同時に来られた時には、背後からのワンオンキルを躱しきれずに痛手を受けた。
 何秒か何分か何時間か、時間の感覚が分からないままリドは拳を振るい続けた。
 突然現れた歪みに拳を止めきれず左腕が持っていかれてもなお、拳と蹴りで戦い続ける。
 右の肩も歪みに触れて削られてからは足技だけで応酬した。
 動く敵がいなくなった頃には、リドの足も歪みに呑まれて動けなくなっていた。
「アゼル、まだ無事?」
 少年に向かって呼び掛けてみたが、歪みの向こうから声が返ってくることは無く、聞こえるのは自分の荒い呼吸だけだった。
「ふうっ…………楽しかったわね」
 最後にそう呟いて、少し笑う。
 歪みがリドを飲み込み、そして遂に動く者は誰もいなくなった。

第一話、了

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